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【4】連載「広島・アウシュビッツ平和行進」

 
 30年以上も昔になるが、ゼミの学生から「国会図書館でカードを引いていたら、先生の著書(共著)らしい本が出てきたのですが…」と尋ねられた。当時はまだパソコンが普及しておらず、図書館はすべてカードの目録が頼りで、学生には書名カード、著者名カード、分類カードの3種をうまく使うよう、また大学図書館の所蔵本には限りがあるため、国会図書館、東洋文庫、東大東洋文化研究所図書室、中国研究所等を利用するよう、繰り返し言っていた。
 この学生が見つけた本とは、加藤祐三・梶村慎吾『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』(昭和40(1965)年 弘文堂 フロンティア・ブックス)という50年前の新書版である。歴史研究とは直接の関係がないと思い、講義要項の参考文献等に挙げたことはない。
 本書は、核戦争阻止の象徴である広島と、戦争の非人間的行為を弾劾する象徴のアウシュビッツを結ぶ平和行進の経験を記している。1年3ヵ月をかけて33ヵ国、9万キロを行脚、世界の人々に被爆と虐殺の惨状を伝え、ともに平和を祈り、平和への思いを確かめ合った
 一行は佐藤行通上人(仏教僧侶)を団長とし、年齢順に私(宗教とくになし)、山崎友宏(カトリック)、梶村慎吾(プロテスタント)の4名。1962年2月6日の広島出発時に、佐藤上人が39歳、私25歳、山崎24歳、梶村22歳。
 日米安全保障条約改定に対する反対運動(安保闘争)は、広く学生・教員・市民を巻き込んだ戦後初めての(日本史上初でもある)大衆運動である。大学や職場で議論し、肩を組んで街頭へデモ行進に出た。
 1960年6月、岸信介首相の提出した法案が自然成立し、反対運動が敗北した。だが、平和運動の新しい形を提起できないかと、多くの若者が考えた。その可能性を模索する中で、梶村と私は佐藤上人に出会い、「広島・アウシュビッツ平和行進」の構想が動き始め、山崎が加わった。
 その計画に、いくつかの組織を含め支援の輪が拡がった。意図を理解してもらい、カンパ集めに奔走する過程で、さまざまな方に会い、人間的・思想的に多大な教えを受ける機会にも恵まれた。
 藤井日達(1885~1985年、日本山妙法寺)上人は、大正年間に日本山妙法寺を設立、1930(昭和5)年にインドに渡り、ガンジーと出会い非暴力主義に共鳴。第二次大戦後は、不殺生、非武装、核廃絶を唱えて平和運動を展開。「世界宗教者平和会議」や「世界平和会議」の開催にも尽力した。敗戦の日に皇居二重橋前で自決しようとした陸軍士官学校卒の軍人・佐藤行通さんを説諭し、平和貢献へと人生を転換させた恩人でもある。当時、75歳、若者を凌ぐ強靭な心身と絶やさぬ笑顔で、種々の便宜を図ってくださった。
 同じ仏教界では京都清水寺の大西良慶貫主(1875~1983年)。85歳の、天衣無縫、達観した発言に圧倒された。日中友好仏教協会を設立する等、仏教を通して国際交流、平和運動、文化活動などに尽力された。
 ともに行動し意見交換することが多かったのが、佐藤上人と同門の若手の林達声上人。林上人が学習院の安倍能成(1883~1966年)院長に引き合わせてくれた。深い考察と穏やかな風貌の安倍さんは、戦前・戦後を通じて一貫した自由主義者であり、戦前の軍国主義にも、戦後の社会主義への過大な評価にも批判的であった。
 少しずつ資金が集まり、いよいよ旅券申請というとき、旅券発給に厳しい制約がある現実に直面した。飛鳥田一雄衆議院議員(社会党、のち横浜市長)の知遇を得て、氏の紹介で小坂善太郎外務大臣に我々の意図を聞いてもらった。
 これで旅券取得は解決したが、外貨の持ち出し制限があった。その上、1ドル=360円という固定相場で、資金の価値は国外で大幅に下落する。文字通りの貧乏旅行が始まるが、われわれは意気に燃えて横浜港を出港した。
 本書の裏表紙に編集部が「著者たちの勇気にみちたこの平和行進は、世界各地で大反響を起こした。本書は、ベトナム戦争が深刻化し、核戦争の脅威が新たに迫りつつある今日、世界の良心を固く結んだこの平和行進の体験を、戦争への憤りをこめて綴った記録」と書いている。
 「まえがき」に我々は次のように書いた。「汗と泥にまみれ、あるいは鼻先の凍りつく寒さの中を、さまざまな人々と共に町から村へと歩いていった。徒歩で進めないときには、…、バスにゆられ、汽車で走った。ことばが通じないときには、…人々と解けあうことが最初の仕事だった。…政治的な立場も、風俗も、習慣も違う国々で、善意は共通であり、どの国の民衆も行動的楽天主義とでもいうべき力強さで、平和と未来を求めて生きていることを知った。…数千人の大行進にふくれあがったこともあり、ぼくらだけの行進もあった。…」
 出会う異文化の多様さ、奥深さ、目的である「平和の訴え」の難しさ、加えて資金の欠乏、肉体的に過酷なスケジュール等々。いずれも若さと情熱で乗り切った。
 このアジア・ヨーロッパ33か国の平和行進は、内外で一定の世論を喚起した。日本のマスコミも広島出発時から終着点のアウシュビッツまでよくフォローした。訪問先の外国メディアも大きく多面的に報道した。友人たちが、留守の事務局を支えてくれた。(続く)
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突然失礼します。ロシア史研究に携わっている塩川伸明と申します。このたび、「『広島・アウシュヴィッツ平和行進』について」という雑文を書き、フェイスブックに投稿いたしました。ご参考までにそれをコピペしてご笑覧に供します。
1962年から63年にかけて、4人の日本人が広島から出発してポーランドのオシフェンツィム=アウシュヴィッツへと、世界各地を巡礼する行進をしたことがあった(「広島・アウシュヴィッツ平和行進」と呼ばれた)。私はこのことをリアルタイムでは全く知らなかったし、その後たまに断片的に聞きかじっても、それはごく漠然たるイメージ以上のものではなかった。
私がはじめて多少なりとも具体性のある話を聞いたのは、「行進」からおよそ20年ほど経った時期のことである。当時、私は東大社会科学研究所の助手だったが、社研のある会合で和田春樹氏(当時社研教授)と加藤祐三氏(当時横浜市立大学教授)に同席する機会があった。和田氏と加藤氏は長年の親友だったらしく、和田氏は懐かしそうに、「加藤君は、あの広島・アウシュヴィッツ行進に参加していたんだよ」と語っていた。
これを聞いて多少身近な感覚が持てるようになったとはいえ、その後も、それ以上具体的なイメージはないままの状態が長く続いた。それがかなり大きく変わったのは、数十年後の2018年11月、加藤有子氏の組織した国際シンポジウム「ポーランドと日本における第二次世界大戦の記憶」に参加したときのことである(シンポジウムの記録は、加藤編『ホロコーストとヒロシマ』(みすず書房、2021年)として刊行された)。私はこのシンポジウムに出席したとき、ポーランド側発言者の報告に特に強い感銘を受け、直後に感想を書いたことがある。それとは別に、加藤有子氏はシンポの趣旨説明および自己の報告で「広島・アウシュヴィッツ行進」に相当具体的に触れていた(中でも、「ヒロシマ・アウシュヴィッツ」というレトリックが「ヒロシマ・アウシュヴィッツ・南京」へといったん拡大した後に、近年では「南京」が脱落するようになったという指摘が印象的だった)。この報告を聞いたおかげで、「行進」に関する私のイメージは大分鮮明なものとなった。
それから更に数年を経て、ごく最近、林志弦(イム・ジヒョン)『犠牲者意識ナショナリズム――国境を超える「記憶」の戦争』(東洋経済新報社、2022年)を読み、その第4章に「行進」をとりまく政治的文脈に関する新鮮な解説があるのを見出した。それによれば、アウシュヴィッツは今でこそ「ダーク・ツーリズム」の代表的な行き先となっているが、当時はそれほどメジャーではなかった。そのような場所を最終目的地とする「平和行進」のアイディアを最初に出したのは、ポーランドのカトリック政治家フランコフスキで、彼は「パクス」という政治組織に属していた。「パクス」というのはポーランドに存在した二つのカトリック系政治組織の一つで、もう一つの「ズナーク」と並んで、統一労働者党(共産党)のヘゲモニー政党制を補完する従属政党の一つだったが、「ズナーク」がある程度の自主性を保持していたのに対し、「パクス」はより従属度が高かったとされる。ナチの暴虐を象徴する場所であるアウシュヴィッツを最終目的地とするという彼のアイディアは、純然たる宗教的平和主義の発露――日本ではそのような受け止め方が多かった――にとどまるものではなく、ポーランド共産党と一定の調整を経ていたものと考えられる。冷戦下で展開された「西側」世界に対抗する国際的平和運動の一環という意味では、これがポーランド当局に認可されたのは自然だった。カトリックが多数を占める一般ポーランド国民からすれば、ユダヤ人とドイツ人はともに他者であり、オシフェンツィム(アウシュヴィッツのポーランドでの名称)は特に記念すべき場所ではなかったが、冷戦下で展開された「西側」世界に対抗する国際的平和運動の一環という意味では、これがポーランド当局に認可されたのは自然だった。他面、日本側も冷戦の制約と無縁ではなかった。日本政府はこの行進団への旅券発給に難色を示したが、その理由は、ソ連の暴虐を示すカチンの森ではなく西ドイツ非難を含意するアウシュヴィッツを目的地とするのは妥当でないということだった。また、この「行進」が始まる1年前に、東ドイツ・ドレスデンの市長は広島市長に姉妹都市になることを提案していたが、広島はこれに応えなかった。戦時中に連合国から無差別爆撃をこうむったという点で両市には共通性があったが、この提案もその黙殺も、当時の冷戦の文脈の中に置かれていた。このように「行進」の背後には冷戦に関わる政治が作用していたが、参加者はそうした計算だけで動いていたわけではなかった。「行進」の途上でシンガポールに立ち寄った参加者たちは、日本軍に虐殺された中国系住民の遺骨発見に立ち会い、「ヒロシマの犠牲者」とだけアピールしているわけにはいかないという現実にぶつかった。
こういう記述を読むと、いろいろなことを考えさせられる。「行進」が企画された時代状況について加藤有子もイム・ジヒョンも簡単に言及しているが、これは60年安保闘争挫折後というタイミングだった。とすれば、日本の社会運動の指導者たちや活動家たちの間では、闘争の次の焦点をどこに求めるかでいろんな模索や論争があったことが想定される。いわゆる「帰郷運動」もその一つだが、「平和行進」もそうした文脈に置かれていたのかもしれない。それ以外に、長崎とアウシュヴィッツを結びつけるシンボルとされるコルベ神父の反ユダヤ主義との関わりの問題とか、どうして日本で特にコルベ神話が有力なのかといった論点をめぐっても種々の見解があるようだ。
やや政治的文脈に引きつけすぎた感想になってしまったかもしれない。当時、平和運動に関与した人々の多くは、運動の頂部にいる人たちの政治的思惑とは別に、もっと素朴に平和を希求していたのだろう。そうした感覚と政治とがどのような相互関係にあったのかという問題は、別個に考えなくてはならない。ここではただ、かつてほとんど全く知らなかった事項について、長い年月を挟んで少しずつ知識が増えてきたという経過自体に面白いものを感じたことから、若干の感想を羅列したにとどまる(イム・ジヒョンの書物自体については、できれば機会を改めて、もっと包括的に検討してみたい)。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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