原三溪と本牧のまちづくり

 寒暖差の激しい日々がつづくなか、前日の異常低温がうそのような小春日和の2016年11月12日(土曜)、午後1時半から3時間、原三溪市民研究会の第3回シンポジウム「原三溪と本牧のまちづくり-過去と現在の対話」が横浜美術館の円形フォーラム(定員100名)で行われ、満席となった。その記録を簡単にまとめておきたい。

 原三溪市民研究会とは、名著『開港と生糸貿易』(1939年刊)の著者・藤本實也さんが書き残した稿本(下書き、副本)を1979年に実見していた内海孝さん(本日の基調講演者、東京外国語大学名誉教授)を講師に迎え、脱稿から60余年を経た2007年9月、三溪園保勝会と横浜市芸術文化振興財団が、稿本(正本)の公刊を目的として発足させた組織「原三溪市民研究会」に端を発する。

 そもそもの稿本「原三溪翁伝」とは、三溪没(1939年)4年後の1943年、横浜経済界を代表する井坂孝、有吉忠一、中村房次郎、野村洋三の4氏が三溪の「伝記」を編纂する<発企人>となり、その編纂主任として藤本さんに委嘱、1945年8月16日に脱稿したものである(『原三溪翁伝』思文閣出版、2009年11月、内海さんと猿渡紀代子さんによる解説を参照)。

 同研究会は、出版の翌2010年4月から市民を主体とする団体として体制を整え、廣島亨さんを会長として再出発した。シンポジウムの配布物「原三溪市民研究会」(以下、本会と呼ぶ)によると、「三溪を学ぶ、三溪に学ぶ」を基本姿勢として、毎月第2土曜に定例会(漢詩等三溪作品の解読を含む)を開催、スタディ-ツア-を組んで三溪ゆかりの地の訪問・調査を行ってきた。これまで箱根・小田原、岐阜、埼玉、伊豆長岡、茨城県五浦、京都、鎌倉を訪問している。また『五周年記念誌2010-2014』(A4×114ページ)と年2回発行の会報がある。

 その第1回シンポジウムのテーマは「富岡製糸場と横浜の原三溪-36年間の経営と継承」(2014年10月)。富岡製糸場の世界文化遺産登録に関連して、官営工場として誕生、三井に払い下げられ、ついで1902(明治35)年から1938(昭和13)年まで原三溪の経営にかかる、その発展期を中心に論じた。

 第2回は「原三溪と矢代幸雄-二人は美術を通して何を実現しようとしたのか」(2015年11月)。新しく発見された矢代宛の三溪書簡(神奈川県立近代美術館・葉山に寄託中)をめぐり、二人の美術を通じた交流と理念を論じた。

 今回の第3回シンポジウム「原三溪と本牧のまちづくり-過去と現在の対話」は、速水美智子さん(本会事務局次長)が総合司会。第1部は内海さん(上述、本会顧問)の基調講演「善三郎の着眼と富太郎の本牧」、第2部は猿渡さん(上述、本会顧問)をコーディネーターに、5人のパネリストによるフォーラム「これからの本牧のまちづくり―課題と展望を考える」である。

 配布資料は、それぞれの発言要旨(A4×4ページ)、藤嶋俊會さん(本会副会長)文責による本シンポジウム用「関係年表」(A4×3ページ)、原合名会社地所部の「賃地、賃家広告」(『横浜貿易新報』紙の明治45年1月24日より)の概要を記したコピー、本牧ハローカフェ「文豪たちと本牧を歩こう!」、それにアンケート用紙である。

 うち「関係年表」は重要事項をよく精選抜粋している。なお1854年の日米和親条約調印の項に調印場所の横浜村を加え、さらに三溪園が国指定名勝となった2007(平成19)年の項を立て、「…(近世以前の象徴主義から脱却した)近代の自然主義に基づく風景式庭園」として、世界無二の芸術性を評価されたことにも言及すると、今後の議論に役立つのではないか。

 内海さんの講演「善三郎の着眼と富太郎の本牧」(1時間)は、その発言要旨に①「江戸時代の本牧」から⑩「富太郎にとって本牧とは」まで10項目が掲げられ、原善三郎とその孫娘屋寿と結婚した青木富太郎(のちの原三溪)にとっての本牧三之谷に広く焦点を当てる予定であったと推測される。しかし②「海から見る本牧」、③「本牧三之谷の地勢」あたり、善三郎の話題に入る前の興味深い内容が語られたところで、時間切れとなってしまった。

 ただ藤本實也『原三溪翁伝』とは異なる視点から本牧の歴史と三溪像を描きたいとする、内海さんの髙い志が伝わってきた。歴史作品の完成には時間がかかる。今後も存分に進められるよう期待したい。

 休憩中、今回のシンポジウムの前に有志が本牧を歩いた写真が放映され、本会の旺盛な好奇心とフットワークの良い「現場主義」が見て取れた。

 ついで第2部「これからの本牧のまちづくり―課題と展望を考える」では、5人のパネリストが、それぞれ10分のコンパクトな報告を行った。

(1) 石田良男(本牧4南元気なまち運営委員会副会長)「まちづくり活動には、実現したいユメと推進役が必要」⇒中区にある12の連合町内会の1つ、本牧4南の実践報告で、標題の通り、まちづくりのソフト面に焦点を当て、接収解除(1982年の米軍住宅地区返還)後の新本牧地区の人口増、大型店舗の出現、少子高齢化に対処する「元気づくり推進協議会」の実践活動を総括した。

(2) 伊波新之助(元朝日新聞編集委員)「江戸、明治、昭和の本牧」⇒北条早雲の文書(1512年)「本目四ケ村」に本牧村、磯子村、本郷村、横浜村とあることに触れ、半農半漁の村としてナマコの髙い漁獲量(乾燥させて長崎から中国へ輸出)、ついで開港以降の本牧の変遷について、1901(明治34)年の横浜市第1次市域拡張による市域編入、1911(明治44)年の横浜電気鉄道本牧線の開通(のち1921年に市電)、そして画家や文豪が住むようになった「文化村」の様相等を通して語った。

(3) 大谷貞雄(本会会員、中区歴史保存会会長)「写真で見る本牧の歴史」(仮題)⇒本牧三之谷で不動産業を営む大谷さんの名刺に「百年前のご自宅お調べできます」とある通り、中区とくに本牧の宅地・建物・住環境の歴史的変化をきわめて具体的に掌握し、その写真の一部を放映した。なお多くの写真類が大谷不動産の店内に展示されているという。

(4) 小島淳(本会会員)「鉄道開通と本牧の宅地造成」⇒本シンポジウムのチラシに、明治末から大正初めの本牧原全景の写真と、それを同じ角度から撮影した現在の写真の2葉が載っている。収集した古写真(絵はがき+写真集)と現況撮影をツールとして、「鉄道開通と本牧の宅地造成」を実証的に明らかにした。鉄道と宅地開発を示す『新線写真帳』(明治44年、横浜電気鉄道製作)にある「箕輪下停留所付近」「宮原停留所」「本牧原終点」や『横浜空中写真』(大正11年)、また開港(1859年)に伴い造られた「外国人遊歩道」や鉄道等との関係も興味深い。

(5) 佐々木雄大(横浜国立大学准教授)「都市庭園としての新たな価値の創出への展望」(スライドに付された題名)⇒人間生活の豊かさは生態系の恵みに支えられているとし、横浜全域に約3700あった谷戸(やと、丘陵地が侵食され、谷間と台地で構成される地形)が都市開発に伴い急速に消失してきた現在(横浜市環境創造局HP「谷戸のまち横浜」)、それを維持している三溪園一帯をどう活かすか、「緑地の生態学」の観点から語った。

 さらに猿渡さんがパネリストに言い残した点の補足とパネリスト相互の質疑応答を巧みに促す。それぞれの発言は短時間ながら論点を的確に突いており、補足により発言趣旨がさらに明確になった。

ついでフロアーから意見が出たが、うち2例を紹介する。

(1) 根岸湾海面埋立事業(1959年~)により三溪園の南海岸が精油工場と化したが、エネルギー需給の転換と産油国での精製により、そろそろ役目を終える時期に来ている。加えて大型客船がいっそうの大型化を進めベイブリッジを通過しにくい状況になっている現在、本牧埠頭(1969年竣工)の新たな有効利用を視野に入れるべきではないか。

(2) 三溪園の草花や樹木については、十分な調査がないまま無残に刈り取られるものがあり、一方で無用な草花が侵入している。対策が必要ではないか。

 ほぼ定刻通りに廣島会長が閉会の挨拶を行い、「三溪園を有する本牧独特のまちづくり」への展望が開けたという趣旨のまとめがなされた。

 善三郎から三溪へ、そして三溪園へと至る「三溪を学ぶ、三溪から学ぶ」本会の活動が、「三溪園を活かす本牧のまちづくり」へ、さらに三溪園を通じて「日本文化を世界へ発信する」(公益財団法人三溪園の定款に掲げる目的の第3)方向へと拡がりつつある印象を抱いた。


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プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
園長

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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