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『米欧回覧実記』をめぐって

 書斎の整理をしていて、久米邦武編『特命全権大使 米欧回覧実記』(1878=明治11年刊)の、田中彰校注岩波文庫版、全5巻(1977~1982年)が眼にとまった。1871(明治4)年から1873(明治6)年にかけ、北米から欧州の12か国をまわる政府使節団の報告書である。いつか読み直そうと、心のどこかで思っていた。
 使節団は総勢46名。岩倉具視(公家、出発時に47歳、以下同じ)を特命全権大使とし、副使に木戸孝允(参議、長州、39歳)、大久保利通(大蔵卿、薩摩、42歳)、伊藤博文(工部太輔、長州、31歳)等を据え、内閣を空にするとも言われた。編者の久米は大使随行の1員で(権少外史、肥前、33歳)、歴史家である。
 この使節団派遣計画は、「留守政府」の大任を負った大隈重信(参議、肥前、33歳)が立案、一行の訪問先や着眼点等について詳細な企画案を出したのが、大隈の旧知の政府お雇い外国人フルベッキ(1830~98年、オランダ系アメリカ人、宣教師)である。これら使節団に関する歴史と報告書の分析については、田中彰『岩倉使節団<米欧回覧実記>』(2002年 岩波現代文庫)等に詳しい。
 お雇い外国人を雇用し、外国人から学ぶことができたのは、幕末に結んだ諸条約がすべて話し合いによる「交渉条約」で、敗戦に伴う政治的な恨みがなかったためであり、雇用できた財政上の根拠は、第1に「敗戦条約」のような賠償金支払いを伴わなかったこと、第2に生糸輸出による外貨獲得があったことにある。
 ここで念頭に浮かぶのは、ほぼ同時代に、超大国イギリスとのアヘン戦争に敗れた清朝中国が、南京条約(1842年)、天津条約(1858年)、北京条約(1860年)とつづけて条約を結び、多額の賠償金支払い及び領土割譲(香港島等)を課せられたこと、さらにはインド、インドシナ、インドネシア等が列強の植民地とされたことである。
 列強との関係で言えば、立法・司法・行政の国家主権を喪失する植民地の従属性がもっとも強く、次が「懲罰」(賠償金と領土割譲)を伴う敗戦条約である。戦争を伴わない交渉条約には「懲罰」の概念がなく、従属性が弱い。これを簡潔に示すため、私は列強・植民地・敗戦条約・交渉条約からなる<近代国際政治-4つの政体>として図示した(拙著『黒船前後の世界』 1985年、岩波書店、増補版 ちくま学芸文庫、1994年)。
 久米は帰途のアジア諸国で何を見て、どう感じたか。久米編『米欧回覧実記』の岩波文庫復刻版第5巻にある「帰航日程」を再読した。
 植民地宗主国のスペイン・ポルトガル・オランダ3国については、「土人ヲ遇スルニ暴慢残酷」で、船中での振る舞いは「概シテ暴慢」、イギリスについては過去を反省、「寛容ヲ旨トシ」たため、「今日ノ盛大ヲ」を得た、と記す(307ページ)。なお新興国アメリカはまだアジアに植民地を持っていない。
 その一方で、英領カルカッタ訪問の項では、輸出首位を占める鴉片(アヘン)によりイギリスは中国人の「精神ヲ麻痺」させ、莫大な利益を得ているが、これは「文明に反する」と批判している(299ページ)。なおアヘン専売生産で得た植民地財政収入を銀塊でイギリス本国へ送金(拙著『イギリスとアジア』 1980年、岩波新書)、いわゆる「安い政府」を実現させたことまでは、久米には知りようがなかった。
 イギリスのアジア政策への評価と批判という久米の見解は、日本の対外認識・政策が幕末の開国前と開港後で大きく転換した残像が尾を引いているためでもあろう。
 幕府は、長崎に入るオランダ船と中国船に対してアヘン戦争(1839~42年)の詳細な情報を提出させ、それらを分析した結果、超大国イギリスを強く警戒、1842年、強硬な対外令の文政令(1825年)を撤回して、穏健な天保薪水令に切り替えた。この政策転換はアヘン戦争終結を画す南京条約締結のわずか1日前である。
 以来、幕府と世論の反英論(反英感情)から親米・親ロ論が強まり、新興国アメリカとの協調路線を選択する。そして1854年、ペリー提督と戦争を伴わない日米和親条約を締結した(拙著『幕末外交と開国』講談社学術文庫、2012年)。
 これを受けて来日したハリス領事(のち公使)と、1858年、幕府は日米修好通商条約を締結、五港開港のうち神奈川は翌1859年7月の開港と取り決めた。ところが具体的な開港場については幕府が横浜村(日米和親条約締結の地)を主張、ハリスは横浜村から直線で約4キロの神奈川宿を主張し、交渉は難航、膠着状態となる。
 開港日が迫るなか、ハリスは上海へ行ってしまう。幕府は、神奈川宿から横浜港に至る横浜道を通し、その中間点に神奈川奉行所を置いて工事担当とし(新設の神奈川奉行は5名の外国奉行が兼帯)、奉行所の出先機関として港に運上所(税関)や桟橋を造り上げ、突貫工事で横浜開港を実現させる(拙稿「横浜か、神奈川か」『横濱』誌2008年10月号、連載「横浜の夜明け」第8回)。
 7月1日、横浜港に一番乗りしたのはイギリス総領事(のち公使)オールコックであった。ハリスはあくまで神奈川(宿)開港を主張し、最後まで横浜港に足を踏み入れなかった。この頃から幕府は親米から親英へと舵を切り始める。
折しもアメリカは南北戦争(1861~65年)に突入、外交に手が回らなくなる。その間、日本は薩英戦争(1863年)とイギリス海軍主導の四国艦隊下関砲撃(1864年)に惨敗(国家間戦争ではないため「敗戦条約」はない)したのを転機に、討幕派がイギリスに急接近し、ついで明治政府(1868年~)もこれを継承した。
 明治政府は憲法や陸軍制度ではプロシャ(ドイツ)式を導入しつつも、基本的には親英路線を進み、皇室と英王室の親交、幕末諸条約の改正(1894年)、日清戦争(1894~95年)、日英同盟(1902年に調印~1921年)、日露戦争(1904~05年)、第一次世界大戦(1914~18年)を経て、国際連盟の常任理事国となる(1920年)。
使節団の米欧回覧は、明治政府の親英路線採用から数年を経た時点である。この頃から、政府内でイギリスの否定面(アヘン問題等)を指摘する見解は影をひそめ、ほぼ全面的に超大国イギリスをモデルとした。
 これは久米編の「米欧回覧実記」を再読、改めて確認した、幕末・明治・大正期を通じた対外関係の大枠である。今後の共同研究で、個別具体的な展開が望まれる。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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