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コックス商館長が将軍秀忠に拝謁

 本ブログの8月21日号に「400年前の英語」、10月4日号に「平戸イギリス商館」、12月5日号に「平戸のにぎわい」と3本の論考を載せた。いずれも平戸のイギリス商館長コックス(Richard Cocks 1566~1624年)の日記“Diary kept by the head of the English Factory in Japan”(大英図書館蔵)を東京大学史料編纂所が翻刻し、訳文を付した『イギリス商館長日記』(『日本関係海外史料』)所収、以下、「コックス日記」とする)の豊富な史料に魅せられ、400年前の日本社会の一端を描こうと試みたものである。

 コックス日記の史料的特徴を挙げれば、次の点にあろう。(1)日本語の史料では記されることの少ない外国人の視点と体験から描かれた日本社会の諸相、(2)商館長として貿易取引に伴う商品・価格・売れ行き等々の業務記録(日記には概要のみ掲載、帳簿はなし)、(3)1600年に発足したイギリス東インド会社の仕組みと貿易業の現場の状況記録等々である。

 コックス日記を使った先行研究は、参照できた歴史学の分野では、(1)武田万里子「平戸イギリス商館日記」(永積洋子・武田万里子『平戸オランダ商館・イギリス商館日記:碧眼のみた近世の日本と鎖国への道』p245~、そしえて社、1981年)、(2)鍋本由徳「江戸時代初期における領主権力と<長崎奉行>の覚書」(日本大学通信教育部通信教育研究所「研究紀要」2015年)、(3)小林章夫「平戸イギリス商館の木綿販売」(『はた』日本織物文化研究会誌 19号 2012年)、(4)榎本宗次「近世初期銀貨考」(『史料館研究紀要』5、1972年)。

 歴史学以外では、(5)ろじゃめいちん『江戸時代を見た英国人』(PHP研究所 1984年)、(7)演劇史の分野からトマス・ライムス(Thomas Leims)「リチャード・コックスの日記-成立初期の歌舞伎研究におけるコックス日記の意義について」(早稲田大学演劇学会『演劇学』31号、1990年)がある。シェイクスピアと同時代の「コックス日記」を活用した英語史の研究は見つからなかった。

 コックスに関する同時代人の評価はどうか。上掲(1)武田によれば、サー・トーマス・ウィルソン(大蔵大臣ソルスベリー伯の秘書官)は「…学問があるわけではないが誠実で、年がいっており、判断力もある…」とし、これを受けて武田は「…商人としてきわめて敏腕とはいえないが、正直で公私をわきまえ、日本では人望があった…」と言う。
ついで直接の上司にあたるジャワ島バンタムの支店長ボールは、きわめて否定的に、「…情熱においてはきわめて激しいが、理性においては見るかげもない。…総合的な判断力や見通しに欠け、片意地で評価すべきものを評価せず、口先の美辞に惑わされる…」(上掲(1)武田)と厳しいが、関係がよくなかった上司の部下への人事評価であることも考慮すべきであろう。

 現代のイギリス人による評価は、上掲『江戸時代を見た英国人』の第2章「外国人観光客のはしり、コックス商館長」に詳しい。そこにコックスがイギリス出航前の1611年に遺言書を残していたこと、1563年1月10日~15日頃にスタフォード(製靴業で有名)で誕生したことが記されている。さらにコックスが商売には向いておらず、庭仕事(1615年6月9日の日記にサツマイモを栽培した記事あり)、金魚の飼育、観光に熱心であり、また11年間の任期を終えて帰国する彼への日本人による送別の宴に触れ、親善大使の役割は十分に果たしたと述べる。なおコックスの蔵書家・読書家の一面は特筆すべきであろう。

 今回はコックス日記をもとに、彼の第1回江戸参府(1616年と翌1617年の2回あり)を見ることにしたい。アダムズが同行したこの参府は、1616年7月30日から12月3日まで。船で平戸を発ち、下関から瀬戸内海に入り、5日目に砂州(大坂港外)着、その後は陸路を行く。10日、献上品や商品等を2隻の舟で堺から伏見へ運び、運搬費を節約した。

 12日、伏見で10人ほどの罪人の晒し首を目にし、「このような厳しい処罰がなければ、彼らのなかで(私たちは)生きていけない」(以下、引用は拙訳による)と記す。高価な物品を運ぶ旅でも、盗難に遭ったという記述はない。

 さらに東海道を進み、8月19日に浜松、24日に箱根を越えて小田原、26日に戸塚、そのつどの宿代の支払いや関係者への贈答品を記す。27日午後に江戸着、平戸を出て28日目である。この日はアダムズの家に泊まるが、江戸の定宿の三雲屋はイギリス商館の代理人も兼ねている。30日、激しい地震に恐怖を覚える。

 9月1日、「…皇帝ションゴ(将軍)様へ献上品を納め、快く受け取ってもらった。この件ではコジスキン(本多正純、年寄=老中)殿とションガ(向井忠勝、御船手奉行)殿の助けを得た」。長く待たされた後に登城。「城はすこぶる強固で、二重の堀で囲み、石垣を回らし、…皇帝(将軍)の宮殿は巨大な造りで、どの部屋の天井も壁面も金箔で覆われ、あるいは獅子・虎・豹・鷺等の鳥獣の絵が描かれ……絵の方が金箔より素晴らしい」。

 いよいよコックスとイートン、ウィルソンが皇帝(徳川秀忠、家康の三男)に拝謁する。「…皇帝ションゴ(将軍)様は、ひとり一段高い所に座り、目にも鮮やかな青色の絹の衣を羽織り、仕立屋がするように畳の上に足を組み、…誰もこの部屋に入ることは許されなかった。彼は二度ほど私に入るよう招いたが私は固辞した。これは良いことだったと後で評価された。束の間のお目見えだったが、会う時も別れる時も彼は頭を下げた。」

 ついで拝領品の一覧を記す。各種の羅紗(毛織物)、ロシア産の獣皮、硝子の姿見、珊瑚樹、琥珀玉、兎皮、鋼鉄棒、鷹狩用具、薬壺、水差、湯呑、牛乳酒鍋、金箔を貼ったインド産の獣皮、錫の棒、鉛80貫(重いため証書のみ)。

 「仲介の労を取ってくれた本多正純殿と向井忠勝殿を訪れて礼を言うはずのところ、通詞のゴレザノ(五郎左衛門)が訪ねもせずに、もう登城されたと私に嘘の報告をしたせいで、贈物は宿舎に持ち帰ることとなった」。

 翌日、「本多正純殿、土井利勝殿(老中)、酒井忠世殿(雅楽頭)という皇帝に次ぐ重要人物3人」に同じ物を贈る。すなわち種々の羅紗、硝子の姿見、黒い兎皮、薬壺等。さらに平戸の王の弟(松浦信清)を訪ね、羅紗、サラサ(更紗、捺染した綿布)、硝子の姿見、手帳等を贈った。

 贈物はいずれも軽量、希少、高価の特性を持つ貴重品であり、運搬にも適している。「贈物の交換」は古くから「信頼の交換」を意味した。信頼により次に何を得るか。半年ほど前の1616年4月に家康が逝去、二代将軍秀忠の進めるキリシタン禁制とイギリス・オランダ両商館への貿易制限の下、コックスは家康時代の特権の復活を請願しつづけるが、思うようにはならない。(続く)
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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