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特別対談「日米交流の幕開け、ペリー来航と日米和親条約」

 仙台藩の儒者で藩校・養賢堂学頭でもあった大槻磐渓(おおつき ばんけい 1801~1878年)が編纂した絵巻「金海奇観」(早稲田大学図書館蔵)2巻がある。ペリー来航160年記念として雄松堂書店が復刻刊行、それに岩下哲典解説『大槻磐渓編「金海奇観」と一九世紀の日本』(92ページ)が付く。
 この解説は、「金海奇観」の各図(乾巻に題字、17図、跋文、また坤巻に12図と跋文)を解き明かし、編者の大槻磐渓と絵師(松代藩医で絵師の高川文筌、膳所藩儒者の関藍梁、津山藩御用絵師鍬形蕙斎の子の赤子)のネットワーク、諸写本等を詳細かつ正確に描くとともに、「ペリー来航前後-対外関係と蘭学・洋学の一九世紀」の項では、本絵巻の描かれた時代の対外関係、その情報分析をめぐる、伝統的な儒学と新興の蘭学・洋学を総合的に描く。
 この絵巻の復刻刊行を機に、その資料的価値をめぐって、11月5日、パシフィコ横浜展示ホールの第16回図書館総合展において、岩下さんと私の特別対談「日米交流の幕開け、ペリー来航と日米和親条約」が開かれた。
 絵巻の29図は、1854年2月から4月(嘉永7年2月~4月)、金海(神奈川=金川の海)に集結した黒船艦隊(ペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊)9隻に始まり、交渉場所の横浜応接所の見取図、ペリーほか士官や踊る兵士、幕府への献上品等を描いている。対象を徹底してアメリカ側のモノとヒトに絞り、応接した幕府全権・林大学頭(復斎)たちについては、文字表記のみで画像はなく、横浜村方向へ進む御座船(将軍の船)天神丸(3月17日の第2回会談に初使用)が唯一の例外である。日米和親条約の交渉に来航したペリー艦隊一行を「金海に展開する奇観」として描く。
 絵巻(https://www.yushodo.co.jp/press/kinkaikikan/index.htmlに一部掲載)を使い、背後にある歴史を引き出せないかと画像の一部を映写し、配布プリントと合わせ、次の5点に絞り、対談を進めた。
 (1)蒸気軍艦。拙著『幕末外交と開国』のペリー旗艦ミシシッピー号航路図。1852年11月24日、アメリカ東部のノーフォーク軍港を出港、大西洋横断、南下しインド洋経由、中国海域着。沖縄・小笠原を経て7か月半後の1853年7月8日、浦賀(神奈川県)沖に姿を現す。滞在わずか10日間。この図は、翌1954年2月再来時の艦隊(計9隻)である。
 蒸気軍艦3隻は、超大国イギリスにもない世界最大・最先端・最新鋭。うちポーハタン号は1851年就航の新造船で、対メキシコ戦争(米墨戦争 1846~48年)に伴い米海軍が発注。5年後の完成時に戦争はすでに終結、配備先に困り、東インド艦隊が俎上にのぼった。
 強力な破壊力を有する巨大蒸気軍艦は石炭食いで、補給を断たれれば「粗大ごみ」同然となる。この点を大槻磐渓が早くも見抜き、ペリー来航5日目、大統領国書受理の前日の1853年7月13日、林大学頭(健)に上申している。「彼らに交戦の意図なし、彼らには補給線がないため戦争にはならない」(拙著)。
 (2)横浜応接所の見取図。1854年2月8日、ペリー艦隊再来。まず応接所(交渉場所)として浦賀を提案するも、狭いと米側が拒否。横浜村(神奈川宿から海上4キロ)の提案には応じ、2月25日、下見して合意(本ブログ「160年前の横浜村」を参照)。3月8日、日米代表による史上初の条約交渉が始まる。幕府全権・林大学頭(復斎)とアメリカ全権・ペリー提督との息詰まる対話(論戦)は拙著の一部をコピーして配布、説明を加えた。
 (3)土産の献上品。3月8日の基本合意を受け、アメリカ側が献上品の陸揚げを要請。17日の第2回対話に合わせ、蒸気機関車・貨車・客車(1/4モデル)、モールス通信の電信機、農機具、種子類等を揃え、2㎞のレールを敷いて汽車を走らせ、電信機で遠距離の通信を披露。
 これを機に条約の詰めは急展開、3月31日、日米和親条約の調印に至る。日米で合わせて、日本語版、漢文版、英文版、オランダ語版の4言語の条約文を整えるも、調印式で林が「外国語で書かれたいかなる文書にも署名できない」と述べて終了。全権連署の条約文は1通もない。
 (4)武器の寄贈。友好的な相手にのみ武器の寄贈はある。そのコルト式ピストル(6連発)は与力・香山衛左衛門を招待の折、サスケハナ号ブキャナン艦長が実射してみせた(1853年6月8日)が、ピストルやボート砲等の武器類の正式寄贈は、条約調印後の4月である。
 (5)応接所の今 応接所は現存しない。場所は現在の地図に応接所の平面図をスライド上で重ねた。日本大通りの海岸近く、大桟橋の付け根、横浜開港資料館と神奈川県庁辺り。ここが開港横浜の中心地となったのはなぜか。
日米和親条約締結を根拠に、1856年、アメリカ外交官ハリスが下田に着任。2年後の1858年、日米修好通商条約を締結、5港開港のうち神奈川(横浜)開港は1859年7月1日と明記した。神奈川(横浜)港の場所の詳細は、幕府と米領事(のち公使に昇格したハリス)の交渉に委ねられる。
 しかし日米間で合意ならず、ハリスは上海へ出張、開港日は迫り、新設の神奈川奉行主導で突貫工事に着手。埠頭と運上所(税関)を横浜応接所の跡地に定め、海岸に沿い山手側を外国人居留地として地割し賃貸、反対側を日本人町として商人を誘致、新興横浜の中心となる。
 人口400人たらずの横浜村は横浜町、やがて横浜市へ発展、いま人口370万人超、日本最大の政令市となった。
 日米交流の原点、都市横浜の原点が、まさにこの「金海奇観」にある。 
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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