【7】連載「アウシュビッツ到着」

 「広島は核戦争を阻止するための象徴であり、アウシュビッツは戦争による非人道的な行為をくり返さないための象徴である。…広島をくりかえしてはならない。アウシュビッツをくりかえしてはならない…」(加藤祐三・梶村慎吾著『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』(弘文堂 1965年)の冒頭のことば)。英語では、”No more Hiroshima, never again Auschwitz”とした。
 1962年秋のキューバ危機は、いまなお存在する核戦争の危機を象徴していた。核兵器を有する国々の政府と軍の責任者に理性的な判断を促すと同時に、我々が広く核戦争の脅威を知ること、知らせることが大切である。我々の掲げるスローガン「ノーモア広島」は、時宜を得て強い説得力があった。
 アウシュビッツの名は、アジア諸国ではあまり知られていなかったが、ユーゴスラビア、ブルガリア、ハンガリー、チェコスロバキア、ポーランドと東欧諸国を北進するにつれ、急速に関心を集めた。
 しかし、人々の信仰や思想信条に関わる部分が多いため、一筋縄ではいかない。上掲書の第四章は、1節が「社会主義・自由・宗教」、2節が「ヨーロッパの戦争と平和」、3節が「ショパンの遺産」、4節が「アウシュビッツの鉄条網」から成るが、1節では1956年のハンガリー革命(反ソ暴動)に背をむけたカトリック教会の役割や、スラブ民族の正教会とヒトラーに同調したバチカンとの対立等々に関する、ハンガリー青年らとの微妙な対話を取り上げた。
 2節では、チェコスロバキアの青年との会話、そしてベルリンの壁で分断された西ベルリン側の世論に漂う、複雑な感情を描いている。西側の「神を否定する共産党独裁による弾圧」キャンペーンに対し、東欧諸国ではむしろ「ナチスドイツ復活反対」という意識が強い、と書いた。
 この個所で次のような歴史分析が出てくる。読み返して、その後の私の歴史研究につながる発想に改めて驚かされた。その一部を、修正なしに抄録する。
 「ヨーロッパは近代を生んだぼくらの先輩である。その恩恵をこうむった国の数ははかり知れない。近代以降、世界中の国々がヨーロッパを中心に廻っていた。みなそこへ眼をそそぎ、そこから教えをこうた。軍艦を先頭にたてて商品を売りこみ、植民地化していったヨーロッパのことは、今は考えないでおこう。ヨーロッパの技術や思考法や哲学を世界の国々が見習った。ヨーロッパ自身も、自己を中心として全世界が廻っているように考えるようになった。
 この先輩が生みだしたヨーロッパ的思考は、こう考えてくると、どうも「両刃の剣」のような気がする。片方の刃は正と邪を峻別し、ひとたび自己が正となれば他はすべて邪となる考え方である。この論理は、たとえ厳密で緻密なものであっても、そしてたとえどのような形で科学性が主張されていても、ぼくらのとるところではない。
 ヨーロッパ的思考にもう一つの面があるはずだ。人間という存在は、一人一人が理性をもち、権利を有し、尊厳に値するというものだ。そこには人間にたいする絶対的な信頼がある。性善説とでも楽天主義とでも呼んでいいかもしれない。悪魔のいる場所はなくなる。ぼくらはこの意味でのヨーロッパ的思考をとる。それには双手をあげて賛成したい。
 ヨーロッパの心ある人は、ぼくらがこんなことをいうまでもなく、十分に承知していることだろう。この点にこそ、ヨーロッパの未来がかかっており、それを実現していくことに、自分たちが人類の平和に寄与できる新しい任務があると思っているに違いない。」
  「正と邪」を峻別し自己の正当性を強調する方法よりも、私自身は人間一人一人の尊厳への信頼、つまり性善説・楽天主義の側に立ちたいと宣言しているように読み取れる。
 ついで3節「ショパンの遺産」では、ショパンのみならず、すぐれた映画を生みだすポーランド人の情熱の根源を探ろうとした。ショパンやコペルニクスの像さえナチスによって引きずり降ろされ、ショパンの楽譜が焼き払われる記録映画も見た。ナチスがそれほどまでにショパンを消し去ろうとしたのは、ポーランド人がショパンをそれほど深く愛していたからに他ならない。
 アウシュビッツ(ポーランド語ではオスビェンチムと言う)は、ポーランドの首都ワルシャワから約286キロ、チェコスロバキアの首都プラハから330キロ、オーストリアの首都ウィーンから300キロ、ドイツのベルリンから500キロの位置にある。
 この小さなオスビェンチム村にナチスがアウシュビッツ強制収容所を設け、1940年6月14日、クラコウ市から700人のユダヤ人を強制労働に送り込んだ。1943年、その数は300万人に及ぶ。周辺にはIG化学染料会社(官営工業)等の企業が進出、毒ガスのチクロンB等を製造した。詳細は本書に譲る。
 我々は、1963年1月27日、解放18周年記念日にアウシュビッツに到着した。零下20℃、前年の2月6日に広島を出て約1年、我々の最終目的地である。あの虐殺行為を忘れぬよう、アウシュビッツ博物館となっており、館長は非常に数少ない収容所の生き残りである。
 昼前に降り始めた雪がまつ毛に張りつき、視界がぼやける。先頭を行く鼓笛隊の次に我々、その後ろに数千人の人々がつづく。記念碑前で黙祷・献花、そして国際アウシュビッツ委員会のホルユ委員長が次のように読み上げた。
 「…聞け、世界の人々よ。われわれがここで味わった苦しみを、ふたたび味わうことのないように、広島とアウシュビッツをくりかえしてはならない」(アウシュビッツ宣言)。(続く)
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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