再興第99回院展

 東京都台東区谷中、ここは博物館、美術館、動物園、東京芸術大学等のある上野公園の北西に位置し、明暦の大火(1657年)以降に多くの寺社が移転したため、寺町の別名がある。幕末維新の上野戦争(1868年)で罹災したが、関東大震災や第二次世界大戦の被害は少なく、古い町並みが残る。
 その一角の大泉寺内に、長大な切妻造りを2棟並べたような建物の、公益財団法人・日本美術院がある。その主催で、標題の再興第99回院展が9月2日から15日まで、上野公園にある東京都美術館で開かれている(1年かけて全国13か所で開催)。日本を代表する日本画の公募展覧会(今年は557点)である。
 この日本美術院には紆余曲折があった。創設は1898(明治31)年、美術史家で文化財保護の先駆者、また東京美術学校(東京芸術大学美術学部の前身)の2代目校長(1890年就任)であった岡倉天心(1863~1913年)が守旧派により排斥され、それに連帯して辞職した橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草らと協力して作った団体である。
 以降、日本絵画協会と合同で春秋2回、絵画展覧会を開催するが、1900年(明治33年)秋季の展覧会をピークに、資金の欠乏、院の内紛、綱紀の乱れなどにより徐々に沈滞する。
 1905(明治38)年、天心は茨城県の五浦海岸に別荘の六角堂を建て、翌年、日本美術院第一部(絵画)を移転して再起を期す。この頃から天心はボストン美術館中国・日本美術部の仕事も重なり、1910年には部長に就任、多忙をきわめ、体調を崩して翌年帰国、療養先の赤倉温泉で1913(大正2)年に没した。
 翌1914(大正3)年、日本美術院は、天心の遺志を継いだ大観(1868~1958年)を中心に「再興」され、今年、100周年を迎えた(「再興院展」は戦時下の昭和19、20年非開催のため今回が第99回)。なお大観は西洋画法を取り入れつつ独自の没線描法(朦朧体とも呼ぶ)を生み出した改革派の代表である。
 三溪園にも案内をいただき、そのレセプション(参加者約700名?)に出席した。会場は松尾敏男理事長の挨拶「我々は、ひたすら良い絵を描きたい、の一念で来た」を共有する人々の「同窓会」の雰囲気に溢れていた。
 「再興第九十九回院展全作品集」の表紙、松村公嗣(愛知県立芸術大学長)の「ほたる」にまず惹きこまれる。
 冒頭のページに大観の筆になる「日本美術院綱領」(3項目)を置く。第一に「一切の芸術は無窮を趁ふの姿に他ならず 殊に絵画は感情を主とす 世界最高の情趣を顕現するにあり」、そして第三に「日本美術院は芸術の自由研究を主とす 教師なし先輩あり 教習なし研究あり」とある。
 個として立つ画家の自負、画家たちをつなぐ「綱領」の理念、これが100年の伝統を支える根本かもしれない。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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