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辻達也先生を偲ぶ会

 横浜市立大学に永く(1949~1986年の37年間)勤められた歴史学者(日本近世史)の辻達也先生が、2022年9月20日に逝去された。享年96。
 これを偲んで「日本史専攻卒業生の会」が『会報』第8号「特集 辻達也先生を偲んで」(2023.8 大庭邦彦責任編集)を刊行、私も一文を寄せた。「辻達也さんを偲んで」(64~77ページ)で、これに注を付して本ブログ2023年8月3日にも「辻達也さんを偲んで」として掲載した。いずれかをご覧いただきたい。この拙稿を受けて、その続きをこれから記していきたい。少し迂回するかもしれないが…

【辻達也先生を偲ぶ会と八景キャンパス案内】
  『会報』第8号の刊に合わせて「辻達也先生を偲ぶ会」がテクノタワー18階の宴会場グランシャリオで2023年10月21日(土)に開かれることになった。京急線の金澤八景からシーサイドラインに乗り、八景島や市大医学部を経て産業振興センター駅下車、右手先方にある高層ビルの中にある。
 10月10日に大庭さんからリマインド・メールが入った。「…10月21日に予定しております辻先生を偲ぶ会が迫ってまいりました。30名の日本史研究室の卒業生の出席を得て、準備も順調に進んでおります。当日は、御長女喜美子さんと息子さんもご出席くださるとのご返事もいただきました。先生もキャンパスツアーからご参加いただけるとの事、当方もキャンパスツアーの方に参加しきます。…話しが後先しました。お願い事ですが、偲ぶ会にご出席いただけるとのお言葉に甘えて、先生に開会のご挨拶をいただけませんでしょうか。当日、辻先生の在職時代のご同僚は先生おひとりです。ここは加藤先生に開会のご挨拶をお願いするのが一番相応しいのではないか、というのが世話人一同の思いです。不躾なお願いとは重々承知しておりますが、私どもの微意を御汲み取りいただければ幸甚に存じます。」
 辻さんの同僚の出席者は私ひとりらしいので、「…開会の挨拶の件、承知しました」と即答した。
 宴会場グランシャリオの「偲ぶ会」の前に有志が市大瀬戸キャンパスをめぐるキャンパス・ツアーを計画、卒業生の丸茂信行さんの案内でまわった。私の市大在任は1973~2002年の29年間であり、着任して実に50年ぶり、退任して21年ぶりである。
 この間、瀬戸キャンパスに来なかったわけではない。何度かの卒業式や入学式、また山向こうのテニスコートで学生たちと交流試合を行い、弓道場の手前のコートで教職員テニス親睦会の練習をしていた。コロナ禍の4年間は来ていない。
 前掲の拙稿を書くために、私の市大着任時の1973年の『学生便覧』を図書館(情報センター)に頼んで取り寄せると、現在の文化系研究棟のある所に木造平屋立ての将校兵舎があり、そこが教員の研究室、歩くと床が軋む音がした。その奥に(現在のシーガルセンターあたり)に麺類等の軽食を食べさせる店があった。いずれも遠い記憶である。

【大庭さんとの出会い】
 10月21日(土)、すこし早めに瀬戸キャンパスの正門に着いた。三々五々、それらしい人が集まってくる。そのなかに中肉中背で勢いのある歩き方の青年から声をかけられた。「先生、お変わりありませんね」。大庭邦彦さんであった。4年前の2019年9月30日、大庭さんと下記のメール交換をした。
加藤祐三先生
>ご無沙汰しております。市大時代にお世話になりました日本史の大庭です。我が史研の後輩でもある西川亘君をしのぶ会の際には、いろいろお話を伺い、教師としての貴重なアドバイスまでいただき、有意義な時間をいただきました。その節は本当にありがとうございました。あの西川君が、先に旅立つなど、思いもよらないことで、人の世のはかなさ、そしてやりたいこともやり切れずに、中途でその可能性を無残にも奪われてしまうことの残酷さ、無念さを痛感させられました。当日は所属した東洋史の仲間たちも数多く集まり、彼の人柄を彷彿とさせる会となりました。先生が回復の見込みが難しくなった彼に厳しいアドバイスをされたことも伺いました。その時の先生の思いを考えれば、如何ばかりかの思いであったかと、思わずにはおられません。
>ところで、その折にもお話させていただきましたが、当方の勤務先(=聖徳大学)で歴史文化コースの教員が交代で担当している授業で、文化財実地研修という体験型の授業、今期、その担当が回ってきました。日本近代美術史を担当している桑原規子教授と二人が担当で、三渓園の見学を中心に横浜を回る事に決めました。彼女も三渓園を運営する団体の理事を務めている猿渡さんという方(市大出身の方との事です。)と懇意にさせていただいているとの話です。履修学生は、日本史専攻の3年生6人です。彼女たちには事前の座学で三渓園のことについて(園のこと、特に中の文化財群についてはいうまでもなく、園を造った原三渓についても)、事前学習をしっかりさせて、実り多い学習の機会にさせてやりたいと思っております。
>現在の所、11月30日(土曜日)を巡見予定日に組み込みました。当方は個人で以前、と言っても大分昔の話になってしまいますが、訪ねたことがあります。その時は根岸からバスで行ったと思うのですが、余り交通の便が良くなかったという記憶があります。今回も複数の学生を引率しますので、その辺りを確認したく、事前に一度下見に参りたいと思っております。
>先生が、財団の理事はお続けになっているとの事は、ネットで確認させていただきました。先生は現在も園長をお務めになっていらっしゃるでしょうか。先生に特段お手を煩わせることはないか、と思いますが、もし同日、先生が御出勤されているようであれば、是非、ご挨拶に伺いたいと思い、ご連絡を差し上げました。
大庭 邦彦

大庭さん
お便りありがとう。
ご来園、熱烈歓迎です。
いまも園長を務めています。
私もブログで三溪園のさまざまなことを書いています。
http://katoyuzo.blog.fc2.com/
右欄にあるカテゴリのうち三溪園が最多になっています。事前学習にも活用してください。
 西川の件も掲載しました。左欄を下ろすと掲載の年月日があるので、本文に至ることができます。
ところがご来園予定が11月30日(土曜日)とありますが、この日はたまたま横須賀開国史研究会の創立20周年記念シンポジウムと重なっており、三溪園へは行けません。…
加藤祐三

 大庭さんが三溪園に来たときに初めて会ったと思い込んでいたが、とんでもない誤解であった。この時は会っておらず、文中にある「我が史研の後輩でもある西川亘君をしのぶ会」(横浜中華街の一角にある集会所で開催)が最後で、以来7年ぶりである。

【古い刊行物】
 キャンパスツアーの最中、7年ぶりに再会した大庭さんは「先生の授業で使われた参考文献『イギリスとアジア』をよく覚えています」と言う。
 それを聞いて『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年 黄色のカバー)を思い出した。1977年入学の大庭さんが4年生の年、実に43年前の出版である。
本ブログの2017年6月21日掲載「我が歴史研究の歩み(連載)の【25】連載「イギリスとアジア」に記載がある。本書は文部省「在外研究」の成果であり、私の研究の転換点をなした作品で、拙著最長のロングセラーである。
その一部を再録したい。
……連載「紀行随想 イギリスの近代」(世代群評社の『道』誌)を見た木村秀彦さん(岩波書店編集部)が、帰国後の1979年春、声をかけてくれた。連載等を新書にまとめないかと言う。
 イギリスから自宅へ送った大量の史料コピーは、べニア板張りの大型紅茶箱で7箱はあり、開けてみて史料的価値の高さが改めて分かった。これらの史料とメモを駆使すれば、1つの歴史書ができる。欣喜雀躍した。
 ワープロやパソコンが普及する以前で、強い筆圧から来る腱鞘炎に悩まされ、鉛筆を4Bに変え、表面の滑らかなA4サイズの縦書き原稿用紙に向かう。1979年の夏休みは執筆に専念した。能率を上げるため早朝2時に起床してすぐ執筆、11頃までつづけると休憩を入れても8時間は確保できる。昼食後、1時間半の仮眠。午後2時に再開して、晩の10時まで8時間、合わせて16時間の作業ができた。若さゆえである。
 私は書き始めると速いが、推敲には時間をかける。雑誌連載に加えて新たな書き下ろしを組み入れ、『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年1月)は刊行に至った。黄表紙版の108番。偶然とはいえ、この数字が仏教でいう煩悩の数と同じであるのが妙に嬉しかった。……本書は序章「点描」と「おわりに」を除くと、3部9章の構成である。……
「Ⅰ イギリス近代の風景」には、「第1章 村の生活-1790年」、「第2章 人と交通と情報」、「第3章 都市化の波」の3章が並ぶ。……
「Ⅱ 19世紀のアジア三角貿易」は、「第4章 紅茶と綿布」、「第5章 アヘン貿易」、「第6章 アヘン生産」の3章が入る、本書の核心的部分である。貿易統計を活用して、第4章で紅茶と綿布(薄手のインド産綿布と厚手の中国産綿布のイギリスへの輸入から反転して産業革命の工場製綿布のインドへの輸出を示し、第5章では植民地インドから中国・東南アジアへのアヘンの輸出を明らかにし、イギリス・インド・中国を結ぶ「19世紀アジア三角貿易」の実態を明らかにした。第6章にはケシ栽培・アヘン生産の科学的実験例等を加えた。
「Ⅲ イギリスとアジア」は、「第7章 イギリス国内のアヘン」、「第8章 パブと禁酒運動の産物=レジャー」、「第9章 イギリスとアジア」の3章が入る。第7章ではイギリス国内のアヘン消費(主にアヘンをアルコールに溶かした強心剤アヘンチンキの流行)の状況を述べ、第8章は近代化初期のイギリス国内の諸相(酒税歳入が40%を占める等々)と近代スポーツの誕生等を描き、第9章でイギリスのアジアとの関係やアジアに及ぼした影響に触れ、イギリスは清朝中国と戦争による激烈な出会いをしたが、日本とは「おだやかな出会い」をしたと述べる。
「あとがき」(1979年10月付け)では、中国近代史からイギリス史を見ることを中断し、イギリス近代史からアジアとの関係を考える発想の転換にいたった経緯を述べている。……
 新書にしては長めの6ページの参考文献を付け、本文に省略形で入れた注と対応させる方式をとった。……本書は従来の常識とかなり違う内容を含んでいるため、学術書と同様に出典を示し、史料の表記に工夫をこらした。読み進めるための障害を少なくする一方、根拠を知りたい読者には参考文献に到達できる工夫である。新書にこの方式を採用したのは、本書が最初ではないかと思う。
 アヘン戦争(1839~42年)を知らない人は少ないが、戦争の原因となったアヘンの生産と流通に関しては、中国史学界はもとより欧米でも十分な研究がなかったので、本書が初めて明らかにした事実も少なくない。本書は版を重ね、12年にわたり18刷まで刊行、多くの書評を得た。

【史研の後輩、西川亘の最後の頑張り】
 大庭さんの史研の後輩という西川亘の最後の頑張りぶりについては、本ブログ7年前の2016年12月28日掲載の「緩和ケアと友情」に書いた。学生同志の付き合いは広い。この縁から今回、1973年入学の對馬労さん、西村淳一さん、波多野章さんと西川亘の話を通して旧交を温めることができた。
 こちらも少し長いが、関連箇所を再録したい。
……横浜市立大学(以下、市大)文理学部人文課程東洋史の1985(昭和60)年前後の卒業生は仲が良く、卒業後30年余を経ても集まることが多い。教員にも声がかかる。連絡係を買っているのが西野均君(1988年卒業、横浜市職員、いまは市大附属病院勤務)で、彼の地道な努力が友情の輪をつないでいるようだ。先月11月18日(金曜)の朝、西野からメール連絡が入った。
 「昨夜、三田登美子さんから連絡をいただき、西川亘さんが入院中であり、東洋史関係の諸先輩方への連絡を依頼されました。西川さんは、胃がんを患い療養中のところ、先日、強い痙攣発作を発症し、救急入院となり、検査所見から、脳への転移が疑われ、症状が芳しくないとのことです。」
 その日の夕方、埼玉県の病院を尋ねた。私は10年前に受けた大腸癌手術に至るまでの不安な日々に、最近逝去したイギリス人の友人の「緩和ケア」の経過が重なり、動顛する気持ちを押さえて、ベッドに仰臥した西川と対面した。その報告を、西野へ以下のメールで伝える。
 「西川君を病院に見舞い、いま帰宅しました。彼はしっかりとした口調で、<癌が頭に転移し、終末期治療に入っている。先ほど放射線治療を受けてきた…>というので、思い切って<…これから緩和ケアに入るから、健常者には分からない格闘が始まる。もし嫌でなければ言い残しておきたいことをICレコーダーに吹きこんだらどうか>と勧めると、彼は<…そうですね。吹き込んでみたい>と前向きな声が聞かれた。…<緩和ケア>については、旧知のイギリス人の経験があります。下記の私のブログの数回前、10月21日掲載「ディリアの逝去を悼む」に書いたのでご覧ください。私からのこの返信をみなさんへ転送してください。」
 1時間もしないうちに西野からメールが来た。
 「早々にお見舞いに行っていただき、ありがとうございました。<もう面会者と話もできない状況かも知れないから、皆で見舞いに行くのは、西川さんの負担になる>と言われたので、かなり心配していましたが、先生のメールを拝見して、少し気持ちが楽になりました。先生のメールは諸先輩方へ転送させていただきます。…」
 その後、気にしつつ、2度目の見舞いに行けないまま日が過ぎた。12月22日昼、西野から西川の訃報が届いた。見舞いに行った日から33日目である。
 「…西川亘様におかれましては、2016年12月21日、ご逝去されました。…西川さんの生前のご意志により、通夜、告別式は行われませんが、ご出棺前に最後のお別れの場を設けていただきましたので、ご参列お願い申し上げます。…ご家族(弟様)からお預かりしたPDFファイルを添付いたしましたので、ご覧ください。」
 24日(土曜)、斎場に着くと同級生や前後の卒業生たち、それに初めて会う方々が多数集まっていた。奥に安置された西川の遺体に合掌。享年55。穏やかな表情に安堵する。
 弟の次郎さんが「…先生が見舞いに来てくださってから、兄は急に前向きに闘病生活を始めました…」と言う。あのとき話した「…記録を残さないか…」の勧めは西川に良かったのか、不安があった。「…これが兄の書き残したものです…録音する代わりに自分で書きました」とノートを見せてくれた。
 几帳面な字でびっしり書いている。あの状況で、ここまで大量に書くことができるものか。最初が2016.11.19の日付(私が見舞った翌日)。冒頭に「これは、私こと西川亘の終末闘病日記となる。<闘病>というより、緩和Careの中で<生>に関して気付いた見解を綴っておこうという方を主眼としたい…」とある。その気概と整然とした文章に驚嘆した。
 1行空けて、癌の告知からの経過を淡々と綴る。「昨年11月に体調の悪さを自覚して医師の診断を受けると、薄々予期していた通り、胃癌と診断。胃カメラ映像を見ると、もう相当進行しているのが素人眼にも瞭然。既に肝臓にも多数転移。手術はできないとの主治医の言葉。ステージは幾つくらいか、怖くて尋ねることもできなかったが、既に末期段階であったものと後推量する。」
 その約1年後の2016年11月9日、「未明に目が覚めると左手首に痙攣を覚え、独り身では携帯電話での連絡もつけようがないと気づき、この11月9日が、私の第二の人生の初日なのだ…何とか発作が一時収まり、救急車を呼び…16日からガンマーナイフ(放射線照射治療)、知人にもメール連絡を行う。」と記す。
 「18日…、病室の外の廊下に加藤祐三教授の姿が。僕は40年(ママ)も前の教え子だ。…言い残しておきたいことを記せとの有益な提言を戴いた。」とある。
 次ページから最終ページの12月18日(逝去の3日前)に至るまで、見舞いに訪れた多数の友人たちの名前と会話や印象を綿密に記す。学生時代の友人のみならず、俳優(『日本タレント名鑑』にあり、舞台・映画・テレビ等に芸歴を持つ)として共に活躍した人、会社勤務時代の人も含まれる。なんと多彩で豊かな交友か。
 このノートは、人生の最後を濃密に生きた命の記録、死を目前に、生きる今を書いた、かけがえのない記録である。彼の卒業論文「アジア主義者の転向-橘樸の場合をめぐって」(『横浜市立大学学生論集』1986年号に掲載)にも劣らぬ立派な存在証明である。

【辻先生を偲ぶ会の配布資料】
 シーサイドラインの産業振興センター駅下車、テクノタワー18階の宴会場グランシャリオで開かれた辻先生を偲ぶ会に至る。配布資料は、出席者名簿、横浜市立大学校歌、仰げば尊しの歌詞、そして「欠席の方々から寄せられた メッセージ」。(加藤注:2つの表の表記を変えたので、当日の配布物とは見かけが違うが、内容は同じである)

辻達也先生を偲ぶ会 ご出席者
ご来賓
加藤祐三先生
上田喜美子様  上田 知夫様
入学年 お名前(敬称略) 入学年 お名前(敬称略)
1955 関口 一郎 1970  丸浜 昭
1961 山形 真功  1970 三浦 晴子
1964 渡辺 賢二 1971  佐野 菊枝
1965 丸茂 信行 1973 中島浩一郎
1965 丸地 三郎 1973 重松 正史
1966 天下井 恵 1975 對馬 労
1966 大久保英夫 1975 西村 淳一
1966 吉田 俊純 1975 波多野 章
1967 鈴木友萬朗 1977 大庭 邦彦
1968  鎌野 茂 1980 堀江 英夫
1968 染井みどり 1982  池田 雅子
1968 三浦 進 1982 小林 元裕
1970 大内裕見子 1982 桜木 千玲
1955* 吉永貴美子
(故・啓二様奥様)

2023年10月21日 於・横浜テクノタワーホテル

横浜市立大学校歌  
西条八十作詞 古関裕而作曲 1954年

鴎の翼に 朝日は耀よい
沖ゆく黒潮 とこしえ新し
世界の海港に 意気も高らか
あつまる若人 われら われら
ああ 浜大の俊英 われら

若き日みじかし 真理は遙けし
究むる情熱 鉄火もつらぬく
潮風かおる園に 友と仰ぐは
理想の青雲 われら われら
ああ 浜大の俊英 われら

民主と自由の 紅さす曙
みどり明けゆく 歴史の半島
栄ゆる祖国を 息吹も新た
築かん若人 われら われら
ああ 浜大の俊英 われら

仰げば尊し
仰げば 尊し 我が師の恩  
教の庭にも はや幾年    
思えば いと疾し この年月 
今こそ別れめ いざさらば  

朝夕 馴れにし 学びの窓
蛍の灯火 積む白雪
忘るる 間ぞなき ゆく年月
今こそ別れめ いざさらば

 欠席の方々から寄せられたメッセージは個人情報であり、そのまま公開するのはためらわれる。かといって載せないのももったいない。合計32名からで今回参加者30名とほぼ同数である。そこで、お名前の欄を削除して掲載することにした。(加藤注:こちらの表も様式を変えたが、内容は変えていない)

欠席の方々から寄せられた メッセージ

入学年 メッセージ
1952 目下 病気療養中にて残念ながら欠席致します。御盛会をお祈り申し上げます。
1952 出席したいのですが、歩行できませんので、行けません。要介護3です。こゝまで生きた証に最後に何か残したいですが、できますかどうか。皆さんによろしく。
1959 大庭様をはじめ、お世話下さった皆々様に心よりお礼申し上げます。『会報』8号に送付しました原稿、全くの幻想ともいえるもので、お恥ずかしい限りです。女房奉書と旧辻邸とは何の関係もないのに、どこでどう間違えたのか? 認知症が相当に進んでいる証拠のように思えます。2021年4月末に胸椎骨折以来、体重6kg身長9㎝減。目・鼻・歯・耳とすべてに悪くなり、シワシワ背丸の婆さま(当然の老人ですが)。こんな姿になるんやな…というところです。どうぞ皆様呉々も身体を大切になさって、益々のご活躍を祈っております(応挙の老婆にソックリ)。
1961 山形君の稿なつかしく拝読。県立高校退職後も郷土史研究にたずさわり、今も古文書講座など致しております。これもひとえに遠山先生、辻先生のお陰と日々感謝しております。
1962 最近は持病のために長時間の移動が不可能です。残念ながら欠席いたします。
1963 他の会合の先約がありまして、残念ながら欠席します。「辻達也先生」の会報、なつかしく拝読致しました。山形先輩の玉稿に先輩のご活躍を嬉しく読ませていただきました。『会報』8号に添付して大切に保存します。大庭様お世話になりますばかりで、感謝しております。
1964 さまざまな取り組み、本当にご苦労様です。皆様によろしくお伝え下さい。
1964 当日はすでに約束した市民あての歴史講演会が入っており、出席できません。皆様に宜しくお伝え下さい。これで最後と思われる日本史の会に参加できないのは残念です。
1964 都合がつかず欠席します。ご盛会を祈念します。ご苦労様です。
1964 ご連絡ありがとうございました。当日は他用があり、申しわけありませんが欠席とさせていただきます。
1965 最近、体調が本調子ではないので、欠席させていただきます。
1965 会報ありがとうございました。
1965 旅行計画があるため(欠席します)。
1966 大庭様、会報の編集等、長い間、おつかれ様でした。有難うございました。
1967 残念ながら、不都合です。ご参集のみなさんのご健勝を祈念いたします。
1967 大庭様はじめ皆様のご健康とご活躍を祈念しております。同年代の友人も少なくなってまいりました。ずっと横浜市に住み続け既に後期高齢者となっております。先月24日にコロナに感染し、大変な思いをしました。今は、しばらく人の集まりには失礼をしております。
1970 日本史研究からも、歴史教育からも遠ざかる一方の教職生活でしたが、研究室での刺激的な出会い、そこで培われた感性や物の見方から、生涯、逃がれ得ずに来たことの意味を自らに問う昨今です。
1970 大変残念ですが、珍しく ひまな老人 予定が入っており、欠席させていただきます。毎日のんびり、何もせず無為に暮らしているのに予定があるのは本当に珍しいのですが、すいません。皆様によろしくお伝えください。
1971 世話人会の皆様にはいつもお世話になっております。21日は、孫の成人式の写真撮影があり、欠席させていただきます。
1971 いつもお世話になっております。10月22日、宮城県議会議員選挙が予定されており、それに関連する所用があるため出席できません。卒業生の皆様によろしくお伝えくださいませ。
1973 できの悪い学生であった私は そのまま大した成長もせずに教員になり、退職し、69歳になってしまいました。その穴埋めの如く、いま週2・3日のパートに加え、アレコレ動き回っています。頭の身体もなかなかうまく働いてくれない状態ですが、もうしばらく頑張るつもりです。ご出席のみなさまのご健康とご活躍を祈っています。
1973 今年に入って脊柱管狭窄症を患い、長い歩行や階段の昇降が辛くなっており、欠席いたします。そろそろ手術が必要かも。当日は一人で、先生を偲びます。
1973 母の介護で忙しいですが、何とか出席したいと思いましたが、やはりやめます。返信が遅くなってすみません。実は脚が痛くて、杖を頼りに歩いています。長距離は無理かな、と思いなおしました。
1973 会報第8号のご編集作業他、さまざまなご活動、ご苦労さまでございます。
1973 会報の編集・出版ありがとうございました。特に何も活動はしていませんが、「歴史は何のために学ぶのか」という視点は、現代の事象を考えるうえで私の原点になっています。
1975 締切りを過ぎてしまいました。申し訳ありません。どうしても都合ががつかず、偲ぶ会を欠席します。大庭さん、いつも連絡ありがとうございます。
1976 いつもお世話下さりありがとうございます。辻先生を偲んでの会報はとても充実した内容でした。ずっと辻先生には近況を報告していましたが、昨年訃報に接し、改めてお礼とお別れの手紙を書きました。子どもたちへ『学習まんが 人物日本の歴史 徳川吉宗』を送ってくださる先生でした。
1976 大東文化大は退職しましたが、全日本柔道連盟はやめられず、全国を旅する日々です。10月21日は仕事のため参加できません。皆様のご多幸をお祈り致します。大庭昭彦様いつもありがとうございます。
1977 ご案内ありがとうございました。欠席させて頂きますが、皆様の集いに、先生も喜んで下さることと思います。皆様のご健康をお祈りいたします。
1980 ご案内ありがとうございます。現在、再任用教諭3年目に入り、母校の定時制に勤務しております。休日等なにかと所用があり、出席が叶いません。皆様によろしくお伝え下さい。
1981 「辻達也先生を偲ぶ会」のご案内状ありがとうございました。参加したかったのですが、模試の日と重なり、やむを得ず不参加となってしまいました。このような機会に是非懐かしい方々とお目にかかりお話ししたかった…。どうぞ皆様によろしくお伝えください。大庭さん、今回も色々とご準備をありがとうございました。市大へも40年?!ぶりに足を運びたいところですが…。お元気でご活躍ください。
1982 大庭さん、いつもありがとうございます。辻先生からは毎年お年賀状をいただいていたので、寂しく思っています。

【開会の挨拶】
 大庭さんの司会で「偲ぶ会」が始まった。「開会の挨拶」に立つ。ぼんやりと浮かぶ氏名と顔が何人か程度である。市大に着任した1973年から50年、退職した2022年から21年、参集した面々に知った顔はほとんどない。
 それに私は人文課程の東洋史専攻の担当教員であり、ここにいるのは日本史専攻の卒業生だから、日常の接触はさほど頻繁ではなかった。辻達也さんから得た学恩に報いるためで、そのあたりは『学報』第8号の64ページら77ページにわたり、長めに書いてある。
 考えあぐねた結果、次のように話し始めた。
……長いこと大学に勤め、若い子を相手にしていると、自分は年を取るが、学生は毎年同じ18歳の新入生から20代の大学院生までと変わらないため、不思議な感覚を抱く。
 そこで4月の入学式と3月の卒業式の式辞で、自戒の意味を込めた人生訓を<三訓>として話してきた。聴いた覚えのある方はいないでしょう。私が学長を勤めたのは1998年から2022年までですから、該当する方はおられないようです。
<三訓>とは、
(1) アシコシツカエ(足腰使え)
(2) ツキイチ コテン(月一古典)
(3) セカイヲミスエ モチバデウゴカム(世界を見据え、持ち場で動かむ)
このうち(1)はスポーツ礼賛とも受けとれるが、スポーツ嫌いな学生には散歩礼賛でもいい。とにかく足腰を使うことの大切さを伝えたかった。
 私の場合、具体的には、還暦を機に開発した朝トレ(朝トレーニング)を約1時間、散歩(ウオーキング)を1時間半から2時間、それに週に2~3回のテニス、合わせて1日に3~4時間、肉体を使う。
 おかげで長い睡眠時間が必要になる。その分だけ知的作業の時間が減るが、そこは工夫のしどころ…として曖昧にした。
 (2)は、月に一度は古典に触れて感動を得てほしいの意味である。古典とは「長い時間を経て現在に残るもの」の意味で、名曲・名作等の偉人の作品にとどまらず、巨木・巨石など自然の恵みを意味する。
 「月一古典」は、私のブログ http://katoyuzo.blog.fc2.com/のタイトルで使っている。こうしてみると、ブログは折に日記の代わりにもなる。
 最後の(3)セカイヲミスエ モチバデウゴカム(世界を見据え、持ち場で動かむ)は、日々、事あるごとに、肝にじ、自分に言い聞かせている。

【献杯のことば】
 ついで最年長の関口さんが献杯の音頭をとった。席が隣りだったのでお年を聞くと昭和10年とのこと、私の1歳年長である。キャンパス・ツアーから一緒だった。

【卒業生が思い出を語る】
 司会の大庭さんが「ついで独断と偏見で私から指名しますので、思い出を話してださい」と進める。思い出の(1)は1965年入学の丸地三郎(敬称略、以下同じ)、(2)が1968年入学の鎌野茂、(3)が1964年入学の渡邉賢二、(4)が1982年入学の池田雅子、(5)が1971年入学の中島浩一郎、(6)が1966年入学の天下井 恵、(7)が1961年入学の山形真功の計7人。
 みなの思い出に共通するのは<古文書合宿>である。古文書を読み解く昼間の格闘が終わると宴会になる。酒豪の辻さんは、酒が切れると学生に買いに行かせる。その<陰陽の差>とも言うべき姿が微笑ましい。
 天下井 恵さんが「思い出の写真集」を制作して披露した。映像は具体的であり、思い出をさらに深くする。視聴する側も、何十年も前の青春に引き釣りこまれる。
 最後の山形真功さんは入学年では関口さんに次ぐ2番目である。彼とはシーサイドラインの車中から一緒だったが、中央公論社『世界の歴史』25巻『アジアと欧米世界』(川北稔との共著)でお世話になったのに、ご挨拶を受けるまで気が付かず、申し訳ないとをした。

【辻先生の長女・上田喜美子様の思い出】
 喜美子さんが、ご尊父のいかにも優しい日常の姿を話された。隣の席だったので、ご遺影はお幾つの時の者ですかと尋ねると卒寿(90歳)のお祝いのときのものとのこと。私の記憶に残る辻さんの風貌そのものである。
 私は拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)を「…遅くなりましたがご墓前に…」と謹呈した。

【校歌と仰げば尊しの斉唱】
 最後は校歌と仰げば尊しの斉唱である。入学式・卒業式では学生の管弦楽団が伴奏、応援団長が高々と大声をあげ、手振りでリードする。これを思い出しながら歌った。これが市大生の共通項であろう。

【これから…】
 『会報』第8号に辻達也さんからの学恩を綴ったことで、日本史専攻の卒業生の多くと知り合うことができた。
 これから改めて『会報』第8号に触れたい。まず辻さんの「略歴」(7~11ページ)、「著作目録」(13~36ページ)、「辻達也教授 横浜市立大学最終講義 日本史上における江戸時代の意味」(37~62ページ)である。
 ついで教え子たちが書いた文章。大庭邦彦「晩年の辻先生」(同誌89~94ページ)や卒業生25名による「思い出と現況」(同誌95~180ページ)、丸茂信行「追悼 阿津坂さんを偲んで」(同誌168~174ページ)、それに辻さんが市大退職後に勤めた専修大学の卒業生3名の「思い出と現況」がある。
 また1966年入学の『吉田俊純論文集 第1号』(私家版 2本の「会沢正志斎」論)を頂戴した。また古代日朝関係について研究している1965年入学の丸地三郎さん(古代史ネットワーク会長)と意見交換をする時間もあった。
  「辻先生を偲ぶ会」に声をかけていただいたことに深く感謝する。ありがとう。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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