FC2ブログ

第8回ジョン万サミットin東京

 標記の会合が11月9日(土曜)、東京都文京区は本駒込の東洋文庫で開かれ、初めて出席した。ジョン万とはジョン万次郎あるいは中浜万次郎の愛称で、サミットは全国各地にある万次郎顕彰会の連携・親善をはかって開かれるという。

 東洋文庫は土佐出身の三菱財閥三代目の岩崎久彌(1865~1955年)が1924年に創設した東洋学の研究図書館で、学生時代にたいへん世話になった。旧来の閲覧室に加えてミュージアム機能を強化、カフェを併設して大改装、見違える姿に驚きつつ、2階の講義室へ向かう。

 話は半年ほど遡るが、今年5月、江東区文化センターで「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(東京都認可、北代淳二理事長)の創立総会があり、その記念講演として「ペリー応接と万次郎」を語る機会をいただいた。漂流民となり11年後に日本に強行帰国を果たした土佐の漁師・万次郎が、ペリー来航と幕府のペリー<応接>(現在の<交渉>に該当)にいかなる影響を与えたかを主題とした(2019年7月10日掲載「ペリー応接と万次郎」参照)。

 江東区文化センターの近くに土佐藩の下屋敷があり、万次郎が11年間住んでいた。それに因み10年前に落合静男さん(当時、江東区北砂小学校長)や幅(はば)泰治さんたちが立ち上げた地域密着型の「ジョン万次郎・江東の会」(その創立記念講演は日野原重明医師)を、2014年に全国型の「中浜万次郎の会」とし、今回「NPO法人・中浜万次郎国際協会」に改組した。また幅事務局長たちの尽力により、地道な調査研究活動の成果を「研究報告」誌として刊行、すでに第9集を数える。

 講演のご縁から牧野有通さん(日本メルヴィル学会会長)と知り合い、9月8日(日曜)、中央大学駿河台記念館で開かれた「第7回日本メルヴィル学会年次大会」を聴きに行った。それというのも、15年前、私が神奈川新聞に「開国史話」を連載(月水金の週3回、計200回、のち2008年に単行本『開国史話』として同社より刊行)、そのなかに「メルビル『白鯨』の世界」として一文(2004年6月2日)を書いていたからである。

 牧野会長は挨拶で、(1)今年がアメリカ人作家メルヴィルの生誕200年にあたり、(2)6月にニューヨークで国際メルヴィル学会に出席して日本メルヴィル学会の活動を報告、(3)思えば30年前のシンポジウムで「メルヴィルと万次郎」を発表して以来の研究課題であり、(4)メルヴィルとジョン万次郎は2~3度、太平洋上の島々で実際にすれ違っており、両者は1840~50年代という<近代>の入口で生きた日米両国の同時代人である、と語った。

 この年次大会の特別講演は作家の夢枕獏「白鯨とジョン万次郎」で、高知新聞等に連載中の「白鯨とジョン万」の執筆構想や苦労話をからめて壮大な話をされたが、そこで北代さんや幅さんたちと再会した(本ブログ2019年9月13日掲載「メルビル『白鯨』の世界」)。

 そして今回の「第8回ジョン万サミットin東京」である。いただいた平田潔事務局長からのメールには、11月9日(土)のサミットが東洋文庫で、その記念講演は夢枕獏先生、11月10日(日)の万次郎忌は例年通り雑司ヶ谷霊園で行った後、追悼昼食会も例年通り万次郎終焉の地である銀座で、ご子孫(万次郎から四代目)の中濱慶和氏をお迎えして、とあった。

 5月、9月につづき短期間に3度目の再会となったのが北代さん、幅さん、牧野さんで、夢枕さん、落合静男さん、塚本宏さんとは2度目である。万次郎が引き合わせてくれたのであろう。

 ここで万次郎の略歴の一部を再確認しておきたい。文政10(1827)年、現在の高知県土佐清水市中浜(なかのはま)で半農半漁の貧しい漁師の次男として生まれた。9歳のとき父が亡くなり、母と兄が病弱であったため、幼い頃から働いて家族を養い、寺小屋へ通う余裕もなかった。

 天保12(1841)年、鯵鯖漁船の炊係(炊事と雑事を行う係)となる。仲間の構成は、船頭の筆之丞(38歳、のちにハワイで「伝蔵」と改名)を筆頭に、その弟で漁撈係の重助(25歳)、同じく弟で櫓係を務める五右衛門(16歳)、もう一人の櫓係の寅右衛門(26歳)、そして最年少の万次郎(14歳)である。

 寒中に船出し、足摺岬の沖合で操業中に突然の強風で航行不能となって数日間の漂流後、伊豆諸島の無人島、鳥島にたどり着いた。この島でわずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら143日間を生き延びる。5月9日(1841年6月27日)、アメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料を求めて島に立ち寄った際に発見され、救助される。
 鎖国の日本に帰国はかなわず、5人はそのままアメリカへ。翌1842(天保13)年、ハワイのホノルルに寄港。4人は下船、万次郎だけが希望してアメリカ本土を目指す。ホイットフィールド船長に気に入られ、乗組員から「ジョン・マン (John Mung)」の愛称で呼ばれた。

 ジョン・ハウランド号は、1842年、船長の故郷で捕鯨船の一大拠点のマサチューセッツ州ニューベッドフォード(フェアヘブンの隣町)に帰着、万次郎は船長の養子に迎えられ、1843(天保14)年、オックスフォード学校、1844(弘化元年)年、バートレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。寝る間も惜しんで勉学に励み、首席となり、民主主義や男女平等等、眼を見張る概念に触れる一方、人種差別も経験する。

 卒業後は捕鯨業に従事、投票で副船長に選ばれる(投票では2人が1位になったが、年長者に船長の地位を譲った)。1850(嘉永3)年5月、日本に帰る意志を固め、資金調達のためゴールドラッシュに沸くカリフォルニアへ。サクラメント川を蒸気船で遡上、鉄道で鉱山に向かう。数ヶ月間の金鉱採掘で600ドルを得ると、ホノルルに渡って昔の仲間を誘い、1850年12月17日、上海行きの商船に購入した小舟「アドベンチャラー号」を搭載して日本を目ざした。

 1851年3月4日(嘉永4年2月2日)、帰国禁止(鎖国)の掟を破り、アドベンチャラー号で薩摩藩に服属していた琉球に上陸、番所で尋問を受けた後、薩摩本土に送られた。薩摩藩で取調べを受けるも厚遇され、西洋文物に興味のあった開明的な藩主・島津斉彬から海外情勢や文化等について問われる。
 薩摩から長崎への移送後は、長崎奉行所から長期間の尋問を受け、絵踏みにより非キリスト教徒の証明をさせられ、さらに外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩からの迎えの役人とともに土佐に向かう。

 高知城下では吉田東洋らによる藩の取り調べを受け、万次郎を同居させて聞き取りに当たった河田小龍が、その記録を『漂巽紀畧』として刊行した。

 拙著『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)の第1章「1853年 浦賀沖」の「5 ジョン万次郎の語るアメリカ」では、取調べに答えた発言6点を引用した。①歴史と地理について、②食事と酒について、③アメリカ人について、④大統領について、⑤日本に関する評判、⑥江戸の評判。

 この⑥で「江戸は世界中でもっとも繁盛の所と評判が高く、彼国の人びとは見物したがっている。江戸・北京・ロンドンの三都は世界第一の繁盛の地である」と述べている。これから大きなヒントを得て、私は『世界繁盛の三都-ロンドン・北京・江戸』(1993年、NHKブックス)を刊行した。

 万次郎はペリー2回目来航直前の1854年1月、20俵取りの御普請役として召し抱えられる。史上初の日米交渉については、上掲の拙著『幕末外交と開国』や『開国史話』ならびに本ブログ(2019年7月10日掲載「ペリー応接と万次郎」)等を参照していただきたい。ただ、交渉の場で果たした万次郎の役割については史料が少なく、今後の解明が待たれる。
 
 その後の万次郎の活躍について、簡単に挙げておきたい。1860年、日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節通訳として渡米、ついで幕府の軍艦操練所教授(1862年)、土佐藩の開成館教授(1866年)となり、英語、航海術、測量術などを教える。明治政府により1869年、開成学校(東京大学の前身)の英語教授に任命される。著書に英会話書『英米対話捷径』(1859年)がある。

 東洋文庫の「第8回ジョン万サミットin東京」では、開会の挨拶に司会の平田潔事務局長、歓迎の挨拶に「NPO法人・中浜万次郎国際協会」の北代理事長、そして各地域の活動が報告された。

1 台湾 陳新炎氏(中国語で『約翰・万次郎傳奇一生』を刊行、紹介)
2 沖縄県 豊見城市沖縄ジョン万会 赤嶺秀光会長
3 沖縄県 糸満市万次郎上陸記念碑期成会 徳元秀雄会長
4 高知県 土佐清水市ウェルカムジョン万の会 田中慎太郎会長
5 高知県 高知市 土佐ジョン万会 アーサー・デイビス理事
6 大阪府 ホイットフィールド万次郎の会 上野貴與之会長
7 東京都 中浜万次郎国際協会 北代淳二理事長
8 秋田県 秋田市 佐藤宗久氏
9 熊本県 熊本市 吉岡七郎氏
10 特別報告 沖縄県 神谷良昌氏(沖縄ジョン万次郎会・理事、糸満市万次郎上陸記念碑期成会・理事)
和田達雄氏(糸満市万次郎上陸記念碑期成会副会長)

 記念講演会 夢枕獏氏「白鯨とジョン万」

 配布資料は(順不同)、(1)「中濱万次郎家系図」、(2)「NPO法人ジョン万次郎上陸地記念碑建立期成会の活動状況について」、(3)「(中浜万次郎国際協会の佐藤宗久氏による)今後の活動計画(案)」、(4)「第30回 日米草の根交流サミット2020 フィラデルフィア大会」のチラシ(「公益財団法人 ジョン万次郎ホイットフィールド記念国際草の根センター」(小沢一郎会長、略称はCIE)の第30回大会で、北代さん、平田さん、後述の中濱京さんが評議員、青木千佳さんが理事兼事務局長)、そして(5)『第14回沖縄ジョン万次郎会講演会』(全21ページ)である。

 これらのうち(5)『第14回 沖縄ジョン万次郎会講演会』所収の幅泰治「ジョン万次郎はどのようにして知られて行ったのか」と塚本宏「ジョン万次郎と長男東一郎の日米親善」の2つを紹介したい。

 幅さんは1937年、名古屋生まれ。学習院大学政治経済学部卒、千葉大学で工業デザインを、早稲田大学で生産工学を学び、日立化成工業で開発設計を担当。定年退職後、文化財や地域史に関心を持ち、万次郎ゆかりの土佐藩下屋敷近くに居を得た縁から、10年前に上掲「ジョン万次郎・江東の会」を落合さんたちと立ち上げ、事務局長を務めた。現在は中浜万次郎国際協会理事。

 ジョン万の生涯を追いつつ、彼が世に知られるようになった経緯を、①取調べ調書、②流布本、③本人の記録、④伝記、⑤歌舞伎・講談・演劇、⑥小説・絵本、⑦教科書、⑧TV番組・新聞、⑨解説・評論・読物、⑩研究、⑪資料館・イベント、⑫その他、に分けて収録し、的確な解説を付す。

 人間・万次郎について、幅広く全分野を網羅するほどに目が行き届いている。例えば⑤歌舞伎・講談・演劇では、明治21年新富座で公演の歌舞伎「土佐半紙初荷鑑」から現代の劇団四季「ミュージカル・ジョン万次郎の夢」まで、⑥小説・絵本では井伏鱒二『ジョン万次郎漂流記』(1937年)を筆頭に多数、また⑦教科書での取り上げられ方の変遷、そして⑩内外の諸研究では20数点を渉猟している。

 幅さんから頂戴した冊子「歌舞伎になった万次郎」は、上掲の竹柴其水作「土佐半紙初荷艦」(とさはんしはつにのおおふね)の台本の解説と抄訳からなり(A4×30ページの仮綴じ)、万次郎と親方の2役を演じるのが市川左団次と知ればさらに興味が尽きない。

 塚本さんは1932年、大阪生まれ。大阪大学医学部卒、明治生命保険(相)で医務部長、取締役を歴任。この経験と知見を基に万次郎と長男・東一郎(1857~1937年)についてまとめる。中浜万次郎国際協会監事。
 
 万次郎30歳の時、芝新銭座で授かった東一郎は、東京大学医学部の3回生。万次郎が3人のアメリカ大統領(28代のT.W.ウィルソン、30代のJ.C.クーリッジ、32代のF.D.ルーズベルト)から評価されていること、また万次郎に感銘を受け、東一郎と親交のあった石井菊次郎が、駐米大使時代にフェアヘブンの日本刀献呈式典に参加するなど日米親善に努めたこと、東一郎をはじめ現在の五代目に至るまで子孫たちが民間の草の根交流に努力してきたこと等を挙げる。
 
 そして「…中浜家が、先祖の万次郎への篤い敬慕の気持ちと、アメリカの二人の恩人(ホイットフィールド船長とデーモン牧師)に対する深い感謝の念に裏打ちされて、民間の草の根交流を続けてきたことは感動的というしかない。」と述べる。しっかり典拠も示されている。
 
 夕食会は東洋文庫の敷地の奥にあるオリエント・カフェで行われた。乾杯の音頭は万次郎から数えて五代目に当たる中濱京さん、富士通勤務のかたわら講演やTV等を通じて万次郎の広報に取り組み、また「公益財団法人ジョン万次郎ホイットフィールド記念 国際草の根交流センター」の評議員を務める。
 
異なる経歴・職業の老若男女60名ほどが、立食の場を行き来しつつ歓談。稀有の傑物ジョン万に惹かれて集まった人びとの賑やかな宴であった。
スポンサーサイト



コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
カテゴリ
QRコード
QR