横浜市立大学 創立90周年記念式典
秋晴れの11月3日(文化の日)、横浜市立大学創立90周年記念式典が体育館で挙行された。90年前の1928(昭和3)年に創立した横浜市立横浜商業専門学校(Y専)を横浜市立大学(以下、市大とする)の創立記念日としている。
ちょうど大学祭(浜大祭)の最中で、構内は歩けないほどの人で埋め尽くされていた。正門を入ると右手に<いちょうの館>が見える。これは15年前の創立75周年記念事業として、私の学長在任時代(1998~2002年)に提案され、市大同窓会(馬場彰会長)が先導して募金に奔走し、2004年に竣工したものである。馬場さんの元気なお姿を控室で見つけ、しばし歓談することができた。
10時、<横浜市歌>の斉唱から記念式典が始まる。入学式・卒業式等で必ず歌われる<横浜市歌>は、1909(明治42)年、横浜開港50周年・市政公布20周年の記念として制作された日本最初の市歌である。作詞は森林太郎(鴎外)、作曲は南能衛(よしえ)。開港に始まる若い都市横浜を描き、先人の苦労に想いを馳せる(本ブログ2016年6月9日掲載「開港記念日と横浜市歌」を参照)。
最初に二見良之理事長が主催者挨拶に立つ。本日の創立90周年記念式典は、来たる創立100周年に向けた第一歩であり、同時に本年度発足したデータサイエンス学部、来年度から発足する国際教養学部、国際商学部、理学部の3学部、並びに医学部を合わせた、5学部体制となる画期である、と述べた。
この5学部(+大学院)体制は、学生・受験生にとって専門性の所在、学びの内容が分かりやすい。国際教養学部、国際商学部、理学部は、2005年の法人化に伴い国際総合科学部に統合された学部の再編である。1995年の文理学部改組で生まれた国際文化学部・理学部へと復帰しつつ、国際社会を生きる人材育成に向け、さらなる進化をとげるべく再生した。大学の礎石である新しい5学部・大学院体制という箱を先行して作り上げたことを、心から祝福したい。
2つの附属病院(福浦と浦舟)、木原生物学研究所(舞岡)、先端医科学研究センター(福浦)、理化学研究所横浜と生命科学系の連携大学院を組む鶴見キャンパスとともに、新たな総合力を発揮してほしい。
ついで来賓の挨拶。林文子横浜市長は、1928年から90年を迎えた市大の、さらに前史・沿革から語る。実に148年前の1873(明治4)年、早矢仕有的(はやし ゆうてき、1837~1901年)が開設した<仮病院>と<十全病院>、また136年前の1882(明治15)年設立の横浜商法学校(Y校)に言及し、1859年の開港に始まる都市横浜とともに歩んできた市大の前身を忘れないとした。さらにiPS細胞により肝臓を再生させた市大の若き教授の功績や、初めて横浜市が人口減の局面に入った社会変化等を挙げ、大学は10年先を見据えてしっかり対応してほしい、と結ぶ。
つづく松本研市会議長、古屋文雄進交会理事長、遠山慎一俱進会会長の来賓挨拶は、いずれも励ましの言葉に溢れる内容であった。
次が重田諭吉副学長による「90年の歩み」。小冊子「伝統と革新の、その先へ 1928-2028」(YCU100 Concept Book 2018)にある「ヨコハマとともに歩むー受け継がれる伝統 国際性・進取性に富む学風」を参照しつつ説明。その年表の起点を1859年横浜開港とし、これに「1853年 ペリー来航」と記し、ペリー提督及び黒船の絵を添えて、世界史のなかに横浜の歴史160年と市大の歩み90年を位置づけようとしている。
補足すれば、以下の二点を背景として持っておきたい。第一が都市横浜の起源である。幕府全権の林大学頭とアメリカ全権ペリーとの交渉が対等な日米和親条約(1854年、横浜村にて調印)を生み出し、それに基づいて来日したハリス総領事と日米修好通商条約(1858年)を結び、「神奈川開港」を決める。ハリスは神奈川宿を主張するが、台地に伸びる街道沿いに空地はほとんどない。幕府は、神奈川宿から直線で約4キロ離れた横浜村(現在の大桟橋の付け根から神奈川県庁の一帯)を主張して実行に移す。広い後背地を有し海に開かれた関内地区は、都市横浜の飛躍的成長を支える中核となった。拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫、2012年)や本ブログのリンクにある拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌連載)等を参照されたい。
第二は、1928年のY専創立に始まる市大90年の直接的な起源についてである。現在につながる国立・公立・私立という3つの設置形態の大学制度、その大きな流れのなかで公立大学たる市大が発足した。横浜にとどまらず、日本の高等教育制度の発展と世界の動向との関連を視野に入れることが、今後を展望するうえで大切であろう。
ついで窪田吉信学長が4つの重点事業「100周年に向けて」を小冊子「YCU Vision 100」の「90周年から100周年までのロードマップ」に基づき語る。すなわち(1)教育=ヨコハマから世界へ羽ばたくグローバル人材の育成、(2)研究=世界をリードする研究成果の創出と市民への還元、(3)医療=医療の知の創生・発信、附属病院の機能強化・再整備、(4)拠点=国際交流と知的資源を還元する拠点形成である。(1)~(4)にそれぞれ2億円以上の募金を呼びかける。
この工程表のなかで気になったのは、5年後(2023年)に市大『100年史』編纂に着手とある点である。歴史学者の老婆心から言えば、編纂事業は史料収集(文書、聞書き、映像、デジタルデータ等を含む)に始まる。本年度中に編纂委員会を置き、編集方針を立てることが望まれる。
ついで新しい5学部代表によるパネルディスカッションに入る。司会は重田副学長で、石川義弘医学部長、叶谷由佳看護学科長、岩崎学データサイエンス学部長、佐藤響子国際教養学部長(予定者)、大澤正俊国際商学部長(予定者)、篠崎一英理学部長(予定者)が壇上に並び、それぞれの学部の内容と目標を語った。なかでも新しく発足したデータサイエンス学部の入試状況(昨年度と進行形の今年度)と学生の動向に関する報告が注目を引いた。
こうして2時間にわたる挨拶、説明、意見交換が終わった。休憩後、チアダンスと応援団(OBもはっぴ姿で参加)の演舞があり、最後は全員起立、学生合唱団のリードと管弦楽団の伴奏に力をもらい、大音量の校歌斉唱となった。私も負けずに声を張る。「…ああ 浜大の俊英 われら…」。
本日を起点に5学部体制という5つの箱が礎石となって動き出す。それぞれの箱にどのような魂を入れるか、これこそ10年後に向けた最大の課題であろう。
大学とは教員・職員・学生の三者からなる稀有の組織であり、構成員の年齢差・役割差等を越えて、知(知識+知恵)の発展を担う唯一の組織である。教育・研究・社会貢献の現場を担う三者の自由闊達な意見交換を通じて、しなやかで強い真のアカデミアを目ざしてほしい。市大着任の1973(昭和48)年から45年、「消え行く老兵」の一人として、遠くから願うばかりである。
ちょうど大学祭(浜大祭)の最中で、構内は歩けないほどの人で埋め尽くされていた。正門を入ると右手に<いちょうの館>が見える。これは15年前の創立75周年記念事業として、私の学長在任時代(1998~2002年)に提案され、市大同窓会(馬場彰会長)が先導して募金に奔走し、2004年に竣工したものである。馬場さんの元気なお姿を控室で見つけ、しばし歓談することができた。
10時、<横浜市歌>の斉唱から記念式典が始まる。入学式・卒業式等で必ず歌われる<横浜市歌>は、1909(明治42)年、横浜開港50周年・市政公布20周年の記念として制作された日本最初の市歌である。作詞は森林太郎(鴎外)、作曲は南能衛(よしえ)。開港に始まる若い都市横浜を描き、先人の苦労に想いを馳せる(本ブログ2016年6月9日掲載「開港記念日と横浜市歌」を参照)。
最初に二見良之理事長が主催者挨拶に立つ。本日の創立90周年記念式典は、来たる創立100周年に向けた第一歩であり、同時に本年度発足したデータサイエンス学部、来年度から発足する国際教養学部、国際商学部、理学部の3学部、並びに医学部を合わせた、5学部体制となる画期である、と述べた。
この5学部(+大学院)体制は、学生・受験生にとって専門性の所在、学びの内容が分かりやすい。国際教養学部、国際商学部、理学部は、2005年の法人化に伴い国際総合科学部に統合された学部の再編である。1995年の文理学部改組で生まれた国際文化学部・理学部へと復帰しつつ、国際社会を生きる人材育成に向け、さらなる進化をとげるべく再生した。大学の礎石である新しい5学部・大学院体制という箱を先行して作り上げたことを、心から祝福したい。
2つの附属病院(福浦と浦舟)、木原生物学研究所(舞岡)、先端医科学研究センター(福浦)、理化学研究所横浜と生命科学系の連携大学院を組む鶴見キャンパスとともに、新たな総合力を発揮してほしい。
ついで来賓の挨拶。林文子横浜市長は、1928年から90年を迎えた市大の、さらに前史・沿革から語る。実に148年前の1873(明治4)年、早矢仕有的(はやし ゆうてき、1837~1901年)が開設した<仮病院>と<十全病院>、また136年前の1882(明治15)年設立の横浜商法学校(Y校)に言及し、1859年の開港に始まる都市横浜とともに歩んできた市大の前身を忘れないとした。さらにiPS細胞により肝臓を再生させた市大の若き教授の功績や、初めて横浜市が人口減の局面に入った社会変化等を挙げ、大学は10年先を見据えてしっかり対応してほしい、と結ぶ。
つづく松本研市会議長、古屋文雄進交会理事長、遠山慎一俱進会会長の来賓挨拶は、いずれも励ましの言葉に溢れる内容であった。
次が重田諭吉副学長による「90年の歩み」。小冊子「伝統と革新の、その先へ 1928-2028」(YCU100 Concept Book 2018)にある「ヨコハマとともに歩むー受け継がれる伝統 国際性・進取性に富む学風」を参照しつつ説明。その年表の起点を1859年横浜開港とし、これに「1853年 ペリー来航」と記し、ペリー提督及び黒船の絵を添えて、世界史のなかに横浜の歴史160年と市大の歩み90年を位置づけようとしている。
補足すれば、以下の二点を背景として持っておきたい。第一が都市横浜の起源である。幕府全権の林大学頭とアメリカ全権ペリーとの交渉が対等な日米和親条約(1854年、横浜村にて調印)を生み出し、それに基づいて来日したハリス総領事と日米修好通商条約(1858年)を結び、「神奈川開港」を決める。ハリスは神奈川宿を主張するが、台地に伸びる街道沿いに空地はほとんどない。幕府は、神奈川宿から直線で約4キロ離れた横浜村(現在の大桟橋の付け根から神奈川県庁の一帯)を主張して実行に移す。広い後背地を有し海に開かれた関内地区は、都市横浜の飛躍的成長を支える中核となった。拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫、2012年)や本ブログのリンクにある拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌連載)等を参照されたい。
第二は、1928年のY専創立に始まる市大90年の直接的な起源についてである。現在につながる国立・公立・私立という3つの設置形態の大学制度、その大きな流れのなかで公立大学たる市大が発足した。横浜にとどまらず、日本の高等教育制度の発展と世界の動向との関連を視野に入れることが、今後を展望するうえで大切であろう。
ついで窪田吉信学長が4つの重点事業「100周年に向けて」を小冊子「YCU Vision 100」の「90周年から100周年までのロードマップ」に基づき語る。すなわち(1)教育=ヨコハマから世界へ羽ばたくグローバル人材の育成、(2)研究=世界をリードする研究成果の創出と市民への還元、(3)医療=医療の知の創生・発信、附属病院の機能強化・再整備、(4)拠点=国際交流と知的資源を還元する拠点形成である。(1)~(4)にそれぞれ2億円以上の募金を呼びかける。
この工程表のなかで気になったのは、5年後(2023年)に市大『100年史』編纂に着手とある点である。歴史学者の老婆心から言えば、編纂事業は史料収集(文書、聞書き、映像、デジタルデータ等を含む)に始まる。本年度中に編纂委員会を置き、編集方針を立てることが望まれる。
ついで新しい5学部代表によるパネルディスカッションに入る。司会は重田副学長で、石川義弘医学部長、叶谷由佳看護学科長、岩崎学データサイエンス学部長、佐藤響子国際教養学部長(予定者)、大澤正俊国際商学部長(予定者)、篠崎一英理学部長(予定者)が壇上に並び、それぞれの学部の内容と目標を語った。なかでも新しく発足したデータサイエンス学部の入試状況(昨年度と進行形の今年度)と学生の動向に関する報告が注目を引いた。
こうして2時間にわたる挨拶、説明、意見交換が終わった。休憩後、チアダンスと応援団(OBもはっぴ姿で参加)の演舞があり、最後は全員起立、学生合唱団のリードと管弦楽団の伴奏に力をもらい、大音量の校歌斉唱となった。私も負けずに声を張る。「…ああ 浜大の俊英 われら…」。
本日を起点に5学部体制という5つの箱が礎石となって動き出す。それぞれの箱にどのような魂を入れるか、これこそ10年後に向けた最大の課題であろう。
大学とは教員・職員・学生の三者からなる稀有の組織であり、構成員の年齢差・役割差等を越えて、知(知識+知恵)の発展を担う唯一の組織である。教育・研究・社会貢献の現場を担う三者の自由闊達な意見交換を通じて、しなやかで強い真のアカデミアを目ざしてほしい。市大着任の1973(昭和48)年から45年、「消え行く老兵」の一人として、遠くから願うばかりである。
スポンサーサイト