天保薪水供与令へ
1842年8月28日、幕府(老中は水野忠邦)は、唐風説記(とうふうせつがき、中国語のニュース)と和蘭(オランダ)別段風説書(オランダべつだんふうせつがき、それまでのオランダ風説書に対してアヘン戦争に特化した風説書を<別段風説書>と名づけた)の2系統の海外ニュースを通じてアヘン戦争の情報を収集・分析、それまでの異国船無二念打払令(1825年発令、渡来する異国船を有無を言わずに打払う対応。元号を使い文政令ともいう)を撤回し、天保薪水供与令(渡来する異国船に薪水を供与して送還する穏便な政策)に切り替えた。
その過程については、2022年9月24日(土曜)、青山学院大学総合研究所シンポジウム「オランダ別段風説書にみるグローバリゼーション-19世紀の世界と日本-」の第一部 特別講演 加藤祐三 「アヘン戦争と日本の開国」を行い、その概要を約2週間後の本ブログ10月4日掲載の「アヘン戦争と日本の開国」で述べた。
このときの講演レジメが下記のものである。

鎖国下で外国へ取材に行くことなど不可能な時代、長崎に入る2種のアヘン戦争情報、すなわち「唐風説記(とうふうせつがき)」と「和蘭(オランダ)別段風説書(オランダべつだんふうせつがき)」を収集・分析することを通じて、幕府が従来の対外政策を改め、天保薪水(供与)令を決めるまでの過程を明らかにしたい。
そのうえでイギリスのアヘン政策(ベンガル・アヘンの専売制、イギリス国内のアヘン野放しの状況等々)や清朝中国とのアヘン戦争(第一次アヘン戦争 1839~42年)やアロー号事件に始まる第二次アヘン戦争(1858~60年)等について言及したい。
【連載「黒船前後の世界」(『思想』誌)】
前著『イギリスとアジア』 (岩波新書 1980年)で書き残した幕末日本のアヘン問題を、もう少し踏み込もうと思った。19世紀アジア三角貿易から幕末日本のアヘン問題へ、そして開国・開港をめぐる条約交渉へ、さらに外交と戦争の国際政治へと関心が拡がるにつれて、これらを統合した歴史を描くことに思いが向かった。
幕末の開国・開港を描いた日本史の先行研究で主に参照したのは、石井孝『日本開国史』 (1972年)である。条約の日中比較を具体的に論じる時にも大いに活用した。しかし日本史の側からだけでは、使う史料の制約から、どうしても欠落する視点が出てくる。
日本の開国・開港の最初の相手国はアメリカである。国際法上の<最恵国待遇>の原理により、最初の条約国が後続の国より優位に立つ。その解明には日米双方の史料を対等に使うと同時に、「日本史のなかの開国・開港」を超えて、「世界史のなかの日本の開国・開港」に分け入らなければならない。
アジア諸国に先行したのはイギリスであり、アヘン戦争(1839~42年)や、その後も戦争を軸に進んだ中英関係を知る必要がある。それにはイギリス側や中国側の史料も必要となる。
幕府の対外政策や日本人の世界観も、アヘン戦争を機に大きく変わっている。
そのころ『思想』誌(岩波書店)の編集長・合庭淳さんが雑誌連載を勧めてくれた。有り難い話だが、連載を始めるには全体像を持ち、ある程度の書き溜めが要る。模索する中で、題名が決まった。ヒントは日本史家・服部之総の『黒船前後』(1933 年)である。本書は黒船到来によって大きく変わる日本を描いている。それなら私は黒船前後に大きく変わる「世界」を描こうと思い、「黒船前後の世界」とした。その瞬間、全体のイメージが浮かんだ。
連載の第1回は「ペリー艦隊の来航」とした。1853年7月8日、浦賀沖に姿を現した4隻のペリー艦隊との緊迫した初の接触、さまざまな要因が凝縮するこの時を、歴史の大きな転換点と考えたからである。
日本側の動向を示す先行研究には田保橋潔『近代日本外国関係史』(1930年、増補版 1943年)等がある。一次史料は、東京大学史料編纂所編『大日本古文書』シリーズ内の『幕末外交関係文書』にあり、1853年のペリー来航から翌年の日米和親条約の締結に関係する文書は、その一から五まで(1910~14年刊)に収められ、附録(1913年~刊行) にも本編の補遺に当たる貴重な史料がふくまれる。
ペリー艦隊来航以前の異国船到来については、幕府の『通航一覧』や『通航一覧続輯』 等に詳細な記録がある。<異国船>とは、長崎への定期的な往来を認めたオランダ商船と中国商船以外の国の船を指す。異国船対応令(対外令)は、上掲の講演概要「アヘン戦争と日本開国」左欄の略年表(の左欄「日本」)に見られる通り、4回発令されており、ペリー来航時は4回目の穏健な天保薪水令(1842年)下にあった。
【アメリカ議会文書】
一方、ペリー艦隊の浦賀沖の動きを知るには、『ペリー提督日本遠征記 上 下』(アメリカ議会上院文書、1856年)がある(角川ソフィア文庫、2014年版が得やすい)。その解説を私が書いている。ところが、その背後の、ペリー派遣に至る諸事情については本書だけでは十分でない。通常は国務省所管の条約締結を、なぜ海軍省所管のペリー東インド艦隊司令長官に担わせたのか、また太平洋横断の航路を取らず、大西洋から喜望峰を回り、インド洋、中国海域を経るという最長の航路を取ったのはなぜか、等々も明らかにしておきたい。
アメリカ側のいちばんの基本史料は、膨大な量のアメリカ議会文書(上院と下院)である。『遠征記』以外の議会文書は、まだ日本の図書館に入っていなかった。さらに国務省や海軍省等の文書類は、ワシントンDCの国立公文書館に所蔵されている。
膨大な資料を見るにはアメリカへ行くしかない、と決めかけた頃、先輩の太田勝洪さん(国会図書館勤務、のち法政大学教授)から朗報が入った。国会図書館がアメリカ議会文書を一括購入し、閲覧に供するという。何という幸運か。膨大な資料を検索するための CIS という索引(単行本)もアメリカでは刊行されていた。
こうして国会図書館通いが始まった。史料を読み進めるうちに新たな世界が拡がる。大規模艦隊を組むはずの船が揃わず苛立つペリー、発砲厳禁の重い大統領命令、中国海域に到着後に起きる海軍省管轄下のペリーと国務省管轄下のマーシャル弁務官との確執等、ペリー艦隊の行動を縛る諸事情も浮かび上がってきた。
これらの新しいアメリカ側史料で、「(一) ペリー艦隊の来航」、「(二)ペリー派遣の背景」、「(三)ペリー周辺の人びと」と書き進め、アヘン戦争以降の東アジア情勢はイギリス側史料と中国側史料をつきあわせて「(四)香港植民地の形成」、「(五)上海居留地の成長」と展開、そして翌1854年の幕府とペリーとの交渉、その先に「日本開国」……ここまでの見通しをつけて「黒船前後の世界」の『思想』誌連載に踏み出した。
【連載(七)「経験と風説-モリソン号事件とアヘン戦争情報」】
連載「黒船前後の世界」の(七)「経験と風説-モリソン号事件とアヘン戦争情報」 が「日本開国」に関する最初の論考である。冒頭に結論めいた一文を置く。
「幕府は長崎で収集したオランダ商船と中国商船が伝えるアヘン戦争情報(風説書)を読み解き、これにモリソン号打払い事件(1837年)という<経験>を結びつけた。 それにより強硬な文政令(異国船無二念打払令)から穏健な天保薪水令(供与令)に政策変更する経緯を解明した。」と。
この政策変更は老中・水野忠邦ら幕閣のトップレベルの措置であり、江戸では泰平の世さながらに朝顔づくりが流行し、俗謡の都々逸が武士や町人を魅了、貸本屋の「読本」(よみほん)が争うように読まれていた。
連載(七)の1節は、英中双方の史料を用い、アヘン戦争の発端となる地域的軍事衝突(1839年 9月4日)から南京条約締結(1842年8月29日)までの概要をまとめた。
2節は、イギリス派遣軍のカントン沖集結を皮切りにアヘン戦争の経過を次の4期に分けて概観する。
(1)1840年6月~11月、イギリス軍の北方沿海部の攪乱と華中の長江下流域の封鎖
(2)1840年11月~41年8月の広東戦争
(3)1841年8月~42年5月、華中の寧波、鎮海、定海を中心とする攻防
(4)1842年5月~8月、イギリス軍の長江遡航、大運河と交差する鎮江=揚州を越えて食糧運搬の水運を封鎖、南京(明代の首都)に迫り、南京条約締結に到る。
つづく3節ではイギリス派遣軍の具体的な作戦展開を述べる。
4節と5節は、アヘン戦争の展開を、幕府は、いつ、どのように収集したかがテーマである。小西四郎、森睦彦、片桐一男等の先行研究と、民間に流布した写本(『阿片類集』、 『阿芙蓉彙聞』等)を整理し、中国商船がもたらす唐風説書(唐①等と表記、和解(和訳)のみも含む)とオランダ商船のもたらす情報(蘭①等と表記する和蘭風説書と和蘭別段風説書)を一覧した。
すなわち(1)最初の情報である1839年8月入手の蘭①と1840年7月入手の蘭 ②、 (2)1840年夏のほぼ同時に入手した唐①と蘭③の情報、(3)唯一の情報源となった唐②(1840年秋までの状況)と唐⑦(1841年末までの状況)の情報、これら3期の情報から幕閣が把握した戦況を検討した。
鎖国により海外渡航はできず、風説書だけを頼りに、周到かつ多角的に検討し、情勢判断に努める幕閣の動きが窺える。加藤周一のいう<命題論理学>の手法を使い、同じ事件に関するある命題(情報)と他の命題(情報)を比べて、論理矛盾のないもの(あるいは少ないもの)を<より正しい>とする手法である。
上掲(1)で蘭①はアヘン厳禁という清朝政府の政策に理があるとしたが、翌年の蘭②はイギリスが「仇を報んがため」に出兵したと述べる。戦争の正義・正統性が大きく転換され、幕閣はイギリス側に出兵理由があるのかと驚く。
6節は上掲(2)1840年夏に入手した唐①と蘭③の比較検討に充てる。中国船情報は戦場での目撃情報に官報の一部等を含む。オランダ船情報の情報源はカントン、シンガポールなどの英字紙誌であり、これらをバタビア(オランダ総督府の置かれた植民地インドネシアの首都)で編集、オランダ語に翻訳したものである。
うち1831年創刊の月刊誌”Chinese Repository”はとくに信頼性が高い。とりわけ編集に当たったイギリス人宣教師R・モリソン、アメリカ人宣教師E・C・ブリッジマンやS・W・ウィリアムズが重要である。モリソンは1807年にカントンに渡って中国語・中国情勢の研究に励み、” A Dictionary of the Chinese Language”(1815~1822)を上梓した。ブリッジマンは米清望厦条約(1844年)の通訳を担い、またウィリアムズは後にペリーに随行して来日する。
【戦況を冷徹に語るオランダ語情報(和蘭別段風説書)】
これら英文紙誌の編集・蘭訳は、アヘン禍問題やアヘン戦争の「正義」の所在には深入りせず、戦況情報を優先する。第1の交戦事件(1839年9月4日、英艦ボラージュ号の中国船への発砲)、第2の交戦事件(1839年9月12日、清朝砲台からスペイン船をアヘン貯蔵船と誤認・発砲)、第3の交戦事件(1839年11月3日、英艦ロイヤルサクソン号がカントン湾を遡航して清朝官船へ発砲)を列挙、「唐人敗北したり」や「…1艘は空虚に打ちとばされ…」等でイギリス側の圧倒的優位を伝える。
これらの艦船はイギリス派遣軍到着前の、イギリス貿易監督官付きの軍艦であり、つづく大部隊のイギリス派遣軍到着後の和蘭別段風説書を解読する前提となる。
7節は、これらの情報が幕閣に与えた影響について述べる。唐①はアヘンについて、当初、イギリスが紅茶等の対価として中国へ輸出、貴賤を問わず服用者が増大、諸外国の商人でアヘン貿易にかかわらない者はおらず、「現在は金銀をもって公然と売買し、怪しむべきことにただ口腹の利益をむさぼるのみで、生命を害するの恐るべきことを顧みない。アヘンを用いる者は徐々に憔悴し、ついにその生命をそこなう…」と伝える。
そして銀流出に伴う財政危機論とアヘン害毒論の2点をめぐり、アヘン厳禁派の林則徐の上奏(1833年)、黄爵滋の上奏(1835年)、さらにアヘン弛禁派の許乃済の上奏 (1836年)、黄爵滋の上奏(1838年)を経て、林則徐のアヘン没収(2万箱余、一箱あたり銀3600両)に到る経緯を伝える。
これを読んだ幕閣は、正義は清朝側にあるものの、軍事力では中国側に勝ち目があるとは言えないと判断した可能性が高い。
【制海権を握ったイギリス海軍】
8節は、1840年秋までを扱う唐②と、一年後の1841年末までを扱う唐⑥から幕閣が戦況をどう読みとったかの解析である。この間、和蘭別段風説書の舶来はなく、唐風説書が唯一の情報源であった。
イギリス派遣軍が植民地インドのセポイ(イギリス東インド会社のインド人傭兵)を率いてカントン沖に到着する1840年6月からの戦争情報は、3段階に分けられる。
第一段階ではカントン到着後のイギリス派遣軍が間を置かず北上して華中の定海と華北の白河入口を占領(1840年6月~11月)
第二段階は1840年11月から41年8月にかけてカントン近辺に戦力を集中
第三段階は1841年8月から翌1842年8月まで戦場を華中へと展開し、長江(揚子江) と大運河の交差する水運の要所を抑え、南京条約の締結に追い込む。
第一段階の唐②は、1840年7月5日の交戦に触れ、寧波沖に「尹夷(イギリス)船七十八艘到来」、交戦のすえ「舟山定海県の総兵官(指揮官)は戦死、知県(県知事)は驚愕極まり入水自死、居民は四散逃亡…」と述べる。
第二段階の唐④は、「…いまにいたるも定海県は港をふさがれ、その地の人民はともに貿易の便路を失い、次第に離散…」と、イギリス艦隊による封鎖を明らかにし、「広東には新たにイギリス軍百余艘の噂…」とも記す。
9節では、1840年秋から41年春までの戦況を伝える唐⑤と、1842年2月に入手した唐⑦が伝える第三段階の情報に触れ、「…イギリスは軍艦を広東外洋の香港等に移して停泊、あるいは鎮海、寧波、定海等の一帯、二、三百里の洋面を遊弋…」と記す点に注目した。
制海権をイギリス艦隊が掌握との情報に、海外書生と名乗る日本人が清朝官僚に成り代わって、「平夷説」、「平夷論」の2編の上奏文を発表した(『阿芙蓉彙聞』所収)。清国の敗因は「陸地の砲台からの応戦にすぎなかったことにあり、それも命中率がきわめて悪く、海戦はすべて小舟によるもの。戦艦をつくり兵士をきたえ、外洋に出て戦うことをしなかった」と分析し、今後、中国の6大港に110人乗りの大型戦艦140隻編成の大軍団を作るべしと展開する。裏を返せば、幕府の鎖国政策への批判でもある。
【モリソン号事件と<蛮社の獄>】
10節は、幕府の対外令が1791年の寛政令(薪水供与)、1806年の文化令(薪水供与の枠の拡大)、1825年の文政令(異国船無二念打払令)と変化してきたことを整理し、その上で1837年に浦賀来航のアメリカ船モリソン号(船名をイギリス人モリソンと結びつけイギリス船と誤解した)を文政令に従って打払った事件、および翌年モリソン号の目的は日本人漂流民の送還にあったと述べるオランダ風説書を契機に、高野長英、渡辺崋山などが幕政を批判し投獄・処罰された、天保10年(1839年)の言論弾圧事件<蛮社の獄>の経緯を述べる。
【江戸湾の封鎖を想定し、天保薪水供与令へ】
11節と12節では、第一にモリソン号事件と<蛮社の獄>を追いかけるように届いたアヘン戦争情報により、イギリス脅威論がどのように増幅されたか、第二に鎖国以来の幕府の対外政策にどのような修正を迫ったかについて、田保橋潔や井野辺茂雄等の先行研究を整理する。
老中水野の諮問に対して、評定所答申は打払令の継続であった。一方、林大学頭の答申は穏健な文化令への復帰であり、両者は対立する。
13節は、イギリスが日本と中国等をどのように見ているかという点から水戸の徳川斉昭の臣下の上書を取り上げた。すなわち清国は大国で、朝鮮・琉球等は小国ゆえ、イギリスは第一に日本を狙うはずであり、邪教・蘭学を禁じ、さらには日本も大型船の製造禁止を解いて海難を避け、蝦夷地の開拓に本腰を入れるべしと主張する。対外強硬派が、鎖国の柱である大型船製造の解禁に言及している点に注目したい。
水野はアヘン戦争情報の分析から、強大なイギリス艦隊にとって江戸湾の封鎖、物流の阻止はごく容易であろうと考えた。加えて、非武装のモリソン号の来航目的を知った以上、文政令(異国船無二念打払令)の継続は無策と判断、隣国のアヘン戦争を「自国之戒」 として穏健な文化令(薪水供与令)に復した。これが天保薪水令であり、南京条約締結(1842年8月29日)の1日前であった。
【アヘンはどこから来たか】
この問題を語るには、まず
① 19世紀アジア三角貿易
② 英植民地インドのアヘン生産と輸出の140年
を明らかにしなければならない。
いまもなおイギリス人を魅惑する紅茶の中国からの輸入統計のグラフ作成から始めた。貿易統計を集計するうちに品種別の推移が分かってきた。一方、紅茶の淹れ方は、煮沸した湯を注ぎ、ポットに布をかけて蒸らす。産業革命で工場近くに集住した労働者にとって、汚染した水の煮沸は必然であった。
そのうえで「19世紀のアジア三角貿易-統計による序論」(『横浜市立大学論叢』30巻、遠山茂樹教授退官記念号)を発表した。統計分析を主とし、紅茶、アヘン、綿製品の3章に分けて論じた。末尾に掲げた以下の3表は、いまでも貴重なデータである。
第1表「紅茶・アヘン・綿製品 1815~1898年」
第2表「インドの主要輸出-アヘン・原綿・綿糸 1815~1899年」
第3表「中国の主要輸出入 1860~1900年」
本稿を読み直すと、第1表で紅茶・アヘン・綿製品の3大商品をまとめ、第2表でインド産アヘンの輸出統計の詳細を載せ(以上はイギリス議会文書から)、第3表では中国側の海関統計を基に上海を主とする開港場の輸出入合計を明らかにしている。
『道』誌連載の第5回(1979年5月号)に「アジア三角貿易」(1880年)の概念図を掲載したが、このころ紅茶・アヘン・綿製品の3大商品による、イギリス・インド・中国を結ぶ「19世紀アジア三角貿易」の統計を正確に把握できていた。
【英植民地インドのアヘン生産と輸出の140年】
アヘン問題の重要性に気づいたのは、「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」を総合テーマとする在外研究でイギリスへ渡ってリーズ市に拠点を置き、しばらく経った1978年ころである(「史観と体験をめぐって」&「著作目録」。横浜市立大学論叢人文科学系列第54号「加藤祐三教授退官記念号」2003年所収)。
リーズ大学図書館における基礎作業のおかげで、①19世紀アジア三角貿易に次いで、次第に植民地インドで専売制によりつくられるアヘンの実態と年次変化がわかってきた。その成果物が拙著『イギリスとアジアー近代史の原画』(1980年 岩波新書)所収の「図12 インド産アヘンの140年」(同書136~137ページ)である。この一部を冒頭の講演レジメの右欄下に再掲した。
【アヘンとは?】
そもそもアヘンはどのように作るのか。
ケシの成長した子房がまだ青いうちに表面に傷をつける。滲み出した白濁色の液が太陽光で茶褐色に固まると、ピンセットのような道具で集めて、子供の頭ほどの大きさに丸め、陰干しする。この状態をクロと呼び、水に入れて煮沸したのち底に残るものをシロと呼んだ。
アヘンの摂取法は3通りあった。アルコールに溶かし、薬剤として売る。イギリスではゴッドフレイ・コーディアル(強心剤)という商品が有名で、制止する法律がなかったため、猛烈に売れた。これが<飲む>方法である。中国では煙にしてパイプで<吸う>方法が流行した。そして主要産地のインドのベンガル地方では、生産したクロを丸めて飲みこんだ。
アヘンの主成分であるモルヒネは最強の鎮痛剤であり、医療には不可欠であるが、売れれば売れるほど良いとして野放しにすれば麻薬となる。社会的管理が必要な物質である。
そのために右下に図12「インド産アヘンの140年」を掲げた。これだけでは分かりにくいが、140年間にわたるインド産アヘンの輸出額等を線グラフで図示したもの。輸出先は中国にとどまらず、シンガポール(英植民地)やインドネシア(オランダ植民地)等を含む。これらのアヘンは植民地政府が独占的に輸入し、国内のアヘン業者に高く売り、その差額を財政収入の一つとした。
アヘン戦争はアヘンを排斥しようとする清朝政府とアヘンを売り込もうとするイギリスとの戦争である。アヘン戦争は歴史用語として広く知られるが、その原因となったアヘンや戦争の結果として結ばれた南京条約の具体的内容に関しては意外に知られていない。
清朝中国がアヘン戦争に敗北し、<敗戦条約>の南京条約は、南京近くの長江上に停泊したイギリス海軍戦列艦コーンウォリス艦上で、イギリス全権代表ポッティンジャーと清国全権代表の欽差大臣、耆英によって締結された。その主な内容は、①香港島割譲、②賠償金2,100万$を四年分割での支払い、③広州、福州、廈門、寧波、上海の5港開港、④公行の廃止による貿易完全自由化である。なおアヘン貿易についての言及はなく、「公然の密輸」状態となった。
【インド産アヘンの中国への輸出】
インド産アヘンを中国等へ運搬する大砲を備えた快速船が活躍。その先の中国沿海部にアヘン貯蔵船を係留し、運び入れる。そこからは小舟で陸揚げした。
実線がインド産アヘンの中国への輸出額(約64キロ入りの箱数)である。1839年の林則徐によるアヘ没収・焼却措置により急落するが、アヘン戦争中に増え始め、1858年の天津条約によるアヘン貿易合法化を契機に急上昇する。ピークに達するのが1880(明治13)年で、それ以降、減少はするものの、なお20世紀に至るまでつづき、終了するのが国際アヘン会議(1909~1914年)の決議による1914(大正3)年である。
これだけ長期にわたって大規模に進められたインド産アヘンの東方への輸出が、なぜ日本へは及ばなかったのか? 日本は圏外にあったのか? では、なぜか?
この疑問に答えるには、日本の開国に取り組む以外に手はないと思った。
【イギリスで野放しのアヘン】
アヘン貿易の史料探しに頭を痛め、”The Times” 紙索引で「アヘン」を検索していると、19世紀のイギリス国内でアヘン・チンキ(アルコールに溶かした飲用アヘン)の服用が異常に流行し、その薬害を指摘する記事がしばしば出てくる。ゴッドフリー強心剤という商品がよく売れ、泣く子に飲ませる記事(1844年頃)もある。
さらに『嵐が丘』の筆者エミリー・ブロンテの弟もアヘン中毒患者で、姉妹と弟を描いた絵から弟の姿が消されていたのを、ブロンテ記念館で見た。
ロマン派の作家ド・キンシーに『アヘン常用者の告白』(1821年発表)という著名な作品がある。イギリス国内でこれほどアヘンが野放しであるとは、予想外の驚きであった。もともとは風土病の痛みに対する鎮痛剤として主に農村地方で使われたという。イギリスの風土はケシ栽培に適していないはずで、輸入統計を調べると、イラン産とトルコ産が大量に輸入されていた。
【インド産アヘンの統計と、19世紀アジア三角貿易】
イギリス国内での「アヘン・チンキ」流行は分かったが、植民地インドで生産されるアヘンとその輸出統計が見つからない。議会文書(BPP)の辺りを歩き回って目録を引き 直しているうちに、やっと” Statement showing the Number of Chests of Opium exported from India to China, Bengal and Malwa. 1798/99-1859/60.”等の史料のあることを発見した。
初期の議会文書ではなく、1880年代に議会に提出されている。この時期、アヘン貿易反対論が議会内外で強まり、それに押されて提出されたことが後に分かった。これによると、19世紀初頭、植民地インドから中国・東南アジア等へ、アヘンと綿花の輸出が増え始める。両者がほぼ同じ割合で、合わせて紅茶輸入の約7割(価格)にあたる。時代が下るにつれてアヘン輸出の比率が高まることが、この新しい史料で分かった。バラバラに見えた二国間貿易を三国・地域間貿易として把握すると、まったく新たな構造になる。
中国産紅茶、インド産アヘン、イギリス製綿製品の三大商品による三国・地域間(インドはイギリス植民地であり、慣例では 「地域」とすべき)の貿易、すなわち「三角貿易」に発展し、これによりイギリスの貿易赤字が急減する。この構造を私は「19世紀アジア三角貿易」と命名した。
【『イギリスとアジア-近代史の原画』の発刊】
イギリスから自宅へ送った大量の史料コピーは、べニア板張りの大型紅茶箱で7箱はあり、開けてみると史料的価値の高さが改めて分かった。これらの史料とメモを駆使すれば新たな歴史書ができる、と胸が高鳴った。
ワープロやパソコンが普及する以前で、強い筆圧から来る腱鞘炎に悩まされ、鉛筆を4Bに変えて、表面の滑らかなA4サイズの縦書き原稿用紙に向かう。1979年の夏休みは執筆に専念した。能率を上げるため早朝2時に起床してすぐ執筆、11時頃までつづけると休憩を入れても8時間は確保できる。昼食後、1時間半の仮眠。午後2時に再開して夜10時まで8時間、合わせて16時間の作業がでた。
雑誌連載に加えて新たな書き下ろしを組み入れ、『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年1月)を刊行した。黄表紙版の108番。
本書は序章「点描」と「おわりに」を除くと、3部9章の構成である。
Ⅰ 「イギリス近代の風景」には、「第1章 村の生活-1790年」、「第2章 人と交通と情報」、「第3章 都市化の波」の3章が並ぶ。第1章はイングランドを中心として旅を重ねた成果を取り入れ、近代の幕開けに村の生活が変わる状況を、文書館所蔵の家計簿等から示し、第2章で交通網(道路と運河)の展開が情報を広く運ぶ状況を招来したと述べ、第3章では急激な都市化(とくに産業革命都市)による下水道整備等の及ばない過渡期の姿を描いた。
Ⅱ 「19世紀のアジア三角貿易」には、「第4章 紅茶と綿布」、「第5章 アヘン貿易」、「第6章 アヘン生産」の3章が入る、本書の核心的部分である。貿易統計を活用して、第4章では薄手のインド産綿布と厚手の中国産綿布のイギリスへの輸入から反転して産業革命の工場製綿布のインドへの輸出に代わる状況を示し、第5章では植民地インドから中国・東南アジアへのアヘンの輸出を明らかにし、イギリス・インド・中国を結ぶ19世紀アジア三角貿易の実態を明らかにした。第6章にはケシ栽培・アヘン生産の科学的実験例等を加えた。
Ⅲ 「イギリスとアジア」は、「第7章 イギリス国内のアヘン」、「第8章 パブと禁酒運動の産物=レジャー」、「第9章 イギリスとアジア」の3章が入る。第7章ではイギリス国内のアヘン消費(主にアヘンをアルコールに溶かしたアヘン・チンキの流行)の状況を述べ、第8章は近代化初期のイギリス国内の諸相(酒税歳入が40%を占める等々)と近代スポーツの誕生等を描き、第9章でイギリスのアジアとの関係やアジアに及ぼした影響に触れ、イギリスは清朝中国と戦争による激烈な出会いをしたが、日本とは「おだやかな出会い」をしたと述べる。
「あとがき」(1979年10月付け)では、中国近代史からイギリス史を見ることを中断し、イギリス近代史からアジアとの関係を考える発想の転換に至った経緯を述べ、また副題「近代史の原画」に触れて、「本書に描いた近代の姿は世界史の教科書にないものが多く、これはコピーではなくオリジナル(原画)ではあるがデッサン(原画)にとどまっているかもしれない」とも述べた。
また新書にしては長めの6ページの参考文献を付け、本文に省略形で入れた注と対応させる方式をとった。本書は広い読者を対象とする一般書として、何よりも読みやすさを心がけたが、従来の常識とかなり違う内容を含んでいるため、学術書と同様に史料の出典を示し、史料の表記に工夫をこらした。読み進めるための障害を少なくする一方、根拠を知りたい読者には参考文献に到達できる工夫である。新書にこの方式を採用したのは、本書が初めてではないかと思う。
【戦争の原因となったアヘンの生産と流通】
アヘン戦争(1839~42年)を知らない人は少なくないが、戦争の原因となったアヘンの生産と流通に関しては、中国史学界はもとより欧米でも十分な研究がなかったため、本書が初めて明らかにした事実も少なくない。毎日新聞は「私の仕事」欄(1980 年2月18日)で「イギリス国内のアヘン需要は第一次大戦中までつづき、近代日本のお手本のイギリスは大正時代に”アヘン漬けになっていた“」と驚きを表明、主題とした「19世紀アジア三角貿易」とは違う側面に注目していた。
学術誌では『史学雑誌』(1981年1月号)の新刊紹介で石井寛治さん(東京大学経済学部)は「…本書の面白さは、最近とみに豊かになったイギリス社会史の研究成果を取り込みながら、さらにオリジナルな史料に当たってゆくさいの、東洋史家たる著者の眼のつけどころである…」とし、それぞれの中心課題をⅠ部では「中国産紅茶に呪縛されたイギリス社会の構造」、Ⅱ部では「インドから中国へのアヘン輸出のピークが1880(明治13)年であること」、第Ⅲ部では「アヘン中毒とアルコール漬けの19世紀イギリスから公園とレジャーに象徴される今日のイギリス社会がいかに生まれたかの説明」と述べている。
【コンフェレンス「世界市場と幕末開港」】
前著『イギリスとアジア』のとりわけ第9章「日本のアヘン問題」で書き残した課題が最大の関心事であったが、研究を進めるにつれて、課題はさらに拡大した。1981年12月、コンファレンス「世界市場と幕末開港」が3日間にわたり開かれ、東京大学経済学部の経済史学者が中心となり企画したもので、部外者の私も招かれた。その報告書が石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』 (東京大学出版会 1982年)であり、6本の報告とそれぞれのコメント・討論を収める。
すなわち関口尚志「問題提起-開港の世界経済史」、毛利健三「報告一 ギリス資本 主義と日本開国-1850、60年代におけるイギリス産業資本のアジア展開」、楠井敏朗 「報告二 アメリカ資本主義と日本開港」、権上康男「報告三 フランス資本主義と日本開港」、加藤祐三「報告四 中国の開港と日本の開港」、石井寛治「報告五 幕末開港と外国資本」、芝原拓自「報告六 日本の開港=対応の世界史的意義」である。
このコンファレンスは10年前の1971年5月に開かれたシンポジウム「世界資本主義と開港」(この書名で1972年に学生社から刊行)やその後の著書等を受けて、「いま必要なのは単なるアイディアの開陳ではなく、実証研究の推進に裏づけられた新たな問題点の指摘…」と狙いを定めている。
私の「報告四 中国の開港と日本の開港」 (193~223ページ)は原朗氏の司会で、加納啓良氏と竹内幹敏氏によるコメントと討論(~244ページ)がつく。報告内容は、①問題の所在、②アジア三角貿易にかんする従来の研究、③統計資料について、④インド財政とアヘン収入、⑤貿易統計、⑥日本開港時の東アジア市場の6項に、コメントで⑦アヘンの持つ意味、⑧通商条約への諸段階、⑨アジア三角貿易の諸相を補足して、計9点である。
うち②は研究史の整理だが、とくに同時代人のK・マルクスが1858年に『ニューヨー ク・デイリー・トリビューン』紙に書いた4つの論文について、正確な現状分析であると同時に多くの事実誤認を含むと指摘、それを正すためには何よりも統計を正確に把握することが不可欠として、③、④.⑤によりインドのアヘン生産・貿易とアジア三角貿易を詳論した。
とくに表1「インド産アヘン-輸出量とそれに伴う植民地政府の財政収入」が行論に深く関連する。報告要旨を事前に渡してコメントを得たため、加納氏からは、植民地インドネシア政府がベンガル・アヘンを独占的に輸入して、特定の請負商人に売却、それがライセンス収入を含め税収の19%と高い比率を占め (1860年の事例)、その一部は本国へ送金されていた等の新しい知見を得ることができた。なお本書には4点の書評が出て、関心の高さが伺えた。
【「幕末開国考」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1983年)】
このころ書いたもう1つの論考が、「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸問題を中心とし て」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1983年)である。遠山茂樹館長(横浜市立大学名誉教授)は、本誌創刊によせて「…横浜という地域の考察にとどまらず …世界近代史と日本近代史との相互影響・ 相互対立の接触面を代表し…館外研究者の成果も本誌に反映させたい…」と述べる。拙稿がこの創刊号の巻頭論文となった。
本稿は論点の中心をアジア三角貿易から政治・外交史へと拡大し、日本史の領域に本格的に踏み込んだ私の初の論考である。すなわちペリーとの日米和親条約(1854年)から1858年7月29日(安政五年六月十九日)の日米修好通商条約(「安政条約」と略称)に到る外交の経緯を整理したうえで、同時代にアジア諸国が結んだ各種の条約(とくに中国が1858年に結んだ天津条約と1860年の北京条約)と比較し、安政条約のもつ不平等性は「ゆるやかで限定的」として、とくにアヘン禁輸問題に焦点を当てた。
これまで学界で話題に上らず、したがって先行論文が皆無の、幕末日本におけるアヘン問題である。モルヒネを含有するアヘンは最強の鎮痛剤であり、同時に麻薬である。鎖国中の日本では三都(江戸・京都・大坂)の漢方医が前年の使用実績を長崎奉行に報告し、会所貿易により唐船(中国商船)と蘭船(オランダ商船)に発注するという、厳しいアヘン統制を敷いていた。
【略年表の世界の欄】
冒頭に再掲した講演レジメ「アヘン戦争と日本開国」の左欄・略年表は、左が日本、右が世界である。右の世界から主な事項を幾つか抜粋し、当時の世界情勢を概観したい。
1773 英がインド植民地化、アヘン生産を開始
76 アメリカ合衆国建国(独立)
1819 英がシンガポールを植民地
39~42 アヘン戦争
42・8・29 英清南京条約⇒①香港島割譲、②賠償金2,100万$を四年分割での支払い、③広州、福州、 廈門、寧波、上海の5港開港、④公行の廃止による貿易完全自由化。なおアヘン貿易については言及せず。
44 米清望厦条約⇒米が提案してアヘン禁輸を明示。
46~48 米墨戦争(メキシコ戦争)⇒アメリカがメキシコの領土を奪った戦争。これによりカリフォルニア、ニューメキシコなどを獲得し、アメリカ合衆国の領土が太平洋岸に達した。
53~56 英露のクリミア戦争
54・3・31 日米和親条約の締結⇒発砲交戦を伴わない<交渉条約>の背景とその意義
56~60 第二次アヘン戦争
57・5 セポイ大反乱(インド)
58・6・26 英清天津条約⇒アヘン貿易を合法化(自由化)。
58・7・29 日米修好通商条約のアヘン禁輸条項
60 北京条約(第二次アヘン戦争終結)
【今後の2つの課題】
以上の略年表からの抜き書きだけでは分かりにくいに違いない。
主な論点は2つある。
第1が戦争の有無とその勝者が獲得する排他的権利とその反対側の敗者の<敗戦条約>である。そうした中で、1854・3・31 日米和親条約の締結が発砲交戦を伴わない<交渉条約>として成立した。その背景と意義を、しっかりと明らかにしていきたい。
第2が条約上のアヘン貿易の取り扱いである。アヘン貿易について英米は決定的に対立していた。すなわち生産基地インドを持つイギリスの、第2次アヘン戦争を通じたアヘン貿易合法化(自由化)=1858・6・26 英清天津条約⇒アヘン貿易を合法化(自由化)が一方にあり、その約一月後の1858・7・29 日米修好通商条約のアヘン禁輸条項がある。なぜこれほどの対照的な結果が生じたのか? 複雑な事情があるに違いない。
その過程については、2022年9月24日(土曜)、青山学院大学総合研究所シンポジウム「オランダ別段風説書にみるグローバリゼーション-19世紀の世界と日本-」の第一部 特別講演 加藤祐三 「アヘン戦争と日本の開国」を行い、その概要を約2週間後の本ブログ10月4日掲載の「アヘン戦争と日本の開国」で述べた。
このときの講演レジメが下記のものである。

鎖国下で外国へ取材に行くことなど不可能な時代、長崎に入る2種のアヘン戦争情報、すなわち「唐風説記(とうふうせつがき)」と「和蘭(オランダ)別段風説書(オランダべつだんふうせつがき)」を収集・分析することを通じて、幕府が従来の対外政策を改め、天保薪水(供与)令を決めるまでの過程を明らかにしたい。
そのうえでイギリスのアヘン政策(ベンガル・アヘンの専売制、イギリス国内のアヘン野放しの状況等々)や清朝中国とのアヘン戦争(第一次アヘン戦争 1839~42年)やアロー号事件に始まる第二次アヘン戦争(1858~60年)等について言及したい。
【連載「黒船前後の世界」(『思想』誌)】
前著『イギリスとアジア』 (岩波新書 1980年)で書き残した幕末日本のアヘン問題を、もう少し踏み込もうと思った。19世紀アジア三角貿易から幕末日本のアヘン問題へ、そして開国・開港をめぐる条約交渉へ、さらに外交と戦争の国際政治へと関心が拡がるにつれて、これらを統合した歴史を描くことに思いが向かった。
幕末の開国・開港を描いた日本史の先行研究で主に参照したのは、石井孝『日本開国史』 (1972年)である。条約の日中比較を具体的に論じる時にも大いに活用した。しかし日本史の側からだけでは、使う史料の制約から、どうしても欠落する視点が出てくる。
日本の開国・開港の最初の相手国はアメリカである。国際法上の<最恵国待遇>の原理により、最初の条約国が後続の国より優位に立つ。その解明には日米双方の史料を対等に使うと同時に、「日本史のなかの開国・開港」を超えて、「世界史のなかの日本の開国・開港」に分け入らなければならない。
アジア諸国に先行したのはイギリスであり、アヘン戦争(1839~42年)や、その後も戦争を軸に進んだ中英関係を知る必要がある。それにはイギリス側や中国側の史料も必要となる。
幕府の対外政策や日本人の世界観も、アヘン戦争を機に大きく変わっている。
そのころ『思想』誌(岩波書店)の編集長・合庭淳さんが雑誌連載を勧めてくれた。有り難い話だが、連載を始めるには全体像を持ち、ある程度の書き溜めが要る。模索する中で、題名が決まった。ヒントは日本史家・服部之総の『黒船前後』(1933 年)である。本書は黒船到来によって大きく変わる日本を描いている。それなら私は黒船前後に大きく変わる「世界」を描こうと思い、「黒船前後の世界」とした。その瞬間、全体のイメージが浮かんだ。
連載の第1回は「ペリー艦隊の来航」とした。1853年7月8日、浦賀沖に姿を現した4隻のペリー艦隊との緊迫した初の接触、さまざまな要因が凝縮するこの時を、歴史の大きな転換点と考えたからである。
日本側の動向を示す先行研究には田保橋潔『近代日本外国関係史』(1930年、増補版 1943年)等がある。一次史料は、東京大学史料編纂所編『大日本古文書』シリーズ内の『幕末外交関係文書』にあり、1853年のペリー来航から翌年の日米和親条約の締結に関係する文書は、その一から五まで(1910~14年刊)に収められ、附録(1913年~刊行) にも本編の補遺に当たる貴重な史料がふくまれる。
ペリー艦隊来航以前の異国船到来については、幕府の『通航一覧』や『通航一覧続輯』 等に詳細な記録がある。<異国船>とは、長崎への定期的な往来を認めたオランダ商船と中国商船以外の国の船を指す。異国船対応令(対外令)は、上掲の講演概要「アヘン戦争と日本開国」左欄の略年表(の左欄「日本」)に見られる通り、4回発令されており、ペリー来航時は4回目の穏健な天保薪水令(1842年)下にあった。
【アメリカ議会文書】
一方、ペリー艦隊の浦賀沖の動きを知るには、『ペリー提督日本遠征記 上 下』(アメリカ議会上院文書、1856年)がある(角川ソフィア文庫、2014年版が得やすい)。その解説を私が書いている。ところが、その背後の、ペリー派遣に至る諸事情については本書だけでは十分でない。通常は国務省所管の条約締結を、なぜ海軍省所管のペリー東インド艦隊司令長官に担わせたのか、また太平洋横断の航路を取らず、大西洋から喜望峰を回り、インド洋、中国海域を経るという最長の航路を取ったのはなぜか、等々も明らかにしておきたい。
アメリカ側のいちばんの基本史料は、膨大な量のアメリカ議会文書(上院と下院)である。『遠征記』以外の議会文書は、まだ日本の図書館に入っていなかった。さらに国務省や海軍省等の文書類は、ワシントンDCの国立公文書館に所蔵されている。
膨大な資料を見るにはアメリカへ行くしかない、と決めかけた頃、先輩の太田勝洪さん(国会図書館勤務、のち法政大学教授)から朗報が入った。国会図書館がアメリカ議会文書を一括購入し、閲覧に供するという。何という幸運か。膨大な資料を検索するための CIS という索引(単行本)もアメリカでは刊行されていた。
こうして国会図書館通いが始まった。史料を読み進めるうちに新たな世界が拡がる。大規模艦隊を組むはずの船が揃わず苛立つペリー、発砲厳禁の重い大統領命令、中国海域に到着後に起きる海軍省管轄下のペリーと国務省管轄下のマーシャル弁務官との確執等、ペリー艦隊の行動を縛る諸事情も浮かび上がってきた。
これらの新しいアメリカ側史料で、「(一) ペリー艦隊の来航」、「(二)ペリー派遣の背景」、「(三)ペリー周辺の人びと」と書き進め、アヘン戦争以降の東アジア情勢はイギリス側史料と中国側史料をつきあわせて「(四)香港植民地の形成」、「(五)上海居留地の成長」と展開、そして翌1854年の幕府とペリーとの交渉、その先に「日本開国」……ここまでの見通しをつけて「黒船前後の世界」の『思想』誌連載に踏み出した。
【連載(七)「経験と風説-モリソン号事件とアヘン戦争情報」】
連載「黒船前後の世界」の(七)「経験と風説-モリソン号事件とアヘン戦争情報」 が「日本開国」に関する最初の論考である。冒頭に結論めいた一文を置く。
「幕府は長崎で収集したオランダ商船と中国商船が伝えるアヘン戦争情報(風説書)を読み解き、これにモリソン号打払い事件(1837年)という<経験>を結びつけた。 それにより強硬な文政令(異国船無二念打払令)から穏健な天保薪水令(供与令)に政策変更する経緯を解明した。」と。
この政策変更は老中・水野忠邦ら幕閣のトップレベルの措置であり、江戸では泰平の世さながらに朝顔づくりが流行し、俗謡の都々逸が武士や町人を魅了、貸本屋の「読本」(よみほん)が争うように読まれていた。
連載(七)の1節は、英中双方の史料を用い、アヘン戦争の発端となる地域的軍事衝突(1839年 9月4日)から南京条約締結(1842年8月29日)までの概要をまとめた。
2節は、イギリス派遣軍のカントン沖集結を皮切りにアヘン戦争の経過を次の4期に分けて概観する。
(1)1840年6月~11月、イギリス軍の北方沿海部の攪乱と華中の長江下流域の封鎖
(2)1840年11月~41年8月の広東戦争
(3)1841年8月~42年5月、華中の寧波、鎮海、定海を中心とする攻防
(4)1842年5月~8月、イギリス軍の長江遡航、大運河と交差する鎮江=揚州を越えて食糧運搬の水運を封鎖、南京(明代の首都)に迫り、南京条約締結に到る。
つづく3節ではイギリス派遣軍の具体的な作戦展開を述べる。
4節と5節は、アヘン戦争の展開を、幕府は、いつ、どのように収集したかがテーマである。小西四郎、森睦彦、片桐一男等の先行研究と、民間に流布した写本(『阿片類集』、 『阿芙蓉彙聞』等)を整理し、中国商船がもたらす唐風説書(唐①等と表記、和解(和訳)のみも含む)とオランダ商船のもたらす情報(蘭①等と表記する和蘭風説書と和蘭別段風説書)を一覧した。
すなわち(1)最初の情報である1839年8月入手の蘭①と1840年7月入手の蘭 ②、 (2)1840年夏のほぼ同時に入手した唐①と蘭③の情報、(3)唯一の情報源となった唐②(1840年秋までの状況)と唐⑦(1841年末までの状況)の情報、これら3期の情報から幕閣が把握した戦況を検討した。
鎖国により海外渡航はできず、風説書だけを頼りに、周到かつ多角的に検討し、情勢判断に努める幕閣の動きが窺える。加藤周一のいう<命題論理学>の手法を使い、同じ事件に関するある命題(情報)と他の命題(情報)を比べて、論理矛盾のないもの(あるいは少ないもの)を<より正しい>とする手法である。
上掲(1)で蘭①はアヘン厳禁という清朝政府の政策に理があるとしたが、翌年の蘭②はイギリスが「仇を報んがため」に出兵したと述べる。戦争の正義・正統性が大きく転換され、幕閣はイギリス側に出兵理由があるのかと驚く。
6節は上掲(2)1840年夏に入手した唐①と蘭③の比較検討に充てる。中国船情報は戦場での目撃情報に官報の一部等を含む。オランダ船情報の情報源はカントン、シンガポールなどの英字紙誌であり、これらをバタビア(オランダ総督府の置かれた植民地インドネシアの首都)で編集、オランダ語に翻訳したものである。
うち1831年創刊の月刊誌”Chinese Repository”はとくに信頼性が高い。とりわけ編集に当たったイギリス人宣教師R・モリソン、アメリカ人宣教師E・C・ブリッジマンやS・W・ウィリアムズが重要である。モリソンは1807年にカントンに渡って中国語・中国情勢の研究に励み、” A Dictionary of the Chinese Language”(1815~1822)を上梓した。ブリッジマンは米清望厦条約(1844年)の通訳を担い、またウィリアムズは後にペリーに随行して来日する。
【戦況を冷徹に語るオランダ語情報(和蘭別段風説書)】
これら英文紙誌の編集・蘭訳は、アヘン禍問題やアヘン戦争の「正義」の所在には深入りせず、戦況情報を優先する。第1の交戦事件(1839年9月4日、英艦ボラージュ号の中国船への発砲)、第2の交戦事件(1839年9月12日、清朝砲台からスペイン船をアヘン貯蔵船と誤認・発砲)、第3の交戦事件(1839年11月3日、英艦ロイヤルサクソン号がカントン湾を遡航して清朝官船へ発砲)を列挙、「唐人敗北したり」や「…1艘は空虚に打ちとばされ…」等でイギリス側の圧倒的優位を伝える。
これらの艦船はイギリス派遣軍到着前の、イギリス貿易監督官付きの軍艦であり、つづく大部隊のイギリス派遣軍到着後の和蘭別段風説書を解読する前提となる。
7節は、これらの情報が幕閣に与えた影響について述べる。唐①はアヘンについて、当初、イギリスが紅茶等の対価として中国へ輸出、貴賤を問わず服用者が増大、諸外国の商人でアヘン貿易にかかわらない者はおらず、「現在は金銀をもって公然と売買し、怪しむべきことにただ口腹の利益をむさぼるのみで、生命を害するの恐るべきことを顧みない。アヘンを用いる者は徐々に憔悴し、ついにその生命をそこなう…」と伝える。
そして銀流出に伴う財政危機論とアヘン害毒論の2点をめぐり、アヘン厳禁派の林則徐の上奏(1833年)、黄爵滋の上奏(1835年)、さらにアヘン弛禁派の許乃済の上奏 (1836年)、黄爵滋の上奏(1838年)を経て、林則徐のアヘン没収(2万箱余、一箱あたり銀3600両)に到る経緯を伝える。
これを読んだ幕閣は、正義は清朝側にあるものの、軍事力では中国側に勝ち目があるとは言えないと判断した可能性が高い。
【制海権を握ったイギリス海軍】
8節は、1840年秋までを扱う唐②と、一年後の1841年末までを扱う唐⑥から幕閣が戦況をどう読みとったかの解析である。この間、和蘭別段風説書の舶来はなく、唐風説書が唯一の情報源であった。
イギリス派遣軍が植民地インドのセポイ(イギリス東インド会社のインド人傭兵)を率いてカントン沖に到着する1840年6月からの戦争情報は、3段階に分けられる。
第一段階ではカントン到着後のイギリス派遣軍が間を置かず北上して華中の定海と華北の白河入口を占領(1840年6月~11月)
第二段階は1840年11月から41年8月にかけてカントン近辺に戦力を集中
第三段階は1841年8月から翌1842年8月まで戦場を華中へと展開し、長江(揚子江) と大運河の交差する水運の要所を抑え、南京条約の締結に追い込む。
第一段階の唐②は、1840年7月5日の交戦に触れ、寧波沖に「尹夷(イギリス)船七十八艘到来」、交戦のすえ「舟山定海県の総兵官(指揮官)は戦死、知県(県知事)は驚愕極まり入水自死、居民は四散逃亡…」と述べる。
第二段階の唐④は、「…いまにいたるも定海県は港をふさがれ、その地の人民はともに貿易の便路を失い、次第に離散…」と、イギリス艦隊による封鎖を明らかにし、「広東には新たにイギリス軍百余艘の噂…」とも記す。
9節では、1840年秋から41年春までの戦況を伝える唐⑤と、1842年2月に入手した唐⑦が伝える第三段階の情報に触れ、「…イギリスは軍艦を広東外洋の香港等に移して停泊、あるいは鎮海、寧波、定海等の一帯、二、三百里の洋面を遊弋…」と記す点に注目した。
制海権をイギリス艦隊が掌握との情報に、海外書生と名乗る日本人が清朝官僚に成り代わって、「平夷説」、「平夷論」の2編の上奏文を発表した(『阿芙蓉彙聞』所収)。清国の敗因は「陸地の砲台からの応戦にすぎなかったことにあり、それも命中率がきわめて悪く、海戦はすべて小舟によるもの。戦艦をつくり兵士をきたえ、外洋に出て戦うことをしなかった」と分析し、今後、中国の6大港に110人乗りの大型戦艦140隻編成の大軍団を作るべしと展開する。裏を返せば、幕府の鎖国政策への批判でもある。
【モリソン号事件と<蛮社の獄>】
10節は、幕府の対外令が1791年の寛政令(薪水供与)、1806年の文化令(薪水供与の枠の拡大)、1825年の文政令(異国船無二念打払令)と変化してきたことを整理し、その上で1837年に浦賀来航のアメリカ船モリソン号(船名をイギリス人モリソンと結びつけイギリス船と誤解した)を文政令に従って打払った事件、および翌年モリソン号の目的は日本人漂流民の送還にあったと述べるオランダ風説書を契機に、高野長英、渡辺崋山などが幕政を批判し投獄・処罰された、天保10年(1839年)の言論弾圧事件<蛮社の獄>の経緯を述べる。
【江戸湾の封鎖を想定し、天保薪水供与令へ】
11節と12節では、第一にモリソン号事件と<蛮社の獄>を追いかけるように届いたアヘン戦争情報により、イギリス脅威論がどのように増幅されたか、第二に鎖国以来の幕府の対外政策にどのような修正を迫ったかについて、田保橋潔や井野辺茂雄等の先行研究を整理する。
老中水野の諮問に対して、評定所答申は打払令の継続であった。一方、林大学頭の答申は穏健な文化令への復帰であり、両者は対立する。
13節は、イギリスが日本と中国等をどのように見ているかという点から水戸の徳川斉昭の臣下の上書を取り上げた。すなわち清国は大国で、朝鮮・琉球等は小国ゆえ、イギリスは第一に日本を狙うはずであり、邪教・蘭学を禁じ、さらには日本も大型船の製造禁止を解いて海難を避け、蝦夷地の開拓に本腰を入れるべしと主張する。対外強硬派が、鎖国の柱である大型船製造の解禁に言及している点に注目したい。
水野はアヘン戦争情報の分析から、強大なイギリス艦隊にとって江戸湾の封鎖、物流の阻止はごく容易であろうと考えた。加えて、非武装のモリソン号の来航目的を知った以上、文政令(異国船無二念打払令)の継続は無策と判断、隣国のアヘン戦争を「自国之戒」 として穏健な文化令(薪水供与令)に復した。これが天保薪水令であり、南京条約締結(1842年8月29日)の1日前であった。
【アヘンはどこから来たか】
この問題を語るには、まず
① 19世紀アジア三角貿易
② 英植民地インドのアヘン生産と輸出の140年
を明らかにしなければならない。
いまもなおイギリス人を魅惑する紅茶の中国からの輸入統計のグラフ作成から始めた。貿易統計を集計するうちに品種別の推移が分かってきた。一方、紅茶の淹れ方は、煮沸した湯を注ぎ、ポットに布をかけて蒸らす。産業革命で工場近くに集住した労働者にとって、汚染した水の煮沸は必然であった。
そのうえで「19世紀のアジア三角貿易-統計による序論」(『横浜市立大学論叢』30巻、遠山茂樹教授退官記念号)を発表した。統計分析を主とし、紅茶、アヘン、綿製品の3章に分けて論じた。末尾に掲げた以下の3表は、いまでも貴重なデータである。
第1表「紅茶・アヘン・綿製品 1815~1898年」
第2表「インドの主要輸出-アヘン・原綿・綿糸 1815~1899年」
第3表「中国の主要輸出入 1860~1900年」
本稿を読み直すと、第1表で紅茶・アヘン・綿製品の3大商品をまとめ、第2表でインド産アヘンの輸出統計の詳細を載せ(以上はイギリス議会文書から)、第3表では中国側の海関統計を基に上海を主とする開港場の輸出入合計を明らかにしている。
『道』誌連載の第5回(1979年5月号)に「アジア三角貿易」(1880年)の概念図を掲載したが、このころ紅茶・アヘン・綿製品の3大商品による、イギリス・インド・中国を結ぶ「19世紀アジア三角貿易」の統計を正確に把握できていた。
【英植民地インドのアヘン生産と輸出の140年】
アヘン問題の重要性に気づいたのは、「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」を総合テーマとする在外研究でイギリスへ渡ってリーズ市に拠点を置き、しばらく経った1978年ころである(「史観と体験をめぐって」&「著作目録」。横浜市立大学論叢人文科学系列第54号「加藤祐三教授退官記念号」2003年所収)。
リーズ大学図書館における基礎作業のおかげで、①19世紀アジア三角貿易に次いで、次第に植民地インドで専売制によりつくられるアヘンの実態と年次変化がわかってきた。その成果物が拙著『イギリスとアジアー近代史の原画』(1980年 岩波新書)所収の「図12 インド産アヘンの140年」(同書136~137ページ)である。この一部を冒頭の講演レジメの右欄下に再掲した。
【アヘンとは?】
そもそもアヘンはどのように作るのか。
ケシの成長した子房がまだ青いうちに表面に傷をつける。滲み出した白濁色の液が太陽光で茶褐色に固まると、ピンセットのような道具で集めて、子供の頭ほどの大きさに丸め、陰干しする。この状態をクロと呼び、水に入れて煮沸したのち底に残るものをシロと呼んだ。
アヘンの摂取法は3通りあった。アルコールに溶かし、薬剤として売る。イギリスではゴッドフレイ・コーディアル(強心剤)という商品が有名で、制止する法律がなかったため、猛烈に売れた。これが<飲む>方法である。中国では煙にしてパイプで<吸う>方法が流行した。そして主要産地のインドのベンガル地方では、生産したクロを丸めて飲みこんだ。
アヘンの主成分であるモルヒネは最強の鎮痛剤であり、医療には不可欠であるが、売れれば売れるほど良いとして野放しにすれば麻薬となる。社会的管理が必要な物質である。
そのために右下に図12「インド産アヘンの140年」を掲げた。これだけでは分かりにくいが、140年間にわたるインド産アヘンの輸出額等を線グラフで図示したもの。輸出先は中国にとどまらず、シンガポール(英植民地)やインドネシア(オランダ植民地)等を含む。これらのアヘンは植民地政府が独占的に輸入し、国内のアヘン業者に高く売り、その差額を財政収入の一つとした。
アヘン戦争はアヘンを排斥しようとする清朝政府とアヘンを売り込もうとするイギリスとの戦争である。アヘン戦争は歴史用語として広く知られるが、その原因となったアヘンや戦争の結果として結ばれた南京条約の具体的内容に関しては意外に知られていない。
清朝中国がアヘン戦争に敗北し、<敗戦条約>の南京条約は、南京近くの長江上に停泊したイギリス海軍戦列艦コーンウォリス艦上で、イギリス全権代表ポッティンジャーと清国全権代表の欽差大臣、耆英によって締結された。その主な内容は、①香港島割譲、②賠償金2,100万$を四年分割での支払い、③広州、福州、廈門、寧波、上海の5港開港、④公行の廃止による貿易完全自由化である。なおアヘン貿易についての言及はなく、「公然の密輸」状態となった。
【インド産アヘンの中国への輸出】
インド産アヘンを中国等へ運搬する大砲を備えた快速船が活躍。その先の中国沿海部にアヘン貯蔵船を係留し、運び入れる。そこからは小舟で陸揚げした。
実線がインド産アヘンの中国への輸出額(約64キロ入りの箱数)である。1839年の林則徐によるアヘ没収・焼却措置により急落するが、アヘン戦争中に増え始め、1858年の天津条約によるアヘン貿易合法化を契機に急上昇する。ピークに達するのが1880(明治13)年で、それ以降、減少はするものの、なお20世紀に至るまでつづき、終了するのが国際アヘン会議(1909~1914年)の決議による1914(大正3)年である。
これだけ長期にわたって大規模に進められたインド産アヘンの東方への輸出が、なぜ日本へは及ばなかったのか? 日本は圏外にあったのか? では、なぜか?
この疑問に答えるには、日本の開国に取り組む以外に手はないと思った。
【イギリスで野放しのアヘン】
アヘン貿易の史料探しに頭を痛め、”The Times” 紙索引で「アヘン」を検索していると、19世紀のイギリス国内でアヘン・チンキ(アルコールに溶かした飲用アヘン)の服用が異常に流行し、その薬害を指摘する記事がしばしば出てくる。ゴッドフリー強心剤という商品がよく売れ、泣く子に飲ませる記事(1844年頃)もある。
さらに『嵐が丘』の筆者エミリー・ブロンテの弟もアヘン中毒患者で、姉妹と弟を描いた絵から弟の姿が消されていたのを、ブロンテ記念館で見た。
ロマン派の作家ド・キンシーに『アヘン常用者の告白』(1821年発表)という著名な作品がある。イギリス国内でこれほどアヘンが野放しであるとは、予想外の驚きであった。もともとは風土病の痛みに対する鎮痛剤として主に農村地方で使われたという。イギリスの風土はケシ栽培に適していないはずで、輸入統計を調べると、イラン産とトルコ産が大量に輸入されていた。
【インド産アヘンの統計と、19世紀アジア三角貿易】
イギリス国内での「アヘン・チンキ」流行は分かったが、植民地インドで生産されるアヘンとその輸出統計が見つからない。議会文書(BPP)の辺りを歩き回って目録を引き 直しているうちに、やっと” Statement showing the Number of Chests of Opium exported from India to China, Bengal and Malwa. 1798/99-1859/60.”等の史料のあることを発見した。
初期の議会文書ではなく、1880年代に議会に提出されている。この時期、アヘン貿易反対論が議会内外で強まり、それに押されて提出されたことが後に分かった。これによると、19世紀初頭、植民地インドから中国・東南アジア等へ、アヘンと綿花の輸出が増え始める。両者がほぼ同じ割合で、合わせて紅茶輸入の約7割(価格)にあたる。時代が下るにつれてアヘン輸出の比率が高まることが、この新しい史料で分かった。バラバラに見えた二国間貿易を三国・地域間貿易として把握すると、まったく新たな構造になる。
中国産紅茶、インド産アヘン、イギリス製綿製品の三大商品による三国・地域間(インドはイギリス植民地であり、慣例では 「地域」とすべき)の貿易、すなわち「三角貿易」に発展し、これによりイギリスの貿易赤字が急減する。この構造を私は「19世紀アジア三角貿易」と命名した。
【『イギリスとアジア-近代史の原画』の発刊】
イギリスから自宅へ送った大量の史料コピーは、べニア板張りの大型紅茶箱で7箱はあり、開けてみると史料的価値の高さが改めて分かった。これらの史料とメモを駆使すれば新たな歴史書ができる、と胸が高鳴った。
ワープロやパソコンが普及する以前で、強い筆圧から来る腱鞘炎に悩まされ、鉛筆を4Bに変えて、表面の滑らかなA4サイズの縦書き原稿用紙に向かう。1979年の夏休みは執筆に専念した。能率を上げるため早朝2時に起床してすぐ執筆、11時頃までつづけると休憩を入れても8時間は確保できる。昼食後、1時間半の仮眠。午後2時に再開して夜10時まで8時間、合わせて16時間の作業がでた。
雑誌連載に加えて新たな書き下ろしを組み入れ、『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年1月)を刊行した。黄表紙版の108番。
本書は序章「点描」と「おわりに」を除くと、3部9章の構成である。
Ⅰ 「イギリス近代の風景」には、「第1章 村の生活-1790年」、「第2章 人と交通と情報」、「第3章 都市化の波」の3章が並ぶ。第1章はイングランドを中心として旅を重ねた成果を取り入れ、近代の幕開けに村の生活が変わる状況を、文書館所蔵の家計簿等から示し、第2章で交通網(道路と運河)の展開が情報を広く運ぶ状況を招来したと述べ、第3章では急激な都市化(とくに産業革命都市)による下水道整備等の及ばない過渡期の姿を描いた。
Ⅱ 「19世紀のアジア三角貿易」には、「第4章 紅茶と綿布」、「第5章 アヘン貿易」、「第6章 アヘン生産」の3章が入る、本書の核心的部分である。貿易統計を活用して、第4章では薄手のインド産綿布と厚手の中国産綿布のイギリスへの輸入から反転して産業革命の工場製綿布のインドへの輸出に代わる状況を示し、第5章では植民地インドから中国・東南アジアへのアヘンの輸出を明らかにし、イギリス・インド・中国を結ぶ19世紀アジア三角貿易の実態を明らかにした。第6章にはケシ栽培・アヘン生産の科学的実験例等を加えた。
Ⅲ 「イギリスとアジア」は、「第7章 イギリス国内のアヘン」、「第8章 パブと禁酒運動の産物=レジャー」、「第9章 イギリスとアジア」の3章が入る。第7章ではイギリス国内のアヘン消費(主にアヘンをアルコールに溶かしたアヘン・チンキの流行)の状況を述べ、第8章は近代化初期のイギリス国内の諸相(酒税歳入が40%を占める等々)と近代スポーツの誕生等を描き、第9章でイギリスのアジアとの関係やアジアに及ぼした影響に触れ、イギリスは清朝中国と戦争による激烈な出会いをしたが、日本とは「おだやかな出会い」をしたと述べる。
「あとがき」(1979年10月付け)では、中国近代史からイギリス史を見ることを中断し、イギリス近代史からアジアとの関係を考える発想の転換に至った経緯を述べ、また副題「近代史の原画」に触れて、「本書に描いた近代の姿は世界史の教科書にないものが多く、これはコピーではなくオリジナル(原画)ではあるがデッサン(原画)にとどまっているかもしれない」とも述べた。
また新書にしては長めの6ページの参考文献を付け、本文に省略形で入れた注と対応させる方式をとった。本書は広い読者を対象とする一般書として、何よりも読みやすさを心がけたが、従来の常識とかなり違う内容を含んでいるため、学術書と同様に史料の出典を示し、史料の表記に工夫をこらした。読み進めるための障害を少なくする一方、根拠を知りたい読者には参考文献に到達できる工夫である。新書にこの方式を採用したのは、本書が初めてではないかと思う。
【戦争の原因となったアヘンの生産と流通】
アヘン戦争(1839~42年)を知らない人は少なくないが、戦争の原因となったアヘンの生産と流通に関しては、中国史学界はもとより欧米でも十分な研究がなかったため、本書が初めて明らかにした事実も少なくない。毎日新聞は「私の仕事」欄(1980 年2月18日)で「イギリス国内のアヘン需要は第一次大戦中までつづき、近代日本のお手本のイギリスは大正時代に”アヘン漬けになっていた“」と驚きを表明、主題とした「19世紀アジア三角貿易」とは違う側面に注目していた。
学術誌では『史学雑誌』(1981年1月号)の新刊紹介で石井寛治さん(東京大学経済学部)は「…本書の面白さは、最近とみに豊かになったイギリス社会史の研究成果を取り込みながら、さらにオリジナルな史料に当たってゆくさいの、東洋史家たる著者の眼のつけどころである…」とし、それぞれの中心課題をⅠ部では「中国産紅茶に呪縛されたイギリス社会の構造」、Ⅱ部では「インドから中国へのアヘン輸出のピークが1880(明治13)年であること」、第Ⅲ部では「アヘン中毒とアルコール漬けの19世紀イギリスから公園とレジャーに象徴される今日のイギリス社会がいかに生まれたかの説明」と述べている。
【コンフェレンス「世界市場と幕末開港」】
前著『イギリスとアジア』のとりわけ第9章「日本のアヘン問題」で書き残した課題が最大の関心事であったが、研究を進めるにつれて、課題はさらに拡大した。1981年12月、コンファレンス「世界市場と幕末開港」が3日間にわたり開かれ、東京大学経済学部の経済史学者が中心となり企画したもので、部外者の私も招かれた。その報告書が石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』 (東京大学出版会 1982年)であり、6本の報告とそれぞれのコメント・討論を収める。
すなわち関口尚志「問題提起-開港の世界経済史」、毛利健三「報告一 ギリス資本 主義と日本開国-1850、60年代におけるイギリス産業資本のアジア展開」、楠井敏朗 「報告二 アメリカ資本主義と日本開港」、権上康男「報告三 フランス資本主義と日本開港」、加藤祐三「報告四 中国の開港と日本の開港」、石井寛治「報告五 幕末開港と外国資本」、芝原拓自「報告六 日本の開港=対応の世界史的意義」である。
このコンファレンスは10年前の1971年5月に開かれたシンポジウム「世界資本主義と開港」(この書名で1972年に学生社から刊行)やその後の著書等を受けて、「いま必要なのは単なるアイディアの開陳ではなく、実証研究の推進に裏づけられた新たな問題点の指摘…」と狙いを定めている。
私の「報告四 中国の開港と日本の開港」 (193~223ページ)は原朗氏の司会で、加納啓良氏と竹内幹敏氏によるコメントと討論(~244ページ)がつく。報告内容は、①問題の所在、②アジア三角貿易にかんする従来の研究、③統計資料について、④インド財政とアヘン収入、⑤貿易統計、⑥日本開港時の東アジア市場の6項に、コメントで⑦アヘンの持つ意味、⑧通商条約への諸段階、⑨アジア三角貿易の諸相を補足して、計9点である。
うち②は研究史の整理だが、とくに同時代人のK・マルクスが1858年に『ニューヨー ク・デイリー・トリビューン』紙に書いた4つの論文について、正確な現状分析であると同時に多くの事実誤認を含むと指摘、それを正すためには何よりも統計を正確に把握することが不可欠として、③、④.⑤によりインドのアヘン生産・貿易とアジア三角貿易を詳論した。
とくに表1「インド産アヘン-輸出量とそれに伴う植民地政府の財政収入」が行論に深く関連する。報告要旨を事前に渡してコメントを得たため、加納氏からは、植民地インドネシア政府がベンガル・アヘンを独占的に輸入して、特定の請負商人に売却、それがライセンス収入を含め税収の19%と高い比率を占め (1860年の事例)、その一部は本国へ送金されていた等の新しい知見を得ることができた。なお本書には4点の書評が出て、関心の高さが伺えた。
【「幕末開国考」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1983年)】
このころ書いたもう1つの論考が、「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸問題を中心とし て」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1983年)である。遠山茂樹館長(横浜市立大学名誉教授)は、本誌創刊によせて「…横浜という地域の考察にとどまらず …世界近代史と日本近代史との相互影響・ 相互対立の接触面を代表し…館外研究者の成果も本誌に反映させたい…」と述べる。拙稿がこの創刊号の巻頭論文となった。
本稿は論点の中心をアジア三角貿易から政治・外交史へと拡大し、日本史の領域に本格的に踏み込んだ私の初の論考である。すなわちペリーとの日米和親条約(1854年)から1858年7月29日(安政五年六月十九日)の日米修好通商条約(「安政条約」と略称)に到る外交の経緯を整理したうえで、同時代にアジア諸国が結んだ各種の条約(とくに中国が1858年に結んだ天津条約と1860年の北京条約)と比較し、安政条約のもつ不平等性は「ゆるやかで限定的」として、とくにアヘン禁輸問題に焦点を当てた。
これまで学界で話題に上らず、したがって先行論文が皆無の、幕末日本におけるアヘン問題である。モルヒネを含有するアヘンは最強の鎮痛剤であり、同時に麻薬である。鎖国中の日本では三都(江戸・京都・大坂)の漢方医が前年の使用実績を長崎奉行に報告し、会所貿易により唐船(中国商船)と蘭船(オランダ商船)に発注するという、厳しいアヘン統制を敷いていた。
【略年表の世界の欄】
冒頭に再掲した講演レジメ「アヘン戦争と日本開国」の左欄・略年表は、左が日本、右が世界である。右の世界から主な事項を幾つか抜粋し、当時の世界情勢を概観したい。
1773 英がインド植民地化、アヘン生産を開始
76 アメリカ合衆国建国(独立)
1819 英がシンガポールを植民地
39~42 アヘン戦争
42・8・29 英清南京条約⇒①香港島割譲、②賠償金2,100万$を四年分割での支払い、③広州、福州、 廈門、寧波、上海の5港開港、④公行の廃止による貿易完全自由化。なおアヘン貿易については言及せず。
44 米清望厦条約⇒米が提案してアヘン禁輸を明示。
46~48 米墨戦争(メキシコ戦争)⇒アメリカがメキシコの領土を奪った戦争。これによりカリフォルニア、ニューメキシコなどを獲得し、アメリカ合衆国の領土が太平洋岸に達した。
53~56 英露のクリミア戦争
54・3・31 日米和親条約の締結⇒発砲交戦を伴わない<交渉条約>の背景とその意義
56~60 第二次アヘン戦争
57・5 セポイ大反乱(インド)
58・6・26 英清天津条約⇒アヘン貿易を合法化(自由化)。
58・7・29 日米修好通商条約のアヘン禁輸条項
60 北京条約(第二次アヘン戦争終結)
【今後の2つの課題】
以上の略年表からの抜き書きだけでは分かりにくいに違いない。
主な論点は2つある。
第1が戦争の有無とその勝者が獲得する排他的権利とその反対側の敗者の<敗戦条約>である。そうした中で、1854・3・31 日米和親条約の締結が発砲交戦を伴わない<交渉条約>として成立した。その背景と意義を、しっかりと明らかにしていきたい。
第2が条約上のアヘン貿易の取り扱いである。アヘン貿易について英米は決定的に対立していた。すなわち生産基地インドを持つイギリスの、第2次アヘン戦争を通じたアヘン貿易合法化(自由化)=1858・6・26 英清天津条約⇒アヘン貿易を合法化(自由化)が一方にあり、その約一月後の1858・7・29 日米修好通商条約のアヘン禁輸条項がある。なぜこれほどの対照的な結果が生じたのか? 複雑な事情があるに違いない。
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