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新刊書の紹介

 ずっしりと重い本が届いた。陳雲蓮『近代上海の都市形成史-国際競争下の租界開発』(風響社 2018年)である。帯に「世界有数の港湾都市はいかにして生まれたのか。東アジア開港場の一つとして出発した上海は、列強の租界を包含しながら都市インフラ、そして港湾を建設していく。政治経済のうねりと生活空間形成の変転を見つめた建築史の新たな挑戦」とある。

 建築史の研究者が、「政治経済のうねりと生活空間形成の変転を見つめた建築史の新たな挑戦」とあるのに目が行く。建築史が個々の建造物やデザイン等の研究に傾くなか、本書はいささか違うようだ。

 本書のいう「生活空間」は、個々の建造物、都市の区画、さらに都市全体を包含する。したがって巨大資本や国際政治・経済がからんでくるのは当然である。その解析には貿易のための港湾建設を軸として「政治経済のうねり」を掌握しなければならない。

 著者の陳さんとお会いして3年ほどになる。本ブログの「若き学友との対話」(2014年12月23日)に登場する。彼女が面識のない私に、知人二人を介して日本文のメールを送ってきた。「昨年、ケンブリッジ大学の図書館で先生のご著書を何度も拝読し、日本に帰ってから、ぜひ加藤先生にお会いしたいと思って…」。

 ケンブリッジ大学図書館を懐かしく思い出す。40年も前になるが、在外研究でリーズ市を生活拠点としたが、史料収集にはリーズ大学図書館や地域の文書館だけでは足りず、ケンブリッジ大、ロンドンの公文書館、ロンドン大学SOAS校等にたいへん世話になった。

 その成果の一つ、『思想』誌(岩波書店)に「黒船前後の世界」を連載(1983年7月~1984年7月の計8回)、その他の論考を含めて『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年、増補版ちくま学芸文庫 1994年)を刊行した。陳さんがケンブリッジ大学図書館地階の書庫で出会ったのが本書である。

 ブログ「若き学友との対話」では彼女を次のように紹介した。「都市地図を経年的に比較する図面や設計図を収集し、建造物や都市のハード面をよく知っている。建築家・建築事務所の細かい作業にも精通しており、内外の都市・建造物の調査経験も豊富にある。…加えて素晴らしい歴史的センスの持ち主で、漢文、英文、日本文(明治期の古い文体が主)の史料を発掘・収集する卓越した勘を持ち、それらを解読、論文に組み立てる。…ケンブリッジ大への留学で英語に磨きをかけ、トリリンガルの能力を生かし、史書の翻訳も始め、…それにとどまらず、文学を愛し茶道の修行中、ジョギングも欠かさない。…日本語で研究発表をして11年目、専門書『近代の上海−国際競争が作り上げた都市』(仮題)にまとめる草稿の一部を受信、<磨けば玉になる逸材>と直感した」と。

 それから3年余、上記の専門書の刊行に至った。岡山大学の専任講師(特任)の職も得た。冒頭のグラビアや本文中にある多数の古地図、巻末の論文初出一覧、あとがき、引用文献一覧、索引、写真・地図・図表一覧と、専門書らしい要件をすべて備えた354ページの大著である。この若さで、それも母語ではない日本語で、よくここまで書き上げたと感嘆を禁じ得ない。

 前掲のブログで「最近の日本の歴史学界では、批判を避けようとするためか、課題を小さく設定する傾向が強いように感じる。歴史学の場合、若い頃にこの悪習に染まると、後々まで大きなマイナスになると痛感していた矢先に、陳さんは驚くほど貪欲に高い目標を設定し、一次資料を渉猟、独自の見解を論文の草稿の形で提示…」と書いたが、その成果が本書に見事に結実している。

 目次は、序論、1部に4章、Ⅱ部に4章の計8章と終章の構成で各章に3~4つの節と小項目、これで全体の流れを明示しており、部と章のタイトルだけでも本書の核心が分かる。

 「序論 上海ー近代東アジア開港場の起点」では先行研究を総括して本書の課題、視点、構成等を示す。以下、2部8章と終論を付す。

 「Ⅰ部 上海の建設とインフラストラクチャーは、「1章 都市整備制度と土地章程」、「2章 旧来の水路と集落」、「3章 水路と街路の複層化」、「4章 国際的港湾の造成」の4章。ここでは国際政治と土地章程という法的枠組を前提として、圧倒的に豊富な収集史料に基づき、インフラ整備(主に水路と港湾)の過程を解明する。その分析と叙述の展開には確かな臨場感がある。

 「Ⅱ部 上海都市空間の形成と英日中」は、「5章 外国租界の都市空間と居住形態」、「6章 日本郵船による虹口港の建設」、「7章 日本の上海進出と都市開発」、「8章 北四川路の日本人住宅地と英日中」の4章。ここの主要テーマは、虹口港、日本人住宅地等の「都市空間」の形成とその特質の分析である。文献史料にとどまらず、現地調査や聞き取り調査の結果も活かされている。

 「終論 上海から東アジアへ」の2「研究展望:支配制度と生活空間の形成」において、今後の課題として3つを挙げ、「支配制度の移植」、「西洋人による生活空間の移植」、「近代の都市と建築の研究には中世・近世のそれとの接点を探る必要」を指摘し、今後の研究対象と手法を暗示している。

 カバーデザインも良い。図書館に入るとカバーは外されるのが一般的だが、本書のハードカバー部分は書庫など暗い所でも映えるに違いない。出版社の心遣いが感じられる。

  「あとがき」には、著者を支えてきた豊富な人脈(主に年長者)への謝辞が描かれている。これまでの恵まれた研究生活と同時に、就職に苦闘してきたことも読み取れる。後につづく多くの若手研究者にとって、彼女の歩みは一つの希望にも指針にもなるであろう。陳さんのさらなる<挑戦>を期待したい。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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