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女性駐日大使ご一行の三溪園案内

 2018年3月2日(金曜)午後、女性駐日大使13名(アジア、大洋州、中南米、欧州、中東、アフリカ)が、林文子横浜市長招待の懇談後、三溪園まで足を運ばれた。前日の春の嵐も収まり、観梅会の最中、馥郁(ふくいく)たる香の中で、花も枝ぶりも楽しんでいただき、三溪園の魅力をお伝えしたいと準備した。

 歓迎の挨拶で、通常は260人ものボランティアが、ガイド、庭園管理、合掌造りの運営等に尽力しているが、今回は吉川利一事業課長と私がご案内したいと述べる。英語の通訳はエクシム・インターナショナルの清原美保子さん。

 正門を入ると間もなく、一斉に歓声が上がる。私はここを密かに<展望所>と呼んでおり、多くの人が最初に感動する場所である。左側に外苑、右側に内苑を見て、外苑の三重塔(英文版リーフレットの2)と内苑の鶴翔閣(リーフレット8)の2つのシンボル的な建造物を視野に入れ、それらと現在の立地点を結ぶ「三角測量」により、東西南北と地形の高低、これから歩く園路が谷底にあることを確認してもらう。
 三溪園のホームページ(http://www.sankeien.or.jp/)に同じ地図がある。

以下は女性大使一行にお伝えした概要である。

 谷と丘から成る地形は、谷戸(やと)と呼ばれる。横浜の地形の特徴であり、市内に約3000あったが埋立により激減した。左手の大池側が1906年に一般公開した「外苑」で今年が開園112年となる。右手の南面する斜面が「内苑」。右手の蓮池の先に見える茅葺屋根の建物が鶴翔閣で1902年落成、原三溪が住まいとした(時に34歳)。4年後の1906年に外苑を公開、ついで内苑を造営し、約20年の歳月をかけて三溪園を造りあげる。

 原三溪(1868~1939年)は、岐阜県佐波柳津(現岐阜市)の庄屋青木家の長男に生まれ(富太郎)、東京専門学校(現早稲田大学)に学び、跡見学校(明治8年創立、現跡見学園)で教鞭を取るなかで、埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎(1827~1899年、開港横浜の第一世代)の孫娘・屋寿(やす)と出会い結婚(24歳)、原富太郎となる。この教え子とのロマンスに、一行から華やかな声が上がった。なお三溪は原富太郎の号である。

 内苑入口で記念撮影を終え、左折して梅林へと向かう途上、横浜がとても若い都市であることを伝える。横浜の歴史はわずか150余年。奈良の1300年、京都1200年、鎌倉800年、江戸・東京400年に比べ、きわめて短い。都市横浜の起源は、日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約(1858年)に基づく1859年の開港(5港開港場の1つ)にある。来年、横浜開港160周年を迎える。

 この若い都市へ「進取の気性」に富む人びとが全国から集まり、「三代住んで江戸っ子」に対し「三日住めば浜っ子」と言われた。諸外国からも貿易商を中心に渡来、幕府は外国人居留地を設定して賃貸する。日本人町には江戸の大店へ出店を促すが、関東一円の商人が積極的に進出し、主導権を握った。

 横浜は五港のうち最大の貿易量を誇り、筆頭輸出品の生糸が日本の外貨獲得に大きく貢献する。この生糸売込商の一人が原善三郎で、弁天通りに店を、野毛山に自宅を構え、本牧村三之谷の土地を入手、1880年頃、その丘(いまの三重塔隣接地)に煉瓦造の別荘・松風閣を建て、中国趣味の小さな庭園を造った。

 1898年、善三郎の逝去に伴い、三溪は生糸売込商原商店を承継して近代的な原合名会社に組織を一新、製糸業にも着手した(富岡製糸場等の経営は1902~38年)。

 三溪は、外苑の造営を先行させ、植栽と日本伝統の古建築移築や石(庭石、石塔、灯籠、礎石等)の配置を造園の基本に据えた。植栽は、平安時代から花の代表とされ果実を薬用・食用とした梅を中心とし、江戸時代初期(17世紀)に栽培が始まる東京の蒲田(現梅屋敷)、川崎の小向(多摩川河川敷)、横浜磯子の杉田から名木を集めた。1906年の開園当初から三溪園は梅の名所として知られる。

 初音茶屋(観梅会の時期には麦茶を供す)の近くの臥龍梅(がりょうばい)は、杉田梅林から移した100余年を経た古木。その名の通り、龍が臥すが如き佇まいである。一行は思い思いに写真を撮り、香りを愛おしみ、しばしの散策。
ここで下村観山(1873~1930年)の日本画「弱法師」(よろぼし)の話をした。観山は三溪が支援した画家の一人で、画題は能(謡曲)に因む。

 河内国(現大阪府)の通俊は,人の告げ口を信じて、わが子の俊徳丸を追出す。悲しみのあまり盲目となり乞食の弱法師と呼ばれた俊徳丸は,梅が咲く四天王寺(聖徳太子建立、6世紀、最古の仏教寺院)で施行(僧や貧しい人びとに物を施し与えること)を受ける。寺の縁起などを語るうち,父はわが子と気づき,日想観 (にっそうかん、西に没する日輪を観て、極楽浄土を想い浮かべる修行) を子にすすめる。弱法師は夕日に向かい、舞い狂う。

 この屏風絵「弱法師」は、高さ187センチ、幅8メートルもの大作と言うや、「私の背と同じ」と声が上った。川幡留司参与から借りた複写の「弱法師」を拡げる。画面左端に夕日、それに向かい合掌する右端の弱法師。弱法師をいざなうように、横長の画面いっぱい、夕日に枝をさし延べる臥龍梅。ここで撮影ラッシュとなった。市長公舎で下村観山の「富士山」を観てきたばかりの一行の印象はひとしおだったらしい。

 弱法師が描かれたころ、詩人のタゴール(Rabindranath Tagore 1861~1941年、アジア初のノーベル文学賞(1913年)を受賞)が三溪園に滞在しており、この絵に惚れ込み、インドにもと要望した。その模写を鶴翔閣で行ったのが画家の荒井寛方。タゴールは1916年、寛方をビチットラ美術学校の絵画教授として招聘、寛方はアジャンター石窟群の壁画などの模写にも当たり、日印交流に貢献した。

 来た道を戻り内苑へ向かう。内苑の造営は1914年の三重塔移築後に一挙に進んだ。古建築の移築は造園の美的観点にとどまらず、明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈運動の下、衰退する寺社や仏像等を護るべしとする岡倉天心(1863~1913年)の思想に共鳴した三溪が実践躬行した成果でもある。なお天心の想いは古社寺保存法(1898年)に結実し、戦後1950年の文化財保護法に継承された。

 1917年に臨春閣(リーフレット11)、1918年に月華殿(リーフレット13)、1922年に聴秋閣(リーフレット16)と春草廬(リーフレット17)を移築(それぞれの古建築の由来はリーフレットにある)、1923年、内苑の完成を祝う大師会茶会を開催する(三溪55歳)。

 その直後の9月、関東大震災で市内は壊滅的被害を受ける。三溪園の被害は倒壊した山上の煉瓦造のみで比較的小さかったが、以降、三溪は横浜の震災復興の先頭に立ち、1939年に没する。享年70。三溪は実業家、造園家、茶人、日本画家の支援者であり、自らも日本画を良くした。

 戦中・戦後の混乱期を経て、1953年、三溪園は原家から財団法人三溪園保勝会(理事長は横浜市長)に移され、復興の道を切り開いてきた。そして2007年、国指定名勝(文化財の1つで「景色の優れた地」)を受けると同時に組織替えし、公益財団法人三溪園保勝会として管理・保存・活用等の事業を担って現在に至る。

 名勝指定の理由は、「…近代横浜を代表する実業家である原富太郎(三溪)が明治時代後期から造営した自邸の庭園。起伏に富む広大な敷地に古建築を移築し、池や渓流を築造した自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・観賞上の価値は極めて高い」(平成19年2月6日の官報)とある。近世の石庭等の<象徴主義>に対する<自然主義>に基づく近代の風景式庭園である。

 内苑の御門(リーフレット9)をくぐり、右手に白雲邸(リーフレット10)を見て進む。臨春閣前の広場に出ると、眼前に広がる壮大な美しさに驚きの声が上がる。今回の来園が二度目の大使もおられるが、桜、新緑、花菖蒲、名月、紅葉、雪景色等、四季折々の来園に興味を持っていただいた。

 三溪記念館(リーフレット20)に入る。内田弘保理事長が挨拶を述べ、池を望む望塔亭でお抹茶を振る舞う。引率の関山誠国際局長によれば女性駐日大使はいま22名、その過半数が万障を繰り合わせて参加された。日ごろから互いに交流があるようで、打ち解けた会話と笑い声が絶えない。お点前の実演をする大使の姿にまた盛り上がる。最後に三溪園職員による手作りの紙雛の匂い袋「根岸~本牧 お雛さまめぐり」(観梅会催事用に特製)をプレゼントした。

 好天に恵まれ、楽しい一時を過ごしていただけたと思う。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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