20世紀初頭の横浜-(3)インフラ整備

 横浜の最初の大規模インフラ整備は、開港を決めた日米修好通商条約(1858年)の翌年である。幕府とハリス米公使との協議で最大の対立点は開港場の場所であり、ハリスは神奈川宿と主張、幕府は海上直線で約4キロ離れた横浜村(4年前にペリーと結んだ日米和親条約調印の地)を主張して譲らなかった。
 神奈川宿は東海道の両側に狭い土地がつづく。その直下に迫る湾は遠浅である。開港後を想定すると、この狭さでは外国人居留民の需要を満たせず、遠浅では大型船の接近が難しい。これに対して横浜村には広い土地があり、すぐ海が深くなり、大型船の接近に適している。これが幕府(神奈川奉行)の見解であった。
 両者の協議が一致を見ないまま、条約で決めた開港の日(1859年7月1日)は迫る。3月、ハリスが上海へ出張してしまう。幕府は自身の見解に従い突貫工事に着手、神奈川宿から横浜開港場への道路(横浜道)の敷設、開港場の埠頭の整備、外国人居留地の設定と区画割り、運上所(税関)の建設等々を完成させ、ようやく開港に間に合わせた。運上所(税関)の山手側は区画して番号を付し、外国人居留民に賃貸、運上所の反対側は日本人町とし、江戸や近在から大手商人を招致した。
 その後、急成長する新興横浜に欠かせないインフラ整備、すなわち鉄道、水道、築港等を、ほぼこの順に進めていった。
 第1が国家プロジェクトとしての鉄道である。横浜(現桜木町駅)=新橋間の鉄道は早くも1872(明治5)年に開業した。この年に太陽暦を採用、12月3日を新暦6年の元旦とする。また対外関係では香港や上海等に領事館を設置、国内では富岡製糸場を開業、銀座に赤煉瓦街を造った。
 やがて1889(明治22)年、東海道本線の新橋から神戸まで約590キロが全線開通する。当時の横浜駅(現桜木町駅)は奥まった所にあり、スイッチバック運転の必要があった。そこで横浜駅を経由しない短絡直通線を通し(横浜=保土ヶ谷間)、東海道本線は保土ヶ谷駅(上り)と神奈川駅(下り)にそれぞれ停車させた。1901年、短絡直通線上に平沼駅(現横浜駅近く)を設置し、念願の東海道本線停車駅とする。
 なお東海道本線の新橋=神戸間の急行所要時間が1901年に2時間短縮して15時間となり、食堂車も連結、また各線で学生定期券を発行した。一方、私鉄の敷設も進み、1901年、京浜電気鉄道(現京浜急行)の六角橋=大森国鉄駅間の4里(15㎞)の運転開始を見た。
 第2が水道。海を埋め立てて拡張してきた横浜では、ほとんどの井戸水が塩分を含み、飲用に適さない。良質な飲料水をいかに確保するか。そこで1885(明治18)年、神奈川県知事は英国人技師H.S.パーマー(Henry Spencer Palmer)を顧問とし、道志川と相模川の合流点(標高100メートル)から野毛山浄水場(標高50メートル)まで約43キロの導水管(鋳鉄製)を引く近代水道の建設に着手、1887(明治20)年9月に完成した。このとき市内人口は約12万人。
 1890(明治23)年の水道条例制定に伴い、水道事業は市町村の経営となり、同年4月から横浜市に移管された。1901年、水道第二期拡張工事が完成。この年に市域拡張がなされ、市内人口は約30万に達した。横浜市水道は人口増や産業化に伴い、合わせて8次にわたる拡張工事を行って現在に至る。なお、横浜の水道水は良質で、かつ長期にわたって腐らないと評判を呼び、外国船は入港すると必ず大量に積み込んだという。
 第3のインフラ整備が築港である。貿易港として最大関心事の1つであり、横浜築港論は1872(明治5)年から本格化する。1874(明治7)年、複数の外国人技師作成の計画書が提出されるも実現には至らなかった。1886(明治19)年、内務省御雇外国人デ・レーケ(Johannes de Rijke)と神奈川県御雇パーマー(上掲の水道付設の指導者)が「横浜築港計画報告書」を提出する。
両計画書のどちらを採用するか閣議で激しい論争が続いたが、1889(明治22)年3月20日、大隈重信外務大臣の支持するパーマー案に決定、これが日本最初の築港である。工事費234万円には、アメリカ政府の返還による下関事件(1864年)賠償金139万円(78万5000ドル)を組み入れた。なお賠償金を自主的に返還したのはアメリカだけである。
 下関事件とは、長州藩による4国艦隊砲撃事件に対し、4カ国連合艦隊(英、仏、蘭、米)が軍艦17隻で下関砲台を報復・占領した1864年の事件であり、戦勝4ヵ国は賠償金300万ドルを要求、長州藩には支払能力なしと見て、これを幕府に支払うよう求めた。賠償金300万ドルは、その半額を幕府が支払い、残り150万ドルは明治政府が1874(明治7)年までに完済した。なお賠償金支払いだけで「敗戦条約」の締結に至らなかったのは、交戦相手が長州藩という地方政府であり、国(幕府)ではなかったことによる。
 パーマー案を採用した閣議決定のうち、新設桟橋から横浜停車場への鉄道(引き込み線)布設は種々の問題があるとして、1893(明治26)年、当面は桟橋頭端と税関構内間との布設にとどめる決定がなされた。
 その後、海底や潮位について調査の結果、1901(明治34)年10月12日、決定は見直され、岸壁、物揚場及び万国橋の建設と現新港埠頭の東側部分の埋立のみが、1905(明治38)年12月に竣工する。
 なお東京では1900年に東京港湾調査委員会の意見を受け、東京市会が東京港湾築港を可決、東京築港事務所を設置するも、1901年、これを廃止、東京港湾築港計画は頓挫する。
 こうして首都圏唯一の開港場・横浜の大規模築港が焦眉の急となった。(続く)
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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