【19】連載「文字史料と図像史料」

 短期間の滞在で一定の成果を得るには、文献史料の利用効率を高めることが鍵になる。所蔵機関を特定して文献史料を絞り込めば、その次はモノの史料の現場確認である。

 「西から東への影響」は、研究テーマ「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」の中心課題で、その解明に必要なものはほとんどが文献史料である。文献史料には、文字史料(統計を含む)と図像史料(地図、版画、写真、絵画等)があり、図像は端的に視覚に訴える重要な史料であるが、文字史料による補填が必要となる。

 文献史料を発見できるか否かは着想いかんで決まるため、母語か否かは二次的問題である。とは言うものの同じテーマであれば、英語を母語とする研究者に対して明らかに差がつく。古い新聞の見出しのニュアンスや背景の判読スピードにも圧倒的な差が出る。42歳、運転や史料解読に目の疲れを感じるようにもなり、車・鉄道・バスの使い分けを考え始めた。

 そこに刷り上がったばかりの拙著『紀行随想 東洋の近代』(朝日新聞社 1977年10月)が送られてきた。幸いにも本書は読売・朝日・毎日の三紙で好意的な書評が出たらしく、編集者の笠坊乙彦さんから「これを三冠王と呼んでいます」という添え書きがあった。

 その1つ、朝日新聞の1977年10月31日付けの書評に、「…中国研究者として知られ、ヒントンの『翻身』その他の翻訳もある著者は、東南アジアへの旅によって…アジアの全体像に挑戦しているようにみえる。まことに貴重な努力であるとともに、アジアへの思考を刺激せずにはおかない」。

 ついで「どれ一つをとっても長大な論文を必要とするテーマである。それでいて読みづらいとか、固くてこまるとかいったところはない。…問題の意味を十分に知り、自分のものとしていなければ、できることではない。それに筆が実にやわらかい。…」とある。私は発奮した。

 本書には問題提起したままフォローしていない課題がいくつもある。着想だけが示され、実証が伴っていない課題と言い換えても良い。そのどれかに焦点を絞り、実証を進めよう。

 本書の「2 植民地支配の技術」では、ポルトガル・スペインによる統治時代がオランダ時代へ、さらにイギリス時代へと進むことと、それぞれの統治方式の差異を大まかに述べたが、イギリスの植民地統治の論理と実体の一部でも明らかにできないか。

 超大国イギリスのインド植民地化と、中国に対するアヘン戦争及びそれ以降の中国に対する支配方式は明らかに違う。幕末期の日本への対応はさらに異なる。イギリスのアジア諸国に対するこのような差はどこから生じるのか。本国からの距離による側面(軍事面のシーレーンの長短等)も確かにあるとはいえ、それだけでは説明しにくい。

 横浜開港直前の1859年3月1日付けで、初のイギリス駐日総領事に任命されたR・オールコックは、中国在勤が15年と長く、1944年に福州領事、46~55年には上海領事として辣腕を振るい、市場開拓のための「再戦論」を主張、これが第2次アヘン戦争(1856~60年)の遠因となった。

 だが日本に対してはアメリカの後塵を拝し、最恵国待遇を主張して「二番手」の条約を結んだ制約もあり、強硬な政策展開をしなかった。日本国内を広く旅行し、収集した工芸品をロンドン万博(1862年開催)に出品、また外国人として初の霊山富士に登り感激するなど、親日家として振る舞う。

 日本はアメリカとの間で開国・開港をソフトランディングさせ(1854年の日米和親条約と1858年の日米修好通商条約)、1859年、横浜開港を迎える。この開港場をめぐって、米公使ハリスは神奈川宿に築港を主張、幕府は4キロ離れた横浜村に築造した外国人居留地と港を主張して対立、ハリスは最後まで横浜港に上陸せず、公使館を神奈川から江戸(麻布)へ移した。

 最初に横浜港を訪れた外交官がオールコックにほかならない。彼は横浜の良港ぶりに驚く。そして外国人居留地に商社を構えたイギリス貿易商の要望に応えて横浜港を黙認、一方で、外交的な配慮から神奈川宿の浄瀧寺に領事館を置いた(公使館は江戸高輪の東漸寺)。

 その後、生麦事件に端を発する薩英戦争(1863年8月)や、長州藩による下関海峡封鎖に抗議する四国連合艦隊(英・仏・蘭・米)の砲台攻撃(1864年7月)がつづくなか、南北戦争(1861~65年)に突入したアメリカが外交舞台から遠のくと、イギリスはフランスと拮抗しつつ対日外交の主導権を握る。

 明治政府はイギリス協調路線をとった。そして1894(明治27)年に日英通商航海条約を締結して治外法権を撤廃すると同時に、イギリスを暗黙の同盟者として日清戦争(1894~95年)に勝利し、台湾を割譲して植民地化した。お雇い外国人からイギリスの植民地支配の手法と技術を学び、その応用編を台湾で実施する。その一部については拙稿「学問と植民地支配にかんする覚書」『東洋文化研究所紀要』1971年3月)に収めた。

 イギリスの植民地支配にどう踏みこむか模索していた時、アヘン戦争(1839~42年)直後のイギリス支配を描く一つのポンチ絵に出合った。イギリスを頭脳、インドを胴体とし、伸ばした腕の肘がシンガポール、手首が香港島、5本の指が上海・広州等の五港開港場を押さえている。インドとシンガポール・香港は直轄植民地であり、上海ほか五港は南京条約(1842年)で獲得した租界(居留地)である。

 このポンチ絵には妙に納得力があり、これを文字史料で裏付けようと思った。文字史料のなかで経年的にほぼ同一基準の史料と言えば貿易統計である。これはイギリス議会文書(British Parliamentary Papers、略称BPP) のなかにある。政府が議会に提出した資料であり、議院内閣制の国ではとくに信頼性が高い。

 この貿易統計を集中的に精査し、まず貿易の骨格から突き止める。17世紀に始まる中国産紅茶のイギリスへの輸入急増の実態を把握すれば、これを突破口として、イギリスを中心とする世界貿易の全体像が描けるのではないか。(続く) 
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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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