シーボルトの日本博物館

 企画展示「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」が、千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館(愛称は歴博)で開かれている(7月12日~9月4日)。歴博のホームページによれば、シーボルトが企画したヨーロッパ初の日本展示のイラストを歴博が発見、それに基づき、その日本博物館を再現するという。

 フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold,1796.2.17-1866.10.18)はドイツ人の医師で博物学者。ドイツの地方都市ヴュルツブルクで医学者の名門家系に生まれ、ヴュルツブルク大学で医学を専攻、カリキュラムの一部であった化学や植物学のほか、動物学、地理学、民族学にも関心を寄せる。大学卒業後、陸軍軍医となりオランダ植民地のバタヴィア(現インドネシア・ジャカルタ)へ旅立ち、そこから長崎出島のオランダ商館付医師として日本へ派遣された。

 19世紀、2度にわたり日本に滞在(1823~28年、1859~62年)、江戸時代の日本に近代的な医学を伝える一方、日本の自然や生活文化に関わる膨大な資料を収集し、ヨーロッパに持ち帰った。それらが帰国後に『日本 Nippon』(1832-1851)、『日本植物誌 Flora Japonica』(1835-1844)、『日本動物誌 Fauna Japonica』(1833-1850)の三部作に結実し、日本学や生物学に大きく貢献したことはよく知られている。

 今年1月30日の歴博の講演会で、歴博の6年間にわたるシーボルト関係資料6000点の総合的調査(主に2度目の来日時のコレクションを中心としたミュンヘン五大陸博物館(旧ミュンヘン国立民族学博物館)の所蔵品)の成果を知り、今回の「予告」とも言うべき説明を聞いていた。私も3月に公開されるそのデータベース画像(シーボルト収集による約6000点の日本資料)を閲覧したいと本ブログの「2つの講演会」(2016年2月5日掲載)で述べた。

 そして企画展示「よみがえれ!シーボルトの日本博物館」が始まった。貴重な資料の実物を見たい、示唆を得られるとも考え、8月17日、久しぶりに歴博を訪れた。台風7号の関東直撃が危惧されたが、幸い沿岸から離れて北上し、快晴となった。京成佐倉駅から徒歩約15分、緑に包まれた旧佐倉城址(11万石)のなかに歴博がある。

 展示室の入口でまず目を引く船形漆塗弁当箱(宴会用の酒器と食器の組合せ)をはじめ、鳴滝の家屋模型(ミュンヘン五大陸博物館蔵)、花鳥図衝立(同上)、蛇身弁財天像(同上)、『日本 Nippon』のための原画(ブランデンシュタイン=ツェッペリン家蔵)、伊能特別小図写(西日本)(同上)、シーボルト直筆の展覧会解説(同上)等、300点が並ぶ。

 展示(担当)代表は民博の日高 薫(ひだか かおり)教授で、専門は蒔絵を中心とする漆工芸史、『異国の表象 近世輸出漆器の創造力』(ブリュッケ 2008)等の著書がある。漆器はjapanと言われるように日本の象徴であり、貴重な輸出品でもあった。今回の展示にも多数ある。

 シーボルトは、収集したコレクションをもとに、1度目の日本滞在中の1824(文政7)年、早くも日本をテーマとした博物館展示を熱心に構想しており、帰国後、ライデン、アムステルダム、ヴュルツブルク、ミュンヘンの各都市で日本展を開催した。

 当時のヨーロッパでは、ヨーロッパ以外の地域の民族やその文化への関心が、王侯貴族にとどまらず広範の市民の間にも高まり、近代的な博物館展示や、学問としての「民族学」が胎動しつつあった。シーボルトの展示は、のちの万国博覧会(第1回が1851年のロンドン万博)における日本紹介や、ジャポニズム(日本趣味)よりはるかに早期で、世界初の試みであった。

 シーボルトは日本の文化や社会をどのように観察し、どのような観点に立って収集したか、また「異文化としての日本」をどのように西洋に紹介しようとしたか。それを知る手がかりとして、歴博の総合的調査で見出したシーボルト直筆の展示順序やケースごとのコレクション解説、それに長男アレクサンダーが残したコレクション売却リストもあわせ、死の直前のミュンヘンでの「最後の日本展示」を、歴博で再現して紹介している。

 展示は5章からなるが、主な内容を抜粋しよう。
 (1) シーボルトは、外国人の行動が厳しく制限されていた中で、出島の外に位置する鳴滝(なるたき)に私塾の開設を許され、日本人研究者と交流を図る。そして彼らに最新の医学知識や自然科学を伝授することと交換に、標本や資料のみならず、課題について論文を提出させるなどして、日本の自然や文化に関わる事物や情報の収集を実現させた。
 
 (2) 帰国後は日本紹介を精力的に開始、出版物刊行や日本展示に取り組み、1832年からはライデンのシーボルトの邸宅(ラーペンブルフ19番地・現在のシーボルトハウス)でコレクション公開(シーボルト博物館)も行った。これらは現在のライデン国立民族学博物館のコレクションに受け継がれている。

 (3) 初来日から30年後の1859(安政6)年、2度目の来日を果たしたシーボルトは、帰国後の1862年から1863年にかけてアムステルダム産業振興会館で再び展覧会を開催した。この時の雑誌記事には、仏像や衝立を立体的に展示したイラストが掲載されており、歴博の展示でこれも再現している。

 (4)1864年、シーボルトは生まれ故郷ヴュルツブルクのマックス職業学校にミュンヘンの展示を移設、民族学博物館の設立意志をもっていたバイエルン国王に日本コレクションの有用性を説き、1866年3月、ミュンヘンの王宮公園(ホフガルテン)に面した宮殿内の北部ギャラリー・ホールの使用許可をバイエルン王国の文部省から得て、5月19日、最後の日本展示を開催した。
宮殿の展示では、7室あるギャラリーの3室を日本展示に充て、その他の部屋に中国・インド・東南アジア・アフリカ・オセアニア・先史時代・アメリカなどの展示ケースを配置、現代では一般的になった民族学博物館の枠組みの一部に日本コレクションを位置づけた。

 (5)シーボルトの日本展示は、表向きは当時のヨーロッパの実利的な要請 に応えるものでもあった。ヨーロッパ以外の地域を対象とした博物館展示には、原料やエキゾチックな産業製品を求めて積極的に海外貿易をおこなっていたヨーロッパの国々において、植民地に赴き、あるいは異文化に接触する官僚や商人たちが身に着けるべき知識と教養を示す役割が求められていた。漆工芸に代表される日本伝統の手技の世界や、各種素材を用いて作られたシンプルで美しい日用の道具類などは、その代表である。

 歴博は、結びとして次のように述べる。シーボルトは各民族文化の本質を総合的に比較・理解し、異文化への誤った考え方を是正する学術的な場として民族学博物館を位置づけており、それは近代的な博物館の歴史、民族学研究においてきわめて先見的で現代につながる源流となった、と。

 展示を堪能し炎天下を駅へ向かいつつ、シーボルトの30年をまたぐ2度の来日の間に日本は開国(1854年)と開港(1859年)の大転換を平和裏になしとげたが、それには佐倉藩の藩主・堀田正睦老中も大きな役割を果たしたことを改めて想起した。

 今回のモノの展示(主に第2次来日時の収集品)と著書三部作(いずれも第1次来日時の成果物)をどのように関連づけるか。またシーボルトの2度の来日と、その間の30年の世界史の推移が、還暦を過ぎた彼の学問にどのような成熟をもたらしたか。興味は尽きない。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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