公園と庭園をめぐって

 旧友のマリアンヌ・バスティードさんが来日するとのメールを受けとった。本ブログ7月11日掲載「【14】研究課題の拡がり(「我が歴史研究の歩み」14)で彼女に言及したばかりなので、不思議な感じがする。

 46年来の知り合いである。中国近代史の専門家で、パリの高等師範大学教授、国立研究センター教授を経て、いまはフランス・アカデミー会員として後進の指導に当たっている。今回は北京における中国近代史シンポジウムに招かれ、その合間に寸暇を惜しんでの来日となった。

 彼女の唯一の希望は横浜三溪園の訪問とあったので、それを含めて短い滞在期間中に、どう案内しようかと考えた。1971(昭和46)年の初来日が東京大学東洋文化研究所への研究留学(1年間)であったから、この間の変化を見てもらおうと、初日はまず本郷3丁目から脇道を入って、数年前に設置された「懐徳門」をくぐり、東洋文化研究所を案内する。懐徳門は、加賀藩の屋敷跡(東大本郷キャンパス全体)の一角に明治後期に作られた懐徳館に因んで命名された。

 記憶を確かめてから大学構内を歩き、病院脇の、これも新たに作られた「鉄門」を出て、暗闇坂を下り、右手に旧岩崎邸を見て不忍池に至る。あたり一帯は上野公園(正式名は上野恩賜公園、53ヘクタール)である。2つの池の間の道を歩き、屋台の並ぶ中を抜けて寛永寺下まで来た。

 徳川家菩提寺の寛永寺(天台宗)周辺は幕末維新の上野戦争(1868年)で焼け野原となり、明治政府が没収した。1870(明治3)年、医学校(現在の東大)と病院予定地とされたが、現地を視察した医学校の蘭医ボードワンの進言に基づき、1873(明治7)年、日本初の公園に生まれ変わる。

 正式名の「恩賜」にある通り、明治政府の没収地(宮内省所管)を天皇から賜ることにより生まれた公園で、近代イギリスの公園をモデルとしている。不忍池のほかに動物園、博物館、美術館、大学等の文化施設を擁する。なお国立西洋美術館(ル・コルビジェ設計)が世界遺産に登録された。

 話をしているうちに、公園(パーク)と庭園(ガーデン)の区別が気になり始めた。19世紀イギリス、王室や貴族のガーデン(庭園)の一部が「公開された空間」としての公園(パブリック・ガーデン、またはパブリック・パーク)となった。都市の人口過密化への対応として、ロンドンに誕生した王立ハイドパーク(ロンドン内に8つある王立公園の1つ)は1820年代の設計、1851年には世界初の万国博覧会(万博)が開催された。広い芝生の空間に木陰を作る大木があるだけの公共空間で、樹木や花いっぱいの庭園としての要素は少ない。この頃から、狭くても地所を持つ人々が庭を季節の花と緑で飾るようになった(イングリッシュ・ガーデン)。

 マリアンヌによれば、「フランスのベルサイユ宮殿(1682年にルイ14世が建造)は1789年革命により王政が廃止されると、宮殿とそのシンメトリック(左右対称)な庭園が公開、継承・維持され」、庭園から公園に生まれ変わったとのこと。パリから40キロも離れているためか、1000ヘクタールと途方もない広さである。なおパリ市内には凱旋門近くのモンソー公園等、数ヘクタールの小さな都市公園が各所にあり、自然を活かした庭園の要素を強く持つ。

 上野駅で次の旅行の指定席を手配してから、ガード下に沿って続くアメ横を見せると、市場の好きな彼女は大喜び。私はパリの歩道に並ぶ露店で買ったマグロの切り身を思い出した。5人の孫を持つマリアンヌは華奢で食は細いが、驚くほどスタミナがある。夕食に寿司を食べつつ「公園論」の続きになった。

 2日目は希望通り、横浜の三溪園へ案内した。前日のうちに簡単なパンフと地図(歴史地図を含む)を渡しておいたので、往きの車中で私が2つの質問をした。①都市横浜の起源とその性格(東京や京都との比較のなかで)、②三溪園の特徴。第1の質問に対しては、横浜は若い都市、アメリカとの条約(1854年のペリーとの日米和親条約と1858年のハリスとの日米修好通商条約)が都市化の起源と正しい回答があったので、つづけて説明を加える。

 条約では開港場の名称が神奈川とあるが、ハリスは神奈川宿を主張、幕府は横浜村(日米和親条約の締結地)を主張、両者は海上で4キロ離れており(後の「横浜道」が6キロ)、合意を得ないまま1859年7月1日の開港日が迫る。幕府は都市形成に不可欠のインフラ整備を主導、横浜村に外国人居留地と日本人町を置き、賃貸用に区画整理を行い、運上所(税関)や波止場を作った等々。

 我々二人は近代史研究という共通項を持つ。日本の開国・五港開港は平和的な「交渉条約」の賜物であり、開港場の建設を幕府が主導した。中国の五港開港はアヘン戦争に負けた「敗戦条約」(1942年の南京条約)の結果であるため、不平等性や従属性の縛りがはるかに強かった。

 国際政治も推移した。対日条約を主導したアメリカは南北戦争(1861~65年)に追われて国際舞台から引き、代わって超大国イギリスが対日政策を主導するが、初発の日米「交渉条約」に拘束され、過激な政策は行使できなかった。

 三溪園に到着。正門を入り、左手に広がる大池と右手の蓮池の間の道を往くと右上に茅葺屋根の家が見える。これは原三溪が郷里の岐阜の民家に似せて造らせた最初の住居(1902年)の鶴翔閣であり、ここに転居してから庭園造りを始めた。内苑と三溪記念館(三溪の書画を展示)の案内は英語ボランティアガイドの石井 徹さんと佐藤彰子さんにお願いし、その間、私は職務をこなす。

 マリアンヌは土地の表情を瞬時に感じ取る優れた感性を持っている。「庭園も多数の移築古建築も池の形もみな非シンメトリック(非左右対称)で、曲線が基本、歩くにつれて変化する景観が多面的な美の世界を創りだしている。これは兼六園(金沢)や京都の金閣寺・銀閣寺・竜安寺等の庭園ともどこか違う」としきりに言う。吉川利一事業課長の案内で鶴翔閣の内部を見せると、各部屋の用途や家族構成、来客の職種等を熱心に尋ね、建物と住む人の関係に関心を寄せた。

  山下町に戻り、前日に渡しておいた1889(明治21)年の横浜地図(関内と山手)を開き、これからの動線を確認。アメリカ山公園までエレベータで登り、外国人墓地の脇の急坂を下り、谷戸橋へ出て、中華街を歩き(とくに関帝廟を見せたかった)、山下公園を見せる(1923年の関東大震災に瓦礫等を埋め立てて造った臨海公園で開園は1935年)。議論は尖閣や南シナ海問題にも及んだ。

 私はふと19世紀フランスで美術や工芸品を中心として、シノワズリ(中国趣味)とジャポニスム(日本趣味)の2つが流行したことを思い出し、「どちらのシンパか」と単刀直入に尋ねると、「研究はシノワズリ、感性はジャポニスム…」と返ってきた。

 3日目は新宿御苑へ行く。公園論を進めるには、ぜひとも見せておかなければならない。高遠藩(長野県)内藤家の下屋敷のあった敷地で、 1879年(明治12年)に新宿植物御苑が開設され(宮内省)、三溪園開園と同じ1906(明治39)年に新宿御苑として公開され、現在に至る(環境省所管)。

 ここは「日本庭園」、「イギリス風景式庭園」、「フランス式整形庭園」の3つを備え、58ヘクタール(都内で最大規模)、樹木の数は1万本を超える。とくに桜は65種・約1300本あり、花見には欠かせない。このフランス庭園を見せるのも目的だったが、彼女は自然林のような野性味あふれる林を抜けて拡がる池と、その周辺の斜面に多種の植え込みを配した日本庭園(1772年造の玉川園という大名庭園)に見入っていた。ここに古建築はない。

 御苑を出て表通りに面したカフェでも議論がつづく。彼女は、「これだけの車と人通りでも空気が澄んで街はとても綺麗、ゴミがまったく見当たらない…」と言う。外国人は誰もがこれに驚き、賞賛する。それを当然とする我々は指摘されて改めて気づく。この良き慣習と伝統は堅持したい。

 公園と庭園をめぐり、さまざまな議論を経て、三溪園のみが持つ特徴を考えた。名勝指定(2007年、平成19年)の理由書の次の表現に凝縮されている。

 「…起伏に富む広大な敷地に古建築を移築し、池や渓流を築造し、(近世以前の象徴主義から脱却した)近代の自然主義に基づく風景式庭園…内苑の移築建物の配置やそれらの建物とよく調和した周辺の修景もまた三溪の構想によるもので、数寄者としての三溪の美意識が窺える。…」(抜粋)
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三渓園ガイドの石井 徹です。
加藤様のブログを拝読しました。ありがとうございました。

先日ガイドしました、マリアンヌ様より御礼のメールをいただきました。
ご報告まで。

今後ともよろしくお願いします。



プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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