久しぶりの市大テニス
コロナ禍のため中断していた横浜市立大学(以下、市大)の教職員テニス親睦会と市大硬式庭球部との親善交流試合が八景キャンパス内のコートで開催された。これを「市大テニス」と略称する。今年3月の親善交流試合には出席できず、今回が私にとって数年ぶりの参加である。
5月2日、坂智広さんから教職員テニス親睦会の面々宛にメールが来た。
「先月、4月4日付けで親睦会会長の上村先生から、2023年度(春季)の硬式庭球部との交流テニス(5月20日/土曜日開催)のお誘いをお送りしました。
上村さんが体調を崩され療養されているので、私がフォローアップを命じられております。交流テニスに向け、上村さんの早期の回復を祈っております。
5月20日(土)2023年度硬式庭球部との交流テニスにつきまして、前回のご案内に何名かの方からご参加の意向をお返事いただいておりますが、改めて出席につきご回答をお願い申し上げます。(2022年4月11日に案内をお送りした方々のアドレスにご案内しております。)
次の内容を、このメールに返信でお知らせください。」
私は、その日のうちに、以下の返信をした。
「坂さん
上村さんの体調不全、心配ですね。
私は…その後の体調不全は徐々に回復、4月5日の入学式に出席しました。テニスにも復帰しました。
瀬戸遠征も可能かと考えています。テニス参加は無理でも、みなさんのお顔を見たく思います。」
【5年前のブログ記事を発見、再録する】
以前に本ブログに書いた記憶があるので調べてみると、5年前の2018年6月1日掲載の「大学のスポーツ」があった。題名をこうしたのは意味がある。「大学のスポーツ」の一つの在り方を考えたいとの思いから、そう名づけた。いささか長文であるが、思い切って全文を、以下に再録しよう。
(2018年)5月26日(土曜)、古巣の横浜市立大学(市大)へ行く。キャンパスの北側一帯には横浜の地形の特徴である谷戸(やと)がそのまま残り、常緑広葉樹(照葉樹)の多い混合林に踏み入ると、夏でもひんやりとした爽やかな空気に包まれる。石段を9つ上ると「第2グランド 196段 5分」と手書きの小さな木製案内板。
第2グランドにはテニスコートと多目的グランド(ホッケー、サッカー等)がある。この急坂の林をなんど往復したことか。思索のために、学生たちとのテニスのために、そして夕映えの富士山を見るために。
関東学生テニス連盟男子は最強の1部から6部まで各6校が入り、それ以外の約60校が7部に属す。10年前(2008年)、5部にいた市大と6部で優勝した東大との入れ替え戦がここで行われ、雨のため2日にわたる熱戦の結果、市大が勝利(防衛)した。両校にはスポーツ推薦入試もなく、高校時代にテニスをした者も多くない。その二者の、今も心に残る大試合であった。
階段を上り切って平らな道をすすみ、しばらく下って鉄製の急階段が第2グランドへとつづく地点で、木々の間から視界が開け、遠くに山並みが見える。その先は富士山だが、今日は見えない。下のテニスコートから、「おはようございま~す」と大声が響いた。手を振って答える。
教職員テニス親睦会(以下、親睦会)と硬式庭球部員との、年に一度の親善交流試合の日である。階段を下り切ったところで、男子部主将(軒野秀則)と女子部主将(斉藤玲乃)が出迎えてくれた。部員は男子22名、女子10名、男子に1年生が多いと言う。親睦会からは、仕事で出られない人もおり、男女合わせて9名が参加。
椎の木の若葉がきらきら光り、薫風が吹き抜ける。曇りがちで少し蒸すが、絶好のテニス日和である。昨年の補修工事で、ハードコートからオムニコートとなり、足腰にかかる負担が減った。ありがたい。
親睦会は創設が1980年頃なので、40年近く経っている。呼びかけの張本人が私で、初代の会長をつとめた。そのころ第2グランドのテニスコートが学生の部活専用として完成した。本キャンパスのコートは、私の記憶では今の図書館東側にあったクレーコート、ついで今のシーガルホール横の運動部部室あたりのコート、今の理科系研究棟あたりのコート(ここからオムニ)と移り、現在は谷戸の谷間にある弓道場の手前にある。
現在の親睦会会長は随清遠さん(金融論)、学問に厳しく人に優しい。硬式庭球部の部長も兼ね、学生の信頼を集める。
副会長の坂智広さん(農学)は左腕の剛速球。毎土曜の朝、季語や農暦を盛り込んだ、味わい深い名文の練習呼びかけメールをくれる。
親睦会は会員の高齢化が進んで、20代から40代にかけての教職員がほとんどいない。子どもの頃の運動量(時間)が急減し、交通機関への依存度が高まった時代に育ち、運動習慣を持たない人が増えたのであろうか。
「大学のスポーツ」と言えば、ふつうは学生スポーツを意味する。どの大学にも部活としてのスポーツがあり、スポーツ同好会も盛んである。部活は競技種目ごとに地域単位や全日本規模のリーグ戦、大学間の定期戦を行っている。
学生生活におけるスポーツの役割を私は高く評価し、長く応援してきた。文章で表現したものは少ないが、ブログという新しい媒体が生まれてからは、『都留文科大学学長ブログ-2011~2014』(このブログのリンクにあり)等で折に触れて述べてきた。
もともと「気晴らし」の意味であった英語のスポーツが、現在のようにラグビー、サッカー、野球、テニス等のゲームを意味する「近代スポーツ」として誕生したのは19世紀中頃である。近代スポーツの誕生は、都市化の進行と肉体労働の減少という近代史の特性と密接に関係している(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』岩波新書、1980年、第3章)。とくに高校・大学の若者たちが新生スポーツを先導してきた意義は大きい。
そこに最近、忌わしい事件が起きた。関西学院大学(関学)と日本大学(日大)とのアメフトの定期戦(5月6日)で、日大の選手がボールを持たない関学の選手(QB)を後方からタックルして怪我を負わせた。
それから2週間余の5月22日、危険(反則)タックルをした日大の選手が勇気ある謝罪会見をした。翌23日晩、雲隠れしていた日大の内田(元)監督と井上(元)コーチが記者会見を行ったが、反則タックルの指示はしていない等、選手と正反対の発言に批判が集中した。
球技のなかでタックル等の接触プレーが多いのがアメフトで、次がラグビー。スポーツマンシップに基づくタックルは、かける方もかけられる方も爽快で、私もそれに魅せられてラグビーをした経験がある。だがタックルは取り返しのつかない怪我や死亡事故と紙一重であり、ルール厳守、フェアプレー精神(競技相手への敬意)の徹底が不可欠である。
今回の事件は、スポーツ競技の例外的な不祥事にとどまらず、広く「大学のスポーツ」、「教育指導における主体性の尊重」等の問題を浮き彫りにし、日大執行部の体質等、根の深い課題をも露呈させた。
この事件が念頭を去らぬまま、テニスコートまで来た。今回の交流試合は、1992年以来27回目であろうか。学生たちがプログラムを組み、審判やボーラーもつとめる。賑やかに声援が飛び交うなか、教職員と学生がペアを組み、4ゲームオール(第5ゲームあり)の試合を5セットこなした。
歴代の庭球部部長が勢ぞろいしたのも嬉しい。年齢順に柴田梧一さん(経営学)、岡眞人さん(社会学)、随清遠さん(前掲)。柴田さんは今春に叙勲を受けた年齢だが、まだまだテニスは現役である。「若い」団塊世代の岡さんは、着実にテニスの腕を上げている。
溌剌とプレーに打ち込む学生たちにつられ、私はいささか張り切りすぎた。学生が異世代と交流試合をする、これもまた「大学のスポーツ」の一つの姿であろう。
【今回の教職員の参加者】
以上が5年前のブログ記事「大学のスポーツ」の全文である。
読み返すと、意外に今年との類似点があったり、参加者等に変化もある。実名の出ている教職員に違いも目立つ。
5月2日の随清遠さんからのメールが、坂さんから転送されてきた。案内を送るべき親睦会メンバーの一覧である(敬称略)。
加藤 祐三、柴田 悟一、小島 謙一、木下 芳子、横山 晴彦、岡 真人、坂 智広、 青 正澄、上村 雄彦、鞠 重鎬、太田 塁、羽木さん、尾崎 正孝、佐藤 信裕、倉持 和雄、紺野 エミ、黒川 修司、林 正寿、足立 典隆の計19名。のち鞠 重鎬さんから鈴木さんに参加を求めて良いかとあり、鈴木さんの参加が決まり、計20名。
以上20名のうち、今回の出席者は下記のとおり。
加藤 祐三、柴田 悟一、倉持 和雄、林 正寿、佐藤 信裕、横山 晴彦、鞠 重鎬、鈴木さん、坂 智広の9人。
開催予定日の5月20日(土)が近づくにつれて、気持ちが高ぶってくる。
12日、硬式庭球部副将の小笠原君から「この度は交流試合の閉会式における年長者挨拶をお願いしたい…」とメールが入り、すぐに下記のように返信した。木嶋君(女子)が主将のようである。
小笠原 碧斗君
cc 木嶋 未海 君
交流試合 閉会式の年長者挨拶について、承知しました。
数年ぶりの参加を楽しみにしています。
加藤祐三
【山を越えるのに自信なく、坂さんに車で搬送してもらう】
5年ぶりの市大テニス。高ぶる気持ちの半面、はたして構内から山道を越えていけるかと不安もよぎる。5年前のブログに「第2グランド 196段 5分」と手書きの小さな木製案内板」があると書いてあるのを思い出した。「196段 5分」は若者の基準である。196段を登りきることが可能であろうか。
迷っていても始まらない。18日のうちに坂さんにメールで依頼した。「12時半に市大正門に着くので、そこから車で第2グランド背面の入り口まで搬送していただきたい」
いよいよ当日の5月20日、正門を入ると柴田さんがいる。彼もまた腰痛のため山越えに自信がないと言う。相乗りがいて、5年ぶりの久闊を叙した。
【若々しい学生諸君の挨拶に感激】
第2グランドの光景が数年前、いな数十年前の記憶を呼び覚ます。
三々五々、学生が挨拶に来てくれた。氏名、所属学部・学科、何年生かを述べる。そのなかにマユという名の女子がいることに気づき、「私の娘もマユ」と言うと、「…嬉しい!」と言う。驚くべきことに、もう一人、マユがいた。
字こそ違うが、これで3人のマユがそろった。開港横浜を支えた最大の輸出品がマユの生み出す生糸ある。縁起が良いぞ!
【3セットをこなす】
午前中は雨が降り、午後から参加の私が偶然にも正解であった。紅白に別れ、教職員と学生がペア―を組む。試合形式は4ゲームオール(2オールの場合に第5ゲームあり)で5年前まえ変わらない。ただし5年前は5セットこなしたが、今回は3セットが限度であった。
最後の試合は1年生男子とペア―になった。カミサトという名字の初々しい人物、審判とボーラーを先輩が勤めてくれたせいか、すこし小さい声で「楽しかった」と印章を語った。私も同感である。
【年長者挨拶】
いよいよ閉会式である。依頼を受けていたので、一言述べると同時に著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2014年)を謹呈する準備をしていた。
「86歳、最年長者の加藤祐三です。…市内出身者は6月2日のて港記念日をよく知っているはず。1859年6月2日である。ペリー来航や黒船来航についてはどうかな? 戦争を回避し、話し合い通して条約を結ぶことができた。それが後の都市横浜の発展につながる。幕府の外交能力の高さを認識してほしい。
おりしもウクライナのゼレンスキー大統領も参加するG7広島サミットが開かれるのも一つのご縁かもしれません。
本書は、日米和親条約(1854年)の締結までを主にしているが、これを基準に5年後の1859年の横浜開港にいたる。硬庭部員たる者、この大筋だけはぜひ理解してほしい」
年長者挨拶で、まさかの<お説教>を食らうとは想定外であったに違いない。それでも微笑を浮かべつつ、耳を傾けでくれた硬庭部員のみなさん、ありがとう!
来年もまた3セット参加できるよう、日々の鍛錬を怠らないよう努めます。
5月2日、坂智広さんから教職員テニス親睦会の面々宛にメールが来た。
「先月、4月4日付けで親睦会会長の上村先生から、2023年度(春季)の硬式庭球部との交流テニス(5月20日/土曜日開催)のお誘いをお送りしました。
上村さんが体調を崩され療養されているので、私がフォローアップを命じられております。交流テニスに向け、上村さんの早期の回復を祈っております。
5月20日(土)2023年度硬式庭球部との交流テニスにつきまして、前回のご案内に何名かの方からご参加の意向をお返事いただいておりますが、改めて出席につきご回答をお願い申し上げます。(2022年4月11日に案内をお送りした方々のアドレスにご案内しております。)
次の内容を、このメールに返信でお知らせください。」
私は、その日のうちに、以下の返信をした。
「坂さん
上村さんの体調不全、心配ですね。
私は…その後の体調不全は徐々に回復、4月5日の入学式に出席しました。テニスにも復帰しました。
瀬戸遠征も可能かと考えています。テニス参加は無理でも、みなさんのお顔を見たく思います。」
【5年前のブログ記事を発見、再録する】
以前に本ブログに書いた記憶があるので調べてみると、5年前の2018年6月1日掲載の「大学のスポーツ」があった。題名をこうしたのは意味がある。「大学のスポーツ」の一つの在り方を考えたいとの思いから、そう名づけた。いささか長文であるが、思い切って全文を、以下に再録しよう。
(2018年)5月26日(土曜)、古巣の横浜市立大学(市大)へ行く。キャンパスの北側一帯には横浜の地形の特徴である谷戸(やと)がそのまま残り、常緑広葉樹(照葉樹)の多い混合林に踏み入ると、夏でもひんやりとした爽やかな空気に包まれる。石段を9つ上ると「第2グランド 196段 5分」と手書きの小さな木製案内板。
第2グランドにはテニスコートと多目的グランド(ホッケー、サッカー等)がある。この急坂の林をなんど往復したことか。思索のために、学生たちとのテニスのために、そして夕映えの富士山を見るために。
関東学生テニス連盟男子は最強の1部から6部まで各6校が入り、それ以外の約60校が7部に属す。10年前(2008年)、5部にいた市大と6部で優勝した東大との入れ替え戦がここで行われ、雨のため2日にわたる熱戦の結果、市大が勝利(防衛)した。両校にはスポーツ推薦入試もなく、高校時代にテニスをした者も多くない。その二者の、今も心に残る大試合であった。
階段を上り切って平らな道をすすみ、しばらく下って鉄製の急階段が第2グランドへとつづく地点で、木々の間から視界が開け、遠くに山並みが見える。その先は富士山だが、今日は見えない。下のテニスコートから、「おはようございま~す」と大声が響いた。手を振って答える。
教職員テニス親睦会(以下、親睦会)と硬式庭球部員との、年に一度の親善交流試合の日である。階段を下り切ったところで、男子部主将(軒野秀則)と女子部主将(斉藤玲乃)が出迎えてくれた。部員は男子22名、女子10名、男子に1年生が多いと言う。親睦会からは、仕事で出られない人もおり、男女合わせて9名が参加。
椎の木の若葉がきらきら光り、薫風が吹き抜ける。曇りがちで少し蒸すが、絶好のテニス日和である。昨年の補修工事で、ハードコートからオムニコートとなり、足腰にかかる負担が減った。ありがたい。
親睦会は創設が1980年頃なので、40年近く経っている。呼びかけの張本人が私で、初代の会長をつとめた。そのころ第2グランドのテニスコートが学生の部活専用として完成した。本キャンパスのコートは、私の記憶では今の図書館東側にあったクレーコート、ついで今のシーガルホール横の運動部部室あたりのコート、今の理科系研究棟あたりのコート(ここからオムニ)と移り、現在は谷戸の谷間にある弓道場の手前にある。
現在の親睦会会長は随清遠さん(金融論)、学問に厳しく人に優しい。硬式庭球部の部長も兼ね、学生の信頼を集める。
副会長の坂智広さん(農学)は左腕の剛速球。毎土曜の朝、季語や農暦を盛り込んだ、味わい深い名文の練習呼びかけメールをくれる。
親睦会は会員の高齢化が進んで、20代から40代にかけての教職員がほとんどいない。子どもの頃の運動量(時間)が急減し、交通機関への依存度が高まった時代に育ち、運動習慣を持たない人が増えたのであろうか。
「大学のスポーツ」と言えば、ふつうは学生スポーツを意味する。どの大学にも部活としてのスポーツがあり、スポーツ同好会も盛んである。部活は競技種目ごとに地域単位や全日本規模のリーグ戦、大学間の定期戦を行っている。
学生生活におけるスポーツの役割を私は高く評価し、長く応援してきた。文章で表現したものは少ないが、ブログという新しい媒体が生まれてからは、『都留文科大学学長ブログ-2011~2014』(このブログのリンクにあり)等で折に触れて述べてきた。
もともと「気晴らし」の意味であった英語のスポーツが、現在のようにラグビー、サッカー、野球、テニス等のゲームを意味する「近代スポーツ」として誕生したのは19世紀中頃である。近代スポーツの誕生は、都市化の進行と肉体労働の減少という近代史の特性と密接に関係している(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』岩波新書、1980年、第3章)。とくに高校・大学の若者たちが新生スポーツを先導してきた意義は大きい。
そこに最近、忌わしい事件が起きた。関西学院大学(関学)と日本大学(日大)とのアメフトの定期戦(5月6日)で、日大の選手がボールを持たない関学の選手(QB)を後方からタックルして怪我を負わせた。
それから2週間余の5月22日、危険(反則)タックルをした日大の選手が勇気ある謝罪会見をした。翌23日晩、雲隠れしていた日大の内田(元)監督と井上(元)コーチが記者会見を行ったが、反則タックルの指示はしていない等、選手と正反対の発言に批判が集中した。
球技のなかでタックル等の接触プレーが多いのがアメフトで、次がラグビー。スポーツマンシップに基づくタックルは、かける方もかけられる方も爽快で、私もそれに魅せられてラグビーをした経験がある。だがタックルは取り返しのつかない怪我や死亡事故と紙一重であり、ルール厳守、フェアプレー精神(競技相手への敬意)の徹底が不可欠である。
今回の事件は、スポーツ競技の例外的な不祥事にとどまらず、広く「大学のスポーツ」、「教育指導における主体性の尊重」等の問題を浮き彫りにし、日大執行部の体質等、根の深い課題をも露呈させた。
この事件が念頭を去らぬまま、テニスコートまで来た。今回の交流試合は、1992年以来27回目であろうか。学生たちがプログラムを組み、審判やボーラーもつとめる。賑やかに声援が飛び交うなか、教職員と学生がペアを組み、4ゲームオール(第5ゲームあり)の試合を5セットこなした。
歴代の庭球部部長が勢ぞろいしたのも嬉しい。年齢順に柴田梧一さん(経営学)、岡眞人さん(社会学)、随清遠さん(前掲)。柴田さんは今春に叙勲を受けた年齢だが、まだまだテニスは現役である。「若い」団塊世代の岡さんは、着実にテニスの腕を上げている。
溌剌とプレーに打ち込む学生たちにつられ、私はいささか張り切りすぎた。学生が異世代と交流試合をする、これもまた「大学のスポーツ」の一つの姿であろう。
【今回の教職員の参加者】
以上が5年前のブログ記事「大学のスポーツ」の全文である。
読み返すと、意外に今年との類似点があったり、参加者等に変化もある。実名の出ている教職員に違いも目立つ。
5月2日の随清遠さんからのメールが、坂さんから転送されてきた。案内を送るべき親睦会メンバーの一覧である(敬称略)。
加藤 祐三、柴田 悟一、小島 謙一、木下 芳子、横山 晴彦、岡 真人、坂 智広、 青 正澄、上村 雄彦、鞠 重鎬、太田 塁、羽木さん、尾崎 正孝、佐藤 信裕、倉持 和雄、紺野 エミ、黒川 修司、林 正寿、足立 典隆の計19名。のち鞠 重鎬さんから鈴木さんに参加を求めて良いかとあり、鈴木さんの参加が決まり、計20名。
以上20名のうち、今回の出席者は下記のとおり。
加藤 祐三、柴田 悟一、倉持 和雄、林 正寿、佐藤 信裕、横山 晴彦、鞠 重鎬、鈴木さん、坂 智広の9人。
開催予定日の5月20日(土)が近づくにつれて、気持ちが高ぶってくる。
12日、硬式庭球部副将の小笠原君から「この度は交流試合の閉会式における年長者挨拶をお願いしたい…」とメールが入り、すぐに下記のように返信した。木嶋君(女子)が主将のようである。
小笠原 碧斗君
cc 木嶋 未海 君
交流試合 閉会式の年長者挨拶について、承知しました。
数年ぶりの参加を楽しみにしています。
加藤祐三
【山を越えるのに自信なく、坂さんに車で搬送してもらう】
5年ぶりの市大テニス。高ぶる気持ちの半面、はたして構内から山道を越えていけるかと不安もよぎる。5年前のブログに「第2グランド 196段 5分」と手書きの小さな木製案内板」があると書いてあるのを思い出した。「196段 5分」は若者の基準である。196段を登りきることが可能であろうか。
迷っていても始まらない。18日のうちに坂さんにメールで依頼した。「12時半に市大正門に着くので、そこから車で第2グランド背面の入り口まで搬送していただきたい」
いよいよ当日の5月20日、正門を入ると柴田さんがいる。彼もまた腰痛のため山越えに自信がないと言う。相乗りがいて、5年ぶりの久闊を叙した。
【若々しい学生諸君の挨拶に感激】
第2グランドの光景が数年前、いな数十年前の記憶を呼び覚ます。
三々五々、学生が挨拶に来てくれた。氏名、所属学部・学科、何年生かを述べる。そのなかにマユという名の女子がいることに気づき、「私の娘もマユ」と言うと、「…嬉しい!」と言う。驚くべきことに、もう一人、マユがいた。
字こそ違うが、これで3人のマユがそろった。開港横浜を支えた最大の輸出品がマユの生み出す生糸ある。縁起が良いぞ!
【3セットをこなす】
午前中は雨が降り、午後から参加の私が偶然にも正解であった。紅白に別れ、教職員と学生がペア―を組む。試合形式は4ゲームオール(2オールの場合に第5ゲームあり)で5年前まえ変わらない。ただし5年前は5セットこなしたが、今回は3セットが限度であった。
最後の試合は1年生男子とペア―になった。カミサトという名字の初々しい人物、審判とボーラーを先輩が勤めてくれたせいか、すこし小さい声で「楽しかった」と印章を語った。私も同感である。
【年長者挨拶】
いよいよ閉会式である。依頼を受けていたので、一言述べると同時に著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2014年)を謹呈する準備をしていた。
「86歳、最年長者の加藤祐三です。…市内出身者は6月2日のて港記念日をよく知っているはず。1859年6月2日である。ペリー来航や黒船来航についてはどうかな? 戦争を回避し、話し合い通して条約を結ぶことができた。それが後の都市横浜の発展につながる。幕府の外交能力の高さを認識してほしい。
おりしもウクライナのゼレンスキー大統領も参加するG7広島サミットが開かれるのも一つのご縁かもしれません。
本書は、日米和親条約(1854年)の締結までを主にしているが、これを基準に5年後の1859年の横浜開港にいたる。硬庭部員たる者、この大筋だけはぜひ理解してほしい」
年長者挨拶で、まさかの<お説教>を食らうとは想定外であったに違いない。それでも微笑を浮かべつつ、耳を傾けでくれた硬庭部員のみなさん、ありがとう!
来年もまた3セット参加できるよう、日々の鍛錬を怠らないよう努めます。
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