米捕鯨船マンハッタン号の浦賀来航-日米交渉①
2022年9月24日、青山学院大学において「青山学院大学総合研究所シンポジウム「オランダ別段風説書にみるグローバリゼーション-19世紀の世界と日本-」が開かれ、要請を受けた私が特別講演「アヘン戦争と日本の開国」を行った。
その講演内容の概略は、本ブログ2022年10月4日掲載の「アヘン戦争と日本の開国(上)」、2022年12月26日掲載の「アヘン戦争と日本の開国(中)」ならびに2022年12月28日掲載の「アヘン戦争と日本の開国(下)」の3回に分けて書いた。
【1825年文政令(異国船無二念打払令)の撤回と1842年の天保薪水供与令】
1842年の天保薪水令から12年目に実現する日米和親条約(1854年)、16年目の日米修好通商条約(1858年)、そして17年目に実現する1859 年 7月 1 日=安政六年六月二日)の横浜開港について述べるには、まずその発端となる1842年8月28日の天保薪水令(薪水供与令)から始めなければならない。
幕府は長崎で収集したオランダ商船と中国商船が伝えるアヘン戦争情報(風説書)を読み解き、イギリス海軍の圧倒的な力を冷静に掌握、これにモリソン号打払い事件(1837年)という過去の<経験>を結びつけ、強硬な文政令(異国船無二念打払令)から穏健な天保薪水(供与)令に政策変更した。アヘン戦争終結を示す南京条約の1日前、すなわち1842年8月28日である。
これ以降、幕府は<避戦>に徹っした。すなわち<戦争>の敗北による悲惨さと、<交渉>による意見交換の有効性との決定的な相違を認識し、それに沿った行動を取った。これについては、2023年9月26日の本ブログに掲載した「天保薪水供与令へ」をご覧いただきたい。
【浦賀奉行所の2度の経験】
浦賀奉行所には、これまで異国船来航の記憶と応接の経験が2回あった。日米双方の公的使節同士の接触ではないものの、両国関係者相互の接触であるため、「日米交渉①」と付した。いわば民間交流の事例である。
第1回が、アメリカ捕鯨船マンハッタン号のクーパー船長が日本人漂流民を救出、彼らをとどけるために浦賀に来たこと(1845年(弘化二年)春)。漂流民の受け取りは長崎に限るとする前例を撤回して、幕府は浦賀での引き取りを決断し、その実務を浦賀奉行所に任せた。
奉行所の与力・同心たちは知恵を絞り、懸命に働くなかで、22名もの日本人漂流民を救助し、その送還のために来航したクーパー船長と実際に折衝する過程で、クーパー船長の無私の行動に奉行所の役人も浦賀の庶民も痛く共感した。
また、クーパーに対して日本に戻ってこないようにとも告げた。4月21日、300隻の日本船が、マンハッタン号を沖合20マイルまで曳航した。
クーパーはこのとき、日本人漂流民が使用していた海図を持ち帰り、1846年10月14日の帰国後に米国政府に提出した。この地図はマシュー・ペリーの1853年の日本来航の際に利用されたと言われている。
【アメリカ東インド艦隊ビッドル提督の軍艦2隻が浦賀来航】
第2回が翌1846年7月20日(弘化三年閏五月二十七日)、アメリカ東インド艦隊ジェームス・ビッドル(James Biddle,1783-1848)提督の率いるアメリカ軍艦二隻の浦賀への初来航である。
日本側は、水、コメ20俵、麦2表、小麦粉1箱、さつまいも11俵、鶏50羽、木材、大根、お茶10ポンドを無料で供給し、その他漆器などのおみやげを渡し、漂流民の送還に感謝した。
この件は別稿で詳しく述べる予定である。
【平尾信子『黒船前夜の出会い-米捕鯨船長クーパーの来航』】
マンハッタン号の浦賀来航については平尾信子『黒船前夜の出会い-米捕鯨船長クーパーの来航』(NHKブックス 706 1994年7月25日)が信頼でき、かつ読みやすい唯一の専著である。
本書の「はじめに」(1994年6月)で平尾さんは、ご主人の勤務に伴い、クーパー船長の曽孫マーケーター・ケンドリックさん(当時80歳代)と知り合い、貴重なモノの資料と文書類を得て書き溜め、日本放送出版協会創立60周年記念「ノンフィクション賞」に応募し、佳作に入選したものを大幅に再構成して書き下ろしたものが本書である、と記している。
本書の構成は、第一章「捕鯨船長マーケーター・クーパー」、第二章「日本訪問」とクーパー船長の動きを追い、第三章「マンハッタン号受け入れの背景」で日本側との接触に言及、そのⅢ「阿部正弘の英断」において述べ、第四章「マンハッタン号の波紋」、終章「クーパー船長の残したもの」で、焦点をクーパー船長の行動におく。
【拙著『世界繁盛の三都 ロンドン・北京・江戸』】
本書の広告欄に前年に刊行した加藤祐三『世界繁盛の三都 ロンドン・北京・江戸』(NHKブックス 1993年)が載っており思い出した。こちらは18世紀後半から19世紀前半の、人口100万人を数える世界3大首都を描いている。
その執筆動機は漂流後にアメリカ捕鯨船に救われ、鎖国の最中に強硬帰国、最新のアメリカ情報を知らせた中浜万次郎の思いの一つ「…アメリカ人は江戸を見物したがっている。…」を伝えようとする点にあった。言い換えれば、アメリカの日本に対する<平和的な意図>を示したいと思った。
【「古文書を楽しむ」シリーズ 全63回について】
平尾信子の専著(1994年)から約10年後に、大船庵「常設講座 古文書を楽しむ」(デジタル版)が始まった。2005年10月14日掲載の「0 古文書のはじめに 解説文の形式について」から、2022年7月9日掲載の「62 江戸城探訪 一般参観コース記録」に至る全63回で構成される。
取り上げるテーマは時代順ではなく、対外関係や国内問題を問わない。「5 暦の話」や「9 駿河土産」等もある。うち幕末期の事件としては、2005年10月24日掲載の「2 ペリー再来日誌 添田日誌解読及び関連資料」、2007年9月25日掲載の「14 捕鯨船が取持つ日米最初の出会い」、2007年12月17日掲載の「15 ハリス来日と日本の開国1 下田条約締結とハリスの参府」、2010年5月16日掲載の「32 オランダ風説書2 別段風説書に見る世界情勢」、2010年9月7日掲載の「34 開国へ陰のスーパースター ジョン・万次郎」等がある。
そのなかから「14 捕鯨船が取持つ日米最初の出会い」を取り上げる。引用にあたっては表記に必要な修正を加え、また重要と思われる資料については原文(候文)と現代語訳を引用し、現代語については必要な修正を加えた。
14 捕鯨船が取持つ日米最初の出会い
-浦賀奉行、幕府内保守派を打破ー

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弘化2年(1845年)江戸に荷物を運ぶ二組の日本の廻船が仙台沖と紀州沖で夫々遭難した。 幸いにして八丈島と小笠原諸島の中間位でアメリカの捕鯨船に助けられ、一人の犠牲者も出さずに合計22人全員無事に浦賀に送り届けられた。
厳しい鎖国体制の中で例外的に交易を許されていた中国・オランダ船でさへ長崎のみと入港が制限されていた時代に、江戸の入口である浦賀に入港しての漂流民引渡しは当時としては画期的な事だった。
これは助けた捕鯨船の船長の人柄、漂流民の知恵もさることながら、管轄である浦賀奉行の人道主義と世界を見た大局的な進言が幕府内保守派を抑え幕府中枢を動かした事による。
弘化雑記第三冊(内閣文庫所蔵)にはこの時の各種記録が長短四十本余収録されており、関係諸大名及び家来の報告書、浦賀奉行の意見書、評定所意見、老中指示、漂流民の聞書、浦賀与力の聞取り調査風聞などである。
上の画像は国立公文書館所蔵本による
1.米国捕鯨業の当時の状況
19世紀後半に石油が照明ランプに使われるようになるまでは、欧米では鯨油が照明のランプや蝋燭、機械の潤滑油としても使われ、鯨は重要資源だった。
初めは北大西洋の鯨を捕っていたが資源が枯渇、その後北太平洋の日本近海が良質な油の採れるマッコウ鯨の生息海域として発見され、1820年代からイギリス・米国の進出が始り、1840-50年は北太平用の捕鯨業はピークに達する。中継基地となるハワイには年300-400艘の捕鯨船が寄港した。又1830年頃には無人の小笠原諸島にもハワイからの移住民20-25名の男女がイギリスの船で渡り、捕鯨船への薪水供給を生業としたという。
小笠原諸島で22人の日本人を救助したマンハッタン号もその近海にいる平均的な米国の捕鯨船のひとつであり、前後して漂流し後に有名となったジョン万次郎やジョセフ・ヒコなども小笠原近辺で米国捕鯨船や商船に救助されている。
後に米国政府が日本に対してペリーを通じて要求した内容は、通商もさる事ながら、緊急課題として米国捕鯨船に対する薪水の供給と米国捕鯨船が日本に漂着した場合の乗組員保護であった。
2.漂流・救助の経緯
阿波徳島の松平阿波守(蜂須賀家)の持船幸宝丸(1200石積)は江戸に米など物資を運ぶため11人が乗組み、弘化元年12月26日快晴の徳島を出帆した。 ところが同日紀州沖で天候が急変、烈しい北風で沖へ流され遭難し、大晦日、元旦と漂流中に年を越し、船も壊れる寸前に1月13日小さな島(鳥島)に流れ着く。 伝馬船に食料など積み上陸したが鳥しか住まない無人島で水も岩場に溜まる雨水位しかなく、持ち込んだ食料と魚や貝を食べ色々工夫して命を繋ぐ。
その後強風で伝馬船まで失い落胆している中、2月8日朝この島に山かと思う様な大船(クーパー船長の捕鯨船マンハッタン号、440トン)が停泊した。艀で異国人が上陸してきたので言葉は通じないが、とにかく助けて呉れと拝んだら分ったようで、残りの食料を携えこの船に乗せて貰う。
浦賀の通行証を見せたので日本人である事も分ったようであり、クーパー船長は浦賀に送り届けるべく行動を開始する。
翌日2月9日航海中、ふたたび沈みかけている日本船を発見したので阿波の水夫達はあの船も助けて欲しい、とクーパー船長に手真似で頼み、これも艀を下ろし救助する。船は銚子の船で南部藩に雇われ江戸に物資を運ぶため、釜石を1月10日11人乗組みで出帆したが風向きが悪く、1月13日仙台付近で風待ちをして1月18日に再出帆したが、21日から25日迄強い北風に煽られ、八丈島の南方海上を漂流、楫も壊れ浸水していた所であり九死に一生を得た。
3.房総に接近、日本の異国船厳戒態勢
漂流民22人は船内では親切な対応を受けたが、言葉が通じないので本当に日本に送り届けてくれるのだろうかという不安を抱き続けた。2月17日朝、見慣れた房総の山々を見て漂流民達は歓喜する。ただし海岸では早くも異国船発見の狼煙が上り大騒ぎになっている様子である。
漂流民達もこのまま異国船が浦賀に行けば追い返されるのではないかと危惧して、この異国船には救助された日本人22名が乗っている事を何とか報せなければと、阿波船から由蔵、銚子船から太郎兵衛の水夫を上陸させる事にする。
本船から昼頃、艀を下ろし近くにいた漁船を追いかけ、無理やり2名が乗移り事情を話して上陸を頼む。しかし関りあいを恐れた漁船は二人を人気のない場所(守谷村納戸浦、外房和田付近)に下ろし立ち去る。二人は苦労して何とか土地の村役人に出頭し、その日の内に村役人付添で由蔵は夜通し房総を横切り、翌18日朝警備の忍藩の船で対岸の浦賀奉行所(大久保因幡守)へ出頭する。
なお二人が上陸した場所は御三卿の清水家の領分だったので、太郎兵衛は江戸の清水家に送られ、家老の尋問後、江戸詰の浦賀奉行、土岐丹波守頼旨に引渡された。
二人が漂流の経緯、異国船に救われ親切に扱われた事、船は22名乗組みの捕鯨船であり食料、水が不足している事、仲間が上陸を待ちわびている事など一部始終訴えた事は言うまでもない。
同17日夕方、クーパー船長はさらに2名を惣戸村(千倉付近)に上陸させた。こちらは房総警備担当である忍(おし)藩(松平下総守)の管轄地域であったため、其のまま翌朝、忍藩の警備船で浦賀奉行へ差し出された。
出頭の漂流民達の報告でマンハッタン号が浦賀に入ろうとしているので、付近は厳戒態勢が敷かれたが、2月20-21日頃房総半島先端は烈風が吹き波も高く、浦賀奉行の番船も近づけない状態の中、マンハッタン号も警備の視界から突然見えなくなり、遭難したのではないかとの噂も流れる。
4.浦賀奉行の異国船浦賀受入れ進言、幕府内部の反対派と論戦
幕府の方針として房総先端の洲崎と三浦半島先端の城ヶ島と結んだ線の外で異国船を留めて詮議する事を原則としているが、先行上陸の日本人水夫達を取調べた結果、浦賀奉行大久保因幡守はマンハッタン号に関しては疑わしい点はないので、浦賀湊に受け入れた上で取り調べをしたいむね、老中筆頭阿部正弘に伺書を提出する。
また当時、漂流民送届けを名目に交易を迫る例があったため、幕府は天保14年(1843)国交の無い国からの漂流人受取りは禁止しており、受取る場合は長崎で、しかも国交のある中国・オランダ経由のみと触れていた。
これに対して江戸詰めの浦賀奉行土岐丹波守は太郎兵衛を取り調べた結果、今回は異国で生活していた漂流民を届けた訳ではなく、漂流中の船を助けたものであり、しかも本業である捕鯨を中断してまで送り届けたのであるから、触れの例外であると判断した。浦賀目前にして長崎へ回航させる事は漂流民の健康の面、更に捕鯨船の業務を妨げる事になり、また長崎迄の異国船の護送は警備上困難であり、恩を仇で返す事にも成りかねない、此度は漂流民を浦賀で受取り、薪水・食料供与等相応の謝礼をしたい、と老中に進言した。
これに対して幕府内部で勘定奉行を中心とする評定所から大久保、土岐に対して猛烈な反対が起こり、薪水及び相応の食料を与えるのは良いとしても、漂流民受取りはあくまで規則通り長崎で唐オランダ経由と主張するが、最後は老中筆頭阿部伊勢守の英断で一時的処置として浦賀奉行の方針を認める。
5.マンハッタン号の浦賀入港と漂流民の上陸
浦賀奉行と幕府保守派が烈しく論議している間、マンハッタン号は強風を避けるため九十九里方面に避難していたが、3月10日、ふたたび房総先端の洲崎付近に現れる。
早速警備の忍藩、浦賀奉行与力、川越藩などが次々乗り込み浦賀に入港させようとするも風向きが悪く、多数の引船により3月11日に入港する。その時の状況が弘化雑記の中、「無人島漂流記聞」の一節で次の様に表現されている。
「浦賀湊へ数百艘の御用船・役船にて引き込ませ、その船の廻りを浦賀御備え船をはじめ、御用船ハ勿論そのほか房総の御固め船・大津陣屋(川越藩松平大和守)よりの御備え船、そのほか浦々の固め役船にて十重、二十重に取巻き、兵糧運送船の外は更に異船へ近づけず、その厳重なる事夥し。
夜は州々(諸藩)の固め提灯数を知らず、かつ篝火を海中に煌きさながら白昼の如く異船見物の人は海岸山野に満々たり。漂流の水主中(乗組員)疲れぬらんと厚き思召しにて兵糧方へ仰付けられ、粥を下され、夫より一両日過ぎて飯・魚類等迄下されけり、粥と汁を食せし時の好味なる事喩える物なし、殊に御恵の程有り難し。夫より皆々上陸致し御礼ありける」
6.浦賀奉行の通達とマンハッタン号の離日
3月14日には土岐丹波守が浦賀に急行し、幕府の正式な通達と漂流民送り届けの謝意をクーパー船長に伝え、薪水・食料・その他を与えるが二度と渡来しない様にと付け加える。
なおマンハッタン号の乗組員の上陸は許されず、奉行側が同号を訪問している。
また異国船についての報告は風聞を含め断片的に弘化雑記に多数掲載されているが、洲崎から乗り込んだ浦賀与力の報告と思われる「亜米利加船雑事」が最も正確で且つクーパー船長の人柄や船員達の実像が良く表現されている。
マンハッタン号は予定通り漂流民を引渡し薪水・食料を貰い3月15日早朝、浦賀湊を出帆するが、風向きが悪く再び洲崎まで多数の引船で引き出しの後、日本を去る。
幕府では本件処理が行届いていたと云う事で浦賀奉行を表彰しており、土岐丹波守は大目付に昇進した。マンハッタン号は平和裡に浦賀に入港した初めてのアメリカ船となり、その翌年(1846年)アメリカ東印度艦隊のビッドル提督、さらに七年後ペリー提督(1853年)の渡来と続く。
弘化雑記解読文及び現代語訳 1.由蔵の村役人護送届書 2.松平下総守の由蔵届け書 3.清水家の太郎兵衛差出届 4.土岐丹波守太郎兵衛取調聞書 5.大久保因幡守伺書 6.土岐丹波守進言7.評定所一座の異見 8.幕府指示書 覚 9.通詞差出の書付10.亜米利加船雑事 11.浦賀奉行の表彰
【中筆頭阿部伊勢守の指示書】
以下に阿部正弘の指示書を引く。最初が原文(「候文」)で、後段にその読み下し文(表記に必要な補正を加えた)を掲げる。
土岐丹波守への通達阿部伊勢守殿御渡 土岐丹波守え相達候覚
外国え之漂民共請取形之義ニ付、去々卯年相触候趣も有之候得共、此度渡来之異国人共右之趣未相弁不申義ニも可有之候間此度は全く一時之権道を以、漂流人於浦賀表請取、去々卯年相触候通、向後仮令漂流人連越候共請取間敷と通詞を以申諭、食事・薪水等相与へ其外万端之取計方、何れニも図を不失後患を不残様厚く相心得取計候儀可被致候事右之通相達候ニ付ては、明十三日浦賀表へ出立致し異国船早々帰帆候様取計可被申候、帰帆相済候ハヽ委細之始末相尋候義も可有之候間、少しも早々一ト先帰府致候様可被心得候事三月十二日阿部伊勢守殿御渡
土岐丹波守への通達控。
外国に対して漂流民の受取方に付いて、一昨卯年に触れた趣旨もありますが、此度渡来した異国人はこの趣旨を知らなかったようなので、此度は全く一時の仮処置として漂流人を浦賀で受取り、一昨卯年に触れた通り、以後はたとえ漂流人を連れて来ても受取らないと通訳に説得させ、食料・薪水等は与へ、その外万端を尽くし各方面に対し機会を失わず、後の患いを残さぬ様に厚く心得て処理される事。
この通達実行に付いては明日十三日浦賀へ出張し異国船に早々帰帆するよう伝え、帰帆が済めば委細の始末に付き尋ねる事も有るので、少しも早くひとまず帰京される事三月十二日。
注 去々卯年の触: 天保14年8月(1843年)の幕府令で勘定奉行宛に外国からの漂流民受取り方を指示しており、オランダ商館長(カピタン)を通じて諸外国に通達した事になっている。
マンハッタン号は当時すでに捕鯨に出ている(1843年11月)ので通達を聞いていないのであろうと解釈し、土岐丹波守が云う触れの例外処理とは云っていないものの、結果は同じとなる。
浦賀奉行の表彰
弘化二巳年三月廿九日 御書院番頭格
浦賀奉行 大久保因幡守 金五枚ツヽ
大目付 時服三ツヽ 土岐 丹波守
此度浦賀表え異国船渡来之節取計方行届骨折候ニ付被下之(これをくださる)右於芙蓉之間老中列座下野守申渡之(これをもうしわたす)
注: 土岐丹波守: 大目付に昇進下野守: 老中青山下野守芙蓉間:
老中、大目付、勘定奉行、町奉行など三千石以上の旗本が詰める江戸城内の部屋
【マンハッタン号とクーパー船長 (全ページを書き直した)】
のちにマンハッタン号とクーパー船長について、(全ページを書き直した)と注を付した文章が出たので、以下に掲げる。研究が進んだ証拠である。
クーパー船長が乗組んだマンハッタン号。
Image credit: Courtesy of 「The Southampton Magazine」,
Spring Number 1912
マーケイター・クーパー船長指揮のマンハッタン号は、ニューヨーク州ロングアイランドのサグ・ハーバーを母港とする捕鯨船である。当時1840年代から1850年代は、アメリカの捕鯨船が活発に太平洋にまで乗り出し、鯨油を採るため捕鯨を行った。鯨油は機械用の潤滑油として、またローソクの原料として重要な資源だった。また鯨のヒゲは女性のスカートに入れて丸みを強調するファッション材料にもなった。1803年生まれのクーパー船長は、日本に来た当時は42才の熟練船長であった。この1843年から1846年までの航海で、鯨油3,500樽を収穫している。
♦ クーパー船長の航海記録から、日本人救助と浦賀入港まで
(典拠:「The Southampton Magazine」, Spring Number 1912, Edited by Charles A. Jaggar, Ph D., Published by The Southampton Press, Southampton N. Y., Volume 1, No.1, P-3-23)
1843年11月8日サグ・ハーバーを出航したマンハッタン号は南米の先端のケープ・ホーンを回り太平洋に出て、1年以上も鯨を追いかけた後、1845年2月12日に小笠原群島の父島に到着した。ここで1ヵ月かけ船の修理をし、薪や水、野菜や豚を補給した(筆者注:当時アメリカでは、小笠原群島をボニン諸島、父島をピール島と呼び、二見港はポート・ロイドと呼んだ。後の1853年ペリー提督がここに石炭置き場を購入した)。3月12日に父島を出航後、塩漬け肉しか食べていない船員のために新鮮なウミガメの肉を手に入れようと、八丈島の南南東に約300km、父島の北北西に約420kmの太平洋の真中にある伊豆諸島の鳥島(筆者注:当時アメリカでは、セント・ピーターズ島と呼んだ)に立ち寄った。現在この鳥島全体が天然記念物に指定され、許可なしに立ち入ることは出来ないが、周囲7kmほどの火山島は当時も無人島だった。
1845年3月15日早朝マンハッタン号は鳥島に近づき錨を入れ、クーパー船長達は上陸した。ウミガメを探して海岸を回ると支那のジャンクに似た小さい難破船を見つけ、内陸に向かうと人の気配がし、変わった衣服を着た11人もの数ヵ月前に漂着したと見受ける日本人にめぐり合った。11人は充分な量のコメを持っていたが、水はなく岩に溜まったものを飲んでいたようだった。クーパー船長たちは目的のウミガメを捕ったかどうか、マンハッタン号の航海記録には記述が無い。
クーパー船長が救助した、船尾が壊れ沈没しかけた漂流船から救出された乗組員がマンハッタン号に持ち込んだ日本沿海図。(2004年6月21日、New Bedford Whaling Museum特別展で、管理職員の許可の元に筆者自身が撮影した。)
Image credit & © : Courtesy of New Bedford Whaling Museum
( https://www.whalingmuseum.org/ )

鳥島で11人の漂着者を救助したマンハッタン号は日本に向け針路をとったが、翌16日の昼頃また日本人が11人も乗った船尾が壊れ沈没しかけた漂流船に出会った。この船は大きい立派な塩サケを積んだ船だったが、いくらかの積荷や米や船具と共にこの11人も救助した。この難破船から持ち込んだ積荷や乗組員の持ち物の中に、非常に立派で精密な子午線も入れた日本沿海図と日本製の小さいコンパスがあった。後にこの地図とコンパスはマンハッタン号と共にアメリカに渡る事になるが、下の「サグ・ハーバーの現地新聞報道」の最後に述べる、ハワイ、マウイ島・ラハイノナの医者・ウィンスロー博士のオアフ島ホノルルの現地紙「フレンド」に掲載された記述によれば、浦賀に上陸した日本人漂流者達がクーパー船長の捕鯨船の内部に忘れていった物であると言う。
伊能忠敬が苦心の末に実測し「大日本沿海輿地全図」を完成させたのが文政4年即ち1821年であるが、それから24年後の当時、またシーボルト事件から17年後の当時は、既に縮小された精密な日本沿海図が一般の廻船で普通に使われていたのであろうか。左の写真がその漂流者がマンハッタン号に持ち込んだ実物で、現在マサチューセッツ州のニュー・ベッドフォード捕鯨博物館に収蔵されている。筆者の目測で、寸法はおよそ1m x7 0cm程であった。この日本沿海図は捕鯨船にある地図より遥かに精密で、房総半島辺りから浦賀にかけて、クーパー船長の観測と完全に合致したという。
この捕鯨博物館所蔵の地図について最近(2021年)読者の群馬県在住のS氏からご指摘を受け、『鎖国時代、海を渡った日本図、大阪大学出版会』を確認し、捕鯨博物館所蔵版のイメージと比較たところ、一部を除き虫食いや汚れ、摩耗があまり見えずほゞ良好な状態から見て、長久保赤水作製による「改正日本輿地路程全図」の天保11(1841)年改訂版かそれに近い物のようである。寛政3(1791)年改訂版は最下段左隅に発行時期と鐫字者及び発行者の名前を入れた囲みがあるが、この捕鯨博物館所蔵の地図には最下段左隅の囲みが見えない。然しこの捕鯨博物館所蔵の地図は、長久保赤水製作の日本輿地路程全図の系列である事はほぼ確実に見える。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の一般利用が始まったのは、明治になってからであると言う(『海を渡った日本図』)。当時、伊能図以外の、この様にかなり正確な、しかも緯線も経線も入った地図がコンパスと共に日本の船乗りの間で使われていた事は驚きである。京都中心の京都御所紫宸殿の位置は北緯35度1分27秒、東経135度45分44秒であるが、この捕鯨博物館所蔵の地図の北緯35度の緯線はほぼその辺りを通り、度数が入っていない経線も京都を通っている。当時は勿論「本初子午線」の国際規定などは無く、京都の三条改暦所(北緯35度0分35秒、東経135度44分14秒近辺)を通る子午線を経度の基準(=0度)としたと言う。
1851年にクーパー船長が、日本に行く前のペリー提督宛ての手紙でこの日本沿海図を持っている事を示唆したが、筆者の知る限りペリー提督は反応しなかった。ペリーの認識は、日本には子午線を入れた地図などはないと帰国後の報告書「ペリー提督日本遠征記」の中の Chapter XVIII, P-326 に書いている。
少し横道にそれたが、こうして救助した22人もの日本人を何とか日本に送り届けようと考えたクーパー船長は、日本に向け針路をとった。しかしその航海の途中では、7日間にわたり嵐に翻弄され強い潮流に流されたが、3月23日の夜に日本と思われる明かりを認めた。終に24日朝10時頃房総半島に近づき、陸と並走しながら近辺の様子を観察した。周りには多くの漁船が居て、陸地は良く耕されているようで、小ぎれいな村々が見えた。緯度を「35.09」と記入しているから現在の千葉県勝浦市勝浦の辺りである。翌日の3月25日午後1時頃、周りに数艘の漁船が居るのを見てボートを降し、先ず2人をその中の1艘に託し、江戸に行き、救助した船員たちを受け取ってくれる許可を得る事を期待し上陸させた。これは現在の千葉県勝浦市興津辺り(筆者注:日本側史料で、上総国夷隅郡守谷村)である。更に少し南下し夕方5時頃また2人を江戸に向け上陸させた。多くの漁船が周りに集まり見物したが誰も乗船してくる気配は無かった。航海記録には緯度を「35.00」としているから、現在の千葉県南房総市千倉町辺り(筆者注:日本側史料で、安房国朝夷郡南朝夷村)である。これは鎖国に基づき遭難した日本人さえ容易に受け入れない徳川幕府の方針を知っていたクーパー船長の作戦で、あらかじめ人道的に漂流民を江戸湾内にまで送り届ける意図を役人に知らせる目的であった。
翌3月26日朝9時頃まで陸地近くを操船していたが、霧が立ちこめて来たので安全のため陸地から離れた。その後天気が崩れ、嵐や豪雨に見舞われ、早い潮流に流され、勝浦の南東方向へ400~450㎞程の距離を22日間もさまよった。その間に伊豆大島の噴火なども観測している。
ついに4月16日の早朝6時、再度陸地を認めたが、10時ころには日本の船が来て、江戸湾に行き停泊すべく伝えて来た。翌17日の早朝5時ころ再度大型の日本船が来て、オランダ語通詞を連れた役人が江戸に向かう様に指示を出したので、午後5時頃江戸湾入り口の東側に来て錨を入れ停泊した。恐らく洲崎(すのさき、千葉県館山市)の北側辺りであったろうか。4月18日の午後3時頃風がやみ凪になったので、夫々に約15人が乗組んだ凡そ300艘もの小舟が集まり、マンハッタン号を時速3ノット(筆者注:約5.5㎞/時)のスピードで牽引し、午後6時半ころ江戸より下手の湾(筆者注:浦賀)に引き込んだ。そしてマンハッタン号の廻りを小舟で三重に取り囲み、約3千人の男たちが警備体制を組んだ。クーパー船長は通詞から、誰も上陸は許されないと告げられた。役人が、出帆時に返すべくマンハッタン号の全ての武器を預かり、また上級役人が数人乗船し捕鯨船の中を見分したが、彼らは非常に友好的な態度だった。
翌19日には多くの役人が船を見に来たが、午後には船首三角帆の下桁用と3組の自動操舵帆の下桁用に使う丸木材を運んで来てくれた。嵐の最中に折れてしまい交換の必要があったが、クーパー船長が日本の役人に手配を頼んだのだろう。クーパー船長の航海記録によれば、4月20日には日本側から水を運び入れ、20袋のコメ、2袋のムギ(筆者注:20袋の誤り)、1箱の小麦粉、11袋のサツマイモ、鶏50羽、2束の薪、大量の大根、10ポンドのお茶等をくれた。大量の30cm以上もある大根には、乗組員の皆がビックリした。日本側の提供した全ての補給品は無料だった。そして救助した残りの18人の日本人全員が上陸したが、役人が来て漂流者を救助し送り届けてくれた事を感謝した。4月20日の航海記録には、「皇帝も私に挨拶状を与え、私の日本人救助と送還への感謝の言葉を述べたが、ここにはもう来るなと言う言葉も一緒だった」と記録している。
4月21日の朝錨を揚げ、300艘の日本のボートが牽引して湾の外に出て、マンハッタン号を開放した。その後クーパー船長は北上し、カムチャッカ半島近辺で捕鯨を続け、多くの成果があった。
♦ クーパー船長の帰港を報ずる、サグ・ハーバーの現地新聞報道
(典拠:「The Corrector」, November 21, 1846, Page 2)
マンハッタン号の母港・サグ・ハーバーの現地紙「コレクター(The Corrector)」は、1846年11月26日付けの第2面の紙上で、「先般本港に帰港したM・クーパー船長は本紙に次の如く語った」との書き出しで、その帰国と体験談を伝えた。いわく、
1844年4月18日、南緯5度20分・東経126度40分の海上で3m 位の小舟に乗ったマレー人の男を救助した。彼は10日間も陸地の見えない海上を漂流し、船にはココナツのかけらとトウモロコシの皮があっただけである。4月20日、我々はボロ―島に停泊し、彼が故郷に帰るべく上陸させた。1844年7月13日の午後3時、霧が晴れると、今まで見たどんな海図にも載っていない島を見つけた。我々は島から10から15マイル離れた、北緯48度30分・東経157度50分近辺に居ると判断した。その島は中くらいの高さで、平ではなかった。微風の中を接近する途中で霧が立ち込め進路を変えざるを得なくなったが、それ以降、他の船にも確認された。
さらに続けて、1845年3月15日にセント・ピーターズ島、即ち鳥島に至り、日本人を救助し浦賀で日本側に引き渡したと上述の通りの出来事を語り、そこに4日間停泊し、皇帝から多くの薪水食料を無料で贈られたと語った。続けていわく、
我々の停泊中に非常に多くの役人が船を訪れたが、奉行も何回も訪れて来た。彼らは大変友好的で、あらゆる情報を収集し、絵師を連れて来て目に留まるあらゆるものをスケッチさせた。彼らはとくに念を入れて船の寸法を計り、モリを計り、目にするあらゆるものを計った。
さらに最後の出帆時も多くのボートに引かれ湾外に出た事を述べ、出帆に当たり日本の皇帝から渡された「諭書」の翻訳を載せている。このしっかりした達筆のオランダ語で書かれた日本の諭書は、クーパー船長や乗組員には読めなかった。そこで翌年の帰国に当たり、鯨油を売るためオランダのアムステルダムに寄港し、オランダ語を英語に翻訳してもらっている。これが引き続きコレクター紙に載ったものである。いわく、
遭難者を通じ口伝えに耳に届いたが、我が国の遭難者がこの船で届けられ、船上では親切に待遇されたという事である。支那とオランダを除き、遭難者は如何なる外国を経由しても受取らない事が我が国の法である。しかし、恐らくこの法を知らないため遭難者を送って来たと思われる事から、今回だけは受取る。従って次からは絶対に受け取らず、何時送って来ても厳罰を以て罰する。良くこれを知り、他国にも知らすべし。
長い航海において船の食料、薪、水が底をついたと聞く事から、これらを与える。
この諭書の命により、船は早速出帆し、近海にとどまらず、まっすぐに帰国すべき事。
この記事から分かる通り、およそ3ヵ年にも渡り太平洋やその他の海で捕鯨をやったマンハッタン号に乗るクーパー船長は、2組の日本人以外にもマレー人の漂流者も救助するという善行もあった。
1842年当時、捕鯨船の停泊するラハイナの町
Image credit: © Courtesy of the Old Lahaina Courthouse,
Lahaina, Maui, Hawaii
なお、このクーパー船長が日本人遭難者を救助し江戸近くまで送った話は、ハワイのマウイ島・ラハイノナの町の医者・ウィンスロー博士が、その後ラハイノナ港に寄港したクーパー船長から直接詳細を聞き、1846年2月2日付けのオアフ島ホノルルの現地紙・「フレンド(The Friend)」にその内容が掲載された。マウイ島の西岸にあるラハイナは、北のモロカイ島、西のラナイ島、南のカホオラウェ島に囲まれ波が静かで、太平洋の真ん中にあり、右側の絵の様に、当時多くの捕鯨船が集まる重要な補給基地の一つであった。
また、このフレンド紙からの転載が、広東で発行されていた「チャイニーズ・リポジトリー」誌・15巻・1846年1月-12月(The Chinese Repository)にも載った。従って当時の識者の間では、良く知られたニュースだったようである。
♦ 日本側記録による、漂流者の受け取り
鳥島で日本人22人を救助したマンハッタン号が、4人の日本人を先づ上陸させたのち嵐にあって流されたのは、上陸させた漂流者が役人に報告し幕府が検討し許可を出す時間を確保でき、結果的に非常に良かった。
安房国朝夷郡南朝夷村(現、南房総市千倉町)へ上陸した2人の漂流民と上総国夷隅郡守谷村(現、勝浦市興津)へ上陸した2人の合計4人が役人の調べに応じ申し立てた記録がある。鳥島で救助されたのは阿波国板野郡撫養(むや)四軒家町天野屋兵吉船に乗り組んだ主水・芳蔵と幸助であり、海上で救助されたのは下総国銚子幸太郎船に乗り組んだ主水・太郎兵衛と留吉であった。この4人の申し立ていわく、
鳥島で救助された11人乗り組みの阿波国板野郡撫養・兵吉船(幸宝丸)は弘化元(1945)年12月26日に国許を出帆し、紀州田辺沖で嵐に遭って吹き流され、積荷を投棄し帆柱を切断し漂流したが、1月13日、ある島に漂着した。本船を保持できなくなり小舟に粮米15俵、鍋釜、衣類等を積み入れ、島へ上陸した。そこは無人島で、大木は無く草木もなかったが、アホウドリが沢山生息していた。そこで沢山自生していた篠笹を岩と岩の間にかけ渡し、その下で露をしのいだ。2月8日になり異国船が近づいて来たので最初は殺されはしないかと警戒し隠れていたが、島に12人が上陸して来たので仕方なく姿を現し、手まねで救助を頼んだ。異人も状況が分かり、国に送り返すので船に乗るよう手まねで応じた。そこで粮米や身の回り品を船に運び乗り込んだ。
島を出帆した翌日の9日、また難船し漂流中の日本船に出合い、ボートを2艘降ろし乗組みの漂流者を救助した。話を聞くと下総国銚子幸太郎船(仙寿丸)で11人が乗っていた。この船は弘化2(1945)年1月11日に南部を出帆したが嵐に遭い、荷物を捨て帆柱を切り漂流し、浸水して沈没しそうな水舟になったが、2月9日救助された。粮米10俵、鍋や衣料などを異船に積み込んだが、乗り移ってみると阿州撫養(むや)の船の乗組員も救助されていて一緒になった。
弘化2年2月17日朝、即ち1845年3月24日朝、東房州の山が見え、段々陸地が近づいてきたので上陸させて欲しいと手まねで頼んだが、外海のため上陸が困難で船の破損を恐れている様子で、上陸のためには内海へ入る必要があると手まねで答えた。異船が内海へ乗り入れれば問題が起きるので相談の上、先ず浦賀へ注進のため太郎兵衛と芳蔵が漁船に頼んで守谷村に上陸した。その後、守谷村から浦賀迄20里もあり、その日の内に異船が浦賀に着くと異船の方が先になり問題が出るという話になり、そこで再度幸助と留吉が漁船で南朝夷村へ上陸した。
異国船の大きさは16、7間あり、乗組員の頭分は常にラシャ製の服を着て、みな背が高く、眼の色は夫々で、頭髪は長くしていた。船内には3挺の鉄砲と鯨を取るモリが16本ばかりあった。乗組み22人の中には、大工、鍛冶、桶職が乗り組んで居た。日本人を慰めるためか毎晩、三味線風の楽器を鳴らし踊りを踊ったが、拍子も良くおもしろかった。段々心安くなり、自分達も伊勢おんどを踊ったところ異国人も大いに笑っていた。世界地図を見せ色々言っていたが意味が分からなかった。異人の乗組員の中に4人の黒人が居て、顔色のうす黒い人は2人だった。
海上で救助された銚子船には船頭の11歳になる「勝」という名の息子も居て、直ぐ異国船員と親しくなった。
浦賀では警戒を強めたが、先に上陸した4人の情報で軍船ではなく、異船内にまだ日本人が居るというので、浦賀に入港させる話になった。しかし異船は行方不明になってしまい、浦賀の防衛に恐れをなして消えてしまった可能性があるので、浦賀から船を出し、異国船を入港させる手配をした。
報告を受けた江戸詰めの浦賀奉行・土岐丹波守は、「いずれの国の船ともわからないが、とにかく鯨漁船であり、蛮国の漁民が他国の人を助けようと自分の仕事を止めてまで誠意をもって送って来たのに、浦賀で受け取らないのは、自国の人民を捨てるも同様であります」と、漂流民を浦賀で受け取るべく何度も幕閣に意見を述べた。
当時の幕府の中心人物は、弘化2年2月22日即ち1845年3月29日、老中首座になったばかりの阿部伊勢守だったが、この伊勢守さえも漂流人の処置を即刻判断したのではなく、勘定奉行たちの評定所一座の評議に廻し、大目付や目付の評議に廻し、長々と時間をかけた末の決定だった。
当時の幕府規則は、天保13(1842)年に出された「薪水給与令」で、翌年オランダを通じ諸外国に伝えられ、漂流者は長崎のみでの受取りが許されていた。従って評定所一座や大目付や目付の評議は、新しい薪水給与令に基づき漂流者は浦賀では「受取らず、長崎に回すべし」という結論だったが、最後に阿部伊勢守は諸事情を考慮し、土岐丹波守に直接指示をし、浦賀での受取りを認めた。
この時、弘化2年3月12日(1845年4月18日)に出された阿部伊勢守から江戸詰め浦賀奉行・土岐丹波守に出された「土岐丹波守へ相達し候覚」という指示は次の様なものである。いわく、
外国への漂民ども取受け方の義につき、去々卯年相触れ候趣もこれあり候へども、このたび渡来の異国人ども、右の趣いまだ相弁じ申さざる義にもこれあるべく候間、このたびは全く一時の権道を以て、漂流人浦賀表に於て受取り、去々卯年相触れ候通り、向後たとへ漂流人連れ越し候とも受取るまじき旨通弁を以て申し諭し、食料、薪水等相与へ、そのほか万端の取計ひ方、いづれにも図を失せず、後患を残さざる様、厚く相心得、取計らひ候様いたさるべく候こと。
一、右の通り相達し候。つきては明十三日浦賀表へ出立いたし、異国船早々帰帆し候様取計らひ申さるべく候。帰帆相済み候はば、委細の始末相尋ね候義もこれあるべく候間、少しも早くひとまづ帰府いたし候様心得らるべく候こと。
三月十二日
クーパー船長が幕府から贈られた漆器。
(2004年6月21日、New Bedford Whaling Museum
特別展で、管理職員の許可の元に筆者自身が撮影した。)
Image credit: © Courtesy of New Bedford Whaling Museum
https://www.whalingmuseum.org/
このような経緯で弘化2年3月12日、即ち1845年4月18日、浦賀に着いたマンハッタン号のクーパー船長は残りの18人の漂流者を役人に引き渡し、幕府からおおいに感謝され、充分な薪水や食料を与えられ、色々な贈り物も貰った。日本側の記録「史料稿本」によれば、上記のクーパー船長の航海記録に出て来る日本からの贈り物以外の細かい記録がある。いわく、
白米-20俵、小麦粉-2斗、ニンジン-200本、鶏-50羽、中皿-20人前、金入切子-品々、薩摩芋-1俵、大平目-2枚、水-300荷、上搗麦(つきむぎ)-20俵、大根-千本、松真木-200本、上吸物椀-10人前、茶漬茶碗-21人前、茶-5斤、大蛸-1杯、杉材木-4本、から藁(わら)-10把、
こうしてクーパー船長は、弘化2年3月15日、即ち1845年4月21日、浦賀を後にした。170年後の今でもアメリカのマサチューセッツ州ニュー・ベッドフォード市にある捕鯨博物館には、クーパー船長が幕府から贈られた漆器や、救助した日本人が持っていたコンパスや、日本製の子午線まで入った精密な日本沿海図が保存されている。
このクーパー船長の浦賀入港から9年後、江戸幕府と日米和親條約を締結する事になるペリー提督は、その日本遠征の出発に先立って、浦賀に行ったクーパー船長から日本情報を得ている。その時クーパー船長はペリー提督に書簡を送り、捕鯨の観点からもぜひ日本の開国が必要だと意見を述べている。
その講演内容の概略は、本ブログ2022年10月4日掲載の「アヘン戦争と日本の開国(上)」、2022年12月26日掲載の「アヘン戦争と日本の開国(中)」ならびに2022年12月28日掲載の「アヘン戦争と日本の開国(下)」の3回に分けて書いた。
【1825年文政令(異国船無二念打払令)の撤回と1842年の天保薪水供与令】
1842年の天保薪水令から12年目に実現する日米和親条約(1854年)、16年目の日米修好通商条約(1858年)、そして17年目に実現する1859 年 7月 1 日=安政六年六月二日)の横浜開港について述べるには、まずその発端となる1842年8月28日の天保薪水令(薪水供与令)から始めなければならない。
幕府は長崎で収集したオランダ商船と中国商船が伝えるアヘン戦争情報(風説書)を読み解き、イギリス海軍の圧倒的な力を冷静に掌握、これにモリソン号打払い事件(1837年)という過去の<経験>を結びつけ、強硬な文政令(異国船無二念打払令)から穏健な天保薪水(供与)令に政策変更した。アヘン戦争終結を示す南京条約の1日前、すなわち1842年8月28日である。
これ以降、幕府は<避戦>に徹っした。すなわち<戦争>の敗北による悲惨さと、<交渉>による意見交換の有効性との決定的な相違を認識し、それに沿った行動を取った。これについては、2023年9月26日の本ブログに掲載した「天保薪水供与令へ」をご覧いただきたい。
【浦賀奉行所の2度の経験】
浦賀奉行所には、これまで異国船来航の記憶と応接の経験が2回あった。日米双方の公的使節同士の接触ではないものの、両国関係者相互の接触であるため、「日米交渉①」と付した。いわば民間交流の事例である。
第1回が、アメリカ捕鯨船マンハッタン号のクーパー船長が日本人漂流民を救出、彼らをとどけるために浦賀に来たこと(1845年(弘化二年)春)。漂流民の受け取りは長崎に限るとする前例を撤回して、幕府は浦賀での引き取りを決断し、その実務を浦賀奉行所に任せた。
奉行所の与力・同心たちは知恵を絞り、懸命に働くなかで、22名もの日本人漂流民を救助し、その送還のために来航したクーパー船長と実際に折衝する過程で、クーパー船長の無私の行動に奉行所の役人も浦賀の庶民も痛く共感した。
また、クーパーに対して日本に戻ってこないようにとも告げた。4月21日、300隻の日本船が、マンハッタン号を沖合20マイルまで曳航した。
クーパーはこのとき、日本人漂流民が使用していた海図を持ち帰り、1846年10月14日の帰国後に米国政府に提出した。この地図はマシュー・ペリーの1853年の日本来航の際に利用されたと言われている。
【アメリカ東インド艦隊ビッドル提督の軍艦2隻が浦賀来航】
第2回が翌1846年7月20日(弘化三年閏五月二十七日)、アメリカ東インド艦隊ジェームス・ビッドル(James Biddle,1783-1848)提督の率いるアメリカ軍艦二隻の浦賀への初来航である。
日本側は、水、コメ20俵、麦2表、小麦粉1箱、さつまいも11俵、鶏50羽、木材、大根、お茶10ポンドを無料で供給し、その他漆器などのおみやげを渡し、漂流民の送還に感謝した。
この件は別稿で詳しく述べる予定である。
【平尾信子『黒船前夜の出会い-米捕鯨船長クーパーの来航』】
マンハッタン号の浦賀来航については平尾信子『黒船前夜の出会い-米捕鯨船長クーパーの来航』(NHKブックス 706 1994年7月25日)が信頼でき、かつ読みやすい唯一の専著である。
本書の「はじめに」(1994年6月)で平尾さんは、ご主人の勤務に伴い、クーパー船長の曽孫マーケーター・ケンドリックさん(当時80歳代)と知り合い、貴重なモノの資料と文書類を得て書き溜め、日本放送出版協会創立60周年記念「ノンフィクション賞」に応募し、佳作に入選したものを大幅に再構成して書き下ろしたものが本書である、と記している。
本書の構成は、第一章「捕鯨船長マーケーター・クーパー」、第二章「日本訪問」とクーパー船長の動きを追い、第三章「マンハッタン号受け入れの背景」で日本側との接触に言及、そのⅢ「阿部正弘の英断」において述べ、第四章「マンハッタン号の波紋」、終章「クーパー船長の残したもの」で、焦点をクーパー船長の行動におく。
【拙著『世界繁盛の三都 ロンドン・北京・江戸』】
本書の広告欄に前年に刊行した加藤祐三『世界繁盛の三都 ロンドン・北京・江戸』(NHKブックス 1993年)が載っており思い出した。こちらは18世紀後半から19世紀前半の、人口100万人を数える世界3大首都を描いている。
その執筆動機は漂流後にアメリカ捕鯨船に救われ、鎖国の最中に強硬帰国、最新のアメリカ情報を知らせた中浜万次郎の思いの一つ「…アメリカ人は江戸を見物したがっている。…」を伝えようとする点にあった。言い換えれば、アメリカの日本に対する<平和的な意図>を示したいと思った。
【「古文書を楽しむ」シリーズ 全63回について】
平尾信子の専著(1994年)から約10年後に、大船庵「常設講座 古文書を楽しむ」(デジタル版)が始まった。2005年10月14日掲載の「0 古文書のはじめに 解説文の形式について」から、2022年7月9日掲載の「62 江戸城探訪 一般参観コース記録」に至る全63回で構成される。
取り上げるテーマは時代順ではなく、対外関係や国内問題を問わない。「5 暦の話」や「9 駿河土産」等もある。うち幕末期の事件としては、2005年10月24日掲載の「2 ペリー再来日誌 添田日誌解読及び関連資料」、2007年9月25日掲載の「14 捕鯨船が取持つ日米最初の出会い」、2007年12月17日掲載の「15 ハリス来日と日本の開国1 下田条約締結とハリスの参府」、2010年5月16日掲載の「32 オランダ風説書2 別段風説書に見る世界情勢」、2010年9月7日掲載の「34 開国へ陰のスーパースター ジョン・万次郎」等がある。
そのなかから「14 捕鯨船が取持つ日米最初の出会い」を取り上げる。引用にあたっては表記に必要な修正を加え、また重要と思われる資料については原文(候文)と現代語訳を引用し、現代語については必要な修正を加えた。
14 捕鯨船が取持つ日米最初の出会い
-浦賀奉行、幕府内保守派を打破ー

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弘化2年(1845年)江戸に荷物を運ぶ二組の日本の廻船が仙台沖と紀州沖で夫々遭難した。 幸いにして八丈島と小笠原諸島の中間位でアメリカの捕鯨船に助けられ、一人の犠牲者も出さずに合計22人全員無事に浦賀に送り届けられた。
厳しい鎖国体制の中で例外的に交易を許されていた中国・オランダ船でさへ長崎のみと入港が制限されていた時代に、江戸の入口である浦賀に入港しての漂流民引渡しは当時としては画期的な事だった。
これは助けた捕鯨船の船長の人柄、漂流民の知恵もさることながら、管轄である浦賀奉行の人道主義と世界を見た大局的な進言が幕府内保守派を抑え幕府中枢を動かした事による。
弘化雑記第三冊(内閣文庫所蔵)にはこの時の各種記録が長短四十本余収録されており、関係諸大名及び家来の報告書、浦賀奉行の意見書、評定所意見、老中指示、漂流民の聞書、浦賀与力の聞取り調査風聞などである。
上の画像は国立公文書館所蔵本による
1.米国捕鯨業の当時の状況
19世紀後半に石油が照明ランプに使われるようになるまでは、欧米では鯨油が照明のランプや蝋燭、機械の潤滑油としても使われ、鯨は重要資源だった。
初めは北大西洋の鯨を捕っていたが資源が枯渇、その後北太平洋の日本近海が良質な油の採れるマッコウ鯨の生息海域として発見され、1820年代からイギリス・米国の進出が始り、1840-50年は北太平用の捕鯨業はピークに達する。中継基地となるハワイには年300-400艘の捕鯨船が寄港した。又1830年頃には無人の小笠原諸島にもハワイからの移住民20-25名の男女がイギリスの船で渡り、捕鯨船への薪水供給を生業としたという。
小笠原諸島で22人の日本人を救助したマンハッタン号もその近海にいる平均的な米国の捕鯨船のひとつであり、前後して漂流し後に有名となったジョン万次郎やジョセフ・ヒコなども小笠原近辺で米国捕鯨船や商船に救助されている。
後に米国政府が日本に対してペリーを通じて要求した内容は、通商もさる事ながら、緊急課題として米国捕鯨船に対する薪水の供給と米国捕鯨船が日本に漂着した場合の乗組員保護であった。
2.漂流・救助の経緯
阿波徳島の松平阿波守(蜂須賀家)の持船幸宝丸(1200石積)は江戸に米など物資を運ぶため11人が乗組み、弘化元年12月26日快晴の徳島を出帆した。 ところが同日紀州沖で天候が急変、烈しい北風で沖へ流され遭難し、大晦日、元旦と漂流中に年を越し、船も壊れる寸前に1月13日小さな島(鳥島)に流れ着く。 伝馬船に食料など積み上陸したが鳥しか住まない無人島で水も岩場に溜まる雨水位しかなく、持ち込んだ食料と魚や貝を食べ色々工夫して命を繋ぐ。
その後強風で伝馬船まで失い落胆している中、2月8日朝この島に山かと思う様な大船(クーパー船長の捕鯨船マンハッタン号、440トン)が停泊した。艀で異国人が上陸してきたので言葉は通じないが、とにかく助けて呉れと拝んだら分ったようで、残りの食料を携えこの船に乗せて貰う。
浦賀の通行証を見せたので日本人である事も分ったようであり、クーパー船長は浦賀に送り届けるべく行動を開始する。
翌日2月9日航海中、ふたたび沈みかけている日本船を発見したので阿波の水夫達はあの船も助けて欲しい、とクーパー船長に手真似で頼み、これも艀を下ろし救助する。船は銚子の船で南部藩に雇われ江戸に物資を運ぶため、釜石を1月10日11人乗組みで出帆したが風向きが悪く、1月13日仙台付近で風待ちをして1月18日に再出帆したが、21日から25日迄強い北風に煽られ、八丈島の南方海上を漂流、楫も壊れ浸水していた所であり九死に一生を得た。
3.房総に接近、日本の異国船厳戒態勢
漂流民22人は船内では親切な対応を受けたが、言葉が通じないので本当に日本に送り届けてくれるのだろうかという不安を抱き続けた。2月17日朝、見慣れた房総の山々を見て漂流民達は歓喜する。ただし海岸では早くも異国船発見の狼煙が上り大騒ぎになっている様子である。
漂流民達もこのまま異国船が浦賀に行けば追い返されるのではないかと危惧して、この異国船には救助された日本人22名が乗っている事を何とか報せなければと、阿波船から由蔵、銚子船から太郎兵衛の水夫を上陸させる事にする。
本船から昼頃、艀を下ろし近くにいた漁船を追いかけ、無理やり2名が乗移り事情を話して上陸を頼む。しかし関りあいを恐れた漁船は二人を人気のない場所(守谷村納戸浦、外房和田付近)に下ろし立ち去る。二人は苦労して何とか土地の村役人に出頭し、その日の内に村役人付添で由蔵は夜通し房総を横切り、翌18日朝警備の忍藩の船で対岸の浦賀奉行所(大久保因幡守)へ出頭する。
なお二人が上陸した場所は御三卿の清水家の領分だったので、太郎兵衛は江戸の清水家に送られ、家老の尋問後、江戸詰の浦賀奉行、土岐丹波守頼旨に引渡された。
二人が漂流の経緯、異国船に救われ親切に扱われた事、船は22名乗組みの捕鯨船であり食料、水が不足している事、仲間が上陸を待ちわびている事など一部始終訴えた事は言うまでもない。
同17日夕方、クーパー船長はさらに2名を惣戸村(千倉付近)に上陸させた。こちらは房総警備担当である忍(おし)藩(松平下総守)の管轄地域であったため、其のまま翌朝、忍藩の警備船で浦賀奉行へ差し出された。
出頭の漂流民達の報告でマンハッタン号が浦賀に入ろうとしているので、付近は厳戒態勢が敷かれたが、2月20-21日頃房総半島先端は烈風が吹き波も高く、浦賀奉行の番船も近づけない状態の中、マンハッタン号も警備の視界から突然見えなくなり、遭難したのではないかとの噂も流れる。
4.浦賀奉行の異国船浦賀受入れ進言、幕府内部の反対派と論戦
幕府の方針として房総先端の洲崎と三浦半島先端の城ヶ島と結んだ線の外で異国船を留めて詮議する事を原則としているが、先行上陸の日本人水夫達を取調べた結果、浦賀奉行大久保因幡守はマンハッタン号に関しては疑わしい点はないので、浦賀湊に受け入れた上で取り調べをしたいむね、老中筆頭阿部正弘に伺書を提出する。
また当時、漂流民送届けを名目に交易を迫る例があったため、幕府は天保14年(1843)国交の無い国からの漂流人受取りは禁止しており、受取る場合は長崎で、しかも国交のある中国・オランダ経由のみと触れていた。
これに対して江戸詰めの浦賀奉行土岐丹波守は太郎兵衛を取り調べた結果、今回は異国で生活していた漂流民を届けた訳ではなく、漂流中の船を助けたものであり、しかも本業である捕鯨を中断してまで送り届けたのであるから、触れの例外であると判断した。浦賀目前にして長崎へ回航させる事は漂流民の健康の面、更に捕鯨船の業務を妨げる事になり、また長崎迄の異国船の護送は警備上困難であり、恩を仇で返す事にも成りかねない、此度は漂流民を浦賀で受取り、薪水・食料供与等相応の謝礼をしたい、と老中に進言した。
これに対して幕府内部で勘定奉行を中心とする評定所から大久保、土岐に対して猛烈な反対が起こり、薪水及び相応の食料を与えるのは良いとしても、漂流民受取りはあくまで規則通り長崎で唐オランダ経由と主張するが、最後は老中筆頭阿部伊勢守の英断で一時的処置として浦賀奉行の方針を認める。
5.マンハッタン号の浦賀入港と漂流民の上陸
浦賀奉行と幕府保守派が烈しく論議している間、マンハッタン号は強風を避けるため九十九里方面に避難していたが、3月10日、ふたたび房総先端の洲崎付近に現れる。
早速警備の忍藩、浦賀奉行与力、川越藩などが次々乗り込み浦賀に入港させようとするも風向きが悪く、多数の引船により3月11日に入港する。その時の状況が弘化雑記の中、「無人島漂流記聞」の一節で次の様に表現されている。
「浦賀湊へ数百艘の御用船・役船にて引き込ませ、その船の廻りを浦賀御備え船をはじめ、御用船ハ勿論そのほか房総の御固め船・大津陣屋(川越藩松平大和守)よりの御備え船、そのほか浦々の固め役船にて十重、二十重に取巻き、兵糧運送船の外は更に異船へ近づけず、その厳重なる事夥し。
夜は州々(諸藩)の固め提灯数を知らず、かつ篝火を海中に煌きさながら白昼の如く異船見物の人は海岸山野に満々たり。漂流の水主中(乗組員)疲れぬらんと厚き思召しにて兵糧方へ仰付けられ、粥を下され、夫より一両日過ぎて飯・魚類等迄下されけり、粥と汁を食せし時の好味なる事喩える物なし、殊に御恵の程有り難し。夫より皆々上陸致し御礼ありける」
6.浦賀奉行の通達とマンハッタン号の離日
3月14日には土岐丹波守が浦賀に急行し、幕府の正式な通達と漂流民送り届けの謝意をクーパー船長に伝え、薪水・食料・その他を与えるが二度と渡来しない様にと付け加える。
なおマンハッタン号の乗組員の上陸は許されず、奉行側が同号を訪問している。
また異国船についての報告は風聞を含め断片的に弘化雑記に多数掲載されているが、洲崎から乗り込んだ浦賀与力の報告と思われる「亜米利加船雑事」が最も正確で且つクーパー船長の人柄や船員達の実像が良く表現されている。
マンハッタン号は予定通り漂流民を引渡し薪水・食料を貰い3月15日早朝、浦賀湊を出帆するが、風向きが悪く再び洲崎まで多数の引船で引き出しの後、日本を去る。
幕府では本件処理が行届いていたと云う事で浦賀奉行を表彰しており、土岐丹波守は大目付に昇進した。マンハッタン号は平和裡に浦賀に入港した初めてのアメリカ船となり、その翌年(1846年)アメリカ東印度艦隊のビッドル提督、さらに七年後ペリー提督(1853年)の渡来と続く。
弘化雑記解読文及び現代語訳 1.由蔵の村役人護送届書 2.松平下総守の由蔵届け書 3.清水家の太郎兵衛差出届 4.土岐丹波守太郎兵衛取調聞書 5.大久保因幡守伺書 6.土岐丹波守進言7.評定所一座の異見 8.幕府指示書 覚 9.通詞差出の書付10.亜米利加船雑事 11.浦賀奉行の表彰
【中筆頭阿部伊勢守の指示書】
以下に阿部正弘の指示書を引く。最初が原文(「候文」)で、後段にその読み下し文(表記に必要な補正を加えた)を掲げる。
土岐丹波守への通達阿部伊勢守殿御渡 土岐丹波守え相達候覚
外国え之漂民共請取形之義ニ付、去々卯年相触候趣も有之候得共、此度渡来之異国人共右之趣未相弁不申義ニも可有之候間此度は全く一時之権道を以、漂流人於浦賀表請取、去々卯年相触候通、向後仮令漂流人連越候共請取間敷と通詞を以申諭、食事・薪水等相与へ其外万端之取計方、何れニも図を不失後患を不残様厚く相心得取計候儀可被致候事右之通相達候ニ付ては、明十三日浦賀表へ出立致し異国船早々帰帆候様取計可被申候、帰帆相済候ハヽ委細之始末相尋候義も可有之候間、少しも早々一ト先帰府致候様可被心得候事三月十二日阿部伊勢守殿御渡
土岐丹波守への通達控。
外国に対して漂流民の受取方に付いて、一昨卯年に触れた趣旨もありますが、此度渡来した異国人はこの趣旨を知らなかったようなので、此度は全く一時の仮処置として漂流人を浦賀で受取り、一昨卯年に触れた通り、以後はたとえ漂流人を連れて来ても受取らないと通訳に説得させ、食料・薪水等は与へ、その外万端を尽くし各方面に対し機会を失わず、後の患いを残さぬ様に厚く心得て処理される事。
この通達実行に付いては明日十三日浦賀へ出張し異国船に早々帰帆するよう伝え、帰帆が済めば委細の始末に付き尋ねる事も有るので、少しも早くひとまず帰京される事三月十二日。
注 去々卯年の触: 天保14年8月(1843年)の幕府令で勘定奉行宛に外国からの漂流民受取り方を指示しており、オランダ商館長(カピタン)を通じて諸外国に通達した事になっている。
マンハッタン号は当時すでに捕鯨に出ている(1843年11月)ので通達を聞いていないのであろうと解釈し、土岐丹波守が云う触れの例外処理とは云っていないものの、結果は同じとなる。
浦賀奉行の表彰
弘化二巳年三月廿九日 御書院番頭格
浦賀奉行 大久保因幡守 金五枚ツヽ
大目付 時服三ツヽ 土岐 丹波守
此度浦賀表え異国船渡来之節取計方行届骨折候ニ付被下之(これをくださる)右於芙蓉之間老中列座下野守申渡之(これをもうしわたす)
注: 土岐丹波守: 大目付に昇進下野守: 老中青山下野守芙蓉間:
老中、大目付、勘定奉行、町奉行など三千石以上の旗本が詰める江戸城内の部屋
【マンハッタン号とクーパー船長 (全ページを書き直した)】
のちにマンハッタン号とクーパー船長について、(全ページを書き直した)と注を付した文章が出たので、以下に掲げる。研究が進んだ証拠である。
クーパー船長が乗組んだマンハッタン号。
Image credit: Courtesy of 「The Southampton Magazine」,
Spring Number 1912
マーケイター・クーパー船長指揮のマンハッタン号は、ニューヨーク州ロングアイランドのサグ・ハーバーを母港とする捕鯨船である。当時1840年代から1850年代は、アメリカの捕鯨船が活発に太平洋にまで乗り出し、鯨油を採るため捕鯨を行った。鯨油は機械用の潤滑油として、またローソクの原料として重要な資源だった。また鯨のヒゲは女性のスカートに入れて丸みを強調するファッション材料にもなった。1803年生まれのクーパー船長は、日本に来た当時は42才の熟練船長であった。この1843年から1846年までの航海で、鯨油3,500樽を収穫している。
♦ クーパー船長の航海記録から、日本人救助と浦賀入港まで
(典拠:「The Southampton Magazine」, Spring Number 1912, Edited by Charles A. Jaggar, Ph D., Published by The Southampton Press, Southampton N. Y., Volume 1, No.1, P-3-23)
1843年11月8日サグ・ハーバーを出航したマンハッタン号は南米の先端のケープ・ホーンを回り太平洋に出て、1年以上も鯨を追いかけた後、1845年2月12日に小笠原群島の父島に到着した。ここで1ヵ月かけ船の修理をし、薪や水、野菜や豚を補給した(筆者注:当時アメリカでは、小笠原群島をボニン諸島、父島をピール島と呼び、二見港はポート・ロイドと呼んだ。後の1853年ペリー提督がここに石炭置き場を購入した)。3月12日に父島を出航後、塩漬け肉しか食べていない船員のために新鮮なウミガメの肉を手に入れようと、八丈島の南南東に約300km、父島の北北西に約420kmの太平洋の真中にある伊豆諸島の鳥島(筆者注:当時アメリカでは、セント・ピーターズ島と呼んだ)に立ち寄った。現在この鳥島全体が天然記念物に指定され、許可なしに立ち入ることは出来ないが、周囲7kmほどの火山島は当時も無人島だった。
1845年3月15日早朝マンハッタン号は鳥島に近づき錨を入れ、クーパー船長達は上陸した。ウミガメを探して海岸を回ると支那のジャンクに似た小さい難破船を見つけ、内陸に向かうと人の気配がし、変わった衣服を着た11人もの数ヵ月前に漂着したと見受ける日本人にめぐり合った。11人は充分な量のコメを持っていたが、水はなく岩に溜まったものを飲んでいたようだった。クーパー船長たちは目的のウミガメを捕ったかどうか、マンハッタン号の航海記録には記述が無い。
クーパー船長が救助した、船尾が壊れ沈没しかけた漂流船から救出された乗組員がマンハッタン号に持ち込んだ日本沿海図。(2004年6月21日、New Bedford Whaling Museum特別展で、管理職員の許可の元に筆者自身が撮影した。)
Image credit & © : Courtesy of New Bedford Whaling Museum
( https://www.whalingmuseum.org/ )

鳥島で11人の漂着者を救助したマンハッタン号は日本に向け針路をとったが、翌16日の昼頃また日本人が11人も乗った船尾が壊れ沈没しかけた漂流船に出会った。この船は大きい立派な塩サケを積んだ船だったが、いくらかの積荷や米や船具と共にこの11人も救助した。この難破船から持ち込んだ積荷や乗組員の持ち物の中に、非常に立派で精密な子午線も入れた日本沿海図と日本製の小さいコンパスがあった。後にこの地図とコンパスはマンハッタン号と共にアメリカに渡る事になるが、下の「サグ・ハーバーの現地新聞報道」の最後に述べる、ハワイ、マウイ島・ラハイノナの医者・ウィンスロー博士のオアフ島ホノルルの現地紙「フレンド」に掲載された記述によれば、浦賀に上陸した日本人漂流者達がクーパー船長の捕鯨船の内部に忘れていった物であると言う。
伊能忠敬が苦心の末に実測し「大日本沿海輿地全図」を完成させたのが文政4年即ち1821年であるが、それから24年後の当時、またシーボルト事件から17年後の当時は、既に縮小された精密な日本沿海図が一般の廻船で普通に使われていたのであろうか。左の写真がその漂流者がマンハッタン号に持ち込んだ実物で、現在マサチューセッツ州のニュー・ベッドフォード捕鯨博物館に収蔵されている。筆者の目測で、寸法はおよそ1m x7 0cm程であった。この日本沿海図は捕鯨船にある地図より遥かに精密で、房総半島辺りから浦賀にかけて、クーパー船長の観測と完全に合致したという。
この捕鯨博物館所蔵の地図について最近(2021年)読者の群馬県在住のS氏からご指摘を受け、『鎖国時代、海を渡った日本図、大阪大学出版会』を確認し、捕鯨博物館所蔵版のイメージと比較たところ、一部を除き虫食いや汚れ、摩耗があまり見えずほゞ良好な状態から見て、長久保赤水作製による「改正日本輿地路程全図」の天保11(1841)年改訂版かそれに近い物のようである。寛政3(1791)年改訂版は最下段左隅に発行時期と鐫字者及び発行者の名前を入れた囲みがあるが、この捕鯨博物館所蔵の地図には最下段左隅の囲みが見えない。然しこの捕鯨博物館所蔵の地図は、長久保赤水製作の日本輿地路程全図の系列である事はほぼ確実に見える。伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の一般利用が始まったのは、明治になってからであると言う(『海を渡った日本図』)。当時、伊能図以外の、この様にかなり正確な、しかも緯線も経線も入った地図がコンパスと共に日本の船乗りの間で使われていた事は驚きである。京都中心の京都御所紫宸殿の位置は北緯35度1分27秒、東経135度45分44秒であるが、この捕鯨博物館所蔵の地図の北緯35度の緯線はほぼその辺りを通り、度数が入っていない経線も京都を通っている。当時は勿論「本初子午線」の国際規定などは無く、京都の三条改暦所(北緯35度0分35秒、東経135度44分14秒近辺)を通る子午線を経度の基準(=0度)としたと言う。
1851年にクーパー船長が、日本に行く前のペリー提督宛ての手紙でこの日本沿海図を持っている事を示唆したが、筆者の知る限りペリー提督は反応しなかった。ペリーの認識は、日本には子午線を入れた地図などはないと帰国後の報告書「ペリー提督日本遠征記」の中の Chapter XVIII, P-326 に書いている。
少し横道にそれたが、こうして救助した22人もの日本人を何とか日本に送り届けようと考えたクーパー船長は、日本に向け針路をとった。しかしその航海の途中では、7日間にわたり嵐に翻弄され強い潮流に流されたが、3月23日の夜に日本と思われる明かりを認めた。終に24日朝10時頃房総半島に近づき、陸と並走しながら近辺の様子を観察した。周りには多くの漁船が居て、陸地は良く耕されているようで、小ぎれいな村々が見えた。緯度を「35.09」と記入しているから現在の千葉県勝浦市勝浦の辺りである。翌日の3月25日午後1時頃、周りに数艘の漁船が居るのを見てボートを降し、先ず2人をその中の1艘に託し、江戸に行き、救助した船員たちを受け取ってくれる許可を得る事を期待し上陸させた。これは現在の千葉県勝浦市興津辺り(筆者注:日本側史料で、上総国夷隅郡守谷村)である。更に少し南下し夕方5時頃また2人を江戸に向け上陸させた。多くの漁船が周りに集まり見物したが誰も乗船してくる気配は無かった。航海記録には緯度を「35.00」としているから、現在の千葉県南房総市千倉町辺り(筆者注:日本側史料で、安房国朝夷郡南朝夷村)である。これは鎖国に基づき遭難した日本人さえ容易に受け入れない徳川幕府の方針を知っていたクーパー船長の作戦で、あらかじめ人道的に漂流民を江戸湾内にまで送り届ける意図を役人に知らせる目的であった。
翌3月26日朝9時頃まで陸地近くを操船していたが、霧が立ちこめて来たので安全のため陸地から離れた。その後天気が崩れ、嵐や豪雨に見舞われ、早い潮流に流され、勝浦の南東方向へ400~450㎞程の距離を22日間もさまよった。その間に伊豆大島の噴火なども観測している。
ついに4月16日の早朝6時、再度陸地を認めたが、10時ころには日本の船が来て、江戸湾に行き停泊すべく伝えて来た。翌17日の早朝5時ころ再度大型の日本船が来て、オランダ語通詞を連れた役人が江戸に向かう様に指示を出したので、午後5時頃江戸湾入り口の東側に来て錨を入れ停泊した。恐らく洲崎(すのさき、千葉県館山市)の北側辺りであったろうか。4月18日の午後3時頃風がやみ凪になったので、夫々に約15人が乗組んだ凡そ300艘もの小舟が集まり、マンハッタン号を時速3ノット(筆者注:約5.5㎞/時)のスピードで牽引し、午後6時半ころ江戸より下手の湾(筆者注:浦賀)に引き込んだ。そしてマンハッタン号の廻りを小舟で三重に取り囲み、約3千人の男たちが警備体制を組んだ。クーパー船長は通詞から、誰も上陸は許されないと告げられた。役人が、出帆時に返すべくマンハッタン号の全ての武器を預かり、また上級役人が数人乗船し捕鯨船の中を見分したが、彼らは非常に友好的な態度だった。
翌19日には多くの役人が船を見に来たが、午後には船首三角帆の下桁用と3組の自動操舵帆の下桁用に使う丸木材を運んで来てくれた。嵐の最中に折れてしまい交換の必要があったが、クーパー船長が日本の役人に手配を頼んだのだろう。クーパー船長の航海記録によれば、4月20日には日本側から水を運び入れ、20袋のコメ、2袋のムギ(筆者注:20袋の誤り)、1箱の小麦粉、11袋のサツマイモ、鶏50羽、2束の薪、大量の大根、10ポンドのお茶等をくれた。大量の30cm以上もある大根には、乗組員の皆がビックリした。日本側の提供した全ての補給品は無料だった。そして救助した残りの18人の日本人全員が上陸したが、役人が来て漂流者を救助し送り届けてくれた事を感謝した。4月20日の航海記録には、「皇帝も私に挨拶状を与え、私の日本人救助と送還への感謝の言葉を述べたが、ここにはもう来るなと言う言葉も一緒だった」と記録している。
4月21日の朝錨を揚げ、300艘の日本のボートが牽引して湾の外に出て、マンハッタン号を開放した。その後クーパー船長は北上し、カムチャッカ半島近辺で捕鯨を続け、多くの成果があった。
♦ クーパー船長の帰港を報ずる、サグ・ハーバーの現地新聞報道
(典拠:「The Corrector」, November 21, 1846, Page 2)
マンハッタン号の母港・サグ・ハーバーの現地紙「コレクター(The Corrector)」は、1846年11月26日付けの第2面の紙上で、「先般本港に帰港したM・クーパー船長は本紙に次の如く語った」との書き出しで、その帰国と体験談を伝えた。いわく、
1844年4月18日、南緯5度20分・東経126度40分の海上で3m 位の小舟に乗ったマレー人の男を救助した。彼は10日間も陸地の見えない海上を漂流し、船にはココナツのかけらとトウモロコシの皮があっただけである。4月20日、我々はボロ―島に停泊し、彼が故郷に帰るべく上陸させた。1844年7月13日の午後3時、霧が晴れると、今まで見たどんな海図にも載っていない島を見つけた。我々は島から10から15マイル離れた、北緯48度30分・東経157度50分近辺に居ると判断した。その島は中くらいの高さで、平ではなかった。微風の中を接近する途中で霧が立ち込め進路を変えざるを得なくなったが、それ以降、他の船にも確認された。
さらに続けて、1845年3月15日にセント・ピーターズ島、即ち鳥島に至り、日本人を救助し浦賀で日本側に引き渡したと上述の通りの出来事を語り、そこに4日間停泊し、皇帝から多くの薪水食料を無料で贈られたと語った。続けていわく、
我々の停泊中に非常に多くの役人が船を訪れたが、奉行も何回も訪れて来た。彼らは大変友好的で、あらゆる情報を収集し、絵師を連れて来て目に留まるあらゆるものをスケッチさせた。彼らはとくに念を入れて船の寸法を計り、モリを計り、目にするあらゆるものを計った。
さらに最後の出帆時も多くのボートに引かれ湾外に出た事を述べ、出帆に当たり日本の皇帝から渡された「諭書」の翻訳を載せている。このしっかりした達筆のオランダ語で書かれた日本の諭書は、クーパー船長や乗組員には読めなかった。そこで翌年の帰国に当たり、鯨油を売るためオランダのアムステルダムに寄港し、オランダ語を英語に翻訳してもらっている。これが引き続きコレクター紙に載ったものである。いわく、
遭難者を通じ口伝えに耳に届いたが、我が国の遭難者がこの船で届けられ、船上では親切に待遇されたという事である。支那とオランダを除き、遭難者は如何なる外国を経由しても受取らない事が我が国の法である。しかし、恐らくこの法を知らないため遭難者を送って来たと思われる事から、今回だけは受取る。従って次からは絶対に受け取らず、何時送って来ても厳罰を以て罰する。良くこれを知り、他国にも知らすべし。
長い航海において船の食料、薪、水が底をついたと聞く事から、これらを与える。
この諭書の命により、船は早速出帆し、近海にとどまらず、まっすぐに帰国すべき事。
この記事から分かる通り、およそ3ヵ年にも渡り太平洋やその他の海で捕鯨をやったマンハッタン号に乗るクーパー船長は、2組の日本人以外にもマレー人の漂流者も救助するという善行もあった。
1842年当時、捕鯨船の停泊するラハイナの町
Image credit: © Courtesy of the Old Lahaina Courthouse,
Lahaina, Maui, Hawaii
なお、このクーパー船長が日本人遭難者を救助し江戸近くまで送った話は、ハワイのマウイ島・ラハイノナの町の医者・ウィンスロー博士が、その後ラハイノナ港に寄港したクーパー船長から直接詳細を聞き、1846年2月2日付けのオアフ島ホノルルの現地紙・「フレンド(The Friend)」にその内容が掲載された。マウイ島の西岸にあるラハイナは、北のモロカイ島、西のラナイ島、南のカホオラウェ島に囲まれ波が静かで、太平洋の真ん中にあり、右側の絵の様に、当時多くの捕鯨船が集まる重要な補給基地の一つであった。
また、このフレンド紙からの転載が、広東で発行されていた「チャイニーズ・リポジトリー」誌・15巻・1846年1月-12月(The Chinese Repository)にも載った。従って当時の識者の間では、良く知られたニュースだったようである。
♦ 日本側記録による、漂流者の受け取り
鳥島で日本人22人を救助したマンハッタン号が、4人の日本人を先づ上陸させたのち嵐にあって流されたのは、上陸させた漂流者が役人に報告し幕府が検討し許可を出す時間を確保でき、結果的に非常に良かった。
安房国朝夷郡南朝夷村(現、南房総市千倉町)へ上陸した2人の漂流民と上総国夷隅郡守谷村(現、勝浦市興津)へ上陸した2人の合計4人が役人の調べに応じ申し立てた記録がある。鳥島で救助されたのは阿波国板野郡撫養(むや)四軒家町天野屋兵吉船に乗り組んだ主水・芳蔵と幸助であり、海上で救助されたのは下総国銚子幸太郎船に乗り組んだ主水・太郎兵衛と留吉であった。この4人の申し立ていわく、
鳥島で救助された11人乗り組みの阿波国板野郡撫養・兵吉船(幸宝丸)は弘化元(1945)年12月26日に国許を出帆し、紀州田辺沖で嵐に遭って吹き流され、積荷を投棄し帆柱を切断し漂流したが、1月13日、ある島に漂着した。本船を保持できなくなり小舟に粮米15俵、鍋釜、衣類等を積み入れ、島へ上陸した。そこは無人島で、大木は無く草木もなかったが、アホウドリが沢山生息していた。そこで沢山自生していた篠笹を岩と岩の間にかけ渡し、その下で露をしのいだ。2月8日になり異国船が近づいて来たので最初は殺されはしないかと警戒し隠れていたが、島に12人が上陸して来たので仕方なく姿を現し、手まねで救助を頼んだ。異人も状況が分かり、国に送り返すので船に乗るよう手まねで応じた。そこで粮米や身の回り品を船に運び乗り込んだ。
島を出帆した翌日の9日、また難船し漂流中の日本船に出合い、ボートを2艘降ろし乗組みの漂流者を救助した。話を聞くと下総国銚子幸太郎船(仙寿丸)で11人が乗っていた。この船は弘化2(1945)年1月11日に南部を出帆したが嵐に遭い、荷物を捨て帆柱を切り漂流し、浸水して沈没しそうな水舟になったが、2月9日救助された。粮米10俵、鍋や衣料などを異船に積み込んだが、乗り移ってみると阿州撫養(むや)の船の乗組員も救助されていて一緒になった。
弘化2年2月17日朝、即ち1845年3月24日朝、東房州の山が見え、段々陸地が近づいてきたので上陸させて欲しいと手まねで頼んだが、外海のため上陸が困難で船の破損を恐れている様子で、上陸のためには内海へ入る必要があると手まねで答えた。異船が内海へ乗り入れれば問題が起きるので相談の上、先ず浦賀へ注進のため太郎兵衛と芳蔵が漁船に頼んで守谷村に上陸した。その後、守谷村から浦賀迄20里もあり、その日の内に異船が浦賀に着くと異船の方が先になり問題が出るという話になり、そこで再度幸助と留吉が漁船で南朝夷村へ上陸した。
異国船の大きさは16、7間あり、乗組員の頭分は常にラシャ製の服を着て、みな背が高く、眼の色は夫々で、頭髪は長くしていた。船内には3挺の鉄砲と鯨を取るモリが16本ばかりあった。乗組み22人の中には、大工、鍛冶、桶職が乗り組んで居た。日本人を慰めるためか毎晩、三味線風の楽器を鳴らし踊りを踊ったが、拍子も良くおもしろかった。段々心安くなり、自分達も伊勢おんどを踊ったところ異国人も大いに笑っていた。世界地図を見せ色々言っていたが意味が分からなかった。異人の乗組員の中に4人の黒人が居て、顔色のうす黒い人は2人だった。
海上で救助された銚子船には船頭の11歳になる「勝」という名の息子も居て、直ぐ異国船員と親しくなった。
浦賀では警戒を強めたが、先に上陸した4人の情報で軍船ではなく、異船内にまだ日本人が居るというので、浦賀に入港させる話になった。しかし異船は行方不明になってしまい、浦賀の防衛に恐れをなして消えてしまった可能性があるので、浦賀から船を出し、異国船を入港させる手配をした。
報告を受けた江戸詰めの浦賀奉行・土岐丹波守は、「いずれの国の船ともわからないが、とにかく鯨漁船であり、蛮国の漁民が他国の人を助けようと自分の仕事を止めてまで誠意をもって送って来たのに、浦賀で受け取らないのは、自国の人民を捨てるも同様であります」と、漂流民を浦賀で受け取るべく何度も幕閣に意見を述べた。
当時の幕府の中心人物は、弘化2年2月22日即ち1845年3月29日、老中首座になったばかりの阿部伊勢守だったが、この伊勢守さえも漂流人の処置を即刻判断したのではなく、勘定奉行たちの評定所一座の評議に廻し、大目付や目付の評議に廻し、長々と時間をかけた末の決定だった。
当時の幕府規則は、天保13(1842)年に出された「薪水給与令」で、翌年オランダを通じ諸外国に伝えられ、漂流者は長崎のみでの受取りが許されていた。従って評定所一座や大目付や目付の評議は、新しい薪水給与令に基づき漂流者は浦賀では「受取らず、長崎に回すべし」という結論だったが、最後に阿部伊勢守は諸事情を考慮し、土岐丹波守に直接指示をし、浦賀での受取りを認めた。
この時、弘化2年3月12日(1845年4月18日)に出された阿部伊勢守から江戸詰め浦賀奉行・土岐丹波守に出された「土岐丹波守へ相達し候覚」という指示は次の様なものである。いわく、
外国への漂民ども取受け方の義につき、去々卯年相触れ候趣もこれあり候へども、このたび渡来の異国人ども、右の趣いまだ相弁じ申さざる義にもこれあるべく候間、このたびは全く一時の権道を以て、漂流人浦賀表に於て受取り、去々卯年相触れ候通り、向後たとへ漂流人連れ越し候とも受取るまじき旨通弁を以て申し諭し、食料、薪水等相与へ、そのほか万端の取計ひ方、いづれにも図を失せず、後患を残さざる様、厚く相心得、取計らひ候様いたさるべく候こと。
一、右の通り相達し候。つきては明十三日浦賀表へ出立いたし、異国船早々帰帆し候様取計らひ申さるべく候。帰帆相済み候はば、委細の始末相尋ね候義もこれあるべく候間、少しも早くひとまづ帰府いたし候様心得らるべく候こと。
三月十二日
クーパー船長が幕府から贈られた漆器。
(2004年6月21日、New Bedford Whaling Museum
特別展で、管理職員の許可の元に筆者自身が撮影した。)
Image credit: © Courtesy of New Bedford Whaling Museum
https://www.whalingmuseum.org/
このような経緯で弘化2年3月12日、即ち1845年4月18日、浦賀に着いたマンハッタン号のクーパー船長は残りの18人の漂流者を役人に引き渡し、幕府からおおいに感謝され、充分な薪水や食料を与えられ、色々な贈り物も貰った。日本側の記録「史料稿本」によれば、上記のクーパー船長の航海記録に出て来る日本からの贈り物以外の細かい記録がある。いわく、
白米-20俵、小麦粉-2斗、ニンジン-200本、鶏-50羽、中皿-20人前、金入切子-品々、薩摩芋-1俵、大平目-2枚、水-300荷、上搗麦(つきむぎ)-20俵、大根-千本、松真木-200本、上吸物椀-10人前、茶漬茶碗-21人前、茶-5斤、大蛸-1杯、杉材木-4本、から藁(わら)-10把、
こうしてクーパー船長は、弘化2年3月15日、即ち1845年4月21日、浦賀を後にした。170年後の今でもアメリカのマサチューセッツ州ニュー・ベッドフォード市にある捕鯨博物館には、クーパー船長が幕府から贈られた漆器や、救助した日本人が持っていたコンパスや、日本製の子午線まで入った精密な日本沿海図が保存されている。
このクーパー船長の浦賀入港から9年後、江戸幕府と日米和親條約を締結する事になるペリー提督は、その日本遠征の出発に先立って、浦賀に行ったクーパー船長から日本情報を得ている。その時クーパー船長はペリー提督に書簡を送り、捕鯨の観点からもぜひ日本の開国が必要だと意見を述べている。
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