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ペリー応接と万次郎

 江東区文化センターで「NPO法人・中浜万次郎国際協会」(東京都認可)の総会が5月19日(日)に開かれた。会場の近くに土佐藩の下屋敷があり、万次郎が一時住んでいたことに因み、15年前に落合静男さん(当時、北砂小学校長)が立ち上げた「ジョン万次郎・江東の会」を2014年に「中浜万次郎の会」とし、さらに改組して今回の記念総会である。代表の北代淳二(きただい じゅんじ)さんから講演の要請をいただいた。

 北代さんと初めてお会いしたのは2年前の5月20日、横須賀開国史研究会の総会後で、幅泰治さん(はば たいじ、中浜万次郎の会事務局)と青野博さん(土佐史談会理事)がご一緒だった。

 また一昨年6月、新発見の芝居の台本、王笑止著「泰平新話(たいへいしんわ)・巻之一 亜墨利加(あめりか)舶来航、兼土佐萬次郎(とさまんじろう)説話」(表紙込みで81ページ)について、メールで意見交換した(2017年6月14日の朝日新聞夕刊を参照)。

 そして昨年末、ジョン万次郎述 河田小龍記 谷村鯛夢訳 北代淳二監修『漂巽紀畧(ひょうそんきりゃく 全現代語訳』(講談社学術文庫 2018年)が刊行され、さっそく入手。講演要請は同じ文庫に拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年、以下 拙著とする)があり、2冊でペリー来航時の万次郎の役割がよく分かるとの、北代さんの配慮であったかもしれない。

 万次郎の帰国とそれに続くペリー来航という時期に、幕府と日本はどのような状況にあったかという背景に触れてもらえればとのこと、考えた末に演題を「ペリー応接と万次郎」とお伝えした。

 当日の参加者は約30名。北代会長は、事前に拙著を読んで参加するよう要請されたという。もともと万次郎に様々な角度から関心を抱いている方々ばかりである。熱心に耳を傾けてくださった。

 配布レジメには年表や地図・表等を付し、目次に3点を掲げ、これに沿ってパワーポイントを放映して話を進めた。

1 1850年ころの環太平洋-東漸する英国、米国西海岸、太平洋の日米漂流民、米捕鯨船、百万都市・江戸
2 日米双方が得た情報、万次郎の伝えたもの
3 ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳

 目次1に関しては、レジメに載せた地図「1850年前後の環太平洋」(拙著59ページ)を放映し、次の2点を説明した。①環太平洋の左(西)に東アジア(日本・朝鮮・中国)や東南アジアがあり、右側(東)にはアメリカがある。アメリカはメキシコとの戦争(米墨戦争 1846~48年)に勝利し、広大なカリフォルニアを割譲させ、初めて太平洋の先の東アジアを展望する位置に立った。②難破した日本人漂流民(大半が海上運搬を担う廻船の乗組員と漁民)は北太平洋海流と偏西風によりアメリカ西海岸方面へと流され、一方で難破したアメリカ捕鯨船は千島海流により北海道に漂着した。

 ついで地図「ペリー提督旗艦の航路」(拙著22・23ページ)を使い、次の3点を述べた。

① ペリーの旗艦ミシシッピー号は、アメリカ東部の軍港ノーフォークを発ち大西洋を横断、アフリカ南端をまわり、インド洋を経由、地球を約4分の3周して中国海域に到着、1853年7月8日、江戸湾の浦賀沖に姿を現すまで実に7カ月半を要した。②中国海域に到着するや広州駐在の宣教師S・W・ウィリアムズを訪ね、日本語の通訳を要請するも固辞される。③アメリカは独自の補給線(シーレーン)を持たないため、蒸気軍艦に必要な石炭や食糧・水等をイギリスの蒸気郵船会社P&O社のデポ(貯炭所)から購入せざるを得なかった。

 さらに略年表(拙著35ページ)を参照して下記の3点を述べた。

① 左欄の日本には戦争の文字がなく、右欄の世界には戦争、植民地化等の文字が多数ある。②幕府による4回の対外政策、すなわち1791年の寛政令(薪水供与令)、1806年の文化令(寛政令のいっそうの緩和)、1825年の文政令(無二念打払令の強硬策)、そして1842年の天保薪水令(文化令の穏健策に復帰)。うち最後の天保薪水令の公布は、アヘン戦争を収束させる南京条約締結(1842年8月29日)の一日前であった。
② これは偶然ではなく、幕府が長崎に入港するオランダ商船と中国商船に提出させたアヘン戦争情報を周到に分析、イギリス海軍が揚子江を遡航して大運河の交差する地点(鎮江と揚州)を越えると読み、この物流の大動脈(揚子江と大運河)を制覇されれば清朝政府は降伏すると判断した。
③ この中国戦線の動きを「他山の石」、「自国の戒」とし、外洋船を一隻も持たない「鎖国の祖法」の下、文政令(無二念打払令の強硬策)の固持は敗戦を意味するとして穏健策の文化令に復し、あらゆる面で「避戦策」に徹する政策に転換した。

以上が日米初の交渉の前提となる政治状況である。

 これに次ぐ目次2「日米双方の得た情報、万次郎の伝えたもの」は、本講演の中心課題である。相手がどのような国で、何を目的に、どのような布陣で臨むか。情報の多寡と綿密な解析、そして高度な戦略が交渉の決め手になる。

 まず幕府が得たアメリカの「直接情報」(日米の直接の接触により得た情報)として、次の3つを挙げた。
① 1845年、アメリカ捕鯨船マンハッタン号が日本人漂流民22名を救出し、送還のため浦賀に来航。初めて漂流民の帰国(引取り)を認める。
② 1846年、アメリカ東インド艦隊司令長官ビッドルの浦賀来航。国交樹立を求めるも、メキシコとの戦争(米墨戦争)勃発のため急ぎ帰国。交渉には至らなかった。
③ 1849年、アメリカ東インド艦隊のグリン艦長がアメリカ人漂流民救出に長崎へ来航。話し合いで解決し、漂流民を引き取って帰帆した。

 もう一つの「間接情報」とは、①文書で頻繁に入るオランダ情報(オランダ別段風説書等)、②強硬帰国した万次郎からの聞書きである。①のうちペリー来航の1年以上も前の1852年4月、長崎在住のオランダ商館長クルチウスが提出した別段風説書はペリー艦隊来航を予告していた。

 ② 万次郎が語った江戸の評判。「江戸は世界でもっとも繁盛の所と諸国で評判が高く、彼国の人びとは見物したがっている。江戸・北京・ロンドンの三都は世界第一の繁盛の地である」の一言が、幕閣に自信を与えたのではないか。その3カ国のうち日本だけ国交がない。アメリカ側が江戸見物を期待するようであれば戦争にはなるまいとの解釈もできた。

 一方、ペリーの得た情報はなにか。間接情報には①シーボルト『日本 Nippon』、②Chinese Repository誌と宣教師仲間の情報、なかでも①シーボルト『日本 Nippon』がペリーに及ぼした影響は甚大である。冒頭にある一文、「…日本は1543年、ポルトガル人により偶然発見されたが、その時すでに2203年の歴史を持ち106代にわたる、ほとんど断絶のない家系の統治者のもとで、一大強国になっていた。…」 これを受けてペリーは、「世界最古の国・日本に、もっとも若い国の自分が挑戦する」と述べている。

 直接情報としては、①送還を待つ日本人漂流民からの日本語学習、② 帰国中の“Chinese Repository”誌の記者や捕鯨船船主からの聞き取り等があるが、いずれも幕府の対応や動向についての基本情報は含まない。

 比較すると、幕府のアメリカ情報の方が多く、質的にも多様で、政治外交上の判断に役立つものが多い。とりわけ万次郎の体験談は幕閣に強い影響を与えた。

 1853年7月8日、いよいよペリー艦隊4隻が姿を現した。浦賀沖に停泊すると、浦賀奉行所の二人の役人を乗せた番船が旗艦サスケハナ号に近づき、甲板に並ぶ水兵に向かって大声で呼びかけた。”I can speak Dutch!” 甲板上の水兵たちが理解できりように、与力の中島三郎助の指示でオランダ通詞の堀達之助が英語を使った。これが奏功し、二人は艦上でペリーの副官コンティとの話し合いに入った。この最初の接触が数日後の幕府によるアメリカ大統領国書受理につながる。ペリー艦隊は、当面の目的を果たしたとして、9日間の滞在後、来春の再来を告げて去った。

 ペリーが去った直後、老中首座阿部正弘は受理した大統領国書を各界に回覧して意見を求めた。この諮問の直前に林大学頭に出された仙台藩士・大槻平次(盤渓)の意見書がある。「我が国は自国の戦いだが、彼らには補給線がないから戦争にはならない…」の指摘は大局をよく把握しており、<避戦策>(=外交を基本方針とすること)への傾斜を深めたと思われる。また大槻の言う譲歩の限界(薪水施待所を承認)や万次郎の通訳登用案も当を得ている。

 目次の3「ペリー来航と横浜村応接-林大学頭vsペリー提督の論戦、使用言語、通訳」。1854年2月、前年の4隻から9隻に艦隊規模を拡大してペリーが再来する。そして3月8日、横浜応接所で林とペリーの初の日米トップ会談が開かれる。ここで条約内容の骨格が決まる。その後は土産の交換や招待宴を通じて親交を深め、条約の詰めを行い、会談から3週間後、日米和親条約の締結にいたる。この模様は拙著の第5、6章に詳しく書いた。またNHK「歴史秘話ヒストリア 日本人ペリーと闘う」(2019年5月22日放映)でも触れる予定だったので省き、今回は何語で交渉したか、双方の通訳及び交わされた条約文を中心に話した。

 ペリーは日本語で交渉する考えで在華宣教師S.W.ウィリアムズに的を絞り、通訳は連れずに出国、中国海域に到着した翌日、広州にウィリアムズを訪ねて要請する。ところがウィリアムズは、日本語は10年も前に送還を待つ日本人漂流民から習ったもので、書き言葉も知らないと答えてペリーを困惑させる。結局、ウィリアムズは中国語の読み書き(=漢文)ができる人員として随行を受諾、ただ書には自信がなかったのか、文人の羅森を同伴した。

 話し言葉の通訳がいない。文書だけの沈黙の交渉はできない。ペリーは上海でポートマンという21歳のオランダ系アメリカ人を雇用する。しかし彼には交渉に必要な政治・法律の知識はほとんどなかった。

 交渉言語は、口頭ではオランダ語、文書では漢文となった。いうまでもなく言葉には<四技法>(聴く・話す・読む・書く)があるが、漢文は<読む>と<書く>だけである。ペリー側の漢文人員は2名、対する幕府側は約20数名、その大半が旗本養成機関の昌平黌(唯一の国立大学に相当)出身で、四書五経等の漢文に通じ、政治・法律・歴史・論争術等を修めた、奉行またはそれ以上の役職・経験を持つ優れ者揃いである。

 オランダ語通訳は、ペリー側にポートマン1名、幕府側は少なくとも3名以上、長崎から選りすぐりのオランダ通詞を呼び寄せていた。”I can speak Dutch!”と呼びかけた堀も、横浜応接で首席通訳を務め、オランダ語版の条約文に署名する森山栄之助も、その一員である。

 林とペリーのトップ会談から3週間後の1854年3月31日(嘉永7年3月3日)、双方が別々に署名した日米和親条約が交換された。4か国語の条約文が残っており(アメリカ公文書館所蔵)、日本語版には林大学頭、英語版にはペリー、漢文版には松崎満太郎、オランダ語版には森山栄之助の署名がある。一方、日本側が受け取ったものは火災で焼失、現存しない。

 条約文は交換したが、同じ文面に双方全権が署名した版はない。<正文>(条約において条文解釈の基準となる特定言語)に関する話し合いをしないままに調印に至ったためである。翌4月1日、これに気づいたペリーが書簡を出す。幕府はペリーが箱館(函館)を訪ね、下田に戻った時に再度協議すると伝えた。6月8日から林とペリーの下田協議が始まり、日本語と英語を<正文>としオランダ語の訳文を付すことを決めた。この「下田追加条約」で初めて両全権の署名が入った(拙著第七章に詳しい)。

 約2時間にわたる講演をここで終えた。7名もの方から質問があり、その質問の鋭さに驚きつつ答え、最後に日米初の交渉時、万次郎の果たした役割について次のようにまとめた。

 万次郎のアメリカ情報は幕閣の親米論を強化し、<避戦策>に徹した交渉に大きく寄与したのではないか。徳川斉昭(御三家の一つ、水戸藩主)の強い反対があり、万次郎は通訳として登用されなかったが、それは結果的に正解だったと思うと述べた。

 日米双方がそれぞれ通訳をつける(近代以降、これが慣例となる)のであれば、日本側の人材は万次郎をおいて他にない。しかしペリー側に日本語通訳がいない状況下で、もし幕府側だけが相手国の言語(英語)の通訳を立てたとすれば、通訳は双方から二重の責務を負わされ、客観的かつ正確な通訳ができなくなる。

 万次郎の果たすべき役割は通訳ではなく、彼の得難い経験とそれに基づく説得力ある情報を伝えることにあった。通訳としては、6年後の1860年、咸臨丸に乗り、日米修好通商条約(1858年調印)の批准書を携えて訪米するさいに、その能力を遺憾なく発揮する。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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