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コックスの鎌倉・京都観光

 イギリス平戸商館長コックスの江戸参府は、1616年9月1日、二代将軍秀忠の拝謁を得て順調だった(本ブログ「コックス商館長が将軍秀忠に拝謁」2018年2月14日)。ところが特許状(朱印状)はなかなか得られず、手にしたのはやっと9月23日であった。それが従前のものではない不利な内容であることに気づいたのは約1ヶ月後の浦賀で、コックスは急ぎ江戸へ取って返す。

 そして10月3日、土井利勝(老中)には面会できず、本多正純(老中)も不在、4日にはアダムズを本多のもとへ派遣するも確たる返事は得られず、5日にも返事がない。6日、土井は多忙とのことで面会さえできない。苛立ちながら無為に過ごす。

 7日、板倉勝重(伊賀守、京都所司代)のもとへ、数種の羅紗(輸入品の毛織物)やロシア産の赤色の獣皮を持って出向いた。コックスは「この方は日本の首席裁判官であり、いまミアコ(京都)から帰着したばかりである」と記す。板倉は後に、優れた手腕と柔軟な判断で多くの事件、訴訟を裁定し、敗訴した者すら納得させるほどの理に適った裁きで名奉行…と評価された人物である。

 コックスは記す。「私が江戸に戻ったのはミアコで我々の商品を売ってはならぬとの布告を受取ったためと言うと、板倉は皇帝が平戸以外での販売を禁じたのは事実だと語った。これに対して私は、この3年間、平戸では何も売ることができなかったため、新たな命令は我々を国外追放するのと同じと述べた」。

 板倉の言として「皇帝の意向には逆らえず、現在はすべてのことが老皇帝の時代とは別のやり方で行われている。大方のことは秘書たち(年寄、のちに老中と呼ばれる)の権限下にあり、自分もあまり役に立つことはできない。時が経てば、最善を尽くす」。本多正純については、「我々に姿を見せないようにしている…」と記す。翌8日、土井を訪ねたが、自分には権限がないので本多に頼むようにと、体よく断られた。

 さまざまな試みも効果なく、「…ひとたび決まったことは一日や二日で廃止できず、しばらく辛抱するよう」と言われる。江戸参府の所期の目的が達成できないまま、10月17日朝9時、コックスは江戸を発つ。

 Caningawa(神奈川)に一泊、18日にCamacora(鎌倉)に入る。「鎌倉は500年前、日本最大の都市であって、現在のミアコや江戸より四倍も大きかったと言われる。頼朝と名乗るこの地の将軍(皇帝)は釈迦の末裔である内裏から王権を奪った。だが今は都市ではなく、山々の間にある心地よい谷に家屋が散在、壮麗な堂塔や、剃髪した女性たちの住む尼寺(というより魔窟)が一つある」。

 この尼寺は東慶寺を指し、日記欄外の注に「フィディア(秀頼)様の幼い娘(天秀尼)は、救命のため髪を切って尼となり、この寺に住んでいる。ここは聖域でいかなる法官も連れ出すことができない…」とある。

 もっとも強い関心を示したのが大仏である。「…他の何ものにもまして私が感歎したのはDibotes(大仏)と呼ばれる、谷間にある巨大な黄銅の偶像で、480年以前に造られた。仏殿は完全に朽ち果てている」。

 実際の鋳造は1252年(建長4)に始まるので「360年以前」とするのが正しい。高さ11.31m(台座を含めると13.35m)、重量約121トン、高徳院の本尊の銅造阿弥陀如来坐像で、ほぼ造立当初の像容を保つ。古記録によると1334(建武元) 年と1369( 応安二) 年の大風、1498(明応七) 年の大地震で仏殿は損壊、露坐となる。なおコックスは鶴岡八幡宮、建長寺、円覚寺等には言及していない。

 東慶寺(1285年建立)は明治に至るまで尼寺、江戸幕府寺社奉行も承認する縁切寺として女性の離婚に関する家庭裁判所の役割を果たしたことで有名、その仏殿(1634年建造)は1907年に三溪園へ移築。また大仏は江戸中期、浅草の商人野島新左衛門(泰祐) の喜捨を得た祐天・養国(増上寺第36 世法主)の手で復興。現在は国宝。また最近の「健康診断」(2016~18年、「昭和の大修理」以来半世紀ぶり)の結果、「深刻な劣化はなく、状態は良好」と発表された(2018年4月23日、日本経済新聞)。大仏の胎内に入ることができるため、胎内各所に100個ほどガムがこびりつき…。佐藤孝雄住職は「胎内に触るのを禁止したほうが良いとの意見はあるが、信仰の対象でもあるので、過酷な環境に座している(大仏の)温度を手のひらで感じてほしいとも思う」と言う。

 鎌倉見物を終えたコックスは、10月18日、藤沢で一泊、翌19日は大磯で昼食、この後も昼食の地名と宿泊地を記すが、残念ながら街の様子は書いていない。江戸や京都についても同様。20日は箱根で昼食、沼津泊。21日は蒲原で昼食、由比でアダムズが落馬(飛んできた鳥に馬が驚いて立ちあがったため)、右肩の関節をはずす怪我を負い、江尻泊。22日に駿河の宿に彼を残して先発、23日は掛川で昼食、見附泊。24日は新居で昼食。25日は藤川で昼食、鳴海泊。26日に桑名、27日に庄野で昼食、関泊。28日は石部で昼食。29日、鎌倉を発し11日目に京都着、ウィッカムと再会し平戸からの手紙を受け取る。

 11月2日、京都の史跡巡りにくりだす。まずは方広寺の大仏。豊臣秀吉の発願により1591(天正17)年に完成した木造を、1612(慶兆17)年、家康の薦めで秀頼が金銅仏としたもの(なお1625年には鋳潰)をコックスは見ており、「…驚くばかりの大きさで、仏像は足を組んで座るも、頭は聖堂の天頂に届き、全身に鍍金、…聖堂(大仏殿)は私の見た建物のうち最大…」と記す。

 この聖堂は二条城、江戸城、名古屋城等を築城し、日光東照宮等の家康関連の建造物を建てた大工棟梁の中井藤右衛門正清の手になり、石垣のみが残る。

 ついで三十三間堂(蓮華王院の本堂)を訪れ、「中央の黄銅の大仏と両脇に3333体の像」(実際は木造の本尊千手千眼観音坐像と1001体の千手観音)と記し、「…人間そっくりの優れた形、…純金で鍍金された絢爛たる姿…風神雷神…」と具体例を挙げた後、「この聖堂は私が見たなかでもっとも嘆賞すべきもの…著名な世界の七不思議のいずれにもひけを取らない」と結ぶ。

 最後に訪れたのが豊国廟(豊臣秀吉の墓)。「…ただ感嘆させられるばかりで、言葉で言い表せない。…まことに巨大な建物で、内部も外部も見事な細工…他のいずれより優れている。…」と、豊臣家滅亡後に徳川家の命により廃絶される寸前の姿を描く。現在は明治天皇の勅命により再興された豊国神社。

 11月25日、大坂を出帆、瀬戸内海を通り12月2日に下関、翌3日に平戸に無事帰着。わずか9日ときわめて速い。2年後の1618年2月には倍の18日を要した事例を挙げている。季節風の関係であろう。(続く)
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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