平戸イギリス商館

 本ブログの8月21日号に「400年前の英語」を書いた。平戸(現長崎県)のイギリス商館長リチャード・コックス(Richard Cocks 1566~1624年)による日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻字・邦訳した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)のうち)に出会い、そのブログで冒頭部分に触れた。

 商館が置かれた平戸は九州最西端に位置し、大陸に近く、古くから中国や西洋諸国との貿易で栄えた。1191(建久2)年、 栄西が留学先の南宋から平戸島に帰着、ここで最初に禅宗を伝えた。1550(天文19)年、平戸藩主・松浦肥前守隆信の南蛮貿易進出、ポルトガル貿易船の入港、また同年9月、フランシスコ・ザビエルの来航とキリスト教布教でも知られる。

 コックス日記は西暦1615年6月1日に始まり、商館建物の一部の新築工事に関する王(上掲の松浦隆信の孫、同姓同名)の大工棟梁・山崎弥右衛門から購入した木材や大工・人夫の人数についで、前年末に暹羅(シャム=現在のタイ国)へ向かうも暴風雨のため琉球に5か月間滞泊していたWilliam Adams(1564~1620年)船長のジャンク船Sea Adventure号が戻ってきたことを記す。
 ウィリアム・アダムズとは、1600年4月、オランダ船リーフデ号(Liefde)で豊後佐志生に漂着、徳川家康により旗本として知行地の三浦半島の逸見に因み「三浦按針」の名を得た人物で、外交顧間等の役割を果たし、平戸イギリス商館開設にも大きく寄与した。

 コックス自身が「すべての出来事を正確に記した」と述べているとおり、日記は彼の旺盛な記録志向に満ち、可能なかぎり客観的な記述を志しているようである。つい胸のうちを明かすこともあるが…。
 毎日の書き出しは必ず天候と風向きで、航海日誌の形式を踏む。なお気温の記載がないのは、まだ寒暖計がなかったためであろう。たまに「蒸し暑い」とか「寒い」等の表現が見られるに過ぎない。
 ついで取引や贈答品、手紙を送った相手とその概略を記し、事件、人物評、風評等を記す。

 翌2日には、「…オオゴショ様(徳川家康)が大坂の城を取り、フィディア様(豊臣秀頼)の軍を滅ぼした」との第一報を記す。5月6日の豊臣勢の大敗、翌7日の決戦で終わる大坂夏の陣である。平戸まで約3週間で届いたことになる。
 4日には、夏の陣から帰国途上にある島津家のバルク船の艦隊500隻が平戸に寄港。コックス自ら船まで出向き贈物を届ける。豪華な南京緞子3反、藍色のバイラム布(インド産更紗)10反、赤色のゼラ布(インド産の布の総称)10反、白色のバフタ布(インド産キャラコの一種)10反、ダッティー布(インド産の厚手の綿布)等。綿布国産化が普及する直前の時期の高級舶来品である。

 麻が衣類の主体であった日本で、中国産・インド産の綿布は「贈物外交」の代表として広く使われた。イギリス人同士でも、藷(サツマイモ)、コムギ、ベーコン、パン、酒などの贈答や売買のなかに、綿布が少なからず登場する。なおサツマイモはアダムズが琉球から持ち帰りコックスに贈り、彼が初めて商館内に植えたと記している。

 商館建築のため雇った大工・人夫・職人(畳・瓦等)の人数も漏らさず記す。6月11日、木材等の購入代金や大工・人夫の延べ457日分を含め計581匁を清算した。人夫1名の日当は5分、井戸清掃の人夫は3分(大工の日当は明細書に記すとあり日記にはなし)。23日には完成したとあるが、大工・人夫数から推して、工事は5月中旬には始まり、床面積は100坪(200畳)程度か。
 オランダ商館に4年遅れて開設された平戸イギリス商館、それも11年間(1613~23年)だけで撤退を余儀なくされる商館の構成や役割、また日記の主コックス(商館長は彼一代)その人や彼の日常へと関心が膨らむ。

 ところで、コックス日記はなぜ1615年6月1日から始まるのか。天候と風向きから始まる、この日の日記には、「いざ書き始めるぞ」といった気配は窺えず、いつも書いてきたように今日も、という印象を受ける。
 平戸イギリス商館の開設は日記開始の1年半も前の1613年11月。以前の分もあったのではないか。なおこの『イギリス商館長日記』も1619年1月から1620年12月までの約2年分を欠いている。コックスは約10年後の1624年、バタビアから帰国の途次、船上で死去。商館旧蔵の文書も今は伝わらない。このときに一緒に消失したとも考えられる。

 本書の刊行を担当した史料編纂所の金井圓さんが『東京大学史料編纂所報』第13号(1978年)~第17号(1982年)の「刊行物紹介」に、文献考証のみならず史実についても貴重な記述を寄せている。以下2点を紹介する。
 第1が平戸イギリス商館の開設について。イギリス東インド会社の司令官 John Saris が1613年6月、平戸に来航、アダムズの仲介で9月に駿府の徳川家康にジェイムズ一世の親書を提出、江戸で徳川秀忠から貿易開始の許可を得て平戸に戻る。そして11月、平戸イギリス商館開設を決議し、商館長に東インド会社のコックスを、そして館員として8名を任命、12月に日本を去る。

 第2がコックス商館長の初期の仕事について。コックスは当初、平戸華僑の甲必丹(カピタン)李旦の屋敷を借りて商館に充て、1614年には長崎にヨーロッパ人の代理人を置いた。さらに江戸にRichard Wickhamを配置、駿河と浦賀に置いた日本人代理人を監督させ、大坂にWilliam Eatonを配置して、京都・堺に置いた日本人代理人を監督させた。さらにシャム(タイ)、ベトナム、対馬との貿易も試みる。

 種々の困難はあったものの、商館開設の1613年11月から1616年9月の江戸幕府による貿易地平戸限定令の発令、その制限緩和運動を進めるコックスの活動を含めた3年間は、商館建築や貿易活動の拡張、本国からの来航船受入れ、オランダ商館との相対的友好の保持など、活気に満ちた時期であった。 

グローバル・ヒストリー

 かなり長い周期で再会する友人・知人がいる。「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」、遠くに住む人との再会はとくに嬉しい。その一人がニューヨークのアイオナ大学准教授・牧村保広さんである。
 私が横浜市大にいた1998年、ヨーク(横浜市海外交流協会)奨学金を得た研究員として受け入れた。その後も他の奨学金を得て横浜に滞在、私の大学院ゼミにも顔を出していた。

 牧村さんは1971年、北九州に生まれ、中学の時に両親の仕事でニューヨークへ、そしてハーバード大学卒業、英国ケンブリッジ大学修士課程を経て、コロンビア大学博士課程在学中に横浜へ来た。
 出会いは、横浜にあるアメリカ・カナダ大学連合日本研究センター(現在、IUCと略称)所長(当時)のヘンリー・スミス教授(コロンビア大学)の紹介である。このセンターはアメリカ・カナダの大学が連合して作った日本語集中特訓(750時間)の高等教育機関で、創設から半世紀余、卒業生は3000人を超える。東京から横浜への誘致に私も一役買った。

 牧村さんは、1859年の横浜開港以降の生糸輸出が、関東甲信の養蚕業とどう関連するかに関心を持ち、その着眼点を評価して引き受けた。日米双方での教育と体験を基礎に、英語と日本語の史料を駆使し、横浜という場を知れば面白い歴史が書けるのではないか。それを応援するのは学者冥利に尽きる。
 また拙稿「幕末開国と明治維新期の日英関係」(2000、木畑洋一・イワンニッシュ・細谷千博・田中孝彦編『日英交流史 第1巻 政治・外交編』 東京大学出版会所収)の英訳を頼んだこともある。MacMillan社の英文版の拙稿文末には、訳者として牧村保広の名前が入っている。
 2002年、私は市大学長退任と同時に定年退職した。牧村さんもアメリカに戻り、2005年にコロンビア大学で博士号を取得した。論文名は“The Silk Road at Yokohama: A history of the economic relationships between Yokohama, the Kanto region, and the world through the Japanese silk industry in the nineteenth century”。

 2016年の夏、一時帰国しているので会いたいとメールが来た。「最近の私の研究活動は、生糸と綿布の貿易の研究をさらに発展させ、歴史的に遡り、貿易品を約12品に広げて、それを16世紀からの世界貿易に当てはめるというというものです。これは現在教えている世界史の授業を学生にわかり易くするためでもあります。そして、実はこれには加藤先生が考えたアジアの三角貿易が非常に大きな役割を果たしていますので、ぜひ先生に会ってお礼と報告をしたいのです。…2014年にNY支部でのアジア研究学会で発表したPower Pointを添付いたします」。そして東御苑を散策しつつ、彼の熱弁に耳を傾けた。

 今年の年賀には次のようにあった。「この冬は、大坂大学の秋田先生のGlobal History Seminarで講演の機会を得ました。そのペーパー(和訳は「世界史を動かした十の貿易商品:15世紀から19世紀にかけての絹・磁器・香辛料・綿布・鉄砲・奴隷・砂糖・銀・茶・アヘンの地球規模での貿易の分析」)をお送りします。英文ですが、お時間がある時ご一読いただければ幸いです。」
 Global History(グローバル・ヒストリー)は大阪大学のセミナー名だが、最近、かなり広く日本でも使われるようになった。従来の日本史(国史)に対する「世界史」とはいささか意味を異にし、世界規模の歴史学という意味からカタカナ表記である。貿易商品は世界をめぐるため、グローバル・ヒストリーに最適のテーマの一つである。

 つづけて2月、ニューヨークのレキシントン書店から、牧村さんの著書刊行に当たり推薦状を書いてほしいとメールが入り、原稿のデータが添付してあった。Yasuhiro Makimura: Yokohama and the Silk Trade, How Eastern Japan Became the Primary Economic Region of Japan, 1843-1893. Lexington Books.
 この英文版『横浜と生糸貿易』は博士論文を補正したもので、1章「近世日本の経済」、2章「天保改革の失敗と横浜開港」、3章「横浜最初の商人」、4章「幕末日本の貿易と横浜の役割」、5章「横浜とその後背地」、6章「東日本の生産者たち」と「まとめ」からなり、附録に、A「日本の輸出入」、B「総輸出の中の生糸・絹製品と茶」、C「総輸出の中の綿製品、銅、米穀」、D「総輸出に占める各商品の割合」の4つの統計がつく。

 私が書いた推薦文の趣旨は次の通り。幕末の1859年に開かれた横浜開港場は、1854年の日米和親条約の交渉地(横浜村)であり、幕府が米総領事ハリスの主張を抑えて決めた。ここからの生糸輸出は日本人生糸売込商が集荷して外商に売り込み(居留地貿易)、世界の生糸市場を席巻する。またその利益が関東甲信の養蚕地帯へ還元され、横浜は日本の貿易と産業革命の要(pivot)となった。本書はそれを体系的に示した名著である。

 9月に届いた新著は255ページ、ハードカバーで装丁も美しい。その返礼を書くと返事が来た。「私は今年の12月には日本に帰り、東京に寄ろうと思っておりますので、その時には是非お会いしたいです。…現在、16世紀から19世紀までの時代【の世界貿易】を英文で執筆していて、5章まで書き終えました。全部で10章の予定です。」
 1章が「大西洋三角貿易前の世界」、10章が「アジアの三角貿易」という大きな構想である。アイオナ大学で続けてきた講義や昨年の大阪大学での集中講義の延長上に、これを著書にしたいと意気込む。

 私は返信で「新たに大著を執筆中とのこと、嬉しく思います。40~50代は脂が乗り、身体の若さと心の成熟とがうまいバランスをとる適齢期です。大兄は46歳、まさにそのまっただ中に突入ですね」と述べ、身体の管理にも留意されたいと添えた。
 すると「…NYの郊外にいるとほぼ完全な車生活になるので、意識的に運動を取り入れないとだめですね。…妻と冬は月1回スキーに行き、春から秋はテニスを週2か週3くらいしていたのですが、現在はなにもしていません。最近はコンピューターに向かって長時間座ったあとに歩くと、体の節々が痛くなります。これからは最低でもストレッチと体操はしようと思います。」と決意表明が来た。忘れずにつづけてほしい。

三溪の書

 いま三溪記念館(三溪園内)で開催中の所蔵品展は、第1展示室が「新涼」と題した三溪等の季節の日本画、第2展示室は臨春閣の障壁画「瀟湘八景」(中国湖南省の風光明媚の地)、第3展示室はミニ企画展「三溪、こころの書」である(第3展示室だけ2017年9月28日まで)。担当は清水緑学芸員。
 展示室の奥行が浅い場所に、立体物をいかに効果的に配置するか、また日本画などは油絵と異なり脆弱なため、保存のために展示のあと一年くらいは休ませる必要がある。こうした種々の制約のなかで、清水さんは知恵を絞り工夫をこらして公開をつづけてきた。

 これまで絵画や資料類では「三溪の家族」、「歌」、「画家の手紙」、「三溪画集への礼状」、「屏風」、「巻子」等、多様なテーマで展示、「書」を中心とした「ことば」の展示も行ってきが、今回の三溪の「書」は、旧来のものとは異なる。
 三溪は多くの人に自筆の毛筆の書を贈った。求められて揮毫したもの、何かの餞に贈ったものもある。近年、当時の実業家や原合名会社の社員の子孫の方々から、こうした書を寄贈いただくことがある。

 企画の狙いを「それぞれ、三溪が選んだ、その人にふさわしい言葉が書かれています。その他にも、三溪がしたためた言葉は、その奥深くに込められた、三溪自身のこころの内が反映されているようです。ここでは、そのような三溪の書を紹介します。その心の動きとあわせてご覧ください。」と記す。
 先日、担当の清水さんに案内してもらった。展示の書は計9点(番号は私が付した)、書の解説とそれに付した漢字2字のキーワード(ロゴ)を以下に抜粋する(丁寧語を普通語に変える等、一部改変)。そこに担当者の意図が見える。

1 清虚(せいきょ) 解説に付したロゴは無私
清虚は清らかで我欲がないこと。釈迦の教えにも無私の教えがあり、高潔な君子にあてはまる。三溪は多くの富と広大な庭園、優れた美術品を所有していたが、自然や造られた美は公共性を持つものであるという考えを持ち、「我欲」のない人物であったといえる。

2 若愚(ぐのごとし) ロゴは謙虚
「大智若愚」(大智は愚のごとし)とは、禅語で本当の知恵者はかしこぶらないという意味。博学で人格者の君子に重なる。三溪は、年下の人や従業員に対しても敬称をつけて名前を呼ぶなど、常に謙虚であり、教えを乞うという姿勢を忘れない人物だった。

3 順徳者昌(とくにしたがうものはさかえる) ロゴは道徳
『漢書』の言葉、これに続く言葉は「逆徳者亡」。道徳に従って行動する人は栄え、背く人は滅びるの意味。これも、三溪が人間として大切な言葉を選んだと思われる。今の世の中、特に身に沁みる言葉ではないか。

4 唯有義耳(ただぎあるのみ) ロゴは公共
「義」とは利害を捨てて条理に従い、人道・公共のために尽くすこと。関東大震災以後、荒廃した横浜の復興や恐慌による蚕糸業界への支援などに力を入れた三溪の、当時の社会貢献に対する決意・信念が表れている。神奈川県匡済会(きょうさいかい、1918=大正7年創設の社会福祉施設)に掲げてあった。

5 信愛能和衆(しんあいよくしゅうをわす) ロゴは調和
「信愛」とは信用してかわいがることを意味し、その心があれば人はみな調和することができる、という言葉。三溪が原合名会社で多くの事業を展開できたのも、自らがこの信念をもってことにあたったためであろう。別府敏氏寄贈

6 灑以甘露(かんろをもってそそぐ) ロゴは救済
妙法蓮華経授記品第六にある言葉に由来する。美味しい飲み物を与えるということは、法華経の教えを施すという意味。これは三溪が尽力した神奈川県匡済会に掲げてあったもの。三溪はこの言葉を宗教的な意味ではなく、「社会救済を実践する」という意味で書いたと考えられる。

7 観瀾書屋(かんらんしょおく) ロゴは知識
書斎の中から波を眺める。書斎にある膨大な書物を通じて知識を蓄え、広い世界を知る、或いは漣のような小さな一歩も書斎からということか。三溪と共に横浜復興会工業部副委員長を務めた実業家・石塚氏に贈ったもの。石塚氏の人物像を表したのであろう。 石塚壽彦氏寄贈

8 太虚(たいきょ) ロゴは根源
中国の「気」の哲学が言う、気によって万物が生成消滅する宇宙のことを指す。天空や虚空とも。三溪園の「自然」は万物共有のもの、という三溪の考え方の根源は、この「太虚」にあるのかもしれない。

9 白雲心(はくうんしん) ロゴは自由
三溪が好んだ「白雲」という言葉。禅語では、何ものにもとらわれない自由闊達な境地、無心で物事にこだわらない清々しさがあるという意味を持つ。人格高潔な君子や高士に通じ、三溪の目指す境地を表している。

 以上9点のうち、4と6は同じ神奈川県匡済会の大広間に掲げられていたもので、額は横330㎝、縦135㎝ときわめて大きいが、他は通常の和額や掛軸のサイズ。すべて右から左への横書きである。書いた年を記したものは少数。
 なお中央のガラスケースにあるのは松風閣蔵品展観図録(しょうふうかくぞうひんてんかんずろく)。園内の松風閣の倉に所蔵品の一部を収めていたが、これは後に売立を行おうとしたときの目録で、現在でも名品とうたわれる多くの美術品が記されている。開かれた頁は、弘法大師(空海)自筆の《金剛般若経開題残巻》(現福岡市美術館所蔵・重要文化財)。三溪が倣ったといわれる空海の書風は、この軸から学んだのかもしれないと解説にある。

 この企画を担当した清水さんは、10月末で退職される。15年の在勤中に多くの企画をこなし、最後を三溪の書で締め括ったのは、そこに三溪の想いが詰まっていると考えたためとのこと。2字でまとめた9個のロゴに、三溪の生き方が浮かびあがる。

【30】連載(一)ペリー艦隊の来航

 連載「黒船前後の世界」の「(一)ペリー艦隊の来航」を掲載したのは、『思想』誌(岩波書店)の第709号(1983年7月)である。その序文で「幕末開国史の研究は、これまで主に日本史の分野であった。日本の対外関係史として、日米関係史、あるいは日英、日露、日蘭などの関係史の研究が多い。外国人による研究も、ほぼこの線にそったものといってよい」と研究史の概略を記す。

 ついで「…アメリカにとっては、ペリー派遣の目的もペリー自身の政策決定も、たんに対日開国という狭い枠で考えてはおらず、対中関係、対英競争というグローバルな外交戦略のなかに日本開国を位置づけており、また複雑かつ具体的関係のなかで条約が成立したのであるから、日米関係史の観点だけでは、肝心なポイントが不明になってしまう。…そうなると、もはや日本近代史だけでは十分に把まえきれない。ここに世界史(世界近代史)の側からの接近が不可欠となる。…」と述べる。
 若気の至り、力み過ぎの感を免れないが、そのような意気込みではあった。さらに誤解されやすい<関係>と<比較>の意味の相違についても述べ、また私自身の研究の歩みにも触れた上で、「…必ずしも表面には現象しない底流がある」とし、<不平等条約体制>と学界で一括されるアジア各国の現状であるが、それぞれ一様ではない、とも指摘する。

 そして本文の冒頭に、初めて見たペリー艦隊の日本側の記録を引く。
「およそ三千石積ほどの舟四隻、帆柱三本ずつ立て…帆を使わずして、前後左右、自在に相成り…風に向かい浪に向かうに帆をかけ申さず…東へむかうときは一段と迅速、あたかも鳥の飛ぶがごとく、たちまち見失い候」。
 これは1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、三浦半島の突端に置いた見張りが早馬の伝令で浦賀奉行所に届けた報告である。4隻のうち2隻だけが汽走(蒸気)軍艦だったが、見た者には4隻全部が同じに見えたのであろう。規模がケタ違いである。およそ三千石積としたが、当時の日本最大の千石船(弁財船)は積載重量が約150トン、ペリー旗艦サスケハナ号は2450トン、千石船の約16倍の大きさがあった。

 ペリー提督は1852年11月24日、サスケハナ号でアメリカ東部海岸を出航して大西洋を渡り南下、喜望峰を回りインド洋から中国海域を経て、琉球(沖縄)を経由、浦賀沖到着を果たす。地球の4分の3をめぐる大航海の終点であった。
汽走軍艦は、石炭を焚いて蒸気の力で外輪(船体の両側についた水車のようなもの)を回転させて動く。防腐剤を塗った木造の船体が黒く見えるため、黒船と呼ばれた。外洋では帆走することが多いが、伊豆沖で蒸気走に切り替え、全艦に臨戦態勢を敷いた。大砲、小銃、ピストル、短剣等、あらゆる兵器を動員する。艦隊には10インチ砲が2門、8インチ砲が19門、32ポンド砲が42門あり、巨大な破壊力の合計は63門にのぼる(『遠征記』)。対する幕府が砲台に備えた大砲は約20門である。

 双方の大砲は沈黙している。多数の漁船や小舟が艦船を取り囲む。浦賀奉行所が与力の中島三郎助とオランダ通詞の堀達之助を乗せた番船を派遣する。番船は旗艦(司令官の搭乗する船)を識別し、密集する舟の間を縫ってサスケハナ号に近づいた。
4隻の艦隊には約1000人の隊員のほか、条約交渉のため、広東で加わった宣教師ウイリアムズや中国人通訳、さらに上海で雇ったオランダ語通訳ポートマン等が乗船していた。ペリーは、日本側に文書では漢文、口頭ではオランダ語を使う人員が多数いるという情報は把握していたが、日米交渉を何語で行うかを決めていなかった。

 一方、幕府は、第一声を英語で伝えた通り、オランダ語を当然とした。前年の1852年、長崎のオランダ商館長を通じてペリー来航の情報を得ると、来航の地を長崎か江戸に近い浦賀と想定し、出島の約100家のオランダ通詞から精鋭を選抜して浦賀奉行所に配置した。
 海上高く聳える旗艦から身を乗り出す水兵に、堀が大声で呼びかけた。”I can speak Dutch!”(「我が方はオランダ語を話せる」)。ウイリアムズの記録(洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』)によれば、幕府の高官を寄こすよう言うと、その男は同乗の人物を指し、「この方が浦賀のセコンド・ガバナー(副総督)である」と返答(実際は与力)、そこで艦長室に招き入れ、ペリーの副官コンチ大尉と会見させた。

 この瞬間にオランダ語が会話における共通語となった。
 幕府の対外政策は、①1791年の寛政令(ロシア船への薪水供与令)、②1806年の文化令(寛政令のさらなる緩和)、③1825年の文政令(イギリス軍艦フェートン号の侵入事件により強硬策の無二念打払令に転換)、④1842年の天保薪水令(アヘン戦争による南京条約締結の1日前、文政令の撤回と文化令への復帰)の、4つの段階を経ている。
 1853年のペリー艦隊来航時は、来航目的を問い、必要に応じて薪水等を供与する穏健な天保薪水令下にあった。あらぬ小競り合いから発砲交戦に至ってはならぬと、浦賀奉行所が最初の接触時に示したのが、”I can speak Dutch!”の第一声にほかならない。

 ペリー側の要請を受けて翌日、ガバナー(総督)として香山栄左衛門(実際は与力)がペリー艦隊を訪れる。ペリー側は、最初の接触で幕府の高官を引き出せた、大成功だと、大いに喜んだ(『遠征記』)。(続く)

400年前の英語

 2年半ほど前、このブログで「若き学友との対話」(2014年12月23日)を書いた。「ゼミを持たなくなって10余年…この間にデジタル化が一挙に進み、メールという通信手段が発達…、ICTを通じて知り合った若い研究者で、いずれも拙著を読んだのがきっかけと言う知人が増えた。」
 その一人が陳雲蓮さん。知人の知人を介して私のメールアドレスを突き止め、ケンブリッジ大学の図書館で拙著『黒船前後の世界』(岩波書店、1985年)を読み、日本に帰ったら、ぜひお会いしたいと、見事な日本文のメールをくれた。
 彼女は中国の西安外国語大学を卒業後、京都府立大学に留学して博士号を取得。専門は都市史、建築史。その後、名古屋大学で研究、日本学術振興会の若手研究者海外派遣事業で、2年間、ケンブリッジ大学に在籍していた。

 帰国後、神田学士会館で会うと、イギリス・日本・中国の史料館等で収集した史料をもとに、港湾建造と運河・道路の拡張等のインフラ投資を文字史料や地図で解明し、また都市区画の発展とその建築様式を明らかにする等、アヘン戦争から約100年にわたる上海近代史を国際政治とからめて描くという壮大な構想を話してくれた。その成果は近く著書になる。

 昨春、岡山大学の日本人学生と留学生に日本語と英語の授業を担当する専任特任講師となる。今年の6月、「ペリー来航と開国」の講義に学生が強い関心を示したとメールをくれた。東アジア都市史の授業で、「黒船前後の世界」をいかに面白く英語で語るかが一つの挑戦だという。
 そして別件として、ケンブリッジ大学名誉教授のジョン・コーツ(John Coats )先生の来日に合わせ、3人で会いたい、彼から趣味(が高じて著名なコレクター)の有田焼の青花(せいか)の話を聴いてほしい、「…やっとジョン・コーツ先生を加藤先生に紹介できること、とても興奮しています」とあった。

 ジョン・コーツさんの名は聞いた覚えがあるが、記憶が定かでなく、陳さんに問い合わせた。「専門は数学、オーストラリア出身、ケンブリッジ大学で学位取得、ケンブリッジ大学のPure Mathematics教授、現在は名誉教授。…海外に流出した日本の陶磁器等の収集家です。彼が特に気にしているのは、17世紀有田焼の青花の製造と海外販売ルートです。コーツ・コレクションの青花は、17世紀のものが多く、九州焼物博物館の所蔵品よりも古い。青花は有田のどこの窯が生産したのか、どういうディーラー(例えば中国商人)の手により、長崎港から輸出されたのか、謎が多いようです。…しかも、有田焼の青花は一瞬で消え、その後は朱色で絵付けされる柿右衛門がブランドになります。…加藤先生の想像力をお借りして、答えが出るかもしれません。…彼はまたイギリスの東洋学者アーサー・ウェイリー(Arthur Waley)を崇拝し、Everybody needs Mathematics and historyと主張しています」とのこと。

 こうして7月17日(祝日)、神田学士会館で昼食を取りつつ歓談する機会を得た。穏やかな笑顔でイギリスの大学英語(街で耳にする英語とは違う)を話す。懐かしく、40年前の在外研究で招いてくれたリーズ大学、ロンドン大学SOAS校、ケンブリッジ大学ニーダム研究所、また講演に行ったオクスフォード大学セントアントニーズ校等の記憶が蘇る。
 アーサー・ウェイリー(1889~1966年)はコーツさんのケンブリッジ大学の大先輩でもあり、なによりも『万葉集・古今和歌集』の英訳(1919年)、『源氏物語』の英訳(全6巻、1921~33年)、『枕草子』の英訳(1928年)に加え中国古典の『詩経』、『老子』、『西遊記』、『李白』等の英訳で広く知られる。

 コーツさんの青花コレクションの写真と解説を入れたUSBを拝受。彼は青花がどのような経路を経てイギリスに運ばれたかを知りたいと言いつつ、長崎港輸出説を推していた。
私は、青花がイギリスのみに残ることから、平戸に11年間(1613~23年)だけ置かれたイギリス商館から直接イギリスへ送られた可能性もあると考えた。
 謹呈した加藤祐三・川北稔著『アジアと欧米世界』(『世界の歴史』第25巻、中公文庫 2010年)は、過去500年にわたるアジアと欧米の交流史を描いている。その地図や絵図等とコーツさんの愛蔵品をからめた話や、陳さんの近代東アジアの都市化についての話題等で大いに盛り上がった。

 後日、私は東京大学文学部図書室で平戸イギリス商館長リチャード・コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻刻した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)のうち)という大部な史料(1978~82年刊)を見つけた。
 1613年、イギリス東インド会社がコックスを日本へ派遣、その商館長日記である。英文版は3冊、1冊目は1615(元和元)年6月1日~1617年7月5日、2冊目は1617年7月6日~1619年1月14日、3冊目は1620年12月5日~1622(寛文4)年3月24日。和訳版は2冊で、附録が2冊。手書きの英文は読み難いが、翻刻と注付き和訳のおかげで、400年前の英語を楽しむことができる。
 日記を書いたコックスは、劇作家で初期近代英語の祖とされるシェイクスピア(William Shakespeare, 1564~ 1616年)より2歳若い同時代人である。コックス49歳の日記は次のように始まる。

June 1615, 1. This mornyng littell wind Noerly, fayre wether all day, but a fresh gale most p’rt of day as aboue said, but calme p’r night.
This day 9 carp’ers and 31 labo’rs, 1 matt maker. And we bought 5
greate square postes of the kings mastaer carp’ter: cost 2 mas 6 condrins p’r peece.
1615年6月1日。朝、弱い北風、一日快晴なるも、日中、かなりの強風。夜には鎮まる。
この日、大工9人、人夫31人、畳職人1人。王の大工棟梁から角柱(大)5本を買う。価格は1本あたり二匁六分。(原文は縦書き、一部改訳)

 スペリングが現在と少し違う語彙もあるが、訳文もあり、ほぼ理解できる。単語の簡略表記も法則が分かれば想像がつく。

 取引した商品には、陶磁器もある。読み進めるうちに、青花に出会えるかもしれない。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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