【34】連載「(五)香港植民地の形成」

 『思想』誌(岩波書店)連載「黒船前後の世界」の「(五)香港植民地の形成」は1984年1月号に掲載した。前回の「(四)東アジアにおける英米の存在」では、歴史的伝統・在外公館・貿易・居留民数等の面でイギリスが圧倒的に優位な位置を占めると述べた。

 これを受けて本稿は、イギリス植民地香港の形成を分析する。香港(島)は、第一次アヘン戦争(1839~42年)の結果として1842年に締結した英清南京条約により、清朝からイギリスへ割譲され、植民地となった。当時のイギリス女王の名前を冠してビクトリア島とも呼ばれる(以下、香港とする)。

 南京条約は、この①香港の割譲(植民地化)のほかに、②賠償金2,100万ドルの4年分割払い、③5港の開港(南から広州・福州・厦門・寧波・上海)、④旧来の公行(コーホン)廃止と貿易完全自由化を定めた。うち①、②、④はイギリスの専一的権益であり、①により清朝は香港の主権を完全に喪失した。なおアヘン戦争の原因である「アヘンに関する条項」はなく、「公然たる密輸」状態がつづく。なおアヘン貿易が「合法化」されるのは1858年である。

 ところが③5港開港に関しては、アヘン戦争に参戦しなかったアメリカとフランスが最恵国待遇を主張して条約を結び、権益を取得(権益の均霑・共有)する。すなわち米清望廈条約(1844年)と仏清黄埔条約(1844年)である。清朝側も複数国に恩恵(権益)を与える方が有利と判断した。

 条約に基づき、開港場に<居留地>ないし<租界>と呼ばれる特定区画(英語ではsettlement)を定めるため、列強はそれぞれ清朝の各地方政府と協定(土地章程)を結んだ。これは次回の連載【35】「(六)上海居留地の形成」に譲る。

 アメリカとフランスが5港開港にかんする権益を共有したことは、列強間の<対立>と<協調>のうち、東アジアでは<協調>が優位に立ったことを意味する。当時のイギリスはオーストラリア・ニュージーランドを(移民)植民地化していたが、東アジア全体を専一的植民地にする意図も能力も有しておらず、中国に関しては列強が<協調>して開拓する広大な市場と見ていた。

 本稿は10節に分け、主に次の5つの論点を取り上げた。すなわち(1)最恵国待遇の新展開、(2)植民地と不平等条約国の区別、(3)2種の不平等条約(<敗戦条約>と<交渉条約>)、(4)イギリスにとっての香港植民地の役割、(5)香港植民地の財政収支の特徴。いずれも先行研究では体系的に論じられたことがなく、本稿で初めて取り上げた。

 1、2節では(1)最恵国待遇の新展開について述べた。アヘン戦争の英清南京条約(1842年)に対して、上述のようにアヘン戦争に参加しなかった米仏が同等の権利(=最恵国待遇)を主張して条約を結び、5港開港場での諸権益を獲得した。最恵国待遇の複数国への適用は史上初である。

 3節と4節では、近代的な意味の国家三権(立法・司法・行政)という観点から(2)植民地と不平等条約国の区別を明らかにした。すなわち植民地は、敗戦に伴い国家三権をすべて喪失する従属性のもっとも強い政体で、外交権も宗主国が握る。これに対して不平等条約国が失うのは行政権と司法権の一部であり、立法権に相当するものは維持される。

 ついで(3)不平等条約を<敗戦条約>と<交渉条約>の2種として区別した。不平等条約という名称に惑わされたためか、史学界は条約の不平等性の内容や程度について考えずに来た。アヘン戦争敗北の結果の南京条約(1842年)と、一発の砲弾も交わさず交渉により締結に至った日米和親条約(1854年)や日米修好通商条約(1858年)とが質的に同じであるはずがない。
敗戦に伴う条約には「懲罰」として賠償金や領土割譲が伴うが、交渉を通じて結ばれた条約には、そもそも「懲罰」という概念がない。そこで私は前者を<敗戦条約>、後者を<交渉条約>と名づけた。

 以上を踏まえて、小さな図を入れた(128ページ下段)。①資本主義・宗主国、②植民地(インド・香港など)、③敗戦条約国(中国など)、④交渉条約国(日本など)の4つを掲げ、矢印で相互を結んだ簡単な図であるが、このときはまだ図に名前がなく、説明も不足していた。この着想はのちに「近代国際政治-4つの政体」へ発展させたが、原初形態を示したのは、これが初めてである。

 5節と6節では、(4)イギリスにとっての香港植民地の役割を分析した。「イギリスの宝」と言われたインドの植民地化は、ベンガル地方にインド総督を置き(1773年)、アヘン専売制を採用して徴税権を駆使することに始まるが、実態は特許商社であるイギリス東インド会社が植民地公権力の役割を担ってきた。

 こうして紅茶(中国⇒イギリス)、アヘン(インド⇒中国)、綿製品(イギリス⇒インド)の3大商品によるアジア三角貿易が体系化され(拙著『イギリスとアジア』等参照)、それを補強する対中貿易の中継地としてペナン島(1776年に買収)とシンガポールを植民地化(1819年租借、1824年買収)、その延長上に香港を植民地化(1842年)し、本国と各港を蒸気郵船会社P&O社が結んだ。

 イギリス政府が軍港としての香港の役割を重視するのに対して、貿易商たちは、以前からのイギリス広東商館の廃止、荒地同然の岩山の香港の開発、そして高い借地権料等に異議と不満を示し、多くが上海等の開港場へ移った。

 7~10節で(5)香港植民地の財政収支を分析した(史料は主にイギリス議会文書)。アヘン戦争後も戦時財政の性格が強く残り、収入面では南京条約の賠償金の一部が投入され、土地収入(土地の賃貸料)が首位、支出面では植民地官僚(総督、次官等)の人件費が首位を占めた。初期20年間の香港財政の赤字を補填したのが、同じ植民地省管轄の植民地インド財政であった。

 当時のポンチ絵には、イギリスという頭脳がインドという体を抑え、そこから東方へ腕が伸び、シンガポールが肘、香港が手首、その先の5本の指が5つの開港場を押さえるものがある。その先は太平洋とアメリカ。こうした全体構造のなかで、高い経費をかけても香港の開発は不可欠と考えられた。

 このような状勢下、ペリーの旗艦ミシシッピー号は米国東海岸の軍港ノーフォークを出発、大西洋を横断して南下、喜望峰をまわってインド洋に至ると、イギリス蒸気郵船会社P&O社のシーレーンから燃料の石炭と物資を入手しつつ中国海域に到達する。そして開発された香港でさらに物資を補給し、1853、54年の2回にわたる日本遠征への備えを進めていた。(続く)
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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