【6】連載「キューバ危機」

 イランの首都テヘランからはバスで荒野を西へ進み、トルコに入った。最初の都市が首都アンカラである。西パキスタン(現パキスタン)を出てからイスラエルまでは、事前に連絡の取れている個人も団体もない(東京の事務局から連絡もできない)。だが、我々だけの時も、平和行進の基本はあまり変わらない。
 茶褐色の法衣をまとった佐藤上人が団扇太鼓を叩いて先頭に立つ。2人が交代で旗(バナー)を前面に掲げ、片手でスーツケースを引く。もう1人は大型のスーツケースを押す。旗の色はライトブルー、横が約1メートル半、縦が約1メートル。上部にHiroshima—Auschwitz、下部にPeace March、中央に白く染め抜いた鳩を配している。
 すぐに子どもたちが興味津々、寄ってくる。やがて大人が集まる。しばらく進んだところで、おもむろに写真パネルを拡げる。原爆投下の広島と長崎の惨状、北太平洋で操業中にアメリカの水爆実験(広島原爆の約1000倍の威力)による「死の灰」を浴びた第五福竜丸乗組員の痛ましい姿(1954年)、ノーモア広島を掲げる平和行進、アウシュビッツの入り口に掲げられた悪名高い「労働は汝を自由にする」(強制労働を美化して言う)の写真等である。
 どの町でも片言の英語を話す青年か老人が現れ、通訳をしてくれた。最後に仏教(主に密教)の儀礼で使う「散華」(さんげ)を1枚ずつ渡す。これは蓮の花を象った直径10センチほどの紙製で、Hiroshima—Auschwitz Peace Marchの文字が入った「原爆の図」の画家・丸木俊子さんの作品。5万枚を用意した。
 我々はさらにアンカラから西へ進みイスタンブールへ、そして地中海を船でイズミールへ渡る途上の1962年秋、遊弋するアメリカ第6艦隊艦船を目撃し、異様な殺気に戦慄が走った。日本から持って来たトランジスタラジオの短波にチャンネルを合わせ、キューバをめぐる米ソ対立の激化、緊迫した核戦争の危機を知る。
 当時、アメリカの「裏庭」と呼ばれたキューバで、カストロ将軍率いるキューバ革命が政権を樹立(1858年)、それを支援するソ連(現ロシア)のフルシチョフ首相が核ミサイルをキューバに送り込もうとして、米ソ対立が激化する。1962年10月16日から28日に至る、あわや核戦争という米ソの対立がキューバ危機である。なお、その経緯はR・ケネディ-『13日間-キューバ危機回想録』(1963年)等に詳しい。
 10月22日、ケネディ-大統領は演説「平和の戦略」で「…1発の核爆弾の破壊力は、第二次世界大戦で投下されたすべての爆弾の10倍に上り、…核汚染物質の影響もまたはかり知れない…」と述べた。
 4日後の26日、アメリカは準戦時体制を敷き、アトラス、タイタン、ジュピター等の核弾頭搭載の弾道ミサイルを発射態勢に置く。全世界の主要地域、日本、トルコ、イギリス等にある米軍基地は臨戦態勢に入る。核爆弾を搭載したB-52戦略爆撃機やポラリス戦略ミサイル原子力潜水艦も、ソ連国境近くに進出させた。我々が地中海で目撃した米艦隊は、その一部であった。アメリカではマスコミが「全面核戦争の怖れ」と報じ、人々が水や食料などの買いだめに殺到した。
 ソ連も国内のR-7やキューバのR-12を発射準備下に置く。緊張が極点に達した28日、フルシチョフが急遽キューバの基地撤回を表明、キューバに建設中のミサイル基地やミサイルを解体、ケネディ-もキューバへ武力侵攻はしないと約束、翌1963年4月、トルコにあるNATO軍のジュピター・ミサイルの撤去を完了した。
 まさに間一髪、「恐怖の均衡」の頂点で危機が回避された。ケネディ-は、「核戦争が実際に起きる確率は3分の1から2分の1と思った」と述懐している。
 米ソの「恐怖の均衡」を「恐怖の教訓」にしようと、原水爆禁止の機運はさらに高まった。「恐怖の教訓」を確実に継承するべく、「ノーモア広島」のスローガンをもとに、唯一の被爆地である広島(1945年8月6日)と長崎(8月9日)の日を人類破滅回避の象徴とした。
 核兵器はもはや敵国を倒すための武器ではない。敵味方をふくむ「全人類絶滅の凶器」である。核兵器発射ボタンを握る保有国の首脳ならびに責任者は、「恐怖の教訓」と「ノーモア広島」を、深く心に刻まなければならない。広島・長崎を訪れ、「恐怖の教訓」を反復しなければならない。
 現在、核(兵器)保有国は、NPT批准国のアメリカ、ロシア、イギリス、フランス、中国の5か国に、インド、パキスタンが加わり、北朝鮮、イスラエルは疑いを持たれている。世界の核爆弾の合計は1万5000発を越えた。
 原爆投下から70年後の今年11月、国連総会の第1委員会(軍縮)で、各国首脳の広島・長崎訪問を義務づける日本提案の決議案が賛成156か国で採択された。しかし核兵器保有国の中ロが反対、米英仏等は棄権した。そして「核は安全保障の根幹」とする核保有国の主張に対して、「唯一の被爆国」として「核保有国と非核保有国の橋渡し役を目ざす」日本外交の具体的方針が定まらない。
 一方、核開発を宣言していたイランに関する関係国の合意が今年7月、ようやく成立した。核の平和利用と核兵器の開発という微妙な線引きの難しさは残るが、とりあえずは、西アジアからアフリカへ広がる「激動の地」に薄日が差したように見える。
 キューバ危機から半世紀以上を経た今年3月、国立公文書館での「JFK―その生涯と遺産」展に行き、当時の緊迫した状況を改めて実感した。そして7月20日、54年ぶりにアメリカとキューバの国交回復が実現した。
 核兵器をめぐる問題にも時代の大きな変化を感じる。だが、どのように状況が変わろうとも、「ノーモア広島」の理念が脈々と受け継がれるよう願わずにいられない。(続く)
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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