69年目の夏

 8歳の「私の夏」から今年で69年になる。昭和20(1945)年8月15日の正午、寺の本堂の大広間で、ひどい雑音のラジオを囲み、先生を中心に児童たちが正座していた。と、突然、男の先生が大声で泣き出した。いつもは怖い先生が泣く!なにか重大なことが起きたと思った。理由はよくわからなかったが。
 昭和16(1941)年、学制改革により小学校は、昭和22(1947)年3月までの6年間、ナチスドイツ流に「国民学校」と改名された。国民学校3年生の私は、東京の親元を離れ、集団疎開先の群馬県勢多郡新里村祥雲寺学寮にいた。
 米軍の空襲が強まると予想された昭和19(1944)年頃から、都市部の学童、老人、女性、または直接攻撃目標となるような産業などを分散させ、田舎に避難させる疎開政策が実施された。縁故疎開と集団疎開(学校疎開)の2種に分かれる。
 空襲が予想される都市とは、東京都、神奈川県、大阪府、愛知県、兵庫県、福岡県で、疎開した児童は40数万人にのぼる。その記録として内藤幾次編著『学童疎開』(同成社 2001年)や、逸見勝亮編著『写真・絵画集成 学童疎開』(日本図書センター 2003年)等があるが、約40万人の体験から見れば、収録された事例はごく一部である。
 今年8月15日の晩の「NHKニュース」で、東京の中野から長野県の寺へ集団疎開した平野鍾(あつむ)という方の『僕の日記』が紹介された。1年生から6年生までの約80名と過ごした、昭和20(1945年)3月29日から半年間に及ぶ日記である。いまは銀行勤めを終え、難民支援のボランティアとして活躍しておられる。
 同じ3年生とはいえ、平野さんは私よりはるかに大人で、そもそも日々の日記をつけていたこと自体に驚かされた。毎日の食事の内容も書いている。家族への思慕を胸に押し込み、夕刻には自宅のある東方を見つめたという。
 私の場合は、3年生と6年生の2学年だけの集団生活であり、この年齢差は、知恵でも、口でも、腕っぷしでも、乗り越えることはできなかった。その日々の悔しさは、いまも残る。
 一番強い印象は、冒頭の、男の先生の号泣である。放送は「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク。朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ…」とする、8月14日付けの昭和天皇の終戦の詔書(大東亜戦争終結ノ詔書、戦争終結ニ関スル詔書)であった。
 これが敗戦を伝える内容と理解できたのは、いつごろだったか。あの時は、ただただ家へ帰れるのが嬉しかった。だが帰宅後の東京では、厳しい食糧難と母の看病が待っていた。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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