陸羯南

 標題の「陸羯南」に首をかしげる人がいるかもしれない。陸羯南(くが かつなん)の名は一部ではよく知られるが、一般にはそれほど著名ではない。明治中期に活躍した新聞人で、政府・政党等の宣伝媒体や営利目的ではなく、自らの理念にのみ立脚した言論報道機関として「独立した新聞」を目ざした。
 陸羯南(1857~1907年)は、陸奥国弘前(現青森県弘前市)に弘前藩近侍茶道役の中田謙齋、なほの長男として生まれた。実名は実、22歳で親戚の絶家再興を願い陸に改姓、羯南は号。16歳で東奥義塾(藩校の後継校でアメリカ人教師も採用)に入学、翌年、宮城師範学校(仙台)に移り、19歳で上京し、司法省法学校(法はフランスの意味)に入る。同級に大原恒忠(のち加藤拓川)、福本巴(日南)、国分青崖、原敬らがおり、終生の友人となる。
 理想と挫折の苦節を経て、1889(明治22)年2月11日(月曜)、羯南は新聞「日本」を創設(~1906年に譲渡、翌年没)、自ら主筆として執筆した。当時、新聞は非藩閥政府系の人たちのベンチャー企業であった。創刊は紀元節で大日本帝国憲法発布の日である。時に羯南32歳。以来、条約改正実現を名目とする皮相な欧化主義を批判し、日本の進むべき道を示しつづけ、度々の発行停止処分に屈することなく、言論の自由の先頭に立つ。
 いま東奥日報社・愛媛新聞社・日本新聞博物館の共催「孤高の新聞「日本」-羯南、子規らの格闘」展が日本新聞博物館(横浜情報文化センター内)で開かれている(6月20日~8月9日)。出展は約200点、丁寧に編集された図録が良い。その関連イベント・公開講座が8月1日(土曜)に催された。
 松田修一(東奥日報社編集委員室長)の司会で(敬称略)、3つの講演、すなわち(1)国文学者の復本一郎「子規と羯南と<日本新聞>」、(2)陸羯南研究会主筆の高木宏治「司馬遼太郎・青木彰からの宿題~羯南の磁場と多面性」、(3)歴史学者(メディア史)の有山輝雄「<独立新聞記者>陸羯南の提起するもの」が行われた。
 復本一郎「子規と羯南と<日本新聞>」は、資料を紹介しつつ二人の親交に迫る。資料①は1883(明治16)年、羯南のもとへ親友・加藤拓川の甥の正岡子規(1867~1902年)が来た初の出会いを示し、10歳年長の羯南の文章「いかにも無頓着な様子…段々話する様子を見ると、言葉のはしばしに余程大人じみた所がある…」を紹介する。資料②が肺結核・脊椎カリエスと闘病する子規「墨汁一滴」の1901(明治34)年2月11日、12年前を回顧、「…12年の歳月は甚だ短きにもあらず「日本」はいよいよ健全にして我は空しく足なへとぞなりける。其時生まれ出でたる憲法は果たして能く歩行し得るや」と結ぶ。
 資料③が「病牀日誌」(高浜虚子、河東碧梧桐らが交互に記す子規の闘病記録)の1902(明治35)年1月19日(虚子記)、「午後3時頃碧梧桐カラ電話デ子規君ノ容態ガ悪イ…子規君ハウンウン苦シゲニ力(ちから)ナゲニ唸ッテ居ラレル…羯南先生ハ親シク子規君ノ手ヲ握リ額ヲ撫デ慰メテ居ラレル…」を引く。
 ついで有山輝雄の講演「<独立新聞記者>陸羯南の提起するもの」は、小論文に匹敵するほど詳細かつ論理的なレジメを配り、①「新聞記者」としての羯南、②「独立新聞」の理念、③「独立」であることの緊張関係、④現在になげかけるもの、の4つを語る。
 有山さんは評伝『陸羯南』(吉川弘文館 2007年)等の多数の著書を持つが、本講演は羯南が世に埋もれた理由を探ること、また<国民主義>を掲げて政治・社会・文化に働きかけ格闘するという原則と<新聞紙たるの職分>を明らかにすることに置かれている。
 羯南は、①新聞記者であり、②新聞「日本」の経営者であり、③実際に条約改正反対運動の中心的指導者であり、④自分の書く記事を通じて<国民の形成>を意図した。これら4つの顔は互いに相矛盾することがあり、その間の緊張関係を保つ<格闘>の過程を追う。
 以上2つの講演の中間に、高木宏治「司馬遼太郎・青木彰からの宿題~羯南の磁場と多面性」があった。標題が示すように、ビジネスマンの高木さん(58歳、北京在勤)が「司馬遼太郎・青木彰からの宿題」をどう考えるかを語る。
 青木彰(1926~2003年)は高木さんの筑波大学時代の恩師で、産経新聞社の記者を経て同大学で「新聞学」を教えた。同社の同僚であった司馬遼太郎(のち作家、1923~1996年)が没すると、青木は司馬記念館の創設に奔走、高木さんは二人がともに課題として羯南の究明を掲げたことを知る。
 高木さんはビジネスの合間を縫って、羯南関係の資料復刻の編集を行ってきた。日本初のグラフ誌『日本画報』(1904~1906年)や『東亜時論』(近衛篤麿会長の同文会と、陸羯南、三宅雪嶺らの東亜会との合同で生れた東亜同文会の機関誌、1898年12月から1年)等である(いずれも、ゆまに書房)。
 高木さんの羯南への思いは、講演よりむしろ図録所収の「司馬遼太郎・青木彰の陸羯南研究」によく表れている。「司馬さんは、羯南が多くの新聞人を育てたこと、そしてその新聞人たちが、新聞「日本」を退社後に、今に続く大手の新聞、海外の邦字紙などで活躍した史実から、彼(羯南)が現代ジャーナリズムの源流であるとみて、さらに深く調べていこうとしていった」と述べ、ついで青木がまとめようとしていた著作『陸羯南と新聞「日本」(仮題)』の目次案を掲げ、その冒頭に「いま何故、陸羯南か、現代日本の思想状況と羯南、今日のジャーナリズムの危機と羯南」という問題提起があると記す。
 司馬さんも青木さんも究明なかばで逝去された。この高木さんの文章は、二人の遺志を引き継ぐ宣言と読むこともできる。遠くからエールを送りたい。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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