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タケの開花(その9)

 昨年の2018年8月28日掲載の本ブログ「タケの開花(その8)」の末尾で次のように述べた。「あの広域に展開するタイミンチクの花、…今年がこの2~3年の「一斉開花の収束」である可能性は高いものの、なお断定はできない。来年、開花が見られるか否かにより最終的な判断ができると考えている。…今回の(その8)をもって今年分の最後とし…今後も引きつづき身近な自然の営為に眼を向けていくつもりである」と。

 当時、内心では次の報告は来春になるだろうと思っていた。そこに昨年11月29日夕方、三溪園の羽田雄一郎主事から次のメールが入る。「本日、午後に坂先生とご一緒にタイミンチクとオロシマササの様子を見てきましたところ数カ所で開花株が見られましたのでご報告致します。」

 さらに「茶店横の坂道を昇り始めたところで、花芽になりそうな膨らみ(≒小さな蕾)を1つ。そのまま上り、最初の曲がり角の内側に雄蕊が見え始めた株を1つ。さらに旧松風閣遺構の手前で開花前の蕾を1つ。尾根道に出て左側の黒ボク石階段周辺で開花した株を1つ。聚星軒跡周辺で開花した株を2つ。聚星軒跡対面開花した株を1つ。前回の開花時期に最後まで咲いていた滝の裏側では開花は見られませんでした。」

 そもそも三溪園のタケに関する事の発端は、2年前の2017年3月29日、坂智広さん(ばん ともひろ 横浜市立大学木原生物学研究所・植物遺伝資源科学研究部門教授)が、90年前の1928(昭和3)年に三溪園のタケが開花した記憶があるとメールをくれたことである。日本育種学会で村松幹夫先生(岡山大学名誉教授)から聞いたとのこと(本ブログ2017年5月19日掲載の「タケの開花(その1)」。そこから現地の観察と古い新聞記事の検索等が始まった。

 昨年11月の開花を知らせる報を受け、私は「タケの花はそんなにたくさん咲いていましたか。事実の記録は重要です。しかしどう解釈(説明)すれば良いのでしょうか。」と書いた。想定外の展開に胸が高鳴る。これについて、これまでも種々の知見を示してくれた坂さん次のように答えてきた。

 「オロシマササは地下茎の先端で、新梢(地下茎から生え出る稈)の先に花をつけ、実が付いていました。垣根の刈り込み管理が終わり、前回観察の6月28日より葉数が減り、株がすっきりしていた。柴田昌三(2015) 緑化植物仮説 緑化植物としてのササ類、草と緑7:20-29(2015)によれば、夏季8〜9月の着葉数をピークに翌年7月には分蘖に新葉が増える。4月〜7月に地下茎が伸びて藪が大きくなる(柴田論文の図と表は省略)。
オロシマササの垣根から伸びた地下茎には株が形成され、新梢からは穂が出て結実している。今回の観察では地下茎の伸長も終わり、広く地際から芽を出していた新梢も刈り払われていたが、垣根の根元には新たな株が形成され、一部には咲き残りを思わせる新梢に最近の開花の痕跡と結実を認めた。」

 この昨秋の坂さんのメールは重要なので、すこし長くなるが続きを再掲する。
「タイミンチクは今年の夏前に花をつけていた株、ないしはその近辺の新梢、ひこばえに花がついていました。夏前の咲き残りが、秋口から新春に花を咲かすのではないかと予想していたところ、この冬の暖かさでたくさん見られたと考えております。
加藤先生のブログ「タケの開花(その8)」に記されている一斉開花の収束が今年の夏前に完了しておらず、夏の暑さで一休みした後に目下収束期の終盤にかかっているのではないかと解釈しています。竹藪の辺縁部(拡大している先端部)に花を咲かせる要素が遅れて伝わりまだ残っているのなら、これから4~5月にかけて三重塔付近から階段下の方で、偶発的に残り花が見られるかもしれないと予想しています。
 今回の観察でかなり確からしいのは、タイミンチクは開花後には出穂開花した枝は枯れるが、稈や藪は枯れずに地下茎と筍で増殖し、枯れないということです。…種子をつけた株は非常に特殊で、何かしらの突然変異が生じているかもしれません。母親が同一で、発芽した芽生えが元の藪とは異なる性質を持つ可能性に興味が湧きます。
タイミンチクは、今夏前に出穂開花した穂がついた節から花穂が出る、地際の新梢に花穂が着く現象が見られた。前回の観察でも、1)散発的にこれまで出穂した穂の小花が開花するケース、2)開花していた枝の先端に未熟な小さな小花をつけるケース、3)地際からの新梢に花穂を付けダラダラと開花するケースが見られ、主稈が折れた場合に下の節から花穂をつける稈が分蘖のように枝を出す様子が見られたが、今回も同様で8〜9月の猛暑でタイミンチクの生育が停滞したか、この時期に残りの花穂が着生したのだと推察する。」

 翌2018年には羽田さんが「…4月4日の朝、今年も三溪園のオロシマササが咲いた…」と連絡をくれた(本ブログ2017年5月19日掲載「タケの開花(その5)」)。そのとき私は「…タケの開花は60年、90年、120年と長い周期で1度だけ起きるとされるが事例報告は多くなく、周期の年限をめぐっても確実なデータはごく少なく…現象を的確に観察して記録に残すことが重要…」と書いていたので、この開花は驚くべき朗報である。

 2年連続の開花に加え、昨年には秋の開花もあった。3年目になる今年、早めに現地観察を予定したが天候や時間調整に手間取り、3月7日になってしまった。春寒の冷たい雨の中、坂さん、羽田さんと園内を一巡したところ、1週間程前に開花したと思われるタイミンチクの花が何カ所かで見られた。

 3年連続の開花。この観察記録をお願いした坂さんと、今後の方針を話しあった。大別して2つ。第1が広域に拡がるタイミンチクの分布に区割りの名称をつけて地図で示し、観察地点を可能な限り具体的に明示できるようにすること。そのため前回の地図(本ブログ2018年7月18日「タケの開花(その7)」の補正版を作成する。坂さんの脳裏には最初の1株(親)が松風閣近くのもので、これをⅠ中央部と名づけ、そこから周縁に拡がったと仮定しての分布図づくりが浮かんだと思われる。

 第2にタイミンチクは自生ではなく移植であるため、関東近辺の植物園等の移植履歴や時期を調査し、タイミンチクの生育年齢(移植年+α)を導きだすことができないか。三溪園の2本のイチョウから始まった樹齢を尋ねる「イチョウ巡り」(本ブログ2019年12月28日掲載)をしたとき、小石川植物園で10株ほどのタイミンチクを見つけた。いずれ調べさせてもらおうと坂さんと羽田さんにメールで伝えておいたことを思い出し、ここを有力な候補地とした。

 坂さんは即、行動に移し、翌8日にメールをくれた。「午後に小石川植物園に連絡をし、関係者からお話を伺えるようメールでお願いしました。また、目黒の林試の森公園に電話し、かつて国の森林研究所が開設された時代からの物語がありそうで、調べて頂いています。さらに江ノ島にタイミンチクの大きな群落があり、藤沢市の天然記念物の指定になっています。藤沢市の郷土歴史課に電話をして、英国商人のサムエル・コッキングとの繋がりが見えてきました。コッキングは牧野富太郎と交流があったようで、小石川植物園との繋がりも見えてきます。さらには、コッキング商会が横浜にあったことから、三溪園との縁もあるのでは? 加藤先生のご専門の領域に深く関わってくる予感がしております。」

 翌9日、坂さんの新しい地図つきの観察記録が届いた。
「2017年、2018年の開花観察から、開花年と開花場所の変遷の傾向を考慮して、タイミンチク林をⅠ中央部、Ⅱ延伸部、Ⅲ端部、Ⅳ辺縁部(仮称)の4エリアに分けた。タイミンチクの株の大きさ、稈の数と古さを比較すると、およそⅠからⅣへと地下茎が拡がり、藪が形成されたのではないかと仮説を立てる。尾根道と登坂路の交差点あたりの株が創始者的な始まりで、ⅠとⅡエリアへの竹藪が形成され、最初は登坂路の西側に地下茎が伸びた可能性が高い。タイミンチクの地下茎は下斜め方向や水平に伸びやすく上には伸びにくいので、東側のⅢ、Ⅳエリアへは尾根を一度超えなければならず、新しい株のエリアと想定できる。旧東慶寺仏殿周辺、古民家(旧矢箆原家住宅周辺)のⅢbエリアは、南側 Ⅳbエリアを介して回り込んで拡がったか、中国庭園とその下の傾斜部の開墾で植生が分断された可能性も考えられる。以上の仮説の上に、三溪園のタイミンチク林は古くからあったエリアⅠからⅡの延伸部までで一昨年〜昨年の一斉開花が同調し、おそらく延伸が遅れて新しいエリアⅢが遅れて開花が波及した。
Ⅳaはまだ株も若く、今後開花の可能性も期待される。Ⅳbは開墾後に新たに再生したエリアの可能性があり、日当たりがよく木は大きいいが今後の傾向は予想しづらい。Ⅲbは昨年の下刈りで、この後に地下茎から伸びる新梢、新稈がどのような形態になるか、観察が必要と考える。
 エリアⅡの登坂路登り口の株、とはいえ地下茎から伸びた枝に花穂が見られた。昨年も花が咲きやすい株であったが、今年は箒状にかなりの花穂を生じている。エリア の尾根道交差点から登坂路に下がった株で、新な花穂の伸長を認めた。この株(枝)は昨年も花穂をつけており、その名残が着生したままだが、箒状ではなくスリムな穂で、継続的に出穂しているものとみられる。以上の点から考察するに、2017年に始まった一斉開花が2018年にも亘り、2019年は辺縁エリアや、各エリアの地下茎の先端などで、散在的に花穂が見られるかもしれないと推察している。」

 3月14日、羽田さんと二人で園内を一巡した。先週と同じ場所に開花が見られ、穂数はすこし増えた印象を受けたが、新たな開花は確認できなかった。そして次のステップに向けて、親株の太さを大まかに計測した。

 坂さん作製の「三溪園タイミンチクの生育分布と開花観察地点図」を巡り、地下茎の伸びる方向に関連する高低差を示すため、等高線を入れる方が良いのではと羽田さんの提案があり、ご両人で幾度かの意見交換のすえ、ついに完成した。この地図を付し、3年間の観察の<中締め>としたい。
190319C4三渓園タイミンチクの開花分布地図

臨春閣の屋根葺き替え工事

 今年度から三溪園の重要文化財建造物の大規模改修工事(保存修理工事)が始まった。第1期は6年、3期にわたり全部で14年という長丁場を予定している。その最初が臨春閣屋根葺き替え工事(屋根面積は694㎡)である。

 昨年12月25日、記者発表を行った。「珠玉の数寄屋、約30年ぶりの保存修理へ ― 三溪園の重要文化財 臨春閣、屋根の葺替えを1月から実施」と題し、次の説明を加えた。「シンボル・旧燈明寺三重塔とともに三溪園の“顔”である歴史的建造物といえば、桂離宮と並び近世数寄屋建築の白眉とも評される臨春閣。このたび、当財団では国・県・市の補助を得て、この臨春閣の保存修理を、年明けの2019年1月から実施することとしました。過去、臨春閣の大規模な修理は、戦後昭和33(1958)年、昭和62(1987)年に実施され、今回で3度目を数えます。おもに長年の風雪により老朽化した檜皮(ひわだ)と杮(こけら)の屋根材の交換、耐震対策工事を中心に行いますが、いずれも貴重な文化財を将来に向けて良好な状態で遺していくために必要不可欠な工事です。ご理解・ご協力をよろしくお願いいたします。」

 臨春閣の写真には次の説明を付した。「臨春閣は、三溪園内苑庭園の景観の要となる中心的な建造物。3つの棟が雁行形に配置される構成や紀州徳川家の別荘という来歴から、京都・桂離宮(八条宮家の創設)と並び称される。三溪園が通称「東の桂」とも称される所以である。」

 臨春閣は3棟からなり、東南の園路から西北に向かって右から第一屋、第二屋、第三屋と展開する。工事は大きく2期に分けて行い、前期は今年2月から11月頃まで(10か月)が第一屋と第二屋、ついで11月頃から来年5月頃まで(6か月)が後期の第三屋である。

 正月明けから、建物全体を風雨から守る素屋根(すやね)の組み立てが始まり、日々、その姿が高く伸びて2月中旬にほぼ出来上がった。2月28日、本年度第3回整備委員会(委員長は尼﨑博正京都造形芸術大学教授)を開き、参考資料として三溪園主催「重要文化財臨春閣 保存修理工事見学会」のリーフレット(A3両面)を配る。現地指導では工事現場の足場に登り、藤倉賢一さん(公益財団法人文化財建造物保存技術協会技術主任)から説明を受けた。

 4年前の2015年秋、隣接する白雲邸(横浜市指定有形文化財)の倉の補修工事でも現場を確認し、次のように書いた(本ブログ2015年11月23日掲載「白雲邸」)。「…屋根の上から全体を眺望すると、今回の工事外の主屋の広い檜皮葺の屋根が気になった。檜の皮を重ねて葺く技法は、日本家屋の特徴の一つであるが、檜皮を止める竹釘が各所に浮き上がって見える。檜皮が油を失い、痩せて沈んだ結果、竹釘が露出したもので、これが新たな課題となった。…」

 その翌年、懸案の白雲邸の檜皮葺き工事が始まり、その工事を幾度か見学したときの感動を思い出した。「…1月25日、正月明けから始まった檜皮葺き工事の視察を行った。主屋の屋根が278㎡、門の屋根が10㎡、合わせて約300㎡という広い屋根工事(なお延床面積は約284㎡)のうち、半分近くがすでに完成しており、…北側の軒先の4間ほどにわたり、5人の職人が並んで檜皮を葺く作業の最中であった。みな40歳前後、心技体を備えた職人たちである。…水で濡らした檜皮を丁寧に並べ、口に含んだ竹釘を取り出しては小型の金槌で素早く打ち留める。その間、5秒とかからない。正確な動きとリズミカルな金槌の音…」と書いた(本ブログ2017年4月3日掲載「白雲邸屋根の葺き替え」)。

 折しも2月5日、文化庁から審査が1年先送りとなっていた「伝統建築工匠(こうしょう)の技:木造建造物を受け継ぐための伝統技術」をユネスコ無形文化遺産へ再提案するとの報道発表があった。小さい新聞記事で気づき、文化庁ホームページにアクセスして全貌を知る。

 文化庁発表によれば、伝統建築技術とは「木・草・土などの自然素材を建築空間に生かす知恵,周期的な保存修理を見据えた材料の採取や再利用,健全な建築当初の部材とやむを得ず取り替える部材との調和や一体化を実現する高度な木工・屋根葺(ぶき)・左官・装飾・畳など,建築遺産とともに古代から途絶えることなく伝統を受け継ぎながら,工夫を重ねて発展してきた技術」を指す。

 さらにいう。「歴史的建築遺産と技術の継承を実現する適切な周期の保存修理は,郷土の絆(きずな)や歴史を確かめる行事であり,多様な森や草原等の保全を木材,檜皮(ひわだ),茅(かや),漆,い草などの資材 育成と採取のサイクルによって実現するなど,持続可能な開発に寄与するものである。」

 ユネスコ無形文化遺産への昨年の提案は、国の選定保存技術の次の14件である。「建造物修理」,「建造物木工」,「檜皮葺(ひわだぶき)・杮葺(こけらぶき)」,「茅葺(かやぶき)」,「建造物装飾」,「建造物彩色(さいしき)」,「建造物漆塗(うるしぬり)」,「屋根瓦葺(やねがわらぶき)」、「本瓦葺(ほんがわらぶき)」,「左官(日本壁)」,「建具製作」,「畳製作」,「装潢(そうこう修理技術)」,「日本産漆生産・精製」,「縁付(えんつけ),金箔(きんぱく)製造」。

このうち「檜皮葺・杮葺」の説明は次の通り。
「選定年月日:昭和51年5月4日
保存団体名:(公社)全国社寺等屋根工事技術保存会
概要:檜皮葺(ひわだぶき)及び柿葺(こけらぶき)の技術は,建造物の屋根葺(ぶき)技術として我が国特有のものである。この技術の発祥は詳(つまびらか)でないが,檜皮葺は8世紀の中ごろに既に用いられており,柿葺は古く発生した板葺(いたぶき)を源流とし,中世の末にはその技法が定着し大成したとみられている。現在,多数の檜皮葺・柿葺 の建造物が,重要文化財として保護されており,これらの建造物を保存するためには檜皮葺・柿葺の技術は欠くことのできないものである。しかるに,指定文化財以外では若干の社寺建築にその需要があるとはいえ,一般建築界では全く用いられない技術であって,このため伝承は困難となりつつある。」

 今年のユネスコ無形文化遺産への再提案書には、新たに原料にかかわる「檜皮採取」、「屋根板採取」、「茅採取」の3件が加わり、17件となった。檜皮採取は危機に瀕していると聞き、案じていたが、これは朗報である。

「檜皮採取」の概要は次の通り。
「選定年月日:平成30年9月25日
保存団体名: (公社)全国社寺等屋根工事技術保存会
概要:檜皮(ひわだ)採取(さいしゅ)とは,屋根葺の一種で社寺に多く見られる檜皮葺に用いるため,80から100年生以上の檜の立木(たちき)から,樹皮である檜皮を剥ぎ取る技術である。立木の檜は10年ほどで樹皮が形成され,再び採取が可能となるが,そのために樹皮下の形成層を傷つけない技術が必要である。檜の立木の下部からヘラを入れ,上方(じょうほう)にめくり上げ,麻縄(あさなわ)を巧みに使って足掛かりとして,高い木では20メートル以上まで登り剥いでいく。檜皮の採取は樹皮の形成期間である4月から7月までは剥ぐことができず,労働期間が限定される。単独で山中深く入り,高い木に登る等,危険を伴い,採取した檜皮を担いで山裾まで下ろす等,重労働も要求される。 現在重要文化財として保存されている檜皮葺の建造物を維持し,後世に伝えるためには檜皮採取の技術は欠くことができない重要な技術である。」
 
 3月13日、三溪園主催、(公財)文化財建造物保存技術協会・(株)児島工務店の協力を得て「重要文化財臨春閣 保存修理工事見学会」を行った。ガイドの参考にしてもらうため、対象は三溪園ボランティア有志である。

 その案内リーフレット(上掲)には、臨春閣の平面図・立面図と作業工程の概略を載せた。「資料:檜皮葺(ひわだぶき)について」は、国宝・重要文化財に指定されている建造物で檜皮葺きは700棟を超えるが、その約7割が近畿圏に集中し、関東圏には6%弱の40棟と述べる。檜皮1枚の厚みは1.5ミリ、それを数10枚重ね竹釘で留めていく。作業工程は写真で示し、①檜皮(原皮)の剥ぎ取り、⑤檜皮拵え(こしらえ)、⑦軒付積みと進み、⑫平葺に到る計12の作業手順に解説を付した。

 三溪園ボランティアは、現在233名が登録、三溪園の魅力を外に発信する第一線の活動を担っている。内訳は、ガイドインフォメーションが157名(英語ガイドを含む)、合掌造管理運営ボランティアが46名、庭園保守管理ボランティアが74名である(複数所属あり)。詳しくは本ブログ「三溪園ボランティアの活動」(2019年1月29日掲載)を参照されたい。

 公益財団法人三溪園保勝会は、定款に「国民共有の文化遺産である重要文化財建造物等及び名勝庭園の保存・活用を通して、歴史及び文化の継承とその発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信することを目的とし」(第3条)とあり、その公益目的事業として、
 (1)重要文化財建造物及び名勝庭園の維持管理
 (2)重要文化財建造物及び名勝庭園を活用した伝統文化の振興
 (3)原三溪に関連した美術品等の収集、保存及び活用
を掲げている(第4条)。

 「重要文化財建造物」、「名勝庭園」、「原三溪に関連した美術品等」の三者を解りやすく古建築、庭園、美術品と略称し、私は密かに三溪園の「三種の神器」と呼んでいる。

 その一つ、古建築の保存工事に向けて、伝統技法に裏打ちされた匠の技が30年ぶりに結集する。その最初が臨春閣である。工事の進展に合わせ、来園者への工事見学会を予定している。三溪園ホームページ等を通じてお知らせするので、楽しみにしていただきたい。

大学教員の仕事

 長く大学勤めをしてきた。1966年に東京大学東洋文化研究所の助手になり、横浜市立大学を定年退職する2002年までが36年、それに都留文科大学学長の4年間(2011~2015年)を加えると、大学勤務は40年になる。

 75歳になったとき、大学教員の仕事を一般化して整理したことがある。本ブログ右欄のリンクにある「(都留文科大学)学長ブログ 2011~2015」の18「大学教員の4つの仕事」(2011年8月18日)で、大学教員の仕事は大別すると、<教育>、<研究>、<社会貢献>、<学務>の4つであると述べた。

 それから7年、大学の行く末を想いつつ、改めて整理しておきたい。大学関係者以外の方に大学教員の仕事を知っていただきたいという思いがあると同時に、大学は教員・職員・学生の3者で構成される組織であるため、職員や学生にも知って欲しい。そして何よりも全国18万人の大学専任教員の、さらなる深化の一助になればと願っている。

 大学教員の4つの仕事とは、<教育>が知(知識+知恵)の<継承>にあたり、<研究>が知の<創造>、<社会貢献>が知の<普及>である。これら3つの仕事を遂行する役割が<学務>にほかならない。具体的には、それぞれに5項目、合計して20項目になる。

 第一の<教育>には、①入試(出題・採点等)、②授業(講義)、③少人数のゼミ、④4年生向けの卒業論文指導、そして⑤大学院生に対する修士論文と博士論文の指導があり、通常はゼミ形式を採ることが多いが、個別指導が別途必要になることもある。例えば「○年日記」のような形式を使うと、年ごとの更新過程を明らかにでき、改善に資するであろう。

 第二の<研究>は、自分の専門領域の課題を煮つめる作業である。私の専門の歴史学の場合は、①過去の研究の精査、②自分の課題の設定、それに伴う③史料収集、これらに圧倒的な時間をかける。ついで④論考執筆に入り、⑤推敲を重ねて発表にいたる。論文は400字×40枚~60枚=16,000字~24,000字(日本語)程度のものが多いが、著書の場合は400字×200枚=8万字(新書クラスの平均)から400字×700枚=28万字程度までが一般的であろう。

 ちなみに実験を必須とする分野では、グループで長時間の実験・観察を行う。それ自体が教員の<研究>であると同時に、分担を決めて実験を進めることが学生にたいする<教育>でもある。

 初等・中等教育とは異なり、大学の<教育>は<研究>(先行研究)を踏まえつつ、あくまでも自己の<研究>に基き、その責任において実施される。この自覚は不可欠である。

 <社会貢献>とは、ここでは<地域貢献>や附属病院の医療行為を含む、自己の<研究>成果を広く学外へ伝える行為である。①各種の講演、②研究成果の公刊や新聞・雑誌への執筆、③テレビ・ラジオの出演、④学会の委員や政府・自治体等の審議会委員、⑤医師・看護師・薬剤師等による医療行為。

 そして<学務>とは、大学内にある①各種委員会(入試・教務・学生・人権・紀要・将来構想・計画等の各委員会)、②学科会議、③学部の教授会、④大学院の研究科委員会、⑤全学の委員会や学生の部活の部長・顧問等の活動である。大学が自治組織である以上、それを構成する各単位は運営のために将来構想・計画・点検を含め、自ら絶えず点検練磨しなければならない。

 多くの委員会はルーティンをこなすものであるが、そのルーティンは時代の要請に応えて絶えず見直す必要がある。そのための委員会が学部ごとの将来計画委員会であり、全学の将来構想委員会である(名称は各大学で異なる)。組織の将来像を描くのは難しいとはいえ、これなくして前進はない。大学改革の大きな波は、これまで十年ないし数十年の単位で押し寄せ、その度に、これらの委員会が大きな役割を担った。

 今後も大波はやってくる。現在、760余の日本の大学の多くが、さまざまな面で危機状態にあると言わざるを得ない。<教育>、<研究>、<社会貢献>が十分に機能するには、新たな大学改革が必要であり、そのとき<学務>に大きな役割が求められる。

 これら大学教員の4つの仕事は、必ずしも勤務時間や大学という場所に制約されないものも含む。資料を求めて学外の図書館・文書館へ通い、フィールドワークに出かけ、講演に赴き、あるいは在宅勤務(自宅研修)に勤しむ。外からはかなり暇な職業と思われることもある。最近になって「裁量労働制」という勤務形態が知られるようになり、世間の理解は進んでいるようだが、なお多くの課題が山積している。

 私自身の経験では、学部教授会や将来構想委員会等を通じて、多くの優れた教員と知り合う機会に恵まれた。東洋近代史の私が日本史・西洋史・国際関係史の教員から多くを学び、それは文学・哲学・法学・経済学等の教員、さらに理系の物理・化学・生物や医学系の臨床・基礎の教員へと拡がり、望外の学問的刺激を受けた。これは大学教員の特権である。大学だからこそ多分野の発想に出会えた。今につづく深い人間関係もあり、感謝は尽きない。

 その一方で、上掲の総計20項目にわたる仕事は、相当の重労働であり、すべてを同時平行で行うことはほとんど不可能である。個々の教員で事情は異なるが、組織(学部・学科等)の一員として役割分担や協調も必要となる。前掲「大学教員の4つの仕事」のなかで、次の提案をした。

 …外国研究には外国訪問が不可欠となる。…研究の着想は必ずしも机上では生まれない。電車や風呂のなかでひらめくこともあり、対話や散歩の過程で解き明かすこともある。ひとたび研究活動に入れば徹夜に及ぶこともしばしばで、この点では不定期の24時間勤務であり、季節変動も無視できない。
 多忙な日々に追われ、教員たちが自身の将来計画を見失っては大変である。現在もさまざまな工夫がこらされているが、これを一歩すすめて、各教員が2 年単位で6~7年先まで(研究専念期間をふくむ)を見越した4つの仕事の配分計画を作り、平均すると4 分の1 ずつの比重を時には変更し、例えば教育の比重を高める傾斜配分案(7:1:1:1)や学務に重点を置く配分案(1:1:1:7)等を作った上で、同僚たちと調整するのも一案であろう。メリハリがつくように思う。

 学科長、学部長、研究科長等に就くと、<学務>の比率が一挙に拡大する。学科間の調整や各種委員会との調整が不可避で、多分野の教員や、大学の仕組み、運営の妙を知る好機となるものの、そのために長い時間と労力を要する。

 さらに学長・副学長であれば、全学の実態を把握し、大学の進むべき方向に指導力を発揮する必要がある。それにとどまらず、学外との折衝(議会や役所の関係部局等)や、学外への独自性のアピールも必要となる。たとえば公立大学協会(公立大学長で構成する団体)における役割や国公私立大学共通の審査委員会委員、大学間交流協定(海外を含む)の代表等である。そこで生じる疲労や苛立ちに挫けてはならない。自己管理が勝敗を分ける。

 こうした任務の遂行には大切な舞台裏があり、表舞台の活動は舞台裏いかんで決まるとも言える。家族等の強い支え、堅固なロジスティックスなくして責務は完遂できない。個々の教員により多様で一般化はできないが、多くの助力を得てという点では、誰にも共通するのではないか。

 限られた経験に基づいて大学教員の4つの仕事について述べてきたが、もとよりこれは一つの事例にすぎない。大学と日本の将来に希望を託し、現在の大学が抱える問題点とその是正の必要性を3点に限り挙げておきたい。
(1) 若手教員任期制を廃止し、彼らの中長期にわたる研究計画の評価制度を確立すること。
(2) 批判を回避するため小さくまとめようとする論文作成の傾向を改め、中長期の展望に立つ思考の重要性を示すこと。
(3) 教員個々人の領域に引きこもらず、分野・職種・年齢等の異なる大学構成員(教員・職員・学生)との自由闊達な意見交換により、大学本来の役割である知(知識+知恵)の創造・継承・普及に寄与すること。

【37】連載(七)経験と風説

 本稿は、『思想』誌(岩波書店)1984年5月号掲載の「連載 黒船前後の世界」(七)「経験と風説-モリソン号事件とアヘン戦争情報」を整理し、新たに私見を付したものである。これまで(四)「東アジアにおける英米の存在」、(五)「香港植民地の形成」、(六)「上海居留地の形成」を通じて東アジア情勢を中心に分析してきたが、それを受けて本稿は日本開国の導入として位置づける。

 幕府は長崎で収集したオランダ商船と中国商船が伝えるアヘン戦争情報(風説書)を読み解き、これにモリソン号打払い事件(1837年)という過去の<経験>を結びつけた。それにより強硬な文政(異国船無二念打払)令から穏健な天保薪水(供与)令に政策変更する経緯を解明した。

 この変更は老中・水野忠邦ら幕閣のトップレベルの措置であり、江戸では泰平の世さながらに朝顔づくりが流行し、俗謡の都々逸が武士や町人を魅了、貸本屋の「読本」(よみほん)が争うように読まれていた。

 1節は、英中双方の史料を用い、アヘン戦争の発端となる地域的軍事衝突(1839年9月4日)から南京条約締結(1842年8月29日)までの概要をまとめた。2節は、イギリス派遣軍のカントン沖集結を皮切りにアヘン戦争の経過を次の4期に分けて概観する。(1)1840年6月~11月、イギリス軍の北方沿海部の攪乱と華中の長江下流域の封鎖、(2)1840年11月~41年8月の広東戦争、(3)1841年8月~42年5月、華中の寧波、鎮海、定海を中心とする攻防、(4)1842年5月~8月、イギリス軍の長江遡航、大運河と交差する鎮江=揚州を越えて食糧運搬の水運を封鎖、南京(明代の首都)に迫り、南京条約締結に到る。つづく3節では、イギリス派遣軍の具体的な作戦展開を述べる。

 4節と5節は、アヘン戦争の展開を、幕府は、いつ、どのように収集したかがテーマである。小西四郎、森睦彦、片桐一男等の先行研究と、民間に流布した写本(『阿片類集』、『阿芙蓉彙聞』等)を整理し、中国商船がもたらす唐風説書(唐①等と表記、和解(和訳)のみを含む)とオランダ商船のもたらす情報(蘭①等と表記する和蘭風説書と和蘭別段風説書)を一覧した。

 すなわち(1)最初の情報である1839年8月入手の蘭①と1840年7月入手の蘭②、(2)②1840年夏のほぼ同時に入手した唐①と蘭③の情報、(3)唯一の情報源となった唐②(1840年秋までの状況)と唐⑦(1841年末までの状況)の情報、これら3期の情報から幕閣が把握した戦況を検討した。鎖国により海外渡航はできず、風説書だけを頼りに、周到かつ多角的に検討し、情勢判断に努める幕閣の動きが窺い知れる。

 上掲(1)で蘭①はアヘン厳禁という清朝政府の政策に理があるとしたが、翌年の蘭②はイギリスが「仇を報んがため」に出兵したと述べる。戦争の正義・正統性が大きく転換され、幕閣はイギリス側に出兵理由があるのかと驚く。

 6節は上掲(2)1840年夏に入手した唐①と蘭③の比較検討に充てる。中国船情報は戦場での目撃情報に官報の一部等を含む。オランダ船情報の情報源はカントン、シンガポールなどの英字紙誌であり、これらをバタビア(オランダ総督府の置かれた植民地インドネシアの首都)で編集、オランダ語に翻訳した。

 うち1831年創刊の月刊誌”Chinese Repository”はとくに信頼性が高い。とりわけ編集に当たったイギリス人宣教師R・モリソン、アメリカ人宣教師のE・C・ブリッジマン、S・W・ウィリアムズ。モリソンは1807年にカントンに渡って中国語・中国情勢の研究に励み、”A Dictionary of the Chinese Language”(1815~1822)を上梓した。ブリッジマンは米清望厦条約(1844年)の通訳を担い、ウィリアムズは後にペリーに随行して来日する。

 これら英文紙誌の編集・蘭訳は、アヘン禍問題やアヘン戦争の「正義」の所在には深入りせず、戦況情報を優先する。第1の交戦事件(1839年9月4日、英艦ボラージュ号の中国船への発砲)、第2の交戦事件(1839年9月12日、清朝砲台からスペイン船をアヘン貯蔵船と誤認・発砲)、第3の交戦事件(1839年11月3日、英艦ロイヤルサクソン号がカントン湾を遡航して清朝官船へ発砲)を列挙、「唐人敗北したり」や「…1艘は空虚に打ちとばされ…」等でイギリス側の圧倒的優位を伝える。これらの艦船はイギリス派遣軍到着前の、イギリス貿易監督官付きの軍艦であり、つづく大部隊のイギリス派遣軍到着後の風説書解読の前提となる。

 7節は、これらの情報が幕閣に与えた影響について述べる。唐①はアヘンについて、当初、イギリスが紅茶等の対価として中国へ輸出、貴賤を問わず服用者が増大、諸外国の商人でアヘン貿易にかかわらない者はおらず、「現在は金銀をもって公然と売買し、怪しむべきことにただ口腹の利益をむさぼるのみで、生命を害するの恐るべきことを顧みない。アヘンを用いる者は徐々に憔悴し、ついにその生命をそこなう…」と伝える。

 そして銀流出に伴う財政危機論とアヘン害毒論の2点をめぐり、アヘン厳禁派の林則徐の上奏(1833年)、黄爵滋の上奏(1835年)、さらにアヘン弛禁派の許乃済の上奏(1836年)、黄爵滋の上奏(1838年)を経て、林則徐のアヘン没収(二万箱余、一箱あたり銀3600両)に到る経緯を伝える。幕閣は、正義は清朝側にあるものの、軍事力では中国側に勝ち目があるとは言えない、と判断した可能性が高い。

 8節は、1840年秋までを扱う唐②と、一年後の1841年末までを扱う唐⑥から幕閣が戦況をどう読みとったかの解析である。この間、オランダ風説書の舶来はなく、唐風説書が唯一の情報源であった。イギリス派遣軍が植民地インドのセポイを率いてカントン沖に到着する1840年6月からの戦争情報は、3段階に分けられる。

 第一段階ではカントン到着後のイギリス派遣軍が間を置かず北上して華中の定海と華北の白河入口を占領(1840年6月~11月)、第二段階は1840年11月から41年8月にかけてカントン近辺に戦力を集中、第三段階は1841年8月から翌1842年8月まで戦場を華中へと展開し、長江(揚子江)と大運河の交差する水運の要所を抑え、南京条約の締結に追い込む。

 第一段階の唐②は、1840年7月5日の交戦に触れ、寧波沖に「尹夷(イギリス)船七十八艘到来」、交戦のすえ「舟山定海県の総兵官(指揮官)は戦死、知県(県知事)は驚愕極まり入水自死、居民は四散逃亡…」と述べる。

 第二段階の唐④は、「…いまにいたるも定海県は港をふさがれ、その地の人民はともに貿易の便路を失い、次第に離散…」と、イギリス艦隊による封鎖を明らかにし、「広東には新たにイギリス軍百余艘の噂…」とも記す。

 9節では、1840年秋から41年春までの戦況を伝える唐⑤と、1842年2月に入手した唐⑦が伝える第三段階の情報に触れ、「…イギリスは軍艦を広東外洋の香港等に移して停泊、あるいは鎮海、寧波、定海等の一帯、二、三百里の洋面を遊弋…」と記す点に注目した。

 制海権をイギリス艦隊が掌握との情報に、海外書生と名乗る日本人が清朝官僚に成り代わって、「平夷説」、「平夷論」の2編の上奏文を発表した(『阿芙蓉彙聞』所収)。清国の敗因は「陸地の砲台からの応戦にすぎなかったことにあり、それも命中率がきわめて悪く、海戦はすべて小舟によるもの。戦艦をつくり兵士をきたえ、外洋に出て戦うことをしなかった」と分析し、今後、中国の6大港に110人乗りの大型戦艦140隻編成の大軍団を作るべしと展開する。これは裏を返すと、幕府の鎖国政策への批判でもある。

 10節は、幕府の対外令が1791年の寛政令(薪水供与)、1806年の文化令(薪水供与の枠の拡大)、1825年の文政令(異国船無二念打払令)と変化してきたことを整理、その上で、1837年に浦賀来航のアメリカ船モリソン号(船名をイギリス人モリソンと結びつけイギリス船と誤解した)を文政令に従って打払った事件、および翌年モリソン号の目的は日本人漂流民の送還にあったと述べるオランダ風説書を契機に、高野長英、渡辺崋山などが幕政を批判し投獄・処罰された、天保10年(1839年)の言論弾圧事件<蛮社の獄>の経緯を述べる。

 11節と12節では、第一にモリソン号事件と<蛮社の獄>を追いかけるように届いたアヘン戦争情報により、イギリス脅威論がどのように増幅されたか、第二に鎖国以来の幕府の対外政策にどのような修正を迫ったかについて、田保橋潔や井野辺茂雄等の先行研究を整理する。老中水野の諮問に、評定所答申は打払令の継続であった。一方、林大学頭の答申は穏健な文化令への復帰であり、両者は対立する。

 13節は、イギリスが日本と中国等をどのように見ているかという点から水戸の徳川斉昭の臣下の上書を取り上げた。すなわち清国は大国で、朝鮮・琉球等は小国ゆえ、イギリスは第一に日本を狙うはずであり、邪教・蘭学を禁じ、さらには日本も大型船の製造禁止を解いて海難を避け、蝦夷地の開拓に本腰を入れるべしと主張する。対外強硬派が、鎖国の柱である大型船製造の解禁に言及している点に注目したい。

 水野はアヘン戦争情報の分析から、強大なイギリス艦隊にとって江戸湾の封鎖、物流の阻止はごく容易であろうと考えた。加えて、非武装のモリソン号の来航目的を知った以上、文政令(異国船無二念打払令)の継続は無策と判断、隣国のアヘン戦争を「自国之戒」として穏健な文化令(薪水供与令)に復した。これが天保薪水令である。南京条約締結(1842年8月29日)の1日前であった。

駐日外交官たちの写真展

 三溪園の鶴翔閣において「にっぽん-大使たちの視線2018」写真展が開かれ(2019年2月5日~11日まで)、多くの人が訪れている。副題は「外交官がとらえた明治維新から150年を迎える今のニッポン」(”Meiji 150 years, Japan Transforming –- through Diplomat’s Eyes 2018“)。日本の昔ながらの伝統や文化、近代的な風景など様々な視点の作品を観ることができる。

 この「にっぽん-大使たちの視線」写真展は1998年に始まり、今年で21回目となる。高円宮妃殿下名誉総裁、中曽根弘文参議院議員選考委員長、パンサーン・プンナーク駐日タイ王国大使実行委員長(今年度から)を中心に、各国駐日大使をはじめ外交官諸氏が日本の今を活写するユニークな取組である。今年は、45カ国67名の方々の出品があった。

 外交官は、その職業上、駐在する国の鋭敏な観察者であり、駐在国の各地を訪れて人々の生活に触れ、課題を共有する。その経験が写真に投影される。

 2月5日10時からオープニング・セレモニー。開催地を代表して林文子横浜市長が、「…横浜は商業写真発祥の地であり、伝統とモダンが共存する街並み、いたるところに残る豊かな自然など、魅力的な撮影スポットにあふれています。ここ横浜で、多くの方々に写真映像文化に親しんでいただくため、毎年1月から3月に<撮る・みる・楽しむ横浜写真月間フォト・ヨコハマ>を開催しており、このたびの写真展は、このフォト・ヨコハマとの共催…」と紹介した。

 <横浜写真月間フォト・ヨコハマ>の関連事業として、三溪園でも過去にエバレット・ブラウン展やトークショーを開いている。本ブログの2015年1月25日掲載「光画と写真」、2015年3月2日掲載の「湿板光画の思想」、2017年2月20日掲載の「湿板光画といけばな」をご覧いただきたい。

 そして林市長は会場の三溪園に触れ、「…明治時代末から大正時代にかけて製糸・生糸貿易で財をなした実業家・原三溪が造り上げた日本庭園であり、…この鶴翔閣は日本を代表する芸術家・文化人と広く交流し…こうした人々が集い、また画家たちが創作活動のため滞在した場所、…今回の写真展は自然と歴史が織りなす古建築の和の空間で、ゆっくりお楽しみください」と結んだ。

 名誉総裁高円宮妃殿下は、形式ばらず、にこやかに、写真展の意義を語られた。妃殿下は写真家としても著名であり、これまでフォト・ヨコハマの一環として、三溪園において2015年2月「写真展 鳥たちの煌き(きらめき)」(三溪園内の白雲邸)を開催、「バードウオッチャー」林文子市長と息の合った鑑賞トークが印象的であった(本ブログの2015年2月14日掲載)。以来3年連続で妃殿下の写真展が開催されている(会場を鶴翔閣へ移す)。今回は妃殿下のお力添えで林市長念願の「にっぽん-大使たちの視線」写真展が実現した。

 実行委員長のプンナーク駐日タイ王国大使は、キルシュ前駐日ルクセンブルグ大使から大役を引き継がれたが、その挨拶のなかで「日本と諸外国との文化交流と友好を深める役割を果たし、…明治という時代の魅力や何気ない日常の中で見つけられる日本の美しさなどを見事に切り取った45カ国67点の作品があり、たいへん難しい選考を経て…」と述べる。

 選考委員長の中曽根議員は挨拶文のなかで「…1848年に日本に写真機材が初めて輸入され、…幕末から明治にかけて激動の時代の人々や街が記録され…」、1998年に創設されて以来、「…外交官の洞察力は、この国に根ざしている文化、芸術、信条に関心を持つ多くの人々を時には驚愕させ、時には楽しませてきました」と述べる。

 河野太郎外務大臣は祝辞文を寄せている。「…明治期の変革の息吹をうけて生まれ、今日も変革を続ける日本の魅力・強みを日本人に再認識させる機会を与えてくれるでしょう。本写真展が外交官たちの日本への深い理解、共感、愛情を示すものとなることを期待します。…」

 テープカットの後、ゆっくり観覧に移る。会場の鶴翔閣は1902年完成の原三溪の旧宅の平屋で畳敷きが基本、板張りの廊下を含めてスリッパも禁止の純和風家屋である。この伝統的空間に写真と解説を載せたパネル(58cm×71cm)を畳の上に、見やすいように斜めに立てて設える。ガラス戸越しに入る光が写真を柔らかく照らし、目を上げると庭の景色が飛び込んでくる。

 高円宮妃殿下は「光あれ」の一点を出展された。明治記念館玄関の16弁菊花形の笠ほか4種の照明器具を配した、幻想的な写真である。その解説に「明治4年に横浜市に日本初のガス灯が設置され、明治15年に一般の人が見られる最初の電灯、アーク灯が銀座に灯された。…」とある。

 中曽根選考委員長の写真は「碓氷第三橋梁、日本の近代遺産」。新緑の青空の下の碓氷峠に掛かる鉄橋を上面に、その案内板(旧信越本線の碓氷第三アーチ、昭和45年1月1日)を下面に配した記録型の作品である。

 実行委員長プンナーク大使の写真は「歴史遺産と現代の大阪」、大使夫人は(新宿御苑と思われる)「日本庭園と高層ビル」である。

 ついで高円宮妃殿下メモリアル賞に選ばれた「池に浮かぶサクラ」。画面いっぱいに水面に浮かぶサクラ一輪。日本を代表するサクラを、意外な構図で表現している。

 グランプリには「伝統と携帯電話の調和」が選ばれた。米国フィラデルフィア製の大きなコーヒーミル?が展示されている脇で、和装の女性が携帯電話を操作している。アンバサダー賞には「母と子」が選ばれた。

 選考委員会スペシャル・メンションの作品は次の8点である。「献身-神聖な神輿を担ぐ信奉者」、「静かな雨粒、高野山」、「開港後、明治時代に著しく発展した横浜港」、「改革と進化、小樽」、「美しい日本の発見」、「和尚曰く、よく撮れているよ」、「あなたがランボルギーニを愛するなら」、「あなたの選択はどれですか」。題名は出品者が付したもの。

 さらに関心をお持ちの方には、『写真展図録』がある。「にっぽん-大使たちの視点写真展」実行委員会事務局、☎03-3543-0156またはファックス03-3543-0157までお問い合わせいただきたい。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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