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アヘン戦争と日本の開国(下)

日本の開国は、次の3つの段階を踏んで完結する。
(1) ペリー提督と結んだ日米和親条約(1854年)
国交樹立、通商条約締結のための総領事派遣等を決めた。
拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2014年)の扱うのはここまで。
(2) 日米和親条約に基づき、1856年8月21日、ハリス総領事(のち公使)が下田に着任。ハリスと日米修好通商条約(1858年7月29日)を締結、通商に関する取り決めやアヘン禁輸等を定める。
(3) 横浜開港(横浜居留地の設定)=1859年7月1日
ここにおいて初めて外国人の居留と貿易が実現する。
通商を行う5港の建設、その投資主体、賃貸か販売か等々がきわめて重要となる。
 うち(1)に関しては「アヘン戦争と日本の開国(中)」で述べた。
本稿「アヘン戦争と日本の開国(下)」では、(2)と(3)を取り上げる。

 まず1858年頃の東アジアの状況とアメリカ側の主人公、T・ハリスについて述べたい。
 拙稿「黒船前後の世界」(岩波書店の『思想』誌連載)の「(四)東アジアにおける英米の存在」で、英米の東アジアにおける在外公館の規模の比較、その役割、英米関係史の概略、英米の対中貿易の比較(扱い量と貿易商品の構成等)、東アジアにおける英米の軍事力比較(軍艦の配備等)を分析し、米国の東アジア在外公館が無給の商人領事を主体としていたことを述べた。
 それも中国では1846年から上海に、1849年からアモイに各1名を任命したに過ぎず、領事より格上の公使待遇の弁務官(駐在地はマカオ)は米清望厦条約(1844年)の締結に伴い翌1845年に初代 A・H・エベレットを任命するも赴任途上の病で退き(のち客死)、代理に東インド艦隊司令長官J・ビッドルを任命、彼はコロンブス号で1846年に江戸湾に来航したこと、駐華弁務官の2代目は半年間の空白期を挟んでJ・W・デービス、さらに2年半の空白期を挟み3代目のH・マーシャルが1853年1月16日に着任したこと等を述べる。

1 ハリスの来日 
 こうした貧弱な在外公館のなかでハリスが登場する。
そのことについては、拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌に10回連載、2007~2009年)の第4回「ハリスの来日」で彼の履歴と外交官としての覚悟について述べた。そこから抜粋する。

 横浜村で調印された日米和親条約の第11条に「この調印から18ヵ月以降にアメリカ政府はいつでも下田に領事または代理人をおくことができる」とある。
 日米和親条約は両国の国交をとり決めたもので、箱館(函館)と下田をアメリカ船の避難港として開港したが、アメリカ人の滞在や通商は含まず、それは下田に派遣される総領事との通商条約にもちこされた。いわば二段階の条約である。
 列強に先行して日本と和親条約を成立させたアメリカは、通商条約も一番乗りで結ぶ絶好の機会と考えた。
 和親条約の調印は1854年3月31日、その18ヵ月以降とは1855年9月末以降である。民主党ピアス大統領は、1855年3月、ブロッドヘッドを駐日総領事に任命した。

【貿易商から外交官へ】
 このときハリスは51歳、彼の日記、コセンザ編・坂田精一訳『ハリス日本滞在記』(岩波文庫 1954年)が始まる2ヶ月前のことで正確な場所はわからないが、ペナン(マレー半島)かシンガポールにい
たはずである。
 1848年以来、貿易商として中国や東南アジアの各地で活躍していたハリスは、外交官として日本へ赴任することに強い関心を抱いた。当時のアメリカは外交網が貧弱で、商人を領事に当てる「商人領事」(大部分が無給)が一般的であり、貿易商から外交官への転身はさほど不思議ではなかった。
 前年の1854年冬、第2回訪日を目前にしたペリーの上海寄港中、ハリスは同行を希望して手紙を送る。しかし海軍軍人以外は許可しないと断られた。
 一方、ハリスは国務省にも香港か広東の領事の希望を出していたが、それも実現しなかった。そこに1854年8月、年俸1000ドルで寧波(ニンポー)(五港開港場の1港)の領事に任命する報せが届く。だがハリスは伝道医師マクガバンを副領事として任地に行かせ、自身は翌1855年5月、帰国の途に着いた。駐日領事の任命が近いと予測したためである。
ハリスは以前から国務長官マーシーやピアス大統領と親交の深いウェトモア将軍などと懇意にしており、この人脈を通じて「日本への外交代表」就任運動をつづけていた。
 帰国した同年8月4日、大統領に手紙を書く。「もし駐華弁務官か駐日領事のいずれかを選べと言われれば躊躇なく後者を選びます」。そして次のように自身を売りこんでいる。
 「日本における社会的な島流し状態や精神的孤独については十分に承知しており、それに耐える用意があります。・・・私は独身ですから、家族恋しさに、新しい家に耐えられなくなるというような絆は一切ありせん。ひたすら一身を投げ打ち、任務を忠実に果たします」。
 翌日、大統領と面会、手紙が大統領に着く前だったが、その日のうちに年俸5000ドルの駐日総領事職を得た。正式任命は翌年の1856年6月30日。
 ハリスは早々と日本へ出発し、上院の承認を得たのは7月31日、赴任途中のシャム(タイ)で最初の外交任務を終え、下田へ着任するわずか20日前であった。

【生い立ちと思想】
 タウンセンド・ハリス(Townsend Harris)は1804年10月4日、ニューヨーク州ワシントン郡で生まれた。イギリスのウェールズからの早期の移住者を祖先に持つ。父母双方の祖父はともにアメリカ独立戦争(1775~83年)でイギリス軍と戦った。
6人の兄弟姉妹のうち、末っ子がタウンセンドである。
 幼少時から勝気な祖母に「真実を語れ。神を畏れよ。イギリスを憎め」と聞かされて育ったハリスは、嘘を嫌い、敬虔な新教徒として独立戦争を戦った祖先を尊敬し、イギリス製の洋服やナイフ・フォークさえ嫌った。
 家庭の経済状況はかんばしくなく、ニューヨークの父の友人の衣料品店で13歳から働いた。数年後、両親と兄がマンハッタン島で陶磁器輸入商をはじめ、それに加わる。陶磁器の主な産地は日本や中国であり、この一帯への関心を強めた。
中学卒で大学へ行けなかったことを常に悔やみ、商売は兄まかせ、自分は図書館で文学書や動植物、博物学の本などを読み、フランス語・イタリア語などにも励んだ。やがてこの旺盛な学習欲と強い記憶力により、驚くべき博識と独自の思想の持ち主となる。
 その後、教育・医療・消防などの仕事をしつつ、熱心な民主党員として活躍、1846年、42歳でニューヨーク教育長に就任する。強い中央政府を主張する共和主義者に対し、民主党は地方自治と人民の意思を尊重する立場をとった。
 教育長に就任した翌年の11月、83歳の最愛の母を喪う。悲しみのあまり酒に溺れ教育長を辞任、折からの不況で陶磁器輸入店も倒産した。それから半年、格闘の末、断酒に成功、一転して太平洋とインド洋を股にかける貿易商(1849年から6年間)となる。

【条約ゲームのなかで】
 多彩な遍歴の後、52歳にして念願の駐日総領事に任命されたハリスの任務は、日本との通商条約締結と、赴任途上のシャム(タイ国)での条約改正交渉であった。
 ハリスはさっそく列強間の条約ゲームにまきこまれる。条約ゲームとは、一番手の条約が後続の条約を拘束、二番手以降は  一番手の条約の権益を超えない範囲で権利を等しく受けられる、逆に言えば二番手以下は一番手の条約に拘束されるというものである。
 この条約ゲームの発端は、アヘン戦争に勝利してイギリスが結んだ南京条約(1842年)に対し、戦争に加わらなかったフランスとアメリカが清朝政府から同等の条約権益を獲得したことにあった。
 清朝政府は「一視同仁」(異国を等しく扱う)の方針のもと、イギリス一国との条約より他の列強にも認めるほうが相互牽制できると判断、2年後の1844年、フランスと黄浦条約、アメリカと望廈条約を結んだ。
 南京条約にはアヘン条項がない。それに対してアメリカはアヘン生産地を持たず、超大国イギリスへの対抗もあり、望廈条約にアヘン禁輸を明記するよう要求、これが清朝政府のアヘン厳禁策と一致し、両者間で合意をみた。
 そのためアヘン貿易は、それを禁輸とする米清望廈条約があるにもかかわらず、実際の貿易はさらに増大し、「公然たる密輸」状態となった。こうしてアメリカのアヘン禁輸政策とイギリスのアヘン貿易合法化政策(=アヘン貿易解禁論)は正面から対立する。

【イギリス方式に屈したハリス】
 イギリス香港総督バウリングは、清朝政府とのアヘン貿易「合法化」交渉が進展しないため、迂回して周辺諸国から着手しようと、シャムとの条約交渉に入った。
 シャム政府は、隣国ビルマがイギリス支配下に入る政治情勢のなかで、1855年4月18日、ついに英=シャム条約の締結に合意した。この第8条に「アヘンは無関税で輸入できるが、アヘン請負商またはその代理人にのみ売ることができる」とある。
 アヘン請負商方式は、すでにイギリス植民地ペナン、シンガポール、香港で実施されていた。植民地政府がアヘンを輸入し、ライセンスをもつ国内の請負商に卸し、そのライセンス料を政府の税源とするものである。
この方式を植民地から条約国へと拡張した最初の事例がこの条約である。バウリングは、アヘン貿易の合法化で、1833年の米=シャム条約を「死文と化し」たと自画自賛した。
この英=シャム条約の締結により、アメリカは米=シャム条約の改正を迫られた。1年後の1856年4月、ハリスはシャムで条 約改正にとりかかる。
 アメリカは米=シャム条約(1833年)と望廈条約(1844年)において、いずれもアヘン禁輸を貫いたが、この外交政策をハリスは貫徹できるか。シャム政府は前年の英=シャム条約とは無関係にアメリカと交渉に当たるだろうか。
 1ヵ月半におよぶ交渉。そしてシャム側の主席代表プラ・カラホムから「条約は結んだものの、アメリカ商人は来たことがない。・・・条約は空文も同然」と指摘され、ハリスは反論できなかった。
 5月16日のハリスの日記は、「アメリカ政府の意向に反するとして省いていたアヘン条項を条約に含めたいとシャム側代表が言い・・・こうして英=シャム条約に対するアメリカの3つの修正条項はすべて拒否された」と記す。
 24日には「この国へは二度と来たくない」とも書いた。
 この後、ハリスは香港に向かい、外交官の役目として、前年の英=シャム条約の立役者である香港総督バウリングを表敬訪問した。その日の日記に「愉快な会談」とそっけなく記す。
 屈辱と敗北を胸にハリスは日本に着任、「日本にただ一人の外交官として」、この苦い経験を生かそうと決意する。

2 下田のハリス 
【ハリスの下田の印象】
 ついで拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌に10回連載)の第5回「下田のハリス」では、日本の初印象を、こう書き残している。 
「1856年8月21日(木曜)午前6時、陸地の見えるところに来ている。御前崎と思う。70隻にもなろうか、おびただしい数の漁船である。簡素で感じの良い着物を着た日本人の姿が気に入った。申し分ない眺め。漁船の群れが美しい。午前7時半、下田の港口へさしかかると、アメリカ国旗を舳先につけ、白・黒・白の横縞(よこじま)の日本(幕府)の旗をなびかせた小舟が1隻、水先案内をつれて我々を内港へと導いた。港は小さく、サン・ジャシント号ほどの船は3隻以上は停泊できないだろう。3名の役人と1名の通訳がすぐに出迎え、私の健康状態を尋ねた。」
 3月にペナンでサン・ジャシント号に乗船、シャム(タイ)で外交交渉を行ってから5ヶ月になる。
 9月3日、体調不良のアームストロング提督、ベル艦長、慣れ親しんだ艦隊員が日本を離れるサン・ジャシント号の楽隊がヘール・コロンビア(国歌制定前の国歌相当の曲)を演奏した。下田の隣の柿崎にある玉泉寺が領事館となる。
 その庭にアメリカ国旗と領事旗を立てなければならない。
 「姉崎は小さくて貧しい漁村だが、住民の身なりはこざっぱりしており、振る舞いも丁寧である。世界のあらゆる国の貧乏につきものの不潔さが少しも見られない。家屋は清潔に保たれ、土地は一寸も余さず耕されている。」
 玉泉寺には、ハリスのほかにオランダ語通訳のヒュースケン、それに5人の中国人家僕(調理、裁縫を担当)がとどまる。「サン・ジャシント号は私を光栄の中に独り残した」と記すが、ハリスには孤独感や寂寥に浸っている暇はない。報告や記録の作成に忙しい上に、幕府の役人との付き合いや中国人家僕とのあつれきなど、次から次へと問題が起きる。
 現在の常識では、これが総領事の日常かと疑われるほど、何からなにまで自分でやらなければならないが、当時のアメリカの貧弱な外交網から考えれば待遇は決して悪くない。アメリカの外交官は商人が領事を兼ねる無給の「商人領事」が一般的であった。
 ハリスのような年俸5000ドルの専任の総領事はむしろ例外であり、優秀なオランダ語通訳ヒ
ュースケンまで同伴している。
 ヘンリー・ヒュースケンは、1832年、オランダのアムステルダムに生まれ、ニューヨークへ渡り、のちハリスの通訳募集で採用された。このとき24歳、ハリスより先にアメリカを発ち、ペナンで合流している。
恰幅がよく、乗馬を得意とする点ではハリスにもひけを取らない。「食べること、飲むこと、眠ることだけは忘れないが、その他のことにはあまり執着しない」とハリスは彼を評した。
 52歳で独身のハリスにとって、日々起こる細々とした作業をこなすのは必ずしも苦ではなかったようである。身辺にペットを置き、晩にはコオロギの音を楽しむ。
 2日後の日記はごく短く、「終日、荷物を解き整理し、こまごまと品物を注文するなどのに忙殺される。古い鐘楼で綺麗な鳩舎を作らせ、4つがいの鳩を入れた。一日中晴れ」とある。
 9月25日、ハリスは老中の堀田正睦(まさよし)に手紙を書き、合衆国大統領の日本国皇帝あて国書を江戸に届けに行きたいと述べたが、返事がない。
 10月は季節がよく、たびたび散策に出た。ところどころに前年暮れの大津波(安政大地震)の爪あとを見る。伊豆石で有名な石切場、二番作の綿花(この後に甘藷をつくる)、良質な麻、水車で米の脱穀をする様子、鹿・狼・兎・野猿の存在なども記述していする。
 花好きの彼は、「森のなかで矢車草を見つけ、心を揺さぶられた。この楚々とした花は、香りとともに恋しい故国を思い出させ物悲しい気分にさせた」と記す。
 つづけて言う。「日本語を覚えようとしている。家僕に話す数語から始めたが、いまでは必要な命令は日本語でできる」。通訳のヒュースケンと日常会話程度の日本語を競って学んだが、若いヒュースケンのほうが早く上達したようである。
 「・・・この起伏の多い地方を歩きまわることは、・・・私の健康を大いに改善してくれる。・・・下田より温和な気候は、これまでのところ、世界のどこにもないと確信している。私の幸せに欠けるのは社交だけだ。言葉の不自由がなくなったら、当地の上流階級と付き合い、いささか精神的な満足を得たいと思う。日本の法律では、高位の役人は私を自宅に招くこともできない。・・・」

【下田奉行の来訪】
 このわずか2日後、その第一歩として下田奉行の来訪が実現する。「今日という日は、将来、日本の歴史の重要な日として記念されるだろう。一都市の執権者が外国人の住まいを訪れることを禁じる法令が今日、破棄されたのである」と、大げさに日記に記した。
 11月24日、事件が起きた。ハリスの家僕の中国人二人(料理人と裁縫師)が下田の薬局でアヘンを買い占めたと奉行所から連絡が入り、「アヘンは薬用であり、全部を持っていかれると病人が出た場合に不都合」との抗議である。ハリスは二人に返すよう命じたが、一部は吸引用に精製するため水に溶かしてしまっていた。
 冬はさすがに陰湿さに耐えられない日もあるが、毎日5~6マイル(約8~9キロ)を歩くよう努めた。「病気、病気、病気。丹毒は治ったが、たえず痩せていく。去年の春から40ポンド(約18キロ)も減った」。
 厳冬期の2月25日、江戸から戻った下田奉行の井上信濃(しなの)守(のかみ)との交渉が本格化するが、江戸へ行くメドは立たない。ヒュースケンに対する奉行側のオランダ通詞は、ペリーとの日米和親条約の通訳を務めた森山栄之助(多吉郎)が主任格である。

【領事裁判権を下田奉行はあっさり認める】
 翌日、ハリスは4つの要求を出した。第1にロシア人が長崎に入れるのと同様にアメリカ人にもその権利を認めること、第2に避難港で食料などを得るのに物々交換を可能とすること、第3に「日本で罪を犯したアメリカ人は領事の審理をうけ、有罪の場合、アメリカの法律で罰せられるべき」こと、そして第4に土地を賃借し、建物を自由に購入・建築・改造するオランダ人の権利(日蘭和親条約)をアメリカ人にも与えること、である。
 下田奉行は最初の3つはすぐに同意した。それについてハリスは、第3の問題(領事裁判権)について「なんら異議もなく同意されたことに大いに驚いた」と日記に残している。
 当時の日本は立法・司法・行政の三権が分立していなかった。アメリカの法律と言葉を理解する者がおらず、日本側で裁判を行う条件を欠いていた。裁判権を領事に与えても(ある種の属人主義)、領事との政治的交渉を進めるほうが得策と幕府は考えたものと思われる。
 事の発端は、すれ違いとも言える認識と判断の相違である。しかしこの問題は通商条約に継承され、明治になって「不平等条約」改正の大きな焦点となり、かつ最大の障害になる。

【菜園で作物を育てる】
 春4月、まばゆい太陽の季節である。ハリスは菜園で各種の作物を育てる。
 「持ってきた18種類の作物のうち、芽を出したのはエンドウだけで、あとはほぼ全滅。・・・日本人から入手したトウモロコシ、メロン、キュウリ、ナスのタネをわずかばかり蒔く。・・・カナリアは新しいヒナをかえした。」
 アメリカ船をふくめ下田への入港船はあるが、母国との連絡はとだえたままである。4月25日(土曜)の日記に、「国務省からの最後の手紙は1855年10月付け、それから18ヵ月以上も経過している。私をこの土地に孤独のままに捨ておくには、あまりにも長い」と書く。
 ハリスは合意した点を箇条書きにして下田奉行とつき合せた。幕府は江戸での交渉を要さず下田で解決できる内容と判断、1857年6月17日、下田奉行とハリスの間で「下田協約」(9ヶ条)が締結された。 

3 江戸における条約交渉  
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  つづけて拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌に10回連載)の第6回「江戸における条約交渉」では事態がさらに展開する。
1857年6月、下田奉行の井上信濃守(清直)とハリスの間で下田協約が結ばれると、次にハリスは江戸へ出て老中と面談し、正式に通商条約を結ぶ必要があると主張した。
 一方、幕府は日蘭追加条約(調印は1857年10月16日)と日露追加条約(同年10月24日)の交渉に忙殺されていた。
 ハリスの江戸出府要請を側面から支えたのが、それまでハリスとの交渉に当たっていた井上下田奉行や目付(めつけ)の岩瀬忠震(ただなり)である。条約交渉の先延ばしを主張する意見に対して、二人は早急に条約を結び、新しく国際社会との交渉を始めるべしと主張した。

【幕閣の二派対立】
 こうした幕閣の動きは突如として生まれたのではなく、三年前から底流があった。1853年11月、老中首座(内閣総理大臣相当)阿部正弘は、永井尚(なお)志(むね)を、翌年2月に岩瀬を目付に抜擢した。
 目付とは若年寄の配下にあって、老中を補佐する要職。職掌は広範囲にわたり、才能ありと見た若手が登用される(このころの定員は10名)。
 この人事はちょうどペリーとの史上初の日米交渉が始まるころだったが、二人はまだ若く、林大学頭のアメリカ応接掛には入っていない。
 日米和親条約の締結後、阿部老中は「海防掛」(外務省相当)を強化し、対外政策を企画立案させた。ここには永井や岩瀬ら目付グループと、松平近直ら勘定奉行グループの二派があり、両派の意見は鋭く対立した。
 阿部への反発を強めた井伊直弼の推挙により、1855年11月、早くからの開国論者である堀田正睦(まさよし)が11年ぶりに老中首座に返り咲く。
 先輩格の堀田に老中首座を譲ったものの、実権はいぜんとして阿部の掌中にあった。二人はタッグを組み、前へ進む。 
 1856年8月、岩瀬が上申書を出す。大船製造の解禁による水運繁栄の状況を受けて、江戸・大坂・兵庫・堺・長崎など全国主要港湾に通船改(つうせんあらため)会所(かいしょ)を設け、出入の船から取引高の2パーセントの税をとり、これを艦船・銃砲の製造、殖産興業の費用に当てるという案である。
 9月2日、阿部は通商開始が近いことを予想し、日本も「交易互市の利益をもって富国強兵の基本とする」という画期的な方針を宣言して具体案の策定を指示、これを進める人事として、11月、堀田が外国事務取扱(外務大臣相当)を兼務した。
堀田はすぐに貿易に関する調査を海防掛に指示した。これに応じて目付グループは出府を求めるハリス書簡に賛意を示し、翌57年5月には重ねてハリスの出府許可を提案した。
 一方の勘定奉行グループは、貿易港は長崎に限定し、オランダと中国を相手とする旧来の会所貿易をアメリカなどにも拡大・適用する対案を出した。ついで和親条約そのものに反対する復古案を上申する。
 目付グループと勘定奉行グループの意見は相反し、一本化できない。そこで堀田はそれぞれに面談して詳細に意見を述べさせた上で、開明的な目付グループに軍配をあげた。

【阿部老中の急逝】
 その直後の1857年7月、思いがけないことが起きた。玉川上水の水源・羽村へ遠乗りし、アユを肴の酒宴で阿部の体調が急変、酒が入ると顔に赤味がさすところ、この日は悪寒のためか青ざめた。阿部は就任後はじめて10日間も登城せず、1ヶ月後の1857年8月6日、急逝した。享年38歳。
 事態の急変で、堀田が阿部の遺志をつぎハリスの江戸出府を認めた。
 星条旗を掲げる旗持ちを従え、下田奉行の警護隊に守られて、ハリスと通訳ヒュースケンが騎馬で下田を出発したのは1857年11月23日である。さながら「大名行列」との記録が残る。
 早咲きのツバキが咲く天城を越え、湯が島の先でハリスは初めて富士山を見る。東海道を進み、神奈川では「ここがペリー提督の談判の場所かと、興味ひかれ、・・・ペリー艦隊の停泊した横浜の湾に3隻の西洋船を認め驚く。オランダから買ったもの」、そして「神奈川の港は江戸に近い。江戸が外国貿易に開かれるときは重要な場所になる」と日記に記す。

【ハリスの演説「日本の重大事件」】
 一行は7日後に江戸の宿舎・蕃書調所(ばんしょしらべしょ)(千代田区九段坂下)に入り、12月12日、ハリスは西の丸下の役宅で堀田と対面した。
 その席上、内心深く温めてきた「日本の重大事件」と題する演説を行う。
 香港総督バウリングからの古い書簡を引用してイギリス艦隊来航の可能性を述べ、その前に自分と条約を結ぶことが最重要の課題と強調した。彼の日記には次のようにある。
 1 交渉による条約締結を選ぶか、戦争=敗戦に伴う条約締結を選ぶか。一隻の軍艦も伴わず単身江戸にのりこんだ自分と交渉することが「日本の名誉を救う」。
 2 アメリカと最初に通商条約を結ぶことが、国際法上の最恵国待遇の適用により、日本に有利である。
 ハリスが引用した半年以上も前のバウリング書簡とは、「我が国と世界諸国の道理ある期待を満足させるものだと私が確信できれば・・・あえて大艦隊を引きつれて(日本へ)行くような考えはない」と仮定法を用いて微妙な言い方をしている。
ハリスはこれを「イギリス艦隊が来航する」可能性として強調した。
 事実、前年の1856年10月8日、アロー号事件が起きていた。翌年12月、中国へ派遣された英仏連合軍が広州(カントン)を占領する。ハリス演説の約2週間後の事件である。
 後にハリスはバウリングに宛てた書簡で、中心課題をはずした文脈で次のように書いている。「私が貴下の書簡を読みあげ、激しいセンセーションを巻き起こしました。その手紙に署名があるかの質問に、私はバウリング卿の署名があるのみならず、全文がバウリング卿ご自身によって書かれていると答えました」
 ハリスはバウリング書簡を巧みに、かつ「誇張して」使ったが、イギリス艦隊来航という具体的な情報は持っていなかった。現に情報を伝える船も下田に入ってはいない。

【岩瀬の上申書】
 このハリスの大演説について、ハリスとの交渉を担当する岩瀬が第一番に老中へ上申書を出した。オランダとロシアとの条約交渉を終えて長崎から帰京の途上で書いたのもので、ハリス演説から10日目の12月21日付けである。
 その意見は開港を当然の前提とした上で、どの地を開港するかに焦点を当てる。経済の中心地たる大坂を避け、将軍の居所である江戸の近辺を開港すべしとし、具体的に武州横浜の名を挙げる。
 だが、この上申書は堀田の懐にしまわれ、その9日後、堀田はハリス演説の邦訳をご三家・ご三卿と諸大名に回覧して意見を求める。
 徳川斉昭は、浪人など200万人を引きつれてアメリカへ渡り、談判すべしと答える。長崎奉行の水野筑後守は、3年前の日米和親条約からも後退し、開港を長崎に限定する案を出した。 

【ハリス提案に横浜開港なし】
 中国でふたたび戦争が始まったというニュースとハリス演説を重ねあわせれば、英仏連合軍が日本へ来航するという危惧も否定できない。「丸腰の」外交官を相手に交渉するほうが有利なことは誰にも分かる。
 ハリスと条約交渉を早く進めるため、井上と岩瀬は条約内容の具体的問題を検討しはじめた。貿易の方法、公使の居住地、開港地(開港場)、遊歩区域、関税など多方面にわたる。
 そして1858年1月18日、堀田が井上と岩瀬に対してハリスとの談判を命じる。そのとき老中指示に加えて、将軍の委任状が出された。
 その談判の席で、ハリスが条約草案を提出した。その第3条に開港場の地名がある。和親条約(1854年)で避難港として開港した下田と箱館(函館)に加え、大坂、長崎、平戸、京都、江都(江戸)、品川、ニホンの西海岸の2港、九州の石炭産地に近い1港、合わせて計11港の開港要求である。
 江戸と品川が重複しているが、横浜や神奈川はない。これがハリスの開港原案であった。

4 通商条約と横浜 
 いよいよ拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌に10回連載)の第7回「通商条約と横浜」において懸案の通商条約の内容の検討に入る。
【岩瀬の横浜開港説】
 ハリスの発言は各方面に驚きと波紋を呼び、意見が噴出する。こうした状況下、目付(めつけ)の岩瀬忠震(ただなり)が、日蘭・日露の追加条約交渉を終えて長崎から江戸へ戻る途中の1857年12月21日、上申書及び書簡において横浜開港説を表明する。
 当時は貿易で国内の富が失われるという考えが多勢を占めていた。岩瀬は反対に、貿易による江都(江戸)の経済復興を確信し、外国人の望む大坂(大阪の表記は明治以降)に強く反対した。だが大型船に向かない江戸湾の地形上の問題(遠浅)と、お膝元の江戸開港は政治的に難しいと考え、武州横浜を強く推した。
 この上申書は老中どまりの扱いで公表せず、9日後、堀田は広く意見を求めた。徳川斉昭ほかから意見が出るが、岩瀬は改めて武州横浜説を上申する。

【井上と岩瀬が談判役に】
 1858年1月16日、堀田とハリスの初めての対話が持たれた。堀田は米大統領派遣のハリス総領事との会談が遅れたことを釈明した後、①貿易開始、②公使駐在、③下田の閉港に代わる一港の開港を承諾すると述べる。
 翌17日、堀田は下田奉行の井上信濃守清(きよ)直(なお)と岩瀬の両名をハリスとの「談判役」(交渉役)に任命、将軍の御朱印(委任状)を与える異例の措置を講じ、交渉を一歩前進させた。
 井上は1809年、旗本・内藤吉兵衛の次男として生まれ、井上家の養子に入り、昌平校で学び、1855年に下田奉行に任命された。実兄は川路聖(とし)B(あきら)(言編に莫)である。
 岩瀬は1818年、旗本・設楽(しだら)貞(さだ)丈(とも)の三男に生まれ、岩瀬忠正の養子に入り、昌平校で学び、同校教授を経て、1854年、目付に登用された。
 通訳は幕府側が森山多吉郎(栄之助)、ハリス側がヒュースケンである。

【日米対話の問題点】
 1858年1月18日、ハリスが条約草案のオランダ語訳を提出した。その和訳に日米双方の通訳が協力し、紀州候の蘭方医・伊東貫斎の助けを借りて、5日後に完成させた。この第3条に11港の開港場案が示されている。
 和親条約(1854年)で避難港として開港した下田と箱館(函館)に加え、大坂、長崎、平戸、京都、江都(江戸)、品川、日本の西海岸の2港、九州の石炭産地に近い1港の計11港である。江都(江戸)と品川が重なっている一方、横浜、神奈川はない。
 蕃書調所(ばんしょしらべしょ)において井上・岩瀬の両名(以下、両名と略す)とハリスは、1月25日から2月25日までの1ヵ月間で計13回、精力的に対立点と合意点を明らかにしていく。
 貿易、公使居住地、開港地、居留(きょりゅう)(外国人が住み仕事を行う場所)と逗留(滞在はできないが一日限りの訪問と商売ができる)の場所、移動可能な範囲(遊歩区域)の確定、禁制品の設定や為替相場、海軍貯蔵所や礼拝堂の設置(信仰の自由)など、1回ごとに問題を限定して進めた。
 多くの問題があるが、ここでは横浜開港をめぐる交渉を中心に考えたい。

【ハリスが3港を撤回】
 第1回対話(応接)は1858年1月25日、いわば総論をめぐり議論が交わされた。両名は下田閉港に代わり大きな1港を開港するとして「神奈川と横浜」を挙げた。第2回(1月26日)はその継続、第3回(1月28日)でハリス草案にある11の開港地が主題となる。
 両名が「草案の末尾に1859年7月4日にこの条約を取り交わすとあるが、開港時期はこの日を指すのか」と問う。7月4日はアメリカ独立記念日である。ハリスは「調印日は七月四日、各港の開港時期は一挙ではなく段階的に」と答える。
 両名が「三港(函館、下田、長崎)を開き、貿易に慣れ、人心が納得して問題がないと確認したうえで、開港場を増やすこととしたい。草案の11港には人心不穏の地もある」と述べると、ハリスは提案の11港から九州の炭坑に近い1港、平戸に西海岸の2港のうち1港の計3港をあっさり取り下げた。

【下田の代港としての神奈川】
 両名は、下田の代港として神奈川を提案する。
 ハリスは「いならぬ」とする一方、新潟開港を提案、「神奈川は、開けばまたたくまに大都会になろう」とも答える。ハリスはねばる。
 「江戸を開かなければ、英仏などの来航の折、却って困るであろう」
 これはハリスの持論で、大軍を率いてくる英仏より先に自分と条約を結べば、日本も大きな利益を得るとする見解である。両名は「開港地の件はひきつづき協議したい」と引きとった。

【金川で横浜村を指す?】
 第4回対話(1月30日)で、両名が新案を示した。「貴方の申立てもあり、江戸と品川の2ヶ所は時期を定めて開く。なお貴国商民の居留の場所は<金川横浜之間>に限る」
 他の問題を協議した後、また両名が「江戸は5年後の1863年正月1日より開くが、アメリカ人の居留は金川横浜に限り、江戸にはただ商売に行くのみ」と主張、この<居留>と<商売にいく町>の区別が両名の主張の根幹になる。
 なお地名表記は、神奈川、金川横浜、金川などが使われている。金川の表記により神奈川宿管轄下の横浜村を指す意識があったものと思われる。
 両名がつづける。「貿易には、手広の場所と、数百の倉庫が要るが、金川は地勢が良い。当方もやがて大船を造り海外に渡るが、大船の係留にも適している。・・・金川を開けば内外の商民が集まり、たちまち大都会となろう。・・・江戸の問屋もそちらへ移住させる」
 この<地勢の良い金川>とは明らかに広大な後背地を持つ横浜村を指す。これは岩瀬らの一貫した主張である。神奈川宿は坂の街道に沿って人家が密集し、後背地がほとんどない。
 しかしハリスは江戸へ上る途中、神奈川宿を通過しただけで、横浜村は遠望したのみ、したがって神奈川宿と横浜村の違いを理解したとは思えず、実際、なんの発言もなかった。

【<居留>と<逗留>の区別】
 第5回対話で「アメリカ人の居留は金川横浜、江戸へは商売にいくのみ」を再確認する。以下、協議は第6回(2月2日、堺の代りに兵庫の開港)、第7回(2月3日、逗留と居留の区別)、第8回(2月6日、同上)、第9回(2月8日、開港地、遊歩区域)、第10回(2月9日、関税)、そして2月14日(安政五年の元旦)をはさみ、第11回(2月19日、領事の国内旅行)へと進む。

【勅許に失敗、条約調印へ】
 2月21日、堀田に京都出張の将軍申渡があり、翌日には川路と岩瀬にも同じ申渡があった。出発を目前にして、第12回(2月23日、遊歩規程、江戸大坂開市の時期、礼拝所の建造、踏絵の解禁など)と最終の第13回(2月25日、関税、兵庫港、仮条約の調印)の協議があった。
 2月27日、ハリスの体調が悪化、つけていた日記もここで終わる。3月5日、条約の詰めが終わり、条約文を記した和文・英文・蘭文の各二通を作成、双方で確認した。
 ここに箱館(函館)・新潟・神奈川・兵庫・長崎の五港の「開港」と江戸・大坂の「開市」が決まる。
一方、条約調印の勅許を得ようと上洛した堀田は、工作が不調に終わり、6月1日、江戸へ戻った。残された課題は条約の調印である。
 6月、井伊直弼が大老就任、その後ポーハタン号(1854年のペリー艦隊の最終時の旗艦であった)が下田に入ると、ハリスはこの艦上での調印を強く求めた。井伊は井上と岩瀬を艦に派遣、7月29日、日米修好通商条約に調印させた。

日米修好通商条約(1858年)の骨子
  (1)箱館(函館)・新潟・神奈川・兵庫・長崎の5港開港
  (2)江戸・大坂の「開市」
  (3)開港場周辺の遊歩規定
  (4)片務的領事裁判権
  (5)アヘン禁輸

20【図像】条約一覧-とくにアヘン条項をめぐって
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出典 : 拙著『黒船前後の世界』(増補版 ちくま学芸文庫 1994年)の411ページ。
 左から「合法化」、「記載なし」、「禁輸」、「備考」と並べ、イギリス植民地ペナンでの合法化(1784年)と米=シャム条約(1833年)の「禁輸」、ついで英清南京条約(1842年)の「記載なし」と米清望厦条約(1844年)の「禁輸」へと、複雑な過程を一覧表にまとめた。
 最終的には第2次アヘン戦争の最中の英清天津条約(1858年6月26日)に「合法化」し、一方、日米修好通商条約(1858年7月29日)では「禁輸」が明示された。
 わずか1ヵ月ほどの差で、一方の清朝中国ではアヘン貿易の合法化が明示され、他方の日本では禁輸が明示された。インド産アヘンの生産・輸出余力から見て、日本へのアヘン輸出が不可能だった訳ではない。ハリスの提案があってこそのアヘン禁輸条項の成立である。
 この条項のおかげで後続の条約に<最恵国待遇>が適用され、日本は<アヘン禍>の苦しみと無縁な近代を迎えることができたのである。

5 横浜か神奈川か
 ついで拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌に10回連載)の第8回「横浜か神奈川か」より、ハリスの主張する神奈川宿に対して、幕府が横浜居留地の建設に取りかかった過程を再掲したい。
【安政五カ国条約】
 日米修好通商条約及び貿易章程は1858(安政五)年2に仮調印、勅許が必要との老中堀田正睦(まさよし)の判断により、正式の調印は延期された。6月4日、井伊直弼が大老に就き、さらに調印延期を重ねた末、7月29日、米艦ポーハタン号上において、井上清直、岩瀬忠震(ただなり)、ハリス総領事の間で調印に至る。
 つづいて幕府はオランダと8月18日、ロシアと8月19日、イギリスと8月26日、フランスと10月9日に修好通商条約を結ぶ。いわゆる<安政五カ国条約>である。後続国は基本的には先行の(日米)条約を踏襲、その枠内で小さな変更を加えた。
一つが横浜開港の日である。アメリカは独立記念日にちなんで1859年7月4日としたが、ロシアが7月1日(安政六年六月二日)で決まると、他の国もそれにならった。
 なお開港場に関しては日米条約の文言を踏襲し、いずれの条約も神奈川とした。しかし、この「神奈川」は実地検分もなく、具体的にどこを指すかは曖昧であった。

【閣内の確執】
 開港は条約締結から11ケ月後である。すぐに都市基盤整備に着手しなければならないが、幕閣内の意見一致は困難をきわめた。このころ江戸や長崎で暴病(コレラ)が大流行、外国人が毒を投じたためと噂がひろまり、開港への感情的反発が表出する。
 また1858(安政五)年から、将軍跡継ぎをめぐる抗争の渦中にあり、井伊の推す南紀派と、堀田や岩瀬らの推す一ツ橋派が激突する。これは秋以降の井伊による「安政の大獄」へ発展する。
 井伊は大老就任直後から人事権を発動、対米交渉に当たってきた要人を左遷、7月、堀田らを罷免した。8月、「横浜開港」の提案者の岩瀬ほか計5人の外国奉行を任命、開港地選定を協議する。
 井伊は横浜開港説で、街道近辺を避け、かつ遠浅でない良港の横浜村にすべしと主張、それに対して、当初、横浜開港の提案者であった岩瀬や井上らが、条約で神奈川と決めた以上、神奈川(宿)とすべしと主張する。
 岩瀬はすぐ横浜村近辺の現地調査に動き、さらに新任の勘定奉行・土岐(とき)朝(とも)昌(まさ)がつづく。ところが日仏条約締結後の10月、一ツ橋派の岩瀬は作事奉行に左遷され、ついで永(えい)蟄居(ちっきょ)の重罰を科せられる。

【神奈川奉行の発令】
 開港場の建設などを担当する神奈川奉行が発令されたのは11月28日(安政五十月二十三日)、五人の外国奉行の兼帯(兼務)とされた。翌日、井伊の指示により、勘定組頭(財政も担当する勘定奉行の次席待遇)一行が、神奈川宿(神奈川区)から戸部(いまの西区)を経て横浜村(中区)に至る新道(のちの「横浜(よこはま)道(みち)」)建設の調査を行う。
 その晩、井上、水野ら外国奉行が勘定組頭に伝えた。居留地は神奈川宿に隣接する平沼新田や戸部村に置く案もあったが、井伊大老の意向により横浜村に決まり、運上所(税関と外国事務を所管)、外国人居留地、日本人町などを置く、と。
勘定組頭は翌日また横浜村を調査、波止場・番所・運上所・異国人町・日本人町などの場所を地図に落し、見積りをした。
 一方、ハリスが横浜村や神奈川宿周辺を調査したのは約2ヶ月後の1859年1月22日(安政五年十二月十九日)である。井上と永井尚(なお)志(ゆき)の両外国奉行が同道した。これについてハリスは知人への手紙(2月17日付け)で、神奈川宿近くの 「東海道に面した好さそうな場所を2ヶ所選び、最終決定は幕府方に任せた」と楽観的な見方をしている。
 外国奉行による上申書「神奈川最寄村々上知(あげち)(幕府の直轄領化)の件」を受け、2月24日付けの老中達書が出た。上知の範囲は、横浜村、北方村、本牧本郷村、中村、根岸村、堀之内村の五ヶ村と広い。同じ日、勘定奉行から外国奉行と下田奉行(半年後、下田鎖港に伴い神奈川移駐)あてに、神奈川表(横浜村を指す)普請立合の申渡が出る。

【ハリスとの対話】
 居留地の場所をめぐり、神奈川宿本陣でハリスとの会談(対話)が始まったのは、3月5日(二月朔日)、幕府側は井上、永井、堀利(とし)熙(ひろ)の3外国奉行と目付の加藤正三郎である。
 ハリスは「東海道の街道沿いを居留地に」と主張するが、正確な範囲を示さない。これに対して幕府代表は、「街道にこれ以上の人が集まると混雑が予想され、六郷川は増水の危険もある。また辺り一帯は<古田(こでん)>であるため、売買も上知(あげち)もできぬ」と述べる。
 ハリスが「海岸に空き地があるではないか」と反論、幕府側は「網を干す場所は同意しかねる」と返す。ハリスの「年貢相当の代金は米国が上納する」との提案には、「他の列国がこれに同意するとは思えぬ」と答える。
 「狭いのが理由であれば、問屋だけは横浜村へ移してもよい」とのハリスの譲歩にも、幕府側は「外国人の住居も日本商人の住居も必要となるゆえ、・・・街道を横浜へ替えなければ解決できぬ」と返す。
 第2回は3月8日、「居留地に集まる外国人商人はおよそ50人」とのハリス見解に対し、幕府側は「2~300人は固い」と述べる。主に応対するのは、下田奉行以来、ハリスとの付き合いがもっとも長い井上である。
 土地の賃貸に話が及び、ハリスの「賃貸する意思があるか」の問いに、井上は「条約にもあり、賃貸はいたす。だが、どの地を貸すかは所有権者の権利」と答える。
 そして「条約には神奈川とある」との指摘にも、井上は「神奈川は一湾中の惣名(そうみょう)であり、そのなかに小名(こな)(小字(こあざ))がある。この陣屋のある場所の小名は青木町で、横浜も同じく小名であるゆえ条約から削った」と淀みない。
 同じ武蔵(むさしの)国(くに)で、海路直線でわずか4キロほどしか離れていないとはいえ、片や橘樹(たちばな)郡(ぐん)神奈川宿、片や久(く)良(ら)岐(き)郡(ぐん)横浜村、郡境をまたいで神奈川という惣名でくくるには無理がある。だがハリスには、そこまでの区別が及ばなかった。
 第3回は3月9日、前回の協議の延長上に、在日アメリカ人の信教の自由や幕府遣米使節の延期などをめぐる協議が入る。第4回は3月12日、ハリスはついに談判打ち切りを告げ、最後に「長い付き合いの井上信濃守様には三つのうち二つまでは勘弁してきたが、私の言い分は聞きいれられず、役目柄、これ以上は応じられない」と言い切る。
 井上も同じく「当方も、役目柄、神奈川は差免(さしゆる)し難(がた)く候」と返す。友情と国益とは別と言わんばかりである。ハリスが「自分が仮に横浜を認めても英国は承知せず、江戸へ行き老中と談判するであろう」と食い下がるが、井上は「英国にも同様の主張をいたすつもり」と譲らない。
 この直後、井上と永井も外国奉行を罷免され、対話には水野忠徳が出る。4日後の3月16日、第5回を再開、最後の第6回は3月18日である。担当者が替わり、進展もなく、ハリスは嫌気がさし、会談は物別れに終わった。
 ハリスは下田へ戻り、ついで上海へ2ヶ月間の休暇に赴く。そして6月下旬、ミシシッピ号で下田に戻り、7月1日、船から横浜居留地を遠望した。
 後に安政5ヶ国条約締結国の代表格となるイギリス総領事オールコックが来日するのは、開港4日前の6月26日である。
 ハリスと同様、7月1日(開港の日)、オールコックは初めて横浜居留地をサンプソン号上から遠望した。彼は横浜居留地の問題について関与することができず、交渉の枠外にあった(後述)。

【関内の居留地整備】
 ハリスや列国代表が不在の間、幕府は横浜の都市基盤整備の突貫工事を進める。横浜村の村民を元村へ移し(のち元町となる)、上知した5ヶ村のうち横浜村、太田屋新田、戸部、野毛浦の4ヶ所を、神奈川奉行の支配下に置く。
 横浜村(太田屋新田をふくむ)の周囲には堀割を巡らせ、関門(検問所)を7つ設け、堀の内側を関内(かんない)と通称する。無住となった関内の、集落とともにあった原産のツバキなどの木々を伐採、青々と広がる麦畑をつぶし、低湿地を埋め立て、白紙に絵を描くように設計図を引いた。
 さらに戸部に定めた神奈川奉行の出先機関として、関内の海岸近くに運上所(うんじょうしょ)(税関と外国事務を所管)を設け、波止場を作り、ここを基点に西側(山手側)を賃貸の外国人居留地とする。運上所の近くに官舎20棟を急造、うち2棟を外国人向け、2棟を日本人向けの簡易宿泊所とする。
 運上所の東側(桜木町方面)は日本人町とし、海岸に並行して海岸通り、北仲通り、本町通り、南仲通り、弁天通りの五筋を引き、直角に交わる道路で区画を作る。
 9万両を投下した突貫工事をかろうじて終え、1859年7月1日(安政六年六月二日)、開港の日を迎えた。

19 論点整理 日米修好通商条約(1858年)から横浜開港(横浜居留地の設定)1859年7月1日まで
幕府主導の横浜居留地建設
  (1)開港場の<神奈川>とは、神奈川宿か、横浜村か? 
  (2)幕府とハリスの論争と決裂
  (3)横浜開港の期日に間に合わせるため、3か月間の突貫工事
    <横浜道>、<運上所>、外国人居留地と日本人町からなる<関内>
  (4)区画を整理して外国人に賃貸する形式(所有権は幕府が持つ)

6 新生横浜を創る人びと
 拙稿「横浜の夜明け」(『横濱』誌に10回連載)の第9回「新生横浜を創る人びと」は次のように言う。なお、ここで参照した主な研究には、土居良三『幕末 五人の外国奉行-開国を実現させた武士』(1997年 中央公論社)、横浜開港資料館(齋藤多喜夫編)『横浜もののはじめ考』(第3版が2010年)等がある。

【開港時の日本人町】
 1859年7月1日(安政六年六月二日)は開港の日である。前々日からの風雨も前日には上がり、晴天となった。イギリス総領事(のち公使)オールコックがサンプソン号で横浜港に着く。午後に横浜居留地を散策、日本人町の繁栄ぶりに驚嘆する。アメリカ公使ハリス(3日前に公使昇任)も前日にミシシッピ号で横浜沖まで来るが、開港場はあくまで神奈川宿と譲らず、横浜には領事を派遣、自身は上陸しなかった。
 オールコックは故事を引き、「魔法使いの杖のひと振り」で立ち現れた大きな日本人町を次のように記す。
「・・・神奈川宿から横浜へ最短で通じる道の造成に、巨額の資金を投じている。沼沢を横断する約2マイルの土手道、固い花崗岩の突堤と荷揚場、また外国人用の家々や倉庫、日本人商人の新興市街などが、税関(運上所)や広域の官庁街を擁して、すでにできあがっていた。
 ・・・日本政府が早手まわしに巨費をつぎこんだ花崗岩の突堤は、20隻もの艀(はしけ)(小船)が同時に荷おろしできる。その正面の役所風の大きな建物が、税関(運上所)だと教えられた。中庭に浜の石を敷きつめ、官吏や通訳がいる。あたりには建設中の建物も見られる。・・・
 ・・・(日本人町の)広い街路の両側に、木と土壁の瀟洒な建物が並ぶ。まさに今朝、入居したばかりらしい店先では、大方が荷解き前で、雇い人たちがせわしなく商品を並べていた。・・・」

【横浜居留地の基本デザイン】
 国家間の約束(条約)に基づいて設計される街づくりにおいて、場所の確定、あるべき街の姿など、重要課題に関する第1の当事者は、条約締結国の代表者、ここでは外国奉行ら幕府官僚と各国外交官である。
 前回述べたように、外国奉行は米総領事ハリスの説得に尽力するも物別れとなり、3月21日、ハリスはミシシッピ号で上海へ行った。幕府は交渉相手が不在のまま、条約に定めた開港の日をめざして工事に踏み切る。
 英総領事オールコックの江戸着任は6月26日と開港のわずか数日前、他の条約締結国(オランダ、ロシア、フランス)の姿はまだない。
 横浜居留地の設計については、1859年3月26日(安政六年二月二十二日)、外国奉行の堀利(とし)熙(ひろ)(箱館奉行を兼帯)が最終案を老中へ上申した。横浜村を開港場とし、神奈川奉行所を戸部の高台に置き、その出先機関の運上所(税関と外国事務を所管)を波止場近くに置く。運上所を基点に東側(山手側)を外国人居留地、西側を日本人町とする基本デザインである。
 4月1日、5人の外国奉行のうち酒井忠行、水野忠(ただ)徳(のり)、堀の3人(村垣範(のり)正(まさ)は江戸に残り、一人は欠員)が地所見分(視察)のため江戸を発つ。開港の3ヶ月前である。工事は神奈川宿から東海道の芝生(しぼう)村を経て横浜村に入る「横浜(よこはま)道(みち)」(よこはまみち)から始め、役人用の住居(戸部の神奈川奉行所と運上所の周囲)、橋梁、道、運上所や波止場などへと進める方針で、所要総経費は約9万両と見積もった。

【工事の落札】
 江戸の工事請負人・平野弥十郎のもとへ、「横浜開港着手につき」見積もりを出すよう、神奈川宿本陣名主・石井源左衛門から依頼が来たのは1859年1月ころ、開港の半年前であった。
 平野が日記に残す。
 「海岸通りは砂利取場で、漁師のイワシ油絞り小屋がただ1棟あるのみ、本町通りの辺りは麦畑。野毛川に橋はなく、小舟で渡る。この辺りは海苔取場で、牡蠣も産する。野毛村の勘左衛門のウナギの蒲焼はよく知られ、江戸からの客もある。横浜村の住民の移住先、元村(もとむら)には、すでに50戸の茅葺家あり、・・・」
 開港の日は迫るが、まだ工事請負人は少ない。1859年年初からは各地の名主へ工事請負の公開が始まり、4月には落札が次々と出た。
 磯子村の堤磯右衛門は役宅普請などを約4500両で請ける。
 経費の至急支出を可能とするため、5月10日、水野と村垣の両外国奉行に勘定奉行(財務などを所掌する奉行)兼帯の老中指示が出る。
 つづけて武蔵国榛沢(はんざわ)郡(ぐん)高島村(埼玉県深谷市)名主の笹井万太郎は最大規模の波止場築立を16000両で落札、また新堤築立の4400両は武蔵国久(く)良(ら)岐(き)郡太田村(横浜市中区)の百姓・勘七が落札、いずれも開港を1ヶ月半後に控えた5月13日である。

【開港場の準備完了】
 6月22日(旧暦五月二十二日)、すでに上知した横浜村、北方村など計5ヶ村のうち横浜村、太田屋新田、戸部村、野毛浦の4ヶ所を外国奉行(神奈川奉行兼帯)の預所とし、最終段階に入る。開港予定日のわずか8日前である。
 6月27日、村垣外国奉行が前回の4月につづいて神奈川・横浜へ赴き、東海道から芝生村で分岐して横浜へ入る新道(横浜道 よこはまみち)を見分、「九分通り出来た」と述べる。
 翌日(開港の3日前)、戸部会所や周囲の役宅を視察、ついで吉田橋、太田橋、本町通り、運上所とその周辺の外国人長屋や役宅などを確認して戸部に戻った。すべてがギリギリであったが、工事は順調と、村垣は日記に安堵を記す。
 貿易に備えて「新二朱銀」を鋳造、6月24日に「新二朱銀」8枚=金1両と決め、この新貨幣7000両分が江戸から運上所に届くのは、開港の前日であった。

【第一権利者は誰か】
 英総領事オールコックオールコックは言う。「日本政府は条約で定めた神奈川ではなく、湾の対岸の横浜という土地に外国人を集住させると固く決めたらしい。・・・われわれは強く反対したが、場所はすでに決定され、莫大な労力と費用をかけて準備されていた。・・・」
 上海租界の形成時、領事職(1846~55年)にあったオールコックは、先行投資をした主体が後の第一権利者となることを痛 感していた。上海の投資主体は、初めは借地人会議及びその常設機関としての道路・埠頭委員会、のち1854年からは上海工部局と改称されるも、すべて外国人居留民による組織である。
 アヘン戦争の敗北に起因する上海租界の形成には、清朝中央政府も地方政府もほとんど関心を払わず、実質的に治外法権が確立した。
 これに対して日米和親条約(1854年)と日米修好通商条約に始まる安政5ヶ国条約(1858年)は、いずれも戦争を伴わず、話し合いにより成立した。加えて横浜は外国人の先行投資を入れず、幕府が圧倒的な主導権を持って作り上げた。もはや上海方式を持ち込むのは困難であり、外交団と貿易商たちの意見も一致を見ない。オールコックは率直に述べる。
 「商人たちは(神奈川宿ではなく)横浜村を選び、そちらへ移住する。・・・幕府は、外国商人と外国代表(外交官)の目的を互いに食いちがわせ、ぶざまにも対立させて、思いのままにことを運んだ。我々は足並みの乱れを突かれ、先手を取られ、明らかに負けたのだ」
 外国奉行、支配組頭、与力など優秀な幕臣の理念と具体的な政策執行が、新生横浜の基盤を創った。彼らこそ第一権利者の主張を貫いた当事者である。
 都市横浜は良質な遺伝子を持って出発した。

【内外からの移住者】
 名主を先頭に、近隣の村民をはじめ、関東一円(静岡や山梨あたりを含む)の出稼ぎ人が大挙して工事に従事した。松山藩による神奈川台場(神奈川宿の地先)の建造も決まり、さらに労働需要は逼迫する。
 こうして戸数わずか100戸ほど、石高340石の半農半漁の村が、新しく開港場に生まれかわった。内外から多様な人びとが、この新天地をめざす。
 外国商船の一番乗りは、開港前日の6月30日入港の米船ワンダラー号で、ハード商会派遣のヴァン・リード(領事館員を兼務)が乗っていた。入港手続きは翌日の開港当日まで待ったと言われる。7月1日はオランダ船シラー号(シームセン商会が派遣、クニフラーらが乗船している)が入港、5日入港のオランダ船アタランテ号にはジャーディン・マセソン商会(横浜最大の外国商社)のケスィックとバーバーらが乗っていた。
 外商たちは各自の建物の完成まで、運上所に隣接する外国人貸長屋に住むか、あるいは船内で生活、居留地との間を小船で往来して商売を進める。
 日本人商人は店舗兼住居を構え、貿易業務にとりかかる。日本人移住者はこれだけではない。新興都市は建築ブームで大工・鳶・左官などを求め、また移住に伴う様々な仕事や生活用品の売買などを必要とした。新生横浜の建設に集まった人びとの縁の広がりが、さらに人と商品の移入を加速させ、横浜発展の機動力となる。

新図像1 埋め立て途中の横浜村 
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新図像2 海岸近くの官舎、外国居留民が自宅を建てるまでの仮住まとしても利用された。
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新図像3 建造中の横浜居留地
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参考 : 敗戦条約と交渉条約の比較一覧】
 石井孝『日本開国史』(1972年)は、同じ1858年に結ばれた安政条約(日米)と天津条約(中英)の比較のなかで、①内地旅行権、②関税行政への外国人の介入の有無等4点を挙げている。
 これに対して私は、天津条約が第2次アヘン戦争の中途で結ばれたもので、この戦争の最終条約である北京条約(1860年)と一体のものと考えるべきとしたうえで、さらに
ア)賠償金の有無
イ)アヘン条項
ウ)開港場における外国人側の自治権の有無等の4点を追加し、
 なかでもイ)アヘン条項の重要性を論じた。
 安政条約締結の直前、ハリス米総領事(のち公使)は、米国と通商条約を結べば多くの利点があるとする演説「日本の重大事件に就いて」(1857年12月12 日)を江戸城で行い、その一つとしてアヘン禁輸を強調した。
 本稿に掲載の「条約一覧」に示した通り、米シャム条約(1833年)、米中望廈条約(1844年)以来の米国外交のアヘン禁輸策を踏襲した主張である。

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アヘン戦争と日本の開国(中)

 前稿「アヘン戦争と日本の開国(上)」は、第一次アヘン戦争(1839~1842年)に関連する舶来情報(唐風説書とオランダ別段風説書)を分析した結果、幕府の老中・水野忠邦が文政令(異国船無二念打払令)を撤回し、薪水供与を基本とする穏健な天保薪水令に復したことを述べた。
 すなわち強大なイギリス艦隊にとって江戸湾の封鎖、物流の阻止はごく容易であろうと考え、加えて非武装のモリソン号の来航目的を知った以上、文政令(異国船無二念打払令)の継続は無策と判断、隣国のアヘン戦争を「自国之戒」 として穏健な文化令(薪水供与令)に復した。これが天保薪水令であり、南京条約締結(1842年8月29日)の1日前であった。
 
【ペリー来航と日米和親条約】
 それを受けて本稿「アヘン戦争と日本の開国(中)」は、まず2枚目のスライドを使い、天保薪水令から11年後のペリー来航と翌年の日米和親条約の調印(1854年)に至る過程を説明する。
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右上の地図はペリー提督の旗艦の航路を示すもの。アメリカ東部の軍港ノーフォークを出港、大西洋をわたり南下、ケープタウンをまわって北上、セイロン(スリランカ)から東は、イギリスの蒸気郵船P&O社のデポで石炭、食料、水等の必需品を入手、江戸湾に姿を見せるまで7カ月半を要している。左の「ペリー来航時の江戸湾防備」は拙著『黒船異変―ペリーの挑戦』(1988年 岩波新書)から取るなど、ミシシッピー号の図像を含めた合冊版である。

 講演で使った本稿(中)にかかわるパワーポイントの資料は、以下の14点のスライドである。
9 ペリー来航と日米和親条約の概略
10【図像】「ペリー艦隊の軍楽隊の久里浜上陸」
11【図像】「日米トップの似顔絵 林大学頭とペリー」
12【図像】「ペリー艦隊2度目の来航」
13【図像】「ハイネのペリー横浜上陸の図」
14【図像】「香山栄左衛門がペリーを案内する」
15 論点整理 ペリー来航から日米和親条約締結(1854年)まで
16 2つの史料 ①ペリーへの発砲厳禁命令(アメリカ上院史料)
 ②最初の日米会談でのペリー発言と林大学頭の応答
17【図像】「4カ国語からなる日米和親条約(末尾の署名欄)」

これ以降の史料は、アヘン戦争と日本の開国(下)で使う。
18【図像】「ハリス登城の図」
19 論点整理 日米修好通商条約(1858年)から横浜開港(横浜居留地の設定)1859年7月1日まで」
20【図像】「条約一覧 とくにアヘン条項をめぐって」
21【図像】絵図「横浜居留地」
22【図像】「敗戦条約と交渉条約の比較一覧」

 うち【図像】とあるものは該当箇所にそのまま挿入する。それ以外について順次、解説を加えつつ、記載していきたい。

9 ペリー来航と日米和親条約の締結(1854年)
黒船来航まで
 幕府の対外情報の収集・分析法=命題論理学
 (1)命題論理学(propositional logic)とは命題の真偽性や推論形式を、命題の内部構造に立ち入らず、形式結合のみに即して論じる記号論理学の一分野(広辞苑)であり、加藤周一はこの論理を用いて、ある命題(例えば戦争の勝敗に関する1つの情報)と他の命題(例えば反対側の見た情報)との違いが小さいものを正しとする。鎖国の最中、外国を戦場とする情報の真偽を見極めるために残された唯一の方法であった。
 アヘン戦争の交戦国のうちイギリス側資料をオランダ特別風説書が代表し、清朝中国側を代表するのが唐風説書である。両者の情報を、命題論理学を駆使して分析し、政策判断を下すことができた。これが天保薪水令である。
(2)4つの対外令。改めて年表により、1791年の寛政令(薪水供与)、1806年の文化令、1825年の文政令(無二念打払令)とその撤回による天保薪水令への復旧を再確認した。
(3)アヘン戦争情報⇒2つのルートから交戦国の情報⇒漢文とオランダ語(前述のとおり)。
(4)ペリー来航の予告情報については、本シンポジウムにおける岩下哲典報告「別段風説書の中のペリー来航」を参照されたい。
(5)シーボルト『日本』の英訳本から得たペリーの日本像⇒世界最古の国

2 ペリーの抱えた問題
 本稿「アヘン戦争と日本の開国(中)」に関する記述は、主として加藤祐三『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2014年)から抄録した。原本は同名の著書として2004年に筑摩書房の新書として刊行したもので、次の7章からなる。
第1章 1853年 浦賀沖
第2章 アメリカ東インド艦隊
第3章 議論百出
第4章 ペリー艦隊の7ヵ月
第5章 1854年 ペリー再来
第6章 日米交渉
第7章 日本開国
詳しくは本書にゆずるが、要点を幾つか抜粋することを通じて、日米和親条約(1854年)の成
立過程とその主な内容、及び残された課題について述べることとしたい。 

要点1 冒頭の記述
 ここに全体を通じる伏線が描かれている。1853年7月のペリー艦隊第1回訪日における浦賀奉行所の対応、ペリー艦隊の構成、アメリカ大統領国書の受理、そして「来春また来る」と言い残して去るペリー艦隊……。
【浦賀沖の出会い】
 1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、浦賀沖に巨大な船団が現れた。暑い真夏の昼下がり、黒煙をあげて進む蒸気船2隻に帆船2隻。ペリー(M. C. Perry)司令長官が率いるアメリカ東インド艦隊である〔加藤注 以下すべて陽暦を使う〕。
 少ない石炭を節約するため、外洋では帆走につとめたペリー艦隊は、2日前に蒸気走に切り換え、伊豆沖で全艦に臨戦態勢を敷いた。大砲、小銃、ピストル、短剣など、あらゆる武器を動員した。艦隊の大砲は、10インチ砲が2門、8インチ砲が19門、32ポンド砲が42門。巨大な破壊力の合計は63門である。
 幕府側の砲台は、いずれも沈黙していた。穏健策の天保薪水令(1842年公布)を敷いていたからである。江戸湾沿いに備えた大砲のうち、ペリー艦隊規模のものはわずかに20門ほどである。命中率や破壊力、移動可能性などを総合すれば、日本側の軍備はペリー艦隊の10分の1にも満たなかったと推定される。
 アメリカ側の記録(帰国後に刊行されたF.L.ホークス編纂、宮崎寿子監訳『ペリー提督 日本遠征記』 角川ソフィア文庫 上下)には、遠くに富士山を望み、陸へ2マイルまで接近したとき、「その数10隻もの大きな舟が艦隊めがけて漕ぎ寄せてきた」とある。
 艦隊を取り巻く船をかきわけて、浦賀奉行所の役人2人が小さな番船で近づいた。巨大な4隻の艦隊の、どの船に呼びかけるべきか。幕府は「ウィンブルという旗を掲げた船が旗艦(司令長官が乗船している船)であることはよく知っていた」と記録している。
 アメリカ側の記録によれば(『ペリー提督 日本遠征記』)、旗艦サスケハナ号に近寄ってきた二人の役人が、「“I can speak Dutch !”(自分はオランダ語が話せる)」と英語で叫んだとある。
第一声の主はオランダ通詞(通訳)の堀達之助、もう一人は与力の中島三郎助であった。甲板に立つ水兵には英語しか通じないだろうと、敢えて英語を使った。あらぬ誤解や小競り合いを避けるためである。
 ペリー艦隊は、たった一人のオランダ語通訳ポートマンを応対に出した。ポートマンが「提督は高官だけの乗船を希望している」と伝えると、堀は中島を指して「この方が浦賀の副総督である」と答えた。
 こうして二人は旗艦サスケハナ号(蒸気軍艦 2450トン)の艦長室に招かれ、ペリーの副官コンティと話し合いに入った。
 ペリーは、この初めての接触で、高い地位の役人を引き出せたことに期待を膨らませた。当時の欧米諸国は、清朝中国から「対等な地位の役人」を引き出すことができず、その打破が最大の外交課題であった。したがって、最初の出会いで「副総督」という大物が出てきたことは、ペリーの予想をはるかに超える大成功であった。
 アメリカ側の記録はつづける。「提督は長官室にとじこもり、副官が応対するという形式を取った」が、これは「実際には提督との会談であった」。

【幕府の<避戦論>とペリーの思惑が一致】
 この出会いは、きわめて象徴的である。最初の対話で発砲交戦を避けることができた。それには日米双方の事情があった。見えざる糸が「戦争」を回避させ、「交渉」へと導いた。やがて接触を重ねるうちに、双方ともに「交渉」の重要性を認識し、それに伴う行動を優先させていく。
海軍を持たない幕府は、彼我の戦力を冷静に分析し、戦争を回避する大方針、すなわち「避戦論」を基軸にすえた。そのうえで外交に最大の力点を置き、情報を収集し、分析し、それを政策に
活かしてきた。例を3つ挙げておこう。
 第1、アヘン戦争(1839〜42年)での中国敗戦の情報を「自国の戒」ととらえ、強硬策の文政令を撤回して穏健な天保薪水令(1842年)に切り替えていた。
 第2、ペリー艦隊来航の予告情報を前年のうちに長崎出島のオランダ商館長から入手し、対応を準備してきた。
 第3、ペリー来航の地を長崎か浦賀のいずれかと想定して、長崎を中心としていたオランダ通詞の配置を変え、浦賀奉行所の態勢を強化した。
 一方、ペリー艦隊はどうか。
 第1に、巨大な蒸気軍艦の石炭や1000人近い乗組員の食料などに必要な、独自の補給線を持っておらず、アジアに強力な補給線を持つ「超大国」イギリスに頼らざるをえなかった。建国から77年目の「新興国」アメリカは、旧宗主国イギリスとの関係を強く意識していた。
日本と交戦状態になれば、イギリスの「中立宣言」は必至である。その結果、国際法の規定により、イギリス支配下のアジア諸港に寄港できなくなり、物資補給が断たれる。
 第2に、ペリーは「発砲厳禁」の大統領命令を背負っていた。アメリカ憲法では宣戦布告権を持つのは大統領ではなく、議会である。議会の多数派は民主党であった。副大統領から選挙を経ずに昇任したホイッグ党(共和党の前身)のフィルモア大統領が、ペリーに与えた「発砲厳禁」命令は、したがって重大な政治的意味を含んでいた。
• フィルモア大統領の「発砲厳禁命令」(国務長官より海軍長官あて)
• Mr.Conrad to Mr.Kennedy(Nov.5,1852) “He will bear in mind that, as the President has no power to declare war, his mission is necessarily of a pacific character, and will not resort to force unless in self defense in the protection of the vessels and crews under his command, or to resent an act of personal violence offered to himself, or to one of his officers.”   US Congress(S)751-No.34
「大統領は宣戦布告の権限を有さない。使節は必然的に平和的な性格のものであることをペリー提督は留意し、貴下指揮下の艦船及び乗員を保護するための自衛及び提督自身もしくは乗員に加えられる暴力への報復以外は、軍事力に訴えてはならない」
 
 こうした政治的・軍事的な状況下では、ペリーにとっても交戦は何としても避けるべき大前提であった。軍事発動禁止の厳命を背負ったペリーは、「恫喝」を含めて、どのような外交手段を駆使したのか。独自の補給線を持たず、地球の4分の3を回る「最遠の国」からの黒船艦隊が、日本に加えた「軍事的圧力」、「砲艦外交」の実際はどのようなものであったのか。
 そもそもアメリカのペリー派遣の目的とは何であり、なぜ、この時期なのか。ペリーはどのような日本像を抱いており、その情報源は何であったか。

【物資補給の難しさ】
 巨大な蒸気軍艦は巨大であるだけに、燃料の石炭を大量に消費する。それがアキレス腱でもあった。地球の4分の3を回るには、燃料確保が不可欠の前提となる。外洋では石炭を節約して帆走することが多いが、定時に火を入れないと釜がさび付く。燃料を失った蒸気軍艦は「超粗大ゴミ」と化す。
 この航海は初めての試みで、まだ独自の補給線(シーレーン)を持っていなかった。先行させた石炭輸送船からモーリシャスで500トンを補給したのが独自補給の最後であった。それではとても足りない。その後の石炭補給を、ペリーはイギリスの蒸気郵船会社P&O社(The Peninsular and Oriental Steam Navigation Co.)から買い入れることにしていた。
 P&O社とは、イギリスが国家・外交機密情報(書簡)を運ぶため創設した、蒸気船による国策の郵船会社である。創業は1837年。イギリス本国から大西洋を渡り、ジブラルタル(イベリア半島の南端、これが社名の前段にあるPeninsularの由来)までの航路、さらにまだ運河のなかったスエズを陸路でつなぎ、紅海へ出て、カルカッタ(現コルカタ)、シンガポール(ここから南下してオーストラリアへ)、香港を結んだ(これが社名の後段のOrientalの由来)。香港へは1845年、さらに1849年には上海への支線も開通した。その蒸気郵船用の貯炭所では、月に平均10隻の蒸気船が補給を受けていた。
 ペリー艦隊は、この会社から石炭と食料を購入する以外に方法がなかった。しかしセイロン(現スリランカ)のポアン・ド・ゴール港で厳しい状況を知らされる。外国の軍艦には1トンたりとも供給してはならないとの厳命が出ていた。シンガポールでも状況は同じだったが、幸いにも香港の石炭が不足しており、香港での返却を条件に、石炭230トンをやっと入手した。
 そればかりではない。4隻の乗組員数は約1000人である。第2回の来日には9隻、乗組員は約2000人の規模となった。乗組員の食料を確保しなければならない。冷蔵庫のない時代で、保存のきく食料だけでは足りないため、艦上で牛・羊・鶏を飼育した。
飼料の穀物や干草が必要となる。喜望峰から北上して香港着までの寄港先は、モーリシャス、セイロン、シンガポールの3港にすぎず、滞在日数はあわせて20日である。補給後の一航海も平均して20日間である。補給は最重要課題の一つであった。
「日本遠征」と呼んだペリー艦隊の行動は、補給面では無謀ともいえる大航海であった。地球の4分の3を回る長旅と数々の苦難について、ペリー側は日本に意図的に隠した。隠したばかりか、「アメリカから20日で来られる」と、まだ開かれていない太平洋航路の机上計算を根拠に、日米間がいかに近いかを強調し、援軍はすぐに来ると、日本側に強く印象づけようとした。

【幕末という時代の背景】
 黒船4隻が姿を見せるや、陸路からも海路からも、いっせいに見物人が押し寄せた。威容を誇るアメリカ側の意図を知ってか知らずか、物見高く、かしましい集団である。
 松代藩の佐久間象山は、黒船来航のニュースを7月9日に入手するや、江戸藩邸を出発、大森から小舟を雇って金沢沖をめざしたが、強風で舟が出ない。やむなく金川(神奈川)まで歩き、そこで舟を雇い、「帆掛け舟は順風に乗り、すべるように走った」と手紙に記している。
 象山には政治的・技術的な強い関心があったが、ほとんどは芝居見物の気分の庶民である。「大島がやってきた」といわれ、飛ぶ鳥の如く疾走する黒船が、いつまでいるか保証はない。恐いもの見たさと新し物好き、今を逃がさじ、と繰り出した。幕府は再三、異国船見物禁止令を出すが、これに従わせることはできなかった。
 ペリー艦隊は、それまで来航した帆船艦隊に比べて規模も大きく、測量などのため行動半径もはるかに広かったため、接触の機会はいっそう増えた。アメリカ側の記録は言う。
「投錨に先だって、数多の防備船が続々と海岸を離れ、寄って来るのを認めた。提督は言葉と信号で、旗艦以外には誰も乗せてはならないと命令した。さらに提督は、日本人の乗船は同時に3人まで、それも用件がある者のみとした。従来は、このような人々の乗船をすべて認めるのが海軍の習慣であったが……」
 乗船を制限した理由として、1846年のアメリカ東インド艦隊司令長官ビッドル(コロンブス号)の経験を挙げる。到着するやたちまち400隻もの小舟が押し寄せて、異国船を取り囲んだ。日本側の記録には、その数600隻とある。相当の数であり、すべてが警備の舟とは考えられない。多くは近辺の漁船や運搬船であろう。
「1846年、コロンブス号が江戸湾に入港した時には、同時に100名にのぼる多数の日本人を乗船させた。彼らは何の遠慮もなく士官達から歓待をうけて充分に寛いだが、我が方の上陸という話になると、それは不可能だと手真似で答えた」

【彼らと同じ程度の排他主義を】
 その経験にもとづき、「ペリー提督は彼らと同じ程度の排他主義を実行し、日本の役人には旗艦サスケハナ号への接触だけを許可すると、あらかじめ決めていた」。
 黒船を取り囲む多数の船に対して、ペリー側は「断固たる態度」をとり、奉行所の役人に、即刻、退去させるよう要求した。奉行所の退去命令を受けて、「これらの小船は一斉に散り、艦隊の周辺からは退去したものの、相当数の船が絶えず遠巻きにしていた」とアメリカ側の記録にある。
 こうした庶民の行動背景には、物見遊山がきわめて盛んだった当時の風潮がある。江戸の人口は当時、世界最大規模の約130万人であった。江戸からは東海道を徒歩で下るか、海路を小舟で南下し、金沢八景(現在の横浜市金沢区)あたりで下船、大山に参詣、下って江ノ島に参るコースが人気を集めた。大山が男性の神、江ノ島の弁天様が女性の神で、両方に参詣すればご利益が倍増する。
 これは旅に出る口実で、実際には道中の飲食と、豊かな自然に囲まれた2泊3日のストレス解消、そして広く世間を知りたいという好奇心である。その延長上に黒船見物があった。度胆を抜く巨大な黒船、何が起きるか。膨らむ期待といささかの不安。「宵越しの金は持たない」江戸っ子気質にぴったりはまった。

【江戸湾防備】
 江戸湾岸の人々がこぞって黒船見物に出た。支配層にとっては苦々しい風潮である。あらぬ騒動が起きても困る。幕府は、二方面に気を配る必要があった。一方でペリー艦隊、もう一方で庶民や不穏な動きをしかねない連中である。両者に睨みをきかせる。
 少数の旗本だけでは警備が間に合わない。すでに江戸湾の固め(警備)には、譜代大名の四藩、すなわち川越(埼玉県)、彦根(滋賀県)、忍(埼玉県)、会津(福島県)が動員されていた。四藩とも海のない内陸の藩である。
 老中と譜代大名は、いわばヨコの関係にあり、直接的なタテの指令系統にはない。タテの命令系統は老中から奉行所である。したがって、老中から浦賀奉行所へは命令が届いても、浦賀奉行所から直接に四藩に命令を出すことはできない。これが「幕藩体制」と呼ばれる政治形態である。指揮系統は複雑であった。非常時の確かな動員・命令関係が、まだできていなかった。

【噂の流布】
 黒船来航、このニュースはまたたく間に国内を駆け巡った。公文書、浮世絵、狂歌・狂句、瓦版(ミニ新聞)、手紙、日記、そして口コミ。
◎泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠れず
 煎茶の銘柄に「上喜撰」があった。「蒸気船」と同音である。煎茶を四杯も飲めば目が冴えて眠れない。四隻(四杯)の蒸気船では「夜も眠れず」。似た歌に「アメリカを茶菓子に吞んだ蒸気船 たった四杯で夜もねられず」があり、アメリカに飴をかけている。
◎井戸の水あってよく出る蒸気船 茶の挨拶で帰るアメリカ
 井戸とは、二名置かれた浦賀奉行の一人(江戸城詰め)の井戸石見守との語呂合わせである。水質が合って程よく出た上喜撰を飲んで、茶飲み程度の軽い挨拶で帰帆した。確かに、ペリーの第1回滞在は、わずか10日間である。
◎アメリカが来ても 日本はつつがなし
 筒(大砲)がないことと、恙無い(無事)を掛けている。
◎日本へ向ひてペロリと舌をだし
 ペリーの名はオランダ語風にペルリ、ヘロリなどとも書かれている。ペロリ、あかんべ〜か。
◎馬具武具屋 渡人さまとそっといひ
 泰平の時代がつづき、馬具や武具を扱う商売はさびれていたが、黒船来航でいよいよ天下大乱か。商売繁盛、だが大声では言えない。
◎兵糧の手当に米の値があがり 武家のひそかに黒船さま
 武士の俸給は米である。まずは食用にしたが、残りは売って現金に換えた。兵糧手当に米の値上り。ありがたや。
◎永き御世なまくら武士の今めざめ アメリカ船の水戸のよきかな
 水戸とは警世家で対外強硬派ともいわれた御三家の水戸(茨城県)の徳川斉昭をさす。目の前の黒船が、長い平和ですっかりなまくらになった武士の覚醒剤となり、水戸殿は溜飲を下げる。
 内容からみて、これらの歌は、10日間で終った第1回ペリー来航の時に詠まれたものであろう。安堵した気配や、揶揄や好奇心が強く出ている。艦砲射撃で街が焼かれた、武士達が艦隊に切り込んだなど、緊迫した様子のものは一つもない。これがほかならぬ現実であった。

【幕府の対外政策】
 ペリー来航時の幕府の対外政策は、1842年に公布された穏健策の天保薪水令であった。1825年公布の強硬な「異国船無二念打払令」(年号をとって文政令と略称)を撤回し、1806年の文化令に復す形式で採用した穏健策である。
アヘン戦争(1839〜42年)の軍事衝突に幕府は強い衝撃を受けた。幕府の対外政策を簡単に概観すると、キリシタン禁制を内容とする「鎖国」が完成した1641年から、およそ150年を経た18世紀末以降、鎖国政策の持つ役割は大きく変わり、主に次の3点となっていた。
①キリシタン国以外の外国船(異国船)への対処
 ②日本人の海外渡航禁止
 ③大型外洋船の所有・建造の禁止
 18世紀末になると、異国船が日本近海に出没する事件が多発、旧来のままの鎖国政策維持は次第に困難になった。政策変更にはヒト・カネ・モノを包含する対外情報を把握しなければならない。鎖国の最中、幕府はどのように情報を入手し、それをいかなる論理で分析し、政策に生かしたのか。
 幕府は4回にわたり異国船対処の方針を打ち出し、沿岸部に領地を持つ諸大名に周知させた。これらの対外政策は、長崎在住のオランダ商館長から外国にも伝えられた。
①1791年の寛政令
 ②1806年の文化令
 ③1825年の文政令
 ④1842年の天保薪水令
 寛政令と文化令は、北方からのロシア船にたいするもので、食料と水・薪など必要な物資を与えて帰帆させる穏健策である。
 これにたいして第③の文政令は、外国船が沿岸に姿を現せば、ためらうことなく大砲を打てとする強硬策であり、「無二念打払令」といわれた。「なにがなんでも打ち払え」である。強行策を採用した遠因をたどると、1808年、イギリス軍艦船フェートン号が長崎に来航し、奉行の制止を聞かずに上陸、牛などを食用に奪った事件に行き着く。
 フェートン号の来航はナポレオン戦争の余波であり、長崎のオランダ商館のオランダ国旗をひき下ろすのが目的で、日本攻撃のためではなかった。しかし、奉行の制止を聞かない行動は「国権侵害」ととらえられ、長崎奉行は責任をとって自害。この事件以降、官民を問わず反英論が根強くなる。

【モリソン号事件】
 ついで1837年、強硬策の文政令下にモリソン号事件が起きた。浦賀沖に来航した一隻の異国船に向け、浦賀砲台から大砲を打った。甲板に命中はしたが、破壊力は弱く、船はそのまま帰帆。鹿児島沖でもふたたび打ち払いに遭う。船籍は不明であった。
 翌年、長崎にオランダ風説書が入る。そこには「日本人漂流民の送還を目的に、マカオ出航時に意図して大砲をはずした非武装船にたいし、有無を言わさぬ発砲は、きわめて遺憾である」とあった。この風説書には幾つかの誤報も含まれており、最大の誤報はモリソン号をイギリスの軍艦としている点である。モリソン号はイギリス軍艦ではなくアメリカ商船であったが、このオランダ風説書を修正する情報が後にも入らず、そのまま信じられた。
 日本国内では早くも1838年9月付けで、次のような上申書を出した人物がいた。「清国はなんと言っても大国であり、夷狄も容易に手を出さないでありましょう。朝鮮琉球等は貧弱の小国であるため目にかけず、したがってイギリスは第一に日本をねらい、次に清国を切り従える手順となりましょうから、実に憂うべく憎むべき事でございます」。
 イギリス側にこの意図はなかったが、日本国内に強い反英・脅威論が浸透した。これを追うように翌1839年、オランダ風説書と唐風説書が新しいニュースを伝えた。清朝とイギリスのアヘン密輸をめぐる対立、林則徐による外国人貿易商の手持ちアヘン没収、清英間の軍事衝突、交戦、イギリスの大勝という内容である。

【アヘン戦争情報の舶来】
 長崎に来る中国船は、アヘン戦争の主戦場である江南の寧波、南京、乍浦などを出航するため、伝えられる戦況情報には臨場感があった。江南地方は古代の遣唐使いらい、日本との関係が深い地域である。イギリス海軍の破壊力と圧倒的な優位に、幕府は震撼した。
 このイギリス海軍がモリソン号の報復にやって来るにちがいない。日本側のイギリス脅威論が増幅された。武家政権の幕府は、戦国時代の経験をふまえ、戦争の持つ意味、兵力の強弱、城下の誓い(敗戦条約)の意味などを十分に理解していた。幕府は海軍を持たず、武力では明らかに列強に劣る。こうして「避戦論」が徐々に形成されていく。
 唐風説書は、清朝の官報などの引用もあるが、多くが戦場で目撃した情報や各地の噂の類である。これは中国側の見解を示すものが多い。り百年も前から使われていた。
 その後のアヘン戦争に関するニュースは、オランダ船が戦場海域を避け欠航したため、中国商船だけが伝えた。現存する唐風説書と唐別段風説書は、1840年8月から1842年2月までの約1年半の間に計7通ある。

【唐風説書から判断したこと】
 唐風説書から幕閣が読み取ったのは、個々の陸戦では中国側の民兵が勝つケースが多いものの、海軍を持たない清朝軍に対して、イギリス海軍の圧倒的優位という事実である。幕閣はまた、イギリス海軍が清朝中国の食料など物資運搬ルートを封鎖するのではないかと読んだ。
 中国の物資運搬ルートは長江、大運河、海路の3つである。1841年4月の唐風説書は、長江の河口に位置する定海県がイギリス軍に占領された伝えた。翌年2月の唐風説書は、イギリス海軍が香港から長江河口一帯の制海権を掌握したことを知らせた。
 長江と大運河の交差する鎮江が封鎖されれば、3本のルート全部が機能不全に陥る。長江を遡り鎮江を越えた奥に旧都の南京がある。南京は明代前半の帝都で、清代には帝都北京につぐ第2の重要都市であった。幕閣は中国の地政学に詳しい。
 老中(水野忠邦)は、イギリス軍の行動を物資運搬ルートの封鎖と読み、日本に置き換えた。江戸は廻船による大量の物資搬入で維持されている一大消費都市である。人口は百万を超え、廻船による物資は全消費量の6割以上と推計される。江戸湾がもっとも狭くなる観音崎=富津間で、敵艦が一隻でも封鎖行動に出れば、廻船は江戸に入ることができなくなる。
 このまま文政令(強硬な打払令)を堅持すれば、中国と同じ目に遭いかねない。鎖国政策が外洋船の建造・所有を禁じていて、幕府には軍艦がない。中国での水運ルート封鎖を「他山の石」とし、「自国之戒」と読み換えた。
 幕府は天保薪水令に転換した。発砲せず、必要な物資を与えて帰帆させる穏健策である。公布は1842年8月28日、アヘン戦争に清朝が敗北し、南京条約が結ばれる一日前であった。

要点2 ペリー来航の予告情報
【アメリカ船が来て 親米論が支配的に】
 ついで1844年、オランダ国王から書簡が来た。天保薪水令への切り換えだけでは不十分で、いずれは開国・開港を求めて外国船が来る、対外政策を変更すべきという趣旨である。
 この頃からアメリカ船の来航が急増する。1845年、漂流日本人を救出・送還するために、浦賀にアメリカ捕鯨船マンハッタン号が来た。ついで1846年、浦賀沖に米国東インド艦隊(帆船2隻)のビッドル提督が来航、これがアメリカ最初の公的使節である。
 ついで1849年、アメリカ漂流民救出を目的としてグリン艦長(帆船プレブル号)が長崎に来航した。これらの問題はいずれも円満に解決し、親米論が支配的になった。
 幕府の対外観は、上記のような経験から導き出したものであり、また当時の国際政治をよく見すえた判断でもあった。超大国イギリスは世界の覇権を担い、戦争を仕かけ、各地に植民地を獲得、その一環として日本を視野に入れていた。
それにたいして、アメリカとロシアは「新興国」であり、まだ体系的な世界戦略を確立していなかった。幕府にとって組みしやすいのは、友好的な「新興国」である。さらに幕府は、国際法の論理を、ほぼ正確に理解していた。それは最初の条約が有利であれば後続条約にも有利性が継承され、不利であれば不利性が継承される、という「最恵国待遇」の論理である。
したがって、最初の条約国の選択は決定的に重要であった。

【予告情報を譜代大名に回覧】
 ペリー来航が予想もしない青天の霹靂であったなら、突然に姿を見せた黒船艦隊に、ただ慌てふためくばかりであったに違いない。しかし幕府は事前に情報を得ていた。
 アヘン戦争から10年後、オランダ商館長にクルチウスが着任し、1852年4月7日付けで別段風説書を長崎奉行に提出した。ペリー来航の1年以上も前である。すぐにオランダ通詞が翻訳にとりかかった。それが「当子年阿蘭陀別段風説書」である。
 1845年に老中首座(現在の総理大臣にあたる)となった阿部正弘は、この秘密文書を江戸城の溜間席の諸侯に回達した。1852年7月頃とされる。溜間とは、将軍の政務室にあたる中奥の黒書院にあり、主な譜代大名(常席は井伊家、高松と会津の松平家ほか)が詰める席である。

新画像1 老中・阿部正弘
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 この別段風説書には、「北アメリカ供和政治の政府が日本国へ使節を送り、日本国との通商を望んでいる」とあり、その目的として①日本人漂流民の送還、②交易のため日本の2、3の港の開港、③石炭貯蔵場の確保の3点を挙げている。
 そのうえで、「蒸気仕掛けの軍船シュスクガンナ号をはじめ、サラトガ号など帆船4隻が唐国に集結しており、さらにアメリカ海軍は数隻の蒸気船を増派する予定」で、「シスシスシッピー、この船に船将ペルレイまかりあり」(ミシシッピー号にペリー司令長官が乗っている)と述べている。「プリンセトウン」など存在しないの船名も混入しているが、多くは正確である。
 老中回達は、肝心な来航時期について、艦隊が4月下旬前に出帆するのは難しく、すこし延期となるようである、とある。最後の結びとして阿部は、「このことは秘密の心得として申し上げることであり……厚くお含みのうえ、警備を厳重にされたい」と付言している。
 このニュースは大きな衝撃を与えた。艦隊の規模、来航の目的、どれを取っても体制をゆるがしかねない。来航時期については明示されていないが、当時の常識から推測するかぎり、「来年の夏」の可能性が高い。オランダ船は季節風の関係から夏に入港、秋(旧暦九月二十日)までには出港と決められていた。この夏(1852年)にアメリカ艦隊の来航はなかったからである。

【薩摩藩主への老中書簡】
 半年ほど後の暮れ(1852年12月12日)、薩摩藩の島津斉彬が家老の久寶に出した手紙に、阿部老中から聞いた話として、「アメリカの事、22日(前月22日と思われる=1852年12月3日)、辰(阿部のこと)へ参ったとき、いろいろのことを聞いた。夕刻にまた詳しく話を聞く予定である。……アメリカの事は彼の方(オランダ商館長)より聞いており、(老中は)よほど心配のご様子で、いまだ評議定まらない模様、近々また聞くことになろう」とある。
 阿部から島津へは、この時点でペリー来航の予告情報が口頭で伝えられたと見られる。1853年1月7日付けの阿部の書面は、薩摩が琉球を支配しており外国情報も多く入手しているはずなので、琉球の動静を知りたいと述べ、「唐国之様子」(一般に唐国とは外国の意味)については同封(当子年阿蘭陀別段風説書)のとおりとある。これには嘉永三年(1850年)の「和蘭風説秘書」も同封されていた。
 島津はこの情報をもとに、家老への同じ書簡の添書きで次のように指示している。「万々一、来年にアメリカ船が渡来するとあれば品川沖に違いなく、高輪、田町、芝あたりは海浜のため大混乱であろう。女子のことが気がかりで、近くの山の手に良い屋敷があれば避難場としたい。ちょうど品川屋敷が類焼したので、その代わりに取得したい」。なかなか対応が早い。
 ペリー来航の予告情報は、オランダ商館長が内密にと釘をさしたとおりに、日本側ではトップだけの極秘扱いにされた。その情報の流れは、前述のとおり、まず1852年夏頃に、阿部が溜間の有力譜代大名に見せ、暮れには外様の雄藩である薩摩の島津にも文書を送り、さらに島津から御三家の徳川慶勝(尾張)や徳川斉昭(水戸)へと伝わったと思われる。
 幕府内部でも秘密主義がとられ、通知は奉行レベルに止めたようである。したがって浦賀奉行所の現場を担当する組頭や与力には知らされず、最初の対応に当たった与力の中島三郎助や香山栄左衛門らが「なぜお知らせくださらなかったか」と後に奉行に迫った経緯がある。
 このオランダ風説書の情報源は何か。アメリカ側資料と照合してみると、そこには増派予定はあったが実際には来ていないプリンセトウン(蒸気船プリンストン)などの船名が入っていること、また「船将アウリッキ、使節の任を船将ペルレイに譲り」などの記述があることから、アメリカの新聞報道であったことが分かる。

要点3 アメリカ東インド艦隊の初来日
【浦賀奉行の指示】
 浦賀奉行は2名おり、浦賀在勤の奉行が戸田伊豆守氏栄、江戸詰めが井戸石見守弘道である。戸田の指示をうけて、ペリー来航の知らせは3日後の11日に、井戸の小石川役宅に届けられた。届けたのは与力の香山である。香山はペリー艦隊に長崎へ行くよう自分が諭したこと、また戸田の「平穏のとりはからいをしたい」との趣旨を井戸に伝えた。
 ところが井戸は香山に「アメリカから使者が来ることは、以前にオランダを通して通達があり、承知している。長崎へ行けというのは、もってのほかである」と言う。来航の予告情報を知らされていなかった香山は「秘密にしておられたとは嘆息の限り」と記している。
 その日は対処方法が決まらず、香山は供の同心を残して浦賀へ戻った。その翌12日、井戸からの指示が届く。「明日13日に井戸自らが浦賀に赴く、14日にはアメリカ大統領国書を受理する」という内容である。

【アメリカ大統領国書の受理】
 来航からわずか6日目の7月14日、香山や中島らがペリー一行を艦隊まで迎えに行き、久里浜に上陸させた。総勢で300人ほどと記録にある。浦賀奉行の井戸と戸田はペリー一行を丁重に扱い、急ごしらえの18畳敷きの会見所において、アメリカ大統領フィルモア(M. Fillmore)の国書を受理した。双方の打ち合わせ通り、言葉は交わさなかった。
 国書は金の装飾をほどこした大きな箱に入っていた。長時間、外気に当てるのは良くないとして、開封すると直ぐに蓋を閉じた。控えの書簡は英文ではなく、漢文訳本とオランダ語訳本であった。漢文訳本ではアメリカ大統領フィルモアを「亜美理駕大合衆国大統領、姓は斐模、名は美刺達」としている。ペリーからの前日付けの書簡も漢文であった。この段階で、「アメリカは書簡で漢文を使うらしい」と幕府は判断した。
 受理が終わり、アメリカ側が祝砲を3発打った。
 国交のない国の大統領から国書を受けとること自体が、大きな政治的決断であった。これは老中首座の阿部正弘の決断である。
 戦力からみれば、海軍を持たない幕府が、この巨大艦隊に対抗する方法は皆無といえる。阿部はそう考え、軍事的対決を回避し、外交により対処する原則を立てていた。国書受理は熟慮を重ねた結果である。
 国書の受理で、賽は投げられた。受けとったからには返事が必要である。国内世論を考え、どのように返事をすべきか。そのための政治的手順をどうするか。国交を開くことは、鎖国政策の放棄を意味する。「徳川の祖法」(先祖代々の基本方針)に背く国政の大転換は、幕閣だけの密室の処理で済む問題ではない。

【次の一手】
 まだ次の具体策が決まらない。アメリカは「砲艦外交」を発動するのか。真意は何か、焦点をどこに置くべきか。応接を浦賀奉行所に任せるか、あるいは新たに交渉陣を立てるか、その人事はどうするか。すべてが、これからの課題であった。
 庶民の黒船見物は衰え知らずである。奉行所にも巨大艦隊の最先端技術に近づきたいと熱望する役人がいた。それは蒸気機関の構造から大砲の大きさなどの軍事技術、はたまた衣服や食べ物、ビールやワイン、日常の生活道具にいたるまで、あらゆる面に及んでいる。一つとして漏らすまいと競って記録し、流布させた。この日本人の関心の高さ、旺盛な好奇心に、ペリー一行は驚いた。
 それに比べて、世界政治を直接に我が物とするには何が必要かを考えた人は、まだ少ない。 対外関係はなによりも国家間の関係であり、国家を代表するもの同士の関係である。
 阿部正弘(伊勢守)は1843年、譜代の福山藩10万石の藩主から25歳で老中に抜擢された。2年後の1845年には老中首座となり、ペリー艦隊を迎えたこの時、34歳である。現代の感覚からすると、きわめて若い。彼の眼前に拡がる課題とは、大別すると次の3つであった。
 ①黒船という巨大技術の存在と、開国という新体制への政治的決断
 ②戦争を回避し、話し合いにより一定の合意を得る方法(外交に勝利する方法)
 ③外交と内政を連動させる展開
 風雲急を告げる激動期である。政治の仕組みは幕藩体制と呼ばれ、幕府だけで決定できず、幕府と諸藩の政治力学で決まる。それに広く世論がどう反応するか。

要点4 アメリカ東インド艦隊
 ペリー艦隊のミシシッピー号(1692トン)とサスケハナ号(2450トン)の2隻は、世界最大・最先端の蒸気軍艦である。翌年にはポーハタン号(2415トン)が合流し、合わせて蒸気軍艦は3隻になる。当時、アメリカ海軍が所有・就航していた超大型蒸気軍艦は、わずかに5隻であり、そのうちの3隻を日本に投入したことになる。
 なぜアメリカはこの時期に、世界最大の蒸気軍艦を建造したのか、それをなぜ日本へ投入したのか。アメリカによる「軍事圧力」説の正体を解明するには、これらの疑問に答える必要がある。

【明白な宿命】
 ここで大まかにアメリカ政治の大状況を見ておきたい。
 1840年代後半のアメリカ合衆国は、民主党のJ・K・ポーク大統領(1845〜49年)のもと拡張主義・膨張主義が旺盛な時代である。アメリカの国土拡大は神より与えられた「明白な宿命」であるとする主張が強く支持され、1845年にテキサス共和国を合衆国に併合し、また西北のオレゴンは1846年にイギリスと協定を結び、その南半分をアメリカ領とした。
 そして1846〜48年の米墨戦争である。このメキシコとの戦争は「アメリカ史上もっとも不正な戦争」との批判もあったが、1848年2月に大勝、太平洋に面する広大な西海岸カリフォルニア(日本の国土面積とほぼ同じ)をメキシコから割譲させ、その彼方にあるアジアを視野に入れた。のちに隣接するニューメキシコも1500万ドルで買収した。
 この米墨戦争勃発の前年の1845年から、ペリーはメキシコ湾艦隊司令長官コナーの下で副司令長官を務め、47年から司令長官となった。その副司令長官がオーリックである。1848年、ペリーは郵船長官に転任する。その主な職務は、蒸気船による郵船網をアメリカ沿岸に構築することであった。
 同じ年の1月には、サンフランシスコの東、サクラメント渓谷で金鉱が発見され、年末からゴールドラッシュが始まる。陸から海から人々が押しよせた。拡張主義の「明白な宿命」に好況の夢が加わり、奴隷制の存否をめぐる政治的対立は消え、人々は熱に浮かされ始めた。
 1849年、民主党のポーク大統領に代わり、ホイッグ党のZ・テイラー(Z. Taylor)が第12代大統領に就任した。ホイッグ党は共和党(1854年結成)の前身である。テイラーは生粋の軍人で、米墨戦争でもその戦端を開き、常勝将軍の名を高め、その人気をバックに大統領選に勝利した。テイラー大統領の副大統領がM・フィルモア(M. Fillmore)である。テイラーが翌1850年7月に病死すると、憲法の規定にもとづき、フィルモアが大統領(第13代)に昇任した。

【東インド艦隊とは】
 東インド艦隊は、1822年、太平洋艦隊を改称したものである。日本との条約交渉を指示したのは1851年5月、最初に任命された東インド艦隊司令長官はオーリックである。
 オーリックは、サスケハナ号に搭乗、赴任の途上でトラブルをおこし、51年11月に更迭、中国まで来たところで引き返し(帰国)、日本までは来ていない。代わって任命されたのがペリーである。メキシコ湾艦隊ではペリーの部下であったオーリックが先に任命された人事のねじれが、二人の間に複雑な葛藤を生みだした。
 内示を受けたペリーは、しばらく回答を留保、任命は翌1852年3月である。そしてペリーがミシシッピー号に搭乗して軍港ノーフォークを出港したのが、1852年11月であった。1851年5月のオーリック派遣決定から、後任者ペリーの出発まで、約1年半の歳月が流れていた。

【蒸気軍艦の建造年】
 ミシシッピー号は1839年の建造である。サスケハナ号は1850年に就航した最新鋭であり、翌年に合流したポーハタン号の建造年はさらに新しく、1852年に完成したばかりである。
 サスケハナ号、ポーハタン号、これら最新鋭艦は、日本派遣を決めた1851年5月の後に建造に着手したとは考えられない。海軍予算で新造艦を発注して、この規模の最新鋭艦の完成まで、少なくとも3年間は必要である。では新造艦の建設に着手した要因は何か。
 両艦ともに、建造を決定したのは1846年であった。その目的は、米墨戦争における戦力増強にあった。当時のアメリカ海軍は世界に6艦隊を有していたが、メキシコ湾艦隊が米墨戦争の主役となる。蒸気軍艦を投入しなければ、この戦争に勝利できない、そう海軍は主張して戦時体制下の予算を獲得、すぐに発注した。
 新造艦が完成する前の1848年に米墨戦争が終わった。だが、発注を取り消すわけにはいかない。建造は着々と進み、完成を見たのが1850年と1852年である。そのときメキシコ湾は、アメリカにとってすでに「平和の海」となっていた。戦時体制を維持する必要が薄れ、最新鋭の艦隊を擁する必要も失われた。過剰装備は不要との声に、海軍省として、どう対処するか。

【太平洋横断の郵船航路構想】
 完成したばかりの巨大な蒸気軍艦の配備先と、その理由が必要となった。ひとつが郵船航路である。アメリカ東海岸からメキシコ湾、そしてメキシコ半島を陸路つなぎ、西海岸の諸港を結ぶ郵便と人を運ぶ計画である。商品も運ぶことができる。大陸横断鉄道の整備と並行して、郵船網は緊急に樹立すべき通信・交通網であった。
 この国内用の郵船網の延長上に、太平洋横断の郵船航路構想が持ち上がっていた。すでにイギリスがP&O社を開設し、母国からスエズを陸路通過してインド、シンガポール、香港、上海、そしてシンガポールから南下するオーストラリア航路を持っていた。香港までの航路開通が1845年、上海支線の開設は1849年である。その延長上にイギリスは太平洋横断断航路を構想していた。
 太平洋横断航路をイギリスに先取りされてはならない。この判断がアメリカ側にあった。そこで新しい蒸気軍艦の配備先として浮上したのが東インド艦隊である。「東インド」(East India)という呼び方は、イギリス海軍のそれを踏襲したものである。イギリスにとって東インドは「インド以東(East of India)」ともいわれ、地理的な意味を持つ伝統的な用語だが、アメリカにとっての東インドは、西部の先の、太平洋のさらに西の彼方である。東インドではいかにも分かりにくいが、アメリカ海軍でもこの名称が長く使われてきた。
 では、東インド艦隊に巨大艦隊を配備する理由はなにか。アメリカにとって「最遠の海域」に配備するには、まだ十分な補給線もなく、戦争目的を掲げるわけにはいかない。戦争を必要とする事態もなかった。そこでアメリカ人漂流民を保護するという「人道目的」が浮上した。

【捕鯨業の黄金時代】
 当時のアメリカ政府と議会の資料には、難破したアメリカ捕鯨船員の漂流とその救出問題が頻繁に出てくる。アメリカ捕鯨船がケープホーンを回って太平洋へ出漁したのは1791年、その後、1814~15年のウィーン会議から1860年頃までが太平洋におけるアメリカ捕鯨業の黄金時代で、1840年代後半が最盛期にあたる。
 1846年の統計によれば、アメリカの出漁捕鯨船数は延べで736隻、総トン数は23万トン、投下資本は7000万ドル、従業員数は7万人である。年間にマッコウクジラとセミクジラをあわせて1万4000頭を捕獲する乱獲時代を迎えた。日本近海で操業するアメリカ捕鯨船は約300隻にのぼり、難破する捕鯨船も増えた。
 捕鯨の主目的は、照明用のランプ油として使う鯨油の確保であった。欧米諸国で工場がフル操業するようになると需要が伸び、アメリカ国内はもとよりヨーロッパにも輸出された。鯨のヒゲや骨も装飾品などに加工された。ちなみにカリフォルニアで最初に油田が見つかったのが1847年、しばらくは灯油として鯨油と石油の併用時代がつづく。石油に取って代わられ、捕鯨業が衰退する直前、鯨油需要のピークがこの時期にあたる。

【漂流民の保護】
 アメリカ捕鯨船の難破・漂流ルートは、主漁場であった北太平洋に始まる。暴風に遭い、マストが折れると、海流に流されてしまう。日本側から東へと流れる北太平洋海流はアメリカ大陸近くで北転し、さらに西へ方向を変え、千島海流と合流する。その後は南下して北海道(蝦夷地と呼ばれた)に至る。
 アメリカ捕鯨船が北海道に漂着した主な事件は、1846年のローレンス号、1848年のラゴダ号とプリマス号などである。ちょうど米墨戦争の開戦と終戦の年にあたる。1848年6月、ラゴダ号には捕鯨船員15名が、プリマス号にはマクドナルドという青年が乗っていた。マクドナルドは日本人に初めて英語を教えた人物。彼はイギリス人を父にアメリカ先住民を母にもつハーフで、先住民と日本人が共通の祖先を持つと考え、母の故国を見たいと日本潜入を試みた。
 アメリカ人漂着民は、救出されると松前藩に移送され、その後、取調べのために長崎に移される。彼らは少年の頃に捕鯨船員となり、英語しか分からない。一方、北海道にも長崎にも英語が分かる日本人がいない。長崎奉行は、出島在住のオランダ商館長レフィソーンに立会い兼通訳を依頼した。「日本語⇄オランダ語⇄英語」の二重通訳である。オランダ商館員もさほど英語が堪能ではなかったようだが、簡単な意思疎通はできた。
 長崎奉行は一定の取調べの後に、帰帆するオランダ船で彼らを母国へ送還する方針である。鎖国政策下の日本には外洋船がなく、送還方法は他に考えられなかった。だが、取調べ終了前にオランダ船の帰帆時期が来た。季節風を利用しての航海であるため、オランダ船は急ぎ帰途についた。
 オランダ商館長は帰帆する船にいつも書簡を託す。ある種の業務報告である。アメリカ人漂流民についても言及した。このニュースはバタビア(現在のインドネシアのジャカルタ、オランダ植民地政庁の総督が駐在)のオランダ総督から香港駐在のオランダ領事へ、そして香港駐在のアメリカ弁務官へ、最後にアメリカ東インド艦隊へと次々に転送された。

【グリンが救出目的で長崎へ】
 知らせを受けたアメリカ東インド艦隊は、直ちに軍艦プレブル号の艦長グリンを日本に派遣した。ゲイジンガー司令長官がグリンに与えた指示は、「協調的かつ断固とした態度を取り、長崎で解決しなければ江戸に行って直接に交渉すること、わが国の利益と名誉を守ること、琉球・上海に寄る時間をふくめ、約3ヵ月で任務を完了すること」などである。
 さらに派遣の背景には国益がかかっているとして、ゲイジンガーは次のように言う。「われわれの価値ある捕鯨船団の保護、捕鯨業の奨励に、わが政府は深い関心を持っている。捕鯨業を助長・促進し、わが国の通商および利益にたいして、万全の保護を与えるよう努めること」。
 ここでも捕鯨業と捕鯨船団の保護を強調し、通商保護を海軍の使命として掲げている。照明用の鯨油は、勃興しつつあったアメリカ産業革命と米欧貿易の生命線でもあった。捕鯨船員の生命と捕鯨業の財産とはアメリカ国民の生命と財産であり、これが国外で危機に直面した場合、保護する任務が海軍に与えられていた。それを外交法権ないし外交的保護(diplomatic protection)と呼び、有事における海戦と並び、平時における海軍の最大任務にほかならなかった。
 これには財政的な裏づけもあった。アメリカ連邦政府の歳入のうち、平均して約8割が関税収入である。貿易の重要性が高く、それだけ貿易活動や貿易資源の創出業務には手厚い保護が必要であった。海外でのアメリカ人の活動を妨げる行為にたいしては、海軍が外交法権を発動する。その海軍には、それ相応の財政支出があるという仕組みである。
 北海道に漂着したアメリカ人捕鯨船員は、約1年間に1名が病死したが、他の15名は松前から長崎に移送され、屋敷牢でかなり自由な生活を送っていた。
 プレブル号の入港にたいして、長崎奉行は丁重に応対した。すでに天保薪水令の下にあり、1845年の捕鯨船マンハッタン号(日本人漂流民の送還)の浦賀来航、1846年のビッドルの浦賀来航の経験を持っていた。
アメリカ人漂流民を送還したいと長崎奉行がグリンに伝えたが、グリンは信用せず、「私自身が直接に調書を取る」と主張した。
 アメリカ海軍省が議会に提出した記録(尋問調書)には、漂流民の語る抑留生活が描かれている。「捕鯨船内より、長崎の半年間のほうが待遇ははるかに良かった。食べ物は十分にあり、衣類も冬物と夏物の両方を貰い、屋敷牢はかなり自由で、運動も十分にできた。船内よりはるかに快適である」。
 長崎奉行の言と漂流民の言が一致しており、グリンは挙げた拳の振り下ろす先がなかった。勢い込んで自国民の「救出」に来たものの、長崎奉行の下で漂流民は、いわば「保護」されていたのである。そのうえ、奉行はグリンに要請した。「われわれは送り帰す外洋船を持っていない。貴官みずからの船で送還されたい」。
 この事件は、グリン来航らわずか9日で解決した。グリンは、その経験をもとに、任務終了後に帰国した1851年、日本と条約を結ぶよう大統領に提案している。毎回の「救出」に経費をかけて危険を冒すより、条約締結により恒常的な関係を樹立するほうが得策だという趣旨である。

【曖昧で多様な派遣目的】
 ペリー派遣の目的は、久里浜で幕府が受けとったフィルモア大統領の日本皇帝宛国書に書かれている。日付は1852年11月13日、主な内容は次の点である。
①日本諸島沿海において座礁・破損もしくは台風のためやむなく避泊する合衆国船舶乗員の生命・財産の保護に関し、日本国政府と永久的な取決めを行うこと。
②_合衆国船舶の薪水・食糧の補給、また海難時の航海継続に必要な修理のため、日本国内の1港または数港に入る許可を得ること。加えて日本国の一港、もしくは少なくとも日本近海に散在する無人島の1つに、貯炭所を設置する許可を得ること。
③合衆国船舶がその積荷を売却もしくは交換(バーター)する目的のために、日本国の1港もしくは数港に入る許可を得ること。

【外交法権】 
 では、アメリカ政府の意図・目的のうちで、実現可能性を考えたうえで、何がもっとも重要であったのか。ここでは次の3点を述べたい。
 第1に「外交法権」
 第2にアメリカ海軍の内部事情
 第3にペリーが国務省派遣ではなく、海軍省管轄下の東インド艦隊司令長官に任命され、日本と条約を締結せよとの指示下に派遣されたこと、言い換えればペリー派遣の形式について。
 第1の「外交法権」(diplomatic protection)は、当時のアメリカでは重要な理念であった。法律の違う外国でアメリカ人が逮捕・抑留されたとき、「自国民を保護すること」である。今の「人権外交」に当たるものと見てよい。とくに英領アメリカ(現在のカナダ)やメキシコなど中米諸国とは陸地や沿海でつながっており、事件が多発していた。
 自国民の保護の交渉と「救出」に当たるのが海軍である。アメリカはまだ外交網を世界に広く巡らせてはおらず、太平洋横断は技術的に困難で、そしてアジアは遠い彼方にあった。国務省アジア担当課はわずか5名の組織であり、在外公館の多くが商人領事(貿易商が領事を兼務)であった。このような当時の交通・通信手段や貧弱な外交網を考えれば、海軍以外に「外交法権」を担う組織はない。
 他国との交渉にも海軍は不可欠であった。海軍が交渉そのものを担うか、海軍が外交官を任地に送り届けるかの相違はあっても、他国と往来する手段を持つのは海軍だけであった。

【海軍省の<省益>問題】
 ペリー、そして前任者オーリックの場合、アメリカは海軍提督に交渉権を与える方式を採用し、1844年の米清望厦条約のときのように外交官を派遣することはなかった。アメリカ東インド艦隊による「外交法権」発動、すなわちグリンの行動については、すでに述べたとおりである。そのほかにアメリカ海軍省の「省益」問題と、アメリカ国内の政治的関係があった。
 まずアメリカ海軍省の「省益」問題である。アメリカ海軍は世界に6つの艦隊を有しており、艦船をどう配備するかは、海軍費削減とからんで緊急問題であった。平時における海軍の主要任務は「外交法権」の発動であるが、有事(戦時)においては、言うまでもなく海戦である。
 前述のように、1848年に米墨戦争が終わると、メキシコ湾艦隊はもはや多数の艦船を擁する必要がなくなった。別の配備先がなければ、海軍費は大幅に削減される。1847年からメキシコ湾艦隊司令長官であったペリーは、翌年に郵船長官に転任、その任務は通商網の確立と郵船定期航路の開発であり、東海岸からメキシコ湾を通って西海岸まで、郵船航路が設置された。
 西海岸の彼方には日本や中国がある。その年、太平洋横断汽船航路の開設計画に関する意見書が議会に出された。中国とは1844年に条約を結んだが、日本とは国交がない。巨大な汽走軍艦の配置先は、これらの地域を含む東インド艦隊であるべしとし、その具体的な理由として、太平洋を結ぶ航路の確立、そのための石炭の確保、捕鯨船の保護、日本の開国等を列挙する。

【発砲厳禁の大統領命令】
 ペリーは海軍省管轄下の郵船長官から東インド艦隊司令長官に転任した。そこに日本との条約締結という外交上の任務が付加されたものの、職名は東インド艦隊司令長官だけで、外交任務に伴う全権大使などの職名はついていない。
 なぜ、海軍司令長官に外交任務を付加する形式が取られたのか。ペリー派遣を命じた第13代大統領フィルモアはホイッグ党のテイラー大統領の副大統領であった。フィルモアはニューヨーク州の小作農に生まれ、独学で法律を学んだ弁護士出身である。テイラーが任期半ばの1850年7月に死去、憲法の規定により大統領に昇任、任期は残りの約2年半である。
 与党ホイッグの影響力は後退し、議会多数派の民主党も分裂していた。米墨戦争で拡張した西海岸や隣接する中西部の連邦編入問題で世論が沸騰し、対外問題に強い関心を払う余裕はなかった。行政府の権限内で行う方法としては、海軍の指揮下で行動させる以外にない。海軍自身がそれを主張した。
 万一の発砲が戦争に発展すれば、もはや大統領・海軍省・東インド艦隊という行政府の権限を越えてしまう。アメリカ憲法では、軍の指揮権は大統領にあり、宣戦布告の権限は議会に属す。そのために念には念を入れ、前述のとおり、フィルモアはペリーに「発砲厳禁」の命令を出した。

【巨大艦隊を示威に使う法】
 ペリーは、この発砲厳禁の命令を大前提として行動した。軍事力の発動が許されないなら、巨大な艦船を誇示することで、交渉を有利に進めたい。方向を自在に変える蒸気軍艦の能力、轟音をとどろかせる祝砲、水深の測定を理由とする広範囲な行動などをフルに活用した。
 ペリーはまた出国前に日本への土産を慎重に選んだ。自国の産業力を示すと同時に相手が驚きそうなものである。動力源として蒸気を使う船は自ら搭乗する蒸気軍艦で十分であるが、さらに蒸気機関車の4分の1モデル、貨車と客車、2キロメートルのレールと操作技師を揃えた。農産物輸出国として作物の種子や農機具も準備した。友好関係を樹立する相手には、土産の準備をするのが当時の外交上の常識である。
 そればかりではない。合意の暁には日本側を招待するために、一流のシェフを同行させた。新鮮な肉類は船内で飼育する牛、羊、鶏などである。酒類も多数用意した。

【12隻からなる堂々たる艦隊】
 大統領による司令長官任命の打診に対して最終的な返答を行うまでの間、ペリーは熟考を重ねた。巨大な艦隊を率いても軍事力を発動できないなら、どうすべきか。大艦隊を「威力」として誇示する以外に、日本に対する有効な手段はない。ペリーは艦隊の編成について、自分の主張を承諾の条件にした。すなわち「12隻からなる堂々たる艦隊」である。
 「外交法権」を巧みに発動する経験を重ねてきた軍人ペリーは、巨大な蒸気軍艦が日本に与える衝撃をはっきりと意識した。
 同時にまた、多数の艦隊を構成することが、海軍費削減に対処する有効な手段であることも計算に入れていた。まさに一石二鳥である。彼は海軍軍人としてほぼ最高の位置にあり、海軍の将来を考える立場にあった。
 それだけではない。「12隻からなる堂々たる艦隊」には、3つ目の狙いがあった。「超大国」イギリスに向けて「新興国」アメリカの存在を誇示しようというものである。
 2000トンを超える蒸気軍艦はアメリカ海軍のみが有していた。日本までの航路は、イギリスの補給線を借りざるをえない。摩擦や嫌がらせがあろうとも、イギリスへの示威行動としては絶好の機会である。
 ペリーが幕府に渡した大統領国書には、蒸気船を利用すれば、アメリカ西海岸から日本まで「18日で到達できる」とあるが、実際には蒸気船が太平洋を横断したことはない。
 18日はあくまで机上の計算である。計算の根拠は、アメリカ海軍最初の蒸気軍艦フルトン号の実験(1837年)である。速度18ノットで、充分な石炭を持つ1500トン程度の船であれば、20日間の連続航海が可能であり、一航海で9600マイル可能として、日本へは18日で行けるという計算になる。ちなみにペリーがフルトン号艦長をつとめ、後に蒸気軍艦の父と呼ばれた。

要点5 アメリカの得た日本情報
【ペリーの情報源】
 国交のない国との関係を開くには、相手国の情報を的確に把握することが不可欠である。情報の収集・分析・政策化の3つがうまく連動しなければ、有効な対処はできない。情報には間接情報と直接情報の2種類がある。
 アメリカが得た日本情報のうち、ペリーが最重要視した間接情報はシーボルト『日本(Nippon)』(1832〜52年にかけて分冊形式で刊行、ドイツ語)であった。ペリーは503ドルで本書を購入し、貴重な情報源と位置づけ。本書は冒頭に次の文章を置いている。
「……日本は1543年、ポルトガル人により偶然に発見されたが、その時、すでに2203年の歴史を持ち、106代にわたる、ほとんど断絶のない家系の統治者のもとで、一大強国になっていた……」
 これはシーボルト自身の見解ではない。美馬順三のオランダ語論文『日本古代史考』(『日本書紀』の抄訳)から得たものである。シーボルトはこれを、そのまま自身の見解とした。諸外国では『日本』は最新の体験情報として、広く国際的な評価を得ていた。
 英語圏でも需要が高く、「Chinese Repository」誌にアメリカ人宣教師ブリッジマンの抄訳で掲載された。ブリッジマンはアメリカ=清朝間の望厦条約(1844年)の通訳であり、またペリーの通訳兼顧問となるウィリアムズとも深い交流があった。その英文抄訳の解説のなかでブリッジマンは言う。
 「日本人は、原始時代いらい膨大な数の船舶を有し、中国人と同様に商人達は近隣諸国を往来・交易し、その足跡ははるかベンガルにまで及んでいた。ポルトガル人との接触時期に、すでに日本国は優れた文明を有しており、これはキリスト教の平和的・禁欲的な教えの影響を受けずに到達しうる最高位の文明段階と言える……」
 ペリーも出国前に『日本』を熱心に読んで日本像を組み立てた。そして自分の使命を次のように書いている。
 「この特異な民族が自らに張りめぐらせている障壁を打ちくだき、我々の望む商業国の仲間入りをさせる第一歩、その友好・通商条約を結ばせる任務が、もっとも若き国の民たる我々に残されている」
 最古の国の日本に、もっとも若い国のアメリカが挑戦すると。

【日本の政体をどう見ていたか】
 では、日本の政体をペリーはどう考えたのか。つまり日本の統治者は誰かという問題である。『日本』では、「ほとんど断絶のない統治者の家系」106代を神武天皇から数え、鎌倉幕府からは将軍に継承させている。ペリーは、「日本は同時に2人の皇帝を有する奇異な体制を持っている。一人は世俗的な皇帝であり、もう一人は宗教的な皇帝である」と解釈した。
 これは、ヨーロッパにおける、国王とローマ法王との関係に似ている。条約締結にあたって誰と交渉するかはが最重要の課題である。アメリカ大統領国書の宛先も、同時に添えたペリー書簡も宛先は「日本国皇帝」(Emperor of Japan)となっている。受理したのは幕府であった。ここで日本国皇帝=徳川将軍の関係が確立した。
 日本では、世俗的皇帝と宗教的皇帝とが、それぞれ権力と権威(宗教的権威より広範囲な権威)を別々に体現していた。1615年、幕府は朝廷の権威を弱めるため禁中並公家諸法度を定めたが、最後まで幕府が確保できなかったのが象徴的行為の確保である。具体的には、律令制いらいの官位・爵位の授与権を幕府は握ることができず、将軍・大名・幕閣は朝廷から官位を受けていた。
 通常、権威は隠れていて表面には出ない。しかし、幕末になって幕府と各藩の協調関係が崩れ、対立関係が表面化すると、隠れていた朝廷の権威が浮上する。「火山のマグマ」のようだといわれる幕府と朝廷の関係、つまり権威の保持者は誰かという問題が噴出した。大政奉還(徳川将軍が天皇に政権を返上すること)の政治変動期には、権威が権力の上位に立った。

【イギリスの日本分析】
 一方、「超大国」イギリスによる日本情報としては、「ギュツラフ所見」(1845年)がある。南京条約の通訳をつとめ、香港総督の中国語通訳官となったギュツラフの上申書である。清朝がアヘン戦争の賠償金を完済するまで、舟山に駐屯していた英国海軍が撤退するさいに、香港総督(英国植民地の最高責任者)に宛てて書いたものである。
 清朝中国の周辺にある朝鮮、日本、シャム(現在のタイ)、アンナン(現在のベトナム)の4ヵ国の現状を分析、これら諸国との戦争を伴わない開国・開港を展望し、どの国の可能性が高いかを論じている。このなかで、日本は経済(主に商業)が発達しており、いちばん条約に応じる可能性が高いと述べ、さらに「選ぶべき開港場は大坂(大阪)と江戸、南では薩摩、北では仙台か加賀」と具体的に挙げている。
 またアヘン戦争の影響を考慮し、日本に派遣する平和的使節は第1に「対等の原則の下に処遇される」よう女王の正式使節とすること、第2に「我々の有している諸手段を認識させる最良の方法」として、「蒸気船を1または2隻、先行させると良い」とも述べている。
 1845年の提案は英国外交に直接には生かされなかったが、平和的交渉と文明の誇示という考え方は宣教師仲間を介して各国に共有され、とくに米国の対日政策に継承された。ペリー艦隊の蒸気船もまた、「我々の有している諸手段を認識させる最良の方法」として機能させている。
 アメリカの得た直接情報はどうか。前述のとおり、日本に来航した捕鯨船や海軍からのものが主である。アメリカにとって重要なのは、なによりも江戸湾などの水深測量である。水深を知ることは巨大軍艦の行動に不可欠であった。
 幕府の政策に関しては、漂着捕鯨船員が丁重に扱われていたこと、そして日本は統治者の恣意ではなく、法により治められているという観点から、条約(対外法)を締結すれば必ず遵守されるという見方を示している。

要点6 交渉言語と通訳
【何語で交渉すべきか】
 ペリー艦隊は、第1回来航時に総勢で約1000人、第2回来航時には約2000人という大部隊であったが、交渉にあたる頭脳はわずか数人にすぎなかった。交渉言語を何語にし、通訳をどう確保するか、これがペリーにとって大きな課題であった。
 ペリーは早くも出国前に英語案を放棄した。欧米諸国は清朝中国との長い交渉のなかで漢文以外を使うことができなかった。日本も同様に英語は理解不能として交渉自体を拒否するのではないか。
 ではオランダ語はどうか。幕府が多数のオランダ語通詞を長崎に置いていることは知っていた。そこでポートマン(A. Portman)という若いオランダ人を上海で雇用する。しかし、オランダ語を交渉言語とした場合、アメリカはオランダの後塵を拝すると誤解されかねない。オランダは欧米諸国のなかで唯一、日本と古くから交渉を持つ国であり、その長い日蘭関係のなかにアメリカが組み込まれかねない。それでは本来の目的が十分に達成できない。外交文書や条約草案など、正式の文書をオランダ語に限るのは避けるべき、とペリーは判断した。

【日本語案の挫折】
 日本語案はどうか。ペリーは日本語案を第一候補に考え、出国前に最良の通訳として宣教師のウィリアムズ(S. W. Williams)に的を絞っていた。ウィリアムズは1833年以来、アメリカ対外布教協会の宣教師として中国に滞在し、おもに印刷の専門家として活躍、「Chinese Repository」誌の編集にも関与し、『中国総論』(初版は1848年刊)という英文の著書もある。
 ペリーはウィリアムズを唯一の通訳と考え、自薦他薦の通訳を排し、ノーフォーク港を出航した。4ヵ月半後に香港に到着すると、翌日、ペリーは休む間もなくカントンに船を進め、ウィリアムズを訪ねた。日本との条約締結の重要性を強調、通訳として同行するよう要請した。
 ウィリアムズは頭をかかえた。自分の日本語は10年以上も前に習ったものである。しかも日本語の教師は、送還を待つ日本人漂流民であり、十分な読み書きができなかった。ウィリアムズは、自分の日本語能力ではとても通訳は務まらないと答える。

【漢文通訳兼顧問となる】
 ウィリアムズがあまりにも固く辞退するのに苛立ったペリーは迫った。「中国滞在が20年にもなるのに、日本語ができないのか」。ウィリアムズが中国語と日本語の違いを説明、聞き終わるやペリーは「中国語には自信があるか」と問う。こうしてウィリアムズは漢文(中国語)通訳兼顧問の形でペリーに同行することになった。もっともウィリアムズは「書」には自信がなかったらしく、秘書格として中国人の文人を伴った。第1回目の来日には謝が同行したが、途上でアヘン中毒のため死去。第2回目が羅森である。

【幕府側の考えた通訳案】
 一方、幕府は通訳問題をどう考えたか。1851年に強行帰国したジョン万次郎を英の通訳に使うことを検討したが、御三家の徳川斉昭が反対した。アメリカ生活が長い万次郎は、日本語の書き言葉が十分でないうえ、何よりもアメリカ側に付くのではないかと危惧したと言われる。
 残る言語は日本語、オランダ語、中国語(漢文)の3つである。これまでの経験では、アメリカが日本語を使う可能性は小さく、オランダ語の確率がいちばん高い。この予測から、浦賀奉行所にオランダ語通詞を補強した。
 漢文については、武士の教育が幼少時から四書五経の素読に始まることもあり、人材には事欠かなかい。漢文の読み書き能力は、現代人の想像をはるかに超える高いものであった。しかし、アメリカから漢文案が出るとは、ほとんど予測していなかった模様である。

【I can speak Dutch!】
 浦賀沖に停泊した黒船艦隊に向かって、通訳の堀が“I can speak Dutch!”と英語で呼びかけ、ペリー側とオランダ語通訳を介して話し合いに入り、与力の中島が浦賀の副総督になりすました。ここまでは冒頭で述べたとおりである。
 この最初の会談で、ペリー側から「なぜ総督が顔を出さないのか」と問われ、中島は「総督は船に乗らない」と答えたが、翌日、筆頭与力の香山栄左衛門を伴い、彼こそ「総督」であると取りつぐ。しかし香山も同じ与力であった。「日本語→オランダ語→英語」の二重通訳で、ペリーには英語のガバナー(Governor)と伝えられた。浦賀奉行所の与力が役職名を「詐称」し、ペリー側がそれを見抜けなかったとはいえ、そのことがかえって正式交渉に弾みをつけた。
 これは「対等な地位の役人同士の交渉」を原則にしていたペリーにとって、重要な第一歩であった。ペリーは大きな進展を予感した。

10【図像】「ペリー艦隊軍楽隊の久里浜上陸」
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ペリー艦隊が久里浜に上陸、その軍楽隊行進の絵。右側の総大将とあるのがペリー提督。

【香港到着直後の事件】
 役職名にペリーが固執する理由は、それだけではない。ペリーが海軍長官から得た正式の役職名は、海軍省管轄下のアメリカ東インド艦隊司令長官(Commander in Chief, U. S. East India Squadron)である。日本が東インドの一部かどうかが不明である以上に、条約交渉を担う権限を示す職名が一文字も入っていない。
 ペリーが香港に到着した1853年4月7日、アメリカ外交官で公使待遇の駐華弁務官マーシャルは、ペリーが先行させたはずの蒸気軍艦サスケハナ号に乗って上海に行っていた。ペリーは立腹する。東インド艦隊の司令長官は自分であり、その到着を待たず、許可なく艦船を動かしたという理由でる。
 一方のマーシャルは、太平天国軍が版図を拡大し、上海事情が急展開していペリーを待てず、サスケハナ号艦長ケリー(東インド艦隊司令長官の代理)の了解を得ていて、何の問題もないと考えた。提督ペリーと外交官マーシャルは、こうして最初から対立する。

【ペリーの職名拡大】
 政策上の見解対立はいっそう深刻であった。ペリーは日本との交渉を第一と主張し、一方のマーシャルは上海居留民の保護を重視した。現地における日本重視論と中国重視論の対立は、アメリカ本国での海軍省と国務省の対立を意味するが、当時の通信事情から、この対立はまだ本国には伝わっていない。書簡により情報が本国に到着し、指示が来るまで、最速でも約5ヵ月を要したため、現地の責任者には大きな裁量権が与えられていた。裁量権とは自分の判断で行動し、事後報告で済ませられる権限である。
 ペリーは、自分が東インド艦隊の司令長官にすぎないなら、マーシャルの命令を受ける立場にあり、日本との交渉は延期せざるをえなくなると判断した。そこでペリーは役職名を自分で変更し、次のように変更した。
Commander in Chief. U. S. naval forces in the East India, China and Japan seasである。東インドのほかに「中国・日本海域」を追加し、自分の所轄海域を自分で拡大したのである。久里浜で幕府に最初に渡した書簡にはこの肩書きを使っている。
 翌年の2回目来航時には再び追加した。Commander-in-chief. U. S. naval forces in the East India, China and Japan seas, and Special Ambassador to Japan.である。応接掛に渡した漢訳の職名は、「亜美理駕合衆国特命欽差大臣専到日本国兼管本国師船現泊日本海提督」彼理に「特命欽差大臣」(特命全権大使)もつけ加えた31文字である。
これが裁量権の範囲内の行為かどうか。結局、誰からも問われることはなかった。

要点7 アメリカ大統領国書の回覧による議論百出
【ペリーの訪日目的】
 ペリー来航直後から国書授受の場所をめぐる交渉が始まり、浦賀近郊の久里浜に決定する。来日からわずか6日目の1853年7月14日。ペリーの想定より、はるかに早い決着である。
 急造した会見所に待ちうけていたのは、二人の浦賀奉行の井戸石見守(在府)と戸田伊豆守(浦賀在勤)、それに前述の香山や中島らの与力、通訳の堀などであった。ペリー側は、奉行の英訳を国政委員会(State Council)の委員としているから、「総督」の上の国務大臣級と考えたのであろうか。ウィリアムズが漢字の大型名刺を出した。ペリー側は漢文を使うらしいと、ここで幕府側が察知した。
 幕府にとって国交のない国からの国書受理は初めてだが、幕閣の最高責任者、老中首座の阿部正弘は、受理は拒否できないと決断し、指示を出していた。
 米大統領の国書を受け取ると、幕府はそれ以上には言葉を交わさず儀式を終えた。ペリーも幕府側の返答を待たず、翌15日に次の文書を届けてきた。
 「……この提議は重要であり、かつ多くの重大問題を含んでいるため、幾つかの関連事項につき、審議・決定に時間を要されると考える。その点を当方は考慮して、貴国の回答を、来春また江戸湾に戻る時まで快く待つ。その折には、すべての事項が友好的かつ円満に妥結することと確信している……」

【ペリーが納得】
 ペリーは、「日本国皇帝」宛の大統領国書を幕府に受けとらせたことで、第1回訪日の目的は充分に達成しと考えた。即答を求めずに帰帆する理由を、もっぱら幕府の立場に配慮したかのように書いているが、実際には別の事情を抱えていた。彼は海軍省あての公信には書かず、日記にだけ書き残している。
① _1ヵ月以上の滞在に必要な食糧を持っておらず、遅延を重ねて回答を得ずに帰国という事態になれば、重大な損失となること。
② _後続の船がまだ到着しておらず、とりわけバーモント号に積んである贈り物がまだ到着していないこと。
 その2日後の7月17日、ペリー艦隊は日本を去った。

【これからが本番】
 天保薪水令(1842年)以来、幕府は交戦を回避し(「避戦論」)、対外関係の基本に<外交>を
置いた。外交に必要な国内政治の論点はさしあたり次の3つである。
① _鎖国という「祖法」を破棄して平和裡に条約を結び開国するか、それとも「祖法」を死守して戦争(そして敗戦)をも辞さないか。
② _開国して海外の新たな政治・文化・技術などを導入すべきか、それとも旧来の方策に徹して
旧体制を維持すべきか。
③ _条約の持つ意味をどう考えるか。とくにアヘン戦争の結果である南京条約の締結以降、急速に国際法にのし上がった最恵国待遇(条項)をどう理解するか。言い換えれば、まずどの国と最初の条約を結ぶのが有利か。
 海軍を持たない幕府は、ペリー艦隊の行方を追えないままに、ただちに再来への対応に取りかかった。7月14日付けの幕府宛ペリー書簡には、「来春また江戸湾に戻る」とある。「来春」は、漢文訳では「来年春季」とあり、その和解(和訳)は「来年三月頃」である。陰暦の三月なら陽暦では四月になろう。オランダ語の和解は「明年早春」としている。
 ペリー艦隊の第1回来航はわずか足かけ10日間で、それなりの対応を示せたが、これからが本番と幕府は腹を固めた。
 ペリー来航から19日後の1853年7月27日、十二代将軍家慶が逝去した。喪に服すため、国政も一時とどこおりがちになった。約四カ月後の11月23日、十三代将軍家定が即位した。
 この4ヵ月間、幕府の政策は大きく動いた。
1)アメリカ大統領国書を回覧、各界から意見を求める老中の決断(7月31日)
2)ロシア使節プチャーチンを長崎で応接。第1回がペリー帰航後の8月22日〜11月23日、第2回がペリー第2回来航直前の1854年1月3日〜2月5日)、交渉の引き延ばし策を図る。
3)_大型船の所有・建造の禁止を解くか否か。大型船建造に関する老中諮問(9月28日)と解禁令(10月17日)。
4)_夏、海からの攻撃に備える「海防」策に着手。秋から品川など内海の台場の建設着工。12月、江戸湾の固めが譜代4藩(彦根・会津・忍・川越)から5藩(熊本・萩・岡山・柳河・鳥取)へ交替。
5)_江戸の市中取締り(1854年初頭から)と、再度の黒船見物の禁止措置(1854年2月から)
 
これらの諸問題に入る前に、鎖国とはいかなる政策であるかを見ておきたい。幕藩体制や江戸の町も概観しておきたい。「海防」の観点からは、江戸はいかにも無防備な繁栄を誇っていた。ペリー再来への準備は、もろもろの問題を噴出させた。多様な情報が飛び交う「情報化社会」でもあったため、1つのデマがパニックを増幅しかねない。

要点8 鎖国と幕藩体制
【鎖国の完成】
 まず鎖国政策について見ておこう。鎖国は一挙にではなく段階的に完成した。1624年、キリシタン国イスパニア(スペイン)船の来航を禁止、1635年、キリシタン禁制を理由に日本人の海外渡航を禁止、また在外日本人(とくに東南アジアにあった日本人町に住む人々)の帰国を禁止した。1639年にはキリシタン国ポルトガル船の来航をも禁止、ついに1641年、オランダの平戸商館を長崎の出島に移し、ここに鎖国が完成する。
 この結果、長崎奉行所による会所貿易、対外情報の入手・翻訳の体制が確立する。長崎へ来航できる船は出島へのオランダ商船と、唐人屋敷への中国商船だけとなった。両国の商船は定期的に入港し、幕府の管理下で通商を行った。蝦夷地(北海道)ではアイヌやサンタンとの交易があった。これらの主にカネとモノを通じた相手国を「通商の国」と呼ぶ。
 鎖国によって、幕府がすべての対外関係を絶ったわけではない。対馬を通じた朝鮮との関係、及び薩摩を通じた琉球との関係は保ち、「信頼関係を通じる」の意味で「通信の国」と呼び、江戸まで使節を招いて重視した。長崎、対馬、薩摩、蝦夷、これら「四つの口」を鎖国日本の開かれた窓口とし、それ以外の通商・通信のない国々の船を「異国船」と呼び、来日を拒絶した。

【鎖国の意味変化】
 鎖国の完成から150年以上を経過した18世紀末、北からはロシア船、南からはイギリス船やフランス船など、異国船がひんぱんに出没するようになる。航海術が発達し、世界貿易が拡大し、国際政治が変わり、「海洋国」が世界に覇権を確立すべく懸命になっていた。
 鎖国政策の維持は次第に困難になり、変化を迫られる。当初のキリシタン禁制を理由としポルトガル船やスペイン船の入港は考えられず、国内のキリシタンの動きも静まっていた。鎖国政策の最大の課題は、日本人の海外渡航禁止と、その手段となる外洋船(大型船)の建造・所有の禁止に絞られた。
 列強が「海洋国」として版図を拡げつつあった時、その対抗措置として幕府は逆に外洋船の建造・所有の禁止措置を進め、海からの攻撃にたいしては陸地に砲台を築く「海防策」を強化した。鎖国の「祖法」継承は、新しい世界の潮流と正反対の方向へ向かっていた。
 幕府の対外令は前に見たとおり、4回にわたる。寛政令(1791年)、文化令(1806年)は北方からのロシア船にたいするものであり、必要な物資を与えて帰帆させる穏健な政策である。文政令(1825年)は一転して強硬な「無二念打払令」(躊躇なく打払え)となった。そしてアヘン戦争情報を分析し、穏健な天保薪水令(1842年)に復す。ペリー来航時は天保薪水令下にあった。

【幕府と諸藩の関係】
 江戸(徳川)時代は、1603年に徳川家康が江戸を開府して以来、1868年の大政奉還までの265年間つづいた。武士は領地の農村を離れて城下町に集住し、年貢の取り立てなどは領地の村役に手紙で指示するようになる。
 徳川幕府は諸大名との連合体である。それを「幕藩体制」と呼んでいる。幕藩体制はかなり複雑で特異な政体だが、これが江戸時代の根幹をなす。およそ次の5点にまとめられる。
(1)「改易転封」の権限……幕府が戦争によることなく、領主(大名)から領地を没収し、または他所に移す権限。
⑵「石高制」……領地の土地生産力を、領主が年貢として徴収する石高で決めること。大名は最小の一万石から最大の加賀百万石まであり、江戸藩邸(大藩は上・中・下の3つの江戸屋敷)を持つ。
⑶「軍役制」……旗本・大名ともその石高に応じて軍備をととのえ、幕府の命令で出動する義務。例えば一万石の大名は騎馬の武士10騎、槍30本、弓10張、鉄砲20挺、旗3本など計225人、5万石クラスでは1500人を平時も維持しなければならない。
⑷大名の「参勤交代」……軍役発動の一形態、1635年に開始。大名の半数を江戸に常駐させ、首都防衛に当たらせた。このため大名には1年おきに1年間の江戸滞在を義務づけた。
⑸「普請役」……幕府が大名に負担させる軍役の一種としての土木工事。
 全国の総石高は約3000万石であり、そのうち幕府の直轄領は400百万石余りで、1割強にすぎない。幕府は、この財政収入をもって行政経費を維持していた。この財政基盤は脆弱だったとも、健全であったとも言える。これを補ったのが、上記の軍役制・参勤交代・普請などである。
 幕府と各藩(大名)とが協調関係にあった長い期間にわたり、政治、財政、軍事の各方面において、各藩の安定がそのまま幕府の安定を意味していた。この幕府と諸大名の関係は、「地方分権」の姿ということもできる。長崎のオランダ商館にいたケンペルは、「地方分権」を絶賛している。

【幕府官僚の旗本】
 直属の家臣・官僚である「旗本」は、狭義では将軍に面会できるという意味で御目見以上の資格を持つものを指し、それ以下を御家人として区別したが、広義では両者をふくめて旗本という。小は100石取りで一代かぎりの禄米を得る御家人から、大は9000石クラスまであり、1万石を越えると大名と呼ばれる。江戸時代後期、御目見以上の旗本はおよそ5000家、そのうち500石以上の旗本が1700家ほどである。
 小禄の旗本の100石高とは、もともと100石の米が取れる領地を拝領した者を指したが、江戸時代の中期頃からは、蔵米取り(浅草にあった蔵から玄米で受け取る)が普通となる。100石を「四公六民」とすると、実質は40石の玄米で、白米にすると8.5分掛けで約35石(約100俵)の実収になる。現金が必要なため、自家などの食用分を除いて1石=約1両で売却、これで衣類・味噌・酒などを買い、槍持や中間、下男・下女も雇う。生活は楽ではない。住居は組頭のもと屋敷町の一角にあった。
 旗本の上位クラスの2000石取りは、奉行に就任する場合が多い。実収は約700石。これを現金に換算すると約700両であるから、家来の侍8人など総勢38人を抱えてもかなり楽である。屋敷は約1000坪、門番つきの長屋門を持ち、屋敷内に家臣用の長屋を置く。3000石クラスになると、主人の馬のほか7頭が必要となり、1600坪ほどの大屋敷を構え、下屋敷を持つ者もある。

【幕府の組織】
 将軍を支える幕府の組織は、老中、奉行、大目付、若年寄などタテの組織である。大老は置かれないことが多い。老中は大老不在のときの幕閣の首班で、老中首座は複数の老中の長、今の内閣総理大臣に相当する。初期には1万石以上の大名から選ばれたが、後には2万5000石以上の譜代大名から補すようになる。
老中は江戸幕府265年間に145人にのぼるが、うち10万石以上の大名から老中に就任した者は23人である。
 町奉行、寺社奉行、勘定奉行を特筆して三奉行と呼び、評定所(幕府の最高裁判所)を構成する。他にも畳奉行、長崎奉行、寄場奉行など、多くの奉行職があった。大目付は老中に属して、大名および老中以下の諸吏を監察する役目であり、幕臣のみならず、江戸藩邸の諸藩の武士にも権限が及んだ。

【林大学頭】
 1607年、徳川家康は林羅山を登用し、幕藩体制のイデオロギー的支柱とした。羅山は仏教・キリスト教批判を行い、神道とはイデオロギー面で同盟関係を形成した。中国から導入した儒教が、この時点から神道との親近性という日本的な変容をとげた。
朱子学が「性理」を説き、「忠」より「孝」を重視するのにたいして、林は人間の感情を「心理」として強調し、親子間の「孝」より、組織への忠誠である「忠」を重視した。
 林羅山の登用は、「封建教学の正統化」というより、政治上の事務にあたらせ、家康らの個人的教養にそなえたものと考えられている。羅山についで代々家督を継承した林家の主な役割は、正統的イデオロギーの保持者から次第に脱皮し、朝鮮通信使の応対など対外関係の処理と、官吏養成が主務となった。
 林家の官吏養成機能は、1790年設置の「昌平坂学問所」(昌平黌)からである。その教育内容は実務的要素が強い。ペリーの第1回来航時には第十代の林壮軒(健)であったが逝去、弟の林復斎(韑(あきら))が第十一代大学頭に就任し、ペリー応接にあたる。
 役職に応じて役高を決める足高制(1723年)によれば、町奉行は3000石であるが、林大学頭はその上の4000石である。

【町奉行】
町奉行と南町奉行を配して、月番制で勤務にあたった。商売関係の訴訟では、南町奉行所が呉服、木綿、薬種などの問屋を、北町奉行所は書物、酒、廻船、材木などの問屋を処理するという分担があった。
 町奉行はまた町触という法令を出し、民生維持の役割を担った。町触は3人の町年寄から250人ほどいた町名主へと伝達される。19世紀の江戸には1500町ほどあり、一人の名主の管轄範囲は数町から10数町におよんだ。黒船来航に伴う江戸市中の取締りには、名主たちが動員された。
 町の住民には地主(または家持)、地借、店借、召使などの区別があった。町内自治にたずさわる権利をもつのは地主(家主または大家という)だけであり、実際には人を雇って代行させることが多かった。この家主が五人組を組んで連帯責任を負った。全体としては、町奉行─町年寄─名主─家主─店子という系列である。

要点9 アメリカ大統領国書の回覧と諮問
【老中諮問】
 アメリカ大統領国書の原文は国務長官が代筆した英文だが、幕府に渡されたのはウィリアムズの手になる漢文訳とポートマンによるオランダ語訳である。その漢文版の和訳は林大学頭(健)、オランダ語版の和訳は天文方手附の杉田成卿と箕作阮甫である。回覧したのは、漢文版の和訳であった。主な内容は以下の7点である。
 ①親友の懇交を結び、通商の条約を定める
 ②アメリカは異国の政礼を侵さない
 ③火輪船でアメリカより太平洋を渡り、18日で来日できる
 ④隣接の両国が往来すれば必ず大利益を得る
 ⑤貿易を始めても中止は可能、期間も限定できる
 ⑥難破船の船員救助の取決めをする
 ⑦火輪船に石炭を供給する
 これらを整理してみると、条約内容に関しては①、⑥、⑦であり、その条約を結ぶ前提として②があり、⑤では一時的な期限付きも可能とし、条約がもたらす成果として④を強調する。理解しにくい点は③で、この位置にあることだが、これは②で相手国の制度を尊重しつつ、一方で「脅し」の一つとして軍事的・技術的な能力を示したものであろう。
 幕府は国書受理から2週間後の7月28日付けで、大統領国書を各界に回覧して意見を求める老中諮問を行い、三奉行・大目付・目付・海防掛への通達を出した。現代ではさして珍しくないが、この時代には、意見「公募」の形態そのものが、きわめて異例であった。
 老中の通達は「これは国家の一大事であり、〈通商〉を許可すれば〈御国法〉(国是)がなりたたず、許可しないなら〈防御の手当て〉(国防の措置)を厳重にしなければ安心できない。彼らの術中に陥らぬよう、思慮を尽くし、例え忌諱に触れてもよいから、よく読んで遠慮なく意見を述べよ」と言う。続く大名への廻状も、評定所などへの諮問も趣旨は同じである。
 ちなみに徳川家の記録である『続徳川実紀』の該当箇所には、第十二代将軍・家慶の死去に関しては当然に詳しいが、アメリカ大統領国書の回覧に関する老中諮問にはまったく言及がなく、またペリー艦隊の浦賀沖来航の記述は7月10日から始まり(来航は7月8日)、重要事項の取捨選択や情報伝達に微妙なずれがある。

【国書受理前の意見】
 この老中通達に先立つ2週間ほど前、久里浜における大統領国書受理の前日の7月13日付けで、仙台藩士・大槻平次(磐渓)が「門下生」として、儒役・林大学頭健の「御内意」に答えた報告がある。儒役とは儒教担当の役目を担う林家への尊称である。時間順にもっとも早い、この「意見書」の主な内容は、次の3点である。
①_黒船四隻の戦力は強大ですが、彼らに交戦の意図はまったくありません。わが国には自国の戦いでありますが、彼らには補給線がありませんから、戦争にはならないでしょう。
②_渡来の意図は、蒸気船用の石炭補給地として一島を拝借することにあり、「異国船薪水施待所」について、伊豆下田や志州鳥羽の案があり、下田の場合には韮山代官の江川英龍を登用すべきです。万里の波濤を越え、断固たる決意で渡来したからには、少しは「御聞届」の必要がありましょう。
③_海外の事情に通じた人が廟堂におらず、四藩による警備の費用は莫大で、このままでは疲弊してしまいます。太平の世の中に慣れすぎ、戦争の事は耳に入れるのも嫌がる風潮が蔓延しています。帰国漂流民の万次郎を召しかかえ、この度の掛合役に登用すべきです。なお、交易は許すべきではありません。
 分析の論点がしっかりしている。とくに①であるが、アメリカ艦隊に「交戦の意図はまったくない」と、これほど明瞭に言い切る意見は他に見当たらない。それにとどまらず、現実問題として「彼らには補給線がない」とも指摘する。「戦争がないこと」を前提として、②と③で応接人事に江川と万次郎の登用を提案、下田あたりで石炭を供給する妥協点を示している。
 しかし、それ以上に注目すべき点は、これがアメリカ大統領国書の受理に先立ち、それも林の私的な門下生という形式でなされている点である。大学頭は朝鮮通信使の応接をし、1844年のオランダ国王親書にたいする返書を漢文で書くなど、<外交>に従事し、外交文書『通航一覧』の編纂にもあたっている。
林が対米応接の担当部署になることを考え、あらかじめ私的に人を使って調査を行ったものか。仙台藩士・大槻平次は大槻玄沢(『環海異聞』の編者)の次男で、江川英龍の門下生でもある。意見書提出の背景ははっきりしないが、この意見が幕閣や応接掛に回覧され、かなり強い影響を及ぼしたとみて良い。

【提出された多様な意見】
 老中が各界の意見を諮問の形で募るなど前代未聞のことであり、諮問の内容が両論併記になっているだけに、さまざまな反響を呼び、提出された意見の内容は多岐にわたった。記録に残るものだけで719通。大名(藩主)から藩士まで、奉行から小普請組までの幕臣、学者、さらに「商」にあたる吉原の遊女渡世・藤吉の意見まであった。かなり多様な内容を分類すると、およそ次の3つになる。
 第1がアメリカの要求を拒絶し現状を維持すべしとする意見、第2が部分的な開国に応じるべしとする消極的開国論、第3が積極的開国論である。第1の意見には、日米間の戦力差の認識がまったくない。後二者に共通するのが日米間の大きな戦力差の認識であり、交戦は避けなければならないという強烈な「避戦論」である。
 第1の現状維持論は、鎖国という徳川開府いらいの「祖法」を維持し、倹約の倫理・習慣を崩すべきでないと主張するもので、これが多数であり、諸大名の間に根強い支持があった。「倹約の倫理」は、米穀による石高を経済基盤とする武士層にとって不可欠であり、貿易はこれを攪乱し、富の流出を招くと危惧した。現状維持を可能にする明確な対策は必ずしもなく、「外夷」の態度がけしからぬと主張する。
 川越城主の方策は、①江戸海岸に数百の大砲を装備すること、②江戸湾がもっとも狭くなっている観音崎─富津間の20町を埋め立てて第一防御線とし、猿島と富津間を軍艦で固めて第二防御線とし、第三防御線を江戸海岸の大砲とすることである。
川越藩は1842年の天保薪水令公布から、ペリーの第1回来航後の1853年12月までの約11年間、江戸湾の相模側の海防をつとめた。海防の戦術論としては具体性を持っている。しかし、実現されたのは江戸海岸に砲台(台場)を築く第三防御線だけであった。
 一方で、台場建設は意味がないとする意見(大番頭支配組与力)がある。①敵方の大砲は京橋、銀座、新橋、江戸城まで達するため、江戸海岸に砲台を築いての発砲は不利であり、あくまで浦賀の辺りで防御すること、②筏と伏雷火を浦賀の外側に設けること、③台場の代わりに高さ4間の土手を江戸海岸に築き、5〜7間おきに出入り口を設けて、そこから「大小の筒」(大砲と小銃)を打つこと、としている。

【2種の開国論】
 開国論には消極的開国論と積極的開国論とがあった。消極的開国論は次のような論理である。すなわち、外国の強い開国要求を阻止するには軍備が極端に貧弱であるから、開戦は不可能である。しかし手をこまねいていては併合されかねないから、最小限の妥協で止める。石炭供給程度の妥協で、年限を決めて貿易を始め、その間に軍備増強をはかり、貿易に利益なしと分かれば中止するというものである。三奉行の見解はこれに近い。
 福岡城主の松平美濃守は、商売はしないことをアメリカに言い渡し、異議が出れば「打ち払うだけ」とする一方で、米・露には長崎での交易を許可し、英・仏にたいしては、数多の軍艦を引連れて来るはずだから許可しない。米・露をして英・仏を防がせるのも良い。いずれにせよ開戦だけは回避すべきと述べる。
 第3の積極的開国論は、諸外国の要求を拒否できないという点で消極的開国論と同じだが、具体策が違う。軍備を整えるための財源は、開国・開港による貿易の利益をおいて他にないと明言する。そして旧来の海防論(陸地における専守防衛)を超えて、海軍を持つべしとする。富国強兵を目標とし、「海防」から海軍創設へと転換、貿易収入を財源にあてようとしている。
 開国派の意見に共通する点が、大型外洋船を所有することへの強い関心である。黒船艦隊に接したことが直接の引き金になった。陸地に砲台を築いて応戦するだけの、旧来の「海防論」では対抗できない。江戸湾の入り口を外国軍艦に海上封鎖されれば、廻船は江戸へ入れなくなる。伊豆七島のどこかを占領されても排除する手段がない。したがって大型外洋船(軍艦にも使える)を持つべきとする。
 2種の開国論に共通する点は彼我の戦力差、なかでも、軍艦を持たない現状では黒船艦隊には対抗しえないという現状認識である。では、どうすべきか。この段階では方針が煮つまっていない。「避戦論」をどのように貫くか、その具体的提案も生まれていない。
 8月14日、御三家の徳川斉昭(水戸)が「海防愚存」を公表した。公表時期は諮問から2週間後であり、早くもなく遅くもない。文面上は上記の3分類のどの要素も兼ねそなえているが、主張のスタンスが違うというべきか。影響力の大きな人である。阿部老中も幕閣内部の方針を固めるには、御三家や薩摩藩など外様の雄藩をも味方につけなければならないため、彼らの動向には注目していた。
 斉昭の意見書は、福山殿(阿部)宛で、冒頭に「和戦の二文字を明白に決めるべきである」と述べる。「戦を主とすれば天下の士気を引き立て、たとえ一旦は負けても最後は勝つ」が、「和を主とすれば、当面は平穏のようでも、天下の雰囲気が緩み、後には滅亡にもいたる」。
アメリカの願いを入れれば国体を壊し、キリシタン再興の憂いがあり、交易の大害が蔓延し、清国の轍を踏む、など計10ヵ条を挙げたうえで、「戦の一字」を決めて全国に大号令を発すること、それにより「人びとを必死の覚悟にさせる」と言う。ここまでの論調は、第1の現状維持論によく似ている。
 ところが中段に言う。「オランダにたいして軍艦の蒸気船、船大工、新しい武器類を献上するよう伝えるべきである。そうすればわが国でも優れた蒸気船を製造できる。オランダ貿易の利益をすべて軍艦(大船)にまわすのが宜しい。大船は参勤交代や米の運送にも使うことができる」。 後段では、弾薬にも使える花火を禁止し、無用な銅器をつぶして銃砲の製造にまわし、江戸湾に土塁を築き、郷士などを集めて訓練する、などの記述がつづく。
 前段と後段にはさまれた中段の蒸気船購入の部分こそが、斉昭のもっとも強調したい点のようである。斉昭が大船購入の解禁に積極策を述べている点、これはまた阿部の狙っていた論点に他ならない。
 ペリーに1ヵ月半遅れの8月22日、ロシア使節プチャーチンが条約締結のため長崎に来航、応接には川路聖謨を任命した。幕閣はすでに対米交渉を第1とし、対露交渉は第2とする方針を固めていたため、ロシアにたいしては引き延ばし策(「ぶらかし外交」)に終始した。ロシアを回避したことが後に幕府無能無策説の一つの根拠になるが、二つの大国を同時に相手にする二正面作戦を回避したのは賢明であった。

【外洋船解禁論が続出】
 アメリカ大統領国書の回覧と老中諮問により、まず軍備を増強する方法はないかという意見が出てくる。諸外国に比べて幕府の防備が圧倒的に劣っていることは、1842年の天保薪水令公布にいたる段階で分かっていた。
 主要な場所に砲台を築いて防備とすべしという「海防論」は、最低限の共通認識であったが、陸地に設置する砲台(台場)のみで十分か、それとも大型の軍艦を所有すべきか、この点をめぐって見解が分かれていた。大型船とは外洋船を指す。
 すでに7年前の1846年、阿部老中が評定所にたいして大型船の建造解禁に関する意見を求めていたが、その時は不可という回答であった。大型船の操縦・運営は技術的に未経験なため実用的ではなく、経費がかさむという理由であった。
 今回は状況が違う。9月28日、老中が「大船建造」に関する諮問を行った。阿部は、アメリカ大統領国書への対応と、「大船建造」とが論理的に関連あるものと考え、世論形成をにらんで再度の下問を意識的に行ったと思われる。
 対外的危機のなかで強い反対意見は出ていない。大型外洋船を解禁することは、日本人の海外渡航の解禁につながり、鎖国政策の破棄を意味しかねないが、この種の原則的な議論はなかった。
 大名たちの多くは、対外防備は自分たちの課題ではなく、幕府の問題と考えたためであろうか、大統領国書の回覧にたいする意見具申に比べると、大型船解禁に関する意見は少ない。提案は幕府の各部署から出されたものが多く、時間順では、まず9月18日付けの三奉行上申書がある。西洋式の外洋船を4隻製造すべしとし、その船名まで下田丸、蒼隼丸、日吉丸、千里丸と決め、前の2隻は御代船(官用の船)で、後の2隻は警備船にも使用する、この他に長さ30間(約55メートル)以上の軍艦と蒸気船を建造する、操縦などの訓練体制も必要と述べている。
 小普請組の勝麟太郎(勝海舟)の上書は、「軍政之御変通」を強調し、砲台の強化ばかりか、「軍艦その他をお世話されますよう」提案、その理由を、内地以外の孤島を外国軍によって奪われたときに出動するためと述べる。さらに軍艦製造と、その実戦訓練をも強調する。
 林大学頭(健)の見解は、大船製造停止は鎖国時からのことで、それ以前には製造していた、世界情勢が一変した今、大船製造は解禁、老中から大船製造令を発布すべしとする。また参勤交代にも海路を利用すべきだが、海外渡航と海上貿易は旧来のまま禁止と述べる。
 江戸湾防備を命じられた最大藩の彦根城主・井伊直弼は、外国との交易を許し、御朱印船を復活して「堅実の大軍艦をはじめ蒸気船を新造し」、表面は「商船をよそおい」、内実は「もっぱら海軍の訓練を心得」るべきだとする。越後国新発田藩士は、佐久間象山の「海防八策」をうけ、軍艦操縦の訓練の必要を強調する。
 軍艦製造の経費を誰が負担するのか。これに言及するのが山形藩士の意見である。諸大名が藩の規模に応じて負担、60万石以上は3隻、40万石以上は2隻、20万石以上は1隻、20万石以下の諸藩は連合して「組合」を作り、上記の配分により軍艦を製造するというものである。
軍艦の用途は必ずしも軍事用にかぎらず、海運など多くの用途があるとする点で、上記の林の意見と似ている。多様な用途として、彼は「30の利益」をあげる。例えば、廻米、参勤交代などの他に、船の難破事件の減少、天文・測量など諸学問の発達、さらには小笠原の開発などである。

【大型船解禁と鎖国放棄】
 大型船建造を解禁すべきか否かの老中諮問は、二者択一を迫る内容というより、解禁そのものは大方の意見であって、問題はその方法、いわば手続き問題であるという立場で書かれている。すなわち、旧来の法令・文言を改めるべきか、それとも、文言はそのままにして、「海岸防御臨機之御処置」をとるべきかの選択であった。
 大型船の建造・所有は、鎖国の祖法に触れる可能性があり、文言の改定には慎重を期したものと思われる。大目付の意見は、解禁に賛成、さらに文言もきっぱりと改めるべきとした上で、諸物資の運搬には幕府自らがあたり、諸方の密貿易を取締まれと強調する。大型船を、軍用と商用の両面に使用する案である。 
このような過程を経て、「大船建造」問題はわずか3週間で決着、1853年10月17日、大型船解禁の老中達が出された。解禁と同時に、幕府はオランダ商館へ蒸気船を発注、自らも建造に着手する。
 解禁は鎖国の「祖法」を覆すことになるのか。林は慎重に「海外渡航と海上貿易は旧来のまま禁止」と述べている。鎖国の当初、日本人の海外渡航を禁止、その具体的手段の大型外洋船を禁止した時点では、両者は目的(渡航禁止)と手段(大型船の禁止)の関係にあった。いま手段を先に解禁し、目的は変更しない態度をとって、政治的問題をすり抜けた。
 ところが、この大型船解禁に関する老中諮問より2ヵ月も早い7月24日、阿部は解禁の決意と、それに伴うオランダ商館長への蒸気船購入を決めていたとする資料がある。これは大統領国書を回覧した日より、さらに1週間も早い。蒸気軍艦7隻をオランダから購入する決定を下し、浦賀奉行から長崎奉行に転出(6月4日付け)の決まった水野忠徳(のり)に伝達させることも、あわせて決めたという。
 水野の江戸出発は8月25日、長崎着は9月27日であった。すぐにオランダ商館長へ伝えたという資料は見当たらない。解禁の意見は各方面から出されており、また10月1日には、薩摩から蒸気船製造と購入について老中への願いが出されている。さらに10月15日、オランダ商館長クルチウスが、長崎奉行へ覚書を提出、蒸気船の購入や海軍創設問題など、熟慮した内容になっている。
 これらのことを考えあわせると、解禁諮問の9月28日から、解禁決定の10月17日までの、この3週間に事態が急速に動いたと考えるより、阿部が先に蒸気船購入を決め、幕府内部での調査やクルチウスへの相談などを行い、その総決算として諮問の形式をととのえ、解禁に踏み切ったと考えるほうが事実に合っていそうである。

【大型船の建造と購入】
 大型船を自ら建造するには時間がかかる。購入するほうがはるかに手っ取り早い。価格などの下調べを終えて、幕府の長崎会所の福田猶之進が、蒸気船の購入打診に再度オランダ商館へ出向いたのが11月2日、ちょうど長崎奉行がクルチウスと会談をしている時であった。
 前述の三奉行上申書にある、自ら西洋式の外洋帆船四隻を製造する案の技術的基盤は、200余年にわたる鎖国の間も、船大工らにより継承されていた。11月14日には柳之間詰(江戸城内で外様大名が詰める場所)の大名にも通達を出し、小藩にあっては無理に大船を製造しなくても良いと述べている。
 諸藩のなかでは、薩摩藩の造船計画がいちばん大規模である。1853年12月6日付けで老中に出された伺書によれば、大船を12隻製造するというもので、最大のものは長さ三○間・幅七間余・深さ五間余、大砲38門を備える大船である。換算すると約1400トンになり、ペリー艦隊の帆船より大きい。
 蒸気船も3隻建造するとあり、大きいものは長さ二五間・幅四間余・深さ二間余で、大砲12門を備える中型船、約1000トン規模に当たる。この伺書のなかで、異国船との区別に「白帆に朱の日之丸の御印」を付ける提案をしている。これを受けた老中決裁は、12隻の建造については伺い通り、帆印の件は趣旨は分かったが、追って伝えるとだけ答えている。

【江戸の風説】
 11月22日付けで徒目付と小人目付とが、「江戸の風説」と題する「調査」覚書を提出した。ペリー再来が近づいたと思われる頃である。ある種の不安が江戸を覆っている様子を、次のように描いている。
①_浅草あたりの武具師が繁盛している。太平の時代がつづき、武士は必要な武具の点検を怠り、
 ときには金に困って質に入れたりしていたところに黒船到来。大慌てで準備にかかった。
②_旗本が困窮し、内職でしのいでいる。旗本が5、6人の職人を抱え、あるいは三味線弾きや芸
者など景気の悪い者を雇い、武具修理の内職をしている。
③_具足類が不足すれば値段が上がるのは当然で、小間物屋に金一両二分で並べる者もいる。
買い揃えても、見掛けだけで役立たずの武具もある。
④_台場普請で雇用が増大、日銭が急騰して二倍になっている。職人たちには儲けの機会だが、
困るのは武士、とくに旗本など困窮する武士である。このため人心恟々としている。
⑤将軍の逝去・代替わりともからんで、合戦の噂がかなり浸透している。日本は神国だから、外
国の者たちがどのように押し寄せようとも、万一のときは昔のように神風が起こり追い払え
るという者もいるが、そう考える者はごく少ない。
⑥ 武家への拝借金を使い果たしてしまった不届者がいる一方で、調練場を拡げて訓練怠りなく、「治にいて乱を忘れず」の美風もある。
⑦ _どうせ帳消しになるからと、借財する者がいる。
⑧ _質入れしたものを戻すとき、大幅安で半値という状況もあり、米・油・薪などが急速に値上がりしている。値上がりと金融逼迫の原因は異国船の到来にあり、来春に再来し帰帆すれば、ようやく世上安穏になるといわれている。
⑨ _先月の10月15日、猿若町の三芝居の再開が決まった。中村座は鍋島騒動(狂言)の衣装などを揃えていたが、鍋島家から、上演すれば切り捨てるとの厳重抗議があり、町奉行も困りはて、結局、鍋島家から金千両の和解金提供を受けて出し物を変更し、二週間遅れの上演となった。
⑩ _吉原の営業停止がまだ解かれない。従業員が困窮し、廓の運営について協議を始めた。

要点10 仲介者としてのオランダ商館長クルチウス
 オランダは鎖国以後も親交を保った欧米諸国唯一の国で、長崎の出島に商館を置き、商館長を駐在させ、入港するオランダ船の貿易管理をしていた。オランダ商館長を日本ではカピタンとも呼んだ。一方の幕府も統制貿易のための会所を設け、諸大名を排除して、幕府による独占貿易(会所貿易)を行っていた。
 幕府側の責任者である長崎奉行は、カピタンを通じて、通商にとどまらず多くの海外情報を提供させてきた。また唐人屋敷に入る中国商船の舶来情報もきわめて貴重であった。長崎はオランダ情報と中国情報という、2種類の海外情報を入手する最重要基地であった。比喩的にいえば、幕府は2本の鋭いアンテナを長崎に立てていた。
 それにとどまらず、この時期になると、幕府がオランダ商館に期待したのは、幕府の政策を諸外国に伝達させる役割、つまり半ば外交的仲介者としての役割であった。オランダ側も、国際政治のなかで、日本の仲介者の役割を自覚的に模索し始めた。19世紀初頭には、東アジアの商権がオランダからイギリスに移っており、また日本開国の使節はアメリカやロシアから来た。オランダの立場は変わりつつあった。
 1852年7月21日に出島に来任したカピタンがドンケル=クルチウスである。彼を任命したのも、新情勢に対応するオランダ側の措置であった。クルチウスが提出したペリー来航の予告情報については、すでに見た。
 奉行の「御請」と、それにたいするクルチウスの「御答」という問答形式で、内容的には一種の対話とみてよい。いくつか重要と思われる点をみておこう。
奉行 日本の患を除くために穏やかな方法で対処すべしと、昨年の書簡にあるが、それはどのようなことか?
クルチウス 外国では最近、航海が盛んになり、カリフォルニアより中国、あるいはロシアのカムチャツカなどへの航路上に日本があるため、在米大使からの報告によれば、アメリカは日本に石炭置き場を設けたいと考えている。諸国のうちアメリカが第一番に実現を望んでいる。
 その要望を一切無視して考慮しない場合、ついには戦争になりかねない。しかしながら、御国法をただちに改める訳にはいかないだろうから、制限を緩めることが日本の安全の計策だと考える。
奉行 日本の法度に抵触しない安全の策というのは、どのようなものか?
クルチウス 外国の考えは、外国船にたいして日本人と同様の計らいが欲しいということだが、これは日本の国法に適わないから、オランダ人や中国人への対応と同様に、場所を限定すれば良い。
 清朝では、外国人を一切拒絶したために戦争となり、その結果、広東など五港を外国人が勝手に出入りできるものとした。このように戦争になっては面白からず、そうならないための安全の策を講じるように。

【貿易は有害無益】
奉_行 もともと日本は小国で人口が多いため、土地の産物も国民が使うには不足しないが、外国に渡す余剰はない。外国と交易することで「自国の用を欠き」、百年もつはずのものも50年で尽きてしまう。外国との通商は利なく、生民を煩わすだけであり、旧来の法を変更すれば、自ら国家の弊を招くことになろう。したがって、どの国からの通商願いといえども免じ難い。
ク_ルチウス 200年来の御法のことは、私どもが申しあげることではない。しかし近年の時勢の変化からみて、このままでは済まされまい。外国も、もともとは御国と同様であったが、積年の錬磨により、次第に国法を改め、富福強盛となったもので、イギリス、フランス、ロシア、オランダなども同様である。一挙に国を開くのは無理だから、試みに一港を開くのはいかがか。国法の変更という問題では、その開いた港だけに限定して通商するのであれば、変更の必要はないはずである。
奉_行 外国においては不足を助けて余剰を当て、互いに国の利益を補うというが、わが国では生民日用の品は自然と備わり、不足品がない。他国との交易で、かえって品物が不足となってしまう。井戸のように、一家用のものを隣近所が一斉に使うと、水が涸れてしまう。試みに交易するという方法では、永続する見込みがないと知りながら行うことになる。産物が減るため、唐蘭との交易もついには絶えるであろう。
 過去の経験でも、唐蘭の他に広く外国と通商しつつ、国内では国政も一致せず、戦争に明け暮れ、商工業も振るわず、それに乗じて各国からの奸商が密かに利益をむさぼった。この経験から、通商を広く許せば乱世の法に復すことになろう。外国側も、この意を察して得失を熟慮されたい。
ク_ルチウス 広く諸外国と通商していたのを、唐蘭に限定するようになったとの経過、その国法の趣旨はよく理解できるが、いま外国との通商を開けば、唐蘭との交易品とは違う新たな品がある。日本には有余の品がないというが、御政府の取り扱わない品々で、商人が取り扱うものが沢山ある。また飢餓のときなどには、外国から米穀などを取り寄せることもできる。
 中国の場合、茶は払底していたが、外国との取引きが盛んになるにともない、荒野を拓き栽培をすすめ、国中の茶が潤沢になり、その他の産物も増えた。総じて、貴方の述べたことは私の考えとまったく相違する。
奉_行 米国より貴国に最肝要のこととして伝わったことを、すべてカピタンは御存じか?
ク_ルチウス 私見を言えば、米国が第1に望んでいるのは石炭置場、船の修理場、第2に通商のことだと思う。
奉_行 これまで述べてきたとおり、国法を崩すわけにはいかず、上下共に偏固の人情であり、外国と通商しないでも充分に足りている。新規の事をして民の煩いを求めることがあろうか。
クルチウス 患難、法を犯すという諺がある。ときには変更すべきものもある。
奉行 そのうちで主なものは何か?
ク_ルチウス アメリカが日本から石炭を購入し、それを囲い置き、必要なとき自由にその場に出入りできることであろう。
奉行 石炭のみというのなら、叶えることができる。
ク_ルチウス 貴方とアメリカとの交渉で、はたして石炭問題だけで済むか否かは、自分には見通せない。
奉_行 中国の例をひいて、茶の栽培が増加、貿易が増加したとの話であったが、中国や諸外国では荒野・砂漠の地が多いから、開墾し、栽培を進めることができる。日本は国が狭く、人多く、すでに開墾すべき土地は開墾しつくし、ここ長崎でも山上まで畑にしている。これ以上の開墾はできない。また凶作の年に穀物を外国から取寄せる話であるが、民生と交易の利とは自ずと性質が違う。その意味でも交易は日本に益がない。
ク_ルチウス そのような意見は外国人には通用しない。蒸気船の往来が増えた現在、石炭置場、難風の時の寄港地、薪水食料、船舶の修理などの要望を拒否すれば、戦争となる憂いは免れ難い。これを我が国王は、もっとも懸念している。
奉行 難風に遭って破船した場合、これを救うことは、これまでと同様にする。しかし修理のため、あるいは石炭置場用に提供できる地所は一切ない。国土が狭く、外国に土地を貸せば、その分だけ用を欠くことになる。

【オランダを介してアメリカへ意見を】
奉_行 我が国の意志を無視して自分の利益のみを考え、ついには戦争に及ぶというなら、我が国は、「甘んじて戦争に及ぶべし」と思う。自国さえ利あれば、他国に害あっても構わないという主意であろうか。
ク_ルチウス 外国政府の意図は何とも言えない。我が国王の趣意は、日本の「永々御安寧」を遠くから察することである。
奉_行 戦争にいたれば互いに生民を殺傷し、益がない。これは通航の本意に反することにならないか。国法を改めるには諸侯の評議が必要なこと、ならびに将軍の逝去のことなどを、貴国を通じてアメリカに伝達したい。またこのような状況だから、今の段階でアメリカが来ても、充分に対応できない。
ク_ルチウス 諸侯の評議と将軍の喪中・継承問題は、大変な時間と労力を要することと思う。アメリカ使節の再来を中止するよう、オランダ本国からアメリカに伝達するにも、たいへんな距離であり、間に合うか懸念している。
 奉行とクルチウスとの対話は以上で終わる。アメリカに伝達してほしいという幕府の依頼は、もちろん時間的に間に合わない。オランダ船は、季節風を利用するため、秋(旧暦の九月二十日)には日本を離れなければならない。11月に入ってからの依頼では、翌年の入港船に書簡を運ばせることになり、バタビアからシンガポール経由、香港でアメリカに渡すことになろう。通常どおりであれば、翌1854年の夏以降にアメリカに伝わることになる。
 この会談によって、アメリカの狙いなどがはっきりした面もある。内容はすぐ江戸へ送られた。

【オランダに蒸気船購入の要請】
 この対話と同じ時期、すなわち第2日目の11月2日から5日にかけて、長崎会所調所の福田猶之進がクルチウスを訪ね、蒸気船と帆船を数隻注文している。大船の解禁はすでに決定済であるが、自ら建造するにしてもモデルが必要である。建造か、購入か、両者併用か。両様に利用可能な方針で軍艦購入に踏み切った。
この問題に関するクルチウスの返答は次のとおりである。
① _注文から往復航路の日数を入れて合計15ヵ月が必要だから、再来年には間に合う。
②_鉄製の蒸気船の価格は一隻が2080貫目、帆船の軍艦は見積りが難しいが、1隻で約1300貫目、合計3400貫目ほどで、5万6600両余に相当する。代金は銅ほか諸品を当てることができるが、銀より金と銅が良い。
 幕府が購入を希望した船の規模と装置は、蒸気船が1隻(400トン、乗組員数が約30人、大砲6門)、帆船軍艦は1600トン級の大型船、800トン級の中型船、400トン級の小型船の各1隻の、計3隻である。価格は比較しようがないから、言い値だったかもしれない。
 この時期におけるオランダという国との親交が、きわめて大きな意味を持っていたことが分かる。

要点10 ペリー艦隊の7ヵ月
 夏の10日間の訪日を終え日本を離れたペリー艦隊は、活動の場を中国沿海に移した。中国情勢が急展開していた。清朝に対抗する太平天国と、その一派の小刀会が上海を占拠し、在留アメリカ人の諸権益と衝突しかねない状況にあった。
 中国の政情不安はつづいており、マーシャルとの論争にも、まだ決着が付いていない。ペリーは、上海在住のアメリカ人居留民保護を否定することはできず、また否定するつもりもなかったが、同時にまた、第2回の訪日を少しでも早く実現したいと望んでいた。そこでマーシャルと意見交換しつつ、上海問題を先に解決しようと考えた。
 第1回訪日後の1853年7月から翌1854年2月の第2回訪日までの7ヵ月間、ペリーが中国沿海において対処してきた諸課題をみておきたい。日本滞在の約4ヵ月より長い。
後の公式報告書『遠征記』には、この問題はほとんど触れられていないが、ペリーの海軍長官宛の報告には大きな問題として言及されており、彼の対日行動を考えるには、きわめて大切である。
 第1が、アメリカの在華機構に関することで、ペリーとマーシャルの確執を考えるには、その前提となる組織・機構・権限の解析が必要になる。日本の外務省にあたるアメリカ国務省の諸機構がどのような仕組みになっていたか。そして海軍省(東インド艦隊)と国務省との関係である。
 第2が、大統領の交代に伴う問題である。ペリーは共和党系ホイッグ党のフィルモア大統領により任命されたが、出航の年の秋に大統領選挙があり、翌1853年3月、民主党のピアス大統領に交代した。政権交代により、交戦回避、「発砲厳禁」の指示がさらに強まった。
 第3が、現場におけるペリーとマーシャルの見解の相違と対立に関するものである。上海県城を占拠した小刀会や太平天国軍をどう評価すべきか、それが居留アメリカ人の保護問題にどう影響するか、これについても見解が対立した。

【貧弱なアメリカ外交網とそれを補う海軍】
 第1の問題、アメリカの対アジア政策の組織・機構である。当時のアメリカは新興国であり、超大国はイギリスであった。イギリスは東アジアに強力な外交機構を展開し、海軍も増強、また最強の通信手段である郵船網(P&O社)も樹立していた。アヘン戦争の戦果として割譲した香港島は、イギリスから見て最東に位置する植民地である。これが貿易を支え、世界制覇に不可欠の道具となった。
 東アジアにおけるイギリス在外公館の職員は、1847年の段階で、香港植民地に香港総督をはじめ283人(うち警察官が最多で155人)、上海ほかの5港開港地に領事ほか計49人がいた。
 それに対して新興国アメリカは、商人たちの貿易活動を軸に展開し始めたばかりで、外交網は貧弱だった。1845年、アメリカは世界に89人の領事を置いていたが、そのうちアジアに駐在するのは、カントン、シンガポール、マニラ、カルカッタの4港だけであった。
1853年にはかなり増強し、世界に170人の領事を置く体制をつくったが、このうち有給はわずかに10人、あとは無給の商人領事であった。商人領事とは、貿易商に領事職を委任する制度で、中国では上海、アモイ、それに香港の3港だけである。領事の主な業務は、在留アメリカ人の保護や関税業務などで、それ以上の外交権限はない。

【空席の弁務官】
 この体制では外交能力に限界があると考えたアメリカは、望厦条約(1844年)の批准書を交換するために、翌45年、初代の駐華弁務官エベレットを任命した。弁務官とは国務省の外交官で、公使待遇のポスト、領事より格上である。彼が病気のため途上のリオデジャネイロから帰国、その間、東インド艦隊司令長官ビッドルが代理を務めた。エベレットは翌年にカントンに着任したが、47年に客死した。人材不足のためか、空席期間が長い。
エベレットの次の2代目デービスの着任は1848年1月で約半年間の空席があり、退任は50年5月、3代目マーシャルの着任が53年1月、この間、じつに2年半の空席期間がある。
 アメリカ本国の国務省そのものが弱体であった。望厦条約の締結時に、国務省全体の職員数がわずか15名、その外交課は職員3名、このうちアジア担当は1人だけであった。1849年に総数24名、56年になって57名に増強されたが、それでもたいした数ではない。

【海軍と宣教師】
 この弱体な外交機能を補っていたのは、1つがアメリカ東インド艦隊、もう1つが宣教師であった。すでに見てきたとおり、1846年のビッドル浦賀来航、49年のグリン長崎来航、そしてペリー、いずれも東インド艦隊である。
 この時期の米英の宣教師はカトリックではなくプロテスタントで、大きな団体としてはロンドン宣教師協会とアメリカ対外布教協会がある。彼らは医学・工学・印刷や通訳・翻訳・出版など主に実践的な分野に携わっていた。
清朝中国が中国語しか使わせなかったため、アメリカ側には中国語通訳の養成が不可欠で、宣教師が主にその任にあたった。前述した月刊誌「Chinese Repository」や各種の英字新聞は、宣教師たちのネットワークで得た情報を分析して掲載、世論形成の媒体となっていた。
 著名な宣教師には、イギリス人のロバート・モリソン(1815年から刊行を始めた世界最初の英華・華英辞典の著者)や、アメリカ人ブリッジマン(ペリーが日本情報の種本と考えたシーボルト『日本』を英訳し、望厦条約の通訳も務めた)がいる。ペリーの通訳として来日したウィリアムズ、イギリス香港総督の中国語通訳官ギュツラフも、みな宣教師である。

【ペリーとマーシャルの確執】
 ペリーがアメリカから4ヵ月半かかって香港に到着してみると、先発の蒸気軍艦サスケハナ号はおらず、マーシャルが乗って上海へ行っていた(前述)。太平天国軍の勢いが上海に及ぶのを危惧して、上海在住のアメリカ貿易商がマーシャルに嘆願書を提出、「危機にさらされているアメリカ人の財産は、100万ドルから120万ドルにのぼり、この財産保護を強く要請する」と述べたためである。
 100万ドル余りの資産とは、アメリカ貿易商の貿易品ストックを基準に算出されたもので、年間の米中貿易が約600百万ドルであるから、2ヵ月分に相当する。米中貿易におけるアメリカ側の輸出品は、アメリカ産の白綿布とトルコ産・ペルシャ産アヘンが主であり、主な輸入品は茶であった。太平天国は中国茶の産地を支配下に入れ、さらにアヘン貿易反対を掲げていた。
情勢によっては、アメリカ貿易商が大きな痛手をこうむる。

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ペリーはカントンでウィリアムズに通訳を要請し、説得を終えると、すぐに上海に直行、ミシシッピー号からサスケハナ号に移った。新しい旗艦で、ペリーはマーシャルからの書簡を入手し、彼が上記の嘆願書に基づいて行動したことを知る。
それに対する5月12日付けのペリーの返事がある。
「私自身で中国情勢を理解するよう努力し、私の全艦隊が他の場所でも必要になっている現在、そのうちの1隻を、一時的にも手放す必要が実際にあるかどうか、この点を決定したい。……これらの海域でアメリカ艦隊を私が指揮しているかぎり、私は中国におけるアメリカの利益と同時に、私の指揮下にある他の諸港にたいする義務をも遂行しなければならないことを了承されたい。とくに私の任務とされる重要な使節について了承されたい」
 ペリーは、このマーシャル宛書簡において、自分の役職名を自分で変更すると同時に、「他の場所」、「これらの海域」、「私の指揮下にある他の諸港にたいする義務」の表現で、中国沿海(とくに上海)と日本海域とを区別し、訪日の重要性を主張している。
マーシャルの返事は翌日付けである。
「日本遠征は、米中交渉の平和的・効果的成果を得た後の構想です。……アメリカ合衆国は、米中関係が将来において明白に確立されるまで、対日政策を修正することを望むでしょう。……現在、中国において亭受している諸利益に比べて、これに等しいものは、日本には何ひとつ期待できません。……私の着任の信任状を北京に直接手渡すため、白河河口〔北京から天津を通り渤海湾に注ぐ河の河口〕へ行くつもりです。軍艦を一隻、私の自由にさせてほしい」
 ペリーの返事は明白だった。「私の指揮下にある4隻の軍艦のうち1隻を貴官の言われるとおりに使用する正当な理由を見出すことができません」。こうしてペリーは上海を離れ、日本に向かい、6月2日付けで那覇からダビン海軍長官宛の報告第13号を書いている。
「5月26日、旗艦サスケハナ号とミシシッピー号、サラトガ号、サプライ号の4隻の編成となりました。プリマス号は上海に残しましたが、訪日までに合流できるよう期待しています。上海情勢から判断するかぎり、プリマス号を上海に残す必要はなさそうです。アメリカからの他の船を待って訪日するのが良いと考えないではありませんが、到着予定の船に関して、まだ情報がありません」
 ペリーは、訪日を2回に分ける方針を取り、第1回訪日に踏み切った。この報告が本省に着いたのが9月5日、約3ヵ月かかっている。中国からワシントンまでに要する通信時間は不規則であり、最速で1ヵ月、遅い場合は4ヵ月を要した。通常のルートはイギリスの蒸気郵船P&O社を使い、イギリスからワシントンへは別便を使っていた。
 このような通信事情から、本国の指示によらず、現場における国務省のマーシャル弁務官と海軍省のペリー司令長官とで、この大きな政策問題に決着をつけなければならなかった。訪日の時期、交渉内容、通訳の選定などは、全て海軍長官からペリーに一任されていた。現場指揮官の「大きな裁量権」を重視する体制である。

要点11 日本重視か中国重視か
現場指揮官の裁量権を誰が握るか、それがペリーとマーシャルの論争にほかならない。ペリーは第1回訪日を終え、1853年8月3日付けで、船上から海軍長官へ報告第17号を書いている。「満足のいく状況下で、将軍の第一長官と会うことができ、然るべき儀式のもとで大統領国書を渡しました」として、交渉経過を比較的詳しく書いている。
この報告が本省に着いたのが11月14日であった。
 海軍長官は返事のなかで、第1回訪日の成功を祝すと同時に、「貴官の使命は平和的交渉によるものである。日本人の性格からみて、我が国の偉大さと力を誇示する重要性があるとはいえ、自衛を除き、決して暴力に訴えてはならない。……宣戦布告の権限は議会のみが有しており、十二分の思慮分別が発揮されなければならない」と、あらためて念を押している。
ところが、これがペリーの手元に届いたのは、翌年の第2回訪日を終え、条約を締結した後の夏であった。

【中国情勢の判断】
 中国沿海に戻って最初のペリー本省宛報告第18号は、8月31日付けマカオ発である。カントン在住のアメリカ商人たちからの要請や、それにたいするペリーの返書などが添付されている。なお海軍長官が報告第18号、19号、20号を同時に受理したのが11月19日で、3ヵ月弱の時間を要した。
 この報告第18号のなかで、ペリーは幾つか重要な見解を表明している。①太平天国を革命主義者と呼んでいること、②彼らが外国人宣教師と密接な関係を持っていること、③彼らは弾圧するより和解すべき相手と考えること、④未確認情報によれば、彼ら革命軍はすでに北京を陥落したこと、⑤清朝が倒れる可能性もあるが、新しい安定政権が樹立されるまでには時間がかかるとみられること、等々を挙げた後、アメリカの取るべき政策を次のように述べる。
①_反乱に関して当面は静観する。
②_アヘン戦争の記憶が強く、イギリスよりアメリカの評判が良いことを活用する。
③_北京政府(清朝政府)に信任状を受理させるマーシャルの強行策は良くない。
③ _清朝と革命軍との内戦には、静観を守る「不介入政策」が最善である。
_したがって日本とその周辺諸国を、我らの商業世界に参入させることに最大限の精力を注ぐべきである。
 ペリーの主張は、ここで「日本重視論」へとさらに傾斜していった。これを補強するかのように、報告第20号(9月3日付け、マカオ)では、日本への航海を前提として艦船の状況を一覧している。サスケハナ号は良好、ミシシッピー号はカントンで在留アメリカ人の保護にあたっているが良好、新たに到着したポーハタン号はエンジンとボイラーの修理中で不良だが回復の可能性あり、到着したばかりのマケドニア号とバンダリア号は準備完了、上海警備中のサラトガ号は修理中、プリマス号、サプライ号、サザンプトン号はいずれも良好、と。

【第2回訪日の決意】
 そのうえでペリーは、全艦船を率いて第2回訪日を実行すると意思表明した。「この使命が成功するか否かの鍵は、日本政府にたいして、道義的影響を及ぼす手段にかかっています」と述べ、合意を引き出すまで3隻の蒸気船を維持し、それを支える石炭積載帆船を3隻同行させると伝え、要請したはずの2隻(バーモント号とアラガニー号)が来ないことに強い不満を述べている。
 次のペリー報告第21号(9月26日付け、マカオ発)は、上海が陥落したことを記したあと、「しかし、いかなる外国人の生命・財産も脅かされてはいません」と述べ、万一に備え、サラトガ号を上海に残していると付言している。そして、フランス政府が軍隊を日本に派遣するという間接情報を得ていること、ロシア艦隊が7月にカントンに寄港し、アメリカ領事にたいして協力を惜しまないと伝えた後、カムチャツカ方面へ去っていったこと、などに言及している。
 ペリーの「日本重視論」は、マーシャルの「中国重視論」を説得しきれたとはいえないものの、第2回訪日を急ぐ方向へと傾いていった。中国情勢はペリーの楽観論どおりか、それともマーシャルの言う危険論か、両者の論争はさらに激しさを増した。
マーシャルは9月22日付けのペリー宛書簡のなかで、国務省から「アメリカ人居留民の生命・財産・活動の保護こそ最重要の活動であり、……この重要目的に奉仕するのがアメリカ海軍の任務である」との指示が来ていることを述べ、中国各地の不安な政情を伝えている。
 条約締結というペリーの任務にたいして、必要な人員の配置はなかった。条約に精通した職員も付かず、通訳、科学者、書記などの人選もペリーに一任されたものの、そのための定員枠はなく、艦隊内部の職名を使い、安い給与で採用せざるをえなかった。
その分だけペリーは、海軍長官に「12隻からなる堂々たる艦隊」の編成を強く求めたが、実際には10隻にとどまった。1隻は上海に残し、第2回訪日には9隻であった。

【ペリーへの3通の政府指示】
 ここで改めて、ペリーの任務の内容とその範囲について、基幹となる点を再確認しておきたい。史料は3点、時間順に配列すると次のようになる。
A_「コンラッド国務副長官からケネディ海軍長官あて書簡(1852年11月5日)」
B_「アメリカ大統領から日本国皇帝あて国書(1852年11月13日 エベレット国務長官が代筆)」
C_「海軍長官ケネディからペリーへの指示(1852年11月13日)」
 このうちAは、ペリー出発前に「この遠征の諸目的」に関する大統領の指示を伝えたもので、六ページ程の長文である。1831年の日本船のオレゴン漂着からの日本交流史と、幕府の対外政策を概観した上で、ペリー派遣の3つの目的を挙げる。
ア)_日本列島に漂着、または悪天候により日本に入港したアメリカ人船員とその財産を保護するため、恒久的な取決めを結ぶこと。
イ)_アメリカ船の薪水・石炭などの補給、または海難船の修理のため、日本の一港あるいは複数港に入港する許可を得ること。とりわけ、石炭貯蔵所の確保が望ましい。本島での確保が無理な場合、多数あるといわれる無人島の一島を確保すること。
ウ)_荷物を売買ないしバーター(物々交換)する目的で、一ないし複数港に入港できる許可を得ること。
 この順番が優先順位を示すものであるとすれば、①漂流民救助、②避難港の確保、なかんずく石炭補給所の確保、③限定付きの通商港の確保となろう。
 さらに国際法の最恵国待遇に言及し、次の段落で、上記の目的を達成するための方法について、「過去の経験からして、力の誇示のない議論と説得では、彼らに通じないことは明らかである」と述べ、艦船を可能なかぎり奥深くまで進め、できれば皇帝自身と面談し、国書を手渡すよう指示している。次いで過去の日米交渉の事例を掲げた後、アメリカ政府が結んだ中国、シャム(タイ)、マスカットとの条約のコピーを添え、その一部を日本語に訳しておくよう指示している。

【発砲厳禁の大統領命令】
 つづけて言う。「以下の点に留意すべきである。大統領は宣戦布告の権限を有さないこと、使節は平和的な性格でなければならないこと、指揮下の艦船や乗組員を保護するための自衛、または司令長官や乗務員に加えられる暴力への応戦以外は、軍事力に訴えてはならないこと」、「誇り高く、報復的な性格の国民との交渉には、礼儀正しい懐柔策と同時に、断固とした態度で臨まなければならない」。
 これらの指示は、東インド艦隊司令長官宛とは思えないほど、高度な「外交的」内容である。正規の外交官でさえ対応に苦慮するに違いない。
 2つ目の指示Bは、日本側が受けとった大統領国書である。ペリー派遣目的について7項目を述べたあと、最後に、①親睦、②通商、③石炭などの補給、④アメリカ人漂流民の保護、の4つで締めくくる。
 3つ目の指示Cでは、条約の目的などには言及がない。予定艦船の名称と艦長名の一覧、「大きな裁量権」の付与を述べ、無人島の発見、1837年の米海軍法、艦隊乗組員の全記録は公的なものであり、海軍省の許可を得ずに公表できないと書かれている。
 以上3つの指示は、いずれもペリーが出国前に受けたもので、中国情勢の急展開や、マーシャル弁務官との論争は予定していない。ペリーが、日本との条約締結こそが自分の最大任務と判断したのは自然であろう。
 現場の中国で起きているマーシャルとの論争は、日本との条約締結という任務と、海軍司令長官としての通常の任務(とくに在留アメリカ人保護のための出動)の2つのうち、どちらを優先すべきかが争点であった。
一方のマーシャルは、その所轄範囲が中国のみであり、もっぱら中国政府に正式に着任信任状を受け取らせることと、中国在留アメリカ人の保護に関心があった。ペリーとマーシャルとの論争は、それぞれが与えられた任務の違いに起因している。

【ペリーが核心を突く】
 ペリーが本省宛に書いた報告第22号は11月9日付けで、発進地は同じマカオである。マーシャルとの往復書簡を添付し、「私の得ている情報によれば、在留外国人への危険はひどく誇張されたものであり、…中国では地方政府の混乱と交代はよくあること、それにもかかわらず、外国人とその財産が脅かされているという証拠はありません。反乱部隊はむしろ融和的であり、外国人を保護していると思われます」と述べた上で、次のように言う。
 「アメリカ、イギリスなどの商人の貿易のうち、大きな比重を占めている商品は密輸品であり、中国政府の法令と米中望厦条約に違反しています。海軍が自国商船の保護を行うとしても、積荷が合法商品か密輸品かの区別がつきません。……英仏のように、大使ほかの外交機構が整っているのなら別ですが、我がアメリカの場合、艦隊の司令長官はまったく無力です」
 ここでいう密輸品とはアヘンを指し、これが中国政府及び米中望厦条約の違反であると、ペリーは釘を刺した。さらにペリーは言う。
 「艦隊司令長官としての役目は、物資補給、石炭確保、航海のための準備、将兵の健康管理であり、事実、この霧の出る季節に多くの病人が出ており、死者も出ています。マーシャルの5月の要請に従っていたなら、私の第1回訪日もできなかったはずであり、今回も同じであれば、日本政府に約束した第2回訪日が危機に瀕します。……したがってレキシントン号が着き次第、私は琉球と日本へ向けて出発するつもりです。……日本にはアメリカ人の商人も外交官もいないため、彼らの介入に煩わされることなく、全精力を注ぐことができます。成功するか否か、全責任は私にあります」
 この11月9日付け本省宛ペリー報告22号がワシントンに着いたのは、報告25号と一緒の1854年1月13日であった。

【本省への頻繁な報告】
 マーシャルとの論争はまだ続いた。ペリーは11月20日にも報告第26号(同じくマカオ)を書き、自分とカントン在住アメリカ人商人との往復文書を付けているものの、日本への出港を躊躇した様子はまったくない。12月24日付けの報告第30号は香港発で、フランス軍艦とロシア軍艦の不審な動向に触れた後、イギリス香港総督ボナムと、小笠原諸島(ボーニン=無人諸島)の領有権問題や琉球に関して交渉したことに言及している。
 この間のペリーによる本省報告は通常より多い。年が変わった1854年1月2日付けの報告第31号(発進地は香港)は、ペリー自身も「多すぎるほどの報告で、お煩わせします」と書き始める。「同封のマーシャルからの書簡にあるとおり、彼は昨年5月の私の第1回訪日直前と同様に、今回もまた北京に信任状を渡すため協力を求めてきましたが、私は数日のうちに第2回訪日に向けて出発する予定です」。
 その1週間後の1月9日付け報告第33号は、「この紳士(マーシャルを指す)の要請がもたらす障害に関しては、ご承知のとおりと思いますが」と書き出し、「すでに日本への先遣船は出発しており、私自身も3日間のうちに琉球と日本へ向けて出発できるよう期待しています」と述べている。
 この報告に添付したマーシャルとの往復書簡は異例に長く、激しいやり取りが示されている。最大の争点は艦隊の配船問題である。政情不安の中国に蒸気船を残せと主張するマーシャルにたいして、ペリーは最大数の艦船を率いて第2回訪日を果したい、それが自分に課せられた任務であり、条約締結の要件であると強調する。

【本省へのペリーの最後通告】
 1854年1月14日付け報告(香港発、通番なし)で、ペリーは今日が第2回訪日のため「香港を出発する前夜」と書いている。本省指示(1853年10月28日付け)を昨晩受理したことに触れた後、マーシャルの後任として近く任命されるマクレーン弁務官のために蒸気船1隻を中国に残せとの指示にたいして、次のように言う。
 「この措置は、現段階では、きわめて不都合であり、私の計画を妨害するものです。……私が3の蒸気船を率いて訪日する意図をご了解ください。指令に服するのが私の義務ではありますが、こうしなければ私の使命が達成できません。3隻のうち1隻は、江戸湾において切り離してマカオに向かわせ、弁務官の使用に供すことにします。……この指令が私の期待を打ち砕くものであったと告白せざるを得ませんが、全力を尽くす所存です」
 ペリーの表現は相当に強い。反抗的とも取られかねない。しかし、日本重視か中国重視かという政治的判断は別として、艦隊の司令長官として出発準備を完了し、先遣隊を出した後に受けとった指示であり、いまさら変更はできないと書いたのも一理ある。こうしてマーシャルとの論争に決着をつけ、本省に「最後通告」を出して、やっと第2回訪日に踏みきった。

【遅れた本省指示】
 それにたいする海軍長官ドビンの返書(5月30日付け)は、ペリー見解を否定し、次のように述べている。
 「奄美大島の一島を領有できるかもしれないという貴官の示唆に当方は困惑している。この問題を大統領に示したが、この貴官の愛国的行為は評価するものの、これは議会承認事項であり、実行するつもりはない。……日本当局とは武力を用いずに合意し、領土を求めない健全な政策を取るよう努められたい。……弁務官に蒸気船1隻を使わせるという指示が、貴官の困惑と苦しみの原因になったことを遺憾に思う。これは当局の考えを超えたものである。弁務官の中国との交渉には、あらゆる便宜を供するべきである。貴官の艦船は、貴官の希望する数より少ないとはいえ、第1回訪日のときよりはるかに多い」
 海軍長官はペリーの主張を否定し、マーシャルの側に立った。ペリーの主張は本省に受け入れられなかった。しかし、ペリー報告が本省に着いたのは5月30日。すぐに海軍長官がこの返書を書いたが、日米和親条約は2ヵ月前の3月31日に調印を終えていた。

【ロシア使節に遅れてはならじ】
 ペリー艦隊の2度目の訪日は、1854年2月の厳冬期である。航海に最悪の季節にもかかわらず、予定を繰りあげてこの時期を選んだのは、ロシアのプチャーチンが2度目の訪日で条約締結を先行するかもしれない、との情報を上海で得たからである。
 ペリーとしては遅れるわけにいかなかった。是が非でも一番乗りを果たさなければならない。ロシアはペリー派遣を知って、すぐにプチャーチン派遣を決定した。いわばアメリカのコピーである。ペリーは焦った。国際法の「最恵国待遇」では、一番乗りの条約が最大の意味を持つ。
 プチャーチン2度目の長崎来航は1854年1月3日である。幕府の「ぶらかし外交」により何らの結論も得ず、2月5日に帰帆した。そのわずか3日後の2月8日、ペリー艦隊は7ヵ月ぶりに江戸湾に姿を現した。

12【図像】「ペリー艦隊2度目の来航」
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要点12 1854年のペリー再来
【幕府の人事異動】
 ペリー艦隊再来の1ヵ月ほど前、1854年1月13日、旧暦では暮れも押しつまった嘉永六年十二月十五日、浦賀奉行所に関連する大きな人事異動があった。将軍申渡しにより、江戸在勤の浦賀奉行・井戸弘道を大目付兼海防掛に任命、その後任として伊澤政義(美作守)を浦賀奉行に任命するという内容である。また同日付けの老中指示で、小普請方の黒川嘉兵衛を浦賀奉行所の支配組頭に任命した。
 老中申渡しは、「浦賀沖に異国船が渡来した場合は彼の地へ派遣する。即刻出張りもあるため、準備をしておくこと。応接法など全てを浦賀奉行と相談し、御国威を立て、後患なきよう厚く勘弁て取り計らうこと」とある。
 浦賀奉行は2名制で、1名が江戸城詰めで新任の伊澤政義、もう1名が浦賀在勤の戸田氏栄である。この浦賀奉行2人と上掲3名の計5名で異国船応接をすべしとする老中の指示である。後に応援掛筆頭となる林大学頭の名前は、まだ挙がっていない。

【江戸町名主への町奉行指示】
 1月25日、町奉行から江戸町名主へ指示が出された。
①_火元を厳重にする。
②_異国船渡来の際は、火消、抱え人足、店の人足は、家主とともに番屋に詰め、無宿者など乱暴に及ぶ者あれば取押さえて奉行所へ連行する。反抗する者は打ち殺しても構わない。
③_武家方の浪人体の者が町屋や番屋に来て難題を申す場合には、取押さえて奉行所へ連行。
④_以上の市中取締りは、外部へは洩らさぬよう内密にする。
⑤_異国船渡来で羽田沖合の固め(防備)が激しくなった場合、海岸付の町々の者は親類などを頼って立ち退く。
⑥_所縁の者がいない者は、馬喰町・小伝馬町の三ヶ所の旅人宿に集合する。立ち退きの際は、大道具の運搬は混雑の原因となるから止める。また日雇い人は、町所から飯を配給するから心配しないこと。
 寛政の改革で設置された「町法」がここに生きており、これをもってパニックを未然に防ぐ狙いである。
 ペリー艦隊が今度は江戸湾内海にまで入りこむと想定して、幕府はすでに品川沖に台場建設を進めていた。江戸市中の混乱を避けるために、想定される問題の拡がりは限りなく大きい。前代未聞の事態であり、どこに「万一の事態」が生じるか。そのうえ町奉行・井戸覚弘自身がアメリカ応接掛の一員に任命されたため、いつ浦賀出張りの命が下るか分からない。
 町奉行がアメリカ応援掛を兼務し、与力・同心を連れて赴任となれば、町奉行所はその穴を埋める必要が出る。1月30日、町奉行は応援依頼を老中に上申し、10人の人員が得られた。衣装は与力が「踏込」、同心は「役羽織」を着用することとした。従来とは違う組織が入りこむため、衣装で区別したのである。
 見回り場所は、芝、品川、築地、浜町、本所、深川、浅草、下谷、坂本、本郷、小石川、小日向、牛込、市ヶ谷、四ッ谷、赤坂、青山、麻布の計18町、いずれも沿岸の人口稠密の下町と街道沿いの武家屋敷、すなわち町奉行支配下の「墨引」線の内部である。

【座礁船の救出援助】
 厳冬期の1854年2月8日(嘉永七年正月十一日)、ペリー艦隊の第一陣が再来した。冷たい冬の大気が張りつめ、真っ白い雪をかぶった富士山は、「心地よい夏姿ではなく、衰えた荒涼たる陰鬱な姿」と艦隊員には映った。
浦賀奉行から老中への届けは8日の朝9時頃、伊豆沖に7隻ほどの異国船を見た、という漁師からの報告に基づいている。沿海の諸藩の報告では3隻とするものが多い。11日の浦賀奉行の老中届けでは、1隻が浦賀沖を通過して内海(観音崎と富津をむすぶ海防線の内側)まで入った、総数で10隻、うち「3艘は蒸気船」とある。情報は乱れるが、前年の4隻より多いことは確実となった。
 翌12日、情報を整理して、側衆(将軍秘書格で老中との取次ぎ役)へ出した老中書簡には、艦隊は全部で10隻、「船中の一同は穏やか」と記したうえ、三浦半島の長井村沖の亀木という磯根(海底が盛り上がっている場所)に1隻が乗り上げ座礁しており、その救助に奉行所の番船があたったほか、警備の彦根藩にも応援を求めたとある。
 13日の老中あて浦賀奉行届けには、「異人ども小船にてようやく引きおろし、無事であった」、アメリカ側に用事があれば手助けすると伝えると、「たいへん有難がり、格別の願いはない、風波が強いので明日にも浦賀に回るつもり」との返事があったと記している。
 奉行所と彦根藩による自発的な救助活動に、ペリー側も感謝の記述を残している。浦賀奉行所が座礁事件の第一報をペリー艦隊に通報、ペリー艦隊ではすぐにサザンプトン号(567トンの運送帆船)を救助に向かわせた。座礁したのはマケドニア号(1341トンの帆走軍艦)である。大砲やバラス(船体を安定させるために船底に積む瀝青炭)などを海中に投げこんで船体を浮かせるうちに、蒸気軍艦ミシシッピー号(1692トン)が到着、ロープで引き出した。
 日本側の救助活動を待たずに自力で処理はしたが、第一報を日本側から得たことについて、「サザンプトン号のボイル少佐は、鎌倉沖に2隻が到着、そのうち一隻が座礁との知らせを日本当局から受けると、サザンプトンのランチに2名の士官と必要な乗組員を乗せて派遣した」、「日本人はマケドニア号の座礁に気づいて、助力を申し入れてきた。これによって日本人の友好的な態度が見事に示された。彼らが援助の手を差しのべ……海浜に打ち上げられた瀝青炭入りの大樽を拾い上げ、労を惜しまず、20マイルも離れた艦隊にまで送り届けてくれた」と述べている。
 この段階では、ペリー艦隊は7隻である。横浜沖(小柴沖)に停泊、艦隊側はここをアメリカ停泊所と命名した。蒸気船は2隻から3隻に増えていた。新しく加わった蒸気軍艦はポーハタン号(2415トン)である。

【長期にわたる艦隊勤務】
 ペリーの航海生活は、アメリカ出港から数えて、すでに14ヵ月を越えていた。海軍勤務が40余年に及ぶ猛者とはいえ、まもなく還暦を迎える身である。疲労がたまり、寒さで持病のリューマチ(関節炎)が悪化した。
 帆船プリマス号とサラトガ号の乗組員はさらに長く、4年間も連続して艦隊勤務に就いていた。死者も病人も記録されている。前年11月のペリーの本省宛報告によれば、疲労による勤務解除者は、船長、外科医、パーサー各2名、士官3名、多数の水兵と海兵隊員にのぼる。
 こうした艦隊内部の過酷な状況をペリーは隠し、むしろ太平洋を横断して18日で来られるという机上計算を、あたかも事実のように誇張して日本側に伝えていた。

【アメリカ応接掛の任命】
 ペリー再来の約1ヵ月前、大目付に転出した井戸石見守、町奉行・井戸対馬守、鵜殿民部少輔の3名に、老中が浦賀出張りの準備を申し渡した。これら3名とともに、新任の浦賀奉行・伊澤政義がアメリカ応接に当たる体制になった。
 幕藩体制は、一方に御三家・御三卿など徳川将軍を支える新藩があり、次に譜代大名がおり、さらに外様大名がいる。老中を出す譜代大名は将軍家に近いが、大藩ではない。老中は、政治勢力として影響力を増してきた薩摩(鹿児島)など、外様の大藩を無視できない。
 そのうえ、幕府には条約交渉を担当する常設の専門部署がない。アメリカ応援掛の人事、それも首席人事が最重要になる。
 2月12日、江戸城の芙蓉之間(大目付、町奉行らの詰める間)において、阿部老中から、林大学頭(復斎)、浦賀奉行・井戸対馬守、目付・鵜殿、儒者・松崎満太郎の4名に羽織が渡された。浦賀出張りに伴う拝領物である。
 林に4、井戸に3、鵜殿に2、松崎に1と羽織の数に差があり、それが序例を示す。
 ここでアメリカ応接掛が正式に任命され、筆頭(首席)は林大学頭(復斎)となった。

11【図像】「日米トップの似顔絵 林大学頭とペリー」
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 この林大学頭とは、林羅山から数えて林家の第11代林復斎(ふくさい 韑 1801年生まれ)である。林述斎(1768〜1841年)の第6子で、昌平校(昌平黌、昌平坂学問所)の総数(塾頭)を兼ねる。兄の林大学頭壮軒(健)が4ヵ月前に逝去、家督を継いだばかりであった。
 これまで朝鮮通信使などの応接に当たってきたのも歴代の林大学頭であり、1844年のオランダ国王の親書にたいする返事を漢文で書いたのも林大学頭である。また寛政の改革により、1797年、旗本の養成機関となった昌平坂学問所を取りしきる役割も与えられていた。
 アメリカ応接掛の人脈をよく見ると、井戸石見守、伊澤、それに浦賀奉行から長崎奉行に転じた水野忠篤も昌平校の出身者であり、いずれも大学頭の薫陶を受けている。翌13日付けの老中達は、「明後日早朝、一同出立すること」と簡潔である。
 16日晩、林、井戸、鵜殿、松崎の4名が浦賀に着いた。

要点13 応接所をめぐる交渉
 一方、浦賀奉行所はペリー艦隊再来後すぐに2月13日から折衝を始めていた。浦賀奉行所側は主に新任の組頭・黒川嘉兵衛、ペリー側は主にアダムス中佐である。問題は応接の場所である。第1回の13日には、まだ林など正規の応接掛が浦賀に着いておらず、挨拶程度で終えた。
 翌17日朝、浦賀奉行所の役宅で、林ら一行に浦賀奉行・戸田氏栄を交え、5人で対応を協議した。その結果、黒川から艦隊に次のことを伝えることにした。応接掛が浦賀に到着したこと、浦賀の館浦に応接所を建てたことである。
 これにペリーの病気見舞いを添えた。艦内では「アダムスが対応、この提案を承服しなかった。なおペリーは体調が悪いのか顔を見せず、アダムスからの回答である」と林の「墨夷応接録」に書かれている。なお、墨夷の「墨」は「亜墨利加」の省略形で、アメリカは他に「亜米利加」「亜美理駕」(ペリー側の漢文表記)「弥利堅国」などと書かれている。

【日米双方の記録】
 この「墨夷応接録」は、林一人の記録というより、多数の部下に記録させたものを、彼の責任でまとめた公的記録に近い。ほとんど毎日の記録で、日米間の会話や激しい応酬についても記されている。以下、これを林メモと略記する。
 これに対応するペリー側の資料は、海軍長官への公的報告(米国議会文書 上院751-34所収)に詳しい。第2回来日の最初が3月20日と23日付けを合わせた報告第42号で、新しく旗艦としたポーハタン号上で書かれているが、それに交渉経緯を記すノートが添付されており、第43号(4月1日)、第50号(5月30日)、第52号(6月18日)に続く。これを本書ではペリー・ノートと略称する。
 報告第42号にあるペリー・ノートの記述は、レキシントン・バンダリア・マケドニアの3隻の帆走軍艦、サスケハナ・ポーハタン・ミシシッピーの3隻の蒸気軍艦の計6隻(もう1隻サザンプトン号は先着)が2月13日午後2時に浦賀沖に到着したとの記述から始まり、応接掛との往復文書などを収録、全27ページである。
 林メモとペリー・ノートなど双方の記録を対応させ、現存する交換文書などを使って、以下に交渉過程での応酬をみていこう。
 3回目の応接は翌18日、黒川を艦隊へ派遣、「艦隊が江戸へ行くことは我が国法に違反する。それ故に、応接役が浦賀まで貴方を出迎えたのであり、決して貴方を粗略に扱うものではない」と伝えさせた。ペリーの病気見舞いの新鮮な牡蠣や鶏卵などに謝辞はあったが、応接所に関しては何としても江戸で行なうと、アダムスは旧説を繰り返した。
 翌日また黒川を派遣、江戸での応接は国法に反する、と前日同様の主張をさせた。ついにアダムスが譲歩し、館浦(やかたうら)の応接所を検分することになった。

【祝砲と蒸気船への招待】
 ペリー側は硬軟まじえての攻勢に転じた。第1が祝砲を打つ件、第2が蒸気船への招待である。祝砲に関して林メモは、2月22日のワシントン誕生日に各艦船が15、17発ずつ祝砲を打つとの申し入れがあったので、浦々に触れを出したいと20日付けの上申で述べている。
 第2の蒸気船への招待は、20日付けの応接掛への手紙(漢文とオランダ語)にある。浦賀を拒否、江戸に乗り込むと述べ、「欧米では、元首の使節は首都でもてなすのが常識である。……貴国でそれができないのなら、江戸近くまで乗り入れる蒸気船に来訪され、仕掛けを見学されるよう」とあった。招待というより脅しに近い内容である。
 応接所の見聞に限定したアダムス一行の浦賀上陸は21日の予定だったが、風雨が強く延期、翌22日午前となった。一行は14名、応対は伊澤、鵜殿、松崎の3名である。
 まずは名刺を交換した。そのとき伊澤の扇子をたたむパチンという音に、アダムス一行は一瞬、腰のピストルに手をかけた。伊澤がおもむろに眼鏡を取出して悠然と名刺を眺めたので、アダムス一行も安堵したようである、と林メモに書かれている。
 アダムスが漢文の書簡を出したが、応接掛はとりあわず、使節全権が上陸してから林が正式に面談すると伝えた。応接は10時から2時頃まで、茶菓と酒とクネンボ(九年母、柑橘類)を出した。この日はワシントンの誕生日にあたり、通告どおり祝砲が鳴り響いた。祝砲とはいえ、轟音は腹にしみた。
 翌23日、黒川を艦隊に派遣してアダムスと協議させた。アダムスは館浦の応接所は狭すぎると納得せず、黒川は代わりに前年の久里浜を挙げたが、アダムスはこれも地勢が良くないとし、「いずれは江戸へ行く。だが金沢または金川(神奈川)あたりは良い場所と見受ける。そのあたりならば宜しくはないか」と答えた。
 帰りがけにアダムスは、香山栄左衛門宛の「横文字(オランダ語)の書状」を渡した。香山は前年の応接に当たった浦賀奉行所の筆頭与力である。内容は前年の経緯を述べたうえで、応接所の件で合意が得られないと苦情を伝え、あたかも香山に出てくるよう容請する内容である。

【応接場を横浜とすることで決着】
 アダムスが言ったとおり、ペリー艦隊の7隻は、大師河原から羽田沖まで深く進入した。ペリー・ノートには「脅しを実行に移すことにした」と書かれている。
 22日、品川宿から杉田村までの海岸付きの村々にたいして、異国船見物の舟出を禁じる通達を、武蔵下総代官が改めて出した。これを見ると、庶民の黒船見物は一向に衰えず、好奇心満々の様子である。祝砲の触れで、合戦になるまいと直感したこともあろう。
 23日、林ほか計6名の名前で、応接所については臨機応変に対処したいと老中へ上申した。翌24日にも応接掛は同様の趣旨の上申を出し、「私どもに任されたい」と述べている。
 24日、黒川とアダムスの対話。従来どおり黒川は浦賀を主張、アダムスは「それならば話し合いを止めざるを得ない。われわれは江戸へ乗り込み、談判する」と答えた。
 緊張のつづく応酬とは別に、この日、ペリーの病気見舞いとして、浦賀奉行からの贈呈品目録を渡した。大根800本、人参1500本、蜜柑10箱、鶏50羽、鶏卵1000個などとある。
 翌25日、林に江戸から急飛脚が届いた。「異船がおいおい江戸に乗り入れては失体になるので、金川駅(神奈川宿)にて応接して宜しい」との書状である。林は即決し、神奈川応接を老中へ上申した。ここに横浜応接が決まった。
 場所の名前は「神奈川」ではなく、「横浜表」の表現が多い。林メモでは「横浜」で通している。神奈川は東海道の宿場を指し、横浜表とは横浜村の海に面した場所を意味した(現在の横浜市関内地区)。横浜村は戸数わずか90ほどの村で、宿場の神奈川とは違い、これといった大きな建物があるわけではない。応接掛は神奈川宿の本陣を浦賀奉行所仮役所と決めた。神奈川宿本陣から横浜(村)まで海路では約一里(4キロ)だが、陸路では約二里(8キロ)ある。

13【図像】「ハイネのペリー横浜上陸の図」
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 アダムスからの香山宛書状を受けて、応接掛は香山を交渉陣に加えた。27日、香山を艦隊に派遣、「横浜案」を提示させ、アダムスの快諾を得た。検分の日を29日頃にすることまで話を詰めた。ペリー・ノートは、この10日間の役人の主張を「手のひらを返すように変更した、この人達の詐欺的な行為」と記している。
 機は熟しており、合意は一挙に進むように見えた。だが応接所の普請に手間取り、29日には完成せず検分は延期、日程も決まらなかった。29日、上海から帆船サラトガ号が到着、ここにペリー艦隊は計9隻になった。

14【図像】「香山栄左衛門がペリーを案内する」
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【ブキャナンが香山らを食事に誘う】
 3月1日、サスケハナ号艦長のブキャナンが香山ら日本人10人を招待、アメリカ側6人と一つのテーブルを囲んで食事を取った。艦上の日米間の会食はこれが初めてである。先月2三日の香山への手紙に応接掛が対応したのを受けて、ブキャナン艦長が半公的・半私的に企画したものであろう。
 この日、江戸から応接掛へ書簡が届いた。四人のうち二名を決め登城せよ、馬のままで良い、とある。これを受けて、林と井戸が2日未明に出発、江戸城の御用部屋に登った。同日、大小目付にたいする老中通達があり、陸海からの黒船見物が止まないことを指摘、艦隊への接近を改めて禁止した。
 3日にも林と井戸が登城、水戸の徳川斉昭や溜之間詰めの面々と話したと林メモにあるが、内容については記載がない。7日の応接掛宛の老中通達は「申し含めたとおり」応対するようとの指示である。これからすると、3日に老中から林へ、アメリカ応接にかかわる重要な指示が与えられたものと思われる。

新画像2 日米会談の間 手前右から林大学頭ほか幕府代表、対面の右端がペリー
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【軍艦増派の発言】
 応接掛は4日未明に江戸を出発、午前中に神奈川宿本陣へ戻った。3月5日、艦隊を訪れた黒川と香山にペリーは苛立っており、このとき、黒川に口頭で次のことを伝えたという。「条約の締結が受け入れられない場合、戦争になるかもしれない。当方は近海に50隻の軍艦を持たせてあり、カリフォルニアには50隻を用意しており、これら100隻は20日間で到着する」と。
 確かにペリーの発言として、林メモなど幕府側の記録にあり、通詞は第一級の森山である。聞き違えたとは考えられず、ニュアンスの差はあれ、発言は確かであろう。しかし、ペリー・ノートほかペリー側の公的文書や報告類、それにペリー個人日記にも、いっさい記されていない。
 アメリカ海軍全体を合わせても、合計100隻の艦船は持っていなかった。期待したほどに事態が進展せず、焦ったペリーの「大法螺」か「脅し」の類であろう。林メモでは、この発言に動じた様子はまったくない。

新画像3 中央に座して幕府(右側)とペリー(左側)の司会を務める森山栄之助。
力量の差がありすぎて退座するさいにポートマンが描いた絵。
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要点14 横浜村への招待
 横浜応接所は1週間遅れの3月6日に完成した。横浜応接を決めた2月26日から、わずか10日後である。前年の久里浜応接で使った木造平屋(8畳と12畳の玄関の間、それに15畳と21畳の饗応所)を移築し、その奥に8畳間の内座(密室)をつけ、さらに賄い所(調理場)や控室を増築した、計100畳の建物である。早朝に林ら応接掛が下見をして引き上げた後、午後にアダムスら30人が検分のために上陸した。
 3月7日、黒川と香山が艦隊を訪れ、翌8日の上陸の人数などを申し合わせた。ペリーからは将軍と林の紋所を見せて欲しいと要請があった。将軍の紋所については拒否、林の家紋は、羽織に付いているのを通詞の掘が示すと約束した。
 ペリー側から、この応接のために祝砲を打ちたいと提案があり、すぐに浦賀奉行所の浦触れが出された。8隻の艦船がいっせいに50発ほど打つが、「空砲だから少しも心配する必要がない」とある。老中から大小目付と町奉行への通達では「数発」となっており、「動揺してはいけない」とあった。同じ日、相撲年寄りから町奉行へ内密に「相撲差出」の上申があり、50人の力士名を挙げた後、米俵2俵(計120キロ)を抱える怪力の者であると述べている。

【初の横浜応接】
 いよいよ3月8日、横浜応接の日を迎えた。与力の香山、中島、それに通詞の掘らが艦隊まで迎えに行き、昼前に(ペリー・ノートでは午前11時半)ペリー一行が横浜村に上陸した。アメリカ側の記録には約500人とあるが、日本側の記録はペリー、アダムス……と実名をあげ、最後に総数446人と結ぶ。それぞれの士官がどの船に乗っているかまで詳細に記載している。
 ペリーにとっては、前年の夏に大統領国書を渡した久里浜についで2度目の、8ヵ月ぶりの日本上陸である。アメリカ側はここを条約館と呼んだ。大広間(15畳と21畳の饗応所)に通されたのは約30名、そこには林、井戸、伊澤、鵜殿、松崎の5名の応接掛が着席していた。応接掛筆頭の林がペリーと対面したのは、これが最初である。多勢の従者や番の与力・同心などの侍、通訳なども正座して侍していた。
 双方が着席し、林とペリーが挨拶を交わすと、ペリーが「本日の祝いとして日本『皇帝』(徳川将軍)に21発、応接掛に18発、それに初めての上陸を祝してさらに18発の祝砲を打ちたい」と述べ、祝砲が鳴り響いた。21発は最高の栄誉を示す祝砲数である。腹を揺さぶる轟音を、応接掛は黙して聞いていた。
 これからの交渉は書面で確認したいとペリー側から提案があり、さっそくペリーが林宛の書簡を渡した。書簡は1週間前の日付になっている。「昨年の来日からの考慮のすえ、いよいよ我が方との条約締結のときが来た」という趣旨である。
この1週間、ペリーは草案を渡す機会を待っていた。ペリーの記録には、この日が待ち切れず、業を煮やす様子が生々しく描かれている。
 書簡は漢文とオランダ語で書かれていた。漢文版では「亜美理駕合衆国特命欽差大臣専到日本国兼管本国師船現泊日本海提督彼理」と、ペリーの役職名の漢字33文字が並ぶ。
 漢文版には「和約通商一事」を結びたいとあり、オランダ語版の訳では「和親取結び」たいとある。漢文版は通商を含んでいるが、オランダ語版は和親だけである。両者の相違からすると、条約内容を和親にとどめるか、通商を含むのかは、ペリー側ではまだ曖昧である。
 この交渉はきわめて重要であった。ペリー側が会談の中断を求め、幕で仕切られた別室で確認文書を作成するなど、相当の時間を要した。漢文とオランダ語の文書で確認したものは、その和訳と英訳が残っている。林メモとペリー・ノートを使い、文書をもとにして、双方全権の応酬を再現してみよう。

【艦隊員の埋葬】
 大学頭が口火を切った。
「昨年夏の貴国大統領書簡で要望されたもののうち、薪水食料と石炭の供与は差し支えない。また漂流民救助の件も我が国法にあるとおりである。以上の二条は了承するが、交易(貿易)等の件は承諾しかねる」
 ペリーはこれに答えず、別件を切り出した。
 「我がミシシッピー号の乗組員が一人、病死した。海軍の慣例では、その地で当方の事由に埋葬するが、貴国には厳しい国法があるようなので伺いたい。地形などから考えて夏島〔加藤注 ペリー艦隊は国務長官の名を取りウェブスター島と命名していた〕をと思うが、ご承諾願いたい」
 応接掛は相談のため別室へ行き、やがて戻って来ると、林が言った。
 「はるばる来られたうえの病死、不憫に思う。軽輩とはいえ人命に軽重はない。日本では寺に葬るのが常であり、いずれの国の人であっても(夏島のような)無人の地に葬るのは不憫である。浦賀の灯明台の下はいかがか」
 ペリー「ここから浦賀に送るのは不都合で手間取る。今回の協議により、どこかの港にアメリカ人の滞在が可能となるはず、そのつど浦賀まで行くのは大変である」
 林「浦賀には外国船は入れないので、墓参が必要になれば、そのときに改葬されてはどうか」
 ペリー「ありがたいご配慮、都合により改葬するのも良い。なにとぞお願いする」

【林大学頭とペリーの応酬】
 ここでペリーは話題を変えた。
 「我が国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交のない国の漂流民でも救助し手厚く扱ってきた。しかしながら貴国は人命を尊重せず、日本近海で難破船を救助せず、海岸近くに寄ると発砲し、また日本へ漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国人民を我が国人民が救助して送還しようにも受け取らない。自国人民をも見捨てるようにみえる。いかにも道義に反する行為である」
 ペリーはつづける。
 「我が国のカリフォルニアは、太平洋をはさんで日本国と相対している。これから往来する船はいっそう増えるはずである。貴国の国政が今のままであっては困る。多くの人命にかかわることであり、放置できない。国政を改めないならば国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する準備を整えている。我が国は隣国のメキシコと戦争をし、国都まで攻め取った。事と次第によっては貴国も同じようなことになりかねない」
 今度は林が反論の口火を切った。 
 「戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言うことは事実に反することが多い。伝聞の誤りにより、そのように思いこんでおられるようである。我が国は外国との交渉がないため、外国側で我が国の政治に疎いのはやむをえないが、我が国の政治は決して反道義的なものではない。我が国の人命尊重は世界に誇るべきものがある。
 この三百年にわたって太平の時代がつづいたのも、人命尊重のためである。第2に、大洋で外国船の救助ができなかったのは、大船の建造を禁止してきたためである。第3に、他国の船が我が国近辺で難破した場合、必要な薪水食料に十分の手当てをしてきた。他国の船を救助しないというのは事実に反し、漂着民を罪人同様に扱うというのも誤りである。漂着民は手厚く保護し、長崎に護送、オランダカピタンを通じて送還している。
 貴国民の場合も、すでに措置を講じて送還ずみである。不善の者が国法を犯した場合はしばらく拘留し、送還後にその国で処置するようにしている。貴官が我が国の現状を良く考えれば疑念も氷解する。積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない。とくと考えられたい」
 しばらく考えてペリーが答えた。
「薪水食料と他国船の救助をなされるとのこと、よく分かった。我が国の船が貴国海浜に至り、薪水を得られず困ったことがあったが、国政を現在のように改めたとのこと、今後も薪水食料石炭の供与と難破船救助を堅持されるならば結構である」
 ペリーは自説を取り下げた。林の冷静な反論により、ペリーの「戦争」の脅しは通用しなかった。

【通商の可否をめぐって】
 つづけてペリーが言う。
 「では、交易の件は、なぜ承知されないのか。そもそも交易とは有無を通じ、大いに利益のあること、最近はどの国も交易が盛んである。それにより諸国が富強になっている。貴国も交易を開けば国益にかなう。ぜひともそうされたい」
 林が反論に転じた。
 「交易が有無を通じ国益にかなうと言われたが、日本国においては自国の産物で十分に足りており、外国の品がなくても少しも事欠かない。したがって交易を開くことはできない。先に貴官は、第一に人命の尊重と船の救助と申された。それが実現すれば貴官の目的は達成されるはずである。交易は人命と関係ないではないか」
 林の反論にペリーはしばらく沈黙、別室で考えた末に答えた。
 「もっともである。来航の目的は申したとおり、人命尊重と難破船救助が最重要である。交易は国益にかなうが、確かに人命とは関係がない。交易の件は強いて主張しない」
 林の反論に、ペリーは「通商」要求も取り下げた。

要点15 条約内容の焦点
 なぜペリーは通商要求を取り下げたのか。その原因はペリー自身の混乱にあったと言うべきであろう。
 ペリーが得た政府指示は、前述のとおり3つあった。幕府が受理したのは、B「アメリカ大統領から日本国皇帝あて国書」だけである。これは条約締結の目的に関して必ずしも明快ではない。7項目を挙げ、最後に「ペリー派遣の目的は、親睦、通商、石炭等の補給、アメリカ人漂流民保護の4つにある」と締めくくり、通商が2番目に来ている。応接掛はこれを基本に妥協の限界を考えていた。
 そこにペリーが順序を変えて、論旨明瞭なA「コンラッド国務副長官からケネディ海軍長官あて書簡」に依拠し、その順番通りに主張してきた。すなわち①漂流民と難破船の救助・保護、②避難港と石炭補給所の確保、③通商の3点であり、通商は最後である。
 このペリーの主張にたいして、応接掛はBをベースに検討してきた結果、①の漂流民と難破船の救助・保護については実行ずみであると反論した。②の石炭供給は承諾するものの、避難港をどうするか、どの港にするかが、これからの大きな交渉題目と考えた。そして最後の③通商は拒否する、これが応接掛の方針であった。
 ペリーはこの会談において③通商の主張を撤回することに同意した。残るは②の避難港の数と場所、そこでの諸権利だけとなる。この日の対話は、ここで終った。
 そこでペリーが、懐から冊子を出しかけては納め、躊躇する仕草を3回ほど繰り返した後、おもむろに取りだして言った。「これは清国とアメリカ合衆国との交易(通商)を定めた条約書である。交易は、このように公平なものであることを示すために持参した。先刻のとおり、交易の件は主張しないため不要であろうが、せっかく持参したのでご覧いただきたい」。
 林は「先ほど申したとおり、交易の件は承諾できないが、条約書をご覧との申し出、断る理由はないので拝読する」と受けとった。

【昼食の用意】
 幕府は昼食に300人前の献立を用意した。林は退席し、井戸、伊澤、鵜殿、松崎がともに会食した。めいめいの膳には、酒と吸い物(松葉スルメ、長芋、サザエ、車海老、白魚……と50種類ほど)併せて二汁五菜。それからが本膳で、一の膳、二の膳とつづき、全てを合わせて百種類をゆうに越えた。最後が菓子で、海老糖などの名がある。相当の量で、それに酒が入れば、しばし頭は働かないはずである。もっともペリー側には物足りなかったという記述もある。
 この正餐は幕府御用達の料理屋百川が請け負った。百川は江戸日本橋浮世小路にあり、この2ヵ月後の5月に、江戸でテーブル料理を初めて出した料理屋である。記録は各種異なり、浦賀宮ノ下の岩井屋(百川で修行した後に開業)が請けたとする説もある。地の利から見て、百川から岩井屋へと回されたとも考えられる。
 遅い昼食後、中座していた林が戻り、挨拶を交わして終わった。ペリー一行は3時頃、艦隊へ引き上げた。

【内容とタイトルの不一致】
 アメリカ条約草案もやはり漢文で書かれており、オランダ語の訳文がついていた。この漢文版は、「誠実永遠友睦之条約及太平和好貿易之章程」の締結が目的とある。漢文の和訳では「誠実を以て永遠に友睦せんとする所之約条、及び太平にして和好交易せんとする所の章程」であり、英文ではTreaty of Peace, Amity and Commerce である。平和・親睦・通商の三つを含む包括的な条約案であり、望厦条約(1844年の米清条約)の踏襲である。国名の漢訳を「大清国」から「日本国」へ、「大合衆国」から「合衆国」に変える程度の変更である。
 幕府はただちにアメリカ条約草案の検討を始めた。参考としてペリーが渡した望厦条約漢文版との比較検討を行った。一時一句、漏らさず点検した。さして時間はかからなかった。望厦条約の34条にたいし、アメリカ草案は不要な部分を削除した24条である。望厦条約の縮小版がアメリカ草案であるとの結論はすぐに出た。応接掛の文書処理技術と論理の運びは明快であり、また迅速であった。
 ペリーは、通商(交易)の件は主張しないと、応接の場で発言したばかりである。この草案は応接前に準備したものだが、既に「通商」と「開港」に関する部分は削除してあった。34条を24条に縮小した論理は、「通商」と「開港」にともなう税則、関税率、港の使用にかんする部分を削除した結果であることが、すぐに判明した。
 ところが、削除したにもかかわらず、タイトルには「通商」が残っている。タイトルと内容が一致しない。これは致命的な欠陥である。本文の削除内容から判断すれば、タイトルが誤りで本文が正解にちがいない。明らかな記録を残していないが、点検の跡を見るかぎり、応接掛はアメリカ草案の矛盾を、タイトルと内容の不一致に見出した。

【米清望厦条約とは?】
 米清望厦条約はアメリカがアジア諸国と締結した最新の条約である。それに依拠することで、ペリーは自らの条約草案に正統性を与えようと考えた。ペリーを任命した政府が、この条約をペリーに持たせたことから見ると、これはアメリカ政府の方針であった。
 望厦条約(1844年)とは何か。イギリスが清朝と結んだ南京条約(1842年)と翌年の追加条約の2つの先行条約にたいして、アメリカが最恵国待遇(条項)を主張して清朝と締結した条約である。アメリカ全権は法律家カシング、優れた条約との評判を得ている。すくなくとも列強側の国際法という観念からみると、アメリカはアヘン戦争に参戦せず、イギリスが結んだ南京条約を継承し、最恵国待遇(条項)を確立した功績がある。
 条約の締結権は大統領にあるが、議会の批准を得て両国間で批准書を交換してはじめて発効する。上院の批准を考えれば、行政府としては著名な先行条約を根拠として条約作成をするのが合理的な選択である。

【アメリカ草案の不明な点】
 アメリカ条約草案で不明な点は、望厦条約で「五港」とあるのを、「其港」として残している点である。どの港を開くかは、まさにこれからの交渉事項であり、「其港」があるのはおかしい。「通商」の取決めがあって初めて「開港」であり「其港」が出てくるはずのところへ、なぜ「其港」が残るのか。応接掛は草案の矛盾をここにも見いだした。
 もう一つ、当時の国際関係のなかで、きわめて大きい課題の一つが密貿易(密輸)に関する条項である。アメリカ草案の第3条「居留・貿易の権利」の第2項「密貿易の禁止」に書かれている「密貿易」とは、アヘン密貿易を意味する。
 アメリカはアヘン禁輸を中国にたいして主張、イギリスとは反対の立場をとり、アヘン禁輸条項を望厦条約に盛り込んだ。それを削除せず、そのまま残した。アヘン禁輸は当時のアメリカの外交政策であったが、それに違反するアメリカ人貿易商も多かった。ペリー個人はアヘン貿易禁止に強い信念を持っていた。
 アメリカの条約草案の点検が終わった。草案の構造が判明し、矛盾や弱点も分かった。しかし、応接掛は草案に直接には答えないという態度を取り、幕府独自の草案作成に取りかかった。

要点16 土産の交換
 3月8日の横浜応接で一つの山場を越えた。その結果、最後には論点の整理ができた。最大の争点である貿易の件はペリーが取り下げ、姿を消した。交渉の焦点は通商条約ではなくなり、
①薪水・食料・石炭の供与
② 難破船修理のための避難港の開港
③これら2つに関連する諸問題
の3点に絞られそうである。しかし、油断は許されない。
 対話の最中に中座して書かせたオランダ語文をペリーが応接掛に渡した。それは通商に言及せず、両国が「懇切の儀に至」ったことは大慶と述べ、それをもって戦争を防ぎ、両国の安寧を図り、西域諸国との「和親」の範となるとしたうえで、①食料・薪水の供給(代金は支払うと付言)、②乗組員の上陸などを主張する内容であった。
 ペリーは主張を大幅に後退させた印象を受ける。
 翌9日、応接掛が書簡をペリーへ渡した。それには、①石炭・薪水・食料の供給と②難破船と漂流民の救助は承諾するが、③避難港の開港に関しては5年間の猶予期間を置く、それまでの間は長崎を当てる、とある。
 3月13日、艦隊へ派遣した通詞を通じて、ペリー側からアメリカ国の土産を献上したいと提案があり、陸揚げは13日ではどうかと言う。
 11日、応接掛へ書簡が来た。2日本側が外国にたいする旧来の態度を変え、合衆国とも新たな関係を持つ用意があるのは大変に喜ばしい」と前置きし、しかし、とつづける。
「過日、受理した応接掛の返事は承服できない。漂流民の救助や欠乏品の供与は結構であるが、本来の趣旨が理解されていないようである」としたうえで、開港と条約締結の必要性を強調し、それも来年とか5年先ではなく、たった今、この場で条約を結びたいとの主張である。

【農具と種子】
 この2日後の13日、ペリーから書簡が来た。大統領の命により運んできた土産の品々をここで贈呈したい。「最近は情勢が急速に変わり、発明が続々と生まれている。アメリカの学士と職人が作製した最先端の産物を贈り、その使用法について伝授したい」とあった。

新画像4 土産の蒸気機関車を走らせる準備
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 同封の献上品目録も漢文で書かれ、最初に「君主」に献上する品として、「小火輪車格式、連煤炭架連路全副」とあり、和訳では「雛形 蒸気車 壱揃」となっている。SLの4分の1のモデルである。これを皮切りに献上品は全部で140にのぼった。「君主」に38品、「皇后」に33品、続いて林に12品、その次に阿部老中に12品とある。アメリカ側の判断では林のほうが上、老中が下という序列意識だったのか、それとも単純ミスであろうか。
 つづけて六本歯の鋤(表土をならす道具)や牛馬牽引の犂(農地を耕す道具)など、農具の献上品は55品が一覧され、蔬菜の種子は48品が一覧されている。アメリカは現在でもそうだが、当時も農業の先進国であった。その最先端の農具と種子(いまの言葉ではバイオ・テクノロジー)である。幕府の役人には農具や種子の判別が付かなかったらしく、その鑑定は、洋学者で韮山代官の江川英龍に任せた。
 アメリカ側は、贈呈には返礼が当然と考えたのか、所望する品の目録を応接掛に渡した。大統領執務室の、広さ50フィート×40フィートほどに置く漆塗りの簞笥やテーブルなどを挙げ、さらに植物や種子類、27フィートの和船を1隻、軍艦の雛形、それに諸品の見本(加工していない種子など)などと記している。長い期間の鎖国により雑種交配が少なく、植物学の観点からも貴重なものがあると、植物愛好家のペリーは考えていた。
 土産の陸揚げの指揮をとったのはアボットとリーの2名で、ペリーもアダムスも来なかった。これを見た林は、8日の応接のようにペリーとアダムスが姿を見せるときはアボットとリーが艦隊に残るところから、アボットはペリーと同じ位階で、もしペリーらを我が方が「討ち取った」場合には、アボットが代わりに指揮を取る体制になっているのではないか、と林メモに記している。なかなかの観察眼で、アメリカ側資料ではペリーの代理をアボットとしている。
 アメリカからの土産を受けた翌14日、幕府からもアメリカへ贈り物が渡された。贈呈には贈呈で答える。コメや酒などの品々である。贈呈品を取りに来いというわけにはいかない。こちらから艦隊まで届ける。その贈り方を応接掛は考えた。
 搬入には力士を当てることにした。1俵が60キロ、その俵を片手で2つ肩にかつぎ、もう2俵を小脇に抱え、合計で240キロを一人で担ぐという途方もない力持ちの浮世絵が残っている。これは誇張のようで、説明には「二俵を担ぐ力持ち」とある。力持ちをアメリカ側に見せ付けようという目論見である。アメリカ艦隊にも元気で屈強な水兵らがおり、巨体を見せつけられて、ひとつ勝負をしようではないかとの声もあったが、力士の怪力ぶりに皆がシュンとなった。
新画像5 ペリーからの土産のお返しに米俵を渡す
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【幕府の条約草案】
 3月15日、応接掛は条約草案を作りあげ、書簡をつけてペリーに送った。全部でわずか7ヵ条の漢文から成り、タイトルはただ「条約」である。内容はすでにアメリカ側に口頭で伝えてあり、3月11日のペリー書簡で、それでは済まないと釘をさされていたものである。
 しかし応接掛は同じ論点を繰り返した。
① _来年正月より長崎にて欠乏品を渡す。5年後には別に1港を開いて貴国の船が入れるようにする。
②_貴国の漂着民は、わが国のどこに漂着しようとも長崎に送る。
③_漂着民は海賊と区別しがたいため、みだりに徘徊しないこと。
④_長崎には唐・蘭の二国が駐在しており、港内にみだりに上陸してはならない。
⑤_開港した後、いかなる物を与えるかなど細目は追って協議する〔加藤注 この項はペリーに渡した漢文版にあるが、その和訳版からは脱落している〕。
⑥_琉球は遠地であり、いまここで談判するわけにはいかない。
⑦_松前は遠地である上に、松前家の所領であるため、いま談判するわけにはいかず、来春に長崎に来る船に返事を渡す。
 まるで木で鼻をくくったような草案である。7条になってはいるが、実質的には従来どおりすべて長崎において、それも旧来のやり方、オランダにたいするのと同じやり方という内容である。いかにも幕府の延命策のように読める。
だが応接掛としては、前年に受け取った大統領国書の内容と、今回のアメリカ条約草案とがつながらない。希望の商品があるという主張と、そのために港を新たに開くという主張との、いずれに強調点があるのか不明である。
 これを受理したペリー側も、これには返事をしないという態度を取った。返答もせず、異論があるとも答えなかった。しかし、ペリーは自分の日記に「オランダ並みに譲歩をする位なら、むしろ条約など無いほうが良い」と書いている。ペリーにはオランダと同じ扱いを受けることが何よりも忍び難かった。
 3月15日に幕府が条約草案を渡した日の前後から、日本側の緊張が再度高まった。アメリカ人が勝手に上陸して徘徊して困るといった報告が、しきりと奉行あてに出されるようになる。14日、朝5時頃からアメリカ人20人ほどが横浜に上陸し、献上品の組み立てを開始したとの報告があり、また神奈川宿から川崎宿までやってきたとの報告もあった。
 神奈川宿ではアメリカ人が蕎麦屋や米屋、呉服屋などに入りこんだらしい。慌てて戸を閉め路地には縄を張る。しかし、その一方で、異人を一目見ようと大勢の見物人が集まり混乱したとも報じる。
 17日、横浜村の浜辺に100人ほどのアメリカ人が上陸した。献上品の蒸気機関車を組み立てるためであった。「異国大工5人」がその作業にかかっていると、関東取締役は報告している。ペリー側では、すでに8日に正規の上陸と会談を済ませており、仮設の建物には自分達の控室もあるから上陸しても差し支えない、それに勝手に歩き回るのとは違い、献上品の組み立てであり、そのことは献上品の目録を渡したときに言及したとの考えであろう。
 アメリカ人が子安の村に入りこみ、役人が多勢で取り囲んだが、百文銭をくれと言って持ち帰ったと、百姓が代官に報告している。警備の諸藩もふたたび緊張を高める。道に迷った異人を四人、小舟で送り返した、あるいは、茶や煙草を求めてきた、しかし支払いの金がないので服のボタンを二つ置いていったとの報告もある。和服にはボタンを使わないから日本人にはひどく珍しかった。アメリカ人のほうは、紐や帯を珍しがった。
 アメリカ人が茶や煙草を強要したというより、茶や煙草を日本人が勧め、お礼として珍しいボタンを置いていったともいえる。コインの交換を求めた大男のアメリカ兵もいた。長い艦隊勤務の乗組員にはとても楽しい機会であり、対する庶民のなかには、さほど恐れも偏見もなく、大らかに付き合う者もいたらしい。そのことを気づかった村役人の代官への報告も残っている。
 沖合の黒船も、ときに1隻、2隻と姿を消して、どこかへ行った。猿島の魚問屋の報告、警備の松平家に入る伝令などでは、急の事態を伝えている。3月21日には伊勢神宮ほか諸国大社へ、人情不安をおさめ神助があらんことを、外夷が服することを、国家安全の実現をと祈禱を行うよう教書が出された。祈禱の指示はこれが最初ではなく、ペリーの第1回来航の直後にも出され、これまで数回を数えている。
 江戸でも再度、火の元に気を付けるよう町奉行の通達が出た。応接の祝砲から約1週間、気を引き締めなければと判断したのであろう。

【避難港をめぐる交渉】
 3月17日、林とペリーとの対話が10日ぶりに再開された。予定は前日だったが、強い風雨のため1日延期となっていた。神奈川宿の仮奉行所から横浜村の応接所まで陸路で約二里(8キロ)、海路では約一里(4キロ)を半時間で行くことができる。江戸から到着した舟の天神丸をこの日から使うことにした。
 正午に上陸したペリー一行は約200人、前回の対話では失礼があったかもしれないとペリーが口火を切り、献上品の陸揚げが無事に終わったことを伝えると、林が礼を言った。ペリーが本題に入った。
ペリー 「薪水、食料、石炭のほかにも欠乏品があるので調達願えないか」
 林 「船中で欠乏品があり難渋しておられるよし、揃えられるものはお揃えする」
ペリー 「その代金を払いたい。どの国でも支払っており、ぜひとも受領されたい」
 林 「船の緊急時の欠乏品のことであり、代金は不要である」
ペリー 「代金不要と言われるなら返礼をするのが道理、必ず釣合う返礼をしたい」
 林 「返礼ならお断りする理由がない」
ペリー 「では、返礼はわが国の物産にするか、あるいは金銀にて渡すべきか」
 林 「返礼なら何でも宜しいが、品物では交易になる。貴方の都合で洋金銀になされるなら宜しい」
ペリー 「それならば金銀にて返礼としたい」
 林 「それで結構である」
 林がこだわったのは、「交易」(貿易)は行わないという主張との関連である。これが条約内容の1つの論点である以上、林としては譲歩するわけにはいかなかった。返礼なら断れないとして、結局は物々交換を拒否し、返礼を金銀で受理することで合意した。
現代的な感覚からすれば、物々交換より、金銀による決済のほうが「交易」に近い形態と思われるが、ここではこれ以上の踏み込んだ議論にはならなかった。
 ペリーが次の論点に話を進めた。
「供与の品物を、どの地で受けとるのが良いか。ここで応接となったから、今後もこの地に参りたいが、そのほかに五、六ヵ所の港を決めていただきたい。さもなければ、どの港でも勝手に船をつけて良いというように願いたい」
 林が答えた。
「薪水などを渡す場所は、かねてから長崎と決めてあり、その地ですべての外国船の応対をしている。長崎に来られれば、いつでもお渡しする。横浜の地は外国船が来るべき場所ではない」
 ペリーが反論する。
「長崎のことは承知しているが、まことに不便な場所である。わが国の船が清国の広東へ行くときは、定海県〔揚子江河口のすぐ外にある列島、アヘン戦争時にイギリス軍が占領した〕で何でも調達できるため、長崎より定海県のほうがはるかに便利である。長崎において調達というのはお断りする。ぜひとも日本の東南に5所、北海に2、3ヵ所の港を定めていただきたい。そうすれば、他の港に勝手に入るようなことはしない」
 林が答えた。
「数ヵ所の港を決めることはできない。長崎が不便であれば、ほかに1ヵ所を定めることができる」
ペリ- 「1ヵ所と言わず、少なくとも3、4ヵ所を定め、そのうちの1つは金川(神奈川)に願いたい」
 林 「神奈川は承知できないが、いずれ東南の地に都合の良い場所を定める所存である」
ペリー 「東南の港とはどこか」
 林 「その場所の件は新規であるため、良く調べたうえでないと返答しかねる」
ペリー 「お手数をかける。検討に時間を要するのは理解できるが、私は全権であるから私の判断で決めることができる。貴方も同様に全権を付与されている。即答できないと言われるのはおかしい。ぜひとも即答願いたい」
 林が反論した。
 「無理なことを言われる。昨年の貴方の書簡に地名などあれば当方も考えたが、地名もなく、ただ南方に一港をとあるだけであった。それほどお急ぎなら、なぜ昨年の書簡に認められなかったのか」
ペリー 「確かに昨年の書簡には記していない。したがってニ、三日はお待ちするが、なるべく早くお答え願いたい」
 林 「来る24日(7日後)の面会のさいにお答えする」
 会談終了は午後4時過ぎであった。

【林大学頭の登城】
 翌18日の林メモには「長崎のほかに1港を開く件は容易ではない。上申しなければなるまい。明日には林と井戸が江戸へ行くことを相談した」と記されている。19日早朝の3時に林と井戸は江戸へ出立、すぐに登城、翌日また登城することにして、夕刻にはそれぞれの屋敷へ帰った。
 この日、帆船サプライ号が神奈川に入り、ペリー艦隊は9隻となった。
 林メモには20日登城、老中のご内意を聞いた。水戸の斉昭殿のお目通りを得た」と簡略に記すだけである。
 翌21日、二人は神奈川に戻った。すぐにペリーと約束した24日の会談の準備をすすめ、艦隊に通詞を派遣した。ペリーから24日の承諾が来た。
 22日、アメリカ兵一人が神奈川に上陸し、江戸へ行きたいと六郷あたりまで歩いて行った。応接掛がアダムスを通じてペリーに抗議すると、ペリーは立腹、即座に呼び戻すよう指示した。空砲4発を打ったが、これは「集まれ」の合図だという。神奈川まで戻ってきたこのアメリカ兵をペリーの旗艦ポーハタン号まで送りとどけようとすると、「死罪になるかもしれない。ブキャナン艦長の船〔加藤注 サスケハナ号〕に戻していただけまいか」と恐れおののくので、与力と通詞がサスケハナ号に連れていった。

【箱館と下田の開港を伝える】
 23日、応接掛からペリー宛に短い漢文の「約書」が渡された。箱館(函館)を開港するという内容である。ただし、その日は来年7月(旧暦)以降とある。この約書は林ほか計4名の署名と花押がある正式の外交文書である。
 同じ日、浦賀奉行の補触が出され、蒸気船1隻が明日出帆してアメリカに帰ると述べている。民衆のほうはどう受け取ったのか。何の合意も見ずに帰帆するのか。あるいは何か取り決めがあったのか。実際には帰国ではなく下田訪問のためであった。
 24日、1週間ぶりの横浜会談となった。ペリー一行は300人である。双方の贈呈品を応接所に陳列、応接掛は幕府贈呈品目録をペリーに渡した。硯箱、机、書棚、火鉢、絹織物、紙、刀剣、鉄砲、傘、人形、猪口盃などが並ぶ。乗組員には米200俵(五斗入り)や鶏300羽などを贈るとある。
 会談に入るや、すぐにペリーが質問した。「薪水・石炭などを供与する港は、どこに決められたか」。
 林が答えた。 「南方とは下田港、北方とは箱館港の2ヵ所である」。
 避難港の場所を林はさらりと答えた。ここで下田と箱館の2港開港が双方で合意された。
ペリー 「箱館港は良港と聞き及ぶが、下田港の様子は知らず、乗組員に検分させたい」
 林 「もっともなことである。早速に人を派遣なさるが良い」
ペリー 「では、すぐに軍艦2隻を下田に派遣したい。上陸し測量もしたいが、いかがか」
 林 「承知いたした」
 その下田では浦賀奉行所組頭の黒川が応対した。黒川から応接掛宛の報告には、帆船バンダリア号が欠乏品として求める物品の筆頭に牛肉を挙げたが、市場では「払底しているので断った」とある。また乗組員が宿陣に立ち入りタバコや茶を求め、代わりにボタン2個を置いていったと書かれている。なお同艦は29日に横浜沖に戻ってきた。
林メモはつづけて「幕府からの贈呈品のうち、米200俵(五斗俵)を運ばせるのに力士75人を使い、1人に2俵ずつ担がせた。ペリーらは大いに感服した様子だった。その後に稽古相撲を見せた」とある。
 下田と箱館の開港は苦慮した結果の譲歩とはいえ、応接掛は前もって譲歩の限界を、そこに置いていたとも考えられる。この開港の意味は、そこで貿易を自由に行う性格のものではなく、アメリカ人漂流民や物資欠乏のアメリカ船が入港できる場所という、限定つきの内容である。そのかぎりでは長崎の延長という解釈も可能であった。
 下田と箱館の開港が決まると、次の協議事項は開港場の範囲と遊歩地の件である。遊歩地とは、狭い開港場の他に、散歩や狩猟などを目的に移動できる区域をさす。アメリカ側としては、オランダ人の居住する長崎の出島が約3000坪ほどの邸宅規模にすぎず、その規模の開港場に閉じ込められては大変と考え、自由に移動できる場所を要求した。応接掛の方は遊歩地をなるべく狭くしたい、民衆との衝突事故を避けたいと考えた。
 この頃、京都警護の建言などが頻発している。万一ペリー艦隊が関西に向かう事態になれば備えが必要として、遷幸(天皇の居所を移す)の提案や大坂城代の伺などが老中に出されている。また再度のロシア応接準備も迫っていた。
 25日、老中の申し合わせがなされた。異船の様子いかんでは応接となることを考え、その際の衣装を狩衣とし、供方は旅装とするなどである。応接場での相撲興行の件も着々と進行する。この提案は3月8日のペリー上陸前からあったもので、それが具体化し、26日には相撲年寄惣代から町奉行へ、土俵入りの順番や取り組み表が提出された。東西各15人、鏡岩、一力、小柳などの名前が見える。

【ペリーによる応接掛の人物評】
 林とペリー、双方全権による張りつめた応酬がつづいていたが、一方でペリーは日記に応接掛5人の印象を述べ、アメリカ人の誰に似ているなどと記している。
 林大学頭 55歳くらい、中背で身だしなみがよく、厳粛でしかも控え目である。高名なレヴァーディン・ジョンソン(アイルランド出身の上院議員で高名な弁護士、後に駐英公使としてジョンソン=クラレンドン条約の交渉を担当)に似ている。
 井戸対馬守 50歳くらい、背が高く、かなり肥っているが、感じの良い相貌。わがロンドン駐在のブキャナン(のち1857〜61年の第15代大統領)にどこか似ている。
 伊澤美作守政義 自称41歳、5人のなかで一番の好男子である。陽気で、冗談や洒落が好き。道楽者との評判。通詞たちによれば、彼は外交交渉については一番自由な考えを持っており、我々にもそうであったが、日本人にも人気があるようだ。彼はわが国の音楽が大好きだと身ぶりで伝えた。軍楽隊の勇ましい曲には、じっとしていられなかった。
 鵜殿長鋭民部少輔 55歳くらい、背が高く、彫りが深い。背はやや別として、ケイヴ・ジョンソン(1845〜49年、郵政長官)と、外見上は良い勝負だ。
 松崎満太郎 地位や称号は不明、60歳くらい。背が高く瘦せていて、しかも大変な近視。外見はいかめしく無愛想だが、彼はむしろ、この世の華やかで善なるものを好むようである。これは、この国の高い地位にある人びとに共通して見られる特徴である。誰かとの比較は控えるが(加藤注 欄外に「彼は美男子にはほど遠いため」と補記)、よく似た人物が思い浮かぶ。
 ペリーはこの大仕事を「遠征記」として残すことを考え、そのために文字や絵画・写真(銀盤写真)で記録を取らせる人員を最初から準備していた。動植物、風俗や言語についても記述しており、いわば博物学的な内容を含む「遠征記」の作成意図を明白に持っていた。ペリーが応接掛の人物評を描いたのは、そのためでもあった。

【ポーハタン号上の招宴】
 3月27日、アメリカ側からまた祝砲を打ちたいと連絡が入り、すぐに触が出された。成り行きを注視していた民衆は、事態が持ち直したらしいと、ふたたび安堵に傾く。
 この日、応接掛5人のほか総勢で約70人が、ペリー艦隊に招待を受けていた。黒船の秘密を見聞できる絶好の機会である。記録を取るための絵師や水戸藩の隠密なども含まれていた。ポーハタン号の招宴に関する林メモやペリー・ノートの記述はきわめて簡単である。
そこでプレブル大尉が書いた資料によって再現すると、招宴の様子は次のようであった。

新画像6 ポーハタン号上の招宴。招かれた幕府関係者が寛いだ印象。
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 まず一行は帆走軍艦マケドニア号に招待された。その時、向かい側に停泊していた汽走軍艦ミシシッピー号が17発の祝砲を打った。一行はその様子をじっと見物した。それから艦内の見学である。大砲や小銃の実演、上陸の際の戦闘の模擬戦や消化訓練を見た。
 次いで汽走軍艦ポーハタン号に移る。すると今度はマケドニア号が17発の祝砲を打った。双方の意気は上がったが、天候は悪く波も荒かった。一行はポーハタン号の機関室を見学、轟音を上げて回転する蒸気機関に度肝を抜かれ、時のたつのを忘れた。そしてペリー司令長官室での正餐。27人しか室内に入れないため、甲板にもテーブルが用意された。
 出された酒類はシャンペン、マディラ・ワイン、シェリー、パンチ、ウィスキーなど。それに酢の入ったケチャップの飲み物が、とくに日本人は気に入った。アメリカ側が母国の習慣として食事の残りを持って帰るように勧めると、鳥の丸焼きを1羽分、袖の中に入れた者もいた。
 プレブルは、母国を出て以来、これほど屈託なく笑い楽しんだことはなかったと記す。「日本国皇帝のために」、「アメリカ大統領のために」、「日本の淑女のために」と乾杯がつづく。条約締結の成功がこの歓待の成果にかかっているとペリーが乗員一同に言い渡したこともあり、大いに盛り上げた。
 バンドが鳴った。ダンスが始まる。士官たちは揃ってステップを踏んだ。扇子に詩や格言などを書いて我もわれもと交換した。プレブルが書いたのは、「通商と農業はアメリカと日本とを結びつける」、「カリフォルニアと日本は隣」などであった。オランダ人からカリフォルニア金鉱発見のことを聞いているはずだから、貿易で日本人も儲けようと考えるにちがいないと彼は考えた。
 日本側は英文より漢詩のほうを好んだらしく、とくにウィリアムズが同伴した羅森(33歳の広東人)の書を珍重した。日本側が贈った富士山の絵入りの扇子も残っている。
 芝居も上演された。応接掛たちも部屋から出てきて見物する。「日本の吟遊詩人」という出し物には笑いころげた。そうこうするうち、松崎がペリーの首に腕をまきつけ、抱擁せんばかりとなった。嫌がるのではないかと思ったプレブルにペリーは、彼が条約に調印するなら「キスさせても良い」と答えた。日本側の一行が浜に戻るとき、今度はサラトガ号が17発の祝砲を打った。どの船も発砲できることを知らせるためであった。

【条約の詰め】
 28日、ポーハタン号での招宴の翌日、ペリー一行20人が横浜村に上陸した。条約内容の最後の詰めである。ペリーが「南方の港については下田で結構である。そのように定めていただきたい」と言い、林が「下田で薪水食料を供与いたす」と答えた。
 ペリーは礼を述べ、つづけて主張した。懸案の課題、①下田の遊歩区域、②下田にアメリカ人の役人を一人駐在させる、の2件である。
ペリー 「オランダ人が長崎の狭い出島で困っている。下田ではアメリカ人の上陸はもとより、港から四方へ10里くらいまでは自由に歩けるように願いたい」
 林 「それはできない。下田町内なら良いが、10里は不可能である」
ペリー 「町内だけでは窮屈なので、ぜひとも10里を歩行できるようにしたい」
 林 「薪水食料を得るためなら町内だけで十分ではないか。それほど遠方まで行かれる理由が見当たらない。無益なことであろう」
 ペリーは例の調子で述べた。
「親睦の国になれば、在留アメリカ人が不法をなすとは考えられない。遊歩地を狭くするという主張は理解できない。それならば下田の件はお断りする。これから横浜あたりへ参るか、お断りになるなら江戸まで行くつもりである」
 林 「即答しかねる。良く考えて明日にもお答えしよう」
 つづけてペリーが言った。
「貿易のためではなくとも、わが国の船が貴国へ来るようになれば、下田にわが国の役人を一人置かなければならない。アメリカ人と日本人が争いになった場合、対処できないからである。役人を置けば処置できる」
 林 「貿易を始めるなら必要となろうが、たまに薪水食料を与えるだけのことであり、応じかねる。外国人の日本在留はオランダ人と中国人に限っている」
ペリー 「一人も駐在しないのは不安である。ぜひとも承知願いたい。18ヵ月後に来るアメリカの使節とまた話し合うのはいかがか」
 林 「承知いたした」
 懸案の2件をめぐる応酬は、これで終わった。

【調印直前の懸案】
 ペリーが渡した条約草案をその場で検討し、多少の加除をすることとして、おおむね合意したと林メモは書いている。第1の遊歩地の件は、翌29日に徒目付の平山謙次郎と与力らを派遣して協議させた結果、7里四方とすることに決定した。下田開港の日に関しては、条約上では即刻、実際は来年3月とすることで合意した。
 条約調印の日も合意された。3月31日の金曜日、旧暦では三月三日、雛祭の日である。この日に調印を持ってきたのは応接掛であろう。雛祭は、現在では女子の祝い事であるが、当時はむしろ厄払いの祭礼と考えられていた。その日に雛を流して厄を払う。水に縁があるペリー艦隊、それがもたらした厄を払おうという気分があったのではなかろうか。
 3月30日、平山を派遣し、条約草案を互いに示して相談した。条約の調印形式について、ペリー側は諸国の慣例通りに、林、井戸、ペリーの名前を一列に書く案を提示した。それにたいして平山は日本には日本のやり方があり、「名判(署名)は彼と是とを別紙に認めて交換する」よう主張した。
粘り強い応酬が繰り返されたが、平山は自説を通した。これは林の強い指示に基づくもの。

要点18
【描かれた絵】
 3月31日、調印式の日を迎えた。応接掛は朝8時頃に横浜村に到着、昼にはペリー一行が軍楽隊を先頭にして上陸した。幕府側は数人の絵師をそろえ、ペリー側も画家ハイネやカメラマン(銀版写真)のエリフォレット・ブラウン・ジュニアを同行させた。絵は残っているが、写真はまだ発見されていない。
 日本人絵師の残した絵巻は、上陸するペリー一行を横から描いている。このほうが横に拡がる絵巻に合っているが、いささか威圧感に欠け、貧弱な行列にも見える。
 ハイネの絵では軍楽隊を縦列に描き、派手な制服に立派な体軀の軍楽隊員を目立つようにし、海岸から行進してくる絵である。遠近法の手法で縦列を描くと、奥行きが出て迫力が増す。
 この絵には一行を迎える幕府の役人らしい姿がある。腰を屈めてお辞儀をしている。お辞儀という挨拶は、アメリカでは丁寧な挨拶の振る舞いとはかならずしも受けとられなかったかもしれない。たんなる画法の違いと見るべきか、絵師の心象風景をそのまま映したものか。

【条約調印】
 条約文の交換が横浜応接所で行われる。
 あらゆる文書に内容と形式が必要である。ましてや国家間の取決めである条約が有効性を持つには、最低限、2つの形式が不可欠である。1つが署名、1つが正文である。
 署名の方式に関しては前日の協議で合意に至らず、決着を見ないままこの日に至った。
 着席するとペリーは、自説のとおり応接掛の目の前で英文版にサインした。その時、林が言った。「我々は、外国語で書かれた、いかなる文書にも署名することはできない」。ペリーが反論する間もなく交換式は終わった。
 交換された条約分のうち日本語版には、林、井戸、伊澤、鵜殿の応接掛4名の署名・花押がある。英語版はペリーの署名のみである。漢文版には松崎の署名・花押、オランダ語版には通詞・森山の署名しかない。
 双方全権が同じ版に署名したものは一通もなかった。
 これらの条約はアメリカ公文書館に現存している。日本側の所蔵分は後の大火で消失し、存在しない。
 もう1つの重要問題が正文である。正文とは、条約解釈に必要な特定言語で書かれた本文を意味する。正文を何語(複数言語も可)にするかの交渉は日米間で一度も行われなかった。条約にも正文に関する記載がまったくない。正文に言及がないまま4ヵ国語版が作られた。どの版に基づいて条約解釈を進めるか、この大切な問題が宙に浮いたままとなった。

17【図像】「4カ国語からなる日米和親条約((1854年)の末尾の署名欄)」
アメリカ公文書館に保管される日米和親条約の末尾の署名欄のみを並べた合成写真。
右上が林大学頭ほか4名の署名がある日本語版。左上が松崎満太郎の署名のある漢文版。右下がペリーの署名のある英語版。左下が森山栄之助の署名があるオランダ語版である。
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【12ヵ条からなる日米和親条約】
 条約は全12カ条からなる。タイトルは漢文版が「条約」、英語版の和訳では「約条」とある、英語版はTreaty of Peace and Amityである。主な内容は次の条項である。
 第2条 下田・箱館を避難港として開港
 第3条 漂流民救助に必要な経費の相互負担
 第4条 アメリカ人漂流民の取扱いと彼らが「正直な法度に服す」こと
 第9条 アメリカへの最恵国待遇付与
 第11条 18ヵ月以降、アメリカの領事または代理人の駐在の許可
 「開港」「貿易」「居留」などの具体的な問題は和親条約から姿を消し、今後の「通商」条約の交渉に持ちこされた。そのために、将来におけるアメリカ外交官の下田駐在(第11条)が明記された。

【この調印で終わりか】
 問題は、共通の署名がない条約を、このまま放置するかどうかである。放置すれば、いずれは紛争の種になりかねない。事前に署名した条約を交換した後、ペリーが口火をきった。
ペリー 「両国の親睦の儀を首尾よく整えることができ、たいへん喜ばしい」
 林 「まことに喜ばしい」
ペリー 「貴国の厳しい国法を伺ったが、それにもかかわらず、このような親睦の誓いを結ぶことができた。今後、日本が外国と戦争に至ったときには、軍艦・大砲を以って、いかようにも加勢するつもりである」
 林 「ご厚意のこと」
ペリー 「下田開港の件は来年3月と約束したが、よくよく考えると来年3月に私が再訪することはできず、別人に引き継いだ場合、取決めに行き違いが生じかねない。そこでご苦労ながら、この後、また下田においてご相談したい。いま薪水食料が必要というわけではないが、少々なりとも頂戴して後の手本としたい」
 林 「それはごもっとも。別人が来れば談判も難しく、行き違いもありうる。貴官が下田に来られるさい、私どもも参り、細目を談判いたす」
ペリー 「では、下田までご足労いただけるか」
 林 「すぐというわけには参らず、50日ほど後であれば」
ペリー 「50日後と言われるなら、私どもは箱館を検分し、その後下田へ戻る。…1854年6月6日〜8日のいずれかに下田に戻る所存、皆様方と下田でお会いしたい」
 林 「承知いたした。……6月5日までに我々も下田に赴き、応接いたす」
 そこでペリーは、「貴国に叛くことがない証拠として、大学頭さまへの贈呈品をお持ちした」と言い、アメリカ国旗の入った包みを渡した。他の2名には大砲とアメリカの地図を贈呈した。
 夕刻になって挨拶の後に別れた。

【戦争回避の成果】
 応接掛が主張して獲得した点は何であったか。最大の成果は、戦争を回避して大事を乗り切り、交渉によって条約締結に至ったこと、と応接掛は考えていた。応接掛の老中への上申書(嘉永七年三月)には、交渉の苦労が次のように記されている。
 ペリーは全権委任を受けており、「何事も即座に独断」し、また「強硬不撓(強く出て、ひるまない)」で、一度言い出したことは、いくら説明しても「容易には変えない」。それに「様々の横合の論を生じて掛け合う(無関係な問題を持ち出して要求する)」。
 そこで自分としては、「彼らが内心に抱く殺気を動かし(殺気を抜いて)、兵端を開かせない(戦闘行為に至らせない)」ように努力をかたむけ、「後の患いなく、国法に反さない限りで応対し、穏便の取計いの基本方針を貫くことができた」と述べている。
「力の誇示」と「力の発動」とは違う。武家政権である幕府には、両者の区別ははっきりしていたのではなかろうか。「彼らが内心に抱く殺気を動かし、兵端を開かせない」と、ペリー側の「力の発動」を抑止することに努力したとするのは、そのためである。
「力の発動」を抑止さえできれば、「砲艦外交」のうち「砲艦」という軍事力は「外交」にその席を譲る。「力の誇示」を背景として「様々の横合の論を生じて掛け合う」ペリーに対し、応接掛は正面からの論争で応じた。

【和親の二文字について】
 林がこの上申書の冒頭で述べるのが、「和親」の2文字に関してである。「両国の人々が今後たがいに親睦を結ぶことに相成りましたが、その和文には和親の文字を使っております。和親の2字は取りようによっては甚だ重い意味ゆえ、ここに至った経緯を申し上げます」として、次のような説明をしている。
 「条約の和文はオランダ語を訳し、漢字を埋めたもので、和親の二字も重い意味を持つものではなく、アメリカ側では喧嘩口論などがないようにという意味にすぎません。但し、中国においては漢代いらい「和親」は相手国に送る通使(降伏の使者)を指しましたが、今日では、そのような意味はなく、和親と親睦は同じ意味でございます」
 
【双務性の主張】
 応接掛の主張した第2点は、「アメリカ人漂流民の救助に要する経費は、これを合衆国が支払う」というアメリカ草案にたいし、応接掛が双務性を最後まで主張したことである。その結果、第3条は「アメリカ人及び日本人が、いずれの国の海岸に漂着した場合でも救助され、これに要する経費は相殺される」となった。
 応接掛には、日本船のアメリカへの漂流が、アメリカ船の日本への漂流(漂着)と同じように重要だという判断があった。林家は先々代の述斎いらい、漂流民の問題、その救助の重要性を強調してきた。日本人漂流民は廻船の船員か漁民で、士農工商の身分制度では最下位である。しかし彼らとて「我国之人」ではないか、こう主張したのが他ならぬ林述斎であった。
 林家の思想的な系譜から見て、この論理は主に儒教に起源していると思われるが、初期的なナショナリズムの発想も強い。国内の身分上の区別(階級)と、条約上の内外人の区別(民族)の2つの問題を考えあわせ、国際条約では民族の対等性を主張した。それと同時に、寛政令から天保薪水令にいたる薪水供与が売買ではないため、アメリカ船の救助経費を受理した場合、それが未解決の貿易・通商につながりかねないとも考えたのであろう。

【日本の正しい法に従う】
 第4条では、アメリカ人漂着民を厚く保護すること、アメリカ人が「正直な法度に服す」こと、という2つの条項が明記された。アメリカ人は自国(アメリカ)の法律ではなく在留国(日本)の法律に従うという内容で、いわゆる治外法権が排除された。
 ペリーは、交渉でいちばん苦労したのがこの第4条であると、本省宛の報告第43号(条約調印の翌4月1日付け)に書いている。応接掛が全条項について強い主張を述べたことに触れた後、これは避けられない交渉事項であったとしたうえで、次のように述べている。
 「第4条はアメリカ人が〈日本の正しい法律〉に服すという意味では決してなく、正義と人道主義に基づく法に服すという意味であり、政府がこれを了解されるよう期待します」
 言い換えれば、日米それぞれの法律の上位に「正義と人道主義に基づく法」があり、ペリーが認めたのはこの意味だという釈明である。
 この条項に関しては漢文版の和訳とオランダ語版の和訳とでは表現が異なる。前段の「漂着アメリカ人の保護」に関しては、漢文版和訳は「緩優に有之」とするのにたいしオランダ語版和訳は「自由たらしめ」とする。後段の「正直な法度」は漢文版和訳だが、オランダ語版和訳は「公正之法」としている。英語ではペリーの本省宛報告にjust lawsとある。

【最恵国待遇】
 第9条の最恵国待遇とは、条約締結に一番乗りした国が後続国に対して優位に立ち、後続国が新しい条約上の利益を獲得した場合、その利益を等しく享受できるという内容である。これは南京条約(1842年)で一番乗りしたイギリスが生み出し、東アジアに生まれたばかりの国際法上の概念である。その適用国は列強だけであるため、双務的ではなく片務的である。
 イギリス、フランス、ロシアなどが後続国として日本に来るに違いないと予想したペリーは、「アメリカにとって(今後も他の列強に対し)有利かつ重要な条項である」と本省報告のなかで強調している。
 この条項が片務的である点に関して、応接掛は配慮した様子がない。むしろアメリカとの条約を今後も優先させたいと認識しており、それが他の列強への防波堤になりうると考えていたようである。ペリーからの武器贈呈を受けて、「もし後に、他国から外寇があるときは、同じ武器でアメリカの加勢があろうから、御国威を立申候」と応接掛は老中へ上申している。

【署名問題】
 同じ条約文に双方全権の署名がないことが、ペリーを悩ませた。条約調印の翌4月1日、海軍省宛てのペリー報告第43号は言う。
 「……3月28日の交渉にしたがって条約調印日は31日と決まり、当日は予定どおり応接所で調印式が行われました。林大学頭が、応接掛4人の署名のある日本語の条約文を私に渡し、これと交換に私の署名のある英文3通と、ポートマンの署名のあるオランダ語版、それにウィリアムズの署名のある漢文版を受けとりました。……林は、日本の法律では、その臣民が、外国語で書かれた、いかなる文書にも署名してはならないと規定している、と述べました。条約の英文版に署名がなされなくても、条約の効力をいささかも妨げないと私は考えましたので、彼らが主張し、かつすでに決定している方針にたいして、さしたる異議も申しませんでした。……代わりに、彼らは証明つきの3種類の翻訳版を寄越しました。これで、すべての規定が合意され、彼らが自身の方法で規定を実行すると考え、私は満足しています」

【4ヵ国語版が6種類あったのか】
 このペリー報告には不明な箇所がある。「……林大学頭が、応接掛4人の署名のある日本語の条約文を私に渡し、これと交換に私の署名のある英文3通と、ポートマンの署名のあるオランダ語版、それにウィリアムズの署名のある漢文版を受けとりました」の部分のうち、前段の日本語版と英語版に関しては、双方の記録が一致している。ところが上述のとおり、アメリカ公文書館に残るのは、オランダ語版に通詞・森山の署名のもの、また漢文版は松崎の署名のものである。この2通は応接掛がペリーに渡したのであろう。
 応接掛がペリーから受け取ったのは、オランダ語版にポートマンの署名、漢文版にウィリアムズの署名の版で、後の大火で焼失したもののことであろうか。そうであるなら、漢文版とオランダ語版は署名者の異なるものがそれぞれ2種類の計4種類、これに日本語版と英語版を入れて、全部で6種類の版が存在したと考えられる。

【正文と翻訳版をめぐって】
 ペリーは、「証明つきの3種類の翻訳版」とする部分について、「条約の英文版に署名がなされなくても、効力をいささかも妨げない」ことの理由として、「翻訳版」を挙げている。ペリーの見解は、英語版を正文とするものとも受けとれる。
 一方、林メモには、ペリーが目の前で英文版にサインしたことに触れた後、「和文・漢文・蘭文を交換した」とあるだけで、英文版を受理したとも交換したとも記していない。応接掛は、和文・漢文・蘭文の3種類を等しく位置づけているようにも取れる。
 幕府内部の文書(老中上申書や林メモなど)では、漢文版を冒頭に掲げ、あたかも正文のように扱う。次にその和訳を掲げ、さらに「翻訳蘭文和解」(オランダ語に翻訳した文書の日本語訳)を掲げている。この論理からすれば、漢文を正文と位置づけ、漢文からの日本語訳と、漢文からオランダ語に訳した版の日本語訳(二重翻訳)という、2種類の和訳を翻訳版と位置づけていることになる。
 これまでみてきたとおり、交渉過程では文書交換が漢文で行われ、オランダ語も時に応じて使われた。口頭ではオランダ語だけが使われた。漢文は読み書きだけで、会話には適さない。浦賀沖の最初の出会いから、翌年の横浜応接所での条約交渉の詰めの段階まで、それは一貫していた。この実行経過からすれば、応接掛は漢文を正文らしきものと位置づけてきた。ところがこれは建前であって、前述のとおり、実際の条約文作成の最終過程では、「オランダ語版に漢字を埋めた」経緯があった。
 一方のペリーは日本語で交渉しようと考え、通訳を得られずに漢文となったにもかかわらず、最後に交換した条約文に関してだけ、英文を正文らしきものと位置づけ、日本語、漢文、オランダ語を翻訳版としている。双方とも何語版を正文とするかを議論せず、理解が混乱したままで終わっている。

【ペリーの応接掛宛書簡】
 同じ4月1日、ペリーは応接掛にも書簡を届けた。表向きは前日の調印式への礼状である。しかし真意は署名問題である。「貴政府は、これまでの法令どおり双方別紙に名判を押されたが、双方で内容に相違があった場合、問題を生じる」。
抗議とも、事情変更の要請とも取れる文面である。
 このペリー書簡に応接掛は返答しなかった。
 ポートマンが森山に「昨日の条約交換のさい署名に使われた筆を、一本いただけまいか。記念品として大切に保存したい」と頼み、森山が筆を渡すと、たいへん喜んだ。この件について林メモは言う。「昨日の条約交換のさい、ペリーは目の前で署名したが、我々は休息所で署名し、それを渡した。彼らは帰国後に、日本側が署名した筆として証拠にするつもりではないか」と。

【応接掛の自己総括】
 ペリー書簡の処理を考えた結果、1日だけ遅れたのであろう、応接掛は翌4月2日付けで、老中への上申書を書いた。その冒頭の部分で、ペリーが「大統領国書への返事が得られないなら、使節の役目は果たせない。やむなく戦争に及んでも、目的を達成しなければ帰国できない、そう考えて数隻の軍艦を本国から派遣した」と発言したことを引用している。
また老中からは「穏便に取りはからう」よう内命をいただいたので、談判の結果、このような条約を取りかわしたとして、応接掛は次のように説明している。
①_条約の調印に老中の御書判がなく、われわれ応接掛の者だけで事を済ませましたから、御国威を立て申候。
②_ペリー側に、江戸湾の測量と「乗り廻し」をやめよと論した結果、これに従ったので御国法を守らせ候。
③_ペリー側からアメリカ国旗と武器が寄贈されました。後に他国から外寇があるときは、同じ武器でアメリカの加勢がありましょうから御国威を立て申候。
④_条約文への署名は通常は連判ですが、今回は双方が別紙に署名し、事前に書判をいたして連判を断わりました。調印の翌日、ペリーからの書簡で、連判が無いのは不都合だと申してきましたが、そのままで押し通しましたので御国威を立て申候。
⑤_条約交換の後、ペリーからの書簡で、この条約のままでは済まないとありました。他に数ヵ条を付け加えたいと思います。
⑥_このたびの応接の趣意は、彼方の兵端を開こうとする気先をはずし、寛柔(寛大で優しい)をもって教諭し、何事も静穏に済ませ、御国辱にならないように取り計らいました。
 このうち、①の署名者の件は、責任の所在を応接掛に止めようとする老中への配慮にすぎず、あくまで国内問題である。②はアメリカ艦隊の測量と乗り回しが続くので、抗議して中止させたことを指し、これは国権の発動として正当である。③の武器の件は、「以夷制夷」(敵をもって敵を制する)の常套手段を考えたと思われる。
 そして④が署名問題である。署名をどうするかは当然に重要な交渉事項であるが、ペリー側がこれを問題としなかったのだから、応接掛の考える通りに実施したので、応接掛の「法的な勝利」であると強調しているようにも取れる。⑤は下田での再協議を指すが、その点については、すぐに述べる。
 ⑥は戦争を回避したことの重要性を述べるものである。「彼方の兵端を開こうとする気先をはずし」とは、戦闘行為に入ろうとする勢いをそらすという意味であり、前述の「彼らが内心に抱く殺気を動かし、兵端を開かせない」と同じである。
 <寛柔>とは、いかにも儒者らしく中国古典『中庸』から引いた君主のあり方を指すが、これが弱肉強食の時代に通用するかどうか。だが、戦争を回避し、外交で決着をつけ、和親条約の締結に至ったことは確かである。この点を最重視した応接掛の認識を示すものとして注目に値する。

【エールの交換】
 条約の正文門題で課題を抱えたまま、下田再会に合意した。新たな展開を見いだす方向に向かいつつある。もめ事は避けるにこしたことはない。条約調印後、ペリーが江戸湾を離れ下田と箱館(函館)へ向かう4月18日までの双方のやりとりをみておこう。
 4月2日、ペリーは3貫目の「大銃」各1挺を井戸と伊澤の両人に贈呈し、「万一の外寇には、これを使われたい」と言った。装備の大銃をはずしての寄贈であるため、この2挺が限度であるとペリーは釈明している。アメリカから日本への武器贈呈は、これが史上初である。ペリーは本省宛報告第44号(4月4日付け)で、「青銅製のハウィッツァー砲とその台座」の寄贈は応接掛からの度重なる要請によるもので、今後の友好のために有益である、と書いている。
 もう一つが江戸へ行く件である。ペリーが切りだした。
ペリー 「江戸へ参りたい。大統領からの指示である」
 林 「オランダ人以外は国都へ入れない方針である」
ペリー 「では、船から一覧したい」
 林 「江戸内海へ乗り入れてはならない。このたび和親の国となり、条約のなかに日本の国法を守るとある(第4条)以上、そのような要求はいかがか」
ペリー 「では、出帆するときに少し乗り回す程度とお含み願いたい。また神奈川(横浜)に上陸して散策したい」

【春爛漫】
 4月4日、サラトガ号が出帆した。交換した条約文は機密文書である。イギリス郵船でワシントンへ送るわけにはいかない。そこで帆船サラトガ号をハワイ経由の太平洋ルートで帰国させた。
 6日、快晴、春爛漫である。合意にしたがってペリーほか4人が横浜村に上陸、徒目付と与力が付き添い、横浜近辺を1里ばかり散策、満喫して夕刻に船に戻った。
 8日、応接掛一行は、昼前に神奈川を出発し江戸へ帰任した。これで仕事が終わったわけではなく、下田応接が念頭にあるためであろう、老中上申書には、これが一時帰府であり、「この後の様子次第ではすみやかに出張の心得がございます」と述べている。また、わざわざ「中帰り」とも呼んでいる。
 9日、井戸と伊澤に贈られた3貫目ポウトホウィツスル筒をウィリアムズが試し打ちし、浦賀与力・合原操蔵に伝授した。
 10日、ペリー60歳の誕生日である。ノーフォークを出港してから1年5ヵ月が経っていた。大仕事を成し遂げた後の誕生日だが、日記にはそれに関する記載は何もない。

【江戸を一覧したい】
 江戸を船から一覧したいと1週間前にペリーが言った件が、まだ解決していない。4月10日、徒目付の平山、与力の合原、それに通詞の森山らをペリーの船に派遣、「江戸海深く乗り込むのは止めるよう」説得した。
ペリーは、「貴方らも一緒に乗れば決して不法な振る舞いはしない」と答えて譲らない。そのうち蒸気船2隻が江戸方面へ進んだ。横浜を出るときに祝砲を打ったが、「江戸海で祝砲を打てば都の人々が心配する、その場合には筒先へ向かい、一命を捨てて阻止する覚悟を持った」と平山らの述懐が残っている。
 羽田の灯明台まで来たところで船を止め、ペリーが森山らを呼んで問う。「あれが江戸であろうか」。森山がそうだと答えると、ペリーが艦隊の主だった乗組員を集めて望遠鏡を覗かせ、「あれが江戸である。これで江戸を見た」と言うや、船首を南に向けた。
 そして平山らに言った。「貴方らも、これで帰って宜しい。心配したことと思う。本国から指示されたことでもあり、やむをえず、このようにした。私は多くの者を連れており、帰国後に江戸を見ていないという者が出ないよう、こうした手段に出た。安心されたい。大いにご苦労であった。大学頭さまほか皆様にも宜しくお伝え願いたい」。
こうして丁寧な暇乞いをして帰帆した、と林メモは締めくくっている。
 ペリーは、本国からの指示を実行していた。日本に顔を向けつつ、背後には本国政府に向けた顔がある。江戸近くまで蒸気船を乗り回したのも、「江戸を見た」との証拠づくりであった。
 サザンプトン号とサプライ号、すこし遅れてバンダリア号とレキシントン号がすでに下田へ向けて出航していた。ペリーは4月18日、ポーハタン号に搭乗、ミシシッピー号をひきつれて江戸湾を離れ、下田へ向かった。

【ペリーの得た函館の印象】
 応接掛も調印した条約で十分とは考えていなかった。協議の場は、再会の下田である。
 ペリー一行は、5月17日、下田から箱館に到着、ここに2週間滞在した。そして6月7日、応接掛と再会を約束した日に下田に戻ってきた。箱館と下田の短い滞在を通じて、ペリーは日本の現状と日本人について印象を深くしたようである。条約締結が「アメリカだけでなく、日本の進歩と世界の利益になるだろう」と述べ、具体的には次のように書いている。
① 箱館の印象
 箱館では湾内の測量をすませると、寺、神社などの建物や商店・市場などの調査を行った。戸数は下田とほぼ同じ約1000戸、地中海入口の港町ジブラルタルに酷似しており、広い道路が整然と延び、排水への配備がなされ、敷石が敷かれ、日本の他の町と同様にきわめて清潔である。約50キロ離れた幕府直轄地の松前との間にかなりの物資往来がある。幕府の役人は箱館は貧しいと強調するが、この地の将来性は高い。
 約1000戸といえば人口は約5000人、「新興国」アメリカでは規模の大きな町に相当する。当時のアメリカ諸都市の人口は、出港地ノーフォークが約1万4000人、首都ワシントンが約4万人、最大のニューヨークが約70万人である。ペリーが人口100万を超える江戸に上陸していたなら、その繁盛ぶりに驚嘆したに違いない。
②日本の技術について
 実際的および機械的技術において、日本人は非常な巧緻を示している。…日本人がひとたび文明世界の過去・現在の技能を有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバルとなるであろう。
 日本人が、一定の高い技術水準を持っていたからこそ、黒船の技術力を評価でき、彼我を比べて、自分の技術が黒船には圧倒的に劣ることを痛感できた。技術格差が大きすぎるときには、その自覚さえ生まれにくい。あれほど早く大型船を自ら建造できたのは、ここに起因する。
③好奇心と知識について
 読み書きが普及しており、見聞を得ることに熱心である。…彼らは自国についてばかりか、他国の地理や物質的進歩、当代の歴史についても何がしかの知識を持っており、我々も多くの質問を受けた。…長崎のオランダ人から得た彼らの知識は、実物を見たこともない鉄道や電信、銅版写真、ペキサン式大砲、汽船などに及び、それを当然のように語った。またヨーロッパの戦争、アメリカの革命、ワシントンやボナパルトについても的確に語った。
 艦上で目に触れる珍しいものにたいして上流階級が示した知的関心と同様に、庶民達も隊員が上陸するたびに熱い好奇心を示した。日本人は街中で、たえず士官や水兵を取り囲み、その身体や帽子から靴にいたる服装の各部分の英語名を身振り手真似で質問し、紙と筆を取り出して記録した。
 条約調印後の下田では、刺青のアメリカ兵が日本の風習を真似てお辞儀をし、時刻を問わず「お早う」と挨拶したこと、行きずりの子供の頭をなでたこと、また画工が芸者28人の姿を「写真鏡」(カメラ)で撮ったことなどを記す日本側の聞書が残っている。
④ 密航者への評価
 4月25日の午前2時頃、下田沖に停泊中のミシシッピー号に2名の男が近づいた。瓜中萬二こと吉田寅次郎(松陰 25歳)と、市木公太こと渋木松太郎(別名 金子重助 24歳)の二人である。旗艦では通訳を出し、その男達の要望を聞いた。合衆国へ連れていってほしい、世界を旅行し見聞を深めたいと言う。この行為はアメリカの法律では無罪でも、日本の法律からみると犯罪であり、相手国の法律を尊重するには引き返してもらうより他はなかった。
 二人に対するペリーの評価は、「漢文を淀みなく見事に書き、物腰も丁寧で洗練されている」、「知識を求めて生命させ賭そうとした二人の教養ある日本人の激しい知識欲」、「道徳的・知的に高い能力」などと述べた後、「日本人の志向がこのようであれば、この興味ある国の前途は何と有望か」と結んでいる。
⑤日本人の労働と遊びについて
 日本人は一生懸命に働くが、時々の祭日をもって埋め合わせをし、また夕方や暇なときには勝負事や娯楽に興じる。
 アメリカ人が日本の花札やかるたに関心を払ったのと同様に、日本人もまた「夷人が木陰に数人集まり、メクリという勝負事をするのをたびたび見た。これは本邦のかるたと同じもの」と興味を寄せている。
⑥日本女性について
 若い娘は姿よく、とても美しく、立ち居振る舞いは大変に活発で自発的である。それは、彼女達が比較的高い尊敬を受けているために生じる、品位の自覚から来るものである。
 正当な評価への自覚が人を生きいきと自発的にさせ、品位を高めるという見方は、本質をついており何の偏見もない。自分の娘達の姿が、ペリーの念頭をかすめたのであろうか。限られた接触と時間のなかでの理解ではあるが、開国を迎えようとする時期の日本の一側面を看取している。
なお若い未婚の女性については評価が高いが、既婚女性のお歯黒や口紅には強い違和感を抱いたらしく「この特異な慣習をやめれば、かなり器量が良くなる」と述べている。

【下田出張】
 応接掛はペリーとの下田再会に備え、準備を始めた。4月21日、応接掛の伊澤を下田奉行に任じ、2000石高とした。4月28日には井戸対馬守(町奉行)と鵜殿(目付)を下田取締掛に任命するとの老中申渡が出た。
 5月1日、浦賀奉行所組頭の黒川を下田奉行所の組頭に任命した。同じ日、目付の永井尚志と岩瀬忠震に対して、内海台場普請、大砲製造、大船製造の掛に任命するとの若年寄通達が出された。
 そして5月3日、林、井戸、鵜殿、松崎の4名に対して、下田応接に関する老中通達が出された。これに下田奉行となった伊澤を加え、下田応接は横浜応接とまったく同じ布陣なった。5月23日、もう一人の下田奉行に都筑駿河守金三郎を任命、さらに勘定吟味役の竹内清太郎を加え、ここに下田での応接掛は計7名となった。
 5月15日、浦賀・横浜・下田でのアメリカ応接に格別の出費があったとして、林、井戸、伊澤の3名に金200両ずつ、鵜殿に150両、松崎に70両の手当金が支給された。
また横浜応接に要した2万0537人分の手当金(1人1泊=銭184文)と賄い金21両、神奈川宿の4万6553人分など計411両の請求書が、武蔵下総代官から勘定奉行へ出された。
 
【日米の下田再会】
 6月3日、下田奉行に任命された伊澤が下田着任、さらに翌4日に井戸と鵜殿の両名が、そして5日には林と松崎が下田に着任した。約束の6月6日の1日前であった。
 一方のペリーはポーハタン号に搭乗、ミシシッピー号をひきつれて予定日の6月7日に下田に現れた。箱館出港は3日、4日間の航海で下田に着いたことになる。アメリカ側の観察によれば、下田の町の戸数と人口は箱館とほぼ同じ1000戸で約7000人、その5分の1が商人・職人とある。
 横浜村のような仮設の条約館しかない新開地とは違い、下田には庶民の生活があり、それに相応しい風情や活気があった。艦隊は沖合に停泊、士官たちは毎日上陸して散策を楽しんだ。長い船上生活には、陸上の散策がなによりの喜びである。その喜びもさることながら、士官達には別の意図もあった。締結されたばかりの和親条約で、まだ詰めが残されている問題の1つが「遊歩地」の件である。この「遊歩地」を事実上の既得権としたい、それを自ら行動で示そうという狙いである。
 幕府には外国人の行動範囲を限定し、雑居にともなう混乱を避けたいという考えがあった。その裏には、外国の商品や文化の流入、ないし直接の人の接触による変化を、一挙にではなく徐々に段階的に行いたい、そうしなければ併吞されかねないという危機感があった。
 5月18日付けで、応接掛は15項目からなる方針伺いを提出し、老中は慎重に事前準備を進めた。5日後の5月23日付け老中指示は、条約形式に近い15ヵ条の構成になっている和親条約の幕府草案に比べて、老中ははるかに積極的であった。この老中通達には、「以降は漢文をあい止め、和文を主とし、これを横文字(オランダ語)に訳すこと、万一漢文を渡す時は和文をもとに間違いなく訳すこと」とある。
 これに付した文書には、和親条約の和文・オランダ語文・漢文の三者で表現が異なる面があると指摘、とくに第4条は「オランダ語版に、つつしみて公正の法度に拠りて待遇し、合衆国人も其法度には服従いたす事とあり、和文・漢文と表現が異なるが趣旨は同じである」との解釈をつけている。
 内容的にきわめて重要な条項の解釈基盤をオランダ語の和訳に置いた。この経験に基づき、表現の正確さから、オランダ語を翻訳語として採用する考えを持ったのではなかろうか。

【下田の協議】
 下田応接の場は了仙寺とし、6月8日に始まった。上陸したのは総勢で約300人だったが、別室に通したのはペリーと彼の息子(司令長官の秘書とある)、ベント、リー、ウィリアムズ、ポートマンの計6名である。林が口火を切った。
 林 「横浜いらい暫くぶりである。暑い時節柄、海を渡るのに支障はおありでないか」
ペリー 「ありがたき幸せ。みなさま方もご機嫌いかがか。このたび箱館へ参ったが、良港であり、彼の地でのお取り扱いも行き届いておりました」
 しばらく中座した林が戻ってきて言った。
 林 「この湾内にブイ(浅瀬など危険がある箇所に置く浮き舟)を置き、それに貴国の旗を立てているが、わが国の領域にそのような行為はまかりならない」
ペリー 「それが貴国の国法であるならば、国旗はすぐにはずす所存。但し、ブイがないと安全に停泊しかねる。御国の旗印に取替えていただけまいか」
 林 「では、そう致す。……もう一つ、赤根島という小島に大きな箱を置き、それに横文字で何か書いてある。当方に断りのないもの。すぐに取り除いていただきたい」
ペリー 「承知致した」
 もともと応接掛が想定していた協議の本題に入る前に、ブイの旗や奇妙な箱の問題が生じ、林の抗議を受けてペリーがすんなりと承諾した。
協議の主な論点と想定していたのは、
① 今後の条約における使用言語
② 「遊歩地」の範囲
③ 署名問題
④ その他
であった。林が言った。
 林 「下田奉行を置き、下田町の外に関門を設けた。この関門の内側ならアメリカ人が自由に動くことができる」
ペリー 「条約で7里と決めたにもかかわらず、そのような関門を設け、その内側だけしか動けないというのは条約違反ではないか」
 林 「もとより下田港の7里の件は条約に定めたもので、それに背くつもりはない。関門の外へ出る場合には、事前に申し出があれば付添人をつける。この関門は下田奉行の支配地とその他の所領との境であり、わが国法によって実施した」
ペリー 「関門は領地の境に立てたよし、わが国人の往来を差し止める目的でないことは理解した。だが、関門の外へ行く場合に付添人をつけるのは、はなはだ迷惑である。付添は止めていただきたい」
 林 「付添の件は、アメリカ人が不法のことを行うと疑ってのことではない。下田奉行支配地であれば当方も処置できるが、領外となると、わきまえを知らぬ小民がどのような不法行為を行うか分からない。そのときに奉行所の付添があれば万事平穏に処理できる。付添人は貴国のために宜しいのではないか」
ペリー 「そうであれば了解した」
 ついでペリーが「ポーハタン号の船員が事故死(5月4日)したため、下田に埋葬したい」と求めた。検屍を前提に幕府は了承した。埋葬所は柿崎村の近郊、儀式はキリスト教で行われた。また死去した別の乗組員1名を横浜村に仮に埋葬したが、これを下田柿崎村の玉泉寺に改葬することで合意がなされ、すぐに実行に移された。
 今度はペリーが、自分の肖像画1枚とアメリカ初代大統領ワシントンの記念石塔の図1枚を応接掛に寄贈したうえで、切り出した。
 「この初代大統領の記念石塔は世界中の美しい石を使っているが、日本の石はまだ入手していない。ぜひとも石を一ついただけまいか」
 応接掛は「海浜の石」を一つ進呈した。
 次に林が言った。「当地の漁民が、貴方の朝夕の合図の砲音に迷惑している。自粛していただきたい」。
 ペリー 「そのことは一向に気づかなかった。ご迷惑とあれば、さっそく今日から中止する」
 林メモには、これ以降、砲音は一発も聞かれなかったとある。またペリーの軍卒の調練を見学したいと応接掛が要望して了承を得たので、彼らが隊列を組んで海岸の町内を一巡、船に戻るまでを見学した、とある。
 初日の協議は、これで終了した。
 翌6月9日、10日の両日も了仙寺において協議が続いた。10日の協議では林が「これまでは漢文と蘭文(オランダ語)で交渉いたしたが、両語の文章に相違が生じたので、これからは漢文を取り止め、蘭文と日本語で進めたい」と提案し、ペリーが了承した。これは老中指示によるものである。
漢文通訳のウィリアムズは、「この日から漢文を廃止したので、私と羅森は楽になった」と日記に書いている。
 16日、ミシシッピー号上で仮装黒人楽団の演奏会が開かれ、日本人300人が招待を受け、食事もふるまわれた。17日に取り交わされた「条約附録」(下田追加条約)は、漢文を廃止するとの取決めにしたがい、和文、英文、オランダ語の3ヵ国語から成っている。

【下田追加条約】
 下田追加条約の末尾には、「右の条約附録はエケレス語と日本語にてとり認め、名判いたし、これをオランダ語に翻訳して、その書面を合衆国と日本全権双方が取りかわしたもの」と明記した。日本語と英語を正文とし、オランダ語の訳文を付す決定である。また第7条では「オランダ語通訳の不在のとき以外は漢文を使用しない」とある。
 条約交渉の過程では、漢文が主でオランダ語が従であったが、それが逆転し、翻訳語の順位はオランダ語、ついで漢文となった。ここにおいて、東アジアのラテン語とも言うべき漢文が外交の舞台から姿を消した。
日本側は蘭学の伝統を生かす手段を確保した。日本には英語の分かる人がまだきわめて少なく、このとき以降、オランダ語を通じて徐々に英語を学んでいく。その代表的人物として福沢諭吉がいる。
 遊歩地の問題は、以前の合意通りに周囲7里となった。その他、新たにアメリカの商船・捕鯨船が入港する場合の上陸場(波止場)を3ヵ所設けること(第2条)、死去アメリカ人の埋葬地を玉泉寺とすること(第5条)、鳥獣の禁猟(第10条)、批准書の交換(第12条)などが取決められた。
 幕府はこれを「条約附録」と呼び、ペリーはadditional regulationsとしている。これらの内容を含む全12条の追加条約の日本語版と英語版に、6月17日付けで応接掛の7名が署名し、翌18日、同じ版にペリーが署名を終えた。本省宛報告第52号に収録されているペリー署名の版は、6月17日付けとなっているから、応接掛の署名版を確認するつもりで署名したものと思われる。またオランダ語の訳文にかんする部分を「公認の訳文」としている。
 同じ文面に双方全権が連署した条約文は20日に了仙寺で交換すると決めたが、この約束の日、ペリーの体調がすぐれず、代わりにベント大尉(旗艦ポーハタン号のアダムス艦長の代行)、ポートマン、ウィリアムズの3名が出席して、応接掛と交換を終えた。
 ペリー艦隊は6月18日、14ヵ月ぶりにミシシッピー号を旗艦とし、25日に4隻が出航、帰途についた。この日に林も役を終えて江戸に戻る。26日には残りの1隻が出帆、応接掛の鵜殿や伊澤らも帰京した。林メモ(「墨夷応接録二篇」)は6月26日で終わる。
 ここに本土での日米交渉がすべて完了した。

【4つの政体】
 19世紀は弱肉強食の原理が支配する時代であり、戦争と植民地支配が主流であった。戦争は植民地化の前提である。すでにインドはイギリスの植民地に、インドネシアはオランダの植民地となっていた。植民地は、現在の法概念で言えば、立法・司法・行政の国家三権をすべて失う政体である。従って国家元首を失い、条約の締結権もなくなる。
 戦争の結果、植民地としない場合(植民地維持の経費がかかりすぎると判断した場合など)は、条約上の利益を優先し、敗戦国に不平等条約を強いた。これを私は「敗戦条約」と名づけた。その典型がアヘン戦争後の南京条約(1842年)である。「敗戦条約」には「懲罰」が伴った。
 南京条約の場合、領土割譲(香港島が植民地になる)と清朝財政の約半年分に当たる賠償金支払いである。領土割譲は政治的な怨みを残し、賠償金は財政を圧迫し、貧困を招来する。
敗戦国の人びとは屈辱にまみれ、貧困にあえいだ。清朝はこの後の60年間にわたり、度重なる<敗戦条約>を強いられ、ついに財政破綻した。
 これにたいして、日米和親条約は戦争を伴わず交渉により結ばれた。これが最重要であると私は考え、<交渉条約>と名付けた。<交渉条約>には<懲罰>の概念が発生せず、したがって領土割譲も賠償金支払いもない。代わりに贈答品の交換という古代からの慣習が行われる。不平等性は交渉条約がいちばん弱い。
 これら3種の政治体制に、それを作り出した列強を加えると、全部で<4つの政体>となる。19世紀中葉、日本が結んだ条約を最後に<四つの政体>ができあがった。これら4者の総体が新しく生まれた国際政治の構造、<近代国際政治─四つの政体>である。
 これら4つの相互関係で重要な点は、次のとおりである。
ア)_ ①と①の関係、すなわち列強(複数)間の関係は、競争・対立・協調であり、戦争・外交・貿易などの各種の形態をとって展開される。
イ)_ ①列強と②植民地との関係は、もっとも従属性が強く、かつ持続年月がもっとも長い。
ウ)_ ①列強と③敗戦条約国の関係は、戦争の結果として「懲罰」を伴う。①列強は「懲罰」から多くの権益を引き出そうと、領土の割譲や莫大な賠償金取り立てを行った。さらに諸権利を獲得することにより貿易を有利に展開した。一方の③「敗戦条約国」は、領土割譲に憎しみを深め、賠償金支払いによって窮乏を強いられた。
エ)_ 最後が①列強と④交渉条約国の関係である。交渉条約には「懲罰」の考え方がなく、不平等性(従属性)はいちばん弱い。交渉段階では信義の交換が行われる。
 日本開国を決めた日米和親条約は、たしかに最恵国待遇をアメリカだけに付与する片務性があること、条約に期限がないなど、幾つかの面で不均等な内容が残る。しかし交渉条約により、日本は国際社会へのソフトランディングに成功したのである。幕末維新の政治過程は、これを前提として進む。
 早くもペリーとの接触段階から新しい思想や技術の存在を知ることができたうえに、その秘密の幾つかを自分のものに転化することができた。例えばペリー第一回来航の直後から浦賀奉行所で始まる外洋帆船の製造、各地における新しい武器類の開発、蒸気船の発注と導入、そして外国の学問・芸術・諸制度への強い関心などである。
薩摩を中心とする志士たちの西洋密航の流れは、やがて留学生派遣やお雇い外国人招聘など、明治へと継承され発展してゆく。これも最初の対外関係が交渉条約であったことに由来している。
 交渉条約はまた、国際社会にとっても大きな意義があった。弱肉強食を基調とし、有無を言わさぬ戦争が政治の主な発動形態であった時代に、それとはまったく異なり、戦争によらず、平和的な交渉による国際関係への道を開いた。国際政治は、旧来の固い構造に交渉条約が加わり、柔構造に変化したのである。
 国際法は国際政治のルール化であり、欧米主導で一方的に進められてきた、いわば強者の論理である。条約は事後の一定期間を安定的に保障する。言い換えれば、一方に利益を保障すると同時に、他方を不利益で拘束する。利益・不利益が均衡点に近い条約が交渉条約にほかならない。これが欧米列強間ではなく、日米間で実現した。
 日米関係とは、広義にはアジアと欧米の関係である。欧米主導の国際政治のなかに、アジアの一国である日本が、交渉条約の結果として参入した。欧米側にとっては大きな「譲歩」であったかもしれない。しかし正義と平等を提唱する国際社会にとって、それは本来的な使命である。交渉条約は次代を指し示す希望の星となった。

【結びに代えて】
 本書は「経過」の部分をかなり重視し、記述面でも多くの紙幅を割いた。「恫喝」を交えて行動し、激論をかわし、広く見聞するなかで、事前に想定していた相手のイメージが変わり、理解を深めていった。「経過」いかんで「結果」が変わる。
 同じ事件、同じ事柄に関しても、当事者の見解は異なることが多く、それがむしろ普通であるが、争点が対立すればするほど見解は大きく相違する。そのため資料的価値の高い一次史料(なかでも海軍長官宛のペリー報告)を使う必要がある。公的記録『ペリー艦隊日本遠征記』(牧師で歴史家のホークスが編纂)は読み応えのある作品ではあるが、やはり後の編纂物の持つ制約から逃れられない。
 黒船来航と日本開国について、日本には今なお次のような理解が広く存在している。①無能な幕府が、②強大なアメリカの軍事的圧力に屈し、③極端な不平等条約を結んだとする説。
 言い換えれば、「幕府無能無策説」と「黒船の軍事的圧力説」の2つを理由として、そこから極端な「不平等条約」という結論を引きだそうとする単純な三段論法であり、そのため、かえって根強い支持を得て、今日に至った。
 この見方は明治10年代以降、とくに条約改正を本格的な政治課題に掲げてから明治政府の見解として強化された。明治政府は条約を改正する根拠として、条約そのものがいかに不平等かを強調し、条約を結んだ前政権の幕府を無能無策であったとする政治的キャンペーンを張った。キャンペーンとしては有効で、強烈なインパクトを与えた。
 しかし、日本側の記録にとどまらず、日米双方の資料を丹念に読み、さらに英米競争の資料や中国情報、オランダ情報などを総合的に読むと、幕府無能無策説・アメリカ軍事圧力説・極端な不平等条約説という三段論法は、歴史の実像と大きくかけ離れていることが分かる。
 一方、アメリカにおいては、ペリー派遣、日米和親条約、あるいは広く初期の日米関係への関心はきわめて薄い。アメリカの世界戦略のなかで対日関係の比重が低いことも一因だが、ペリー派遣の1850年代前半は、その前と後の2つの時代に挟まれて、影が薄い。
 1840年代後半のアメリカは、国土拡大が神より与えられた「明白な宿命」であるとする拡張主義・膨張主義が旺盛な時代であった。米墨戦争に勝利したアメリカがカルフォルニアなど広大な西海岸を手に入れた。折りしもゴールドラッシュが始まり、好況感が拡がった。
 そして1860年代は、全国規模の内戦(1861〜65年の南北戦争)である。1850年代前半のペリー派遣と日米和親条約に関してまでは歴史的な関心が及ばなかった。初期の日米関係は、それらの谷間に埋もれてしまった感がある。
 ペリーの事績についても、拡張主義の時代風潮をそのまま受けて、ヒーローの側面を強調するあまり、彼が大胆に江戸湾に艦隊を乗り入れ、日本を商業国の仲間に入れるべく、遠大な構想の条約を結んだことが強調される。平和的に結ばれた日米和親条約がアメリカ外交史における栄誉ある成果である、との指摘はほとんどない。
 こうして長い間、日本における開国への誤解・歪曲と、アメリカにおけるヒーロー伝説を好む傾向とが奇妙な関係にあった。パートナーと言われる日米双方に、この間、歴史理解に重大な「空白」が存在している。両国間で、互いに知らないことがあまりにも多いのではないか。この「空白」を埋めるために、初発の日米関係を把握しなおすことの大切さを痛感している。
 日米和親条約は一門の大砲も火を噴かず、平和的な交渉によって結ばれた。これが最重要の論点だと私は考える。戦争を伴わない条約を私は「交渉条約」と名づけ、戦争の結果としての「敗戦条約」と対比させている。
 「敗戦条約」には、「懲罰」としての賠償金と領土割譲が伴った。それに対して「交渉条約」には「懲罰」という観念そのものが存在しない。アジア近代史から見れば、和親条約のような「交渉条約」は稀有の事例である。
「交渉条約」を導いたのは偶然ではない。一定の政治的条件の下、日米双方の当事者による外交努力の成果にほかならない。
 日本外交史のなかでは、幕府の高い外交能力が特筆されるべきであろう。老中・阿部正弘をはじめ、交渉にあたった林大学頭ほか奉行・与力・同心にいたるまで、交渉相手のペリー一行にたいして格別の偏見も劣等感も抱かず、熟慮し積極的に行動した。外交に不可欠な情報の収集・分析・適用の三拍子を組織的に駆使し、条約に多くの対等性を持たせることができた。
 アメリカ外交史のなかでは、日米和親条約は平和裏に結ばれた、輝かしい外交的成果の一つである。「発砲厳禁」の大統領命令を背負い、地球の4分の3という長い航路を取り、幾多の苦難を超え、軍艦9隻、約2000人の艦隊員を統率する艦隊司令長官として、また優れた外交官として使命を果たしたペリーの存在と、彼の思想や戦術に依るところが大きい。
 
【日米和親条約の骨子】
 (1)国交樹立
 (2)避難港として下田と箱館(函館)の開港
 (3)漂流民救助費の相互負担
(4)米国に片務的最恵国待遇
 (5)アメリカ領事の下田駐在

ライトアップ中の三重塔へ

2月3日(土曜)の午後、横須賀開国史研究会主催の講演会を拝聴した。須田努教授(明治大学情報コミュニケーション学部)による講演「幕末社会~ペリー来航による社会変動~」と、それを受けた山本詔一会長との対談である。
 須田教授は、1959年群馬県生まれ、早稲田大学大学院日本史学専攻修了(博士)。講演名と同じ書名の著書『幕末社会~ペリー来航による社会変動~』を今年1月、岩波新書から刊行、その主要な論点を整理したレジメ(A4×8ページ)に沿って講演を進めた。須田さんには他に『三遊亭円朝と江戸落語』(吉川弘文館 2015年)等の著作がある。
 講演と対談の記録は同研究会が毎年刊行している『開国史研究』第23号に掲載されるはずなので、そちらにゆずる。なお、今回の『よこすか開国史かわら版』(小倉隆代事務局長が編集長)は記念すべき50号であり、この予告記事を読んで後援会+対談に出席した。24年前の創立記念講演を依頼された自称応援団長として、山本会長や小倉さんたちのたゆまぬ健闘ぶりに心から敬意を表したい。

 講演会後のお茶が終わり時計を見ると5時、暗くなるのが早い。間に合いそうだ!と横須賀から三溪園へ向かった。11月23日(水・祝)から12月11日(日)までの金土日祝に開催される「紅葉ライトアップ」を体感するためである。初日は新潟行でつぶれ、26,27日も所用のため行けなかった。今日を逃すわけには行かない。
ふだんは朝に三溪園に向かうが、今回は日没後に三溪園に逆行する。過去に戻っていくような感覚。桜道のバス停を降り、信号を渡り300メートルの道もサカサマの印象。ライトアップされた三重塔が見えてきた。6時である。正門の受付担当が「アラ!」と珍客に驚く。
 右に蓮池、左に大池を見る園路の玉砂利を踏んで進む。足元灯がほぼ10メートルおきに置かれているので、暗がりでも困ることはない。
事務所には吉川利一事業課長と岩本美津子主事。事前連絡を入れてなかったので、ここでも二人は驚き、歓迎してくれた。お裾分けの粟ぜんざいを頂く。美味しい。


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荷物を置いて、まず内苑をまわる。下図の「みどころマップ」上部に位置する「聴秋閣奥の遊歩道」は、残念ながら夕方4時で閉鎖。早ければ急傾斜の道を上り、下ると、彼方に三重塔が見えたはずである。これぞ絶景である。

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 海岸門は通行止めなので戻り、事務所前を通って中央広場の脇から三重塔へ向かう坂道を登る。ここにも足元灯がほぼ5~6メートルおきに置かれていて安全だが、夜に登るのは初めてである。
 そもそも三重塔のライトアップが初公開であり、その真下まで行けるようにしたのも今回が初めてである。
 ほぼ登り切ったと思った所から急斜面の左折と右折を重ねて尾根道に出る。右折すると展望台だが通行止めになっており、おのずと左折する。
 奇岩と呼ばれる太湖石が目に入る。この地を明治20年代に入手した原善三郎(原三溪の養祖父)の好みで造成した中国風庭園には不可欠の奇岩である。
 そのすぐ先に、夜空に浮かぶ三重塔。昼間に見る姿とは違い、下からの光に、いっそう優しさと威厳を感じる。

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 ここに来て急に昔の記憶がよみがえった。10年ほど前、故・廣島亨さん(原三溪市民研究会会長)たちと一緒に三溪の母の故郷・岐阜県安八郡神戸町(ごうどちょう)を訪ねた時に見た日吉神社の三重塔である。
 帰宅してすぐ、そのときの写真を探したが見つからない。
 仕方なく、神戸町のホームページ(https://www.town.godo.gifu.jp)から入り、イベント・観光の歴史・文化財から建造物に入った。下の写真は、神戸町の日吉神社の三重塔、比較のために掲載させていただいた。
 重要文化財の指定は大正3年4月17日。

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 比叡山延暦寺の荘園時代、「平野庄(ひらのしょう)」または「平野荘」と称された神戸町は、中心部を最澄が通った際に建立された寺をきっかけに日吉神社の門前町として、明治はじめまで市が立ち栄えた。

 塔の大きさ
 初重 方:10.5m 軒高:4.7m
 二重 方:10.2m 軒高:9.02m
 三重 方:9.02m 軒高:13.5m

塔の構造
 三層塔婆・毎層三間、組物三手先 軒二重棰 初重勾欄は天井拭板 屋根桧皮葺 相輪鉄製
 この塔は、天正13年(1585年)稲葉一鉄修造の棟札が善学院に遺っているが、それより約70年前に斉藤伊豆守利綱が建立したものであろうといわれる。
 
 神戸町の三重塔に出会い、三溪園の三重塔と瓜二つと直感した時の衝撃は忘れられない。
 屋根は瓦葺と檜皮葺の違いはあるが、私の直感が当たっているか否か。専門家にお任せする。
幼少期の三溪(青木富太郎)が足しげく通った母の郷里・神戸町の日吉神社の三重塔、これが彼の脳裏に焼き付いていたのではないか。
 そして約40年が経過、京都・木津川の廃寺・旧燈明寺の三重塔(1457年建造)が売りに出された。三溪はこれを入手。解体して東海道線で運び、1914(大正3)年に三溪園への移築を完了した。
 いま名勝・三溪園のシンボル的存在である三重塔は、偶然の酷似ではなく、三溪の青木富太郎からの想いの籠った三重塔であるに違いない。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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