【28】連載「幕末開国考」

 『現代中国を見る目』(講談社現代新書 1980年)を書き終えると、すぐ広域アジアの近代史研究に復帰、『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)、論考「植民地インドのアヘン生産」(1982年)の延長上の課題にエネルギーを注いだ。
 とりわけ『イギリスとアジア』の第9章「日本のアヘン問題」で書き残した課題が最大の関心事であったが、研究を進めるにつれて、課題はさらに拡大していった。

 1981年12月、コンファレンス「世界市場と幕末開港」が3日間にわたり開かれた。東京大学経済学部の経済史学者が中心となり企画、部外者の私も招かれた。著書や論文で、「19世紀アジア三角貿易」について述べていたからであろう。その報告書が石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』(東京大学出版会 1982年)であり、6本の報告とそれぞれのコメント・討論を収める。
 すなわち関口尚志「問題提起-開港の世界経済史」、毛利健三「報告一 イギリス資本主義と日本開国-1850、60年代におけるイギリス産業資本のアジア展開」、楠井敏朗「報告二 アメリカ資本主義と日本開港」、権上康男「報告三 フランス資本主義と日本開港」、加藤祐三「報告四 中国の開港と日本の開港」、石井寛治「報告五 幕末開港と外国資本」、芝原拓自「日本の開港=対応の世界史的意義」である。
 このコンファレンスは10年前の1971年5月に開かれたシンポジウム「世界資本主義と開港」(この書名で1972年に学生社から刊行)やその後の著書等を受けて、「いま必要なのは単なるアイディアの開陳ではなく、実証研究の推進に裏づけられた新たな問題点の指摘…」と狙いを定めている。

 私の「報告四 中国の開港と日本の開港」(193~223ページ)は原朗氏の司会で、加納啓良氏と竹内幹敏氏によるコメントと討論(~244ページ)がつく。報告内容は、①問題の所在、②アジア三角貿易にかんする従来の研究、③統計資料について、④インド財政とアヘン収入、⑤貿易統計、⑥日本開港時の東アジア市場の6項に、コメントで⑦アヘンの持つ意味、⑧通商条約への諸段階、⑨アジア三角貿易の諸相を補足して、計9点である。
 うち②は研究史の整理だが、とくに同時代人のK・マルクスが1858年に『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』紙に書いた4つの論文について、正確な現状分析であると同時に多くの事実誤認を含むと指摘し、それを正すためには何よりも統計を正確に把握することとして、③、④.⑤によりインドのアヘン生産・貿易とアジア三角貿易を詳論した。とくに表1「インド産アヘン-輸出量とそれに伴う植民地政府の財政収入」が行論に深く関連する。

 報告要旨を事前に渡してコメントを得たため、加納氏からは、植民地インドネシア政府がベンガル・アヘンを独占的に輸入して、特定の請負商人に売却、それがライセンス収入を含め税収の19%と高い比率を占め(1860年の事例)、その一部は本国へ送金されていた等の新しい知見を得ることができた。

 なお本書には次の4点の書評があり、関心の高さが伺える。石井孝(『日本史研究』 1983年7月)、中村哲(『歴史評論』 1983年7月)、杉山信也(『社会経済史学』1983年12月)、杉原薫(『土地制度史学』 1984年7月)である。

 もう1つ書いた論考が、「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸問題を中心として」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1983年)である。遠山茂樹館長は、本誌創刊によせて「…横浜という地域の考察にとどまらず…世界近代史と日本近代史との相互影響・相互対立の接触面を代表し…館外研究者の成果も本誌に反映させたい…」と述べる。拙稿がこの創刊号の巻頭論文となった。
 本稿では論点の中心をアジア三角貿易から政治・外交史へと拡大し、日本史の領域に本格的に踏み込んだ私の初の論考である。すなわちペリーとの日米和親条約(1854年)から1858年7月29日(安政五年六月十九日)の日米修好通商条約(「安政条約」と略称)に到る外交の経緯を整理したうえで、同時代にアジア諸国が結んだ各種の条約(とくに中国が1858年に結んだ天津条約と1860年の北京条約)と比較し、安政条約のもつ不平等性は「ゆるやかで限定的」として、とくにアヘン禁輸問題に焦点を当てた。
 これまで学界で話題に上らず、したがって先行論文が皆無の、幕末日本におけるアヘンをめぐる問題である。日米和親条約(1854年)以来4年間にわたる各国との外交交渉におけるアヘンについて分析した。なお最終の安政条約に盛り込まれたアヘン禁輸は、ハリス側からの強い要請であった。
 モルヒネを含有するアヘンは最強の鎮痛剤であり、同時に習慣性を持つ麻薬である。鎖国中の日本では三都(江戸・京都・大坂)の漢方医が前年の使用実績を長崎奉行に報告し、会所貿易により唐船(中国商船)と蘭船(オランダ商船)に発注するという、厳しいアヘン統制を敷いていた。

 石井孝『日本開国史』(1972年)は、同じ1858年に結ばれた安政条約(日米)と天津条約(中英)の比較のなかで、内地旅行権、関税行政への外国人の介入の有無等4点を挙げている。私は天津条約が第2次アヘン戦争の中途で結ばれたもので、この戦争の最終条約である北京条約(1860年)と一体のものと考えるべきとし、賠償金の有無、アヘン条項、開港場における外国人側の自治権の有無等4点を追加し、そのなかでアヘン条項の重要性を論じた。
 安政条約締結の直前、ハリス米総領事(のち公使)は、米国と通商条約を結べば多くの利点があるとする演説「日本の重大事件に就いて」(1857年12月12日)を江戸城で行い、その一つとしてアヘン禁輸を強調した。本稿13ページに掲載の「条約一覧」に示した通り、米シャム条約(1833年)、米中望廈条約(1844年)以来のアヘン禁輸策を踏襲した主張である。

 ハリスの主張に対して幕閣たちは、アヘン禁輸を当然とする、あるいは論点としては軽視という態度をとる。本稿の注170で「…(アヘン)戦争の原因がアヘン貿易にあるという点を(幕閣たちは)どこまで認識していたか、これは面白い課題…」と述べている。(続く)

【27】連載「植民地インドのアヘン専売制」

 拙稿「19世紀のアジア三角貿易」(『横浜市立大学論叢 1979年)及び拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)において、イギリス議会文書の貿易統計からインド産アヘンの輸出先や箱数・価格等を分析し、これが19世紀アジア三角貿易を構成する重要な商品であることを証明した。
 しかし、まだ課題があった。インド産アヘンの生産の仕組み、とくにベンガル産アヘンの専売制の問題である。専売制は日本でも戦後もしばらく塩やタバコ葉生産等で行われており、植民地台湾では樟脳生産等で採用されていた。政府が独占的に生産から販売までを行い、競争者を排除すると同時に、得られる利益を国家の税収に充てる制度である。

 イギリスから自宅へ膨大な資料コピーを送ったが、肝心のイギリス議会文書(BPP)の植民地インド関係文書がバラバラで困っていたところ、幸いにも復刻版が東京大学東洋文化研究所図書室にあることが判明した。
 久しぶりに古巣の書庫に入り、関連の巻を見つけては必要箇所をコピー、分析するにつれて他の関連個所も必要になるという作業を何週間かつづけた。こうした史料収集を通じて書いたのが、「植民地インドのアヘン生産-1773~1830年」(『東洋文化研究所紀要』第83冊 1981年)である。序文にあたる「問題の所在」をふくめ、全4章からなる。

 長めの第1章「問題の所在」では、アヘン生産・貿易が近代史のなかで軽視されがちな理由として次の4点を整理し、統計資料の活用が不可欠と述べた。
 1)アヘン戦争(1839~42年)は有名な事件ではあるが、その原因となったアヘンの生産・貿易の実態と仕組みが体系的に把握されておらず、1つの政治的事件の把握にとどまっていたこと、加えて近代化の先導者たるイギリスがいつまでもアヘン生産・貿易に従事してはいなかっただろうと思われていたこと。
 2)日本はアヘン被害をほとんど受けていないと思われ、日本近代史では取り上げられることがなく、世界史との関連でも考える想像力に欠けていたこと。
 3)資本主義発展とアヘン生産・貿易とのイメージがマッチしなかったこと、とくに資本主義分析の始祖とされるK・マルクスが『経済学批判への序説』等で対外貿易を省略せざるを得ないとして言及せず、それがマルクス史学の影響の強い日本の史学界に浸透していたこと。
 4)日本においてアヘン生産・貿易の統計資料がほとんどなく、その制約から問題意識が薄かったこと、しかしアヘン生産・貿易に関する膨大な史料があるイギリス等においても統計資料が十分に活用されなかったことを考慮すると、世界の史学界に広く資料を生かす問題意識と手法が欠けていたこと。
 以上のように先行研究全般を整理したうえで、H・B・モース、E・オーエン、M・グリーンバーグ等の個別の先行研究を点検し、長期にわたるインド産アヘンの生産と輸出を統計により包括的に捉えることの意義を述べた。

 第2章「19世紀アジア三角貿易の基本構造」は、上掲の拙稿を踏襲したうえで、次の3点を補足した。(ア)19世紀後半の中国の輸出入における輸入品の首位が、アヘンから綿製品に代わり、輸出品の首位が茶から絹へ代わったこと、(イ)減少するアヘン輸入に対して1887年から中国海関でアヘン釐金を課すこととしたこと(なお中国海関の総税務司はイギリス人の初代R・ハートが長く勤めた)、(ウ)インド産アヘンの輸出額と植民地インドの財政収入が平行関係にあり(とくに1858年の天津条約でアヘン輸入が合法化されて以降に顕著)、インド輸出総額に占めるアヘン輸出の比率とインド財政収入に占めるアヘン専売収入の比率は、ともにきわめて高いこと。

 第3章「ベンガル・アヘンの専売化(1773-1830)」は本稿の核心部分である。これを統計資料の関係から、①1773~1791年の18年間、②1792~1808年の16年間、③1809~1830年の21年間に分けて分析を進めた。ベンガル・アヘン専売化(ほかに塩も)が始まる1773年は初代総督ヘースティングス就任の年であり、彼の専売生産の狙いと効果を考察した。アヘン専売化により、三大管区(ベンガル、マドラス、ボンベイ)のなかでベンガル大管区の税収が飛躍的に伸びる。

 第4章「マルワ・アヘンの成長」は、中央インドの藩王国で作られるマルワ・アヘンが安値で好みに合うため中国市場で人気が高まり、輸出量は1821年を境にベンガル・アヘンを凌駕する。その脅威に対抗して取られたマルワ・アヘンへの通過税措置(輸出港に至る陸路で課す)について分析した。
 イギリス東インド会社の果たした役割(貿易、税収、軍隊等)が徐々に変わり、貿易業務からの撤退=インド貿易自由化(1834年)、インド統治改革法(1858年)によるイギリス東インド会社の解散とインド帝国(イギリスの直轄支配)の成立へと進む中で、専売制ベンガル・アヘンとマルワ・アヘンに対する通過税措置を両立させ、アヘン生産・貿易は安定して高い位置を占める。
 以上が本論考の主な内容である。

 同じころ私は違う角度からの論考を発表した。1つが「<大正>と<民国>」(『思想』誌 1981年11月号特集「1920年代:現代思想の源流」)で、同じ1912年に始まる<大正>と<民国>という元号に象徴される日中両国の歴史を、関係性と対比性の両面から把握しようと試みたものである。

 すこし毛色の変わった論考が「都市空間における線と面の意識」(『横浜市立大学総合研究』第1号 1982年)である。開港直後の横浜外国人居留地では区割した「面」(ロット)に番号を付して賃貸に出し、日本人町には通りという「線」に名前(中心となるのが本町通り)と番号を付したことに着目した。
 同時期のイギリスはリーズ市の事例を挙げつつ、農村の「面」に付した名前から、都市化に伴い徐々に「線」の名前(と左右に番号を付す)へと進化した過程と対比した。また外国人の紀行文には、神社等の描写で「奥」の思想への関心が強いことを挙げた。
この2つの論考は後に「文明史」や「横浜学」の分野を開拓していくなかで、新たな展開を迎える。(続く)

【26】連載「現代中国を見る眼」刊行

 イギリス滞在中の1978年、講談社現代新書担当の久保京子さんから執筆依頼が来た。書名案は『現代中国を見る眼』、1980年中には刊行したいとある。
 この新しいテーマは、『イギリスとアジア』(岩波新書 1980年)とも『紀行随想 東洋の近代』(朝日選書 1977年)とも接点がほとんどなく、8年前刊行の『中国の土地改革と農村社会』(アジア経済出版会 1972年)やW・ヒントン『翻身』の訳書(共訳 平凡社 1972年)等の延長上にある。
 書名案から推すと、「現代中国史」でもなければ「現代中国論」でもなく、「現代中国をどう見るか」らしい。言い換えれば、中国の長い歴史、広大な国土・膨大な人口をはじめ、現代中国の現状分析に至る「対象」の記述も必要だが、一方で日本人をふくむ外国人の中国観(中国を見る主体)とその歴史をたどることも必要となる。これは大変だぞと腹をくくった。

 折しも中国は1878年12月の鄧小平による「改革開放」政策宣言により急速に変化し始めており、その政策内容や今後の展開も見極めにくい状況下にあった。また文化大革命(1966~76年)の評価が大きく揺らいでいた。
 こうした時に「現代中国を見る目」をどう描くか。まず日本人の中国観を述べ、ついで長い中国史のなかの現代の位置を確かめ、中国の若者の動向を通じて現代中国の現状を総括、見えにくい将来展望を書こうと考えた。私にとって同時代まで含む歴史書の執筆は初めてである。
 刻々と変わる中国の現状を分析・意見交換する「二四の会」の末席に加わっていたのが幸いした。第一線のジャーナリスト(特派員経験者等)や学者・研究者が第二・第四土曜の午後に集まる。ここで多くの示唆と知識をいただいた。

 本書の冒頭は、新中国成立前後の新聞記事を参考にした。1949(昭和24)年1月31日の北京無血開城について、「中共軍は31日午後正式に北平に入城した(AP=共同)」(朝日新聞)と2行だけの報道である。今では想像もつかないが占領下の日本の新聞は朝刊だけで、それも1枚の2面のみである。約8か月後の10月1日、中華人民共和国の成立を伝える記事も小さい。トップ記事になるのは10月14日の「国府、広東を放棄、中共軍、三方面から包囲」である。
 この新聞報道から分かる通り、「…日本の敗戦時に約400万の日本人(軍人と民間人)がいた中国、親戚をふくめて誰かが中国滞在の経験をもつ身近な中国では、すっぽり抜け落ちたこの4年間(1945~49年)に大変革が進んでいた…」と述べ、日本人の中国観に大きな断絶があることを示した。

 第一章「中国―その時間と空間」には、「1 <歴史>の重み」、「2 中国は大きい」、「3 中国は小さい」の3節を設けた。20世紀イギリスの中国賛美論者の代表と言えるG・F・ハドソン『ヨーロッパと中国』を挙げ、中国に対する「優れた古典と遅れた現代」観を見る。とくに過去1300年にわたる科挙制度をイギリスが植民地インド統治のために導入、1855年(アヘン戦争勝利の13年後)にはイギリス本国の文官登用試験法のモデルとして導入したことを述べた。
 中国の国土面積は日本の約26倍、四川省だけでも日本より広いが、可耕地(農業適地)は国土の約10%に過ぎない。日本の約9倍の人口(10億と言われた)の約8割を農民が占める。彼らは省-県-人民公社-生産大隊-生産隊という行政組織の末端である生産隊(平均200人)で生きており、1つの生産隊の農地はわずか20ha(約450m四方)。農民の「中国は小さい」と言わざるを得ない。

 第二章「新中国、三つの<経験>」には、「1 耕す者に土地を」、「2 中華人民共和国の成立」、「3 文化大革命は何であったか」の3節を入れた。1945年以来、中国農民にとって切実かつ基本的な課題である<土地改革>を扱い、1945年からの国共内戦期に主に華北の解放区で行われた改革が、新中国を成立させる大きな政治的要因となったことを述べた。
 「2 中華人民共和国の成立」では、前述のボトムアップの華北解放区の政治勢力と、広範な統一戦線の形成による政治勢力の総和として、新中国が誕生したと述べ、ついで「3 文化大革命は何であったか」で新中国成立後の最大のイベントである文化大革命を取り上げ、これら<三大経験>を総括した。

 第三章「人間と組織をどう生かすか」では、現代中国の組織特性を見るため、「1 自力更生とモデルの是非」、「2 工作団方式」、「3 幹部と大衆-政治の三層構造」の3節を設けた。「工作団方式」は精選した幹部を中央から各地に派遣してモデル事業を実施する方式であり、とくに1948~52年の土地改革推進期と、1956~58年の農村合作化(人民公社建設)の時期に大きな役割を果たし、派遣幹部(全人口の約2%)と在地の幹部候補生(全人口の約10%)が共鳴したことの意義を述べた。
 文化大革命は都市部の青年を中心に展開され、ここで幹部と紅衛兵ら幹部候補生を結ぶ意見表明の媒体として壁新聞が大きな役割を果たしたが、ポスト文革期の1980年3月、壁新聞の自由を憲法から削除する決定がなされ、これにより若手を中心とした幹部候補生のエネルギーが遮断されたと述べた。

 第四章「若ものたちの現在と未来」は、こうした鬱積した状況下の若者たちの現状分析であり、「1 世代差-乞食をめぐる論争」、「2 迷信に走る青年」、「3 自信喪失と自覚」の3節を設けた。
 現状分析には新しい資料が不可欠だが、アンケート調査やインタビュー等の直接取材は難しい。そこで新たに日本に入り始めた中国の地方紙や『中国青年報』紙、『中国青年』誌等を材料とした拙稿「中国の新聞のおもしろさ」(『世界』誌1980年8月号の「論壇」所収)につづき、これら紙誌の投書欄に出てくる若者たちのホンネと大人の解説等を主な資料とした。個別の事例は本書に譲る。

 第五章「<四つの現代化>の課題」では、「1 なにが問題になっているのか」、「2 農業は遅れているか」、「3 工業は成長するか」の3節を設け、現状を分析したうえで現代中国の近未来を考えた。全国に35万の工業企業があり、その所有形態は国営工業、農村人民公社の社隊工業(公社と生産大隊の経営)、都市集団工業の3つに分かれるが、最大の国営工業は4分の1が赤字である。
 「展望-平等と競争の二重原理」では、国営工業の赤字改善を目ざす企業間競争と農村人民公社での「五定一奨」等を取り上げ、個人間平等と企業間競争による生産性向上という二重原理の相克を述べ、展望とした。(続く)

国指定名勝の10年

 三溪園は平成19(2007)年2月6日、文化財保護法の規定に基づき国指定の名勝となった。明治39(1906)年の開園から100年後である。それからさらに10年が経った。
 指定の解説文に「三溪園は、近世以前の象徴主義から脱却した近代の自然主義に基づく風景式庭園として傑出した規模・構造・意匠を持ち、保存状態も良好で、学術上・芸術上・観賞上の価値は極めて高い。また、当初の原富太郎(三溪)の構想どおり広く公開され、多数の来訪者に活用されている点も高く評価できる。」とある。
 
 国指定名勝とは、「我が国の優れた国土美として欠くことができないもの」(平成7年改正の文部省「指定基準」)であり、自然的なものから人文的なものまで指定範囲は幅広い。①公園、庭園、②橋梁、築堤、③花樹、花草、紅葉、緑樹などの叢生する場所等11種に分かれ、2017年6月現在、計402件。国指定名勝の整備には国の補助金が出る(補助対象経費の半額)。
 上記①公園・庭園のうち庭園は144件で、所在地は京都45、滋賀19の順に多く、金閣寺、銀閣寺、苔寺、大徳寺方丈庭園等があり、また岩手県の毛越寺庭園、東京の小石川後楽園、旧浜離宮庭園、六義園、さらに金沢の兼六園等が有名である。近代の庭園はきわめて少なく、東大構内の懐徳館庭園、佐倉市の旧堀田正倫庭園等、そのなかで三溪園の規模は約18haと群を抜く。 

 公益財団法人三溪園保勝会では、平成20(2008)年度から国の補助金を受けるようになり、平成21(2009)年4月、各分野の専門家・学識経験者(歴史、庭園、建築、植生、地盤工学等)にお願いして、三溪園整備委員会を設置し(担当は羽田雄一郎主事)、重要事項の審議をつづけてきた。委員の任期は1年とし再任を妨げないと規定、委員長は本年度も引き続き尼﨑博正教授(京都造形芸術大学)を互選した。

 2016年度3回目の委員会(2017年2月16日)において「名勝三溪園保存整備事業報告書(中間) 平成28年度」(384ページ、以下、報告書と呼ぶ)が提出された。委託先は㈱環境計画研究所(吉村龍二所長)、以下の5章からなる総合的かつ詳細な内容で、書名に(中間)とあるのは、これからも続くことを意味する。
 第1章 保存整備事業の経緯と目的
 第2章 三溪園の価値
 第3章 保存整備事業
 第4章 保存管理計画
 第5章 事業計画

 この報告書を踏まえて、いま三溪記念館の第3展示室で8月16日まで「名勝指定10周年記念―三溪園をまもり伝える―」が開かれている(担当は羽田主事と清水緑学芸員)。三溪園を守り伝えるため、さらには開園当初の姿に近づけるため、各分野の専門家により「名勝整備委員会」を立ち上げ、長期計画により三溪園の整備を行ってきた経緯を紹介している。その一部を抄録しよう。

 (1)整備のこころがまえ:三溪園の保存整備事業は、変化しつつある景観を、傷んだ部分の修理や、危険な箇所の保全、生長しすぎた樹木の整理などを通して、元の姿に近づけることを目的とする。それには、発掘調査や史料をもとに明らかになった事実をよりどころとして、実際の修理方針を検討し、設計、実施というように手順を踏んですすめていく。原三溪がつくりあげた作品である三溪園を守り伝えていくために、十分な検証を行いながら、よりよい姿で後世に遺していくことを目指す。
 (2)三溪の庭づくり:三溪園の土地は、先代・善三郎が別荘地として求めたもので、善三郎の逝去(明治32年(1899)後に三溪が引き継いだ。三溪が構想した庭園の設計図などは、今のところ残されていない。三溪が美術品を収集していた際に、奈良の古美術商・今村甚吉へ宛てた書簡の中に、建造物や庭石の入手について触れられているものがある。三溪園の庭づくりには、三溪自ら足を運び、目で確かめて、一木一草一石が選ばれたことがわかる。そのことを記した三溪の書簡を紹介する。
 (3)三溪園のこれから:三溪は「自然は造物主の領域」であり私有すべきではなく、公共性があるものという考えを実践した。三溪が心をこめてつくりあげた庭園は、古建築や美術品の保存も視野に入れた文化財そのものである。名勝整備事業は現在、整備委員会発足時に立てた長期計画の半ばである。多くの文化人が集い、多くの市民の憩いの場である三溪園の姿をよい状態で遺していくため、これからも丁寧に保存整備をすすめていくことが望まれる。

 これまで実施した具体的な保存整備事業は以下の通りである。
 内苑流れの整備 平成20~24年度(2008~2012)
 外苑流れの整備 平成22~25年度(2010~2013)
 植栽整備 平成21年度~(2009~) 
 内苑土塀の保存修理 平成20年度(2008)
 寒霞橋欄干の改修 平成21~22年度(2009~2010)
 観心橋の改修 平成22~23年度(2010~2011)
 白雲邸崖の整備 平成23~24年度(2011~2012)
 三重塔周辺園路の整備 平成23~24年度(2011~2012)
 亭榭欄干の改修 平成23・25年度(2011・2013)
 大池アオコの調査 平成23~25年度(2011~2013)
 白雲邸崖横穴の修理 平成25年度(2013)
 南門崖の整備 平成25~26年度(2013~2014)
 正門藤棚の改修 平成25年度(2013)
 中ノ島の木橋の改修 平成25~26年度(2013~2014)
 白雲邸倉の保存修理 平成22・25~27年度(2010・13~15)

 いずれも素通りしがちで、目立たない場所にあるものが多い。だが手を抜けば現在の三溪園はない、重要なものばかりである。三溪園の名勝指定範囲18haのうち、山林部は約10haで庭園部は約8ha、来園者が山林部に踏み入ることは稀であり、庭園部についても崖の整備等を目にすることは少ないであろう。

 日々呼吸しつつ生きている名勝・三溪園の整備には、莫大な費用と手間、そして適宜の判断が不可欠となる。整備委員会はそのための「頭脳であり心臓」である。

 近未来の差し迫った保存整備対象は、最初に来園者が触れる正門と南門の一帯である。さらに臨春閣(重要文化財の古建築)の檜皮葺き屋根の葺き替え等の時期も迫っている。2019年11月、横浜で開催予定のラグビー・ワールドカップ決勝戦と2020年夏のオリンピック・パラリンピックに間に合わせたい。

タケの開花(その4)

 三溪園の山上にある三重塔近くのタイミンチクと内苑入口近くにあるオロシマササが今年ほぼ同時に花をつけた。その観察状況や不思議な現象について、二人の生物学者(村松幹夫さんと坂智広さん)の力添えにより、これまで「タケの開花」を3回にわたって述べてきた。開花はすこしずつ拡がり、開花のピークを越えた印象を抱くが、いつまでつづくか正確には予測できない。

 私なりに素人の定期観測をつづけ、お二人の意見をいただいてきた矢先の6月20日(火曜)、17時26分過ぎから約2分、テレビ朝日のスーパーJチャンネルで三溪園のタイミンチクに関する報道があり、坂さんのインタビューへの返答に驚かされた。ご覧の方もおられよう。
 「1928年に咲いたとする記録がある」、「開花後に枯れ死した記録がある」の2点である。しかし、これらについては明確な記録がなく、村松さんの記憶だけ存在するのが現状である。この<記憶>を確かな<記録>を得て証明できないか。調べを進め、究明途上にある段階で、上記の発言はどうしたことか。

 私はすぐ坂さんにメール連絡した。念頭をよぎったのが、長い時間の取材を短時間に編集するさいに、記者(またはテレビ局)の都合の良いように発言の一部を切り取るやり方である。
 
 坂さんから返事がきた。…言葉を選びながらかつ「…と記録がある、と新聞で見られますが」とか「…一般に開花後は枯れると信じられているが」など、しっかり否定なり補足説明をつけておりましたが、その一部だけが切り取られて放映されました。…記者の描くシナリオに合わせた場面が使われました。マスコミの切り取り方に不用意に対応した未熟な点、深く反省しております。…
 
私は次のように返信した。「…やはりテレビに都合の良いシナリオに乗せられたのですね。…その記者にまずは厳重に抗議し、その理由をしっかりと伝えてください。もちろん放映したものを撤回することは不可能ですが、記者のこれからの取材・編集方針にはどこかで役立つでしょう。…」

 これと並行して、以前からの課題である村松さんの記憶に関して、放送当日の20日に、ご本人から丁寧な返事をいただいた。以下は21日付けの私の返信の末尾である。

 ご丁寧な説明を拝受しました。ありがとうございます。…
とくに後段にある三溪園のタイミンチクに関して…現状では次のように考えるのが妥当ではないでしょうか。

 ア)生物学者の発言は重要ですが、発言者が不明で文献記録もなく、村松さんの記憶にすぎないとすれば、十分な証拠(エビデンス)にはならない。

 イ)三溪園のカンザンチクが昭和初期に枯れ死したという話(=発言者不明、文献記録なし)も同様に十分なエビデンスにはならない。…カンザンチクとタイミンチクは近い仲間であるが、もと2種あって枯れた種があったのか、カンザンチクがあったのか、カンザンチクとタイミンチクの混同なのかが、結局不明確のままになったという村松さんの注釈は記憶にとどめるべきであろう。

 ウ)開花や枯れ死について生物学者の記録がない現在(発言はあったとの後の記憶のみが存在する)、唯一考えられるのは新聞報道、地域の新聞である『横浜貿易新報』(戦中の「一県一紙」政策により神奈川新聞となり現在に至る)の該当年に当たることです。名所三溪園の大事件なら記事になるであろう。

 ここに記載が見つかれば十分なエビデンスとなりますが、見つからなければ1928年の開花はいまだ「口伝」、「噂話」、「風聞」、「生物学者の記憶」の中にだけ存在し、事実の確認はできない、と結論せざるを得ません。
残された希望である『横浜貿易新報』の点検に待ちましょう。

 そこに坂さんからのメールが届いた。21日にテレビ朝日の記者に「抗議」した内容である。

 先だっての"スーパーJチャンネル”を…昨日改めて録画で見直してみしたが、私の話のところで「1928年に開花した記録がある」、「一斉開花の後は枯れてしまう」という形に切り出されて、90年ぶりの開花ということが強調されてしまっており、意図するところと違っていることに気づきました。私たち研究者は、論文や記録が存在してその原典にあたることができると引用してはっきりと言い切りますが、まだその歴史的証拠に行き着いていません。…今回のように「『1928年に開花した記録がある』の発言だけを切り取るのは誤りで、記録を現在調査している段階にある。その口承や記憶について、視聴者の方から新たな記録の情報が得られることも期待したい」という意図だったですね。私が取材慣れしていなかったので申し訳ありませんが。…

 竹薮が一斉に枯れてしまうことの話題性だけを期待されずに、むしろ…今後の新しい知見を是非とも第二弾としてお伝えいただければ幸いです。…

 追いかけるように坂さんからまたメールが来た。メールによる自分の抗議に対して、記者から電話があり、全く気付いていなかった、メールを読んで大変大きなミスをしてしまったことを猛省し謝罪したいと話された、とある。
具体的には話の構成を「90年ぶりの開花、何かが起こるのでは?不思議がいっぱい」という流れで組み立てたいという思いで、あの形で言葉を切り取ったことに明らかな問題があった…、メールを読んで改めて気づき、報道に関わるものとして今後襟を正して臨む、と話したという。

 なお番組に寄せられたモニターの感想では、「90年ぶりに開花、異変の前兆!?」というより、「タケの花って小さくて、こんなに地味なのだ、探しに行ってみよう」「三渓園は素敵なお庭があるから、今度行ってみたい」というものが大半であったという。また記者は「視聴者の反応がタケの花そのものに向かった自然を楽しむ心情であったことに、作り手の視点をどう置くべきかきかをしっかり考える良い機会になった」とも付言したという。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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