文庭協 第60回総会の講演「横浜開港と三溪園」
2023年6月22日(木)、横浜ベイタワーホールにて、文庭協(文化財指定庭園保護協議会の略称)の第60回総会と講演会が開かれ、下記の3つの講演があった。
〇「横浜開港と三溪園」
元・横浜市立大学学長、前三溪園園長 加藤 祐三
〇「三溪園における古建築の保存・継承について」
横浜国立大学都市科学部建築学科 教授 大野 敏氏
〇「文化財庭園をめぐる近年の動向」
文化庁文化財第二課 文化財調査官 青木 達司氏
本稿は、このうち加藤祐三「横浜開港と三溪園」をまとめたものである。
なお文庭協は、令和5年5月31日現在、141会員(正会員 114会員 賛助会員 27会員)を擁し、114正会員の地方別内訳は、東北地方13、関東地方15、中部地方16、近畿地方39、中国地方16、四国地方3、九州地方6、沖縄地方2である(『会報』第58号による)。
現在の文庭協会長は亀山章氏(東京農工大学 名誉教授)である。
私の講演「横浜開港と三溪園」では、略年表「横浜開港と三溪園」のA3拡大版を配り、それについて若干の説明を加えた後、パワーポイント41コマの図像等を放映しつつ説明を加えた。
A3横組みで3段に分けた「略年表 横浜開港と三溪園」は、そのままでは本稿に収まらないため、3段をA,B,Cごとに分解して以下に収録する。
【文庭協のメンバー】
文庭協のホームページに次のようにある。
文化財指定庭園とは、一般に、文化財として価値のある庭園を、文化財保護の法律や条例にもとづいて指定し、保護しているものです。庭園は通常は文化財の分野のなかの名勝に指定され、その歴史的価値を合わせた史跡と重複して指定されることもあります。
日本庭園の歴史的様式は、日本の風土において育まれた国土の多様な自然風景美を象徴的に意識し、限られた庭園のなかに導入することによって発展してきたものです。そのため、名勝の庭園は、風景の文化財ということができます。
文化財指定庭園保護協議会は、国の文化財保護法で名勝に指定された庭園の所有者および管理者を会員とする団体であり、近年では国の名勝分野の登録記念物にされた庭園も会員になっています。これらの庭園は、わが国を代表する「名園」と呼ぶことができます。
庭園を文化財として保護する制度は、大正8(1919)年に制定された史蹟名勝天然紀念物保存法がはじまりです。この法律では、史蹟と名勝と天然紀念物の3つを記念物として扱っています。その後、昭和25(1950)年に文化財保護行政を強化するために、史蹟名勝天然紀念物保存法は国宝保存法などと統合されて文化財保護法として生まれ変わります。
昭和26(1951)年の文化財保護委員会告示によれば、名勝は、「わが国のすぐれた国土美として欠くことのできないもので、(庭園や公園などの)人文的なものにおいては、芸術的あるいは学術的価値の高いもの」とされています。また、「名勝のうち価値が特に高いもの」を特別名勝とする、とされています。
文化財保護法で指定された国指定の名勝は、令和4(2022)年3月1日現在で庭園は234件(内、特別名勝24件)、公園は10件です。
さらに、平成8(1996)年に創設された登録文化財制度では、有形文化財のうちの建造物等に限られていましたが、平成16(2004)年の法改正で、建造物等以外の有形の文化財(有形文化財のうちの美術工芸品、有形民俗文化財、記念物)に拡大されました。名勝地関係の登録記念物は、令和4(2022)年3月1日現在で105件登録されています。そのうち、庭園77件、公園13件となっており、主に庭園が登録されています。
【平安時代~近代に創建の各種庭園を含む234件の文化財指定庭園】
文庭協の会員には、創建の時代がさまざまな各種庭園がある。私が訪れたものだけでも、古いものでは西暦850年(嘉祥3年)、慈覚大師が東北巡遊のおり、一人の白髪の老人が現われ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げたことに起源する岩手県平泉の毛越寺(モウツウジ)がある。
鎌倉時代創建の庭園では、鎌倉幕府の将軍補佐・北条時頼が建長5年(1253)に開基、中国から渡来した僧・蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)が開山。臨済宗建長派の大本山等がある。
江戸時代創建のものには、江戸時代初期の小石川後楽園や、7年の歳月をかけて元禄15年(1702年)に完成した柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす)の「回遊式築山泉水庭園」の六義園(りくぎえん)等がある。
明治以降の近代に創建されたものに、東京都北区西ケ原にある、1919年(大正8年)に古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた旧古河庭園などがある。
これに対して三溪園は、20世紀初頭になっての創建である。創建の時代が大きく異なるメンバーを相手にした講演で、「横浜開港と三溪園」と題したこと自体に違和感を感じられるのではないかと気づいたが、あとの祭りである。
【講演で注意を払ったこと】
20世紀になって創建された三溪園の成長とその特徴を語るには、幾つかの要素を予め明示する工夫が必要となろう。国際関係、人口増、都市の巨大化、科学技術の急展開等も欠かせない。そしてキーパーソンがつなぐ「赤い糸」を注意深く引き出すことも不可欠である。
そこでお配りしたA3の略年表「横浜開港と三溪園」に、まず何か所かに印を付していただきたいとお願いした。以下の赤字の箇所である。
A都市横浜の歩み【+世界史】
〇誕生以前
1842年8月28日(南京条約締結1日前)、長崎に入る2系統の【アヘン戦争1839~1842年】情報を分析、天保薪水令(薪水供与令)を公布。←1825年の文政令(異国船無二念打払令)撤回と<避戦>の徹底。
1854 年 日米和親条約(久良岐郡横浜村で調印)←12年目。
1858 年 日米修好通商条約(五港開港、アヘン禁輸…)←16年目。
○誕生
1859 年 7月 1 日(安政六年六月二日)横浜開港←17年目。
【1856~60年の第2次アヘン戦争。天津条約でアヘン合法化】
○成長期(1859~1923 年)
1859 年 武蔵国久良岐郡横浜町(5ヵ町)
1872年 横浜=新橋間の鉄道開通
1879 年 横浜正金銀行設立
1889 年 横浜市(市政公布、市会議長に善三郎)、市域5.4㎢ 人口 12 万人
【1894~95年 日清戦争】
1901 年 本牧ほか6ヵ村を横浜市に編入(第1次市域拡張)⇒24 ㎢、30 万人
【1904~05年 日露戦争】
1909 年 横浜開港50周年祝賀会 市歌等を制定
○受難期(1923~1965 年)
1923 年 9 月 関東大震災①~五重苦の始まり
1927年~ 中区等の区制化。市域 133 ㎢、53万人
1930年~ 昭和初期の経済恐慌②
1939 年 市域拡張で 400 ㎢、87 万人
1941 年~【第二次世界大戦】 空襲③、東京が国際貿易港に
1945 年~ 連合軍による占領と接収④
1959 年 横浜開港100周年、マリンタワー建設
1960年~ 郊外部のベッドタウン化による人口爆発⑤。
1969 年 417 ㎢、人口 210 万
○再興期(1965~
1965 年 横浜六大事業(都心臨海部強化、港北ニュータウン、金沢地区埋め立て、地下鉄建設、高速道路網等)
1989 年 横浜博覧会とみなとみらい地区開発
(市政公布 100 周年 開港 130 周年)
○成熟期 人口377万、日本最大の政令市
横浜開港と三溪園
2023年6月22日 元・横浜市立大学学長、前三溪園園長 加藤祐三
B 青木富太郎(原三溪)と三溪園
1861 生糸売込商・原善三郎が横浜居留地に出店
1863年 岡倉天心生誕(石川屋=現開港記念会館)~1913年
1868年 青木富太郎(原三溪)生誕(10月9日)
1868年(明治初年)ころ善三郎が現在の三溪園一帯を購入
1885年 富太郎が上京、東京専門学校(現早稲田大学)入学。政治・経済を学び、跡見女学校で漢詩・漢文・歴史を教える。
1889年 天心らが『国華』誌を創刊。「夫れ美術は国の精華ナリ」
1892年 富太郎が善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚、原家に入る
1897年 古社寺保存法(文化財保護)の制定
1899年 善三郎没、富太郎が承継、原商店を原合名に改組。また跡見女学校の筆頭理事を承継、生涯にわたり務める。
1902年 富太郎が本牧三之谷に転居(鶴翔閣)、この頃から三溪の号を使う。
富岡製糸場を経営(1902~1938 年)
1906年 三溪園外苑を公開、<遊覧ご随意>
1907年 東慶寺仏殿を移築
1909年 生糸輸出量で日本が世界一となる
1913年 三溪が下村観山(代表作=弱法師1915年)を本牧和田山に招く。
1914 年 三重塔の移築、外苑の完成
1917 年 臨春閣の移築。
1920 年 白雲邸(隠居所)へ移る
1922年 聴秋閣の移築により三溪園完成。
1923 年4月 三溪園で大師会茶会開催、三溪園のお披露目
1923年 9 月 1 日、関東大震災、私財を投じて震災復興に尽力。
横浜市復興会会長。
1937 年 三溪の長男・善一郎が急逝(46 歳)
1939 年8月16日 三溪没
1953 年 財団法人三溪園保勝会設立
2007 年 国指定名勝となる
2012年 公益財団法人三溪園保勝会となる
その定款第3条 「この法人は、国民共有の文化遺産である重要文化財建造物等及び名勝庭園の保存・活用を通して、歴史及び文化の継承とその発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信することを目的とする。」(下線は加藤)
2019年末~ 新型コロナウィルス感染症による打撃
C 注と参考文献
1827、原善三郎(~1899 年)が武蔵国渡瀬(埼玉県児玉郡神川町)に誕生。1868 年10月8日、青木久衛と琴の長男・富太郎が誕生(岐阜市柳津町佐波)~1839年。
主な参考文献:拙著『幕末外交と開国』(2012年 講談社学術文庫)に主な史料35点、主な研究書84点を収めた。ほかに『三溪園 戦後あるばむ』2003、『三溪園 100周年』2006、『三溪園』リーフレット、横浜中区史、藤本実也『原三溪翁伝』、齋藤清『原三溪-偉大な茶人』、『横浜もののはじめ考』、『名勝三溪園保存整備事業報告書(中間) 平成 28 年度』。『跡見花蹊日記』。ホークス編・宮崎寿子監訳『ペリー提督日本遠征記 上下』(2014年 角川ソフィア文庫)、S・W・ウィリアムズ/洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』(2022年 講談社学術文庫)。
加藤祐三の主な著書:『幕末外交と開国』(2012年 講談社学術文庫)、『開国史話』(2008年 神奈川新聞社)、『世界繁盛の三都』(1993年 NHKブックス)、『地球文明の場へ』(『日本文明史』第7巻 角川書店 1992年)、加藤編 Yokohama Past and Present 1990 横浜市立大学、『黒船異変-ぺりーの挑戦』(1988年 岩波新書)、『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)、『東アジアの近代』(1985年 講談社)、『イギリスとアジア』(1980 年 岩波新書)
加藤祐三ブログ http://katoyuzo.blog.fc2.com/
ブログの下記数点(掲載日の頭の20は省略) 140414 花めぐり。141022 原三溪の故郷。 151123 白雲邸。160503 原時代の富岡製糸場。 160609 開港記念日と横浜市歌。 161003 三溪と横浜-その活動の舞台。 161121 原三溪と本牧のまちづくり。 171120 三溪園と本牧のまちづくり。 180312 女性駐日大使ご一行の三溪園案内。 180608 IUC 学生の卒業発表会。181101 三溪園の大師会茶会。 190315 臨春閣の屋根葺き替え工事。 190619 IUC 学生の卒業発表会。 190909 展示「もっと知ろう! 原三溪」。 191025 ラグビーW杯2019。191016 IUC 学生の三溪園印象記(2019年)。 210125 新年の書画。211119 「日仏文化交流-CHAUMET 特別公開によせて」。 220226 春が来る。 221004 アヘン戦争と日本の開国(上)。 221111 富岡製糸場創業150周年記念式典。 221225 アヘン戦争と日本の開国(中)。 221228 アヘン戦争と日本の開国(下)。 230131 Yokohama Past and Present。 230403 三溪園園長の退任にあたって。 230508 横浜開港と三溪園 その1。 同ブログの右欄リンク内にある、「横浜の夜明け」(『横濱』誌連載)。
国指定名勝(2007年)認定⇒「…(近世以前の象徴主義から脱却した)近代の自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・鑑賞上の価値はきわめて高い。内苑の移築建物の配置やそれらの建物とよく調和した周辺の修景もまた三溪の構想によるもので、数寄者としての三溪の美意識が窺える。…」(下線は加藤)
【略年表「横浜開港と三溪園」について】
お手元にある略年表「横浜開港と三溪園」に、これから私が言う何か所かに下線を引くなり、〇印をつけてください、とお願いしたのは、上記の赤字で記した箇所である。
A 都市横浜の歩み【+世界史】
1842年8月28日(南京条約締結1日前)、長崎に入る2系統の【アヘン戦争1839~1842年】情報を分析して天保薪水令(薪水供与令)を公布、それ以来、<避戦>の徹底を図った。
1854 年 日米和親条約(久良岐郡横浜村で調印)
1858 年 日米修好通商条約(五港開港、アヘン禁輸…)
同じころ中国では【1856~60年の第2次アヘン戦争の最中、天津条約(1858年)でアヘン合法化】を強いられた。
戦争を伴わず、賠償金支払いも免れ、順調に開国した日本は、1872年 横浜=新橋間の鉄道開通を見て、横浜開港30年後の1889 年 横浜市(市政公布、市会議長に善三郎)が就任する。善三郎とはB 欄の「1861 生糸売込商・原善三郎が横浜居留地に出店」とある、その人である。
B 青木富太郎(原三溪)と三溪園
1868年(明治初年)ころ善三郎が現在の三溪園一帯を購入したとあるのは、明治政府の神仏分離令に伴う廃仏毀釈が激化したため、仏教寺院が維持できず、生糸売込商・原善三郎がこれを買い入れ、別荘の松風閣を建てた。
1892年 富太郎が善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚、原家に入るに至る秘話が残る。跡見女学校で教鞭を取っていた富太郎が新橋駅で草履の鼻緒が切れて困惑する屋寿を見かけ、腰につけた手ぬぐいで修理してやったことがきっかけと言われる。
富太郎が名勝三溪園を創建しようと決意したのは、岡倉天心の文部官僚としての大仕事、1897年の古社寺保存法(文化財保護)の制定であると私は考えている。神仏分離令に伴う廃仏毀釈が全国的に激化し、救助を求める古社寺が跡を絶たなかった。富太郎の脳裏には故郷の岐阜県佐波や母の故郷の神戸町(ごうどちょう)の三重塔の姿などが渦巻いていたのではなかろうか。
のちに岡倉天心の東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の教え子、下村観山、横山大観、今村紫紅、荒井寛方、清水御舟たちを支援し、かつ収蔵の名画を前に議論しつつ学ぶ、画家としての富太郎の嬉々とした姿につながる。
富太郎が三溪園の地形の特徴を活かし古社寺の移築を考えたのは何時ごろからか? まだ分からないが、「1914 年 三重塔の移築、外苑の完成」ころには明らかに意識していたと思われる。国指定名勝(2007年)認定に記される「…(近世以前の象徴主義から脱却した)近代の自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・鑑賞上の価値はきわめて高い。内苑の移築建物の配置やそれらの建物とよく調和した周辺の修景もまた三溪の構想によるもので、数寄者としての三溪の美意識が窺える。…」(下線は加藤)である。
C 注と参考文献
今回の講演を準備する中で、3冊の拙著を手元において考えた。最新の作品が『幕末外交と開国』(201年 講談社学術文庫)であり、多くの史実と解釈を同書から取っている。
そして43年もの昔の作品『イギリスとアジア-近代史の原画』(1980 年 岩波新書)は「19世紀東アジアにおけるイギリスの存在」をテーマに得た文部省の「在外研究」の成果をまとめたもの。「イギリス植民地インドにおけるアヘン生産の140年」と「19世紀アジア三角貿易」(紅茶・アヘン・綿布からなる)を主なテーマとしている。
3冊目の拙著が『黒船異変-ペリーの挑戦』(岩波新書 1988年)である。当時はもちろん今なお誤解が多い論点、すなわち①無能無策の幕府に、②ペリー艦隊の強大な軍事的圧力が加わり、③極端な不平等条約となった、とする誤解を、歴史的事実に基づいて解きたいと考えた。
ペリー艦隊のミシシッピー号(1692トン)とサスケハナ号(2450トン)の2隻は、超大国イギリスさえ持っていなかった世界最大・最先端の蒸気軍艦である。ついでポーハタン号(2415トン)が合流し、合わせて蒸気軍艦は3隻になる。当時、アメリカ海軍が所有・就航していた超大型蒸気軍艦は、わずか5隻であり、そのうちの3隻を日本に投入したことになる。
【幕府の対外政策】
スライド2の左欄に拙著『幕末外交と開国』(201年 講談社学術文庫)の35ページ所収の「略年表」を再録した。ペリー来航時の幕府の対外政策は、1842年に公布された穏健策の天保薪水令であった。1825年公布の強硬な「異国船無二念打払令」(年号をとって文政令と略称)を撤回し、1806年の文化令に復す形式で採用した穏健策である。
アヘン戦争(1839〜42年)の軍事衝突に幕府は強い衝撃を受けた。幕府の対外政策を簡単に概観すると、キリシタン禁制を内容とする「鎖国」が完成した1641年から、およそ150年を経た18世紀末以降、鎖国政策の持つ役割は大きく変わり、主に次の3点となっていた。
①キリシタン国以外の外国船(異国船)への対処
②日本人の海外渡航禁止
③大型外洋船の所有・建造の禁止
18世紀末になると、異国船が日本近海に出没する事件が多発、旧来のままの鎖国政策維持は次第に困難になった。政策変更にはヒト・カネ・モノを包含する対外情報を把握しなければならない。鎖国の最中、幕府はどのように情報を入手し、それをいかなる論理で分析し、政策に生かしたのか。
幕府は4回にわたり異国船対処の方針を打ち出し、沿岸部に領地を持つ諸大名に周知させた。これらの対外政策は、長崎在住のオランダ商館長から外国にも伝えられた。
①1791年の寛政令
②1806年の文化令
③1825年の文政令
④1842年の天保薪水令
寛政令と文化令は、北方からのロシア船にたいするもので、食料と水・薪など必要な物資を与えて帰帆させる穏健策である。
これにたいして第③の文政令は、外国船が沿岸に姿を現せば、ためらうことなく大砲を打てとする強硬策であり、「無二念打払令」といわれた。「なにがなんでも打ち払え」である。強行策を採用した遠因をたどると、1808年、イギリス軍艦フェートン号が長崎に来航し、奉行の制止を聞かずに上陸、牛などを食用に奪った事件に行き着く。
フェートン号の来航はナポレオン戦争の余波であり、長崎のオランダ商館のオランダ国旗をひき下ろすのが目的で、日本攻撃のためではなかった。しかし、奉行の制止を聞かない行動は「国権侵害」ととらえられ、長崎奉行は責任をとって自害。この事件以降、官民を問わず反英論が根強くなる。
ついで1837年、強硬策の文政令下にモリソン号事件が起きた。浦賀沖に来航した一隻の異国船に向け、浦賀砲台から大砲を打った。甲板に命中はしたが、破壊力は弱く、船はそのまま帰帆。鹿児島沖でもふたたび打ち払いに遭う。船籍は不明であった。
翌年、長崎にオランダ風説書が入る。そこには「日本人漂流民の送還を目的に、マカオ出航時に意図して大砲をはずした非武装船にたいし、有無を言わさぬ発砲は、きわめて遺憾である」とあった。この風説書には幾つかの誤報も含まれており、最大の誤報はモリソン号をイギリス軍艦としている点である。モリソン号はイギリス軍艦ではなくアメリカ商船であったが、このオランダ風説書を修正する情報が後にも入らず、そのまま信じられた。
日本国内では早くも1838年9月付けで、次のような上申書を出した人物がいた。「清国はなんと言っても大国であり、夷狄も容易に手を出さないでありましょう。朝鮮琉球等は貧弱の小国であるため目にかけず、したがってイギリスは第一に日本をねらい、次に清国を切り従える手順となりましょうから、実に憂うべく憎むべき事でございます」。
イギリス側にこの意図はなかったが、日本国内に強い反英・脅威論が浸透した。これを追うように翌1839年、オランダ風説書と唐風説書が新しいニュースを伝えた。清朝とイギリスのアヘン密輸をめぐる対立、林則徐による外国人貿易商の手持ちアヘン没収、清英間の軍事衝突、交戦、イギリスの大勝という内容である。
【幕府の<避戦論>とペリーの思惑が一致】
アメリカ側の記録『ペリー提督 日本遠征記』によれば、1853年7月、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に番船で近づいた二人の役人が、「“I can speak Dutch !”(自分はオランダ語が話せる)」と英語で叫んだ。
この出会いは、きわめて象徴的である。最初の対話で発砲交戦を避けることができた。それには日米双方の事情があった。見えざる糸が「戦争」を回避させ、「交渉」へと導いた。やがて接触を重ねるうちに、双方ともに「交渉」の重要性を認識し、それに伴う行動を優先させていく。
鎖国の最中で海軍を持たない幕府は、彼我の戦力を冷静に分析し、戦争を回避する大方針、すなわち「避戦論」を基軸にすえた。そのうえで外交に最大の力点を置き、情報を収集し、分析し、それを政策に活かしてきた。
第1、アヘン戦争(1839〜42年)での中国敗戦の情報を「自国の戒」ととらえ、強硬策の文政令を撤回して穏健な天保薪水令(1842年)に切り替えていた。
第2、ペリー艦隊来航の予告情報を前年のうちに長崎出島のオランダ商館長から入手し、対応を準備してきた。
第3、ペリー来航の地を長崎か浦賀のいずれかと想定して、長崎を中心としていたオランダ通詞の配置を変え、浦賀奉行所の態勢を強化した。
一方、ペリー艦隊はどうか。
第1に、巨大な蒸気軍艦の石炭や1000人近い乗組員の食料などに必要な、独自の補給線を持っておらず、アジアに強力な補給線を持つ「超大国」イギリスに頼らざるをえなかった。建国から77年目の「新興国」アメリカは、旧宗主国イギリスとの関係を強く意識していた。
日本と交戦状態になれば、イギリスの「中立宣言」は必至である。その結果、国際法の規定により、イギリス支配下のアジア諸港に寄港できなくなり、物資補給が断たれる。
第2に、ペリーは「発砲厳禁」の大統領命令を背負っていた。アメリカ憲法では宣戦布告権を持つのは大統領ではなく、議会である。議会の多数派は民主党であった。副大統領から選挙を経ずに昇任したホイッグ党(共和党の前身)のフィルモア大統領が、ペリーに与えた「発砲厳禁」命令(US Congress(S)751-No.34、国務長官より海軍長官あて)は、重大な政治的意味を含んでいた。
「大統領は宣戦布告の権限を有さない。使節は必然的に平和的な性格のものであることをペリー提督は留意し、貴下指揮下の艦船及び乗員を保護するための自衛及び提督自身もしくは乗員に加えられる暴力への報復以外は、軍事力に訴えてはならない」
こうした政治的・軍事的な状況下では、ペリーにとっても交戦は何としても避けるべき大前提であった。戦争を伴わない「交渉条約」、これは基本的に重要な点であり、その諸要因を国内的・国際的な側面から再確認したい。それは同時多発テロ以降の世界やロシアのウクライナ侵略に伴う「戦争と外交」を展望することにもつながるはずである。
【反英論が強まり、親米論が支配的に】
ついで1844年、オランダ国王から書簡が来た。天保薪水令への切り換えだけでは不十分で、いずれは開国・開港を求めて外国船が来る、対外政策を変更すべきという趣旨である。
この頃からアメリカ船の来航が急増する。1845年、漂流日本人を救出・送還するために、浦賀にアメリカ捕鯨船マンハッタン号が来た。ついで1846年、浦賀沖に米国東インド艦隊(帆船2隻)のビッドル提督が来航、これがアメリカ最初の公的使節である。
ついで1849年、アメリカ漂流民救出を目的としてグリン艦長(帆船プレブル号)が長崎に来航した。これらの問題はいずれも円満に解決し、親米論が支配的になった。
幕府の対外観は、上記のような経験から導き出したものであり、また当時の国際政治をよく見すえた判断でもあった。超大国イギリスは世界の覇権を担い、戦争を仕かけ、各地に植民地を獲得、その一環として日本を視野に入れていた。
それにたいして、アメリカとロシアは「新興国」であり、まだ体系的な世界戦略を確立していなかった。幕府にとって組みしやすいのは、友好的な「新興国」である。さらに幕府は、国際法の論理を、ほぼ正確に理解していた。それは最初の条約が有利であれば後続条約にも有利性が継承され、不利であれば不利性が継承される、という「最恵国待遇」の論理である。
したがって、最初の条約国の選択は決定的に重要であった。
なぜアメリカはこの時期に、世界最大の蒸気軍艦を建造したのか、それをなぜ日本へ投入したのか。
【明白な宿命】
ここで大まかにアメリカ政治の大状況を見ておきたい。
1840年代後半のアメリカ合衆国は、民主党のJ・K・ポーク大統領(1845〜49年)のもと拡張主義・膨張主義が旺盛な時代である。アメリカの国土拡大は神より与えられた「明白な宿命」であるとする主張が強く支持され、1845年にテキサス共和国を合衆国に併合し、また西北のオレゴンは1846年にイギリスと協定を結び、その南半分をアメリカ領とした。
そして1846〜48年の米墨戦争である。このメキシコとの戦争は「アメリカ史上もっとも不正な戦争」との批判もあったが、1848年2月に大勝、太平洋に面する広大な西海岸カリフォルニア(日本の国土面積とほぼ同じ)をメキシコから割譲させ、その彼方にあるアジアを視野に入れた。のちに隣接するニューメキシコも1500万ドルで買収した。
この米墨戦争勃発の前年の1845年から、ペリーはメキシコ湾艦隊司令長官コナーの下で副司令長官を務め、47年から司令長官となった。その副司令長官がオーリックである。1848年、ペリーは郵船長官に転任、その主な職務は蒸気船による郵船網をアメリカ沿岸に構築することであった。
同じ年の1月には、サンフランシスコの東、サクラメント渓谷で金鉱が発見され、年末からゴールドラッシュが始まる。陸から海から人々が押しよせた。拡張主義の「明白な宿命」に好況の夢が加わり、奴隷制の存否をめぐる政治的対立は消え、人々は熱に浮かれ始めた。
1849年、民主党のポーク大統領に代わり、ホイッグ党のZ・テイラー(Z. Taylor)が第12代大統領に就任した。ホイッグ党は共和党(1854年結成)の前身である。テイラーは生粋の軍人で、米墨戦争でもその戦端を開き、常勝将軍の名を高め、その人気をバックに大統領選に勝利した。テイラー大統領の副大統領がM・フィルモア(M. Fillmore)である。テイラーが翌1850年7月に病死すると、憲法の規定にもとづき、フィルモアが大統領(第13代)に昇任した。
【東インド艦隊とは】
東インド艦隊は、1822年、太平洋艦隊を改称したものである。日本との条約交渉を指示したのは1851年5月、最初に任命された東インド艦隊司令長官はオーリックである。
オーリックは、サスケハナ号に搭乗、赴任の途上でトラブルをおこし、51年11月に更迭、中国まで来たところで引き返し(帰国)、日本までは来ていない。代わって任命されたのがペリーである。メキシコ湾艦隊ではペリーの部下であったオーリックが先に任命された人事のねじれが、二人の間に複雑な葛藤を生みだした。
内示を受けたペリーは、しばらく回答を留保、任命は翌1852年3月である。そしてペリーがミシシッピー号に搭乗して軍港ノーフォークを出港したのが、1852年11月であった。1851年5月のオーリック派遣決定から、後任者ペリーの出発まで、約1年半の歳月が流れていた。
【蒸気軍艦の建造年】
ミシシッピー号は1839年の建造である。サスケハナ号は1850年に就航した最新鋭であり、翌年に合流したポーハタン号の建造年はさらに新しく、1852年に完成したばかりである。
サスケハナ号、ポーハタン号、これら最新鋭艦は、日本派遣を決めた1851年5月の後に建造に着手したとは考えられない。海軍予算で新造艦を発注して、この規模の最新鋭艦の完成まで、少なくとも3年間は必要である。では新造艦の建設に着手した要因は何か。
両艦ともに、建造を決定したのは1846年であった。その目的は、米墨戦争における戦力増強にあった。当時のアメリカ海軍は世界に6艦隊を有していたが、メキシコ湾艦隊が米墨戦争の主役となる。蒸気軍艦を投入しなければ、この戦争に勝利できない、そう海軍は主張して戦時体制下の予算を獲得、すぐに発注した。
新造艦が完成する前の1848年に米墨戦争が終わった。だが、発注を取り消すわけにはいかない。建造は着々と進み、完成を見たのが1850年と1852年である。そのときメキシコ湾は、アメリカにとってすでに「平和の海」となっていた。戦時体制を維持する必要が薄れ、最新鋭の艦隊を擁する必要も失われた。過剰装備は不要との声に、海軍省として、どう対処するか。
【太平洋横断の郵船航路構想】
完成したばかりの巨大な蒸気軍艦の配備先と、その理由が必要となった。ひとつが郵船航路である。アメリカ東海岸からメキシコ湾、そしてメキシコ半島を陸路つなぎ、西海岸の諸港を結ぶ郵便と人を運ぶ計画である。商品も運ぶことができる。大陸横断鉄道の整備と並行して、郵船網は緊急に樹立すべき通信・交通網であった。
この国内用の郵船網の延長上に、太平洋横断の郵船航路構想が持ち上がっていた。すでにイギリスがP&O社を開設し、母国からスエズを陸路通過してインド、シンガポール、香港、上海、そしてシンガポールから南下するオーストラリア航路を持っていた。香港までの航路開通が1845年、上海支線の開設は1849年である。その延長上にイギリスは太平洋横断航路を構想していた。
太平洋横断航路をイギリスに先取りされてはならない。この判断がアメリカ側にあった。そこで新しい蒸気軍艦の配備先として浮上したのが東インド艦隊である。「東インド」(East India)という呼び方は、イギリス海軍のそれを踏襲したものである。イギリスにとって東インドは「インド以東(East of India)」ともいわれ、地理的な意味を持つ伝統的な用語だが、アメリカにとっての東インドは、西部の先の、太平洋のさらに西の彼方である。東インドではいかにも分かりにくいが、アメリカ海軍でもこの名称が長く使われてきた。
では、東インド艦隊に巨大艦隊を配備する理由はなにか。アメリカにとって「最遠の海域」に配備するには、まだ十分な補給線もなく、戦争目的を掲げるわけにはいかない。戦争を必要とする事態もなかった。そこでアメリカ人漂流民を保護するという「人道目的」が浮上した。
【捕鯨業の黄金時代】
当時のアメリカ政府と議会の資料には、難破したアメリカ捕鯨船員の漂流とその救出問題が頻繁に出てくる。アメリカ捕鯨船がケープホーンを回って太平洋へ出漁したのは1791年、その後、1814~15年のウィーン会議から1860年頃までが太平洋におけるアメリカ捕鯨業の黄金時代で、1840年代後半が最盛期にあたる。
1846年の統計によれば、アメリカの出漁捕鯨船数は延べで736隻、総トン数は23万トン、投下資本は7000万ドル、従業員数は7万人である。年間にマッコウクジラとセミクジラをあわせて1万4000頭を捕獲する乱獲時代を迎えた。日本近海で操業するアメリカ捕鯨船は約300隻にのぼり、難破する捕鯨船も増えた。
捕鯨の主目的は、照明用のランプ油として使う鯨油の確保であった。欧米諸国で工場がフル操業するようになると需要が伸び、アメリカ国内はもとよりヨーロッパにも輸出された。鯨のヒゲや骨も装飾品などに加工された。ちなみにカリフォルニアで最初に油田が見つかったのが1847年、しばらくは灯油として鯨油と石油の併用時代がつづく。石油に取って代わられ、捕鯨業が衰退する直前、鯨油需要のピークがこの時期にあたる。
【漂流民の保護】
アメリカ捕鯨船の難破・漂流ルートは、主漁場であった北太平洋に始まる。暴風に遭い、マストが折れると、海流に流されてしまう。日本側から東へと流れる北太平洋海流はアメリカ大陸近くで北転し、さらに西へ方向を変え、千島海流と合流する。その後は南下して北海道(蝦夷地と呼ばれた)に至る。
アメリカ捕鯨船が北海道に漂着した主な事件は、1846年のローレンス号、1848年のラゴダ号とプリマス号などである。ちょうど米墨戦争の開戦と終戦の年にあたる。1848年6月、ラゴダ号には捕鯨船員15名が、プリマス号にはマクドナルドという青年が乗っていた。マクドナルドは日本人に初めて英語を教えた人物。彼はイギリス人を父にアメリカ先住民を母にもつハーフで、先住民と日本人が共通の祖先を持つと考え、母の故国を見たいと日本潜入を試みた。
アメリカ人漂着民は、救出されると松前藩に移送され、その後、取調べのために長崎に移される。彼らは少年の頃に捕鯨船員となり、英語しか分からない。一方、北海道にも長崎にも英語が分かる日本人がいない。長崎奉行は、出島在住のオランダ商館長レフィソーンに立会い兼通訳を依頼した。「日本語⇄オランダ語⇄英語」の二重通訳である。オランダ商館員もさほど英語が堪能ではなかったようだが、簡単な意思疎通はできた。
長崎奉行は一定の取調べの後に、帰帆するオランダ船で彼らを母国へ送還する方針である。鎖国政策下の日本には外洋船がなく、送還方法は他に考えられなかった。だが、取調べ終了前にオランダ船の帰帆時期が来た。季節風を利用しての航海であるため、オランダ船は急ぎ帰途についた。
オランダ商館長は帰帆する船にいつも書簡を託す。ある種の業務報告である。アメリカ人漂流民についても言及した。このニュースはバタビア(現在のインドネシアのジャカルタ、オランダ植民地政庁の総督が駐在)のオランダ総督から香港駐在のオランダ領事へ、そして香港駐在のアメリカ弁務官へ、最後にアメリカ東インド艦隊へと次々に転送された。
【グリンが救出目的で長崎へ】
知らせを受けたアメリカ東インド艦隊は、直ちに軍艦プレブル号の艦長グリンを日本に派遣した。ゲイジンガー司令長官がグリンに与えた指示は、「協調的かつ断固とした態度を取り、長崎で解決しなければ江戸に行って直接に交渉すること、わが国の利益と名誉を守ること、琉球・上海に寄る時間をふくめ、約3ヵ月で任務を完了すること」などである。
さらに派遣の背景には国益がかかっているとして、ゲイジンガーは次のように言う。「われわれの価値ある捕鯨船団の保護、捕鯨業の奨励に、わが政府は深い関心を持っている。捕鯨業を助長・促進し、わが国の通商および利益にたいして、万全の保護を与えるよう努めること」。
ここでも捕鯨業と捕鯨船団の保護を強調し、通商保護を海軍の使命として掲げている。照明用の鯨油は、勃興しつつあったアメリカ産業革命と米欧貿易の生命線でもあった。捕鯨船員の生命と捕鯨業の財産とはアメリカ国民の生命と財産であり、これが国外で危機に直面した場合、保護する任務が海軍に与えられていた。それを外交法権ないし外交的保護(diplomatic protection)と呼び、有事における海戦と並び、平時における海軍の最大任務にほかならなかった。
これには財政的な裏づけもあった。アメリカ連邦政府の歳入のうち、平均して約8割が関税収入である。貿易の重要性が高く、それだけ貿易活動や貿易資源の創出業務には手厚い保護が必要であった。海外でのアメリカ人の活動を妨げる行為にたいしては、海軍が外交法権を発動する。その海軍には、それ相応の財政支出があるという仕組みである。
北海道に漂着したアメリカ人捕鯨船員は、約1年間に1名が病死したが、他の15名は松前から長崎に移送され、屋敷牢でかなり自由な生活を送っていた。
プレブル号の入港にたいして、長崎奉行は丁重に応対した。すでに天保薪水令の下にあり、1845年の捕鯨船マンハッタン号(日本人漂流民の送還)の浦賀来航、1846年のビッドルの浦賀来航の経験を持っていた。
アメリカ人漂流民を送還したいと長崎奉行がグリンに伝えたが、グリンは信用せず、「私自身が直接に調書を取る」と主張した。アメリカ海軍省が議会に提出した記録(尋問調書)には、漂流民の語る抑留生活が描かれている。「捕鯨船内より、長崎の半年間のほうが待遇ははるかに良かった。食べ物は十分にあり、衣類も冬物と夏物の両方を貰い、屋敷牢はかなり自由で、運動も十分にできた。船内よりはるかに快適である」。
長崎奉行の言と漂流民の言が一致しており、グリンは挙げた拳の振り下ろす先がなかった。勢い込んで自国民の「救出」に来たものの、長崎奉行の下で漂流民は、いわば「保護」されていたのである。そのうえ、奉行はグリンに要請した。「われわれは送り帰す外洋船を持っていない。貴官みずからの船で送還されたい」。
この事件は、グリン来航らわずか9日で解決した。グリンは、その経験をもとに、任務終了後に帰国した1851年、日本と条約を結ぶよう大統領に提案している。毎回の「救出」に経費をかけて危険を冒すより、条約締結により恒常的な関係を樹立するほうが得策だという趣旨である。
【ペリー派遣の目的】
久里浜で幕府が受けとったフィルモア大統領の日本皇帝宛国書(1852年11月13日つけ)に書かれているペリー派遣の目的の主な内容は次の点である。
①日本諸島沿海において座礁・破損もしくは台風のためやむなく避泊する合衆国船舶乗員の生命・財産の保護に関し、日本国政府と永久的な取決めを行うこと。
②_合衆国船舶の薪水・食糧の補給、また海難時の航海継続に必要な修理のため、日本国内の1港または数港に入る許可を得ること。加えて日本国の一港、もしくは少なくとも日本近海に散在する無人島の1つに、貯炭所を設置する許可を得ること。
③合衆国船舶たその積荷を売却もしくは交換(バーター)する目的のために、日本国の1港もしくは数港に入る許可を得ること。
いかにも穏やかな要求ではないか。このために、アメリカ海軍が所有・就航していた超大型蒸気軍艦5隻のうちの3隻を日本に投入したのか。もう少し背景を探る必要がある。
【外交法権】
アメリカ政府の意図・目的のうちで、実現可能性を考えたうえで、何がもっとも重要であったのか。ここでは次の3点を考えたい。
第1に「外交法権」
第2にアメリカ海軍の内部事情
第3にペリーが国務省派遣ではなく、海軍省管轄下の東インド艦隊司令長官に任命され、日本と条約を締結せよとの指示下に派遣されたこと、言い換えればペリー派遣の形式について。
第1の「外交法権」(diplomatic protection)は、当時のアメリカでは重要な理念であった。法律の違う外国でアメリカ人が逮捕・抑留されたとき、「自国民を保護すること」である。今の「人権外交」に当たるものと見てよい。とくに英領アメリカ(現在のカナダ)やメキシコなど中米諸国とは陸地や沿海でつながっており、事件が多発していた。
自国民の保護の交渉と「救出」に当たるのが海軍である。アメリカはまだ外交網を世界に広く巡らせてはおらず、太平洋横断は技術的に困難で、そしてアジアは遠い彼方にあった。国務省アジア担当課はわずか5名の組織であり、在外公館の多くが商人領事(貿易商が領事を兼務)であった。このような当時の交通・通信手段や貧弱な外交網を考えれば、海軍以外に「外交法権」を担う組織は存在しない。
他国との交渉にも海軍は不可欠であった。海軍が交渉そのものを担うか、海軍が外交官を任地に送り届けるかの相違はあっても、他国と往来する手段を持つのは海軍だけであった。
【海軍省の<省益>問題】
ペリー、そして前任者オーリックの場合、アメリカは海軍提督に交渉権を与える方式を採用し、1844年の米清望厦条約のときのように外交官を派遣することはなかった。アメリカ東インド艦隊による「外交法権」発動、すなわちグリンの行動については、すでに述べたとおりである。そのほかにアメリカ海軍省の「省益」問題と、アメリカ国内の政治的関係があった。
まずアメリカ海軍省の「省益」問題である。アメリカ海軍は世界に6つの艦隊を有しており、艦船をどう配備するかは、海軍費削減とからんで緊急問題であった。平時における海軍の主要任務は「外交法権」の発動であるが、有事(戦時)においては、言うまでもなく海戦である。
前述のように、1848年に米墨戦争が終わると、メキシコ湾艦隊はもはや多数の艦船を擁する必要がなくなった。別の配備先がなければ、海軍費は大幅に削減される。1847年からメキシコ湾艦隊司令長官であったペリーは、翌年に郵船長官に転任、その任務は通商網の確立と郵船定期航路の開発であり、東海岸からメキシコ湾を通って西海岸まで、郵船航路が設置された。
西海岸の彼方には日本や中国がある。その年、太平洋横断汽船航路の開設計画に関する意見書が議会に出された。中国とは1844年に条約を結んだが、日本とは国交がない。巨大な汽走軍艦の配置先は、これらの地域を含む東インド艦隊であるべしとし、その具体的な理由として、太平洋を結ぶ航路の確立、そのための石炭の確保、捕鯨船の保護、日本の開国等を列挙する。
【ブログのうち、ぜひお目通しいただきたいもの】
270余本のブログ記事のうち、「141022 原三溪の故郷」は東京専門学校へ来るまでを知るために、ぜひご一読ねがいたい。「160609 開港記念日と横浜市歌」は1909年の開港50周年記念日の逸話、「181101 三溪園の大師会茶会」は1923年4月に行われた、園内に茶席14を展開する盛大な大師会茶会の模様を描き、9月の関東大震災で壊滅的打撃を受けた横浜につなげる。
「230131 Yokohama Past and Present」は横浜市立大学で1990年に刊行した英文の横浜文化史で、302ページからなる大きな版、私が編集責任者をつとめた。
【1825年の文政令(異国船無二念打払令)を撤回、1842年、天保薪水供与令を公布】
天保薪水令から17年目に実現する1859 年 7月 1 日(安政六年六月二日)の横浜開港について述べるには、まずその発端である1842年8月28日の天保薪水令(薪水供与令)の公布から始めなければならない。
幕府は中国におけるアヘン戦争の展開を情報収集して分析、イギリス海軍の圧倒的な力を冷静に掌握、1825年の文政令(異国船無二念打払令)を撤回し<避戦>に徹っした。すなわち<戦争>の敗北による悲惨さと、<交渉>による意見交換の有効性、この両者の決定的な相違を認識し、それに沿った行動を取る。
1842年8月28日の天保薪水令(薪水供与令)の決定にいたる過程を私が初めて述べたのが『思想』誌(岩波書店)1984年5月号掲載の「我が歴史研究の歩み【37】「連載 黒船前後の世界」(七)「経験と風説-モリソン号事件とアヘン戦争情報」で、日本開国の導入として位置づけた。
幕府は長崎で収集したオランダ商船と中国商船が伝えるアヘン戦争情報(風説書)を読み解き、これにモリソン号打払い事件(1837年)という過去の<経験>を結びつけた。それにより強引な文政令(異国船無二念打払令)から穏健な天保薪水(供与)令に政策変更した。
【パワーポイントで41コマの図像を放映、日米和親条約(1854年)の意義を語る】
ここから、パワーポイントで用意した34コマの図像を放映する。重点を日米和親条約(1854年)の意義に置いた。「最初が肝心」と言うとおり、日米間の最初の条約が日米和親条約(1854年)である。パワーポイントの縮小コピーをめいめいに配布してあったので、説明が楽である。なお本ブログには図像類の収納に上限があるため、ここでは文字資料のみを掲載する。
最初のスライド1が「はじめに 日本の都市3類型と都市年齢」
①天皇創建の都市(奈良1300年前、京都1200年前)、②武家創建の都市(鎌倉800年前、江戸400年前)、③条約起源の都市(開港5港)
京都を80歳とすると、江戸東京は27歳、横浜は10歳
1 開港都市横浜の起源⇒2つの日米条約
2 居留地貿易と生糸輸出
3 三溪園の誕生
ついでスライド2の「2つの日米条約」において下記の項目を述べる。
1 19世紀の世界
2 ペリー来航と日米和親条約(1854年)
①ペリー派遣の目的、②2回目の来航と横浜村応接
林大学頭vsペリー提督の論戦と日米和親条約(1854年)
3 通商条約から横浜開港(1859年)へ
①総領事ハリスと日米修好通商条約(1858年)
②開港場建設と居留地貿易
③幕末維新期の日本を支えた開港横浜
スライド3が、上掲の略年表「横浜開港と三溪園」である。
スライド4が、「19世紀アジア三角貿易」の概念図で、インド産アヘンの中国等への輸出増が目立つ。なおインド産アヘンの経年的変化については、拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)所収の「インド産アヘンの140年」に詳しい。
スライド5は、いずれも植物起源の主要商品である。桑の葉のみを食べて成長する蚕(カイコ)の病気が発生、生糸輸出が激減したのに対して、日本では蚕に種々の品種改良を重ねた結果、生糸輸出が急増する。主な生糸の産地が群馬県等、関東に集中していた。
スライド6がアヘン精製工場、スライド7がアヘン運搬船、イギリスが先導したアジアへの進出過程を示している。
スライド8で、ペリーが搭乗するミシシッピー号がアメリカ東部の軍港を出発、大西洋を横断し、江戸湾まで7ヵ月余を要した事実を描いた地図の説明。石炭や食料・水等はイギリスの蒸気郵船会社P&0社のデポに依存。嫌がらせを受けつつ、セイロンでは香港にて返却することを条件に石炭を補給することができた。
【浦賀沖の出会い】
スライド9が天保薪水令を発布した老中・水野忠邦の肖像画。以下では拙著『開国史話』(2008年 神奈川新聞社)の滝とも子さんによる挿絵を使う。
1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、浦賀沖に巨大な船団が現れた。暑い真夏の昼下がり、黒煙をあげて進む蒸気船2隻に帆船2隻。ペリー(M. C. Perry)司令長官が率いるアメリカ東インド艦隊である〔以下すべて陽暦を使う〕。
少ない石炭を節約するため、外洋では帆走につとめたペリー艦隊は、2日前に蒸気走に切り換え、伊豆沖で全艦に臨戦態勢を敷いた。大砲、小銃、ピストル、短剣など、あらゆる武器を動員した。艦隊の大砲は、10インチ砲が2門、8インチ砲が19門、32ポンド砲が42門。巨大な破壊力の合計は63門である。
幕府側の砲台は、いずれも沈黙していた。穏健策の天保薪水令(1842年公布)を敷いていたからである。江戸湾沿いに備えた大砲のうち、ペリー艦隊規模のものはわずかに20門ほどである。命中率や破壊力、移動可能性などを総合すれば、日本側の軍備はペリー艦隊の10分の1にも満たなかったと推定される。
アメリカ側の記録(帰国後に刊行されたF.L.ホークス編纂、宮崎寿子監訳『ペリー提督 日本遠征記』 角川ソフィア文庫 上下)には、遠くに富士山を望み、陸へ2マイルまで接近したとき、「その数10隻もの大きな舟が艦隊めがけて漕ぎ寄せてきた」とある。
艦隊を取り巻く船をかきわけ、浦賀奉行所の役人2人が小さな番船で近づいた。巨大な4隻の艦隊の、どの船に呼びかけるべきか。幕府は「ウィンブルという旗を掲げた船が旗艦(司令長官が乗船している船)であることはよく知っていた」と記録している。
アメリカ側の記録『ペリー提督 日本遠征記』によれば、旗艦サスケハナ号に近寄ってきた二人の役人が、「“I can speak Dutch !”(自分はオランダ語が話せる)」と英語で叫んだとある。
第一声の主はオランダ通詞(通訳)の堀達之助、もう一人は与力の中島三郎助であった。甲板に立つ水兵には英語しか通じないだろうと、敢えて英語を使った。あらぬ誤解や小競り合いを避けるためである。
ペリー艦隊は、たった一人のオランダ語通訳ポートマンを応対に出した。ポートマンが「提督は高官だけの乗船を希望している」と伝えると、堀は中島を指し「この方が浦賀の副総督である」と答えた。
こうして二人は旗艦サスケハナ号(蒸気軍艦 2450トン)の艦長室に招かれ、ペリーの副官コンティと話し合いに入った。
ペリーは、この初めての接触で、高い地位の役人を引き出せたことに期待を膨らませた。当時の欧米諸国は、清朝中国から「対等な地位の役人」を引き出すことができず、その打破が最大の外交課題であった。したがって、最初の出会いで「副総督」という大物が出てきたことは、ペリーの予想をはるかに超える大成功であった。
アメリカ側の記録はつづける。「提督は長官室にとじこもり、副官が応対するという形式を取った」が、これは「実際には提督との会談であった」。
ペリー側通訳ポートマンを介して対話が進み、米大統領国書の受理を決める。
スライド10が、1853年、ペリー軍楽隊の久里浜上陸の図。
スライド11と12がポーハタン号の大きさを示す部分絵図。
スライド13がペリーを派遣したフィルモア大統領、スライド14~17に老中首席・阿部正弘、ジョン万次郎などの肖像画、1854年のペリー艦隊の第2回来航の絵図等がつづく。
スライド18がペリーと対話する第十一代林大学頭復斎(はやし だいがくのかみ ふくさい)の似顔絵。1607年、徳川家康は林羅山を登用し、幕藩体制のイデオロギー的支柱とした。羅山は仏教・キリスト教批判を行い、神道とはイデオロギー面で同盟関係を形成した。中国から導入した儒教が、この時点から神道との親近性という日本的な変容をとげた。
朱子学が「性理」を説き、「忠」より「孝」を重視するのにたいして、林は人間の感情を「心理」として強調し、親子間の「孝」より、組織への忠誠である「忠」を重視した。
羅山についで代々家督を継承した林家の主な役割は、正統的イデオロギーの保持者から次第に脱皮し、朝鮮通信使の応対など対外関係の処理と、官吏養成が主務となった。1790年設置の「昌平坂学問所」(昌平黌)からである。その教育内容は実務的要素が強い。
1853年のペリーの第1回来航時には第十代の林壮軒(健)であったが逝去、弟の林復斎(韑(あきら))が第十一代大学頭に就任し、ペリー応接にあたる。
役職に応じて役高を決める足高制(1723年)によれば、町奉行は3000石であるが、林大学頭はその上の4000石である。
スライド19とスライド20が、ペリー一行の横浜村上陸の絵(同行のハイネが描いた)がつづく。
スライド21と22が横浜応接所の位置を示す。大さん橋の付け根にある開港広場、開港資料館、象の鼻公園、神奈川県庁舎のあたり一帯である。
スライド23が日米全権らが対峙する様子。手前が林大学頭ら日本勢で、大刀は背後の部下が捧げ持っている。対面にペリーほかアメリカ勢がならぶ。
スライド24はアメリカ側通訳ポートマンが描いた絵で、中央にいるのが幕府のオランダ通事・森山栄之助、通訳のみならず、日米双方の司会進行をつとめている様子。森山とポートマンの間にはオランダ語の能力にとどまらず条約や国際情勢に関する知識量に圧倒的な差があり、ポートマンは進んで身を引く形をとった。
なおペリーは出国前から日本語通訳案を持ち、香港に着くやカントン駐在のS.W.ウィリアムズを訪問して要請するが断られ、日本語通訳案は挫折する。やむなく雇用したのがオランダ系アメリカ人のポートマンであった。
スライド25にペリーの発言に対する林大学の反論を入れた。重要なので再掲する。
条約内容をめぐる論戦(1854年ず3月8日、横浜村の応接所にて)【概要】
○ペリー「我が国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交のない国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら貴国は人命を尊重せず、日本近海の難破船も救助せず、海岸近くに寄ると発砲し、また日本へ漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国人民を我が国人民が救助して送還しようにも受取らない。自国人民をも見捨てるようにみえる。いかにも道義に反する行為である。
我が国のカリフォルニアは太平洋をはさんで日本国と相対している。これから往来する船はいっそう増えるはずであり、貴国の国政が今のままでは困る。多くの人命にかかわることであり、放置できない。国政を改めないならば国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する準備がある。我が国は隣国のメキシコと戦争をし、国都まで攻め取った。事と次第によっては貴国も同じようなことになりかねない。」
○林大学頭「戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言うことは事実に反することが多い。伝聞の誤りにより、そう思いこんでおられるようである。我が国は外国との交渉がないため、外国側が我が国の政治に疎いのはやむをえないが、我が国の政治は決して反道義的なものではない。我が国の人命尊重は世界に誇るべきものがある。
この三百年にわたり太平の時代が続いたのも人命尊重のためである。第二に、大洋で外国船の救助ができなかったのは大船の建造を禁止してきたためである。第三に、他国の船が我が国の近辺で難破した場合には、必要な薪水食料の手当てをしてきた。他国の船を救助しないというのは事実に反し、漂着民を罪人同様に扱うというのも誤りである。漂着民は手厚く保護し、長崎に護送、オランダカピタンを通じて送還している。
貴国民の場合も、すでに措置を講じて送還ずみである。不善の者が国法を犯した場合はしばらく拘留し、送還後に本国で処置させるようにしている。貴官が我が国の現状を考えれば疑念も氷解する。積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない。とくと考えられたい。」
これに答えたペリーは「それなら結構である」として双方が合意した。
なおペリー司令長官はフィルモア―大統領から次のような「発砲厳禁」の命令を背負っていたことは前述のとおり。アメリカ憲法では宣戦布告権を持つのは大統領ではなく、議会である。議会の多数派は民主党であった。副大統領から選挙を経ずに昇任したホイッグ党(共和党の前身)のフィルモア大統領がペリーに与えた「発砲厳禁」命令(US Congress(S)751-No.34)は重大な政治的意味を含んでいた。フィルモア大統領の「発砲厳禁命令」(国務長官より海軍長官あて)は、「大統領は宣戦布告の権限を有さない。使節は必然的に平和的な性格のものであることをペリー提督は留意し、貴下指揮下の艦船及び乗員を保護するための自衛及び提督自身もしくは乗員に加えられる暴力への報復以外は、軍事力に訴えてはならない」とある。
ペリーにとって交戦は何としても避けるべき大前提であった。
ついでペリーは持参の土産を横浜村に荷揚げしたいと要請する。スライド26の蒸気機関車の4分の1モデルやモールス通信機、幕府側からの返礼の米俵を軽々と担ぐ力士の絵(スライド28)。
スライド29がポーハタン号上の招宴にくつろぐ武士の姿を描く。
スライド30が、日本語、英語、オランダ語、漢文の4か国語で書かれた日米和親条約(1854年3月)のサインの箇所。4か国語の条約文が併存し、何語で書かれた条約文が正文(条約で条文解釈の根拠となる特定語の文)なのか不明のままである。これに配慮した幕府は、ペリー艦隊が避難港として開港した函館を訪れたのち下田に寄港する際に附属文書の交換を提案、実行に移した。すなわち日本語と英語を正文とし、オランダ語訳を付すと定めた。
スライド31が「ペリーの日本観」
国交のない国との関係を開くには、相手国の情報を的確に把握することが不可欠である。情報の収集・分析・政策化の3つがうまく連動しなければ、有効な対処はできない。情報には間接情報と直接情報の2種類がある。
アメリカが得た日本情報のうち、ペリーが最重要視した間接情報はシーボルト『日本(Nippon)』(1832〜52年にかけて分冊形式で刊行、ドイツ語)であった。ペリーは503ドルで本書を購入し、貴重な情報源と位置づけ。本書は冒頭に次の文章を置いている。
「……日本は1543年、ポルトガル人により偶然に発見されたが、その時、すでに2203年の歴史を持ち、106代にわたる、ほとんど断絶のない家系の統治者のもとで、一大強国になっていた……」
これはシーボルト自身の見解ではない。美馬順三のオランダ語論文『日本古代史考』(『日本書紀』の抄訳)から得たものである。シーボルトはこれを、そのまま自身の見解とした。諸外国では『日本』は最新の体験情報として、広く国際的な評価を得ていた。
英語圏でも需要が高く、「Chinese Repository」誌にアメリカ人宣教師ブリッジマンの抄訳で掲載された。ブリッジマンはアメリカ=清朝間の望厦条約(1844年)の通訳であり、またペリーの通訳兼顧問となるS.W.ウィリアムズとも深い交流があった。その英文抄訳の解説のなかでブリッジマンは言う。
「日本人は、原始時代いらい膨大な数の船舶を有し、中国人と同様に商人達は近隣諸国を往来・交易し、その足跡ははるかベンガルにまで及んでいた。ポルトガル人との接触時期に、すでに日本国は優れた文明を有しており、これはキリスト教の平和的・禁欲的な教えの影響を受けずに到達しうる最高位の文明段階と言える……」
ペリーも出国前に『日本』を熱心に読んで日本像を組み立てた。そして自分の使命を次のように書いている。「この特異な民族が自らに張りめぐらせている障壁を打ちくだき、我々の望む商業国の仲間入りをさせる第一歩、その友好・通商条約を結ばせる任務が、もっとも若き国の民たる我々に残されている」
最古の国の日本に、もっとも若い国のアメリカが挑戦する、と。
【日本の政体をペリーはどう見ていたか】
では、日本の政体をペリーはどう考えたのか。つまり日本の統治者は誰かという問題である。『日本』では、「ほとんど断絶のない統治者の家系」106代を神武天皇から数え、鎌倉幕府からは将軍に継承させている。ペリーは、「日本は同時に2人の皇帝を有する奇異な体制を持っている。一人は世俗的な皇帝であり、もう一人は宗教的な皇帝である」と解釈した。
これは、ヨーロッパにおける、国王とローマ法王との関係に似ている。条約締結にあたって誰と交渉するかは最重要の課題である。アメリカ大統領国書の宛先も、同時に添えたペリー書簡も宛先は「日本国皇帝」(Emperor of Japan)となっている。受理したのは幕府であった。ここで日本国皇帝=徳川将軍の関係が確立した。
日本では、世俗的皇帝と宗教的皇帝とが、それぞれ権力と権威(宗教的権威より広範囲な権威)を別々に体現していた。1615年、幕府は朝廷の権威を弱めるため禁中並公家諸法度を定めたが、最後まで幕府が確保できなかったのが象徴的行為の確保である。具体的には、律令制いらいの官位・爵位の授与権を幕府は握ることができず、将軍・大名・幕閣は朝廷から官位を受けていた。
通常、権威は隠れていて表面には出ない。しかし、幕末になって幕府と各藩の協調関係が崩れ、対立関係が表面化すると、隠れていた朝廷の権威が浮上する。「火山のマグマ」のようだといわれる幕府と朝廷の関係、つまり権威の保持者は誰かという問題が噴出した。大政奉還(徳川将軍が天皇に政権を返上すること)の政治変動期には、権威が権力の上位に立った。
スライド32が「1857年 登城するハリスの図」
ハリスの江戸出府要請を側面から支えたのが、それまでハリスとの交渉に当たっていた井上下田奉行や目付(めつけ)の岩瀬忠震(ただなり)である。条約交渉の先延ばしを主張する意見に対して、二人は早急に条約を結び、新しく国際社会との交渉を始めるべしと主張した。
スライド33が「2つの条約(概要)」で、以下のようにある。
日米和親条約(1854年)
①国交樹立
②避難港として下田と箱館(函館)の開港
③漂流民救助費の相互負担
④米国に片務的最恵国待遇
⑤アメリカ領事の下田駐在
日米修好通商条約(1858年)
①箱館(函館)・新潟・神奈川・兵庫・長崎の開港
②江戸・大坂の「開市」
③開港場周辺の遊歩規定
④片務的領事裁判権
⑤協定関税とアヘン禁輸
⑥通貨は同種同量の交換
⑦米国から軍艦購入、学者・軍人の雇用は随意
当時、イギリスとアメリカの政策で根本的に異なっていたのがアヘン政策である。イギリスのアヘン合法化(1858年の天津条約)に対して、アメリカはアヘン禁輸を一貫して主張した。
スライド34が「<敗戦条約>と<交渉条約>の比較一覧」(拙稿「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸条項を中心として」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1982年)。本稿は石井孝『日本開国史』(1972年)が左に振った(1)から(4)を指摘するのに対して、私は(5)条約の根拠(敗戦か交渉か)、(6)賠償金支払い、(7)領土割譲、(8)居留地の外国人自治、(9)アヘン条項(日本で禁輸、中国で解禁)、(10)内地通商、(11)外資導入を追加した。なかでも(5)、(6)、(9)を強調した。
スライド35は太平洋を行く咸臨丸(かんりんまる)。日米修好通商条約の批准書交換をワシントンDCで行うと決めたため、ポーハタン号の援助を借りて初めて太平洋を往復した。万延元年遣米使節とも言う。軍艦奉行木村摂津守喜毅や軍艦操練教授方頭取出役勝海舟、福沢諭吉、通訳のジョン万次郎(スライド15に肖像画あり)ほか96人が乗り組んだ。
咸臨丸は幕府海軍が保有していた軍艦、木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベット。オランダ語の旧名は「Japan」(ヤッパン号)、「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。
これより、スライド36から39へと横浜村の形成に関わる絵図がつづく。
スライド40は、歌川広重の浮世絵、「山手方面から見た横浜町の全景。運上所(のちの税関)等、賑わいを見せる風景」。これは横浜開港後の風景である。
最後のスライド41は横浜開港地の全図。真ん中あたりを上下に伸びる日本大通りの右側が日本人町で、左側が外国人居留地、うち斜めに並ぶ一帯が中華街である。
前面の海底(地図の下方)が深く切り込んでおり、大型船の来航に圧倒的な優位性を持つ。これこそが、その後の横浜の発展を支えた要因の一つである。
〇「横浜開港と三溪園」
元・横浜市立大学学長、前三溪園園長 加藤 祐三
〇「三溪園における古建築の保存・継承について」
横浜国立大学都市科学部建築学科 教授 大野 敏氏
〇「文化財庭園をめぐる近年の動向」
文化庁文化財第二課 文化財調査官 青木 達司氏
本稿は、このうち加藤祐三「横浜開港と三溪園」をまとめたものである。
なお文庭協は、令和5年5月31日現在、141会員(正会員 114会員 賛助会員 27会員)を擁し、114正会員の地方別内訳は、東北地方13、関東地方15、中部地方16、近畿地方39、中国地方16、四国地方3、九州地方6、沖縄地方2である(『会報』第58号による)。
現在の文庭協会長は亀山章氏(東京農工大学 名誉教授)である。
私の講演「横浜開港と三溪園」では、略年表「横浜開港と三溪園」のA3拡大版を配り、それについて若干の説明を加えた後、パワーポイント41コマの図像等を放映しつつ説明を加えた。
A3横組みで3段に分けた「略年表 横浜開港と三溪園」は、そのままでは本稿に収まらないため、3段をA,B,Cごとに分解して以下に収録する。
【文庭協のメンバー】
文庭協のホームページに次のようにある。
文化財指定庭園とは、一般に、文化財として価値のある庭園を、文化財保護の法律や条例にもとづいて指定し、保護しているものです。庭園は通常は文化財の分野のなかの名勝に指定され、その歴史的価値を合わせた史跡と重複して指定されることもあります。
日本庭園の歴史的様式は、日本の風土において育まれた国土の多様な自然風景美を象徴的に意識し、限られた庭園のなかに導入することによって発展してきたものです。そのため、名勝の庭園は、風景の文化財ということができます。
文化財指定庭園保護協議会は、国の文化財保護法で名勝に指定された庭園の所有者および管理者を会員とする団体であり、近年では国の名勝分野の登録記念物にされた庭園も会員になっています。これらの庭園は、わが国を代表する「名園」と呼ぶことができます。
庭園を文化財として保護する制度は、大正8(1919)年に制定された史蹟名勝天然紀念物保存法がはじまりです。この法律では、史蹟と名勝と天然紀念物の3つを記念物として扱っています。その後、昭和25(1950)年に文化財保護行政を強化するために、史蹟名勝天然紀念物保存法は国宝保存法などと統合されて文化財保護法として生まれ変わります。
昭和26(1951)年の文化財保護委員会告示によれば、名勝は、「わが国のすぐれた国土美として欠くことのできないもので、(庭園や公園などの)人文的なものにおいては、芸術的あるいは学術的価値の高いもの」とされています。また、「名勝のうち価値が特に高いもの」を特別名勝とする、とされています。
文化財保護法で指定された国指定の名勝は、令和4(2022)年3月1日現在で庭園は234件(内、特別名勝24件)、公園は10件です。
さらに、平成8(1996)年に創設された登録文化財制度では、有形文化財のうちの建造物等に限られていましたが、平成16(2004)年の法改正で、建造物等以外の有形の文化財(有形文化財のうちの美術工芸品、有形民俗文化財、記念物)に拡大されました。名勝地関係の登録記念物は、令和4(2022)年3月1日現在で105件登録されています。そのうち、庭園77件、公園13件となっており、主に庭園が登録されています。
【平安時代~近代に創建の各種庭園を含む234件の文化財指定庭園】
文庭協の会員には、創建の時代がさまざまな各種庭園がある。私が訪れたものだけでも、古いものでは西暦850年(嘉祥3年)、慈覚大師が東北巡遊のおり、一人の白髪の老人が現われ、この地に堂宇を建立して霊場にせよと告げたことに起源する岩手県平泉の毛越寺(モウツウジ)がある。
鎌倉時代創建の庭園では、鎌倉幕府の将軍補佐・北条時頼が建長5年(1253)に開基、中国から渡来した僧・蘭溪道隆(らんけい どうりゅう)が開山。臨済宗建長派の大本山等がある。
江戸時代創建のものには、江戸時代初期の小石川後楽園や、7年の歳月をかけて元禄15年(1702年)に完成した柳沢 吉保(やなぎさわ よしやす)の「回遊式築山泉水庭園」の六義園(りくぎえん)等がある。
明治以降の近代に創建されたものに、東京都北区西ケ原にある、1919年(大正8年)に古河財閥の古河虎之助男爵の邸宅として現在の形(洋館、西洋庭園、日本庭園)に整えられた旧古河庭園などがある。
これに対して三溪園は、20世紀初頭になっての創建である。創建の時代が大きく異なるメンバーを相手にした講演で、「横浜開港と三溪園」と題したこと自体に違和感を感じられるのではないかと気づいたが、あとの祭りである。
【講演で注意を払ったこと】
20世紀になって創建された三溪園の成長とその特徴を語るには、幾つかの要素を予め明示する工夫が必要となろう。国際関係、人口増、都市の巨大化、科学技術の急展開等も欠かせない。そしてキーパーソンがつなぐ「赤い糸」を注意深く引き出すことも不可欠である。
そこでお配りしたA3の略年表「横浜開港と三溪園」に、まず何か所かに印を付していただきたいとお願いした。以下の赤字の箇所である。
A都市横浜の歩み【+世界史】
〇誕生以前
1842年8月28日(南京条約締結1日前)、長崎に入る2系統の【アヘン戦争1839~1842年】情報を分析、天保薪水令(薪水供与令)を公布。←1825年の文政令(異国船無二念打払令)撤回と<避戦>の徹底。
1854 年 日米和親条約(久良岐郡横浜村で調印)←12年目。
1858 年 日米修好通商条約(五港開港、アヘン禁輸…)←16年目。
○誕生
1859 年 7月 1 日(安政六年六月二日)横浜開港←17年目。
【1856~60年の第2次アヘン戦争。天津条約でアヘン合法化】
○成長期(1859~1923 年)
1859 年 武蔵国久良岐郡横浜町(5ヵ町)
1872年 横浜=新橋間の鉄道開通
1879 年 横浜正金銀行設立
1889 年 横浜市(市政公布、市会議長に善三郎)、市域5.4㎢ 人口 12 万人
【1894~95年 日清戦争】
1901 年 本牧ほか6ヵ村を横浜市に編入(第1次市域拡張)⇒24 ㎢、30 万人
【1904~05年 日露戦争】
1909 年 横浜開港50周年祝賀会 市歌等を制定
○受難期(1923~1965 年)
1923 年 9 月 関東大震災①~五重苦の始まり
1927年~ 中区等の区制化。市域 133 ㎢、53万人
1930年~ 昭和初期の経済恐慌②
1939 年 市域拡張で 400 ㎢、87 万人
1941 年~【第二次世界大戦】 空襲③、東京が国際貿易港に
1945 年~ 連合軍による占領と接収④
1959 年 横浜開港100周年、マリンタワー建設
1960年~ 郊外部のベッドタウン化による人口爆発⑤。
1969 年 417 ㎢、人口 210 万
○再興期(1965~
1965 年 横浜六大事業(都心臨海部強化、港北ニュータウン、金沢地区埋め立て、地下鉄建設、高速道路網等)
1989 年 横浜博覧会とみなとみらい地区開発
(市政公布 100 周年 開港 130 周年)
○成熟期 人口377万、日本最大の政令市
横浜開港と三溪園
2023年6月22日 元・横浜市立大学学長、前三溪園園長 加藤祐三
B 青木富太郎(原三溪)と三溪園
1861 生糸売込商・原善三郎が横浜居留地に出店
1863年 岡倉天心生誕(石川屋=現開港記念会館)~1913年
1868年 青木富太郎(原三溪)生誕(10月9日)
1868年(明治初年)ころ善三郎が現在の三溪園一帯を購入
1885年 富太郎が上京、東京専門学校(現早稲田大学)入学。政治・経済を学び、跡見女学校で漢詩・漢文・歴史を教える。
1889年 天心らが『国華』誌を創刊。「夫れ美術は国の精華ナリ」
1892年 富太郎が善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚、原家に入る
1897年 古社寺保存法(文化財保護)の制定
1899年 善三郎没、富太郎が承継、原商店を原合名に改組。また跡見女学校の筆頭理事を承継、生涯にわたり務める。
1902年 富太郎が本牧三之谷に転居(鶴翔閣)、この頃から三溪の号を使う。
富岡製糸場を経営(1902~1938 年)
1906年 三溪園外苑を公開、<遊覧ご随意>
1907年 東慶寺仏殿を移築
1909年 生糸輸出量で日本が世界一となる
1913年 三溪が下村観山(代表作=弱法師1915年)を本牧和田山に招く。
1914 年 三重塔の移築、外苑の完成
1917 年 臨春閣の移築。
1920 年 白雲邸(隠居所)へ移る
1922年 聴秋閣の移築により三溪園完成。
1923 年4月 三溪園で大師会茶会開催、三溪園のお披露目
1923年 9 月 1 日、関東大震災、私財を投じて震災復興に尽力。
横浜市復興会会長。
1937 年 三溪の長男・善一郎が急逝(46 歳)
1939 年8月16日 三溪没
1953 年 財団法人三溪園保勝会設立
2007 年 国指定名勝となる
2012年 公益財団法人三溪園保勝会となる
その定款第3条 「この法人は、国民共有の文化遺産である重要文化財建造物等及び名勝庭園の保存・活用を通して、歴史及び文化の継承とその発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信することを目的とする。」(下線は加藤)
2019年末~ 新型コロナウィルス感染症による打撃
C 注と参考文献
1827、原善三郎(~1899 年)が武蔵国渡瀬(埼玉県児玉郡神川町)に誕生。1868 年10月8日、青木久衛と琴の長男・富太郎が誕生(岐阜市柳津町佐波)~1839年。
主な参考文献:拙著『幕末外交と開国』(2012年 講談社学術文庫)に主な史料35点、主な研究書84点を収めた。ほかに『三溪園 戦後あるばむ』2003、『三溪園 100周年』2006、『三溪園』リーフレット、横浜中区史、藤本実也『原三溪翁伝』、齋藤清『原三溪-偉大な茶人』、『横浜もののはじめ考』、『名勝三溪園保存整備事業報告書(中間) 平成 28 年度』。『跡見花蹊日記』。ホークス編・宮崎寿子監訳『ペリー提督日本遠征記 上下』(2014年 角川ソフィア文庫)、S・W・ウィリアムズ/洞富雄訳『ペリー日本遠征随行記』(2022年 講談社学術文庫)。
加藤祐三の主な著書:『幕末外交と開国』(2012年 講談社学術文庫)、『開国史話』(2008年 神奈川新聞社)、『世界繁盛の三都』(1993年 NHKブックス)、『地球文明の場へ』(『日本文明史』第7巻 角川書店 1992年)、加藤編 Yokohama Past and Present 1990 横浜市立大学、『黒船異変-ぺりーの挑戦』(1988年 岩波新書)、『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)、『東アジアの近代』(1985年 講談社)、『イギリスとアジア』(1980 年 岩波新書)
加藤祐三ブログ http://katoyuzo.blog.fc2.com/
ブログの下記数点(掲載日の頭の20は省略) 140414 花めぐり。141022 原三溪の故郷。 151123 白雲邸。160503 原時代の富岡製糸場。 160609 開港記念日と横浜市歌。 161003 三溪と横浜-その活動の舞台。 161121 原三溪と本牧のまちづくり。 171120 三溪園と本牧のまちづくり。 180312 女性駐日大使ご一行の三溪園案内。 180608 IUC 学生の卒業発表会。181101 三溪園の大師会茶会。 190315 臨春閣の屋根葺き替え工事。 190619 IUC 学生の卒業発表会。 190909 展示「もっと知ろう! 原三溪」。 191025 ラグビーW杯2019。191016 IUC 学生の三溪園印象記(2019年)。 210125 新年の書画。211119 「日仏文化交流-CHAUMET 特別公開によせて」。 220226 春が来る。 221004 アヘン戦争と日本の開国(上)。 221111 富岡製糸場創業150周年記念式典。 221225 アヘン戦争と日本の開国(中)。 221228 アヘン戦争と日本の開国(下)。 230131 Yokohama Past and Present。 230403 三溪園園長の退任にあたって。 230508 横浜開港と三溪園 その1。 同ブログの右欄リンク内にある、「横浜の夜明け」(『横濱』誌連載)。
国指定名勝(2007年)認定⇒「…(近世以前の象徴主義から脱却した)近代の自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・鑑賞上の価値はきわめて高い。内苑の移築建物の配置やそれらの建物とよく調和した周辺の修景もまた三溪の構想によるもので、数寄者としての三溪の美意識が窺える。…」(下線は加藤)
【略年表「横浜開港と三溪園」について】
お手元にある略年表「横浜開港と三溪園」に、これから私が言う何か所かに下線を引くなり、〇印をつけてください、とお願いしたのは、上記の赤字で記した箇所である。
A 都市横浜の歩み【+世界史】
1842年8月28日(南京条約締結1日前)、長崎に入る2系統の【アヘン戦争1839~1842年】情報を分析して天保薪水令(薪水供与令)を公布、それ以来、<避戦>の徹底を図った。
1854 年 日米和親条約(久良岐郡横浜村で調印)
1858 年 日米修好通商条約(五港開港、アヘン禁輸…)
同じころ中国では【1856~60年の第2次アヘン戦争の最中、天津条約(1858年)でアヘン合法化】を強いられた。
戦争を伴わず、賠償金支払いも免れ、順調に開国した日本は、1872年 横浜=新橋間の鉄道開通を見て、横浜開港30年後の1889 年 横浜市(市政公布、市会議長に善三郎)が就任する。善三郎とはB 欄の「1861 生糸売込商・原善三郎が横浜居留地に出店」とある、その人である。
B 青木富太郎(原三溪)と三溪園
1868年(明治初年)ころ善三郎が現在の三溪園一帯を購入したとあるのは、明治政府の神仏分離令に伴う廃仏毀釈が激化したため、仏教寺院が維持できず、生糸売込商・原善三郎がこれを買い入れ、別荘の松風閣を建てた。
1892年 富太郎が善三郎の孫娘・屋寿(やす)と結婚、原家に入るに至る秘話が残る。跡見女学校で教鞭を取っていた富太郎が新橋駅で草履の鼻緒が切れて困惑する屋寿を見かけ、腰につけた手ぬぐいで修理してやったことがきっかけと言われる。
富太郎が名勝三溪園を創建しようと決意したのは、岡倉天心の文部官僚としての大仕事、1897年の古社寺保存法(文化財保護)の制定であると私は考えている。神仏分離令に伴う廃仏毀釈が全国的に激化し、救助を求める古社寺が跡を絶たなかった。富太郎の脳裏には故郷の岐阜県佐波や母の故郷の神戸町(ごうどちょう)の三重塔の姿などが渦巻いていたのではなかろうか。
のちに岡倉天心の東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の教え子、下村観山、横山大観、今村紫紅、荒井寛方、清水御舟たちを支援し、かつ収蔵の名画を前に議論しつつ学ぶ、画家としての富太郎の嬉々とした姿につながる。
富太郎が三溪園の地形の特徴を活かし古社寺の移築を考えたのは何時ごろからか? まだ分からないが、「1914 年 三重塔の移築、外苑の完成」ころには明らかに意識していたと思われる。国指定名勝(2007年)認定に記される「…(近世以前の象徴主義から脱却した)近代の自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・鑑賞上の価値はきわめて高い。内苑の移築建物の配置やそれらの建物とよく調和した周辺の修景もまた三溪の構想によるもので、数寄者としての三溪の美意識が窺える。…」(下線は加藤)である。
C 注と参考文献
今回の講演を準備する中で、3冊の拙著を手元において考えた。最新の作品が『幕末外交と開国』(201年 講談社学術文庫)であり、多くの史実と解釈を同書から取っている。
そして43年もの昔の作品『イギリスとアジア-近代史の原画』(1980 年 岩波新書)は「19世紀東アジアにおけるイギリスの存在」をテーマに得た文部省の「在外研究」の成果をまとめたもの。「イギリス植民地インドにおけるアヘン生産の140年」と「19世紀アジア三角貿易」(紅茶・アヘン・綿布からなる)を主なテーマとしている。
3冊目の拙著が『黒船異変-ペリーの挑戦』(岩波新書 1988年)である。当時はもちろん今なお誤解が多い論点、すなわち①無能無策の幕府に、②ペリー艦隊の強大な軍事的圧力が加わり、③極端な不平等条約となった、とする誤解を、歴史的事実に基づいて解きたいと考えた。
ペリー艦隊のミシシッピー号(1692トン)とサスケハナ号(2450トン)の2隻は、超大国イギリスさえ持っていなかった世界最大・最先端の蒸気軍艦である。ついでポーハタン号(2415トン)が合流し、合わせて蒸気軍艦は3隻になる。当時、アメリカ海軍が所有・就航していた超大型蒸気軍艦は、わずか5隻であり、そのうちの3隻を日本に投入したことになる。
【幕府の対外政策】
スライド2の左欄に拙著『幕末外交と開国』(201年 講談社学術文庫)の35ページ所収の「略年表」を再録した。ペリー来航時の幕府の対外政策は、1842年に公布された穏健策の天保薪水令であった。1825年公布の強硬な「異国船無二念打払令」(年号をとって文政令と略称)を撤回し、1806年の文化令に復す形式で採用した穏健策である。
アヘン戦争(1839〜42年)の軍事衝突に幕府は強い衝撃を受けた。幕府の対外政策を簡単に概観すると、キリシタン禁制を内容とする「鎖国」が完成した1641年から、およそ150年を経た18世紀末以降、鎖国政策の持つ役割は大きく変わり、主に次の3点となっていた。
①キリシタン国以外の外国船(異国船)への対処
②日本人の海外渡航禁止
③大型外洋船の所有・建造の禁止
18世紀末になると、異国船が日本近海に出没する事件が多発、旧来のままの鎖国政策維持は次第に困難になった。政策変更にはヒト・カネ・モノを包含する対外情報を把握しなければならない。鎖国の最中、幕府はどのように情報を入手し、それをいかなる論理で分析し、政策に生かしたのか。
幕府は4回にわたり異国船対処の方針を打ち出し、沿岸部に領地を持つ諸大名に周知させた。これらの対外政策は、長崎在住のオランダ商館長から外国にも伝えられた。
①1791年の寛政令
②1806年の文化令
③1825年の文政令
④1842年の天保薪水令
寛政令と文化令は、北方からのロシア船にたいするもので、食料と水・薪など必要な物資を与えて帰帆させる穏健策である。
これにたいして第③の文政令は、外国船が沿岸に姿を現せば、ためらうことなく大砲を打てとする強硬策であり、「無二念打払令」といわれた。「なにがなんでも打ち払え」である。強行策を採用した遠因をたどると、1808年、イギリス軍艦フェートン号が長崎に来航し、奉行の制止を聞かずに上陸、牛などを食用に奪った事件に行き着く。
フェートン号の来航はナポレオン戦争の余波であり、長崎のオランダ商館のオランダ国旗をひき下ろすのが目的で、日本攻撃のためではなかった。しかし、奉行の制止を聞かない行動は「国権侵害」ととらえられ、長崎奉行は責任をとって自害。この事件以降、官民を問わず反英論が根強くなる。
ついで1837年、強硬策の文政令下にモリソン号事件が起きた。浦賀沖に来航した一隻の異国船に向け、浦賀砲台から大砲を打った。甲板に命中はしたが、破壊力は弱く、船はそのまま帰帆。鹿児島沖でもふたたび打ち払いに遭う。船籍は不明であった。
翌年、長崎にオランダ風説書が入る。そこには「日本人漂流民の送還を目的に、マカオ出航時に意図して大砲をはずした非武装船にたいし、有無を言わさぬ発砲は、きわめて遺憾である」とあった。この風説書には幾つかの誤報も含まれており、最大の誤報はモリソン号をイギリス軍艦としている点である。モリソン号はイギリス軍艦ではなくアメリカ商船であったが、このオランダ風説書を修正する情報が後にも入らず、そのまま信じられた。
日本国内では早くも1838年9月付けで、次のような上申書を出した人物がいた。「清国はなんと言っても大国であり、夷狄も容易に手を出さないでありましょう。朝鮮琉球等は貧弱の小国であるため目にかけず、したがってイギリスは第一に日本をねらい、次に清国を切り従える手順となりましょうから、実に憂うべく憎むべき事でございます」。
イギリス側にこの意図はなかったが、日本国内に強い反英・脅威論が浸透した。これを追うように翌1839年、オランダ風説書と唐風説書が新しいニュースを伝えた。清朝とイギリスのアヘン密輸をめぐる対立、林則徐による外国人貿易商の手持ちアヘン没収、清英間の軍事衝突、交戦、イギリスの大勝という内容である。
【幕府の<避戦論>とペリーの思惑が一致】
アメリカ側の記録『ペリー提督 日本遠征記』によれば、1853年7月、ペリー艦隊の旗艦サスケハナ号に番船で近づいた二人の役人が、「“I can speak Dutch !”(自分はオランダ語が話せる)」と英語で叫んだ。
この出会いは、きわめて象徴的である。最初の対話で発砲交戦を避けることができた。それには日米双方の事情があった。見えざる糸が「戦争」を回避させ、「交渉」へと導いた。やがて接触を重ねるうちに、双方ともに「交渉」の重要性を認識し、それに伴う行動を優先させていく。
鎖国の最中で海軍を持たない幕府は、彼我の戦力を冷静に分析し、戦争を回避する大方針、すなわち「避戦論」を基軸にすえた。そのうえで外交に最大の力点を置き、情報を収集し、分析し、それを政策に活かしてきた。
第1、アヘン戦争(1839〜42年)での中国敗戦の情報を「自国の戒」ととらえ、強硬策の文政令を撤回して穏健な天保薪水令(1842年)に切り替えていた。
第2、ペリー艦隊来航の予告情報を前年のうちに長崎出島のオランダ商館長から入手し、対応を準備してきた。
第3、ペリー来航の地を長崎か浦賀のいずれかと想定して、長崎を中心としていたオランダ通詞の配置を変え、浦賀奉行所の態勢を強化した。
一方、ペリー艦隊はどうか。
第1に、巨大な蒸気軍艦の石炭や1000人近い乗組員の食料などに必要な、独自の補給線を持っておらず、アジアに強力な補給線を持つ「超大国」イギリスに頼らざるをえなかった。建国から77年目の「新興国」アメリカは、旧宗主国イギリスとの関係を強く意識していた。
日本と交戦状態になれば、イギリスの「中立宣言」は必至である。その結果、国際法の規定により、イギリス支配下のアジア諸港に寄港できなくなり、物資補給が断たれる。
第2に、ペリーは「発砲厳禁」の大統領命令を背負っていた。アメリカ憲法では宣戦布告権を持つのは大統領ではなく、議会である。議会の多数派は民主党であった。副大統領から選挙を経ずに昇任したホイッグ党(共和党の前身)のフィルモア大統領が、ペリーに与えた「発砲厳禁」命令(US Congress(S)751-No.34、国務長官より海軍長官あて)は、重大な政治的意味を含んでいた。
「大統領は宣戦布告の権限を有さない。使節は必然的に平和的な性格のものであることをペリー提督は留意し、貴下指揮下の艦船及び乗員を保護するための自衛及び提督自身もしくは乗員に加えられる暴力への報復以外は、軍事力に訴えてはならない」
こうした政治的・軍事的な状況下では、ペリーにとっても交戦は何としても避けるべき大前提であった。戦争を伴わない「交渉条約」、これは基本的に重要な点であり、その諸要因を国内的・国際的な側面から再確認したい。それは同時多発テロ以降の世界やロシアのウクライナ侵略に伴う「戦争と外交」を展望することにもつながるはずである。
【反英論が強まり、親米論が支配的に】
ついで1844年、オランダ国王から書簡が来た。天保薪水令への切り換えだけでは不十分で、いずれは開国・開港を求めて外国船が来る、対外政策を変更すべきという趣旨である。
この頃からアメリカ船の来航が急増する。1845年、漂流日本人を救出・送還するために、浦賀にアメリカ捕鯨船マンハッタン号が来た。ついで1846年、浦賀沖に米国東インド艦隊(帆船2隻)のビッドル提督が来航、これがアメリカ最初の公的使節である。
ついで1849年、アメリカ漂流民救出を目的としてグリン艦長(帆船プレブル号)が長崎に来航した。これらの問題はいずれも円満に解決し、親米論が支配的になった。
幕府の対外観は、上記のような経験から導き出したものであり、また当時の国際政治をよく見すえた判断でもあった。超大国イギリスは世界の覇権を担い、戦争を仕かけ、各地に植民地を獲得、その一環として日本を視野に入れていた。
それにたいして、アメリカとロシアは「新興国」であり、まだ体系的な世界戦略を確立していなかった。幕府にとって組みしやすいのは、友好的な「新興国」である。さらに幕府は、国際法の論理を、ほぼ正確に理解していた。それは最初の条約が有利であれば後続条約にも有利性が継承され、不利であれば不利性が継承される、という「最恵国待遇」の論理である。
したがって、最初の条約国の選択は決定的に重要であった。
なぜアメリカはこの時期に、世界最大の蒸気軍艦を建造したのか、それをなぜ日本へ投入したのか。
【明白な宿命】
ここで大まかにアメリカ政治の大状況を見ておきたい。
1840年代後半のアメリカ合衆国は、民主党のJ・K・ポーク大統領(1845〜49年)のもと拡張主義・膨張主義が旺盛な時代である。アメリカの国土拡大は神より与えられた「明白な宿命」であるとする主張が強く支持され、1845年にテキサス共和国を合衆国に併合し、また西北のオレゴンは1846年にイギリスと協定を結び、その南半分をアメリカ領とした。
そして1846〜48年の米墨戦争である。このメキシコとの戦争は「アメリカ史上もっとも不正な戦争」との批判もあったが、1848年2月に大勝、太平洋に面する広大な西海岸カリフォルニア(日本の国土面積とほぼ同じ)をメキシコから割譲させ、その彼方にあるアジアを視野に入れた。のちに隣接するニューメキシコも1500万ドルで買収した。
この米墨戦争勃発の前年の1845年から、ペリーはメキシコ湾艦隊司令長官コナーの下で副司令長官を務め、47年から司令長官となった。その副司令長官がオーリックである。1848年、ペリーは郵船長官に転任、その主な職務は蒸気船による郵船網をアメリカ沿岸に構築することであった。
同じ年の1月には、サンフランシスコの東、サクラメント渓谷で金鉱が発見され、年末からゴールドラッシュが始まる。陸から海から人々が押しよせた。拡張主義の「明白な宿命」に好況の夢が加わり、奴隷制の存否をめぐる政治的対立は消え、人々は熱に浮かれ始めた。
1849年、民主党のポーク大統領に代わり、ホイッグ党のZ・テイラー(Z. Taylor)が第12代大統領に就任した。ホイッグ党は共和党(1854年結成)の前身である。テイラーは生粋の軍人で、米墨戦争でもその戦端を開き、常勝将軍の名を高め、その人気をバックに大統領選に勝利した。テイラー大統領の副大統領がM・フィルモア(M. Fillmore)である。テイラーが翌1850年7月に病死すると、憲法の規定にもとづき、フィルモアが大統領(第13代)に昇任した。
【東インド艦隊とは】
東インド艦隊は、1822年、太平洋艦隊を改称したものである。日本との条約交渉を指示したのは1851年5月、最初に任命された東インド艦隊司令長官はオーリックである。
オーリックは、サスケハナ号に搭乗、赴任の途上でトラブルをおこし、51年11月に更迭、中国まで来たところで引き返し(帰国)、日本までは来ていない。代わって任命されたのがペリーである。メキシコ湾艦隊ではペリーの部下であったオーリックが先に任命された人事のねじれが、二人の間に複雑な葛藤を生みだした。
内示を受けたペリーは、しばらく回答を留保、任命は翌1852年3月である。そしてペリーがミシシッピー号に搭乗して軍港ノーフォークを出港したのが、1852年11月であった。1851年5月のオーリック派遣決定から、後任者ペリーの出発まで、約1年半の歳月が流れていた。
【蒸気軍艦の建造年】
ミシシッピー号は1839年の建造である。サスケハナ号は1850年に就航した最新鋭であり、翌年に合流したポーハタン号の建造年はさらに新しく、1852年に完成したばかりである。
サスケハナ号、ポーハタン号、これら最新鋭艦は、日本派遣を決めた1851年5月の後に建造に着手したとは考えられない。海軍予算で新造艦を発注して、この規模の最新鋭艦の完成まで、少なくとも3年間は必要である。では新造艦の建設に着手した要因は何か。
両艦ともに、建造を決定したのは1846年であった。その目的は、米墨戦争における戦力増強にあった。当時のアメリカ海軍は世界に6艦隊を有していたが、メキシコ湾艦隊が米墨戦争の主役となる。蒸気軍艦を投入しなければ、この戦争に勝利できない、そう海軍は主張して戦時体制下の予算を獲得、すぐに発注した。
新造艦が完成する前の1848年に米墨戦争が終わった。だが、発注を取り消すわけにはいかない。建造は着々と進み、完成を見たのが1850年と1852年である。そのときメキシコ湾は、アメリカにとってすでに「平和の海」となっていた。戦時体制を維持する必要が薄れ、最新鋭の艦隊を擁する必要も失われた。過剰装備は不要との声に、海軍省として、どう対処するか。
【太平洋横断の郵船航路構想】
完成したばかりの巨大な蒸気軍艦の配備先と、その理由が必要となった。ひとつが郵船航路である。アメリカ東海岸からメキシコ湾、そしてメキシコ半島を陸路つなぎ、西海岸の諸港を結ぶ郵便と人を運ぶ計画である。商品も運ぶことができる。大陸横断鉄道の整備と並行して、郵船網は緊急に樹立すべき通信・交通網であった。
この国内用の郵船網の延長上に、太平洋横断の郵船航路構想が持ち上がっていた。すでにイギリスがP&O社を開設し、母国からスエズを陸路通過してインド、シンガポール、香港、上海、そしてシンガポールから南下するオーストラリア航路を持っていた。香港までの航路開通が1845年、上海支線の開設は1849年である。その延長上にイギリスは太平洋横断航路を構想していた。
太平洋横断航路をイギリスに先取りされてはならない。この判断がアメリカ側にあった。そこで新しい蒸気軍艦の配備先として浮上したのが東インド艦隊である。「東インド」(East India)という呼び方は、イギリス海軍のそれを踏襲したものである。イギリスにとって東インドは「インド以東(East of India)」ともいわれ、地理的な意味を持つ伝統的な用語だが、アメリカにとっての東インドは、西部の先の、太平洋のさらに西の彼方である。東インドではいかにも分かりにくいが、アメリカ海軍でもこの名称が長く使われてきた。
では、東インド艦隊に巨大艦隊を配備する理由はなにか。アメリカにとって「最遠の海域」に配備するには、まだ十分な補給線もなく、戦争目的を掲げるわけにはいかない。戦争を必要とする事態もなかった。そこでアメリカ人漂流民を保護するという「人道目的」が浮上した。
【捕鯨業の黄金時代】
当時のアメリカ政府と議会の資料には、難破したアメリカ捕鯨船員の漂流とその救出問題が頻繁に出てくる。アメリカ捕鯨船がケープホーンを回って太平洋へ出漁したのは1791年、その後、1814~15年のウィーン会議から1860年頃までが太平洋におけるアメリカ捕鯨業の黄金時代で、1840年代後半が最盛期にあたる。
1846年の統計によれば、アメリカの出漁捕鯨船数は延べで736隻、総トン数は23万トン、投下資本は7000万ドル、従業員数は7万人である。年間にマッコウクジラとセミクジラをあわせて1万4000頭を捕獲する乱獲時代を迎えた。日本近海で操業するアメリカ捕鯨船は約300隻にのぼり、難破する捕鯨船も増えた。
捕鯨の主目的は、照明用のランプ油として使う鯨油の確保であった。欧米諸国で工場がフル操業するようになると需要が伸び、アメリカ国内はもとよりヨーロッパにも輸出された。鯨のヒゲや骨も装飾品などに加工された。ちなみにカリフォルニアで最初に油田が見つかったのが1847年、しばらくは灯油として鯨油と石油の併用時代がつづく。石油に取って代わられ、捕鯨業が衰退する直前、鯨油需要のピークがこの時期にあたる。
【漂流民の保護】
アメリカ捕鯨船の難破・漂流ルートは、主漁場であった北太平洋に始まる。暴風に遭い、マストが折れると、海流に流されてしまう。日本側から東へと流れる北太平洋海流はアメリカ大陸近くで北転し、さらに西へ方向を変え、千島海流と合流する。その後は南下して北海道(蝦夷地と呼ばれた)に至る。
アメリカ捕鯨船が北海道に漂着した主な事件は、1846年のローレンス号、1848年のラゴダ号とプリマス号などである。ちょうど米墨戦争の開戦と終戦の年にあたる。1848年6月、ラゴダ号には捕鯨船員15名が、プリマス号にはマクドナルドという青年が乗っていた。マクドナルドは日本人に初めて英語を教えた人物。彼はイギリス人を父にアメリカ先住民を母にもつハーフで、先住民と日本人が共通の祖先を持つと考え、母の故国を見たいと日本潜入を試みた。
アメリカ人漂着民は、救出されると松前藩に移送され、その後、取調べのために長崎に移される。彼らは少年の頃に捕鯨船員となり、英語しか分からない。一方、北海道にも長崎にも英語が分かる日本人がいない。長崎奉行は、出島在住のオランダ商館長レフィソーンに立会い兼通訳を依頼した。「日本語⇄オランダ語⇄英語」の二重通訳である。オランダ商館員もさほど英語が堪能ではなかったようだが、簡単な意思疎通はできた。
長崎奉行は一定の取調べの後に、帰帆するオランダ船で彼らを母国へ送還する方針である。鎖国政策下の日本には外洋船がなく、送還方法は他に考えられなかった。だが、取調べ終了前にオランダ船の帰帆時期が来た。季節風を利用しての航海であるため、オランダ船は急ぎ帰途についた。
オランダ商館長は帰帆する船にいつも書簡を託す。ある種の業務報告である。アメリカ人漂流民についても言及した。このニュースはバタビア(現在のインドネシアのジャカルタ、オランダ植民地政庁の総督が駐在)のオランダ総督から香港駐在のオランダ領事へ、そして香港駐在のアメリカ弁務官へ、最後にアメリカ東インド艦隊へと次々に転送された。
【グリンが救出目的で長崎へ】
知らせを受けたアメリカ東インド艦隊は、直ちに軍艦プレブル号の艦長グリンを日本に派遣した。ゲイジンガー司令長官がグリンに与えた指示は、「協調的かつ断固とした態度を取り、長崎で解決しなければ江戸に行って直接に交渉すること、わが国の利益と名誉を守ること、琉球・上海に寄る時間をふくめ、約3ヵ月で任務を完了すること」などである。
さらに派遣の背景には国益がかかっているとして、ゲイジンガーは次のように言う。「われわれの価値ある捕鯨船団の保護、捕鯨業の奨励に、わが政府は深い関心を持っている。捕鯨業を助長・促進し、わが国の通商および利益にたいして、万全の保護を与えるよう努めること」。
ここでも捕鯨業と捕鯨船団の保護を強調し、通商保護を海軍の使命として掲げている。照明用の鯨油は、勃興しつつあったアメリカ産業革命と米欧貿易の生命線でもあった。捕鯨船員の生命と捕鯨業の財産とはアメリカ国民の生命と財産であり、これが国外で危機に直面した場合、保護する任務が海軍に与えられていた。それを外交法権ないし外交的保護(diplomatic protection)と呼び、有事における海戦と並び、平時における海軍の最大任務にほかならなかった。
これには財政的な裏づけもあった。アメリカ連邦政府の歳入のうち、平均して約8割が関税収入である。貿易の重要性が高く、それだけ貿易活動や貿易資源の創出業務には手厚い保護が必要であった。海外でのアメリカ人の活動を妨げる行為にたいしては、海軍が外交法権を発動する。その海軍には、それ相応の財政支出があるという仕組みである。
北海道に漂着したアメリカ人捕鯨船員は、約1年間に1名が病死したが、他の15名は松前から長崎に移送され、屋敷牢でかなり自由な生活を送っていた。
プレブル号の入港にたいして、長崎奉行は丁重に応対した。すでに天保薪水令の下にあり、1845年の捕鯨船マンハッタン号(日本人漂流民の送還)の浦賀来航、1846年のビッドルの浦賀来航の経験を持っていた。
アメリカ人漂流民を送還したいと長崎奉行がグリンに伝えたが、グリンは信用せず、「私自身が直接に調書を取る」と主張した。アメリカ海軍省が議会に提出した記録(尋問調書)には、漂流民の語る抑留生活が描かれている。「捕鯨船内より、長崎の半年間のほうが待遇ははるかに良かった。食べ物は十分にあり、衣類も冬物と夏物の両方を貰い、屋敷牢はかなり自由で、運動も十分にできた。船内よりはるかに快適である」。
長崎奉行の言と漂流民の言が一致しており、グリンは挙げた拳の振り下ろす先がなかった。勢い込んで自国民の「救出」に来たものの、長崎奉行の下で漂流民は、いわば「保護」されていたのである。そのうえ、奉行はグリンに要請した。「われわれは送り帰す外洋船を持っていない。貴官みずからの船で送還されたい」。
この事件は、グリン来航らわずか9日で解決した。グリンは、その経験をもとに、任務終了後に帰国した1851年、日本と条約を結ぶよう大統領に提案している。毎回の「救出」に経費をかけて危険を冒すより、条約締結により恒常的な関係を樹立するほうが得策だという趣旨である。
【ペリー派遣の目的】
久里浜で幕府が受けとったフィルモア大統領の日本皇帝宛国書(1852年11月13日つけ)に書かれているペリー派遣の目的の主な内容は次の点である。
①日本諸島沿海において座礁・破損もしくは台風のためやむなく避泊する合衆国船舶乗員の生命・財産の保護に関し、日本国政府と永久的な取決めを行うこと。
②_合衆国船舶の薪水・食糧の補給、また海難時の航海継続に必要な修理のため、日本国内の1港または数港に入る許可を得ること。加えて日本国の一港、もしくは少なくとも日本近海に散在する無人島の1つに、貯炭所を設置する許可を得ること。
③合衆国船舶たその積荷を売却もしくは交換(バーター)する目的のために、日本国の1港もしくは数港に入る許可を得ること。
いかにも穏やかな要求ではないか。このために、アメリカ海軍が所有・就航していた超大型蒸気軍艦5隻のうちの3隻を日本に投入したのか。もう少し背景を探る必要がある。
【外交法権】
アメリカ政府の意図・目的のうちで、実現可能性を考えたうえで、何がもっとも重要であったのか。ここでは次の3点を考えたい。
第1に「外交法権」
第2にアメリカ海軍の内部事情
第3にペリーが国務省派遣ではなく、海軍省管轄下の東インド艦隊司令長官に任命され、日本と条約を締結せよとの指示下に派遣されたこと、言い換えればペリー派遣の形式について。
第1の「外交法権」(diplomatic protection)は、当時のアメリカでは重要な理念であった。法律の違う外国でアメリカ人が逮捕・抑留されたとき、「自国民を保護すること」である。今の「人権外交」に当たるものと見てよい。とくに英領アメリカ(現在のカナダ)やメキシコなど中米諸国とは陸地や沿海でつながっており、事件が多発していた。
自国民の保護の交渉と「救出」に当たるのが海軍である。アメリカはまだ外交網を世界に広く巡らせてはおらず、太平洋横断は技術的に困難で、そしてアジアは遠い彼方にあった。国務省アジア担当課はわずか5名の組織であり、在外公館の多くが商人領事(貿易商が領事を兼務)であった。このような当時の交通・通信手段や貧弱な外交網を考えれば、海軍以外に「外交法権」を担う組織は存在しない。
他国との交渉にも海軍は不可欠であった。海軍が交渉そのものを担うか、海軍が外交官を任地に送り届けるかの相違はあっても、他国と往来する手段を持つのは海軍だけであった。
【海軍省の<省益>問題】
ペリー、そして前任者オーリックの場合、アメリカは海軍提督に交渉権を与える方式を採用し、1844年の米清望厦条約のときのように外交官を派遣することはなかった。アメリカ東インド艦隊による「外交法権」発動、すなわちグリンの行動については、すでに述べたとおりである。そのほかにアメリカ海軍省の「省益」問題と、アメリカ国内の政治的関係があった。
まずアメリカ海軍省の「省益」問題である。アメリカ海軍は世界に6つの艦隊を有しており、艦船をどう配備するかは、海軍費削減とからんで緊急問題であった。平時における海軍の主要任務は「外交法権」の発動であるが、有事(戦時)においては、言うまでもなく海戦である。
前述のように、1848年に米墨戦争が終わると、メキシコ湾艦隊はもはや多数の艦船を擁する必要がなくなった。別の配備先がなければ、海軍費は大幅に削減される。1847年からメキシコ湾艦隊司令長官であったペリーは、翌年に郵船長官に転任、その任務は通商網の確立と郵船定期航路の開発であり、東海岸からメキシコ湾を通って西海岸まで、郵船航路が設置された。
西海岸の彼方には日本や中国がある。その年、太平洋横断汽船航路の開設計画に関する意見書が議会に出された。中国とは1844年に条約を結んだが、日本とは国交がない。巨大な汽走軍艦の配置先は、これらの地域を含む東インド艦隊であるべしとし、その具体的な理由として、太平洋を結ぶ航路の確立、そのための石炭の確保、捕鯨船の保護、日本の開国等を列挙する。
【ブログのうち、ぜひお目通しいただきたいもの】
270余本のブログ記事のうち、「141022 原三溪の故郷」は東京専門学校へ来るまでを知るために、ぜひご一読ねがいたい。「160609 開港記念日と横浜市歌」は1909年の開港50周年記念日の逸話、「181101 三溪園の大師会茶会」は1923年4月に行われた、園内に茶席14を展開する盛大な大師会茶会の模様を描き、9月の関東大震災で壊滅的打撃を受けた横浜につなげる。
「230131 Yokohama Past and Present」は横浜市立大学で1990年に刊行した英文の横浜文化史で、302ページからなる大きな版、私が編集責任者をつとめた。
【1825年の文政令(異国船無二念打払令)を撤回、1842年、天保薪水供与令を公布】
天保薪水令から17年目に実現する1859 年 7月 1 日(安政六年六月二日)の横浜開港について述べるには、まずその発端である1842年8月28日の天保薪水令(薪水供与令)の公布から始めなければならない。
幕府は中国におけるアヘン戦争の展開を情報収集して分析、イギリス海軍の圧倒的な力を冷静に掌握、1825年の文政令(異国船無二念打払令)を撤回し<避戦>に徹っした。すなわち<戦争>の敗北による悲惨さと、<交渉>による意見交換の有効性、この両者の決定的な相違を認識し、それに沿った行動を取る。
1842年8月28日の天保薪水令(薪水供与令)の決定にいたる過程を私が初めて述べたのが『思想』誌(岩波書店)1984年5月号掲載の「我が歴史研究の歩み【37】「連載 黒船前後の世界」(七)「経験と風説-モリソン号事件とアヘン戦争情報」で、日本開国の導入として位置づけた。
幕府は長崎で収集したオランダ商船と中国商船が伝えるアヘン戦争情報(風説書)を読み解き、これにモリソン号打払い事件(1837年)という過去の<経験>を結びつけた。それにより強引な文政令(異国船無二念打払令)から穏健な天保薪水(供与)令に政策変更した。
【パワーポイントで41コマの図像を放映、日米和親条約(1854年)の意義を語る】
ここから、パワーポイントで用意した34コマの図像を放映する。重点を日米和親条約(1854年)の意義に置いた。「最初が肝心」と言うとおり、日米間の最初の条約が日米和親条約(1854年)である。パワーポイントの縮小コピーをめいめいに配布してあったので、説明が楽である。なお本ブログには図像類の収納に上限があるため、ここでは文字資料のみを掲載する。
最初のスライド1が「はじめに 日本の都市3類型と都市年齢」
①天皇創建の都市(奈良1300年前、京都1200年前)、②武家創建の都市(鎌倉800年前、江戸400年前)、③条約起源の都市(開港5港)
京都を80歳とすると、江戸東京は27歳、横浜は10歳
1 開港都市横浜の起源⇒2つの日米条約
2 居留地貿易と生糸輸出
3 三溪園の誕生
ついでスライド2の「2つの日米条約」において下記の項目を述べる。
1 19世紀の世界
2 ペリー来航と日米和親条約(1854年)
①ペリー派遣の目的、②2回目の来航と横浜村応接
林大学頭vsペリー提督の論戦と日米和親条約(1854年)
3 通商条約から横浜開港(1859年)へ
①総領事ハリスと日米修好通商条約(1858年)
②開港場建設と居留地貿易
③幕末維新期の日本を支えた開港横浜
スライド3が、上掲の略年表「横浜開港と三溪園」である。
スライド4が、「19世紀アジア三角貿易」の概念図で、インド産アヘンの中国等への輸出増が目立つ。なおインド産アヘンの経年的変化については、拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)所収の「インド産アヘンの140年」に詳しい。
スライド5は、いずれも植物起源の主要商品である。桑の葉のみを食べて成長する蚕(カイコ)の病気が発生、生糸輸出が激減したのに対して、日本では蚕に種々の品種改良を重ねた結果、生糸輸出が急増する。主な生糸の産地が群馬県等、関東に集中していた。
スライド6がアヘン精製工場、スライド7がアヘン運搬船、イギリスが先導したアジアへの進出過程を示している。
スライド8で、ペリーが搭乗するミシシッピー号がアメリカ東部の軍港を出発、大西洋を横断し、江戸湾まで7ヵ月余を要した事実を描いた地図の説明。石炭や食料・水等はイギリスの蒸気郵船会社P&0社のデポに依存。嫌がらせを受けつつ、セイロンでは香港にて返却することを条件に石炭を補給することができた。
【浦賀沖の出会い】
スライド9が天保薪水令を発布した老中・水野忠邦の肖像画。以下では拙著『開国史話』(2008年 神奈川新聞社)の滝とも子さんによる挿絵を使う。
1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、浦賀沖に巨大な船団が現れた。暑い真夏の昼下がり、黒煙をあげて進む蒸気船2隻に帆船2隻。ペリー(M. C. Perry)司令長官が率いるアメリカ東インド艦隊である〔以下すべて陽暦を使う〕。
少ない石炭を節約するため、外洋では帆走につとめたペリー艦隊は、2日前に蒸気走に切り換え、伊豆沖で全艦に臨戦態勢を敷いた。大砲、小銃、ピストル、短剣など、あらゆる武器を動員した。艦隊の大砲は、10インチ砲が2門、8インチ砲が19門、32ポンド砲が42門。巨大な破壊力の合計は63門である。
幕府側の砲台は、いずれも沈黙していた。穏健策の天保薪水令(1842年公布)を敷いていたからである。江戸湾沿いに備えた大砲のうち、ペリー艦隊規模のものはわずかに20門ほどである。命中率や破壊力、移動可能性などを総合すれば、日本側の軍備はペリー艦隊の10分の1にも満たなかったと推定される。
アメリカ側の記録(帰国後に刊行されたF.L.ホークス編纂、宮崎寿子監訳『ペリー提督 日本遠征記』 角川ソフィア文庫 上下)には、遠くに富士山を望み、陸へ2マイルまで接近したとき、「その数10隻もの大きな舟が艦隊めがけて漕ぎ寄せてきた」とある。
艦隊を取り巻く船をかきわけ、浦賀奉行所の役人2人が小さな番船で近づいた。巨大な4隻の艦隊の、どの船に呼びかけるべきか。幕府は「ウィンブルという旗を掲げた船が旗艦(司令長官が乗船している船)であることはよく知っていた」と記録している。
アメリカ側の記録『ペリー提督 日本遠征記』によれば、旗艦サスケハナ号に近寄ってきた二人の役人が、「“I can speak Dutch !”(自分はオランダ語が話せる)」と英語で叫んだとある。
第一声の主はオランダ通詞(通訳)の堀達之助、もう一人は与力の中島三郎助であった。甲板に立つ水兵には英語しか通じないだろうと、敢えて英語を使った。あらぬ誤解や小競り合いを避けるためである。
ペリー艦隊は、たった一人のオランダ語通訳ポートマンを応対に出した。ポートマンが「提督は高官だけの乗船を希望している」と伝えると、堀は中島を指し「この方が浦賀の副総督である」と答えた。
こうして二人は旗艦サスケハナ号(蒸気軍艦 2450トン)の艦長室に招かれ、ペリーの副官コンティと話し合いに入った。
ペリーは、この初めての接触で、高い地位の役人を引き出せたことに期待を膨らませた。当時の欧米諸国は、清朝中国から「対等な地位の役人」を引き出すことができず、その打破が最大の外交課題であった。したがって、最初の出会いで「副総督」という大物が出てきたことは、ペリーの予想をはるかに超える大成功であった。
アメリカ側の記録はつづける。「提督は長官室にとじこもり、副官が応対するという形式を取った」が、これは「実際には提督との会談であった」。
ペリー側通訳ポートマンを介して対話が進み、米大統領国書の受理を決める。
スライド10が、1853年、ペリー軍楽隊の久里浜上陸の図。
スライド11と12がポーハタン号の大きさを示す部分絵図。
スライド13がペリーを派遣したフィルモア大統領、スライド14~17に老中首席・阿部正弘、ジョン万次郎などの肖像画、1854年のペリー艦隊の第2回来航の絵図等がつづく。
スライド18がペリーと対話する第十一代林大学頭復斎(はやし だいがくのかみ ふくさい)の似顔絵。1607年、徳川家康は林羅山を登用し、幕藩体制のイデオロギー的支柱とした。羅山は仏教・キリスト教批判を行い、神道とはイデオロギー面で同盟関係を形成した。中国から導入した儒教が、この時点から神道との親近性という日本的な変容をとげた。
朱子学が「性理」を説き、「忠」より「孝」を重視するのにたいして、林は人間の感情を「心理」として強調し、親子間の「孝」より、組織への忠誠である「忠」を重視した。
羅山についで代々家督を継承した林家の主な役割は、正統的イデオロギーの保持者から次第に脱皮し、朝鮮通信使の応対など対外関係の処理と、官吏養成が主務となった。1790年設置の「昌平坂学問所」(昌平黌)からである。その教育内容は実務的要素が強い。
1853年のペリーの第1回来航時には第十代の林壮軒(健)であったが逝去、弟の林復斎(韑(あきら))が第十一代大学頭に就任し、ペリー応接にあたる。
役職に応じて役高を決める足高制(1723年)によれば、町奉行は3000石であるが、林大学頭はその上の4000石である。
スライド19とスライド20が、ペリー一行の横浜村上陸の絵(同行のハイネが描いた)がつづく。
スライド21と22が横浜応接所の位置を示す。大さん橋の付け根にある開港広場、開港資料館、象の鼻公園、神奈川県庁舎のあたり一帯である。
スライド23が日米全権らが対峙する様子。手前が林大学頭ら日本勢で、大刀は背後の部下が捧げ持っている。対面にペリーほかアメリカ勢がならぶ。
スライド24はアメリカ側通訳ポートマンが描いた絵で、中央にいるのが幕府のオランダ通事・森山栄之助、通訳のみならず、日米双方の司会進行をつとめている様子。森山とポートマンの間にはオランダ語の能力にとどまらず条約や国際情勢に関する知識量に圧倒的な差があり、ポートマンは進んで身を引く形をとった。
なおペリーは出国前から日本語通訳案を持ち、香港に着くやカントン駐在のS.W.ウィリアムズを訪問して要請するが断られ、日本語通訳案は挫折する。やむなく雇用したのがオランダ系アメリカ人のポートマンであった。
スライド25にペリーの発言に対する林大学の反論を入れた。重要なので再掲する。
条約内容をめぐる論戦(1854年ず3月8日、横浜村の応接所にて)【概要】
○ペリー「我が国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交のない国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら貴国は人命を尊重せず、日本近海の難破船も救助せず、海岸近くに寄ると発砲し、また日本へ漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国人民を我が国人民が救助して送還しようにも受取らない。自国人民をも見捨てるようにみえる。いかにも道義に反する行為である。
我が国のカリフォルニアは太平洋をはさんで日本国と相対している。これから往来する船はいっそう増えるはずであり、貴国の国政が今のままでは困る。多くの人命にかかわることであり、放置できない。国政を改めないならば国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する準備がある。我が国は隣国のメキシコと戦争をし、国都まで攻め取った。事と次第によっては貴国も同じようなことになりかねない。」
○林大学頭「戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言うことは事実に反することが多い。伝聞の誤りにより、そう思いこんでおられるようである。我が国は外国との交渉がないため、外国側が我が国の政治に疎いのはやむをえないが、我が国の政治は決して反道義的なものではない。我が国の人命尊重は世界に誇るべきものがある。
この三百年にわたり太平の時代が続いたのも人命尊重のためである。第二に、大洋で外国船の救助ができなかったのは大船の建造を禁止してきたためである。第三に、他国の船が我が国の近辺で難破した場合には、必要な薪水食料の手当てをしてきた。他国の船を救助しないというのは事実に反し、漂着民を罪人同様に扱うというのも誤りである。漂着民は手厚く保護し、長崎に護送、オランダカピタンを通じて送還している。
貴国民の場合も、すでに措置を講じて送還ずみである。不善の者が国法を犯した場合はしばらく拘留し、送還後に本国で処置させるようにしている。貴官が我が国の現状を考えれば疑念も氷解する。積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない。とくと考えられたい。」
これに答えたペリーは「それなら結構である」として双方が合意した。
なおペリー司令長官はフィルモア―大統領から次のような「発砲厳禁」の命令を背負っていたことは前述のとおり。アメリカ憲法では宣戦布告権を持つのは大統領ではなく、議会である。議会の多数派は民主党であった。副大統領から選挙を経ずに昇任したホイッグ党(共和党の前身)のフィルモア大統領がペリーに与えた「発砲厳禁」命令(US Congress(S)751-No.34)は重大な政治的意味を含んでいた。フィルモア大統領の「発砲厳禁命令」(国務長官より海軍長官あて)は、「大統領は宣戦布告の権限を有さない。使節は必然的に平和的な性格のものであることをペリー提督は留意し、貴下指揮下の艦船及び乗員を保護するための自衛及び提督自身もしくは乗員に加えられる暴力への報復以外は、軍事力に訴えてはならない」とある。
ペリーにとって交戦は何としても避けるべき大前提であった。
ついでペリーは持参の土産を横浜村に荷揚げしたいと要請する。スライド26の蒸気機関車の4分の1モデルやモールス通信機、幕府側からの返礼の米俵を軽々と担ぐ力士の絵(スライド28)。
スライド29がポーハタン号上の招宴にくつろぐ武士の姿を描く。
スライド30が、日本語、英語、オランダ語、漢文の4か国語で書かれた日米和親条約(1854年3月)のサインの箇所。4か国語の条約文が併存し、何語で書かれた条約文が正文(条約で条文解釈の根拠となる特定語の文)なのか不明のままである。これに配慮した幕府は、ペリー艦隊が避難港として開港した函館を訪れたのち下田に寄港する際に附属文書の交換を提案、実行に移した。すなわち日本語と英語を正文とし、オランダ語訳を付すと定めた。
スライド31が「ペリーの日本観」
国交のない国との関係を開くには、相手国の情報を的確に把握することが不可欠である。情報の収集・分析・政策化の3つがうまく連動しなければ、有効な対処はできない。情報には間接情報と直接情報の2種類がある。
アメリカが得た日本情報のうち、ペリーが最重要視した間接情報はシーボルト『日本(Nippon)』(1832〜52年にかけて分冊形式で刊行、ドイツ語)であった。ペリーは503ドルで本書を購入し、貴重な情報源と位置づけ。本書は冒頭に次の文章を置いている。
「……日本は1543年、ポルトガル人により偶然に発見されたが、その時、すでに2203年の歴史を持ち、106代にわたる、ほとんど断絶のない家系の統治者のもとで、一大強国になっていた……」
これはシーボルト自身の見解ではない。美馬順三のオランダ語論文『日本古代史考』(『日本書紀』の抄訳)から得たものである。シーボルトはこれを、そのまま自身の見解とした。諸外国では『日本』は最新の体験情報として、広く国際的な評価を得ていた。
英語圏でも需要が高く、「Chinese Repository」誌にアメリカ人宣教師ブリッジマンの抄訳で掲載された。ブリッジマンはアメリカ=清朝間の望厦条約(1844年)の通訳であり、またペリーの通訳兼顧問となるS.W.ウィリアムズとも深い交流があった。その英文抄訳の解説のなかでブリッジマンは言う。
「日本人は、原始時代いらい膨大な数の船舶を有し、中国人と同様に商人達は近隣諸国を往来・交易し、その足跡ははるかベンガルにまで及んでいた。ポルトガル人との接触時期に、すでに日本国は優れた文明を有しており、これはキリスト教の平和的・禁欲的な教えの影響を受けずに到達しうる最高位の文明段階と言える……」
ペリーも出国前に『日本』を熱心に読んで日本像を組み立てた。そして自分の使命を次のように書いている。「この特異な民族が自らに張りめぐらせている障壁を打ちくだき、我々の望む商業国の仲間入りをさせる第一歩、その友好・通商条約を結ばせる任務が、もっとも若き国の民たる我々に残されている」
最古の国の日本に、もっとも若い国のアメリカが挑戦する、と。
【日本の政体をペリーはどう見ていたか】
では、日本の政体をペリーはどう考えたのか。つまり日本の統治者は誰かという問題である。『日本』では、「ほとんど断絶のない統治者の家系」106代を神武天皇から数え、鎌倉幕府からは将軍に継承させている。ペリーは、「日本は同時に2人の皇帝を有する奇異な体制を持っている。一人は世俗的な皇帝であり、もう一人は宗教的な皇帝である」と解釈した。
これは、ヨーロッパにおける、国王とローマ法王との関係に似ている。条約締結にあたって誰と交渉するかは最重要の課題である。アメリカ大統領国書の宛先も、同時に添えたペリー書簡も宛先は「日本国皇帝」(Emperor of Japan)となっている。受理したのは幕府であった。ここで日本国皇帝=徳川将軍の関係が確立した。
日本では、世俗的皇帝と宗教的皇帝とが、それぞれ権力と権威(宗教的権威より広範囲な権威)を別々に体現していた。1615年、幕府は朝廷の権威を弱めるため禁中並公家諸法度を定めたが、最後まで幕府が確保できなかったのが象徴的行為の確保である。具体的には、律令制いらいの官位・爵位の授与権を幕府は握ることができず、将軍・大名・幕閣は朝廷から官位を受けていた。
通常、権威は隠れていて表面には出ない。しかし、幕末になって幕府と各藩の協調関係が崩れ、対立関係が表面化すると、隠れていた朝廷の権威が浮上する。「火山のマグマ」のようだといわれる幕府と朝廷の関係、つまり権威の保持者は誰かという問題が噴出した。大政奉還(徳川将軍が天皇に政権を返上すること)の政治変動期には、権威が権力の上位に立った。
スライド32が「1857年 登城するハリスの図」
ハリスの江戸出府要請を側面から支えたのが、それまでハリスとの交渉に当たっていた井上下田奉行や目付(めつけ)の岩瀬忠震(ただなり)である。条約交渉の先延ばしを主張する意見に対して、二人は早急に条約を結び、新しく国際社会との交渉を始めるべしと主張した。
スライド33が「2つの条約(概要)」で、以下のようにある。
日米和親条約(1854年)
①国交樹立
②避難港として下田と箱館(函館)の開港
③漂流民救助費の相互負担
④米国に片務的最恵国待遇
⑤アメリカ領事の下田駐在
日米修好通商条約(1858年)
①箱館(函館)・新潟・神奈川・兵庫・長崎の開港
②江戸・大坂の「開市」
③開港場周辺の遊歩規定
④片務的領事裁判権
⑤協定関税とアヘン禁輸
⑥通貨は同種同量の交換
⑦米国から軍艦購入、学者・軍人の雇用は随意
当時、イギリスとアメリカの政策で根本的に異なっていたのがアヘン政策である。イギリスのアヘン合法化(1858年の天津条約)に対して、アメリカはアヘン禁輸を一貫して主張した。
スライド34が「<敗戦条約>と<交渉条約>の比較一覧」(拙稿「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸条項を中心として」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1982年)。本稿は石井孝『日本開国史』(1972年)が左に振った(1)から(4)を指摘するのに対して、私は(5)条約の根拠(敗戦か交渉か)、(6)賠償金支払い、(7)領土割譲、(8)居留地の外国人自治、(9)アヘン条項(日本で禁輸、中国で解禁)、(10)内地通商、(11)外資導入を追加した。なかでも(5)、(6)、(9)を強調した。
スライド35は太平洋を行く咸臨丸(かんりんまる)。日米修好通商条約の批准書交換をワシントンDCで行うと決めたため、ポーハタン号の援助を借りて初めて太平洋を往復した。万延元年遣米使節とも言う。軍艦奉行木村摂津守喜毅や軍艦操練教授方頭取出役勝海舟、福沢諭吉、通訳のジョン万次郎(スライド15に肖像画あり)ほか96人が乗り組んだ。
咸臨丸は幕府海軍が保有していた軍艦、木造でバーク式の3本マストを備えた蒸気コルベット。オランダ語の旧名は「Japan」(ヤッパン号)、「咸臨」とは『易経』より取られた言葉で、君臣が互いに親しみ合うことを意味する。
これより、スライド36から39へと横浜村の形成に関わる絵図がつづく。
スライド40は、歌川広重の浮世絵、「山手方面から見た横浜町の全景。運上所(のちの税関)等、賑わいを見せる風景」。これは横浜開港後の風景である。
最後のスライド41は横浜開港地の全図。真ん中あたりを上下に伸びる日本大通りの右側が日本人町で、左側が外国人居留地、うち斜めに並ぶ一帯が中華街である。
前面の海底(地図の下方)が深く切り込んでおり、大型船の来航に圧倒的な優位性を持つ。これこそが、その後の横浜の発展を支えた要因の一つである。
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