【20】連載「中国紅茶の呪縛」

 イギリス在外研究の私の総合テーマ「19世紀東アジアにおけるイギリスの存在」は、東アジアにとどまらず、アジア全域へ拡がらざるを得ないことが分かってきた。

 ユーラシア大陸の「極西」に位置するイギリスから植民地インド、シンガポール・香港を経て中国や日本の「極東」に至るまでを海路でつなげる構想があった。それを解明するには、ロンドンのPublic Record Office(現在のNational Archives)所蔵の外務省・植民地省・海軍省等の文字史料に当たるのが正攻法であろう。だが限られた時間内で、これらの膨大な史料に当たるのは難しい。

 代わりに貿易統計という「数字」を使い、まずは貿易構造の骨格を把握しようと考えた。幸いリーズ大学ブラザートン図書館にはイギリス議会文書(BPP)が揃っている。夕食を自宅で取り、また図書館へ戻って(晩11時まで開館)作業をつづけ、おかげで司書、コピー室の職員、守衛さんとも仲良くなった。

 議会文書(BPP)は、厚さ8~10センチほどに合冊され、1冊で重さ5キロもあり、多い年では1年に100冊にのぼる。100年単位で調べるとなれば、1000冊を書架から机まで運び、該当ページを探さなければならない。背表紙だけでは目ざす統計の収まる巻号が分からないこともあり、書架からの出し入れは想像以上の肉体労働であった。

 イギリスといえば紅茶、それも遠く中国の広州でイギリス国策会社の東インド会社が輸入、はるか赤道直下を経て、喜望峰経由で運ばれてくる。その紅茶が、なぜかくも広く深く定着したのか。あたかも中国紅茶に呪縛されたかのように輸入が増える。だが、その輸入実数の把握さえ不十分な状況にあった。私はそこから着手した。

 主題が19世紀であっても、統計は初めから点検しなければならない。17世紀の試験的輸入は別にして、1740年代から始まる大量輸入期には、茶はボヒーという大衆紅茶とシングロ等と呼ばれる緑茶に二分されていた。

 はじめは紅茶輸入の経年変化のみを知ろうと思ったが、しばらくして茶の種類別の統計となっていることの重要性に気づいた。茶を緑茶・ウーロン茶・紅茶に3分類し、さらに紅茶も高級茶から大衆茶まで種類別に輸入量と単価が一覧されている。この統計を使えば、国内でどの階層にどの種類が多く飲まれたかの推測がある程度まで可能である。そこでまた数十年前のファイルに戻る。

 ついで1780年代から新しい傾向が見られた。緑茶は急減し、急増するのがコングーと呼ばれる中級紅茶である。1820年代までのわずか40年間に、約23トン(1ポンド=450グラムで計算)から約8000トンに急増して主流となる。グラフにすると急増ぶりは一目瞭然である。

 それに比例して単価はほぼ半減する。イギリスの茶輸入は、長い間、東インド会社の独占事業で(1834年の「貿易自由化」まで)、これ以外の私貿易は密貿易として処理された。この巨大な会社の一社独占輸入が取引を有利に導き、多量買い付けが価格を低下させた。買い手のイギリスが紅茶の輸入単価を支配し始めたと推定できる。

 18世紀後半には、イギリスの中国からの輸入品の約95%(価格単位)を中級紅茶が占めるに至る。一方、イギリスから中国への輸出品はほぼ皆無である。したがって紅茶代金として膨大な量の銀塊が中国へ流出、イギリスの銀塊が不足するという新たな問題が生じていた。

 これほど大きな位置を占めた茶である。三種に分類される茶の製法を簡単に見ておこう。無発酵が緑茶で、中国国内で主流のウーロン茶は半発酵である。当時のウーロン茶の製法は、摘み取った茶葉を大きな台に盛りあげ、ある程度の乾燥が進んだ後に布をかけて約1週間、半発酵の状態で大鍋に移し加熱、発酵を止める。

 発酵の過程で中心部は高熱となり、完全発酵まで進む。それはクズ茶として値段が安い。イギリスが最初に輸入したボヒーと呼ばれた渋みの強い大衆紅茶が、これである。茶葉の色からブラックティーと呼ばれ、淹れたときの色から日本語では紅茶と呼ばれる。

 なお輸入した半発酵のウーロン茶が、熱帯を通る船中で完全発酵の紅茶に変化したとする俗説があるが、説得力に欠ける。ウーロン茶は半発酵の状態で加熱処理するため、その後さらに発酵が進むとは考えられないからである。

 紅茶好きの多いイギリスでよく聞いた話がある。「紅茶とミルクのどちらを先にカップに入れる?」。この「美味しい紅茶の入れ方論争」の両者に共通するのが、沸騰させた湯をポットに注ぎ、カバーをかけて蒸らすという滅菌効果である。急速な都市化で上下水道が整わない間、汚染水から身を守るには滅菌が不可欠であった。

 広く愛飲される紅茶は、現在ではインド産とセイロン産が主流で、中国産は世界市場にはほとんど出回らない。このインド産紅茶とセイロン産紅茶が世界市場に登場するのは、遅れて19世紀後半の1880年代からである。

 この100年も前の18世紀後半から急増した中級中国紅茶コングーが、イギリスに紅茶文化を定着させた。そのうえで産地の異なるインド産・セイロン産紅茶が取って代わった。その産地交代もまた植民地をふくむ世界産業構造の大転換の結果と言えそうである。

 18世紀後半のイギリスは、国内では農業革命と綿工業主導の産業革命がほぼ同時に進行し、急速な都市化が進んだ時期である。それはまた国策としての「加工貿易論」と結びつき、商品の国際化とその「比較優位」を前提とする「産業の広域化・世界化」を進めた。中国紅茶の大量輸入と紅茶文化の定着は、この新しい時代の到来と深く関わりがあると直感した。(続く)
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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