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2つの講演会

 1月29日(金曜)、地球研第7回東京セミナー(地球研は総合地球環境研究所の略称、京都)「人が空を見上げるとき-文化としての自然」が東京の有楽町朝日ホールで開かれた。
 ついで翌30日(土曜)、国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市、略称:歴博)の担当する人間文化研究機構第27回公開講演会・シンポジウム「没後150年 シーボルトが紹介した日本文化」が、東京港区のヤクルト本社ビルで開催された。
 2日つづきの豪華な講演会である。28日の春の陽気(最高気温14℃)が、29日には8℃に急降下して冷たい雨に変わり、30日は5℃まで下がったが、いずれの会場もほぼ満席であった。
 近年、日本文化の底力にかかわる人文社会系の教育研究が軽視され、評価されにくい状況にある。このグローバル化時代に逆行する動きのなかで、真摯に良質な講演と討論がなされていることに敬意を表したい。
 事例を挙げれば限りないが、日本人は外国の先進文化(古代においては漢文化・朝鮮文化、近代においては西洋文化)に目を奪われがちで、世界における日本(文化)の位置づけという視点を持ちにくい。そして自分の知らない世界に日本文化の真の理解者がおり、それが日本を強く応援してくれている現実についても疎い。シーボルトは日本文化の代表的理解者である。
 講演会の詳細はそれぞれの機関のホームページに掲載されるはずだが、聴講者の一人として、その一部を紹介しておきたい。
 「人が空を見上げるとき-文化としての自然」は、(1)後藤明(南山大学、海洋・天文人類学)「夜空の景観学-人は空を見て何を思ってきたか」、(2)鎌谷かおる(地球研、日本近世史)「空を読む人々-江戸時代の日記に見る<空>へのまなざし」、(3)大西拓一郎(国立国語研究所、国語学)「太陽と語るひとびと-庄川流域の敬語から考える」の3本の講演と、(4)石山俊(地球研)の司会で上掲3人と檜山哲哉(名古屋大学宇宙地球環境研究所)によるパネルディスカッションからなる。
 (1)は昼の太陽と夜の星を対比し、人々が夜空をどう見てきたかを中心に、①天体と規則性、②古代遺跡と太陽、③星と方位・季節の各方面から、主に未開民族の宇宙観を通じて分析、最後に標点となる北極星の見える北半球と見えない南半球の差異に及び、種々の宇宙観の拡がりを語った。
 (3)は富山県庄川(約170キロ)流域の人々が太陽という自然物に対して擬人法で敬語を使い、「ヒーサマ(太陽が)ノボラサッタ」と表現することに着目、国語学で「いちばん嫌われる敬語(待遇表現)と活用」の1つ(敬語)の長年にわたる調査結果を踏まえて分析する。豪雪地帯では、ひときわ太陽の恵みはかけがえのないものであろうが、この敬語表現は今や消えつつある。
 
 ついで翌30日(土曜)開催の「没後150年 シーボルトが紹介した日本文化」は、(1)日高薫(歴博)の「企画趣旨」、(2)ヨーゼフ・クライナー(ボン大学名誉教授・法政大学日本学研究所客員所員)の基調講演「シーボルト父子の日本コレクションとヨーロッパにおける日本研究」、(3)大場秀章(東京大学名誉教授)の講演「ジャポニズムの先駆けとなったシーボルトの植物」、(4)松井洋子(東京大学史料編纂所)の講演「近世日本を語った異国人たち:シーボルトの位置」、次いで(5)講演者3名に日高薫が加わり、大久保純一(歴博)の司会によるパネルディスカッション「シーボルト研究の現状とこれから」が行われた。
 没後150年を迎えるシーボルト(1796~1866年)は医者で博物学者。長崎のオランダ商館に滞在(1823~28年)、商館長の江戸参府にも随行、帰国後に著書を通じて鎖国時代の日本の姿を世界に伝えた。正式の名前はフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold)。彼の業績をめぐり最適の講演者が焦点を絞って演題を語り、それら3つを受けてのパネルディスカッションでは彼の業績をさまざまに照射、研究の現状と将来を展望した。
 (1)「企画趣旨」は、この6年間に国立歴史民俗博物館(歴博)が担当した「シーボルト父子関係資料をはじめとする前近代(19世紀)に日本で収集された資料についての基本的調査研究」(人間文化研究機構による「日本関連在外資料の調査研究」の1つ)の成果概要を説明、総数6,000点以上の画像付きデータベースが完成、本年3月には歴博のホームページで公開予定という。
 (2)クライナー講演は、①西洋における日本学・日本研究の歴史、②日本工芸美術ならびに民俗の収集の歴史、③シーボルト父子のコレクションの意義について、日本語で行われた。
 その①で、ア)19世紀以来の文学研究→主に図書館・文書館が所蔵、イ)1930年代からの社会科学的研究→同上+統計類、ウ)1990年代からのvisual turnと呼ばれる美術工芸品や動植物標本等のモノを資料とする研究→主に美術館・博物館が所蔵、の3つの段階を経て、現在は3者併用の時代としたうえで、シーボルトを百科全書主義の思想に立ち、19世紀前半から3者併用により初めて体系的・総合的な日本研究を試みた人物と位置づける。
 シーボルトには帰国後にできた長男アレクサンダー(日本外務省雇用のお雇い外国人)と次男ハインリッヒ(オーストリア・ハンガリー帝国の外交官)がおり、彼らもまた日本で収集した文物を持ち帰り、西洋の日本研究に寄与した。またハインリッヒはアメリカ人モースと大森貝塚をめぐる論争にも加わり、『考古説略』(明治12年)を刊行、これが日本語の<考古学>の語源となる。
 (3)大場秀章講演は日欧の植物相の比較から始め、シーボルトの植物コレクションの意図を探る。欧州の園芸愛好者の層が拡大すると、熱帯や乾燥地帯に育つ奇妙な形をした多肉植物への関心から、庭に植えても違和感の少ない植物や樹下に植栽できる耐陰性植物へと関心が拡がった背景を述べる。
 そのうえで「シーボルトは日本が豊かな自然に恵まれ、その植物は温帯地帯としては欧州とは比べられない高い多様性をもつことを喝破、…日本の寺社や富裕な農家・商家の庭を見て、日本の庭園が多様な自生植物を庭に取り入れ、自然そのもののポータルサイトとしての役割さえ果たす、多様性の高い庭園植物相を備えていることを実感した」(配布冊子より抄録)とする。なお欧州の自生植物相が貧弱な主因は最終氷期の大量絶滅にあると言う。
 さて、私もかつてシーボルトに言及したことがあり(加藤祐三『黒船前後の世界』1985年、岩波書店、増訂版ちくま学芸文庫、1994年)、その第Ⅷ章でシーボルト『日本』(“Nippon”、1832年から分冊で発刊、中井晶夫ほか訳、講談社)の冒頭の記載を2つ引用した。すなわち
「日本は1543年、ポルトガル人によって偶然に発見された。その時、日本はすでに2203年の歴史をもち、106代にわたる、ほとんど断絶のない統治者の家系のもとで、一大強国になっていた。」
「…日本国は文明の高い段階に達しており…キリスト教の平和的・禁欲的な活力の影響を受けずに達成しうる(唯一の)高い段階…にある。」
 神話時代の神武天皇から起算し、源頼朝、そして徳川第11代将軍家斉(1832年の本書初版刊行時)へと繋ぎ合わせると106代となる。これはシーボルトが弟子のオランダ通詞・美馬順三のオランダ語論考「日本古代史考」(『日本書記』に基づく)を引用し、類推を重ねた結果の「誤解」である。
 シーボルト『日本』を最良の日本紹介書と信じた一人がアメリカ東インド艦隊司令長官M.C.ペリーである。彼は自らのミッションを「もっとも若い国の代表たる自分が、もっとも古い国の扉をあけ、世界の仲間入りさせる…」(公的記録『ペリー提督日本遠征記』)と述べ、日米和親条約締結の1854年をアメリカ独立(1776年)から78年目と付記している。
 日本が世界最古の文明国とするペリーの「壮大な誤解」が日本に対する敬意を生み、条約交渉時に日本側にきわめて有利に働いた、と私は指摘した。この見解は30年を経た今も変わらない。
 あらためて『ペリー提督日本遠征記』(1856年に上院へ提出、編者はニューヨークの牧師で歴史家のホークス)の最新版(宮崎壽子監訳、角川ソフィア文庫、2014年)を読み直し、ペリー一行による多面的な記述、人物や事物の細部にわたるスケッチ版画、交渉相手の幕府の役人等に関する記述、海図や水深図(天文観測図は別巻所収)、同行画家による風景画等(現在の写真報道に当たる)の構成から、博物学的なシーボルト『日本』の影響を強く感じた。
 本年3月に公開予定の歴博ホームページのデータベース画像を活用し、シーボルトが収集した様々な資料と、そこから彼が膨らませた「未知の国(日本)」、「神秘の国(日本)」のイメージを再検討したいと思っている。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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