【34】連載「(五)香港植民地の形成」

 『思想』誌(岩波書店)連載「黒船前後の世界」の「(五)香港植民地の形成」は1984年1月号に掲載した。前回の「(四)東アジアにおける英米の存在」では、歴史的伝統・在外公館・貿易・居留民数等の面でイギリスが圧倒的に優位な位置を占めると述べた。

 これを受けて本稿は、イギリス植民地香港の形成を分析する。香港(島)は、第一次アヘン戦争(1839~42年)の結果として1842年に締結した英清南京条約により、清朝からイギリスへ割譲され、植民地となった。当時のイギリス女王の名前を冠してビクトリア島とも呼ばれる(以下、香港とする)。

 南京条約は、この①香港の割譲(植民地化)のほかに、②賠償金2,100万ドルの4年分割払い、③5港の開港(南から広州・福州・厦門・寧波・上海)、④旧来の公行(コーホン)廃止と貿易完全自由化を定めた。うち①、②、④はイギリスの専一的権益であり、①により清朝は香港の主権を完全に喪失した。なおアヘン戦争の原因である「アヘンに関する条項」はなく、「公然たる密輸」状態がつづく。なおアヘン貿易が「合法化」されるのは1858年である。

 ところが③5港開港に関しては、アヘン戦争に参戦しなかったアメリカとフランスが最恵国待遇を主張して条約を結び、権益を取得(権益の均霑・共有)する。すなわち米清望廈条約(1844年)と仏清黄埔条約(1844年)である。清朝側も複数国に恩恵(権益)を与える方が有利と判断した。

 条約に基づき、開港場に<居留地>ないし<租界>と呼ばれる特定区画(英語ではsettlement)を定めるため、列強はそれぞれ清朝の各地方政府と協定(土地章程)を結んだ。これは次回の連載【35】「(六)上海居留地の形成」に譲る。

 アメリカとフランスが5港開港にかんする権益を共有したことは、列強間の<対立>と<協調>のうち、東アジアでは<協調>が優位に立ったことを意味する。当時のイギリスはオーストラリア・ニュージーランドを(移民)植民地化していたが、東アジア全体を専一的植民地にする意図も能力も有しておらず、中国に関しては列強が<協調>して開拓する広大な市場と見ていた。

 本稿は10節に分け、主に次の5つの論点を取り上げた。すなわち(1)最恵国待遇の新展開、(2)植民地と不平等条約国の区別、(3)2種の不平等条約(<敗戦条約>と<交渉条約>)、(4)イギリスにとっての香港植民地の役割、(5)香港植民地の財政収支の特徴。いずれも先行研究では体系的に論じられたことがなく、本稿で初めて取り上げた。

 1、2節では(1)最恵国待遇の新展開について述べた。アヘン戦争の英清南京条約(1842年)に対して、上述のようにアヘン戦争に参加しなかった米仏が同等の権利(=最恵国待遇)を主張して条約を結び、5港開港場での諸権益を獲得した。最恵国待遇の複数国への適用は史上初である。

 3節と4節では、近代的な意味の国家三権(立法・司法・行政)という観点から(2)植民地と不平等条約国の区別を明らかにした。すなわち植民地は、敗戦に伴い国家三権をすべて喪失する従属性のもっとも強い政体で、外交権も宗主国が握る。これに対して不平等条約国が失うのは行政権と司法権の一部であり、立法権に相当するものは維持される。

 ついで(3)不平等条約を<敗戦条約>と<交渉条約>の2種として区別した。不平等条約という名称に惑わされたためか、史学界は条約の不平等性の内容や程度について考えずに来た。アヘン戦争敗北の結果の南京条約(1842年)と、一発の砲弾も交わさず交渉により締結に至った日米和親条約(1854年)や日米修好通商条約(1858年)とが質的に同じであるはずがない。
敗戦に伴う条約には「懲罰」として賠償金や領土割譲が伴うが、交渉を通じて結ばれた条約には、そもそも「懲罰」という概念がない。そこで私は前者を<敗戦条約>、後者を<交渉条約>と名づけた。

 以上を踏まえて、小さな図を入れた(128ページ下段)。①資本主義・宗主国、②植民地(インド・香港など)、③敗戦条約国(中国など)、④交渉条約国(日本など)の4つを掲げ、矢印で相互を結んだ簡単な図であるが、このときはまだ図に名前がなく、説明も不足していた。この着想はのちに「近代国際政治-4つの政体」へ発展させたが、原初形態を示したのは、これが初めてである。

 5節と6節では、(4)イギリスにとっての香港植民地の役割を分析した。「イギリスの宝」と言われたインドの植民地化は、ベンガル地方にインド総督を置き(1773年)、アヘン専売制を採用して徴税権を駆使することに始まるが、実態は特許商社であるイギリス東インド会社が植民地公権力の役割を担ってきた。

 こうして紅茶(中国⇒イギリス)、アヘン(インド⇒中国)、綿製品(イギリス⇒インド)の3大商品によるアジア三角貿易が体系化され(拙著『イギリスとアジア』等参照)、それを補強する対中貿易の中継地としてペナン島(1776年に買収)とシンガポールを植民地化(1819年租借、1824年買収)、その延長上に香港を植民地化(1842年)し、本国と各港を蒸気郵船会社P&O社が結んだ。

 イギリス政府が軍港としての香港の役割を重視するのに対して、貿易商たちは、以前からのイギリス広東商館の廃止、荒地同然の岩山の香港の開発、そして高い借地権料等に異議と不満を示し、多くが上海等の開港場へ移った。

 7~10節で(5)香港植民地の財政収支を分析した(史料は主にイギリス議会文書)。アヘン戦争後も戦時財政の性格が強く残り、収入面では南京条約の賠償金の一部が投入され、土地収入(土地の賃貸料)が首位、支出面では植民地官僚(総督、次官等)の人件費が首位を占めた。初期20年間の香港財政の赤字を補填したのが、同じ植民地省管轄の植民地インド財政であった。

 当時のポンチ絵には、イギリスという頭脳がインドという体を抑え、そこから東方へ腕が伸び、シンガポールが肘、香港が手首、その先の5本の指が5つの開港場を押さえるものがある。その先は太平洋とアメリカ。こうした全体構造のなかで、高い経費をかけても香港の開発は不可欠と考えられた。

 このような状勢下、ペリーの旗艦ミシシッピー号は米国東海岸の軍港ノーフォークを出発、大西洋を横断して南下、喜望峰をまわってインド洋に至ると、イギリス蒸気郵船会社P&O社のシーレーンから燃料の石炭と物資を入手しつつ中国海域に到達する。そして開発された香港でさらに物資を補給し、1853、54年の2回にわたる日本遠征への備えを進めていた。(続く)

コックス商館長の江戸外交

1616年9月1日、二代将軍徳川秀忠に拝謁できたコックス商館長は、他の有力者に関する情報を入手、4日には本多正純(老中)、土井利勝(老中)、酒井忠世(雅楽頭)に加えて、もう一人、将軍側近の安藤重信(老中)にも同じ贈物をするのが良いと日記に記し、つづけて「…今度の帝(秀忠)は帝位に就いたばかりであり、…それにスペイン人がイギリス人は海上で略奪行為を繰り返していると悪い噂を広めているから…」と理由を述べる。

 数行置いて「…皇帝やその周辺にいる要人たちはイエズス会士や聖職者に対して極端な憎悪を抱いており、我々に対して彼らに組せず、摘発せよと言う」と記す。

 また本多正純と土井利勝の用人(秘書)にも更紗や手帳類を届けた。5日には予定した通り、安藤重信のもとに贈物を届けたが留守のため、再訪を告げて贈物を託してきた。品物はほぼ同じだが、小型の姿見と薬壺の代わりにロンドンとその近郊の地図2枚を添えたとある。同じものが揃わなかったためか、意図的に替えたかは不明。

 お返しとして、江戸商人から丸々と太った豚1頭、本多正純から梨、葡萄、胡桃が届く。7日、酒井忠世と安藤重信を訪ね、ご所望の品は何でもイギリスから取り寄せると言うと、二人は機嫌よく、「できれば今日にも特許を更新して、御朱印(渡航許可証)に捺印してもらえるようにしたい」と言った。

 一方、コックス一行が江戸を離れる許可を顔の広いアダムズ(三浦按針)に取らせているが、9月9日も「明日には…」との返事ばかりで、一向に進まない。彼らはアダムズの家にカトリック宣教師が滞在しているとの噂を確認している最中と言う。

 9月8日(元和二年八月八日)、切支丹禁令が出されたが、コックスが知ったのは翌9日である。九州各地に向け、パードレ(神父)を匿ってはならず、叛けば一族もろとも死刑に処すゆえ心せよという内容である。

 コックスの江戸禁足はこれと関係していた。10日、本多正純がアダムズを呼びに人を寄こしたので、出発許可かと期待したが、これはパードレたちのことを重ねて問い質すためであった。

 11日、「皇帝はすべてのキリスト教徒を日本から追放する意図のようだ」とし、翌12日、アダムズを土井利勝宅へ行かせたが、「…イギリス人はイエズス会士や修道士たちと関わりはなく、すでに60年にわたり彼らがイギリスに留まることも許さず、見つけ次第、全員を死刑に処している…」等を伝え、彼らとは違うことを分かってもらうためであった。「…老中は一両日中に出発許可を得られるのではないかと語った」とも記す。

 13日の日記は、「皇帝は今朝、一万人の軍勢を伴い鷹狩りに出かけた」と驚きを記す。17日、仁右衛門(江戸商人)をお礼の夕食に招き、宴席に歌舞伎の一座を呼んだ。出発許可を得るため、毎日、アダムズを派遣するが、「…明日まで待て…」の返事がつづく。

 19日、向井忠勝(御船手奉行)へ数種の羅紗(毛織物)とガラスの姿見を届け、アダムズも彼に金を施したシャム産の皮革3枚と虎の毛皮1枚を贈る。話題が東南アジアのスペイン人に移ったので、イギリスとオランダは幕府の水軍を支援する用意があると伝えた。

 忠勝は将軍秀忠の信頼が厚く、船の移動では必ず随行させた。また造船技術は父親譲りで、のちに御座船「安宅丸」を建造している。向井正綱・忠勝父子は家康が国際貿易港として開港した浦賀湊におけるスペイン貿易に携わり、浦賀貿易を統括、浦賀を出航するスペイン商船の渡海朱印状を仲介していた。

 20日、やはり出発許可は得られない。忠勝の仲介で三雲屋との勘定に決着がつき、残額としてコバン25枚をイートンが受領した。つづけて一行内部のゴタゴタを記す。ジョン・ホーテリーが「娼婦にやるために更紗2反、木綿の顔拭きタオル2枚に手帳1組を盗み出し…こやつは人も知る飲んだくれで酒乱の喧嘩沙汰、経費の無駄使いも後を絶たない…」、と。

 23日、皇帝から拝領物が届いた。コックスに時服(時候に応じて着る衣服)10着、武具(甲冑)1領、イートンとウィルソンに時服各2着。

 また「皇帝から特許状を受けとった」と記す。これで平戸へ戻ることができる。ところが「自伊祇利須到日本商船、於平戸可売買、他所不許之」(イギリスから日本に来る商船は平戸においてのみ売買ができ、他の所では売買は許されない)とあり、旧来の特許状とは正反対の内容である。しかしコックスはそれに気づいていない。

 24日、長谷川藤継に暇乞の贈物として羅紗、ロシア産獣皮、硝子の姿見等を届けさせる。向井忠勝、安藤重信、酒井忠世たちから贈物が次々と届いた。明日の出発に備えて荷造りを進める。

 26日、朝10時にOrengava(浦賀、現神奈川県横須賀市)へ向けて出発、日没の2時間前にアダムズの領地のあるPhebe(逸見、へみ)に到着、アダムズの妻と二人の息子が出迎えてくれ、一泊。28日、船で三浦半島を南下して先端の三崎へ老提督の向井正綱(元御船手奉行)を訪ね、羅紗等の布、硝子の姿見を贈り、脇差を貰う。また息子の忠勝の新築邸宅を訪れ、「この人は日本で最良の友人の一人」と記す。29日、船で浦賀に戻る。

 30日、アダムズや彼の妻等への贈物を詳細に書き留める。晩方、急使が平戸のウィッカムからの手紙を届けに来た。「…ミアコ、大坂、堺では日本人は外国人からいかなる商品も買ってはならぬとの布告が出された」とあり、「…できればコックスに江戸へ戻って布告の撤回を願い出てもらいたい。…」とある。

 ここでコックスは、23日に受取った特許状の意味を初めて理解した。そこで一行の半数(ウィルソン、ホーテリー等)をミアコ(京都)へ送り出し、コックスはアダムズ、イートンとともに江戸へ引き返し、布告の撤回に動く。(続く)

佐藤行通ジー逝去

佐藤行通上人(俗名は弘)が白寿を迎え、お会いしたいと思っていた矢先、今年の3月1日、肺炎で亡くなられた。1918(大正7)年12月5日、秋田県生まれ、99歳と3か月。

我々は佐藤上人(しょうにん)と呼ぶ代わりに、尊敬と愛情を込めて佐藤ジーないし、ただジーと呼んでいた。ジーはインド語(ヒンディー語)で、男性につける尊称であり、「爺」の意味ではない。

すぐに梶村慎吾とニューヨーク在住の山崎友宏へメールを送った。後述の通り、56年前(1962年)、「広島アウシュビッツ平和行進」で33カ国を巡った仲間である。
「慎吾兄 友宏兄
佐藤ジーとお会いしたかったですね。ただただナムミョウ~ホ~レンゲキョ~。良い季節に西方浄土へ旅立たれたと考えましょう。…」

 ナムミョウ~ホ~レンゲキョ~とは南無妙法蓮華経。ジーの属していた日本山妙法寺で私の耳に深く刻まれ、折々に信者ではない私の口をついて出てくる。

ジーは陸軍航空士官学校を首席で卒業、訓練中に目に被災してパイロットの道を断念、陸軍航空通信学校に入り、のち東北帝国大学で学ぶ。1945年8月の終戦時に27歳、「降伏文書」の調印(9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号)を阻止せんと画策したが、失敗。茫然自失の日々のなか、藤井日達上人に出会い、出家した。

藤井日達上人(1885~1985年)は日本山妙法寺の創設者であり、最近の新聞で山折哲雄さん(宗教学)が書いている。「…日蓮宗左派過激派のリーダー、藤井日達上人…は、昭和6(1931)年、単身でインドに渡り、題目を唱える伝道をはじめて、ついにガンジーとの会見にこぎつけた破天荒の荒僧だった。近代の日本宗教史の上では、まさに異端中の異端児で…」(山折哲雄「私の履歴書」㉕ 日本経済新聞2018年3月25日)。

藤井上人やジーと初めてお会いしたのは1960年。安保反対闘争、原水禁運動、平和運動に邁進、カーキ色の法衣を纏い、団扇太鼓を叩きながら街頭行進する雄姿があった。

そこで知り合った林達聲上人、渋谷保教上人、菊池行広庵主ほか、多様な背景・前歴を持つ僧尼たちの、大学や学者の世界にはない考え方や感性に触れたことも、私のかけがえのない財産となっている。

安保闘争の敗北の中から「広島アウシュビッツ平和行進」が組織された。藤井上人の計らいにより、連絡事務局とした東京九段の日本山妙法寺に友人・知人が詰めて、連絡や広報活動に当たった。

掲げたスローガンは、「広島は核戦争を阻止するための象徴であり、アウシュビッツは戦争による非人道的行為をくり返さないための象徴である。広島とアウシュビッツは平和への道標である。No more Hiroshima, never again Auschwitz」。

アウシュビッツをめざす平和行進の団長がジーで、出発時(1962年)に44歳。他のメンバーは年齢順に、私(特定の宗教を持たない)が26歳、山崎友宏(カトリック)が24歳、梶村慎吾(プロテスタント)が23歳であった。終戦時は小学生と未就学児で、ジーとは親子ほどの年齢差である。この四人組は、父親と三人のドラ息子のような関係でもあったが、よく「三蔵法師と三匹の従者」に譬えられた。

1962年2月6日に広島を出発、上掲のスローガンを掲げて、アジア・東欧を行進、翌1963年、1月27日のアウシュビッツ解放記念日に収容所跡地に到着した。その後、西ヨーロッパまで足を伸ばし、ソ連・中国、計33ヵ国を経て帰国したのは、16ヵ月後の1963年6月である。準備過程から出発、帰国までの約3年間、我々四人は文字通り寝食と苦楽を共にした。

歴訪中、会計担当は山崎、写真撮影は梶村、記録をとり記事を書くのは主に私で、電送手段がなく、各地で印画した写真と記事を航空便で送り、これが連絡事務局経由で新聞社等に配信、掲載された。
帰国後、この体験の一部を加藤祐三・梶村慎吾『広島・アウシュビッツ-平和行進青年の記録』(弘文堂 フロンティアブックス 1965年)として公刊した。

4月18日(水曜)、茨城県鉾田市のジーの庵で行われる四十九日の法要に梶村と共に参列した。あいにくの冷たい雨の中、最寄りの駅まで佐藤昭子庵主が迎えにきて下さり、到着すると、なんと酒迎(しゅげい)天信上人がおられる。あの56年前、インドの日本山妙法寺の仏舎利塔のある王舎城(ラージギール)でお会いし、コルコト(カルカッタ)を経て南インドへ向かう平和行進を共にした。

祭壇中央の仏像のもとに「白寿 藤井日達 昭和59年」と記したジーの師の色紙と写真、立派な目鼻立ちのジーの遺影と位牌、そして酒迎上人の筆になる「佐藤行通院日弘上人位」の文字。

法要は、酒迎上人と昭子庵主が執り行った。上人は別府道場(寺)を守りつつ全国を飛び回る、矍鑠たる92歳。この日も慌ただしく一人で札幌へ向かわれるという。 

庵主と梶村の三人で、ジーの社会的功績や人間的魅力を語り合った。奇しくも藤井上人と同じ数え百歳で逝ったジーの人生には、目ざす理想と揺るぎない信念があった。

30余年にわたりジーと生活を共にし、最後を看取られた庵主の言葉が心に残る。「…慌ただしく旅立たれ、海外に出かけるときも同じでしたから、いまにも帰ってくるような気がします。…」

タケの開花(その5)

 今年も三溪園のオロシマササが咲いた。4月4日の朝、驚きの朗報が庭園担当の羽田雄一郎主事から入る。

 今春の陽気は例年と異なるようだ。ソメイヨシノの開花と満開が例年より10日も早く、3月下旬には散ってしまった。4月4日には最高気温26℃と夏日を記録する一方、北海道では雪が降った。異常気象が三溪園の植物にも影響するだろうとは思っていたが、それが「タケの開花」とは。もとより、これが異常気象のせいとは言い切れないが。

 確認のため本ブログの昨年分を調べる。三溪園のオロシマササとタイミンチクの開花の第一報は5月5日、坂智広(ばん ともひろ、横浜市立大学木原生物学研究所教授)さんから来た。つづけて彼の5月14日、18日付けメールには花が大幅に増えたとあり、25日には岡山から駆け付けた村松幹夫岡山大学名誉教授、木原生物学研究所の木原ゆり子さん、坂さんとともに花を観た。村松さんは日本育種学会(3月29日)で坂さんに「タケの花」の不思議を語った方で、坂さんの旧木原生物学研究所(京都時代)の大先輩である。

 6月1日掲載のブログ「タケの開花」(その2)」に、坂さんの観察記録を引用した。
「…タイミンチクの花は、すっと伸びた花穂の先端に雌しべが包まれ、それを取り囲むように雄しべ(その葯は数ミリ)3個が垂れ下がっている。開花は、同じ株の各所に、そして他の株へと確実に拡がっていたが、村松さんによれば、これが<一斉開花>の前兆なのか、それとも<部分開花>なのかを確定するには、さらに2~3週間の観察を待つ必要があるとのことである。…タケの開花は60年、90年、120年と長い周期で1度だけ起きるとされるが事例報告は多くなく、周期の年限をめぐっても確実なデータはごく少なく…現象を的確に観察して記録に残すことが重要である。」

 ついで6月8日掲載のブログ(その3)では「一斉開花」と「部分開花」の区別、タケ(学術用語でbamboo表記)とササ(学術用語でsasaと表記)の区別等に触れ、23日のブログ(その4)では長い周期で1回咲き、開花後は死滅するか否かの議論等を紹介した。

 この開花は、5月31日の毎日新聞、6月3日の朝日新聞、7日の神奈川新聞、そしてテレビでも取り上げられ、話題となった。

 そして今春、ふたたびの開花。しかも一ヵ月も早い。すぐにメールで坂さんに現場観察を依頼する。さっそく4月5日の昼、坂さんが状況を知らせてくれた。管理事務所前のオロシマササについては、「数カ所で部分的に稈が伸びて出穂開花…、また垣根の後ろには昨年よりも数は少ないが、昨年同様に地下茎で伸びた新枝が地面か出ており、10cmくらいの高さで穂をつけて開花…」
また三重塔のある丘の上のタイミンチクは、「昨年開花していた多くの株の付近で、10箇所ほど出穂開花を認め、…今日出穂開花を認めた稈も、古い稈の節から分枝して出穂しているものか、地下茎をたどった先端で新梢として株立ちしているものが出穂している状況です。イメージとしては、オロシマササと同じように、昨年の咲き残りの稈が出穂開花している状況…」とある。

 4月9日、現場で坂さんから花の生育段階や開花の場所、花を持つ部位等の説明を聞く。花は若緑色の鞘に黄色い3つの雄しべを付け、ひっそりと咲いていた。先折れした2年目の稈の直下の節や、地下茎の先端から地面に顔を出した新梢に穂がついているのも見た。

 この貴重な情報を分かち合いたい。まず三溪園のホームページで羽田さんが公表することにする。翌10日号の「三溪園だより」欄に「今年も咲きました」の標題で、2枚の可憐な花の写真と解説文が載った。

 「昨年の5~6月頃、約90年ぶりの開花といわれる話題で沸いた三溪園の竹の花が今年も開花しました。2月上旬ころから開花し始め、3月下旬ころより花数が増えてきました。画像1枚目がタイミンチクの花、2枚目がオロシマササの花です。4月9日17時頃撮影」。

 11日には坂さんから「三溪園の竹の花 観察記録(1)」と題する論考が届いた。その一部を引用する。「…イネ科タケ亜科メダケ属(Pleioblastus)に分類される、オロシマチクとタイミンチクが、どれくらいの開花周期で、開花後にどうなるのか?は全く分かっていません。これまでにしっかり観察した人が、世界のどこにもいないからです。…三渓園の歴史とともに謎をとく、科学的に大変貴重なフィールド実験です。…植物が花をつけるのは、一生のうちで最も大きなイベントです。…初めは見つけるのが難しいかもしれません。…雄しべの数が何本なのか?雌しべがどんな形なのか?花粉はどうやって飛んでいくのか?などなど、みなさんも新しい凄い発見を楽しんでください」。

 この坂さんの論考の要約を付して、「今年も咲いた“竹の花”」と題する記者発表資料を作成し、12日午後、吉川利一事業課長名で公表した。これから新聞・テレビ等の報道がつづくと見られる。

 生涯に一度、出会えるかどうかというタケの花を見に来園する方が、今年はさらに増えるのではないか。

 本ブログでも適宜、この稀有な花の推移を追っていきたい。

新刊書の紹介

 ずっしりと重い本が届いた。陳雲蓮『近代上海の都市形成史-国際競争下の租界開発』(風響社 2018年)である。帯に「世界有数の港湾都市はいかにして生まれたのか。東アジア開港場の一つとして出発した上海は、列強の租界を包含しながら都市インフラ、そして港湾を建設していく。政治経済のうねりと生活空間形成の変転を見つめた建築史の新たな挑戦」とある。

 建築史の研究者が、「政治経済のうねりと生活空間形成の変転を見つめた建築史の新たな挑戦」とあるのに目が行く。建築史が個々の建造物やデザイン等の研究に傾くなか、本書はいささか違うようだ。

 本書のいう「生活空間」は、個々の建造物、都市の区画、さらに都市全体を包含する。したがって巨大資本や国際政治・経済がからんでくるのは当然である。その解析には貿易のための港湾建設を軸として「政治経済のうねり」を掌握しなければならない。

 著者の陳さんとお会いして3年ほどになる。本ブログの「若き学友との対話」(2014年12月23日)に登場する。彼女が面識のない私に、知人二人を介して日本文のメールを送ってきた。「昨年、ケンブリッジ大学の図書館で先生のご著書を何度も拝読し、日本に帰ってから、ぜひ加藤先生にお会いしたいと思って…」。

 ケンブリッジ大学図書館を懐かしく思い出す。40年も前になるが、在外研究でリーズ市を生活拠点としたが、史料収集にはリーズ大学図書館や地域の文書館だけでは足りず、ケンブリッジ大、ロンドンの公文書館、ロンドン大学SOAS校等にたいへん世話になった。

 その成果の一つ、『思想』誌(岩波書店)に「黒船前後の世界」を連載(1983年7月~1984年7月の計8回)、その他の論考を含めて『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年、増補版ちくま学芸文庫 1994年)を刊行した。陳さんがケンブリッジ大学図書館地階の書庫で出会ったのが本書である。

 ブログ「若き学友との対話」では彼女を次のように紹介した。「都市地図を経年的に比較する図面や設計図を収集し、建造物や都市のハード面をよく知っている。建築家・建築事務所の細かい作業にも精通しており、内外の都市・建造物の調査経験も豊富にある。…加えて素晴らしい歴史的センスの持ち主で、漢文、英文、日本文(明治期の古い文体が主)の史料を発掘・収集する卓越した勘を持ち、それらを解読、論文に組み立てる。…ケンブリッジ大への留学で英語に磨きをかけ、トリリンガルの能力を生かし、史書の翻訳も始め、…それにとどまらず、文学を愛し茶道の修行中、ジョギングも欠かさない。…日本語で研究発表をして11年目、専門書『近代の上海−国際競争が作り上げた都市』(仮題)にまとめる草稿の一部を受信、<磨けば玉になる逸材>と直感した」と。

 それから3年余、上記の専門書の刊行に至った。岡山大学の専任講師(特任)の職も得た。冒頭のグラビアや本文中にある多数の古地図、巻末の論文初出一覧、あとがき、引用文献一覧、索引、写真・地図・図表一覧と、専門書らしい要件をすべて備えた354ページの大著である。この若さで、それも母語ではない日本語で、よくここまで書き上げたと感嘆を禁じ得ない。

 前掲のブログで「最近の日本の歴史学界では、批判を避けようとするためか、課題を小さく設定する傾向が強いように感じる。歴史学の場合、若い頃にこの悪習に染まると、後々まで大きなマイナスになると痛感していた矢先に、陳さんは驚くほど貪欲に高い目標を設定し、一次資料を渉猟、独自の見解を論文の草稿の形で提示…」と書いたが、その成果が本書に見事に結実している。

 目次は、序論、1部に4章、Ⅱ部に4章の計8章と終章の構成で各章に3~4つの節と小項目、これで全体の流れを明示しており、部と章のタイトルだけでも本書の核心が分かる。

 「序論 上海ー近代東アジア開港場の起点」では先行研究を総括して本書の課題、視点、構成等を示す。以下、2部8章と終論を付す。

 「Ⅰ部 上海の建設とインフラストラクチャーは、「1章 都市整備制度と土地章程」、「2章 旧来の水路と集落」、「3章 水路と街路の複層化」、「4章 国際的港湾の造成」の4章。ここでは国際政治と土地章程という法的枠組を前提として、圧倒的に豊富な収集史料に基づき、インフラ整備(主に水路と港湾)の過程を解明する。その分析と叙述の展開には確かな臨場感がある。

 「Ⅱ部 上海都市空間の形成と英日中」は、「5章 外国租界の都市空間と居住形態」、「6章 日本郵船による虹口港の建設」、「7章 日本の上海進出と都市開発」、「8章 北四川路の日本人住宅地と英日中」の4章。ここの主要テーマは、虹口港、日本人住宅地等の「都市空間」の形成とその特質の分析である。文献史料にとどまらず、現地調査や聞き取り調査の結果も活かされている。

 「終論 上海から東アジアへ」の2「研究展望:支配制度と生活空間の形成」において、今後の課題として3つを挙げ、「支配制度の移植」、「西洋人による生活空間の移植」、「近代の都市と建築の研究には中世・近世のそれとの接点を探る必要」を指摘し、今後の研究対象と手法を暗示している。

 カバーデザインも良い。図書館に入るとカバーは外されるのが一般的だが、本書のハードカバー部分は書庫など暗い所でも映えるに違いない。出版社の心遣いが感じられる。

  「あとがき」には、著者を支えてきた豊富な人脈(主に年長者)への謝辞が描かれている。これまでの恵まれた研究生活と同時に、就職に苦闘してきたことも読み取れる。後につづく多くの若手研究者にとって、彼女の歩みは一つの希望にも指針にもなるであろう。陳さんのさらなる<挑戦>を期待したい。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

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・近代アジア史
・文明史

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