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三溪園所蔵の豪華な作品群

 昨年暮れに始まった三溪記念館の展示は、原三溪自筆の絵画、三溪園所蔵の名品から豪華な作品群を揃える。担当は新任学芸員の北泉剛史(35歳)さん。彼の二度目の展示であるが、企画展示はこれが実質的なデビュー作と言ってよく、その意気込みが感じられる。

 第1展示室は、三溪の作品から絵画を8点、三溪ゆかりの画家・横山大観の3点、それに三溪の書簡2点の構成である。
第2展示室は、臨春閣の障壁画(替え襖)・中島清之《鶴図》、祝いの調度として《竹図屏風》等、それに色漆や蒔絵の装飾を施した火桶や火鉢である。
 第3展示室は、三溪園所蔵の美術品から「紅児会の作家を中心に」として安田靫彦、今村紫紅、牛田雞村らの作品を展示する。
会期は、第1・2展示室が1月29日まで、第3展示室が1月30日まで。
 北泉さんに案内してもらい、主に彼の解説を活用して紹介したい。美術や音楽を言葉で紹介するのは至難の業であるが、この展示に足を運んでくださる契機になれば嬉しい。

 第1展示室の「冬の訪れ」は、「紅葉を終え…園内は賑わいがうすれ、一時の静けさに包まれます。新年を迎えるこの季節は、いよいよ本格的な寒さが近づくなか、透き通る空気に気持ちも改まってきます」と述べ、実業家であり、画家であり、美術の収集家でもあった三溪(1868~1939年)の作品8点と、ゆかりの画家として横山大観の3点、それに古美術商(奈良の法隆寺西門前町で楳林堂を営んでいた今村甚吉、~1907)宛書簡2通を展示する。

 まずは三溪の山水画。(1)近江八景の1つ、琵琶湖西岸の雪の比良山遠景《比良山》と(2)夜明けの富士山《黎明》。

 次に人物画。(3)中国東晋(4世紀)の名臣・謝安が、国家存亡の決戦に大勝した報せにも平然と客と囲碁を打っていたという故事を描く《謝公囲碁》。これに付された注「実はこのあと、謝安は部屋に入ってから小躍りして喜んだそうです」の一文に思わず頬がゆるむ。(4)平安時代の僧《丹霞和尚》では、厳冬に仏像を燃やして暖をとり咎められる僧の、苦渋の表情を対比的に描く。舎利(釈迦の骨)のない仏像は形に過ぎないと、偶像崇拝に陥りがちな考えを改めさせたものとも言われる。

 ついで各地の生活ぶりを描く「風俗画」が4点。(5)《雪暁》は、凛とした冬の夜明け、一面の雪。障子を開け放った農家の一家が囲炉裏を囲み、馬小屋では馬が餌を食む。(6)《佐倉義人旧宅の図》は、江戸初期の下総国佐倉藩(千葉県成田市)、歌舞伎の題材ともなった伝説的な百姓一揆指導者・木内宗吾の屋敷の正月風景。(7)《雪の朝》は、雪に覆われた川沿いの農家。庭先の鶏の真っ赤な鶏冠が映える。(8)出羽富士とも呼ばれる白装束の《鳥海山》。麓の村にはゆったりと進む馬上で言葉を交わす二人の男。 

 ゆかりの作家として横山大観(1868~1958年)の3点がつづく。解説は三溪と大観の間柄について紹介する。古美術収集に力を入れていた三溪は、明治の終わりごろから日本美術院を中心とした若手作家たちを、物心両面で支えた。近代日本画の巨匠である大観にも援助を申し出るが、金持ちに支援されるのは好まないと大観は辞退。そこで三溪は作品を買い上げ、間接的な支援を行った。三溪所蔵の近代絵画のなかで、最も多い買い上げが大観の作品と述べる。
 三溪と同い年の大観は、5歳年長で東京美術学校(現東京芸術大学)を創設、のち追われて日本美術院を作った岡倉天心(1863~1913年)と行動をともにした筆頭格で、水戸藩士の気風を引く。互いの生き方の接点が、いまに残る三溪園所蔵の大観の作品と言えるかもしれない。

 大観の作品の(1)《あけぼの》の解説、「手前に松原が広がり、茫洋とした春の夜明けを感じさせ、…やわらかな景色の中に、黒々とどっしりとした松はとても存在感がある」。(2)《赤壁》は、中国の詩人・蘇軾の「赤壁賦」のうち「前赤壁」に因むもの。三国志の戦場の赤壁に思いを馳せ、客と酒を酌み交わし舟遊びする穏やかな夜を描く。(3)《煙寺晩鐘》は、日暮れ時の松林を濃墨や深い緑色で描く。朦朧体の圧倒的な迫力、大観47歳の作品である。

 第2展示室には、「臨春閣の障壁画 中島清之《鶴図》」と、新年を祝う調度品の、寒中に暖をとる火鉢と火桶、それに《竹図屏風》を展示。
 紀州徳川家の別荘であった臨春閣には、狩野派を中心とした江戸時代の障壁画があるが、保存のため原画は収蔵庫に収め、順に記念館で展示している。三溪園では1979年代に日本画家・中島清之(1899~1989年)に依頼し、臨春閣の替え襖を制作、清之没後は三男の中島千波(1945~)が引き継ぎ、《不二に桃花図》(1988年)と《松林図》(1990年)を制作。

 この清之の替え襖5点(《鶴図》、《梅図》、《竹図》、《牡丹図》、《菖蒲図》)のうち、今回は最初に制作された《鶴図》(1976年)のお披露目である。26羽の大きな鶴が翔ぶ壮観。

 向かい側には、金箔を貼った和紙に太い孟宗竹を描く、圧巻の《竹図屏風》(江戸時代の作品)がある。竹の上部は金箔で、ぼかしを入れる手法をとり、空間のひろがりを感じさせる。

 新年を祝う調度品として、縁起の良い蓬莱山を描く《黒漆蓬莱蒔絵広蓋》、色漆や蒔絵の装飾を施した《黒漆桧扇唐草蒔絵火鉢》と《赤漆火桶》、それに《片輪車螺鈿蒔絵火鉢》。漆は縄文時代の遺跡からも出土する。漆芸品は耐水・耐熱性に優れ、手入れしやすく、その色合いと光沢に独特の美しさがある。

 第3展示室は、「三溪園の美術品-紅児会の作家を中心に-」と題し、計16点を展示する。紅児会(こうじかい)とは、明治後期に発足した美術団体。明治31年(1898)に小堀鞆音門下の安田靫彦らが紫紅会を立ち上げ、33年に松本楓湖門下の今村紫紅が加わり紅児会と改称、のち前田青邨、小林古径、速水御舟、荒井寛方、牛田雞村らが加わり、大正2年(1913)の19回展覧会を最後に解散、のち多くが再興美術院に参加した。
 年齢も画風も異なるが、「紅児会」で研鑽を重ね、三溪が支援した画家たちの作品である。靫彦と紫紅は、岡倉天心を通して明治末頃から、またのちに青邨、古径、御舟らも、三溪の支援を受けた。なお展示作品は紅児会の活動時期より後のもの。

 室内に足を踏み入れると、左手に《軍鶏(しゃも)》の絵が目に飛び込んでくる。手前右から順に小堀鞆音(1864~1931年)の《藤房卿》、安田靫彦(1884~1978年)の《甲斐黒駒》(聖徳太子が甲斐国産の駿馬「黒駒」にまたがり全国を駆け巡ったとされる故事)、《羽衣》、《驃騎》の3点、松本楓湖(1840~1923年)の《大塔宮護良親王》、今村紫紅(1880~1916年)の《秀吉詣白旗宮図》、《後赤壁》の2点、速水御舟(1894~1935年)の《松徑》(鮮麗な藍青の顔料を多用、鬱蒼とした松が強烈な印象)、《寺の径》の2点、荒井寛方(1878~1945年)の《孔雀妙音》、牛田雞村(1890~1976年、横浜生まれ)の《老松図》、《聖徳太子像》、《松に雉子図》、《三溪園全図》(関東大震災前の園内を描く。中央ガラスケース内)の4点、そして最後に小茂田青樹(1891~1933年)の《軍鶏》、《蒲田》の2点。

 楽しんで鑑賞していただければと思う。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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