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三溪園と本牧のまちづくり

 2017年11月11日(土曜)、横浜美術館円形フォーラムにおいて原三溪市民研究会・横浜美術館・三溪園共催の第4回シンポジウム「三溪園と本牧のまちづくり―そのヒントを探る―」が開かれた。昨年11月12日(土曜)開催の第3回シンポジウム「原三溪と本牧のまちづくり」を継ぐものである。

 昨年の第3回シンポジウムの記録及びその開催者の原三溪市民研究会の誕生の経緯については、本ブログ「原三溪と本牧のまちづくり」(2016年11月21日掲載)に述べた。役員(廣島亨会長、藤嶋俊會副会長、速水美智子事務局次長、内海孝顧問、猿渡紀代子顧問)も昨年と同じである。
 速水さんの司会で下記の通り4氏の報告(各20分)の後、猿渡さんがコーディネーターをつとめてパネル・ディスカッションが行われ、最後に廣島会長の挨拶があった。その記録を簡単にまとめておきたい。

 (1)吉川利一(三溪園事業課長)「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」は、戦後の1953(昭和28)年に生まれた財団法人三溪園保勝会による管理運営の歴史をまとめ、2007(平成19)年、国の名勝指定を受けた公益財団法人としての三溪園の活動を中心に、法人の定款3条(目的)を引いて演題を「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」として話した。とくに「蛍の夕べの子どもむけイベント」「ザリガニ釣り」「スタンプラリー」「夏休み子どもアドベンチャー」、「夏休み子どもパスポートの発行」等、近年の新たな取組の一つとして、未来を担う子ども向けの諸企画を紹介した。

 (2)當麻洋一(本牧神社宮司)「受け継がれる二つの価値~形あるものと形なきもの~」は、本牧神社の例祭に際して行われる特殊神事「お馬流し」(神奈川県指定の無形民俗文化財、室町時代創始と言われる)と本牧神社の場所の変遷について、2種の写真付き資料を使って語り、茅で作る馬首亀体(首から上は馬、胴体は亀の形)を海に流し地域の平安を祈る神事、そして関東大震災から戦後接収、海岸埋立に伴う神社の場所の変遷を明らかにした。

 (3)鬼木和浩(横浜市文化観光局文化振興課施設担当課長)「本牧・三溪園の文化資本を紡ぐ<ストーリー>」は、近代の本牧に住んだ画家(下村観山ほか)と作家(谷崎潤一郎や山本周五郎ほか)を丹念に取り上げ(資料の<本牧・三溪園 文化年表>を参照)、「…芸術に関するこのような記憶が、この地に創造性のオーラをまとわせ、さらなる芸術家を招き寄せ、…<美>を守り、<美>を育む遺伝子が一貫して受け継がれている…」とする。文化芸術基本法の改正により、文化と観光・まちづくりの分野の連携が期待されるようになったとも指摘する。

 (4)内海孝(東京外国語大学名誉教授)「本牧遠近考」は、当日に配られた「横濱全図」(『風俗画報』明治35(1902)年10月号、全図とは前年の市域拡張により本牧等も横浜市に編入した地域を指す)を資料として、横浜市域の配置とそのなかの本牧の位置を探ろうとする。すなわち前回のシンポジウムを引き継ぎ、三溪園草創期に焦点を当てる。

 報告のあと、休憩を挟み、猿渡さんの名司会によるパネル・ディスカッションが続いたが、報告の補足が中心であり、その趣旨は上述のなかに含めた。
ついで参加者から2つの意見開陳があった。(1)本牧ツアーのガイドをつとめた男性は、本牧は衰退しつつあり、そのまちづくりに一番重要なのは地下鉄(みなとみらい線)の延伸であり、それを抜きに今後のまちづくりは語れないと述べる。(2)横浜出身で現在はカナダで旅行業を営む男性からは、三溪園はSankeienと表示されて有名だが、公園かミュージアムかカテゴリーが分かりにくい(三溪園のホームページ英文版や英文リーフレットにはSankeien Gardenと明示してある)とした上で、外国人客の比率等の具体的質問があった。

 報告と会場発言のいずれも、たいへん興味深かかったが、残された次の課題も明らかになったように思う。昨年の第3回「原三溪と本牧のまちづくり」は、原三溪を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」が含意されているが、今回の「三溪園と本牧のまちづくり」は誕生して110年を超える三溪園を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」である。その違いをもうすこし敷衍すると次のようになろう。
 前者は原三溪(富太郎、1868~1939年)が養祖父・原善三郎の購入した本牧三之谷に鶴翔閣を建造して野毛山から移り住み(1902年)、約20年をかけて作り上げた三溪園とその位置する本牧のまちづくりを語り合った。言い換えれば、三溪園の<草創期>、横浜の<成長期>を探ったものである。

 これに対して今回は、三溪園(1923年に完成)を主体(ないし主語)とし、その後の約100年を対象としている。したがって三溪園の完成直後に起きた関東大震災による壊滅的被害と震災復興に全力を投入した三溪、三溪没後の戦後と戦災復興、駐留軍の接収時期の約半世紀にわたる<五重苦>については十分に触れられなかった。<五重苦>とは、①関東大震災、②昭和初期の経済恐慌(横浜経済の中心が東京に移る)、③戦争と空襲、④占領と接収、⑤人口爆発である。この時期を<受難期>と呼ぼう。
この<五重苦>を克服して、1965年の「横浜六大事業」頃を期に<再興期>に入り、それから半世紀が経過した。<受難期>を飛ばし、その後の<再興期>に直行したのが今回のシンポジウムであった。

いま人口爆発はピークを打ち、横浜は人口減少の<成熟期>へと向かう次の段階にある。歴史は日常と直接の関係を持たない面があるとはいえ、やはり昨日があっての今日であり、明日である。文化や歴史を活かしたまちづくりとなれば、歴史の大局を把握したうえで、将来に向けたまちづくりを構想・推進することとなろう。
今回のシンポジウムでも多くのことを学ばせてもらった。開催者にとっては、シンポジウムの副題にある<そのヒントを探る>ためにも有益であったに違いない。最後の廣島会長の挨拶から、次に向けた取組への情熱を強く感じた。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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