20世紀初頭の横浜-(6)「開港五十年史」の刊行決議

 1904年、横浜商業会議所(のちの横浜商工会議所)が「開港五十年史」刊行を決議した。第6代会頭(1904~09年)の小野光景(おの みつかげ、1845~1919年、長野県生まれ、生糸売込商)と副会頭の来栖壮兵衛(小野の妹婿)のコンビが提案、5年後の横浜開港(1859年)50周年を祝おうとするものである。臨時調査費を組み、編集主任に肥塚龍(こえづか りょう)、補助員に川本三郎を当てた。

 横浜商業会議所は、1880(明治13)年設立の「横浜商法会議所」を1895(明治28)年に改名した団体で、貿易、新聞、築港、鉄道、ガス灯など都市近代化にともなう諸事業を担う実業家を広く組織した。なお1927(昭和2)年には「横浜商工会議所」とさらに改名して現在に至る。

 いまでは日本の常識とも言える地方史・地域史を手がける動機は、地域への関心の高まり、すなわち自らの依って立つ基盤やその由来を知りたいとする関心の高まりに他ならない。とくに戦後において都市開発に関連して廃棄されかねない貴重な古文書等の保存・収集が全国で一斉に始まり、それに基づいて地方史編纂の運動が展開された。その結果、いま膨大な蓄積を有している。

 自治体が主体となって資料収集・編纂に当たったものが多い。現在、横浜市史は大別して3種あるが、いずれも昭和初期以降の刊行であり、その大半が戦後の編纂・刊行である。すなわち『横浜市史稿』(全11巻、1931~1933年)、『横浜市史』(本編11巻、1958~82年、資料編21巻、1960~82年)、『横浜市史Ⅱ』(本編6巻、資料編10巻、1993~2004年)である。

 ほかに市内18区の歴史(○○区史と称するもの、その他の名称のもの)も複数刊行された。横浜市会事務局編『横浜市会史』(1~6巻+付録2)は、1983~1988年の刊行である。また個人の労作、松信太助編『横浜近代史総合年表』(有隣堂、1989年)は新聞記事等を丹念に集め、出典を明示していて貴重である。

 横浜商業会議所の「開港五十年史」刊行決議は、横浜で団体が史書編纂の動きを見せた最初である。1904年3月、50年前の日米和親条約締結日(3月31日)を機に日米交歓50年記念会が市内で開かれたが、市民の関心は日露戦争(2月、日本がロシアに宣戦布告)にあって、開国や開港には関心が集まらなかった。

  5年後の1909(明治42)年の横浜開港50年記念はぜひとも成功させたい。それは市制施行20周年でもある。そこで「開港五十年史」の編纂が決議された。これ以前には、わずかに太田久好『横浜沿革誌』(明治25=1892年)や野沢藤吉『現在の横浜』(横浜新報社、1902年)があるだけである。

 編集・刊行の契機として、ライバルの神戸が11年前に刊行した『神戸開港三十年史』(1898=明治31年、上下)や2年前に刊行された『慶応義塾五十年史』(1907=明治40年)を意識しないはずがない。

 「(横浜)開港五十年史」の編集を一任された肥塚は、1848年(一説に1850年)岡山県生まれ、1872(明治5)年に上京、芝汐留電信学校の給費生、「曙新聞」のアルバイトなどを経て中村正直の英語学校に入学、1875(明治8)年に東京横浜毎日新聞に入社(のちに社長)、横浜との縁も浅くない。彼の名文は「作家も及ばぬほど」と有名になった。1879(明治12)年、トクビル『自由言論』を訳出、民権家として「国会論」を発表する。

 1890(明治23)年、初の総選挙に兵庫第8区から立候補するも落選、第2回総選挙では東京2区から立候補し落選、1894(明治27)年にふたたび兵庫第8区から立候補して初当選、以後7回にわたり当選を果たす。1898(明治31)年、東京府知事、のち1907(明治40)年には衆議院副議長につく。

 肥塚を筆頭に本格的な『(横浜)開港五十年史』の編纂が始まったものの、開港50年・市政20年を祝うとする意識は40万市民に十分には浸透していなかった。それには一定の啓蒙活動や広報が必要であり、担うのは主に新聞であるが、市内の新聞は、1903(明治36)年3月の第8回総選挙をめぐり「横浜貿易新聞」と「横浜新報」が相対する候補者を支持、候補者以上に激しく争い、政財界、新聞界を二分する紛争となっていた(本連載(4)参照)。

 「横浜新報」(新報)を支えるのが原合名会社の原富太郎、一方の「横浜貿易新聞」(貿易)を支えるのが横浜商法学校(横浜商業学校=Y校の前身)で学んだ中村房次郎(砂糖輸入商・増田屋の次男)である。原と中村の両人はともに30代半ばの1868年生まれで、開港横浜を担う第3世代として嘱望されていた。

 総選挙がらみで過熱した両陣営間のシコリが、市民感情や市政運営に及ぼす悪影響を痛切に感じた二人は、手をたずさえることで一致する。それをさらに前進させたのが「貿易」主筆に就任した富田源太郎(同じく1868年生まれ)である。1904(明治37)年5月1日の巻頭で紙面の刷新に強い意欲を示し、熱く説いた。2月に始まった日露戦争で日本軍が快進撃を見せていた時期である。

 富田は、貿易記事を主とする実業新聞こそ、実益に趣味の記事を加え「公正健全なる市民県民の世論を代表」して発言すべしとし、広告や連載小説、日露戦争の展開報道などに挿絵を積極的に取り入れる。さらに「世界の列強は貿易工業による平和的競争をもって国運を図っている。対する我が国は武国の名は上げたが貿易工業に見るべきものがない。対外商戦の拠点たる横浜の本紙は奮起すべし」と主張した。

 この1ヶ月半後の1904年6月19日、あれほど対立していた「横浜貿易新聞」と「横浜新報」の両紙が、連名「社告」を出す。近い将来に合併し、本町6丁目86番地の新築社屋へ移転、紙名も「貿易新報」に改める、と。新しい紙名は2紙の愛称「貿易」と「新報」を合体させたものにほかならない。
両紙の統合により広報媒体が強化され、「開港五十年史」への期待と開港50年祭開催への機運が熟し、次第に現実味を帯びていく。(続く)
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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