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古建築のマド

 「三渓園特別見学のお願い(村松)」のメールを受け取った。「…ご無沙汰しております。標記のお願いです。実は、10月から12月にかけて東大大学院の講義でマドについて話します。その中で、三渓園の臨春閣、聴秋閣、白雲邸など、近世から近代にかけての日本のマドの状態が見られる建物を、内部も含めて見学することは可能でしょうか?…昨日、実際に下見に行き、とても素晴らしいところだと感銘し、メール差し上げてお願いしようと思いました。いつもお願いばかりで申し訳ありません。よろしくお願いします。 村松伸」
 メールには2枚のポスターが添付してある。大きな字で「マドの向こうに 人類の建築史が見えてくる」と縦書き(マドは窓)、すこし小さな字で「マドの進化系統学」、東京大学大学院建築学専攻講義 2017年建築史学第5(村松伸教授)と横書き、開催の日時と場所が記されている。

 講義主旨には、(1)通奏低音としての3つの問い、(2)3つの問いへの仮説、(3)予備知識の導入、とある。(1)で「私は、建築とは何かを、建築を学び始めてからずっと模索し続けています。年をとったせいか、特に最近しつこくこの問題に拘泥しています」と述べ、3点を挙げる。①そもそも建築は人間にとっていかなる物かという哲学的な問い、②建築をどうやって構築したらいいかという手法に関する問い、③この大きな問い(「建築とは何か」)をどのように将来に役立てるかという問い。
これを受けて(2)で、「建築とは環境との対話装置であり、その根幹はマドである」とする。ここまで読んで彼の狙いが分かり、吉川利一事業課長に応対を頼み、すぐに来園歓迎の返事を出した。

 村松さんは30年来の古い友人である。『アジアの都市と建築』(鹿島出版会 1986年)の編集のために集まったのが32年か33年前である。本書の編者は私になっているが、仕掛人は村松さん。そのころ私だけが50歳になろうとする中年で、彼らはみな30歳前後の青年であった。
 この村松さんが今回の講義要旨に「…年をとったせいか…」と書いている。建築史を総括したいとする彼の志に応えたいと思い、村松さん関係の記事をネットで探すと、10+1 web siteの2015年5月号を見つけた。彼は近代建築史を6つの世代に区分し、自分は6世代目くらいにあたるとした上で、建築史を課題別に3期に分けている。第一期<勃興社会の建築史>は19世紀末からの伊東忠太、関野貞たちによるもの、第二期<成長社会の建築史>は戦後すぐの稲垣栄三、村松貞次郎から1980年代の5代目の鈴木博之、藤森照信、陣内秀信たちの時代で、日本が経済的にも人口的にも成長期にあり、体制批判は喧しかったが、未来が輝き、経済も順風満帆な時代だった。

 そして第三期<成熟社会の建築史>を担うのが、少子高齢化、定常経済、地球環境の危機などに直面する自分たちと位置づける。<成長社会の建築史>の代表格であった藤森研究室を継承し、<成熟社会の建築史>を進める自分の研究内容が極めて散漫に映るのは、<勃興社会>でも<成長社会>でもなく<成熟社会>に適合した建築史研究を新たに切り開こうとしているからに他ならない、そして「<成熟社会の建築史>研究は、どこかにモデルがあるわけではない。自ら問い、観察し、思索し、新たに構築する必要がある。だから決められた本を律儀に読んだり、決められた手法をそのままなぞったりすることを推奨してはいない。 常にクリエイティビティとオリジナリティが必須となる。だが放任とは異なる。確かに、修士、博士の学生たちのテーマはてんでんばらばらではある。基本的にテーマは自分で選ばなくてはならない。それこそが、ぐいぐいと自分でどこまでも進んでいける原動力となるからだ」と続ける。

 現在、村松研究室で行なっているテーマは、「建築史系」、「保全系」、「リテラシー系」、「統合系」の4つの系に整理することができるとし、「建築史系」は建築史研究室の正統的な研究の姿であるが、対象を全球の人類一万年に広げたり(空間・時間の拡大)、五感との関係で見たり(ディシプリンの拡大)、やや無節操に方法・対象を肥大化させている。ここ数年はマド[窓]の全球全史を考えている。視覚という認知にも地域生態系によってさまざまなバリエーションがあることを人類史のなかで明らかにしたい、と。
 そのうえでいま読んでいる近刊本9冊を紹介し、方法(1、2)、理念(3、4)、建築史(5〜7)、その他(8、9)に分けて提示。「3カ月も経てば読んでいる個々の本は変わるだろうけれど、方法、理念、建築史、その他の枠組みそのものは基本的には変わらないから、…多様な読書を試みてほしい」と述べる。

 1954年生まれの村松さんは私より18歳も若く、いま還暦を過ぎて定年まぢか。私自身の過去と重ねると、研究分野は違うが、総括を意識する心情が痛いように分かる。私も還暦を機に自分の歴史学の追究と大学行政の現場での模索に苦闘する日々であった。

 久しぶりの暖かい好天下、菊花展も盛りの11月2日(木曜)、一行を三溪園に迎えた。村松夫妻、林憲吾講師、岡村健太郎助教、大学院生の計23名、村松夫人とは20年ぶりの再会である。
 私は、本ブログ「外国人VIPの三溪園案内」(2017年5月10日号)や「国指定名勝の10年」(7月11日号)を念頭に以下の話をした。①三溪園は三溪が設計した<谷戸>(ヤト)の地形を生かした特異な庭(名勝指定を受けて10年)、②若い都市・横浜は生糸輸出で成長、その生糸売込商の一人が原善三郎で、その孫娘の婿に入ったのが三溪(青木富太郎)、③三溪は実業家(生糸売込商、20世紀に入ってから富岡製糸場を経営)であり、自らも書画を良くし、下村観山ら近代日本画家を育て、茶人で造園家でもある「一人五役」の人物…。

 吉川さんの案内で3つの重要文化財を見学した後に、観察の成果として各人が撮ったマドの写真2枚を放映、タイトルを付して説明した後、相互に批評しあうミーティングがあり、私も参加した。古建築に現存する多彩なマドを写真に収める<主体>と<客体>(<対象>)との緊張関係が面白い。

 マドというカタカナ表記に村松さんの想いがあるらしい。マド(窓)は広辞苑に「採光あるいは通風の目的で、壁または屋根に明けた開口部(目門または間戸の意か)」とある。マドの音が先にあり、後に漢字の窓を充てたと思われる。語呂合わせではないが、マド(間戸)とヤト(谷戸)が不思議に響きあう。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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