【30】連載(一)ペリー艦隊の来航

 連載「黒船前後の世界」の「(一)ペリー艦隊の来航」を掲載したのは、『思想』誌(岩波書店)の第709号(1983年7月)である。その序文で「幕末開国史の研究は、これまで主に日本史の分野であった。日本の対外関係史として、日米関係史、あるいは日英、日露、日蘭などの関係史の研究が多い。外国人による研究も、ほぼこの線にそったものといってよい」と研究史の概略を記す。

 ついで「…アメリカにとっては、ペリー派遣の目的もペリー自身の政策決定も、たんに対日開国という狭い枠で考えてはおらず、対中関係、対英競争というグローバルな外交戦略のなかに日本開国を位置づけており、また複雑かつ具体的関係のなかで条約が成立したのであるから、日米関係史の観点だけでは、肝心なポイントが不明になってしまう。…そうなると、もはや日本近代史だけでは十分に把まえきれない。ここに世界史(世界近代史)の側からの接近が不可欠となる。…」と述べる。
 若気の至り、力み過ぎの感を免れないが、そのような意気込みではあった。さらに誤解されやすい<関係>と<比較>の意味の相違についても述べ、また私自身の研究の歩みにも触れた上で、「…必ずしも表面には現象しない底流がある」とし、<不平等条約体制>と学界で一括されるアジア各国の現状であるが、それぞれ一様ではない、とも指摘する。

 そして本文の冒頭に、初めて見たペリー艦隊の日本側の記録を引く。
「およそ三千石積ほどの舟四隻、帆柱三本ずつ立て…帆を使わずして、前後左右、自在に相成り…風に向かい浪に向かうに帆をかけ申さず…東へむかうときは一段と迅速、あたかも鳥の飛ぶがごとく、たちまち見失い候」。
 これは1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、三浦半島の突端に置いた見張りが早馬の伝令で浦賀奉行所に届けた報告である。4隻のうち2隻だけが汽走(蒸気)軍艦だったが、見た者には4隻全部が同じに見えたのであろう。規模がケタ違いである。およそ三千石積としたが、当時の日本最大の千石船(弁財船)は積載重量が約150トン、ペリー旗艦サスケハナ号は2450トン、千石船の約16倍の大きさがあった。

 ペリー提督は1852年11月24日、サスケハナ号でアメリカ東部海岸を出航して大西洋を渡り南下、喜望峰を回りインド洋から中国海域を経て、琉球(沖縄)を経由、浦賀沖到着を果たす。地球の4分の3をめぐる大航海の終点であった。
汽走軍艦は、石炭を焚いて蒸気の力で外輪(船体の両側についた水車のようなもの)を回転させて動く。防腐剤を塗った木造の船体が黒く見えるため、黒船と呼ばれた。外洋では帆走することが多いが、伊豆沖で蒸気走に切り替え、全艦に臨戦態勢を敷いた。大砲、小銃、ピストル、短剣等、あらゆる兵器を動員する。艦隊には10インチ砲が2門、8インチ砲が19門、32ポンド砲が42門あり、巨大な破壊力の合計は63門にのぼる(『遠征記』)。対する幕府が砲台に備えた大砲は約20門である。

 双方の大砲は沈黙している。多数の漁船や小舟が艦船を取り囲む。浦賀奉行所が与力の中島三郎助とオランダ通詞の堀達之助を乗せた番船を派遣する。番船は旗艦(司令官の搭乗する船)を識別し、密集する舟の間を縫ってサスケハナ号に近づいた。
4隻の艦隊には約1000人の隊員のほか、条約交渉のため、広東で加わった宣教師ウイリアムズや中国人通訳、さらに上海で雇ったオランダ語通訳ポートマン等が乗船していた。ペリーは、日本側に文書では漢文、口頭ではオランダ語を使う人員が多数いるという情報は把握していたが、日米交渉を何語で行うかを決めていなかった。

 一方、幕府は、第一声を英語で伝えた通り、オランダ語を当然とした。前年の1852年、長崎のオランダ商館長を通じてペリー来航の情報を得ると、来航の地を長崎か江戸に近い浦賀と想定し、出島の約100家のオランダ通詞から精鋭を選抜して浦賀奉行所に配置した。
 海上高く聳える旗艦から身を乗り出す水兵に、堀が大声で呼びかけた。”I can speak Dutch!”(「我が方はオランダ語を話せる」)。ウイリアムズの記録(洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』)によれば、幕府の高官を寄こすよう言うと、その男は同乗の人物を指し、「この方が浦賀のセコンド・ガバナー(副総督)である」と返答(実際は与力)、そこで艦長室に招き入れ、ペリーの副官コンチ大尉と会見させた。

 この瞬間にオランダ語が会話における共通語となった。
 幕府の対外政策は、①1791年の寛政令(ロシア船への薪水供与令)、②1806年の文化令(寛政令のさらなる緩和)、③1825年の文政令(イギリス軍艦フェートン号の侵入事件により強硬策の無二念打払令に転換)、④1842年の天保薪水令(アヘン戦争による南京条約締結の1日前、文政令の撤回と文化令への復帰)の、4つの段階を経ている。
 1853年のペリー艦隊来航時は、来航目的を問い、必要に応じて薪水等を供与する穏健な天保薪水令下にあった。あらぬ小競り合いから発砲交戦に至ってはならぬと、浦賀奉行所が最初の接触時に示したのが、”I can speak Dutch!”の第一声にほかならない。

 ペリー側の要請を受けて翌日、ガバナー(総督)として香山栄左衛門(実際は与力)がペリー艦隊を訪れる。ペリー側は、最初の接触で幕府の高官を引き出せた、大成功だと、大いに喜んだ(『遠征記』)。(続く)
スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
カテゴリ
QRコード
QR