160年前の横浜村

 1854年3月31日(嘉永七年三月三日)、横浜村に仮設した応接所(会談場所)で、日米の全権、林大学頭(復斎)とペリー提督が日米和親条約を締結、ここに日本は開国し、今年で160年になる。
横浜村(戸数約90)は、現在の横浜市域にあった約220か村の1つで、戸数や石高は平均的、生業は半農半漁、東海道の宿場・神奈川宿から海路で南東約4キロに位置する。応接所は、現在の大桟橋の付け根から神奈川県庁辺りに設けられた。
 ペリー率いる黒船艦隊の2度目の来航は1854年2月、幕府は応接所の候補地として浦賀奉行所の近くの館浦(やかたうら)を提案、実地検分まで行ったが、狭くて荷揚げもできないとアメリカ側が拒否する。そこで2月25日、浦賀奉行所与力・香山栄左衛門がブキャナン艦長やアダムス参謀長らを横浜村に案内した。同行したS・Wウィリアムズの『ペリー日本遠征随行記』に、その記述がある(抄訳)。

 村はずれの青々と伸びる麦畑が、交渉の候補地として挙げられた。応接所建設のために、民家を四、五軒取り壊す必要があったと言う。香山は村民の所有するものに深く配慮したようで、行く先々で彼らは腰を屈めて香山に話しかけてきた。村民は刀を差しておらず、衣服や住居から見て、明らかに貧しい。
 土地はよく耕されている。道端には下肥、堆肥などを混ぜた大きな桶が幾つも並び、蒸発を防ぐ藁の蓋の下から、不快な臭いを漂わせていた。
 住いは貧弱で、梁と横木の骨組みに泥の壁、屋根は藁ぶきで厚さが30センチほどある。二、三ある板囲いの家は、暖かくはなさそうだが、小ぎれいで、門柱があり、入口は引戸である。道路や家の配置に(那覇のような)計画性は見られず、狭い家と敷地が不調和に集まっている。
 瓦ぶきの家は少なく、しかも中国の家より小さいが、白い漆喰の壁と、瓦を同じ白漆喰でつないだ屋根は美しい。生垣や竹や木の垣根で庭を囲んでいる。明かりとりの窓はなく、煙突も見られない。
 椿の花が満開で、木々が芽吹き始めている。彼方には墓地が拡がる。


 横浜村を交渉の地とする合意がなされるや、幕府は急ぎ応接所(アメリカ側は条約館と命名)の建造に着手した。前年のアメリカ大統領国書受理の際、久里浜に造った建物を解体して移築、周囲に増築して、わずか5日間で完成させる。
 そして1854年3月8日、艦隊から一斉に祝砲が轟き、林大学頭(復斎)とペリー提督の対話が始まった。両者は、時に息詰まる論戦を積み重ね、ついに日米和親条約の基本合意に至る。
 1週間後、横浜村に交通・通信革命の世界最先端装置が勢揃いする。アメリカ側は土産の蒸気機関車(1/4モデル)を2キロのレールを敷いて走らせ、また電線を張り、モールス信号で遠距離通信を実演して驚嘆させた。お返しとして幕府は200俵の米を贈呈、力士に運ばせ、巨体と剛力で驚かせた。
 これを機に急ピッチで詰めがなされ、3月31日、日米和親条約は締結に至る。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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