チェロ×チェンバロとテニス

 大澤久さんのチェロと慶子さんのチェンバロ。新婚夫婦の息の合った合奏を聴いた。3℃(最低)/8℃(最高)と今季はじめての寒い12月15日、会場は文京区内の個人宅である。
 二つ折の手製のプログラムの表紙の上段に「SBF823ホームコンサート8」、その下に「大澤久&慶子(チェロ&チェンバロ)」とあり、開くと11曲の演奏プログラムと奏者紹介、裏表紙に主催者の「ご挨拶」がある。

 昨春、大澤久さんのチェロと橋本慎一さんのコントラバスによるDUO CETRAの演奏会を、三溪園の燈明寺本堂(室町時代の建造物を移築)で開催してもらった。30歳代前半、今回さらにチェロの音に格段の深みを感じる。

 大澤久さんは京都生まれの名古屋育ち。6歳からスズキメソ-ドでチェロを始め、名古屋工業大学応用化学科へ進学、在学中に管弦楽サークルの学生トレーナーをつとめた。のち東京芸術大学音楽学部器楽科チェロ専攻に入学、同大学のバッハカンタータクラブに属し、通奏低音奏者としても活躍、また自ら室内楽演奏会を主宰し多くの公演を開催、好評を得てきた。
 現在は、演奏活動、チェロ教習、ゲーム音楽の作曲、文部省唱歌の編曲と多方面で活躍している。『初心者のチェロ基礎教本』(自由現代社 2017年)を刊行、ユニークな内容で大評判という。中島顕、河野文昭、鈴木秀美、林俊昭の各氏に師事。詳細は自身のブログにある。
⇒http://ameblo.jp/mannmaru399

 チェンバロ奏者の慶子さんは岐阜県出身。3歳でピアノを始め、名古屋市立菊里高校音楽科を卒業、東京藝術大学楽理科を卒業、同大学大学院音楽研究科音楽文化学・音楽学専攻を修了した。在学中はバッハカンタータクラブに属し、合唱に参加。卒業論文はバッハの鍵盤作品について、また修士論文はバッハ作品の編曲についてである。ピアノを馬場マサヨ、長野量雄、草冬香、音楽学を佐藤里美、上田栄三郎の各氏に師事。

 久さんが電子チェンバロという楽器の説明をする。疑似的に琴の音も出せるらしい。順にエルガー「愛のあいさつ」、サン=サーンス「白鳥」、ヴィヴァルディ「チェロ・ソナタ第5番ホ短調」、エクレス「チェロ・ソナタ ト短調」とつづく4曲の作家と作品について簡潔明快に解説をしてくれる。
 馴染みのある曲が多く、30㎡ほどの会場の、すぐ目の前の贅沢な生演奏である。チェロの太い音色にチェンバロの繊細な響き。すっかり引き込まれ、脳裏の奥底に眠っていた風景の断片や、幾つかの歴史叙述が動きだすのに、我ながら驚かされた。

 約1時間の前半が終わると、主催者が「お誕生日コーナー」の説明を始める。「…12月が生まれ月の方が多くおられるので、今日は特別の趣向を凝らしました。…ハッピー・バースデーの歌がディア○○さんまで来たら、その方は立って、何日生まれと答えてください」。
 最初がスウちゃん(小宮山進)で12月14日生まれ、ついでヨッちゃん(中西芳樹)が27日、ユウちゃん(加藤祐三)が28日、ハッちゃん(石井はつみ)が29日と、1日違いが3人並ぶ。10数人の集まりで4人はかなり高い比率である。
 主催兼司会のハッちゃんが言う。「スウちゃんは私の従兄弟、ヨッちゃんとユウちゃんは向陵テニスクラブで一緒です。もう一方、向陵のケイちゃん(和久敬蔵)は1月生まれですが、当コンサートに皆勤されたので5人目に加えます。…さあ、始めます」。
歌が始まり、促されたスウちゃん、ヨッちゃん、そして私もあえなくタイミングを誤り、最後のケイちゃんだけが立派に成し遂げた。

 向陵テニスクラブではヨッちゃんがマネジャーをつとめ、ハッちゃんは会計とコート取得のためネット申込の割り当てを毎月かかさず指示してくれる。おかげで半世紀近い伝統を誇る当クラブは、立派に活動をつづけている。
 半月ほど前の12月2日に開かれた向陵忘年会には、女子プロテニスで世界を転戦後、千葉県柏市の吉田記念テニス研修センター(TTC)でコーチをつとめる大竹山理映さんもゲスト参加し、ハッちゃんとチェロ二重奏を披露してくれた。
 その忘年会の会場主である三輪亮寿・美子ご夫妻からはバースデーケーキが贈られた。クリスマス・プレゼントと誕生祝いとお年玉の3つを1つにまとめられてきた12月下旬生まれの面々にとって、晴れがましい失地挽回である。

 ヨッちゃんとはまた四谷パワーテニスでも一緒。こちらは20年ほど前、四谷のコートから誕生したテニスクラブで、私は入れてもらって12年、いまは日比谷のコートを主に使うが、発足時の名称を堅持している。長年にわたり引っ張ってくれた松浦永司会長が顧問となり、新会長に就任した若手の蒲生大輔さんは、高齢のご尊父の介護のため頻繁に帰省を続けている。メンバーの多数が、上掲のDUO CETRA三溪園演奏会に大挙して繰り出した。

 休憩後のコンサートは比較的短い7曲がつづく。バッハ「主よ 人の望みの喜びよ」、平井康三郎「平城山」、新井満「千の風になって」、山田耕筰「からたちの花」、ケクラン「20のブルターニュの歌」、ボッケリーニ「チェロ・ソナタ第17番 ハ長調」、ピアソラ「リベルタンゴ」。

 カラタチ、その鋭いトゲある木に咲く白い花、幼い日の家の勝手口沿いにあったカラタチの垣根、そこに育つ美しいアゲハチョウ…さまざまな思い出が去来する。
 
 ボッケリーニ(1743~1805年)はハイドンやモーツアルトと同世代、イタリア生まれでスペイン王に仕えたチェロ作曲家兼演奏者で、左親指を多用する演奏技法を開発したとの解説に、大きくうなずくのは演奏に日々苦労している人たちである。

 平均年齢は高いが老若男女というべき音楽とテニスを通じた交友関係。それぞれ異なる仕事や生き方をしつつ結ばれた絆は、求めてできるものではない。期せずして授かったと言うべきであろう。

【32】連載(三)ペリー周辺の人びと

 本稿「連載(三)ペリー周辺の人びと」は、岩波書店『思想』誌に計8回連載した「黒船前後の世界」の3回目の論考(711号1983年9月号)に関する紹介と解説である。多岐にわたる問題を9節にわたり描いている。

 1節ではペリー派遣を命じた第13代大統領フィルモア(Millard Fillmore、1800~74年)について述べた。彼は1849年、第12代大統領テイラー(Zachary Taylor、共和党の前身のホイッグ党、米墨戦争の総指揮官)の副大統領となるが、大統領の死(1850年7月)に伴い大統領に昇格する。
 1853年3月までの残任期間を務めたが、歴代大統領のなかでほぼ無名に近い。<膨張主義>のJ・ポーク大統領(1845~49年在任)と<消極外交>で知られるF・ピアス大統領(1853~57年在任)の中間に位置し、しかも副大統領からの昇任のため格別の政策を掲げず、「議会に対する不偏不党の立場」が特徴とされる。それは下記のプレブル号事件の議会への提出方法からも読み取れる。

 前回の末尾で触れたプレブル号の長崎来航(1849年1月)は、国交を持たない国に海難事故で漂着した母国船員の生命・財産を保護する「外交法権」(diplomatic protection、外交的保護とも訳す)の発動・執行は海軍が担うとする論理に基づく。だが、この問題はしばらく行政府内部に留められた。
 フィルモア大統領が議会に提出した第1回が、就任直後の1850年8月の下院宛で事実報告のみ。第2回の公開(教書)が1年半後の1852年4月の上院宛(外交関連事項は上院の権限)で、ペリー任命の直前である。ここで、遠い日本での漂流事件にそのつど出動するのは無駄が多いため、海軍経常費の範囲内で条約を締結し、恒常的に漂流民相互救助・交換を行うという議案が示される。

 ペリーの前任の米国東インド艦隊司令長官オーリック(1851年6月に任命)が赴任途上、旗艦サスケハナ号艦長とトラブルを起こして同年11月に更迭され、それを受けてフィルモア大統領とグレアム海軍長官がペリーを呼び出した。ペリーは57歳で郵政総監、通常なら陸上勤務で引退する年齢であり、さらに米墨戦争(1846~48年)時にメキシコ湾艦隊司令長官ペリーの部下であったオーリックの後任に納まることに抵抗があった(1851年段階で同じ准将だが、ペリーの年俸3,500ドルに対してオーリックが2,893ドル)。そこで応諾の条件として「12隻から成る堂々たる艦隊」の編成を要請する(2節)。

 3節では、1822年創設の米国東インド艦隊の歴史と、名称の由来やペリーによる改称について述べる。「東インド」という呼称は旧宗主国イギリスの「インド以東」(現在の東アジアと東南アジア)を指す言葉であり、これをアメリカ海軍が踏襲した。東インドはイギリスから見ればインドよりさらに東に位置するが、アメリカから見れば太平洋を越えた西の彼方である。
 1852年11月24日、ペリーは旗艦ミシシッピー号1隻のみでアメリカ東部ノーフォーク港を出航、大西洋を越えてアフリカ西海岸を南下し、喜望峰経由、インド洋から中国海域(イギリス植民地の香港)に着いたのが1853年4月7日。

 国務省派遣のマーシャル弁務官(公使)はサスケハナ号で上海へ行き不在、ペリーは太平天国軍(1850年に広西省で蜂起)が上海を侵攻せんとする事態を知る。4節ではアヘン戦争(1839~42年)とその終結を示す南京条約(1842年)における五港開港から、その後の上海租界の形成・発展に触れ、イギリス人商人による貿易の実態を描く。とくにインド産アヘンの密輸と産地に近い中国茶の輸出を基軸として、上海が巨大貿易港へと急速に変貌し始める状況に触れる。
 マーシャルは上海等の開港場におけるアメリカ人の保護を主張、「上海の貿易は完全にマヒ」と本国へ報告、在上海のアメリカ人保護を優先し、ペリー艦隊を上海沖に留めるよう主張する(5節)。

 一刻も早く日本へ向かいたいペリーの<日本重視>とマーシャルの<中国重視>が真っ向から対立する。本省の指示を仰ぐにも時間がない。当時もっとも速く本国との情報伝達ができたのは、イギリス蒸気郵船会社P&O社を使い書簡をロンドン経由でワシントンへ送るルートであり、返答が来るまで最速でも往復で7~8か月を要した(6節)。

 この頃からペリーは、自身の艦隊名を米国東インド艦隊(U.S. East India Squadron)から、駐東インド・中国・日本海米国海軍(U.S. naval forces in the East India, China and Japan seas)に変える。
 名称変更の理由は、①マーシャルに対して<日本重視>は海軍省の積極策であるとをすため、②日本に対しては訪問の正当性を補強するため、③本国における海軍省管轄下の自分と、国務省管轄下のマーシャルの系列の違いを明示するため、であったのではないか(7、8節)。

 最後の9節では、日本語通訳と日本事情に詳しい<顧問格>を独自のルートで探すペリーの動きを描いている。日本との条約交渉には、条約草案を練る人材と、通訳を確保しなければならない。
 ペリーは出国前から、最適の人物はカントン在住のアメリカ人宣教師S・W・ウィリアムズであると考えており、香港からまっすぐ彼を訪ねる。ところがウィリアムズは、①自分の任務は印刷所(漢文の印刷)の管理と中英辞典の編集である、②日本語は9年も前に日本人漂流民から習ったものである、③艦隊内の規律にはなじまない(安息日の確保等)等の理由を挙げ、即答を避けた。
その3週間後の4月27日付け本省宛公信で、ペリーは「ウィリアムズと中国人1名を通訳として雇った」と述べ、「ウィリアムズは中国在住のアメリカ人のなかで、もっともよく日本語を理解すると言われる」と付言する。

 本国照会の時間的制約のため、緊急対応は現場責任者の裁量権に委ねられていたこともあり、ペリーはマーシャルとの論争に決着がつかないまま(7、8節)、1853年5月10日、4隻の艦隊で江戸湾へ向けて行動を開始、第1回来航(訪日)を実現させる。
 江戸湾滞在は1853年7月8日から17日までの、足かけ10日間、アメリカ大統領国書を幕府に受取らせると、来春の再来を言い残して引き上げた。(続く)

平戸のにぎわい

 本ブログ「平戸イギリス商館」(10月4日掲載)で取り上げた400年前の英語で語られるコックス商館長日記、その内容をもう少し見ていきたい。
 日記の始まりから約3か月後の1615年8月29日夜半、イギリス船が沖合の五嶋から20リーグ(約20里=80km)のところに来ており、日本人が平戸まで案内するとの情報に、コックスはすぐ商館員イートン(W.Eaton)とチャイナ・キャプテン李旦を船に送り、葡萄酒2樽、パン50塊、豚2頭、牝鶏12羽、家鴨2羽、西瓜10個、梨1籠を届けさせた、と記す。豚は商館が特注生産していたのか、あるいは普通に飼育されていたものか。

 翌日、通訳を派遣、平戸の日本側関係者へも久しぶりのイギリス船来航を伝える。母国からの船に興奮さめやらぬ様子である。
31日、快晴、終日、激しい北風。イートンからの手紙を持って李旦が小舟で戻ってきた。船名はホジアンダー(Hoziander)号、船長(首席商務員)はコペンダール(Ralph Copendall)とある。

 船長は11通の手紙を運んできた。主なものは、①イギリス東インド会社の本社から一般書簡の写し、②同本社からバンタム在住の商館長Jurden(東インド総督)宛書簡の写し、③1615年4月15日付けバンタム発の商館長Jurdenからコックス宛書簡、④1615年4月10日付けバンタム発のWestbieからコックス宛書簡、…⑧司令官Sarisからの手紙、ソルダニア発、1614年6月1日付け、⑨東インド会社初代総裁Sir Thomas Smithからの手紙、ロンドン発、1613年11月30日付け、…⑪コックスの兄弟Walter Cocksからの手紙、ロンドン発、1614年4月6日付け。
 直近の書簡がバンタム発1615年4月10日と5カ月弱前のもの、ロンドン発の書簡は約1年半から2年近くも前のものである。唯一の通信手段が書簡であった時代であり、書簡には大きな価値があった。内容についての詳細な説明は少ないが、会社からの書簡に「一航海ごとに決算を行う方式から、単一の総合的投機事業会社に吸収された」と記している。

 翌9月1日、長谷川藤継からの手紙に、皇帝(徳川家康)からアダムズ(W.Adams、三浦按針)宛の書簡1通が同封されていた。コックスはアダムズがオランダ側と通じているのではないかとの疑いを隠さない。英蘭の競争が確執・対立へと進みかけていた時期であり、イギリス商館の存亡にかかわりかねない大問題と考えていた。

 3日、朝、快晴、静穏、すぐ激しい風に変わり荷揚げできず。ホジアンダー号の修理に必要な木材の見積もりに大工を寄こすようJn Huntに手紙を書き、豚1頭、牝鶏6羽、パン10塊、梨、大根、胡瓜を添えた。またホジアンダー号の来航を知らせてくれた五嶋の代官に、インド綿布の白バフタ布1反、黒く染めたバフタ布1反、ダッティー布1反等を贈った。また13日には平戸の王(領主の松浦隆信)への贈物としてバフタ布、ゼラ布、バイラム布、アマド布等と記載し、その実費が523匁であるとも記す。

 武田万里子「平戸イギリス商館日記」(永積洋子・武田万里子『平戸オランダ商館・イギリス商館日記』所収、そしえて社、1981年)によれば、当時のイギリス商館は中国産の生糸・絹織物・皮革類やイギリス産のブロードクロス(厚手の毛織物)を京都や大坂を中心に売っていたという。インド綿布は平戸周辺で売っていたが、主に貴重な贈答用であった。ちょうど国産綿布が全国展開する時期に当たり、最先端を行くインド綿布はその見本にもなった。

 4日、快晴、静穏。9時頃、ホジアンダー号が小舟に曳航されて平戸の避難港に投錨、祝砲(空砲)2発を打つ。オランダ商館から2発、大型船から3発を打ち答礼した。当時の商船はみな大砲を装備しており、祝砲を打ち合う慣習があった。船長コペンダールがすぐにミヤコ(京都)へ向かう予定のため、オランダ商館から送別の祝砲3発も加えられた。
 ホジアンダー号と贈物の交換がつづく。食糧は贈ったとあるが、後で支払請求をしたのかもしれない。贈物は各種のインド綿布が多く、種類も多様で、アマド(インド西部のアーメダバード)産の更紗という記載もある。

 7日、平戸の王(松浦隆信)が帰港。オランダ商館から3発の小型砲、大型船から大砲20発、小型船から6発の祝砲を打ち、…我らがイギリスのホジアンダー号も11発の大砲を打ったと記す。イギリス商館からの祝砲はなく、艦船からの祝砲数の多寡から見ても、オランダ商館の方が優位にあった。

 1608年創設の平戸オランダ商館に5年遅れで創設された平戸イギリス商館、建物や人員、貿易扱い量等でもオランダ商館が名実ともに強大であった。しかしオランダ商館長日記が第7代クーケバックルの1633年から始まるのに対し、コックス日記は1615年からと18年も先行、史料的価値も高い。
 日記の執筆は、業務上の差というより、商館長の関心のあり方、記録することをどう考えるかの差ではないか。

 10日(欄外に日曜日とあり、曜日の記載は初めて)、コペンダールが銀製スプーン2個、銀製フォーク2個、銀製の塩入れ1個等を贈物として携行することとしたとある。これは徳川家康への献上品であろうか。
 また、アダムズが来たが「彼の書記(のち甚五郎としてたびたび出てくる)は信用のおけない悪漢…、このことは彼(アダムズ)には言わずにおこう、言おうものならあらゆる運命が火中に置かれることとなる…」と微妙な言い回しで、胸中を吐露している。
 ホジアンダー号に売った物として、胡椒のほか船の修理に使う厚さ1インチの板600枚(1枚あたり3匁6分)、厚さ2インチの板100枚(同6匁6分)、厚さ3インチと4インチの板各5枚(同17匁)等(合計約3000匁)と記す。

 11日、いよいよホジアンダー号が、アダムズや商館のイートン達を乗せてミヤコ(京都)へ向けて出航、11発の祝砲を打つ。約80日間の旅で、駿府の家康を表敬し、江戸にも向かう。

 ほどなくコペンダールから書簡が届き、アダムズは先に行ってしまい、自分たちのバルク船はひどく傷んでいるとある。コックスはすぐに配船を決め、パン40個等のほか、旅路の慰みにと、自分の蔵書から『トルコ史』を入れたと記す。当時、オスマン(トルコ)帝国は西アジアから地中海沿岸一帯の覇権を握る「超大国」であり、西欧諸国が東アジアに至るには、遠回りしてアフリカ南端を経由する以外に方法はなかった。書名からコックスの見識と関心が窺える。

第20回 三溪園大茶会

 第20回三溪園大茶会が11月21日(火曜)と22日(水曜)の10時~15時、内苑の建物を使って開催された。すっきりと晴れたとはいえ、寒波襲来の中、和服姿がつづく。蓮池と大池の間の園路を西へ向かうと、右手上方に茅葺屋根の大きな建物、左奥の丘の上に三重塔が聳える。わずかに銀杏の黄色が見えるが、全体として紅葉には早い。
 三溪園大茶会は公益財団法人三溪園保勝会が主催、後援は裏千家・江戸千家宗家・遠州茶道宗家・表千家・武者小路千家の茶道5流と、横浜茶道連盟(岩原弘久理事長)及び横浜市である。今回は記念すべき第20回であり、統括は橋本一雄副園長と吉川利一事業課長が担当した。

 当日配布の『第二十回三溪園大茶会会記』は、参会者が必要に応じて参照できるポケット版で、5流それぞれの掛物、花入れ、釜、茶椀等を詳しく記している。
 その「ごあいさつ」で、内田弘保理事長は今回の開催を晩秋にしたことについて、原三溪が晩年に残した茶会記録「一槌庵茶会記」(大正6~昭和14年)に触れ、「好んで茶会を催した季節の一つが晩秋のころで…、園内にある銀杏の大木がすっかり葉を落とすころ、茶会当日まで誰にも黄金色の落ち葉を踏ませず、客を迎えた」と述べている。

 使用する建物と参加する5流は第1回(1990年)から変わらないが、開催日はそのつどの調整により、また5流の使う建物は毎回順に変わる。
 第一席は白雲邸(横浜市指定有形文化財)。内苑入口から御門をくぐって右手の三溪の隠居所である。江戸千家宗家家元 川上閑雪宗匠。
 第二席は臨春閣の住之江の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。内苑をさらに進むと視界が開け、緑の芝生と池の先に在るのが臨春閣。裏千家淡交会 横浜支部。
 第三席は同じ臨春閣の天楽の間(国指定重要文化財 紀州徳川家別荘遺構)。武者小路千家 神奈川官休会。南に三重塔を望むと、山水画さながらの光景が現前する。
 第四席は月華殿(国指定重要文化財 伏見城遺構)。臨春閣の左手の坂を上ったところに位置する。表千家同門会 神奈川県支部。
 第五席は正門に近い鶴翔閣(横浜市指定有形文化財 原三溪旧居)。遠州茶道宗家家元 小堀宗実宗匠。
 鶴翔閣はまた受付、荷物預かり、点心配付を兼ねる。

 ここで三溪の茶との関わりと三溪園大茶会について手短にふり返っておきたい。生糸輸出と製糸業の実業家・原富太郎(三溪、1868~1939年)は、1906年に三溪園を創設、近代日本画壇の育成者として知られる。また武家社会の崩壊で衰退していた茶道の再興に寄与した近代三大茶人の一人とも言われる。その茶人とは、三井の益田孝(鈍翁 どんのう、1848~1938年、三溪より20歳年長)と「電力の鬼」と言われた松永安左エ門(耳庵 じあん、1875~1971年、7歳年少)、いずれも実業界の重鎮で、交友は生涯にわたった。

 三溪が茶の湯に親しむようになったのは、仕事や美術品収集を通して鈍翁や高橋義雄(箒庵 そうあん、1861~1937年)との交流を得たことであったと言われる。その関係の一つが、1872(明治5)年創設の官営富岡製糸場の払い下げを1876(明治9)年に鈍翁の三井家が受け、それを1902(明治35)年に三溪の原合名会社が引き継いだ(~1938年)ことである。

 三溪を茶の世界に導いた鈍翁は、今日も続く大師会(西の光悦会と双璧)を1896(明治29)年に始めた。前年に狩野探幽旧蔵「弘法大師座右銘十六字一巻」を入手し、品川御殿山の自邸内に大師堂を建設する。ここで開かれた大師会茶会は、当時、盛行していた園遊会に倣い、茶会という枠を越えて政界、官界、実業界にわたる多数の名士を招待したため、「招待されねば面目立たぬ」とまでいわれた(齋藤康彦「近代数寄者の大寄せ茶会と社会文化事業」)。

 一方、三溪が主催する初の茶会は、奇しくも100年前の1917(大正6)年12月23日である。三溪50歳、鈍翁の大師会に遅れること21年、園内に新築した蓮華院一槌庵(いっついあん)で開かれた。これは三溪みずからが設計した茶室で、庵名は鈍翁より贈られた水指「一槌」に由来する。正客は鈍翁、次客は箒庵、三客は岩原謙庵、詰は梅沢鶴叟、「懐石は総てお手製、…大寂び趣向にて如何にも山庵の御馳走らしく…」とある(箒庵『東都茶会記』)。
 三溪の茶は、概して瀟洒・古雅・閑寂という言葉で表されるように、気取りのない、侘びた趣の道具や設えが特徴と言われる。茶会の規模も大を求めない。ただ一度、内苑の完成を記念して1923(大正12)年4月、園内で鈍翁の率いる大師会を開催した。

 それから間もない9月、関東大震災が襲い、横浜は壊滅的打撃を受ける。三溪は震災復興に全精力を注ぐも、その途上の1939(昭和14)年、この世を去る。享年71。さらに戦災、本牧一帯の占領軍接収とつづき、三溪園は荒れ果てる。
 1953(昭和28)年、財団法人(理事長は横浜市長)として復活、新たな一歩を踏み出す。これ以降の三溪園に関しては、財団法人三溪園保勝会『三溪園100周年 原三溪の描いた風景』(2006年)、同『財団設立50周年記念誌 三溪園・戦後あるばむ』(2003年)に、また2007年に公益財団法人(内田弘保理事長)となって以来10年の歩みは、公益財団法人三溪園保勝会『名勝三溪園保存整備事業報告書(中間)』(2017年)に詳しい。

 1958(昭和33)年10月22(水)、23(木)、三溪園は重要文化財修理完成と横浜開港100周年を記念して、横浜茶道連盟(小髙一朗理事長)の企画提案、財団法人三溪園保勝会(理事長は平沼亮三市長)主催で「重要文化財修理完成記念 三溪園大茶会」を実現させる。ここに5流家元(千宗左、千宗室、千宗守、小堀宗明、川上宗雪)が勢ぞろいした。

 平成に始まった三溪園大茶会は、三溪以来の長い伝統を伝える貴重な財産である。それには今年12月3日で開催680回を迎える横浜茶道連盟(昭和7年創立)主催の「横濱茶會」(戦後は三溪園で開催)の功績が大きい。

 公益財団法人の定款第3条(目的)に「国民共有の文化遺産である重要文化財建築物等及び名勝庭園の保存・活用を通じて、歴史及び文化の継承と発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信する」とある。三溪園大茶会は、これにもっとも相応しい行事の一つである。

三溪園と本牧のまちづくり

 2017年11月11日(土曜)、横浜美術館円形フォーラムにおいて原三溪市民研究会・横浜美術館・三溪園共催の第4回シンポジウム「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」が開かれた。昨年11月12日(土曜)開催の第3回シンポジウム「原三溪と本牧のまちづくり」を継ぐものである。

 昨年の第3回シンポジウムの記録及びその開催者の原三溪市民研究会の誕生の経緯については、本ブログ「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年11月21日掲載)に述べた。役員(廣島亨会長、藤嶋俊會副会長、速水美智子事務局次長、内海孝顧問、猿渡紀代子顧問)も昨年と同じである。
 速水さんの司会で下記の通り4氏の報告(各20分)の後、猿渡さんがコーディネーターをつとめてパネル・ディスカッションが行われ、最後に廣島会長の挨拶があった。その記録を簡単にまとめておきたい。

 (1)吉川利一(三溪園事業課長)「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」は、戦後の1953(昭和28)年に生まれた財団法人三溪園保勝会による管理運営の歴史をまとめ、2007(平成19)年、国の名勝指定を受けた公益財団法人としての三溪園の活動を中心に、法人の定款3条(目的)を引いて演題を「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」として話した。とくに「蛍の夕べの子どもむけイベント」「ザリガニ釣り」「スタンプラリー」「夏休み子どもアドベンチャー」、「夏休み子どもパスポートの発行」等、近年の新たな取組の一つとして、未来を担う子ども向けの諸企画を紹介した。

 (2)當麻洋一(本牧神社宮司)「受け継がれる二つの価値~形あるものと形なきもの~」は、本牧神社の例祭に際して行われる特殊神事「お馬流し」(神奈川県指定の無形民俗文化財、室町時代創始と言われる)と本牧神社の場所の変遷について、2種の写真付き資料を使って語り、茅で作る馬首亀体(首から上は馬、胴体は亀の形)を海に流し地域の平安を祈る神事、そして関東大震災から戦後接収、海岸埋立に伴う神社の場所の変遷を明らかにした。

 (3)鬼木和浩(横浜市文化観光局文化振興課施設担当課長)「本牧・三溪園の文化資本を紡ぐ<ストーリー>」は、近代の本牧に住んだ画家(下村観山ほか)と作家(谷崎潤一郎や山本周五郎ほか)を丹念に取り上げ(資料の<本牧・三溪園 文化年表>を参照)、「…芸術に関するこのような記憶が、この地に創造性のオーラをまとわせ、さらなる芸術家を招き寄せ、…<美>を守り、<美>を育む遺伝子が一貫して受け継がれている…」とする。文化芸術基本法の改正により、文化と観光・まちづくりの分野の連携が期待されるようになったとも指摘する。

 (4)内海孝(東京外国語大学名誉教授)「本牧遠近考」は、当日に配られた「横濱全図」(『風俗画報』明治35(1902)年10月号、全図とは前年の市域拡張により本牧等も横浜市に編入した地域を指す)を資料として、横浜市域の配置とそのなかの本牧の位置を探ろうとする。すなわち前回のシンポジウムを引き継ぎ、三溪園草創期に焦点を当てる。

 報告のあと、休憩を挟み、猿渡さんの名司会によるパネル・ディスカッションが続いたが、報告の補足が中心であり、その趣旨は上述のなかに含めた。
ついで参加者から2つの意見開陳があった。(1)本牧ツアーのガイドをつとめた男性は、本牧は衰退しつつあり、そのまちづくりに一番重要なのは地下鉄(みなとみらい線)の延伸であり、それを抜きに今後のまちづくりは語れないと述べる。(2)横浜出身で現在はカナダで旅行業を営む男性からは、三溪園はSankeienと表示されて有名だが、公園かミュージアムかカテゴリーが分かりにくい(三溪園のホームページ英文版や英文リーフレットにはSankeien Gardenと明示してある)とした上で、外国人客の比率等の具体的質問があった。

 報告と会場発言のいずれも、たいへん興味深かかったが、残された次の課題も明らかになったように思う。昨年の第3回「原三溪と本牧のまちづくり」は、原三溪を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」が含意されているが、今回の「三溪園と本牧のまちづくり」は誕生して110年を超える三溪園を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」である。その違いをもうすこし敷衍すると次のようになろう。
 前者は原三溪(富太郎、1868~1939年)が養祖父・原善三郎の購入した本牧三之谷に鶴翔閣を建造して野毛山から移り住み(1902年)、約20年をかけて作り上げた三溪園とその位置する本牧のまちづくりを語り合った。言い換えれば、三溪園の<草創期>、横浜の<成長期>を探ったものである。

 これに対して今回は、三溪園(1923年に完成)を主体(ないし主語)とし、その後の約100年を対象としている。したがって三溪園の完成直後に起きた関東大震災による壊滅的被害と震災復興に全力を投入した三溪、三溪没後の戦後と戦災復興、駐留軍の接収時期の約半世紀にわたる<五重苦>については十分に触れられなかった。<五重苦>とは、①関東大震災、②昭和初期の経済恐慌(横浜経済の中心が東京に移る)、③戦争と空襲、④占領と接収、⑤人口爆発である。この時期を<受難期>と呼ぼう。
この<五重苦>を克服して、1965年の「横浜六大事業」頃を期に<再興期>に入り、それから半世紀が経過した。<受難期>を飛ばし、その後の<再興期>に直行したのが今回のシンポジウムであった。

いま人口爆発はピークを打ち、横浜は人口減少の<成熟期>へと向かう次の段階にある。歴史は日常と直接の関係を持たない面があるとはいえ、やはり昨日があっての今日であり、明日である。文化や歴史を活かしたまちづくりとなれば、歴史の大局を把握したうえで、将来に向けたまちづくりを構想・推進することとなろう。
今回のシンポジウムでも多くのことを学ばせてもらった。開催者にとっては、シンポジウムの副題にある<そのヒントを探る>ためにも有益であったに違いない。最後の廣島会長の挨拶から、次に向けた取組への情熱を強く感じた。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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