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三溪と天心(その1)

 原三溪(はら さんけい、富太郎)は、慶応4年8月23日(1868年10月8日)、美濃国厚見郡佐波村(現岐阜市)の青木久衛の長男として生まれ、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、1892(明治25)年、横浜の生糸売込商・原善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚。実業家、茶人、造園家、新進画家の支援等、幾つもの顔をもつ偉人である。以下、号の三溪を使う。

 昨年は三溪生誕150年、今年が没後80年である。それを記念し、今年7月13日から横浜美術館で「原三溪の美術-伝説の大コレクション」が開かれる。案内文によれば、三溪の美術への関わりは大別して4つ。<コレクター>(5000点を超える至宝を集めた、驚異の目利き)、<アーティスト>(余技の域を超えた書画、理想美としての三溪園)、<茶人>(自由闊達な茶の境地を拓いた数寄者)、<パトロン>(敬意と慈愛に満ちた芸術家支援)。

 これに関連して5月10日、私のブログの論考「岡倉天心市民研究会」(2016年11月8日号掲載)にコメントが入っていることをブログ管理者が知らせてくれた。NHK[日曜美術館」を制作する(株)オフィス天野の大島洋子ディレクターからの照会で、「天心と三渓の関係」とある。

 「…7月から横浜美術館で開催される「三溪展」に関連した番組を現在企画しております。三溪が日本美術に傾倒し、コレクターとして、また三溪園造園に心血を注がれたのには、天心の影響が大きかったのでは・・・というご意見を、先日三溪研究者の猿渡様より伺いました。
 それを実証するような手紙とか、交流を表す資料などご存じでしたらお教えください。三渓さんが日本美術に心を砕いたモティベーションを深く知りたく思いまして質問いたしました。よろしくお願いいたします。」

 なぜ私にこのような照会が来るのか不思議に思ったが、上掲のブログ「岡倉天心市民研究会」から、私を天心に詳しい人物と思われたようである。私はその記事の冒頭に「研究会は、天心(1862~1913年)の生誕150年、没後100年を記念の茶会を、2013(平成25)年、三溪園で、さらに「天心フォーラム」を横浜市開港記念会館(天心の生誕地)で開催、これを受けて作家の新井恵美子さんを会長に、千葉信行さん(元神奈川新聞社)を事務局長として2014年6月に発足した団体である」と述べた。また同会機関誌『天心報』の創刊以来の講演録(第14号まで)一覧も付した。

 比較的詳しく書いたのは、研究会事務局長の千葉さんの情熱と継続的努力を第三者として外部に伝えたいと思ったからである。千葉さんとは彼が神奈川新聞社にいたころからの付き合いで、拙著『開国史話』(かなしん150選書、2008年、神奈川新聞に約1年4ヶ月連載の単行本)の謝辞に専務取締役として登場する。この関係から、天心研究者でもない私が同会で講演を行う機会をいただいた(「岡倉天心『日本の覚醒』を読む」(本ブログの2018年7月2日掲載)。その講演録は本ブログのリンクに付してある。

 大島さんの照会「三溪に及ぼした天心の影響」は、広範囲にわたる。大別すると、①日本美術への傾倒、②美術品蒐集、③三溪園の造園(築園)、の3点。①と②については多くの美術史家が扱っているが、③については論考がほとんどない。美術史、建築史に比べ、庭園史や造園史は少なく、その多くが江戸時代までで、明治から大正にかけて生まれた三溪園を庭園史のなかに位置づけたものは少ない。やむなく私も仮説を述べた(本ブログ2016年10月3日掲載「三溪と横浜-その活躍の舞台」)が、大島さんの要望に即答するのは難しい。

 岡倉天心(おかくら てんしん)の略歴。1863年2月14日(文久2年12月26日~1913(大正2)年9月2日)、開港横浜の石川屋(福井藩の出店、生糸輸出等)に生まれ、1880年、東京大学文学部卒業(一期生)後、文部官僚、ついで1890(明治23)年、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の校長となり、数多の新進芸術家(日本画、彫刻等々)を輩出させた。1898(明治30)年、意見の対立から同校を追われ、日本美術院を創設(台東区谷中)、1906(明治39)年、日本美術院の拠点を茨城県五浦(いずら)へ移す。1904(明治37)年、ビゲローの紹介でボストン美術館中国・日本美術部に迎えられ、1911年の帰国時に、若い画家たちの支援のため三溪と「観山会」を設立。1913(大正2)年9月2日、新潟県赤倉の別荘で死去。享年51。本名は岡倉覚三(かくぞう)。

 まずは三溪と天心との手紙を確認したいと思った。ところが、三溪には茶道つながりで益田鈍翁(孝)等との洒脱な書きぶりの書簡はあるものの、天心との往復書簡は見あたらない。三溪園の<生き字引>と呼ばれる川幡留司参事や元学芸員の清水緑さん(現松濤美術館学芸員)も見たことがないと言う。三溪に関する唯一の本格的伝記と言える藤本實也『原三溪翁伝』(稿本は1945年、刊本は三渓園保勝会,横浜市芸術文化振興財団編 思文閣出版 2003年、以下『翁伝』とする)にも書簡は入っていない。三溪からのアプローチでは難しそうである。

 一方、天心については『岡倉天心全集』に多くの書簡が収録されていた記憶があった。さっそく『岡倉天心全集』全9巻(平凡社、1979~81年、以下、『全集』とする)に当たり、第6巻の明治13(1880)年から明治42(1909)年までの415通、第7巻の明治43(1910)年から大正2(1913)年まででの281通を通読したが、天心から三溪への書簡は見当たらない。また『全集』別巻には天心が受けた書簡86通が収録されているが、ここにもない。下村観山の三男・下村英時編『天心とその書簡』(日研出版、1964年)にもない。

 しかし、天心創設の東京美術学校の一期生で日本画家の観山を経由した天心⇒観山⇒三溪の書簡があった。『全集』第7巻の書簡所収504号(明治42年9月26日付けの観山宛)は「横浜の原氏御面会致度」と三溪を挙げており、また584号(大正元年8月8日付けの観山宛)の横浜弁天通 原富太郎殿気付とある書簡は、天心が筆不精の観山の代筆をしている。天心の逝去1年前で、最晩年の筆である。

 ほかに三溪⇔天心の書簡はないか。横浜美術館の対談「三溪の古美術収集と美術家支援ー三溪史料研究の現在」(7月20日の予告案内)の副題を見て、6月2日、清水さんに改めてメールすると、上掲の天心代筆は三溪園「下村観山展」図録(2006年)で使ったが、三溪⇔天心の書簡はやはり見たことがないとのこと。

 この問題を解くには、天心の側から見つけるほかない。6月4日、上掲「岡倉天心市民研究会」事務局長の千葉さんにメールで問い合わせた。するとさっそく、8日に木下長宏さんの私塾「土曜午後のABC」に行くので訊いてみるとの返事である。木下さんは半世紀ほど前に『岡倉天心:事業の背理』(紀伊国屋書店、1973)を上梓、上掲平凡社の天心全集の一次校正をすべてされたと聞いている。8日、千葉さんから、木下さんもご存じないようで、「いい情報がなく、残念です」と付言してあった。

 三溪の筋からも、天心の筋からも、三溪⇔天心の書簡を確認できなかった。とりあえず大島さんへ、この間の経緯をまとめ、上掲の書簡ほかコピー6ページを郵送した。

 ただ、書簡がないから親交がないとは言えず、むしろ書簡が残るのは例外と考えて良いであろう。書簡以外に両者の「交流を表す資料」を示すには、まず三溪については上掲の『翁伝』、天心については『全集』(平凡社版)である。この2つを軸にして他の関連資料にも目配りする。

 2つの仮説を置いた。(1)三溪は5歳年長の天心の思想と東京美術学校校長(1890年)や日本美術院の創設(1898年)等の実践活動に敬意を払い、天心の豊富な著作を読みこんでいたのではないか、(2)天心たちの主導で1897年に成立した古社寺保存法(こしゃじほぞんほう、法律第49号)を受け、その具体的実践として三溪園への古建築移築を考えたのではないか。(1)を通じて三溪の天心への共鳴が読み取れ、(2)三溪園が、それを具現化したものである。
この作業は開始してまだ日が浅いが、二人の「交流を表す資料」について得た最初のヒントが、1889(明治22)年10月28日、28歳の天心が高橋健三(内閣局官報局長)とともに創刊した『国華』誌(日本東洋の古美術研究誌)の「創刊の詞」である。天心の「夫レ美術ハ国ノ精華ナリ」に始まる檄文が三溪に強い感銘を与えたと思われる。なお同年2月、大日本帝国憲法発布、天心はその祝賀行列に参加している。

 また同誌第2号に書いた天心の論説「狩野芳崖」は、「美術の事たる其範囲極て広く、家屋、庭園、衣服、机案の属より凡百の器具に至るまで、美術の意匠を要せざるものなく、…其意匠の集点に居り、凡百の模様を発するは絵画を以て最とす。…」と展開する。

 ここで言う<意匠>とは、この前年の1888年公布の勅令・意匠条例(のちの意匠法)にある「工業上ノ物品ニ応用スヘキ形状模様若クハ色彩ニ係ル新規ノ意匠ヲ按出シタル者ハ此条例ニ依リ其意匠ノ登録ヲ受ケ之ヲ専用スルコトヲ得」を受けていると同時に、広く「工夫をめぐらすこと」の意味と見て良い。絵画の意匠を基軸とし家屋庭園等へと拡がる天心の壮大な<美術観>を読んだはずの23歳の三溪、心に期すところがあったに違いない。

 三溪は日記を書かなかった(『翁伝』165ページ、長女春子の回想)ため、記録という物的確証はみつからないが、回を改めて述べてみたい。(続く)
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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