外国人VIPの三溪園案内

 アジア開発銀行(Asia Development Bank,略称はADB)の第50回年次総会が「ともにひらく、アジアの未来」を掲げ、5月4日(木曜)から7日(日曜)まで横浜みなとみらいのパシフィコ横浜で開かれ、加盟国の財務大臣・中央銀行総裁の会合やセミナー等の関連事業を含め、約4000人が参加した。

 ADBは1966年に発足、現在67か国/地域で構成される。最大の出資国は日本とアメリカ合衆国(ともに出資比率15.7%)、ついで中国6.47%、インド6.35%が並ぶ。貧困削減を最重要目標と定め、「貧困層に配慮した持続可能な経済成長」、「社会開発」、「グッド・ガバナンス」の三本を戦略の柱とする。

 会議の多忙な日々の合間をぬって、4日(木曜、祝日)に「VIPテクニカルツアー」(加盟各国の財務大臣と中央銀行総裁等16名の参加)が、6日(土曜)には「配偶者プログラム」(同配偶者等47名の参加)が行われ、その訪問先の一つとして三溪園が選ばれた。

 正門で出迎え、鶴翔閣でのおもてなし(4日は昼食、6日は茶の湯)に約1時間を割き、園内散策、臨春閣前の記念撮影、お見送りするまでの30分弱という短い移動時間内に、イヤホンを介して通訳の英訳を聞いてもらう形式である。これまでも各国在日大使等をお迎えした経験があるが今回は格別、ほとんどの方が初めての横浜、初めての三溪園であり、人数も多い。短時間で三溪園の魅力をどう伝えるか、職員一同で知恵を絞り、私の責任でとりまとめた。

 あらかじめ写真を主とする「三溪園の四季」(英文)と三溪園リーフレット(英文)の二つを来園までのバス内で配布し、「案内シナリオ」を事前に通訳へ送り、準備した。今後の参考のため、この「案内シナリオ」の一部を掲載する。

 (1)<谷戸の地形を生かした造園> 正門を入るや、三重塔と鶴翔閣と自分の立地点を結ぶ「三角測量」を行い、東西南北と地形の高低、これから歩く通路が谷底にあることを確認する。谷と丘の地形を谷戸(やと)と呼び、横浜の地形の特徴をなすが、地名の三之谷にも残る。左手の大池側が1906年に一般公開した「外苑」で今年が開園111年を迎えた。右手が「内苑」、茅葺屋根の家屋が鶴翔閣で1902年落成、ここへ原三溪が野毛山から転居(時に34歳)、それから約20年の歳月をかけ、三溪園をつくりあげた。

 (2)<三溪園を造った人>原三溪(1868~1939年)は岐阜県出身、庄屋の長男の青木富太郎、その号が三溪で三溪園と名づけた。東京専門学校(早稲田大学)出身、跡見学園で教鞭を取るなかで、埼玉県出身の生糸売込商・原善三郎(1827~1899年、開港横浜の第一世代)の孫娘・屋寿と知り合い結婚(24歳)。三溪は生糸売込商を承継し、製糸業も経営(富岡製糸場の経営は1902~38年)した実業家であり、日本画家、茶人、造園家と一人四役の顔を持つ。三溪の書画は三溪記念館にて年9回ほど展示替えしている。なお三重塔と鶴翔閣を結ぶ線まで来ると、新たな三角形が始まり臨春閣前で終わるイメージを確認した。

 (3)<横浜は若い都市> 横浜の歴史はわずか160年と短い。奈良の1300年、京都1200年、鎌倉800年、江戸・東京400年に比べるとよくわかる。幕府は米国東インド艦隊司令長官ペリーとの交渉地として横浜村(現在の関内)を指定、平和裏に日米和親条約(1854年)を結び開国した(拙著『幕末外交と開国』講談社学術文庫 2012年)。この横浜村を1859年に開港(5港開港の1つ、最大の貿易量を誇る)、これが都市横浜の起源となる。1901年の第1次市域拡張で本牧村が横浜市へ編入され(人口30万人)、三溪の鶴翔閣転居は翌年。160年間に急成長した横浜市は、いま人口370万余の日本最大の政令都市となった。
若い都市へ全国から「進取の気性」に富む人たちが、諸外国からは貿易商を中心に集まった。「三代住んで江戸っ子」に対して「三日住めば浜っ子」と言われた。幕府は外国人居留地を設定して賃貸し、日本人町には江戸の大店へ出店を促すが、関東を中心として商人がみずから進んで進出した。とくに海外市場で需要が高まった生糸の売込商が日本の外貨獲得に最大の貢献、その一人が原善三郎、彼が本牧村三之谷の土地を買い、丘のうえに煉瓦造の別荘を建てた。

 (4)<三溪園の造園手順と古建築移築> 原三溪は1902年に新築の鶴翔閣に移り住むと日本伝統の古建築移築を造園の基本の一つに据えた。まず外苑の造園を先行、1907年に旧東慶寺仏殿を移築した。古建築の移築は造園上の美的観点にとどまらず、明治政府の神仏分離令と廃仏毀釈により衰退する寺社の文化財を保護すべしとする岡倉天心の考えが古寺社保存法(1898年)に結実(戦後1950年の文化財保護法に継承)、これに三溪が共鳴し実践した成果でもある。

1914年、三重塔を燈明寺(京都)から山上に移築(三溪46歳)、それ以降、内苑の造園が急展開する。1917年の臨春閣移築により、南の山上に望む三重塔から下の池・渓流・芝生に到る「山水画」の世界を眼前に持つ庭園が完成する。臨春閣は1649年造の紀伊徳川家初代藩主の頼宣(家康の十男)が紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造の夏の別荘である。なお園内には重要文化財の古建築が合計10棟、横浜市指定有形文化財が3棟ある。

 内苑は1923年に完成(三溪55歳)、これを祝う大師会茶会を開催する。この直後の9月、関東大震災で市内は壊滅的被害を受けるが、三溪園の被害は倒壊した山上の煉瓦造を除き比較的小さい。以降、三溪は横浜の震災復興の先頭に立ち尽力、1939年に没した。享年70。戦後、財団法人三溪園保勝会(現在は公益財団法人三溪園保勝会)が管理・保存・活用等の事業を担当している。

 (5)<名勝指定に見る三溪園の特性> 10年前に名勝(文化財の1つで「風景の優れた地」)指定を受けた(名勝11種類のうちの公園・庭園144件の1つ)。その理由は「…近代横浜を代表する実業家である原富太郎(三溪)が明治時代後期から造営した自邸の庭園。起伏に富む広大な敷地に古建築を移築し、池や渓流を築造した自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・観賞上の価値は極めて高い。」(平成19年2月6日付け官報)。名勝は中世・近世の庭園が多く近代のものは少数、うち規模は三溪園が17.5ヘクタールと最大である。

 最後に次のように述べた。日本の庭園の特徴は左右非対称(シンメトリックでない)、曲線曲面を重視する点にあるが、加えて三溪園は谷戸の地形を活かした天地上下の風景を工夫した独特かつ唯一の「風景式庭園」である、と。

 幸い両日とも好天に恵まれ、一行から時おり歓声があがり、笑顔がこぼれ、この感銘を忘れまいとスナップ撮影する姿が見られた。「三角測量」も記憶の定着に役立ったようである。増えつづける外国人来園者に対し、上記のシナリオを基に、滞在時間や人数等に応じて加除することで、工夫を加えていきたい。
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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