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人類最強の敵=新型コロナウィルス(56)

 前回の連載(55)を載せた2022年10月28日、日経新聞は連載「大中国の時代 共産党大会編 習氏の兵法」の①は「兵貴神速」(兵は神速を貴ぶ)、②が26日掲載の「習近平氏、後継明かさず、忠臣競わせる 集団指導と決別」であり、27日掲載の③は「経済リスクを黙らせろ、不良債権マグマ 規制と成長 天秤」であろ、28日掲載の④は「ハイテク兵糧戦 備えよ、半導体囲い込み」であり、さらにつづくと思われると述べた。
 10月29日掲載の⑤は「共同富裕へ内から変える 競争よりも平等、人心に刷り込み」である。
 
【自衛隊に統合司令部、米軍と一体運用強化 台湾有事念頭 政府、24年設立目指す】
 10月29日の日経新聞は次のように報じた。
 「政府は陸海空の3自衛隊の部隊運用を一元的に担う常設の「統合司令部」と作戦を指揮する「統合司令官」を新設する。米軍との一体性を強化するため、意思疎通と戦略の擦り合わせを担う組織に位置づける。台湾有事を念頭に日米統合運用を進める。2024年の設立を目指す。
 年末に改定する安全保障関連の3文書に設立方針を盛り込む。組織改編には自衛隊法の改正が必要になる。中国による台湾有事の可能性が早まるとの見方が出ていることから体制構築を急ぐ。
 現行制度では3自衛隊を統合して動かす組織として「統合幕僚監部」がある。自衛隊制服組トップの「統合幕僚長」が首相や防衛相の軍事専門補佐、命令の執行、米軍との窓口を一人で担う。統合幕僚監部の運用部門が陸海空の各部隊に個別に指示を下ろしている。
 11年の東日本大震災では統幕長が首相官邸への報告や米軍との調整に追われ、災害派遣などの部隊指揮に十分な時間が割けない問題が浮き彫りになった。
 台湾有事の際には自衛隊の指揮に関する政治決断が増える可能性が高い。統幕長は首相や防衛相を支える業務に専念する必要があり、体制の再構築が課題になっていた。
 新たな仕組みは統幕長の下に統合司令官を置き、部隊運用の権限を統合司令官に移す2ことを想定する。統合司令官は防衛相の直属になる。米軍のカウンターパートはアジアに展開する陸海空海兵隊を束ねる「インド太平洋軍司令官」を見込む。
 米国は同盟国の日本や韓国と協力してアジアを守る「統合抑止」を重視する。日本は韓国のように米軍との「連合司令部」は持たないものの、厳しい東アジアの安全保障環境を踏まえ、米軍との協力を強化する必要性に迫られている。
 15年に成立した安全保障関連法などで自衛隊と米軍を一体で動かすための体制整備が進んでいる。弾薬の提供や給油などの後方支援や平時から米軍の航空機や艦船を自衛隊が守る「武器等防護」ができるようになった。
 台湾有事を見据えて日米の安保協力をより深めなければいけない。統合司令部が主体となって日米の戦略を巡る協議を進める。
 統合司令部を設立する目的として、陸海空の従来領域にサイバーや電磁波などの攻撃を組み合わせた「ハイブリッド戦」への対応もある。ロシアのウクライナ侵攻で展開された。日本も中国や北朝鮮の脅威を踏まえればミサイル攻撃などの単一の事態だけでなく、あらゆる複合リスクに対応する必要がある。
 現在はミサイル攻撃への対応などで統合任務部隊を編成しているものの、単一の戦闘局面への対処にすぎない。陸海空の自衛隊の区分けも根強く、多様な攻撃やサイバー攻撃を仕掛けられれば対処できない恐れがある。
 常設の統合司令部を置けば、統合司令官が事態を網羅的に把握・分析し、部隊運用について首相や防衛相の判断を仰ぐことができる。迅速で的確な指揮が可能になる。
 自民党は4月にまとめた安保の提言で「司令官の新設を含めた常設統合司令部の設置など『戦い方』の変化に応じた措置を講ずるべきだ」と指摘した。
 統合幕僚監部が担当する部隊運用や計画策定の業務は統合司令部に引き継ぐ案がある。詳細な権限の区分けや指揮する基地、駐屯地はこれから詰める。

【ブラジル大統領選挙、ルラ元大統領が当選 左派に回帰】
 31日の日経新聞【サンパウロ=清水孝輔】によると、ブラジルで30日に投開票された大統領選挙の決選投票で、左派のルラ元大統領(77)が当選した。選挙管理当局が発表した。ルラ氏は2023年1月1日に大統領に就任し、通算3期目を務める。任期は4年。低所得層への社会保障を重視する方針が国民の支持を集めた。
 開票率100%で、ルラ氏の得票率は50.9%、現職の右派ボルソナロ大統領(67)は49.1%と大接戦だった。ルラ氏の後任だったルセフ元大統領が弾劾裁判で退いた16年8月以来の左派政権となる。
 ルラ氏は30日朝、サンパウロ州サンベルナルドで自ら投票した後に「きょうはブラジル国民が望む国家のあり方と人々の生活を決める重要な日だ」と話した。
 労働組合の指導者だったルラ氏は03年から2期8年大統領を務めた。任期中に社会保障を強化した実績から低所得層に支持されている。選挙戦では富裕層への課税強化、熱帯雨林アマゾン保護の重視を訴えてきた。外交面では新興国との連携を強化する意向を示している。
 一方で19年に大統領に就任した元軍人のボルソナロ氏は、国営企業の民営化や減税といった経済政策には一定の評価がある。ただ、新型コロナウイルスを「ただの風邪」と表現したほか、女性や同性愛者に対する差別的な発言が批判を呼び、キリスト教福音派を含む保守層や富裕層以外には十分に支持を広げられなかった。再選を目指して立候補した現職が敗北するのは初めて。
 米ジョンズ・ホプキンス大によると、ブラジルの新型コロナ感染者数は累計で約3480万人、死者数は累計で約69万人にのぼる。ルラ氏に投票した医師のカルラ・ドネガさん(33)は「ボルソナロ政権下ではコロナワクチンの普及に時間がかかり、多くの命が失われた。ルラ氏には貧困層でも病院に行けるようにしてほしい」と話す。
 約1億5600万人の有権者が直接投票で選ぶブラジル大統領選には11人が立候補していた。2日の1回目の投開票では過半数を確保した候補者がなかったため、決選投票に進んでいた。1回目の得票率はルラ氏が約48%、ボルソナロ氏が約43%だった。決選投票で両者の差が縮まった格好。
 ボルソナロ氏は苦戦が見込まれるという事前の世論調査を受け、選挙の投票システムに疑念を示してきた。30日夜時点で、ボルソナロ氏は敗北について反応していない。大きな混乱はおきていないが、一部のボルソナロ支持者による道路封鎖が報じられている。

【政投銀出資のファンド、半導体工場買収 金融主導で再生】
 31日の日経新聞は次のように伝えた。
 日本政策投資銀行や伊藤忠商事が出資する投資ファンドなどは米半導体大手、オンセミの新潟県の工場を買収する。最新設備を導入し、電気自動車(EV)向け半導体などの受託製造を12月に始める。国内には約80の半導体工場があるが、設備の  老朽化が進んでいる。金融主導で資金を振り向け、国内の半導体産業の再生を後押しする。
 買収するのはオンセミの新潟工場(同県小千谷市)。投資ファンドのマーキュリアホールディングスがM&A(合併・買収)助言会社の産業創成アドバイザリー(東京・中央)、福岡銀行系の福岡キャピタルパートナーズ(福岡市)と組んで買い取る。
買収額と設備投資を合わせて200億円超を投じる。EVや家電の電力を制御するパワー半導体などの最新の生産設備を導入し、受託製造の拠点に転換する。約600人の従業員の雇用は続ける。
 国内には2019年時点で84の半導体工場(前工程)がある。回路線幅の微細化などに巨額の投資が必要なスマートフォン向けなどの最先端半導体の工場は限られ、光や熱をデジタル信号に変換するアナログ半導体やパワー半導体の工場が中心だ。
 日本が半導体の世界シェアで首位だった1980年代などに建設した工場が多く、規模が小さいうえ、設備の老朽化が進んでいる。一方で製造についてのノウハウが従業員らに蓄積されているため、多品種少量生産で工程ごとに擦り合わせが必要なパワー半導体などの生産には活用しやすい。
 国内の半導体工場をファンドなどが買収するのは珍しい。マーキュリアなどは今後も国内の半導体工場を買収して受託製造の拠点にする方針だ。投資ファンドなど金融が主導して既存拠点を刷新し、国内の半導体産業の競争力を高める動きが広がる可能性がある。
 新潟工場は半導体の生産に欠かせないクリーンルームを約2万平方メートル持つ中規模工場。旧三洋電機(現パナソニック)が85年に設け、11年にオンセミが買収した。受託製造はしておらず、自社で設計したパワー半導体などを生産している。
英調査会社のオムディアによると、世界のパワー半導体市場は27年に20年比2倍近い292億ドル(約4兆3000億円)まで拡大する見通し。海外の半導体メーカーは自社工場の新設を減らして設計や開発に特化する戦略を進めており、中長期的に受託生産の引き合いは伸びるとみられている。

【ロシアが再びミサイル攻撃 ウクライナは44発撃墜と発表】
 11月1日のヤフーニュースの伝えるモスクワ、ロシア、11月1日 (AP)によると、ロシア国防省は10月31日、ウクライナの軍事施設とエネルギー関連施設に対する攻撃を実施したと発表した。
 「ロシア軍は長距離精密兵器で、ウクライナの軍事施設及びエネルギー関連施設への攻撃を続行した」と国防省報道官は述べた。  これに対してウクライナ空軍は、ロシア軍が発射した50発を超える巡航ミサイルの44発を撃墜したことを明らかにした。
 ウクライナはクリミア半島沖で、黒海艦隊に対してドローン攻撃を行ったとロシアは非難しており、エネルギー関連インフラに対するロケット攻撃は、そのドローン攻撃の2日後に行われた。
 ウクライナは、ロシアが自国の武器を誤って扱ったとして、攻撃を否定している。
 10月に入って、ロシアは2度にわたりウクライナのインフラを攻撃した。10月10日には、ロシア本土とクリミア半島をつなぐクリミア大橋が爆破された直後に、ウクライナ国内のインフラ攻撃が行われた。

【トヨタ純利益23%減、ソニーGは上方修正】
 11月1日の日経新聞は2つの代表的企業の実績を次のように伝えた。
トヨタ自動車が1日発表した2022年4~9月期の連結決算(国際会計基準)は、純利益が前年同期に比べ23%減の1兆1710億円だった。同期間としては2年ぶりの減益。鉄やアルミといった原材料の高騰が重荷となり、為替相場の円安効果では補えなかった。前期比17%減の2兆3600億円としていた23年3月期の通期の純利益予想は据え置いた。
 一方、ソニーグループは1日、2023年3月期の連結営業利益(国際会計基準)が前期比4%減の1兆1600億円になる見通しを発表した。従来予想(1兆1100億円)から500億円上方修正した。音楽や映画や半導体が好調で、円安効果も業績を押し上げた。通期見通しで純利益は5%減の8400億円、売上高は17%増の11兆6000億円とする。それぞれ従来予想から上方修正した。

【北朝鮮が弾道ミサイル、日本海落下 韓国離島で空襲警報】
 2日の日経新聞【ソウル=甲原潤之介】によると、韓国軍合同参謀本部は2日、北朝鮮が同日午前8時51分ごろ、日本海に短距離弾道ミサイルを3発発射したと発表した。1発は鬱陵島の方向に飛んで公海上に落ちた。慶尚北道の鬱陵郡では午前8時55分に空襲警報が発令され、住民に退避施設への避難命令が出た。
 韓国軍によると北朝鮮はこの3発を含む合計10発以上の多様な種類のミサイルを日本海と黄海に向けて撃った。弾道ミサイルの1発は南北境界である北方限界線(NLL)を越え、鬱陵島の北西167キロメートルの地点に着弾した。
 韓国軍は落下地点について「南北分断後、初めてNLL南側の韓国領海近くに落ちた」と説明した。尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領は2日午前、緊急の国家安全保障会議(NSC)で「実質的な領土侵害行為だ」と非難した。

【広島銀行、横浜銀行陣営とシステム統合へ コスト減狙う】
 同じ2日の日経新聞は次のように報じた。
 横浜、七十七、北陸、北海道、東日本の地銀5行が共同運営する基幹システムに広島銀行が合流することが2日、わかった。広島銀はふくおかフィナンシャルグループ(FG)とのシステム共同運営を解消し、2030年度をメドに参加する見込み。クラウド技術を使って低コストで災害にも強いシステムを共同で作り上げる。コストや商品開発力に直結するシステム運営の巧拙が、地銀の収益力を左右する時代に入った。
 横浜など5行と広島銀行が月内にも発表する。大手地銀がすでに参加しているシステム連合から抜け、別の枠組みにくら替えするのは異例だ。地銀の共同システムは現在15ものグループが乱立しており、今回の動きが再編の先駆けとなる可能性がある。
 広島銀行が横浜など5行と組むのは、より大規模な連合に参加することでコスト削減の効果を大きくするためだ。横浜など5行は24年に基幹システムを汎用性の高いオープン系と呼ばれるシステムに切り替える計画で、心臓部である基幹システムをクラウドシステムに置き換えることも検討している。広島銀以外の地銀が新たに参加する可能性もある。
 広島銀行の合流が30年度とやや時間がかかるのは、このクラウドシステムを共同開発するためとみられる。システムは商品開発やサイバーセキュリティーなどとも密接に関係する。横浜など5行はこれらの分野でも連携しており、広島銀行も業務提携の可能性を探るもようだ。
地銀にとって基幹システムの維持・管理費は重い負担だ。地銀大手では経費に占めるシステム経費の割合は1~2割程度、小 規模の地銀では2~3割程度とされる。フィンテックの台頭でサービス改善のスピードが速まり、戦略的なシステム投資も必要となっている。生き残りには大規模なシステム連合への参加が不可欠だ。
 横浜など5行に広島銀行が加われば、地銀の共同システムとして預金量ベースで4位から2位へ浮上する。13行が参加する京都銀行を中核とする連合が1位。広島銀行の離脱で、ふくおかFGがどの陣営と組むかも焦点となる。

【北朝鮮ミサイル相次ぎ発射 岸田首相「ICBMの可能性」】
 3日の日経新聞【ソウル=甲原潤之介】によると、北朝鮮は3日、少なくとも3発の弾道ミサイルを発射した。日本政府は全国瞬時警報システム(Jアラート)を通じ、宮城、山形、新潟の3県に警報を出した。日本上空を通過したとみられると説明したものの、その後に防衛省が「通過していないと判明した」と公表した。
 政府はJアラートでミサイルが日本上空を通過して太平洋に向かったと発表していたものの、これを修正した。浜田靖一防衛相が「日本列島をこえずに日本海上空で消失したのを確認した」と発言した。
 Jアラートは「午前7時48分ごろに太平洋へ通過したものとみられる」と配信した。宮城、山形、新潟3県について「建物の中、または地下に避難して下さい」と周知していた。
 松野博一官房長官は3日の記者会見でJアラートについて「危険性を速やかに知らせるべく発令するものだ」と強調した。「発令された時点では日本列島上空を通過する軌道の可能性があった」と言及した。
 政府は3日、北京の大使館ルートを通じて北朝鮮に厳重に抗議し、非難した。ミサイル発射を受けて首相官邸で国家安全保障会議(NSC)を開いた。首相や官房長官、防衛相らが参加し、対応を協議した。
 首相はこれに先立ち関係省庁に被害の有無の確認、北朝鮮の動向の分析、米国や韓国などとの連携などの指示を出した。記者団に「連日の弾道ミサイル発射は暴挙であり、決して許されるものではない」と語った。
 韓国の聯合ニュースによると韓国軍は中距離弾道ミサイル以上の射程のミサイルと推定している。ICBMの可能性も分析しているという。
 北朝鮮は2日にも、短距離弾道ミサイルや地対空ミサイル(SAM)など20発以上を発射した。弾道ミサイルの1発は韓国側が主張する南北境界の北方限界線(NLL)の南側に着弾した。

【オリックスが優勝パレード 「待ち望んだ日」大阪・御堂筋に光と歓声】
 3日の毎日新聞によると、プロ野球・日本シリーズで26年ぶりの日本一に輝いたオリックス・バファローズが3日、大阪のメインストリート・御堂筋で優勝パレードを行った。沿道には多くの人が駆け付け、ともに日本一を祝った。御堂筋での優勝パレードは、2005年の阪神タイガースのリーグ優勝以来17年ぶり。
 午後5時半すぎ、中嶋聡監督や選手らが乗ったオープンカーやバスが出発してパレードが始まると、集まったファンらが手を振った。中嶋監督は「みなさんの声援のおかげで日本一になれました。盛大なパレードを本当にうれしく思います」と喜びを語った。宮内義彦オーナーに花束を手渡した吉村洋文大阪府知事も「みんなで優勝をお祝いしましょう」と盛り上げた。
 午前4時に来場したという筋金入りのファンも。大阪市の会社員、二宮春那さん(19)は「10年以上この日を待ち望んできたので、とてもうれしい。これからもオリックスを応援し続けます」と話した。
 パレードに先立ち、府内各地を彩る「大阪・光の饗宴(きょうえん)」の開宴式があり、選手らも参加した。カウントダウンに合わせて、冬の風物詩となっている「御堂筋イルミネーション」の点灯スイッチが押されると、イチョウ並木がライトアップされた。

【横浜F・マリノス、5度目のJ1制覇 攻撃サッカーでリーグ最多得点】
 5日の朝日新聞デジタルは次のように報じた。
サッカーの明治安田生命J1は最終節の5日、横浜F・マリノスが3年ぶり5度目の優勝を果たした。横浜マはアウェーのノエビアスタジアム神戸でヴィッセル神戸に3―1で勝利。20勝8分け6敗で勝ち点を68に伸ばした。3連覇を狙った2位川崎フロンターレはアウェーでFC東京に3―2で勝って勝ち点を66にしたものの、及ばなかった。
 横浜マの5度のJ1優勝は、8度の鹿島アントラーズに次いで単独2位。近年攻撃サッカーを志向してきた横浜マは今季もリーグトップの70得点を奪い、失点もリーグ最少タイの35に抑えた。横浜マは5月下旬からの6連勝で首位に立ち、その後も好調を維持。終盤は残留争いをするクラブを相手に今季初の連敗を喫して川崎に迫られたが、持ち直して頂点に立った。

【【詳報】駒大、史上初の3度目3連覇 2位は国学院 全日本大学駅伝】
 6日の朝日新聞デジタルは次のように報じた。
第54回全日本大学駅伝対校選手権大会(熱田神宮西門前~伊勢神宮内宮宇治橋前、8区間、106・8キロ)は6日に行われ、駒大が大会新記録となる5時間6分47秒で、史上初となる3度目の3連覇を達成した。通算の優勝回数も最多を更新する15に伸ばした。10月の出雲駅伝に続く今季2冠。

【COP27が開幕、議長「気候変動は優先課題」】
 6日の日経新聞【シャルムエルシェイク(エジプト北東部)=竹内康雄、久門武史】によると、地球温暖化対策を話し合う第27回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP27)が6日、開幕した。ロシアのウクライナ侵攻を背景にしたエネルギー危機に直面するなか、先進国による途上国支援や2030年までの温暖化ガス排出削減に向けた道筋で合意できるかが焦点となる。
 COP27の議長に就いたエジプトのシュクリ外相は6日に「気候変動は人類にとって現実の脅威だ」と述べた。COP27で温暖化防止に向けた具体的な成果を出すよう各国に訴えた。記者会見で「気候変動は世界の優先課題だ」と表明。世界では既に温暖化の悪影響がみられるとして「排出ゼロに向けて前進する必要がある」と強調した。
 ウクライナ政府代表団は6日の全体会議で発言し、ロシアが「全面的な戦争を仕掛けている」と非難した。排出量などの算定が難しくなっていると明らかにした。ロシアのウクライナ侵攻が気候変動対策での国際協力を「おとしめている」とロシアを批判した。
 7~8日は首脳級会合を開き、マクロン仏大統領やスナク英首相ら約100カ国・地域の出席を見込む。米国のバイデン大統領は11日に現地に入り、COP27に参加する。14日からは各国の閣僚が集まり、合意に向けた詰めの交渉に入る。
 世界気象機関(WMO)は6日に公表した報告書で、22年までの過去8年間が史上最も暖かくなったようだとの分析を示した。温暖化ガスの大気中の蓄積が進んでいるためだ。22年の平均気温は産業革命前を1.15度上回るといい、温暖化防止の国際枠組み「パリ協定」で掲げた1.5度に抑える目標に近づいていると警告した。
 国連のグテレス事務総長は6日のビデオメッセージで「地球が発する救難信号に行動で応えなければならない」と述べ、各国に温暖化対策を強化するよう促した。そのうえで「COP27はそのための場所でなければならない」と力説した。
 現状の取り組みでは約2.5度の上昇が見込まれており対策強化に向けた作業計画を議論する。
異常気象で被害を受けやすい途上国は、先進国に資金支援の拡充を求めている。大規模な資金拠出に慎重な先進国との厳しい交渉が予想される。

【南西防衛へ移動式「港」 島に桟橋接続、部隊を展開】
 7日の日経新聞は次のように報じた。
防衛省は大規模な港湾がない島しょ部に迅速に部隊を展開するため移動式の「臨時港」を開発する方針だ。緊急に桟橋を海上に浮かべて島とつなげる。海上自衛隊の輸送艦などが接岸できるようにする。台湾有事などに伴う南西諸島の防衛への対応を念頭に数年以内の配備を目指す。
 2023年度予算の概算要求で必要額を示さない事項要求として盛り込んだ。同省は「機動展開能力」を高める施策と位置づける。
 23年度に研究開発に着手し、早期に部隊で試験的に活用する。水上に浮く素材でつくり艦艇から人員や物資、装甲車などを陸に揚げられるようにする。運搬や組み立てが容易で波や塩害に耐えられる技術を研究する。
 海自の輸送艦は長さが178メートル、海面から船底までの深さを指す「喫水」は6メートルとなる。台湾に最も近い沖縄県・先島諸島でこの大きさの艦艇が入れるのは石垣島の石垣港と宮古島の平良港しかない。
 桟橋の機能を沖合までのばして船をつけられるようにすれば、小さな港湾しかない島しょ部で大型の艦艇が使える。既存の大型港湾が破壊された場合にも使用できる。

【北朝鮮、ミサイル発射は「米韓演習を受けた軍事作戦」】
 7日の日経新聞【ソウル=甲原潤之介】によると、北朝鮮の朝鮮中央通信は7日、北朝鮮による2日以降のミサイル発射が米韓空軍の訓練に対応した軍事作戦だったと伝えた。2~3日と5日に弾道ミサイルを撃ち、4日には多数の戦闘機を出動させたと報じた。米韓の軍事演習に「圧倒的で実践的な軍事措置で対応していく」と強調した。
 報道によると2日はまず黄海上の無人島を目標に、空軍基地への打撃を模擬して弾道ミサイル4発を撃った。その後、異なる高度と距離の空中目標を撃ち落とす訓練として23発の地対空ミサイルを発射したと表明した。
 韓国軍は2日、南北境界の北方限界線(NLL)南側に弾道ミサイルが落下したと発表し、韓国の鬱陵島に空襲警報が出た。北朝鮮側はこのことには触れず、韓国側が対抗措置として空対地ミサイルを海上に撃ったのを受け「2発の戦略巡航ミサイルで報復打撃を加えた」と明かした。
 3日には「超大型放射砲と戦術弾道ミサイル5発、長距離放射砲46発を日本海に発射した」と記した。韓国軍はこの日の1発が大陸間弾道ミサイル(ICBM)の試射で失敗したと分析したが、北朝鮮側はICBMを撃ったかは明らかにせず「重要な弾道ミサイル試験発射を進行した」との説明にとどめた。
 4日には500機の戦闘機を動員した空軍の大規模な出動作戦を実施し、5日は黄海の無人島に戦術弾道ミサイルなど4発を発射したと記載した。「すべての軍事作戦は目的を成功裏に達成し、わが軍隊の高度な作戦遂行能力が満足に評価された」と主張した。
 米韓両軍は10月31日~11月5日に240機あまりの軍用機を投入した軍事訓練「ビジラント・ストーム」を実施した。北朝鮮は訓練期間中、再三にわたり訓練を非難する声明を出していた。この間のミサイル発射の目的などについてはこれまで明らかにしていなかった。

【442年ぶり、信長時代の皆既月食へ】
 8日は全国的に快晴で442年ぶりの珍しい自然現象が起きるとテレビが伝える。午後6時過ぎから満月が下から欠けはじめ、7時を過ぎると上部が丸い三日月風の月が小さくなり、7時16分、それも完全に消え、赤黒い「赤銅色」のマル状のものに変わった。皆既月食である。442年ぶりの現象、織田信長(1534~1582年)の頃から絶えてなかった稀有な現象だという。東南の空の不思議を見ようと、歩道に人が並ぶ。
 皆既食は86分間続いて20時42分に終わり、その後は徐々に月は地球の影から抜けて、左側が円形の月に戻り始める。それを確認して翌朝が早いため床に就いた。のち21時49分に部分食が終わり、満月に戻ったという。
 月が天王星を隠す「天王星食」も起きた、と言うが、私は実見していない。天王星は約6等級で、薄い青色に見え、非常に条件の良い空でも肉眼で見える限界の明るさがある。普段の満月のすぐ近くであれば圧倒的な明るさに負けてしまうが、多くの地域では天王星の潜入時に月が皆既食中で暗いため、見つけやすくなる。

【アメリカの中間選挙開票始まる 上院接戦、下院は共和優勢】
 9日の日経新聞【ワシントン=坂口幸裕】によれば、アメリカ中間選挙は8日夜(日本時間9日午前)、開票が各州で順次始まった。連邦議会下院は野党・共和党が4年ぶりに多数派を奪還する公算が大きく、上院は激戦になっている。与党・民主党が議会で多数派を失えば、任期が残り2年あるバイデン大統領は厳しい政権運営を迫られる。
 中間選挙は4年に1度ある大統領選の2年後に実施される。任期2年の下院435議席すべてと、任期6年の上院100議席のうちおよそ3分の1にあたる35議席が改選対象だ。現在は上下両院で民主が多数派を握る。全米50州のうち36州で知事選も実施した。
 AP通信の出口調査によると、東部時間8日午後10時半(日本時間9日午後12時半)時点で、下院の当選確実は民主55、共和95になっている。現時点で過半数の218には届いていないものの、共和が優位に進めているもようだ。下院は現在、民主が220議席、共和が212議席を持つ。
 上院の当選確実は民主が6、共和が12で、非改選議席を含めると民主が42議席、共和が41議席を確保した。米政治サイト、リアル・クリア・ポリティクス(RCP)の分析では、与野党が激しく競る東部ペンシルベニアや南部ジョージア、西部のアリゾナ、ネバダなど8州の勝敗が多数派の行方を左右する見通し。
 現在の上院の構成は与野党が50対50で、上院議長を兼ねるハリス副大統領が1票を投じることができるためかろうじて多数派を維持している状況にある。
 選挙結果は2021年1月に就任したバイデン氏への事実上の審判の位置づけになる。24年の次期大統領選への再出馬に意欲を示すバイデン氏が率いる民主が上下両院で多数派を失えば、党内で遠心力が働く可能性がある。バイデン氏は8日、自身のツイッターで「あなたの声を届けよう。投票しよう」と呼びかけた。
 経済に対する有権者の関心が高く、40年ぶりの歴史的な高インフレのさなかの選挙戦はバイデン氏が率いる民主に逆風となった。7日時点の政党支持率は民主が45.5%、共和が48.0%。9月下旬に共和が民主を逆転して以降は差が次第に広がった。
AP通信が6~8日に実施した出口調査によると、投票した有権者に米国が直面する最も重要な問題を聞いたところ、経済・雇用が47%と最多。次いで人工妊娠中絶、移民、気候変動がそれぞれ9%だった。
 民主が議会の多数派を失えば政権運営は「より難しくなる」(バイデン氏)。予算や政策にかかわる法案成立に共和の協力が欠かせなくなり、大統領選をにらむ与野党の対立が一段と激しくなると想定されるため政策が滞るリスクが高まる。
 共和からはロシアが侵攻するウクライナへの支援縮小論が出た。物価高などで生活が厳しくなった米有権者から多額の予算が同国に向かう現状への不満がくすぶるためだ。中間選挙に多数の推薦候補を送ったトランプ前大統領が掲げる「米国第一」とも共振し、バイデン政権が議会から対ロシア政策の再考を迫られるおそれがある。
 郵便投票を含む期日前投票の利用者が過去最高を更新する見通しだ。米調査会社ターゲットスマートの調べでは、集計した8日午後時点で4300万人を超え、前回18年選挙の同時期より8%増えた。郵便投票などの集計に時間がかかり、大勢判明までに時間を要する事態も想定される。

【台湾統一に備える習近平経済、危険な「戦時統制」5年間】
 9日の日経新聞はつぎのように伝えた。
 改革・開放以来40年の中国経済史を塗り替えかねない大事件――。共産党大会閉幕式での危うい「胡錦濤(フー・ジンタオ)劇場」の余韻冷めやらぬなか、中国経済界に衝撃が走った。
 問題となったのは、国有通信大手3社が、成長のけん引役だった民間IT(情報技術)、ネット通販ビッグスリーとそれぞれ戦略提携に踏み出す大ニュースの本質である。
 典型例は、中国版LINE「ウィーチャット」を運営し、最近はゲーム事業でも世界に名をはせる騰訊控股(テンセント)だ。同社は、中国聯合網絡通信(チャイナユニコム)と「混合所有制」の官民合弁新会社を立ち上げた。新会社の主導権は国側にある。
「毛沢東が1950年代に進めた『公私合営』という名の国家による私営企業の接収方式と基本的に同じだ」。中国経済史に詳しい老知識人は喝破する。「官民合弁新会社」の裏には、「御上」の圧力が見え隠れする。民間側に断る権利などない。共産党が経営方針への介入権限を持つ党委員会を置いているからである。
 21世紀の今、勢いある民間企業の力を「官」側に吸い上げる仕組みからは、3期目に入った共産党総書記、習近平(69歳)の今後5年を見据えた経済戦略が手に取るようにわかる。それだけではない。これは、党大会で「武力行使を放棄する約束は決してしない」と習が初めて言い切った台湾統一戦略にも深く絡んでいる。
 驚くのはニュースが明らかになった11月2日という日付である。ちょうど2年前、アリババ創業者、馬雲(ジャック・マー、58歳)が突然、当局から事情聴取を受けた日なのだ。偶然とは思えない。
 20年11月2日夜、国営通信の新華社は日本画家、東山魁夷の名画と共にコラムをアップした。「馬雲、おまえは雲にすぎない」。トップの意向次第で雲散霧消する彼の運命を暗示した日でもある。
 「不用意にしゃべってはいけない。気ままにことを運んではいけない。人は思うようにはいかない」。見出しは、馬雲が当局の政策を「古くさい」と一刀両断した発言をとがめていた。
 馬雲その人を意味する馬形の雲を描いた名画と合わせれば、恐ろしい事態が想像できた。案の定、すぐにアリババ傘下の金融会社アント・グループが上場延期に追い込まれる。

【ロシア国防相、ヘルソン州西岸からの撤退を命令】
 10日の日経新聞は次のように報じた。
 ロシアのショイグ国防相は9日、ロシアが一方的に併合を宣言したウクライナ南部ヘルソン州のドニエプル川西岸からの軍の撤退を命じた。西岸地域にはロシアが2月の侵攻開始以来、唯一占領した州都であるヘルソンがあるが、攻勢を強めていたウクライナ軍に奪還される。ロシアは軍事的にも政治的にも大きな打撃を受ける。
 タス通信によると、ショイグ氏は9日、軍事侵攻を指揮するスロビキン司令官に対し「軍撤退に着手し、兵員や武器などを安全に川の向こう(東岸)に移動させるようすべての措置を講じるよう」命じた。
 これに対して、スロビキン司令官はショイグ氏に、できるだけ早く撤退を完了すると答えたうえで、ドニエプル川東岸で守備体制を固めると述べた。
 欧米の支援を受けるウクライナ軍は10月下旬、ヘルソン州で多数の集落を奪還したと発表するなど、軍事攻勢を強めていた。9月中旬には東部ハリコフ州で占領されていた地域の奪還に成功しており、ドニエプル川西岸も奪還すれば、大きな戦果となる。

【フトバンクG最終黒字3兆円 7~9月、アリババ株放出で】
 11日の日経新聞は次のように報じた。
 ソフトバンクグループ(SBG)が11日発表した2022年7~9月期連結決算(国際会計基準)は、最終損益が3兆336億円の黒字(前年同期は3979億円の赤字)だった。最終黒字は3四半期ぶり。保有する中国・アリババ集団の株式放出による一連の取引で差し引き約4兆3000億円の利益を計上したことが寄与した。ただ、アリババ株の取引を除いたベースでは赤字となる。人工知能(AI)関連の新興企業に投資するSBG傘下のビジョン・ファンドは依然苦戦しており、厳しい経営環境が続いている。
主力のビジョン・ファンド事業は7~9月期の税引き前損益が約1兆円の赤字だった。同事業が赤字を計上するのは3四半期連続で、9カ月間に計上した赤字額は合計で約5兆5000億円となった。世界的な金利高の影響で投資先企業の株価が軒並み下落した。評価が減った分を損失として業績に反映した。
 このほか、7~9月期には円安が進行したことで外貨建て負債の円換算額が膨らみ、約2000億円の為替差損を計上した。
11日に東京都内で開いた決算説明会で孫正義会長兼社長は「上場株も未上場株もほぼ全滅に近い。ビジョン・ファンドも大変苦しんでいる」と語った。傘下の英半導体設計大手アームの将来の成長に専念するため、決算発表に登場するのは今回が最後とした。今後は後藤芳光・最高財務責任者(CFO)が中心となり決算のプレゼンテーションなどを担当するという。

【円高進み一時138円台に 1日で7円上昇】
 11日夕方の日経ニュースメールは次のように報じた。
 11日の外国為替市場で円が対ドルで上昇し、一時1ドル=140円を超え138円台まで円高が進んだ。138円台は8月31日以来およそ2カ月ぶり。10日に発表された10月の米消費者物価指数(CPI)が市場予想を下回り、米連邦準備理事会(FRB)がインフレを抑え込むための利上げペースを鈍化させるとの見方が広がっている。
 円は10日夕には146円30銭台で推移しており、わずか1日で7円以上も円高が進んだ。10月21日に付けた151円94銭の直近安値からは20日程度で13円ほど円高に振れている。ドルはユーロや英ポンドに対しても8月以来の安値圏に下落しており、ドルが全面安の展開となっている。
 10日は消費者物価指数(CPI)発表を受けて米国の利上げペースが鈍り、これまで円安の原動力になってきた日米金利差の拡大が転換するとの観測が強まった。JPモルガン証券の中村颯介氏は「米金利の先高観を理由に投資家が積み上げていたドル買い・円売りのポジションが一気に巻き戻された」と分析する。

【日本の半導体「空白の10年」挽回へ 新会社ラピダス発足】
 11日晩の日経ニュースメールは、次のように報じた。
 次世代半導体の国産化を目指す新会社が11日、本格始動した。トヨタ自動車やNTTなど8社が出資し、2027年の量産を目指す。経済安全保障上、最重要の半導体は生産を台湾に依存しており地政学リスクもでている。国産化は不可欠だが、日本は2010年代に最先端製品の開発などに資金を投じられず、国際競争に敗れた。新会社は空白の10年を取り戻す「最後のチャンス」(小池淳義社長)となる。
 新会社「Rapidus(ラピダス)」は10年間で5兆円を設備投資などに充てる計画だ。8社が計73億円を出資し、政府も700億円の補助金を出す。社長の小池氏は直近まで米ウエスタンデジタル日本法人の社長を務めていた。会長には東京エレクトロン前社長の東哲郎氏が就いた。
 国産化するのは自動車の自動運転や人工知能(AI)の「頭脳」を担う次世代のロジック半導体だ。半導体は回路線幅が小さいほど高性能になる。ラピダスは27年に2ナノ(ナノは10億分の1)メートルの製品の国産化を目指す。台湾積体電路製造(TSMC)と韓国サムスン電子は3ナノの製品の量産技術を確立しており、2ナノ品も25年に量産する計画だ。小池社長は2ナノ品についての製造技術などを確立し「5年後に最先端ファウンドリー(製造受託事業)を日本で実現する」との計画を示した。
 日本の半導体産業は1970年代に国主導で日立製作所やNECなどの総合電機メーカーが高い競争力を備え、80年代後半には日本勢が世界シェアの5割を握って世界市場を席巻した。
 だが、日米貿易摩擦に伴う輸出制限などで稼ぐ力が落ち、韓国、台湾勢が急速に力をつける一方で、先端製品の開発や量産に欠かせない投資余力を失った。10年代に過熱した回路線幅の微細化を巡る投資競争に追従できず、10年近い技術的な空白が生まれた。韓台勢は不況期も巨額投資を続け、日本メーカーなどの競合を引き離し、高収益なビジネスモデルを築いた。
日本が半導体産業の再興に動くのは米中対立の激化が背景にある。現在は世界に供給される10ナノ未満の先端品の9割は台湾でつくられる。台湾海峡危機などの地政学リスクが高まっており、いったん有事となれば、これまで通り日本が半導体を確保できなくなる可能性が高い。
 日米は半導体を経済安全保障の要に位置づける。政府・自民党は国が前面に立ち国産化を後押しする方向にカジを切った。自民党は21年5月に半導体戦略を検討する議員連盟を発足。経済産業省も歩調を合わせ同年6月に「半導体戦略」をまとめた。
 TSMCの工場の国内への誘致など成果を得ながら進めてきたのが米国をパートナーとする先端品の開発構想だ。22年5月には半導体のサプライチェーン強化などを目的とする半導体協力基本原則を結んだ。今回のラピダスの設立で一連の半導体政策が大きく前進した格好だ。経産省幹部は「むしろここからが勝負だ」と気を引き締める。
 基礎研究を手掛けるのは国が主導で立ち上げた共同研究開発拠点だ。ラピダスの会長である東氏が理事長を務め、ラピダス以外に国内外の企業や研究機関も参加する。
 参加が見込まれる米IBMは先端微細回路の基礎研究で成果をあげている。日本も半導体の回路形成などに使う素材や製造装置で高いシェアをもつ。米国企業にとっても、自前の技術を量産に生かすための有力な手段になる。
 焦点となるのは、量産体制にむけたヒト、モノ、カネの確保だ。半導体製造に知見のあるエンジニアが欠かせず、将来の製造に向けては装置や工場を確保しなければならない。先行投資の局面を支える資金力も求められ、世界の大手と競うハードルは高い。
 半導体を巡っては過去に国の資金が投じられた企業や振興策の失敗も多い。00年~10年代に立ち上がった先端開発プロジェクトの多くは成果を得られず終わった。06年には東芝や日立、ルネサステクノロジ(現ルネサスエレクトロニクス)によるファウンドリー設立構想が浮上し、国も後押しした。ただ、各社の足並みがそろわず半年で頓挫した。
 日立とNEC、三菱電機の半導体事業が母体となった旧エルピーダメモリは投資競争で財務が悪化し、国の資金がつぎ込まれたものの会社更生法の申請に12年に追い込まれた。
 ラピダスは官民の知恵を集結する一方で、出資する8社や国など利害関係者が多い。トップが強いリーダシップを持つTSMCやサムスンのように素早い経営判断ができなければ、過去の失敗の繰り返しへと陥りかねない。

【米中間選挙の上院選、アリゾナ州で民主党勝利】
 12日午前、日経新聞【ワシントン=坂口幸裕】によると、米主要メディアは11日、激戦となっていた西部アリゾナ州の連邦議会上院選で与党・民主党のマーク・ケリー氏の当選が確実になったと伝えた。上院(定数100)で非改選を含む民主が49議席となり、野党・共和党に並んだ。上院選は南部ジョージア州で12月6日に決選投票が実施されるほか、西部ネバダ州で接戦が続く。
 米中間選挙は11日も開票作業が続いた。事前予想で優位とみられていた共和を民主が追い上げ、大勢判明になお時間がかかっている。民主が上院選で残るネバダ、ジョージアのいずれかで勝利すれば50議席以上の確保が決まり、上院議長を兼ねるハリス副大統領が1票を持つため多数派を維持することになる。
 連邦議会下院選は全議席の9割超で情勢が判明した。AP通信の出口調査によると、東部時間11日午後10時半(日本時間12日午後0時半)時点で、下院の当選確実は民主201、共和211。4日目の開票作業でも、20を超える議席で勝敗が決まらず、いずれも過半数の218に届いていない。
 中間選挙は4年に1度ある大統領選の2年後に実施される。任期2年の下院435議席すべてと、任期6年の上院100議席のうちおよそ3分の1にあたる35議席が改選対象だ。現在は上下両院で民主が多数派を握る。

【米中間選挙、民主が上院多数派を維持 ネバダ州制す】
 13日午前の日経新聞速報メールが伝える【ワシントン=坂口幸裕】によると、米中間選挙は東部時間12日までの開票の結果、連邦議会上院で与党・民主党が多数派を維持する見通しになった。複数の米主要メディアが報じた。激戦となった西部ネバダ州を民主が制した。下院は野党・共和党がリードしているものの過半数に届いておらず、開票が続いている。…
 米メディアによると、上院の当選確実は民主が14、共和が20で、非改選議席を含めると民主が50議席、共和49議席になった。12月6日に決選投票を実施する南部ジョージア州で共和が勝利しても現在の上院の構成と同じ50対50となり、上院議長を兼ねるハリス副大統領が1票を持つため民主が多数派を維持することが固まった。
 接戦だった東部ペンシルベニア州で民主が議席を奪い、同ニューハンプシャー州も民主が死守した。西部アリゾナ州やネバダを含め、民主がいずれもトランプ前大統領が推薦した共和候補を破った。支持候補が激戦州で相次ぎ敗北したことで、2024年大統領選をにらむトランプ氏にとって打撃になる。
 AP通信によると、東部時間12日午後9時30分(日本時間13日午前11時30分)すぎの時点で、下院の当選確実は民主203、共和211になっている。いずれも過半数の218に届いていない。下院は現在、民主が220議席、共和が212議席を持つ。
米紙ワシントン・ポストによると、事前に接戦が予想されたペンシルベニアやアリゾナなど激戦州の投票率は前回18年より上昇した。40年ぶりの高インフレのさなかでバイデン大統領の支持率は40%台前半に低迷していたが、人工妊娠中絶の権利擁護や民主主義の危機を訴えて支持層に投票を呼びかける民主の戦略が一定の成果を挙げた。
 今回の中間選挙は郵便投票を含む期日前投票が前回18年の中間選挙より2割ほど増えたため、これまでに比べて大勢判明までに時間がかかっている。事前の世論調査で共和が優勢だとの予測が目立ったが、接戦区が多かったことも想定より遅れる理由になった。

【米中間選挙、政敵たたきに賭けたバイデン氏 再選に望み】
 14日午前の日経ニュースメールは次のように報じた。
バイデン米大統領の命運を左右する中間選挙は与党・民主党が事前の予想を上回る善戦を演じた。大敗を免れたバイデン氏は2024年大統領選の再選に望みをつなぎ、復権に影が差す共和党のトランプ前大統領と明暗を分けた。
「米国、そして民主主義にとって良い日だった」。投開票から一夜明けた9日、バイデン氏は記者会見で笑顔をみせながらこう語った。事実上の勝利宣言のような光景だった。
 バイデン氏が高揚するのもムリはない。連邦議会の下院は野党の共和党が多数派の奪還に向けてリードするが、民主党の議席減は限定的にとどまる公算が大きい。上院は多数派を維持し、12月の南部ジョージア州の決選投票しだいでは議席を増やす可能性すらある。
 世論調査にあった共和党が大勝する「赤い波」はおきなかった。赤は共和党のシンボルカラーで、民主党の青と対比される。
米ライス大の歴史家、ダグラス・ブリンクリー氏は中間選挙について「下院だけでなく、上院まで失えば『バイデンおろし』がおきかねない。上院で多数派を維持できれば、再選への足場を固めることができる」とみていた。
 4年に1度の大統領選の合間の年にある中間選挙は現職の大統領の実績を問う信任投票になりやすい。政権への批判票が集まり、与党にとって厳しい結果になるのが通例だ。1934年以降の平均でみると、下院(任期2年、全435議席が改選)はおおむね28議席、上院(任期6年、全100議席の3分の1が改選)では4議席ほどを失っている。
 下院は就任後に初の中間選挙に臨んだ民主党のクリントン、オバマ両大統領の52議席減、63議席減と比べると打撃は小さい。
 善戦となった一因にはバイデン氏の方針転換がある。「この選挙は根本的に異なる2つの米国のビジョンを巡る選択だ」。選挙戦で同氏はこう訴え、自らの信任投票ではなく民主党と共和党のどちらが望ましいかを有権者に問う選挙に位置づけようとした。
 この一環で、大統領に就任後は封印に努めてきたトランプ氏への名指しの批判を繰り広げた。「トランプ氏やその支持者の考え方は半ばファシズムのようだ」。こんな表現でトランプ氏らを断じたこともある。20年大統領選の結果を否定し、民主主義に危機をもたらしかねない存在とみなした。

【日韓首脳3年ぶり会談 元徴用工問題、早期解決で一致】
 13日午後の日聞ニュースメール【プノンペン=重田俊介、恩地洋介】によると、岸田首相は13日、訪問先のカンボジアの首都プノンペンで韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領と首脳会談に臨んだ。日韓首脳の正式な対面での会談は2019年12月以来およそ3年ぶり。懸案の元徴用工問題について早期に解決する方針で一致した。
 およそ45分間会談した。ミサイル発射を続ける北朝鮮について協議し非難した。「自由で開かれたインド太平洋」の実現に向けて連携すると確認した。首脳間での意思疎通を継続していくことも確かめた。
 日韓関係は「国交正常化以降、最悪」といわれるほど悪化していた。韓国側が慰安婦問題に関する日韓合意を事実上破棄したほか、韓国大法院(最高裁)が18年に元徴用工への賠償を日本企業に命じる判決を出したためだ。
 元徴用工問題を巡って首相は、韓国側が一定の解決策を示すことが会談の前提との立場をとってきた。両首脳が9月にニューヨークで30分ほど協議した際も非公式の「懇談」との位置づけにとどめている。
尹氏は元徴用工問題の調整状況を説明したとみられる。尹政権は外交ルートを通じ、韓国の企業などが出資する財団が日本企業の賠償金を肩代わりする案を提示した。
 首相は「外交当局間での協議が加速していることを踏まえ懸案の早期解決を図ることで改めて一致した」と述べた。会談後にプノンペンで記者団の質問に答え。
 韓国側によると両首脳は新型コロナウイルスの影響で滞っていた両国間の民間交流を拡大する考えで一致した。日韓は互いに査証(ビザ)なしの渡航が可能になった。
 首相は会談の冒頭でソウルの梨泰院(イテウォン)で多くの犠牲者が出た雑踏事故に哀悼の意を示した。尹氏は日本人2人が亡くなったことへの弔意を表明した。
 今回正式な会談に踏み切ったのは、北朝鮮による相次ぐ弾道ミサイル発射をはじめ安全保障上の事情が大きい。北朝鮮は7度目となる核実験の準備も進めており、日米韓3カ国を基盤に抑止力の強化を急ぐ。
 韓国海軍が18年に自衛隊機に火器管制レーダーを照射する事件が起き、自衛隊と韓国軍の関係も冷え込んだ。外務・防衛担当閣僚協議(2プラス2)などの枠組みもない。

【米民主、無党派支持で人事権確保 上院多数派を維持】
 13日昼の日経ニュースメール【ワシントン=坂口幸裕】によると、米中間選挙で与党・民主党が連邦議会上院の多数派を維持し、政府高官や裁判官の人事を承認する権限を確保した。多数派の行方を決した激戦州でトランプ前大統領が推薦した野党・共和党候補が相次ぎ敗れ、2024年の次期大統領選をにらむ同氏に遠心力が働く可能性がある。
 AP通信の出口調査と米フロリダ大の「米選挙プロジェクト」のデータによると、今回の中間選挙全体の投票率は18年に及ばないものの、上院選での接戦が事前に予想された州では前回を上回るケースが目立った。東部ニューハンプシャーは3ポイント、同ペンシルベニアは4ポイント、西部アリゾナは3ポイントそれぞれ18年より上昇した。
 3州とも投票先を民主候補と回答した割合が共和候補を上回った。いずれの州も過激な主張を展開するトランプ氏の推薦候補が共和から出馬した州だった。バイデン大統領は選挙戦で人工妊娠中絶の権利擁護や民主主義の危機を訴え、若い世代や女性に投票を呼びかけ続けた戦略が奏功した面がありそうだ。
上院選では3州に加え、激戦になった西部ネバダ州でもトランプ氏の支持候補が敗れた。有権者の間で好き嫌いが割れるトランプ氏が息のかかった候補の応援に出向いて前面に出たことで無党派層が離反したとの批判がくすぶる。共和内からは「候補の足を引っ張った」(ポール・ライアン元下院議長)との責任論が浮上する。
 今回の中間選挙で接戦となった州が過去の大統領選の勝敗も左右してきただけに、激戦州で推薦候補が敗れたトランプ氏にとって打撃になったのは間違いない。トランプ氏が軸だった24年の大統領選の党候補者指名争いで、南部フロリダ州のロン・デサンティス知事ら他候補への期待が広がる事態も想定される。
 再選出馬を見すえるバイデン氏にとっては上院の多数派維持という最低限の結果を残し、民主内に根強くある「不出馬論」を封じる材料を得た。
 米議会は上下両院の2院制で成る。法案や予算案は両院で可決する必要がある。一方、上院は条約の批准のほか、大統領 が指名した閣僚や大使を含む政府高官、裁判所判事らの人事を認めるかどうかなど下院にない権限を持つ。
 民主支持層に関心が高いのは最高裁判事の人事だ。判事9人で構成し、現在の構成は保守派6人、リベラル派3人と保守派に傾く。欠員が出ればバイデン氏が指名する候補を与党だけで承認できる体制を保持した。
 最高裁と下級裁判所を含む連邦裁の判事は時の政権が重視する政策に「NO」を突きつけられる。6月に中絶を憲法が保障する権利と認めた1973年の判決を覆す判断を下したのが典型で、リベラル派を中心に反発が広がった。下級の控訴裁が事実上の最終審となるケースも多く、人事権を維持できるかは民主が進める政策にもかかわる。
 とはいえ、支持率が40%ほどに低迷し、現在79歳という米国史上最高齢の大統領の年齢に対する不安が消えたわけではない。米アメリカン大のデビッド・バーカー教授は「バイデン氏再選のチャンスはトランプ氏の出馬だ」と指摘し、共和内でトランプ氏が出馬できなければバイデン氏の動向にも連動するとの見方を示す。
 焦点は下院で民主が過半数を維持するか、共和が4年ぶりに奪還するかに移った。上下両院の多数派が異なる「ねじれ議会」になればバイデン政権は厳しい政権運営を迫られる。

【バイデン氏、習氏に「脅迫停止要求」 14日夕に首脳会談】
 14日朝の日経新聞ニュースメール【ワシントン=中村亮、バリ島=大越匡洋】によると、米国のバイデン大統領は14日夕、中国の習近平国家主席と対面で会談する。バイデン氏は会談で航行の自由を尊重し、他国と領有権を争う海域で公船を航行させるなどの脅迫行為を停止するよう求める方針だ。軍事衝突を望まない立場も重ねて伝える。
 サリバン大統領補佐官(国家安全保障担当)が13日、明らかにした。会談は15~16日に20カ国・地域(G20)首脳会議の舞台となるインドネシア・バリ島で開く。米中首脳の対面会談は2019年6月に大阪で開いて以来。バイデン氏の21年1月の大統領就任後では初めて。
 米政府高官は14日、バリ島で記者団に「会談の共同声明はない」と述べた。首脳同士が相互の課題の優先順位を共有し、両国の競争が対立や衝突につながらないよう対話を継続する枠組みを探る。今回の会談の形式を「ビジネスライク」と表現しており、バイデン氏と習氏が通訳だけを交えて2人だけで話す機会はない見通しだ。
 サリバン氏はカンボジアからインドネシアに向かう大統領専用機内で記者団に対し、米中首脳会談について「時間に制限を設けているわけではないが数時間ぐらいに及ぶだろう」と述べた。「首脳対話が効率的に関係を管理するために最も重要だ」と強調した。
 バイデン政権はルールに基づく国際秩序に従い、脅迫行為をやめるよう中国に訴える。米国は中国が台湾に対する軍事的圧力を強めて現状変更を進めていると警戒する。経済面では中国が貿易制限で相手国の経済に打撃を与えて外交を優位に進めようとしていると非難してきた。
 バイデン氏は13日、カンボジアの首都プノンペンで日本の岸田首相や韓国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領、オーストラリアのアルバニージー首相とそれぞれ会談した。サリバン氏は習氏との会談について各国と意見交換したと説明。「最も緊密な同盟国との調整を確実にする目的だった」と指摘した。
 バイデン氏はプノンペンで記者団に対して習氏との会談をめぐり「どこにレッドライン(越えてはならない一線)があるのか、今後2年間にわたってお互いにとって最も重要なことはなにかを理解する」と言及した。「私はいつも彼と率直な議論をしてきた」とも話した。

【ポーランドにミサイル着弾で2人死亡 ロシアは否定】
 16日未明の日経新聞ニュースメール【ロンドン=大西康平】によると、ポーランド政府は15日、同国東部プシェボドフにロシア製のミサイルが着弾し、2人が死亡したと発表した。ロシア軍によるウクライナへのミサイル攻撃が国境を超えて着弾した可能性がある。主要7カ国(G7)と北大西洋条約機構(NATO)は16日、インドネシアのバリ島で緊急首脳会合を開き、対応を協議する。
 ポーランドのモラウィエツキ首相は国家安全保障と防衛問題に関する閣僚委員会を緊急招集したと、同国の政府広報担当者のミュラー氏がツイッターで投稿した。
 米ホワイトハウスは15日、バイデン大統領がポーランドのドゥダ大統領と電話協議したと発表した。ドゥダ氏がウクライナとの国境付近で起きた爆発に対する現時点での評価を説明した。バイデン氏はポーランドの調査を全面支援すると約束。米国によるNATOへの鉄壁の関与を確認した。
 ロシア国防省は関与を否定して「意図的な挑発行為である」としている。
ロシア軍は15日、首都キーウをミサイルで攻撃した。東部ハリコフや北部ジトーミル郊外でも爆発があり、全土のインフラ施設などを狙った、従来と比べても大規模な攻撃があったとみられる。
 ポーランドはNATO加盟国で、加盟国の民間人がロシア軍の攻撃で死亡したとすれば、初めての事例になるとみられる。北大西洋条約の5条は一つの加盟国に対する攻撃をNATO全体への攻撃とみなし、加盟国は攻撃された国の防衛義務を負う集団的自衛権を定める。
 ロイター通信によると、ポーランドは北大西洋条約の4条に基づく協議を要請する必要があるか検討しているとミュラー氏が明かしたという。第4条では、加盟国が領土保全や政治的独立が脅かされていると認めた時は、いつでも協議するとしている。NATO当局は「ポーランドでの爆発に関する報告を調査しており、同盟国であるポーランドと緊密に連携している」とした。
 加盟国はポーランドの状況を憂慮している。ドイツのベーアボック外相は「私の思いはポーランドとともにあり、状況を注意深く監視している」とツイッターに投稿。チェコのフィアラ首相は「ポーランドへのミサイルの着弾が確認されれば、事態の激化に進展するだろう」と投稿した。
 ウクライナへのミサイル攻撃については米欧側の非難が相次いでいた。英国のクレバリー外相は15日、「ウクライナの都市をミサイル攻撃で無慈悲に狙ったことは、プーチンの弱さをあらわにした」とツイッターに投稿した。

【世界経済失速 中国成長3%台、米欧は後退予測広がる】
 16日早朝の日経ニュースメールは次のように報じた。
 世界経済の失速が鮮明だ。中国は新型コロナウイルスを封じ込める「ゼロコロナ」政策などの影響で2022年の成長率見通しが年初の予測を2ポイント近く下回り、3%台に沈む。直近10月は消費が減少に転じた。米欧は歴史的な物価高で急速な利上げを迫られ、22~23年に景気後退に入るとの予測が広がる。日本は7~9月期に4四半期ぶりのマイナス成長に陥った。けん引役不在の世界は先行きの不透明感も強い。
 QUICK・ファクトセットがまとめた民間予測で、22年の中国の実質成長率は3.3%だ。年初の予測から1.8ポイント下がった。上 海市の封鎖などで春に景気が急激に悪化した後、夏場に出てきた持ち直しの兆しが足元で再びしぼむ。
 中国国家統計局が15日発表した10月の小売売上高は前年同月比0.5%減った。マイナスは5月以来だ。全体の1割を占める飲食店収入が8%減ったほか、家電、衣類などが軒並み落ち込んだ。
 消費は11月に入っても鈍い。象徴的なのは、11日に最終日を迎えた年間最大のインターネット通販セール「独身の日」だ。1~11日の全国宅配便取扱量は前年同期比11%減少した。最大手のアリババ集団などは期間中の売上高を公表しない異例の対応をとっている。
 政府の規制強化で住宅不況も出口が見えない。10月の住宅販売面積は前年同月を2割超下回った。国内総生産(GDP)の3割を占める不動産関連の低迷で家電や家具の販売が伸びず、建材などの生産も勢いづかない。
 世界銀行によると、世界の実質GDP(購買力平価ベース)は中国が世界貿易機関(WTO)に加盟した01年から21年までに1.9倍に増えた。この間の中国の伸びは5.3倍で世界の経済成長の31%を占める計算になる。寄与度は米国の10%を大きく上回る。
成長エンジンの変調は世界経済に暗い影を落とす。日本工作機械工業会が集計する工作機械受注は10月に前年同月比5.4%減と、2年ぶりにマイナスとなった。ゼロコロナ政策下の中国の停滞が響いている。ファナックは中国での受注が7~9月期に前年同期比7%減った。23年3月期の連結で前期比8%の営業増益を見込んでいたのを10月末に一転、1%の減益見通しに下方修正した。
 影響は生活用品にも及ぶ。中国の10月の化粧品輸入量は24%減と9年8カ月ぶりの減少率となった。資生堂は1~9月期の中国売上高が前年同期比11%の大幅減。横田貴之最高財務責任者(CFO)は「中国の競争環境は厳しい」と吐露。
 「世界の市場」の需要減は資源価格にも表れる。シンガポール取引所(SGX)で鉄鉱石の期近先物は1日、一時1トン80ドルを下回り、20年2月以来の安値をつけた。鉄鉱石価格は世界の貿易量の約7割を占める中国の景況を敏感に映す。
 一時急騰が目立ったエネルギー相場も足元の値動きは低調だ。米国のWTI(ウエスト・テキサス・インターミディエート)原油先物は1バレル85ドル前後と、ロシアのウクライナ侵攻直後のピーク比で4割弱安い。中国の原油輸入量は、WTIが下落基調となった6月から4カ月連続で前年の水準を下回った。
 アジア向け液化天然ガス(LNG)のスポット価格も、足元は8月のピークより6割ほど安い。やはり中国の調達減が下押し圧力になっている。
 中国は08年のリーマン危機後は巨額の経済対策を打って成長を続け、世界経済を下支えした。その役割を果たす存在が見当たらない状況になっている。米S&Pグローバルがまとめた総合購買担当者景気指数(PMI)は中国が9月から2カ月連続、米欧は7月から4カ月連続で、好不況の境目の50を下回る。
 米欧は物価高でコロナ後の回復シナリオの見直しを迫られる。日本経済新聞が民間エコノミスト10人に聞いたところ米国は6人、ユーロ圏は10人全員が23年までに景気後退局面に入ると答えた。
 ユーロ圏は2人が「すでに後退」とみる。後退局面入りは時間の問題で7人は22年中、1人は23年前半と予測する。米国も3人が22年内、2人が23年前半、1人が同年後半と答えた。
 物価高を鎮めるための急ピッチの利上げの軟着陸は難しい。景気後退の確率の予測平均値は、米国では23年前半が濃厚で1~3月期が48%、4~6月期が46%となった。ユーロ圏は22年10~12月期が61%、23年1~3月期が67%、4~6月期が55%となっている。
 日本は7~9月期のGDPが前期比年率で実質1.2%減り、4四半期ぶりに落ち込んだ。内需の柱である個人消費や設備投資の伸びが鈍化、広告関連で海外への支払いが急増したマイナス要因が上回った。回復基調の設備投資もコロナ前の水準にはなお届いていない。外需が停滞すれば、腰折れしかねない弱さを抱える。
 米欧中がそろって変調を来すのはコロナ禍当初の20年春以来。世界経済が再び反発力を発揮できるかは見通せない。

【バイデン氏「ロシアから発射の可能性低い」 G7・NATO首脳が共同声明「調査を全面的に支持」】
 16日の日経新聞ニュースメール【バリ島=重田俊介】によると、主要7カ国(G7)と北大西洋条約機構(NATO)は16日、インドネシアのバリ島で緊急首脳会合を開いた。ロシア製ミサイルがポーランド東部の村に着弾したとの情報に関し、40分ほど対応を協議した。ロシアによるウクライナへのミサイル発射を非難する共同声明を出した。
 バイデン米大統領や岸田首相、英仏独などの首脳らが出席した。共同声明はポーランドへのミサイルについてロシアが発射したとは断定せず「ポーランドが進める調査への全面的な支持と支援を提供する」と記した。
 「調査が進むにつれて適切な次の段階を決定するために緊密な連絡を取り続けることに同意する」と強調した。
 バイデン氏は協議後、記者団にロシアからの攻撃か聞かれ「軌道から考えるとロシアから発射された可能性は低い」と答えた。
 岸田首相は会合で「大変憂慮している。このような時だからこそG7、NATO、有志国の連携、協力を一層密にしていきたい」と発言した。同日午前に予定していた日英首脳会談は中止した。
 15日に開幕した20カ国・地域首脳会議(G20サミット)は首脳宣言の採択に向けて調整を続けている。ポーランドへの着弾は宣言のとりまとめなどに影響する可能性がある。
 ロシアのウクライナ侵攻を批判し、核兵器の使用を認めないことを盛り込む方針だ。ロシアは自国への批判に異論があることを併記するよう求めている。
 ポーランドはNATOの加盟国だ。米欧30カ国で構成するNATOは加盟国のどこかが武力攻撃を受ければ、すべての締約国への攻撃とみなしてともに反撃する集団安全保障体制をとる。
 ポーランドはNATOの加盟国だ。米欧30カ国で構成するNATOは加盟国のどこかが武力攻撃を受ければ、すべての締約国への攻撃とみなしてともに反撃する集団安全保障体制をとる。

【防衛費増、法人税など財源に 有識者会議の提言原案 「反撃能力」保有は不可欠、5年以内に配備を】
 17日朝の日経ニュース・メールは、政府の防衛費増額に関する有識者会議がまとめた提言の原案が明らかになった、と報じた。財源について「幅広い税目による国民負担が必要だ」と記し、法人税を例示した。相手のミサイル発射拠点をたたく「反撃能力」は保有が不可欠だと強調した。政府は提言を基に戦後初となる防衛力の抜本的な強化へ踏み出す。
 日本は長く軽武装・経済重視の路線を歩んできたが、中国による台湾有事リスクやロシアのウクライナ侵攻といった国際情勢の激変で防衛力の強化が必要になった。
 防衛費増を支持する世論が高まり、企業も経済安全保障上の対応を迫られる時代になった。国民生活や経済活動の安全を守る費用を薄く広く持続的に負担するには法人増税が選択肢となる。
 与党内には増税ではなく国債発行で対応すべきだとの意見がある。政府は提言内容を踏まえ、2023年度予算や税制改正大綱をまとめる年末に向けて与党と防衛費増の方針を調整する。
 原案は防衛力強化には安定財源が必要だと強調し「負担を将来世代に先送りするのは適当でない。国債依存があってはならない」と訴えた。まず歳出改革に取り組む必要性も明記した。
 防衛費増は「持続的な経済成長の実現と財政基盤の確保」を重視すべきだと主張したうえで「国民各層の負担能力や経済情勢への配慮は必要」とも盛り込んだ。法人増税には「国内投資や賃上げに取り組む企業の努力に水を差さないよう」考慮を求めた。
 日本は国内総生産(GDP)に対する租税収入割合が経済協力開発機構(OECD)諸国と比べ低いと問題提起した。「租税負担を増やす必要があると率直に国民に説明すべき」だと指摘した。

【トランプ氏、逆風下の出馬強行 大統領選へ共和混迷も】
 17日早朝の日経ニュース・メール【ワシントン=坂口幸裕】によると、トランプ前米大統領は15日、2024年の次期大統領選に共和党候補として出馬すると表明した。8日の中間選挙で共和が苦戦を強いられた責任を問う声が高まる中で強行したトランプ氏には焦りもうかがえる。政権奪還を悲願とする共和が候補者指名争いで党内の混迷が深まるリスクをはらむ。
 15日の演説はテレビの視聴者数が多い現地時間午後9時過ぎに始まった。「米国の復活はいま始まる」。トランプ氏は南部フロリダ州の邸宅マール・ア・ラーゴに集めた数百人の支持者らを前に、バイデン政権下で高止まりするインフレなどを非難した。
 自身が大統領だった当時に触れ「2年前、米国は偉大な国だった。間もなく再び偉大な国になる」と訴えた。ロシアによるウクライナ侵攻は自らが大統領だったら起きていなかったとまで主張した。
 トランプ氏は勝利した16年11月の大統領選への立候補を表明したのは1年5カ月前だった。今回、一部側近が静止したにもかかわらず、残り2年という異例の早いタイミングでの出馬表明に駆り立てたのは台頭するフロリダ州のデサンティス知事の存在がある。2人は中間選挙で明暗を分けた。
 デサンティス氏は大統領選の対応に言及を避けているものの、接戦州などから応援演説に声がかかった。自身の知事選では民主党候補に得票率で20ポイント近い差をつけて圧勝した。トランプ氏が20年大統領選でフロリダで3ポイント差で勝利したのに比べ、選挙の強さも印象づけた。
 党内で「彼(デサンティス氏)が望むと望まざるに関係なく共和のリーダー」(シンシア・ルミス上院議員)との声が高まるゆえんだ。トランプ氏がデサンティス氏を「聖人ぶったロン」と呼び、SNS(交流サイト)などでも攻撃を続けるのは危機感の表れでもある。
 上院選の激戦州で相次ぎ推薦候補が敗れたトランプ氏には逆風が吹く。選挙の直前の世論調査で拮抗していた上院選の6州で推薦候補が出馬したが、共和が勝ったのは1州のみ。西部アリゾナや同ネバダなど4州で敗北し、残る南部ジョージア州は民主と共和の上位2候補が12月6日の決選投票に進んだ。
 敗因は無党派層の離反だ。激戦州は過去の大統領選の勝敗も左右してきた。精力的に応援に駆けつけたトランプ氏は支持候補の大半が勝ったと強弁するが、共和が次期大統領選に同氏を立てて臨んでも勝てないという見方が広がりつつある。
 調査機関YouGovが選挙後の9~11日に実施した世論調査で24年大統領選に2人のどちらが出馬するのが望ましいかを聞いたところ、デサンティス氏が42%でトランプ氏の35%を上回った。熱心な共和党員ほどトランプ氏を支持する一方、無党派に近い共和支持層でトランプ氏と回答したのは21%、デサンティス氏は45%だった。
 今回の中間選挙でトランプ氏が推薦した候補は共和の予備選で勝ち抜いても、過激な言動を嫌う無党派層から支持を得られなかった面がある。大統領選でもその二の舞いになりかねないとの懸念が高まっている。
 トランプ政権で副大統領を務めたペンス氏を推す声もある。最近、米メディアのインタビューで、トランプ氏が再選されるべきかと問われ「将来的にもっと良い選択ができるようになるだろう」と踏み込んだ。自ら出馬する可能性は「私の役割は何なのか考える」と否定しなかった。
 トランプ氏にはなお党内に支持者が多い現実もある。AP通信の出口調査などによると、結果が出た上下両院選の計180人の推薦候補のうち162人が13日までに当選を確実にした。党内で一定の足場を築いただけにトランプ氏の支持勢力と距離を置く議員の間で対立が先鋭化するおそれもある。
 機密文書の扱いでトランプ氏の家宅捜索に踏み切った米連邦捜査局(FBI)の捜査を意識しているとの見立てもある。大統領選の候補者になれば司法省が政治介入を懸念し、起訴しにくくなるとの読みだ。出馬表明を急いだ理由に挙げられる。

【南部ヘルソン州のヘルソン市では鉄道が復旧】
 19日の【キーウ共同】によると、ウクライナのゼレンスキー大統領は19日のビデオ演説で、同国軍のザルジニー総司令官らと会議を開き、南部や東部のさらなる奪還に向けた計画を話し合ったと明らかにした。激戦地の東部ドネツク州では、ロシアの攻撃に抵抗できるよう軍部隊にあらゆる支援を行うと強調。奪還の加速に意欲を見せた。
 ウクライナ軍が奪還した南部ヘルソン州のヘルソン市では鉄道が復旧し、19日には2月24日の侵攻開始以来初めての列車が首都キーウ(キエフ)から到着した。州内には各地からの支援物資がトラックで続々と到着している。

【トランプ氏のTwitterアカウント復活 マスク氏表明】
 20日午後の日経ニュースメール【シリコンバレー=白石武志】によると、米ツイッターを買収した起業家のイーロン・マスク氏は19日、2021年に同社のSNS(交流サイト)から永久追放したトランプ前米大統領のアカウントを復活させると明らかにした。トランプ氏は24年の次期米大統領選に出馬を表明したばかり。マスク氏による早急な判断が議論を呼ぶのは必至だ。
 マスク氏は18日から自らのツイッターアカウント上でトランプ氏の復帰をみとめるべきかを「はい」か「いいえ」の二択で答えるよう呼びかけるアンケートを実施していた。締め切りに設定した19日夕までに約1508万票が投じられ、トランプ氏の復帰に賛成が51.8%、反対が48.2%だった。
 マスク氏は19日夕、「人々は話した。トランプ氏は復帰する。民衆の声は神の声」とツイートし、アンケートの結果に従ってトランプ氏のツイッターアカウント復活を認める方針を示した。
 マスク氏はツイッターの買収が完了した10月下旬に同社のコンテンツモデレーション(不適切な投稿の監視・削除)を監督する評議会を設置し、有力アカウントの停止や復活などの重大な判断にあたっては有識者の意見を取り入れる方針を示していた。
 ツイッターは21年1月に起きた米連邦議会議事堂襲撃事件の際のトランプ氏の投稿を精査し、さらなる暴力行為をあおる危険性があると判断して同氏を永久追放した。「言論の自由を守る」と表明してツイッターを買収したマスク氏は22年11月8日投開票の米中間選挙の後にトランプ氏の復帰を認めるか否かを判断する考えを示していた。
 トランプ氏は15日に米南東部フロリダ州で演説し、24年の次期米大統領選に出馬すると表明した。永久追放される直前にツイッター上で約8800万人のフォロワーを抱えていたが、現在は自ら立ち上げたSNS「トゥルース・ソーシャル」上で情報発信を続けている。トランプ氏は19日、同SNSへの投稿でツイッターに戻る考えはないと述べた。
 米共和党の一部でトランプ氏のツイッター復帰を望む声がある一方、米民主党を中心とする左派は反対していた。トランプ氏が今後、ツイッター上でどのように振る舞うかは不透明だが、同氏が不正確な情報発信を続けた場合には広告主らの離反を招く可能性がある。

【COP27閉幕、途上国支援基金で合意】
 20日昼の日経速報ニュース【シャルムエルシェイク(エジプト北東部)=塙和也】によれば、第27回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP27)は20日、気象災害で「損失と被害」を受けた途上国を支援する基金の創設を決め、閉幕した。温暖化対策の輪に途上国をつなぎとめたが、本丸の温暖化ガスの排出削減でめぼしい進展はなかった。気温上昇の加速に歯止めをかける踏み込んだ対策は課題として持ち越す。各国には2023年末までに排出削減目標を上積みする...

【止まらぬ「辞任ドミノ」 寺田総務相更迭、政権に打撃】
 21日午後の日経ニュースメールは次のように報じた。
 「岸田首相が寺田稔総務相を事実上更迭したことにより、閣僚の辞任はこの1カ月で3人となった。国会で21日から始まる202 2年度第2次補正予算案の審議に影響するのは避けられない。止まらぬ「辞任ドミノ」は首相の政権運営に打撃となる。
 首相は20日夜、首相公邸で寺田氏の辞表を受理した。その後、記者団に補正予算や世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の被害者救済などを挙げて「重要課題に答えを一つ一つ出すべく努力する」と語った。「正念場を迎えていると感じ、辞任を認めた」と述べた。
 寺田氏の更迭により、政府・与党が11月中の成立を目指す第2次補正予算案への影響は避けられない見通しだ。
国会は21日に衆参両院で鈴木財務相が財政演説し、24日からは衆院予算委員会での実質審議に入る予定だった。野党は首相に寺田氏の辞任について国会で説明するよう求めており、予定通りに審議を始められるかは見通せなくなった。
 補正予算の成立後には旧統一教会の被害者救済を巡る法案の審議を控える。政府が提出予定の新法の内容を巡り、寄付金の規制のあり方など与野党の間にはなお溝がある。
 今国会の会期は12月10日まで。補正予算の成立が遅れると、被害者救済に関する法案に充てる時間は短くなり、会期延長が視野に入る。会期を延長すれば、12月以降に本格化する23年度の税制改正や予算編成も遅れる恐れがある。
 与党内には1カ月弱で3人の閣僚が相次ぎ辞任した事態を受け、23年1月召集の通常国会の前に内閣改造・党役員人事に踏み切るべきだとの意見もある。
 首相は19日の記者会見で内閣改造に関して「適切なタイミングを判断したい」と含みを持たせた。」

【中国ハイテク13品目シェア拡大 EVや素材、21年調査】
 22日夕方の日経ニュースメールは次のように報じた。
 「中国企業が世界のハイテク分野で一段と存在感を高めている。日本経済新聞社が主要な製品やサービスの2021年の世界シェアを調べたところ、中国勢は電気自動車(EV)や電池向け先端素材などハイテク13品目でシェアを拡大した。地政学リスクも高まるなか、改めてサプライチェーン(供給網)の中国依存が浮き彫りになり、企業は対応を迫られる。
 世界の経済活動で重要な最終製品やサービス、中核部品、素材の56品目を対象に「主要商品・サービスシェア調査」を実施し、それぞれについて上位5社の企業のシェアを調べた。EVやスマートフォンなど最終製品のほか、部材など主なハイテク28品目では中国勢のシェア拡大が13、低下が6だった。残りの9品目については上位5社に中国企業が入っていない。
バイデン米政権が先端半導体の対中輸出を厳しく規制するなど、経済安全保障を巡り米中は鋭く対立する。米国は日本にも対中規制への追随を迫る。台湾有事なども念頭にサプライチェーンの見直しが求められるが、調査結果をみると、中国企業のシェアが高い。
 台頭が目立つのはEV関連だ。車載電池は世界首位の寧徳時代新能源科技(CATL)のシェアが38.6%と20年から12ポイント余り上昇した。比亜迪(BYD)と合わせた中国勢のシェアは46%になる。
 BYDはEVでもルノー・日産自動車・三菱自動車の日仏連合を抜き4位に浮上した。基幹部品の車載電池を内製する強みを生かし、EVの価格を抑えている。22年1~6月の販売台数でみると、米テスラに次ぐ2位につける。
 電池部材の絶縁体も上海エナジーが政府の補助金を活用した増産投資で販売を伸ばす。同社のシェアは28.7%に上昇し、2位の旭化成の10.7%を引き離している。市場が急拡大するEVのサプライチェーンの上流から下流まで中国勢が存在感を強めている。
 かつて日韓勢がしのぎを削った液晶パネルは大型、中小型ともに首位の京東方科技集団(BOE)など中国勢がシェアを伸ばしている。有機ELパネルでもBOEがアップルのiPhoneに採用されるなどして、市場開拓で先行した韓国サムスン電子を追う。
一方、携帯基地局は華為技術(ファーウェイ)が首位を守ったものの、米国による制裁などを受けて、同社のシェアは38%から34%に低下した。
 調査全体の56品目でみると、中国企業が上位5社に入った品目は32あり、シェア拡大は21、低下は11だった。中国経済は政府のゼロコロナ政策を受けて欧米より回復が遅れている。内需が振るわず建機や中大型トラックはシェアを落とした。
世界首位の品目数は米国が18で最も多く、中国が15で続く。日本は7にとどまった。CMOS画像センサーでソニーグループ、液晶パネル部材の偏光板で住友化学グループがトップだった。
 KPMG FASの稲垣雅久パートナーは米中対立の激化を踏まえ「グローバル企業はサプライチェーンを『中国向け』と『中国以外向け』の2系統に分けるなど対応を進めている」と話す。日本ではダイキン工業が中国製部品なしでエアコンを作る体制構築を急ぐ。ただ「日本企業は対応策を従来のBCP(事業継続計画)上で考えがち。有事の影響を抑えるには、平時の供給網の再設計が必要だ」と指摘する。」

【マツダ、EV・電池確保に1.5兆円 中国系企業から調達】
 22日昼の日経ニュースメールは次のように報じた。
 マツダは2030年までに電気自動車(EV)などの電動化対応に車載電池の調達費を含めて1兆5000億円規模を投じる。中国企業傘下で車載電池大手のエンビジョンAESCグループ(神奈川県座間市)と組みEV向け電池を確保し、国内工場でEV生産を増やす。EVを巡ってはトヨタ自動車など世界大手が巨額投資を相次いで表明している。特に電池は奪い合いの構図だ。マツダも電池を戦略部品と位置付け確保を急ぐ。

【コロナ飲み薬、軽症者も選択肢 塩野義が初の国産承認】
 23日午後の日経ニュースメールは次のように報じた。
 塩野義製薬の新型コロナウイルス用飲み薬「ゾコーバ」が承認された。感染拡大「第8波」の本格化を控え、軽症者に使える初の国産薬が実用化した。既存の薬と異なり、重症化リスクが高くない人も使える見込みで、外来を中心に治療の選択肢が広がる。検査や外来の目詰まりを防ぎ、必要な人に薬を行き渡らせる体制構築が欠かせない。
 コロナ患者は公費負担で薬の処方や治療を受けられる。軽症・中等症の外来患者には主に飲み薬を処方する。米メルク製「ラゲブリオ」と米ファイザー製「パキロビッド」の2種類がある。いずれも高齢者など重症化リスクのある人に限定している。基礎疾患(持病)のない低リスクの患者向けの薬は乏しかった。

【日本、後半に攻撃的3バックで劇的変貌 W杯ドイツ戦で逆転勝利】
 24日午後の日経ニュースメールは次のように伝えた。
 「日本の反転攻勢は、後半の攻撃的3バックへのシステム変更から始まった。
最初のテコ入れは、負傷明けのため先発出場が見送られたDF冨安健洋(アーセナル)を久保建英(レアル・ソシエダード)に代えて後半早々から最終ラインに投入したこと。一見して守り手の増員だが、これによって右サイドバック(SB)の酒井宏樹(浦和)がウイングバック(WB)に、右MFの伊東純也(スタッド・ランス)が右のFWに、それぞれところてん式に前に押し出された。
 前半のドイツは左SBのラウムが積極的にオーバーラップし、ギュンドアン、ムシアラとの連係で何度も日本ゴールを脅かしていた。攻撃にスイッチを入れるはずの伊東はラウムを後追いして帰陣を繰り返すばかり。ここで後手に回ったことが、日本のプレスの連動をきしませた。最終ラインが退き、ワントップで起用された前田大然(セルティック)まで自陣に引っ込み、全軍が亀のように縮こまる。日本のシュートは前半わずか1本だった。
 冨安投入は、伊東の走る矢印を自陣方向から敵陣方向へと逆転させた。前半、伊東に背中を追わせていたラウムは後半、伊東の背中を拝むことにもなった。
 「いろいろなプランを考えた中でうまくいかなかったときの準備はしていた。0-1になっても落ち着いてその状態をキープし、後半にシステムチェンジが機能する状況をつくれた」。冨安投入後に三笘薫(ブライトン)、浅野拓磨(ボーフム)、堂安律(フライブルク)、南野拓実(モナコ)といったアタッカーたちを惜しげもなく投入した森保一監督は、歴史的な逆転劇をそう振り返っている。
 大会前の強化試合で監督が試していた3バックは、逃げ切りを狙った守備固めのためのものだった。それが試合をひっくり返す〝うっちゃり〟の決め技となる不思議。長友佑都(FC東京)に代わって出場した三笘の左WB起用もぶっつけ本番だったが、そのドリブルとパスを起点に堂安の同点ゴールが生まれた。
 いくつかのアドリブと、それに応えたアタッカーの至芸が組み合わさった逆転劇。それは、システム変更によって広い中盤で数的不利になりながらドイツの侵入を払いのけた遠藤航(シュツットガルト)、鎌田大地(アイントラハト・フランクフルト)らMFたちの奮闘にも支えられていた。(鱸正人)

【岸田首相、後任の総務相に松本剛明元外相起用へ】
 25日の日経ニュース速報は、更迭された総務相の後任に松本剛明元外相起用を起用したと伝えた。

【】
 26日の

【日本、コスタリカに0-1で敗れる サッカーW杯】
 27日に日経速報メール【アルラヤン=岸名章友】サッカーのワールドカップ(W杯)カタール大会第8日は27日、ドーハ近郊のアルラヤンのアハマド・ビン・アリ競技場で1次リーグE組第2戦の日本―コスタリカ戦が行われ、日本が0-1で敗れた。日本は勝ち点3のままでコスタリカに並ばれ、決勝トーナメント進出は第3戦に持ち越しとなった。
 前半は両チームとも好機をつくれず、後半は日本が押し込んでいたものの、81分(時間は非公式)に先制点を許した。
過去最高を上回る8強以上を目指す日本は、12月1日午後10時(日本時間2日午前4時)からの1次リーグ最終戦で、2010年大会覇者のスペインと対戦する。
 
【老いる日本の株主、70代以上が4割 若者の目は海外株に】
 27日早朝の日経ニュース速報は次のように報じた。
 日本企業の株主が老いているこの30年で70代以上の保有額は全体の1割台から4割台に高まった。人口構成を超えるスピードで高齢層に偏った背景に若・中年層の日本株離れがある。国内のリスクマネーが減少に向かっている。

【再エネ、危機下で急浸透 「自国産」で安保価値向上】
 28日早朝の日経ニュースメールは、再生可能エネルギーの価値が急浸透していることを報じた。



 この間、以下の番組を視聴することができた。(1)NHKスペシャル「新・幕末史グローバル・ヒストリー 戊辰戦争 欧米列強の野望」10月27日。 (2)報道1930「日本人が円を見捨て…外国人が日本を去る日、大規模緩和と円安の罪」28日。 (3)週刊ワールドニュース(10月24日~28日)29日。 (4)「号外日本史スクープ砲 第26 日本の鉄道建設」30日。 (5)BS1スペシャル「翻弄される国境の町~フィンランド・カレリア地方」30日。 (6)報道1930「岐路ウクライナ支援 約10兆円の財源確保は?」31日。 (7)映像の世紀バタフライエフェクト「ソ連崩壊 ゴルバチョフとロックシンガー」31日。 (8)報道1930「”瀬戸際“の岸田総理 旧統一教会問題で迷走、政権の浮揚策はあるのか」11月1日。 (9)報道1930「円安危機ニッポン経済の行方は 賃金上昇なき物価高騰で生活困窮拡大」2日。 (10)報道1930「トランプ氏の影響色濃く 「炎上」で異論排除も」3日。 (11)NHKスペシャル「混迷の世紀 第3回 岐路に立つ民主主義~権威主義の拡大はなぜ」3日。 (12)報道1930「【南部の要衝へルソン「「最前線】ロシア軍部隊集結で「最大規模」戦闘も」4日。 (13)週刊ワールドニュース(10月31日~11月4日)5日。 (14)BSプレミアム「東博150年 知られざるモノかたり-日本の至宝大公開」6日。 (15)BS世界のドキュメンタリー「ゆらぐモルドバ ウクライナ隣国の”苦悩」8日。 (16)報道1930「プーチンのシェフ”闇の部隊“率いる実力者がなぜ表舞台に」8日。 (17)報道1930「【ウクライナのパルチザン】ロシアに抵抗する”住民“の闘い」10日。 (18)報道1930「東南アに各国首脳集結、米中対面会談か プーチン氏欠席の背景」11日(23。 (19)週刊ワールドニュース(11月7日~11日)12日。 ()20) BS1 Asian Insight 「中国 寝そべる若者”ち」14日。 (21)報道1930「米中首脳が対面会談へ」14日。 (22)報道1930「米中首脳会談で初の対面会談で台湾問題は」15日。 (23)報道1930「【ウクライナ東部要衝をめぐる激戦】“特殊任務”担う隊長が語る実態」18日。 (24)NHK日曜討論 20日。 (2)週刊ワールドニュース(14日~18日)20日。 (26)報道1930「【エネルギー争奪戦が激化】ロシア制裁の影響深刻」21日。 (27)報道1930「【ウクライナ支援の秘密ネットワーク】欧米スパイと特殊部隊が連携」23日。 (28)報道1930「【ザポリージャで何かが起きる】ロシア軍再配置で新展開か」24日。 (29)報道1930「【日本型雇用は?】米国IT大リストラ Twitter社で大混乱」25日。 (30)週刊ワールドニュース(21日~26日)27日。 (31)NHKスペシャル「混迷の世紀 第4回 世界フードショック~揺らぐ“食”の秩序~」27日。
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所蔵品展「晩秋のハーモニー」

会期:2022.11/9(木)~12/12(月)
※参考 
第3展示室:パネル展「多面体、原三溪の全体像」
菊花展 10/26(水)~11/23(水・祝)
紅葉ライトアップ 11/23(水・祝)~12/11(日)

 三溪記念館の所蔵品展「晩秋のハーモニー」が、第1展示室と第2展示室で開幕した。担当は中村暢子学芸員、今年度着任して5回目の展示とハイピッチである。
 その開催初日、寸暇を割いて観覧し気づいたのは、展示品の配列である。
下記のとおり、最初の作品が下村観山「秋色」、次が牛田雞村「秋草図」、ついで原三溪の作品「菊に小禽図」と「大和路」が並び、その後に岡倉天心「填詞(てんし)」を配置する。と思うと、その次に横山大観「煙寺晩鐘」と下村観山「寿老」が来る。
 三溪の絵が、プロの作家の絵の中に混ざり、引けを取らない。
 題名の所蔵品展「晩秋のハーモニー」とは、三溪と彼が支援した画家との関係にとどまらず、同じ画家としての目線で合わせたのか。
 私ごとき素人の印象はさておき、中村さんの解説と文章に沿って展示を楽しんでいただきたい。 


第1展示室
紅に染まりゆく楓、春草盧の茶庭敷き詰める黄金色は銀杏の葉。園内のところどころにさりげなく咲く白い小菊。三溪園の秋は、日に日に華やかさが深まります。
1日と同じ日がないように、園内の色の重なりは今日だけのもの。重なりゆく時間と季節に、1年の終わりを感じる頃。街も華やぎ、心が浮き立つ季節でもありますが、なんとはなしにもの寂しさも感じるのは、この時期ならではのものでしょう。
季節の情緒に寄り添うように、三溪記念館の所蔵品も晩秋モードで並んでいます。どうぞ、ゆっくりご覧ください。

美術を愛した原三溪
原三溪(1868-1939)は、実業家として活躍するかたわら、優れた古美術の蒐集や、画家への支援を行い、自らも書画をたしなみました。
パトロンとしての三溪の活動は、明治の終わりごろから始まります。きっかけとなったのは、横浜出身で日本美術院の創設者・岡倉天心。天心を通じて、日本美術院を中心とした画家の支援を始め、物心両面から支えました。
こうした経緯から、三溪記念館が所蔵している作品は、三溪自筆の書画や、支援した画家の作品が多数を占めています。今回ご紹介する作品は、所蔵品の一部になりますが、三溪が愛した美術への想いの一端を感じていただければ幸いです。

下村観山「秋色」
鮮やかに朱に染まる紅葉を手前に、背景の樹木は淡墨で霞(かすみ)の中に描いています。
霜が降りる秋の朝、吐く息が白くなるような情景が感じられます。
一枚だけの朱色が一際目立つため、色数が少ないにもかかわらず、かえって鮮烈な印象を受ける作品です。

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牛田雞村「秋草図」
金地に墨と金泥(きんでい)で、秋の七草を描いています。琳派(りんぱ)風の装飾的な画風と、金と黒の落ち着いたなかに華やかさも感じられる配色で、黄金色に輝く秋草を余すところなく表現しています。
後年、雞村は舞台美術を手がけるようになりますが、その才能を感じさせる作品です。

原三溪「菊に小禽図」
水墨で描かれた菊花のもとに、雀が一羽、菊を見あげています。
花木を大きく画面上にとりあげ、その下方に小さな動物を描き、対象の季節感をより一層ひきたてています。水墨の濃淡による表現で秋の枯れゆく季節感を表しています。
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原三溪「大和路」
奈良の秋の風景です。大きな銀杏(いちょう)の金色が鮮やかで、目をひきます。笹薮(ささやぶ)の中から、大きなお寺の甍(いらか)がのぞき、そばには川が流れています。三溪は京都に別荘をもち、関西をたびたび訪れました。
三溪園の内苑にも大きな銀杏があり、正門の入口からも鮮やかな金色が見られます。
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岡倉天心「填詞(てんし)」
天心は、日本美術院を創設したとき、美術院の仲間を鼓舞するように、詩を書きました。天心はよく詩を詠み、特徴のある豪快な字で書き付けてあるものがままみられます。この詩は扇面(せんめん)に書かれたもので、蝶に例えた女性の色恋を詠ったもののようです。
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横山大観「煙寺晩鐘」
夕霧があたりにたちこめた山間の寺から、鐘の音が聞こえます。参道を登る尼僧は、上方の寺院を目指し、上空にはカラスらしき鳥がたくさん集まってきています。木々の間は夕暮れに、早くも薄暗くなってきた様子が、濃墨や深い緑色で表されています。

横山大観
【生没年】1868-1958(享年89)
【出  身】茨城県 水戸
20歳のとき、結城正明(ゆうき まさあき)の画塾で毛筆画を学び、翌年、東京美術学校(現・東京藝術大学)第1期生として入学。岡倉天心の薫陶を受けたほか、橋本雅邦(はしもとがほう)の指導を受ける。卒業後は同校の助教授として、また日本美術院創立に加わり活躍。大正初めに下村観山とともに日本美術院を再興した。
■ 三溪による支援 ■
日本美術院の創設者である岡倉天心の紹介により、三溪は大観を見出し、明治後期頃から援助することになります。大観が45歳のときに制作した六曲一曲屏風の「柳蔭」(東京国立博物館蔵・三溪旧蔵)は、三溪園の鶴翔閣(かくしょうかく)に逗留して制作されたもの。三溪の近代日本画コレクションのなかでは大観の作品が最多。作品を購入することで、大観を援助したことがわかります。

下村観山「寿老」
寿老人は南極星の化身で道教の神です。
本図は大正中期、観山が絶頂期を迎えたころの作品。やや厳しい表情をしていますが、寿老人とともに遠くをみやる青いつぶらな瞳の白鹿は、頭を撫でられながら愛らしく気高く描かれています。

下村観山
【生没年】1873-1930(享年58)
【出  身】和歌山
紀州徳川家に代々仕える能楽師の家に生まれる。
狩野芳崖(かのう ほうがい)に師事し、狩野派の描法を身につける。16歳で東京美術学校(現・東京藝術大学)第1期生として入学。卒業後は、同校の助教授となるが、岡倉天心を排斥する美術学校騒動を機に辞職。日本美術院の創立に参画し、新しい日本画の創造に尽力。30歳のときに渡英し、西洋画・水彩画を学び、自身の画風に取り入れた。
■ 三溪による支援 ■
三溪が観山の支援を始めたのは明治44(1911)年からで、三溪44歳、観山39歳の頃でした。同年、三溪は園内の松風閣の障壁画「四季草花図」の制作を観山に依頼。2年後には、三溪の援助により、本牧に終の棲家となる居宅を構えました。
観山の穏やかな性格と、美しい描線を持ち味とした作品を三溪は好ましく思ったようで、二人は親しく交流しました。

*のぞきケース内*
古写真絵葉書 三重塔
三重塔は大正3(1914)年に丘の上に移築されました。この絵葉書はそれより後の発行で、手彩色のものです。軒裏や欄干が赤色ですが、第二次世界大戦後の復旧工事で、新たに木部分は丹塗(にぬり)を、壁は胡粉(ごふん)で白色に施しました。三溪が移築した当時はおそらくこのように赤い三重塔が望めたのでしょう。

聴秋閣由来書(ちょうしゅうかくゆらいがき)
内苑にある聴秋閣は、京都二条城(江戸城という説もある)にあったと伝えられる徳川家光・春日局(かすがのつぼね)ゆかりの建物で、三溪は大正11年(1922)に三溪園へ移築しました。三溪の古建築蒐集は、この聴秋閣を最後として完成をみました。これは、その年に三溪が書いた由来書です。


第2展示室
文芸の人 原三溪
原三溪が大正11(1922)年に聴秋閣を移築してから100年目。聴秋閣の移築をもって内苑の造成が完了し、三溪園全園が完成しました。本年は三溪園全園完成100周年の節目の年にあたります。これを期し、第3展示室では、三溪のさまざまな側面をもう一度振り返ろうという趣旨のもと、原三溪市民研究会とともに、パネル展「多面体、原三溪の全体像」を開催しています。
生糸貿易で財を成した実業家という側面は知られていても、自ら絵筆をとり、漢詩を作る「文芸の人」でもあったことは、意外と知られてないのではないでしょうか。本コーナーでは、パネル展で紹介されている作品のうちいくつかをピックアップしてご紹介します。ぜひ第3展示室のパネル展と併せてご覧ください。


高橋杏村「緑樹重陰・寒山行旅図(りょくじゅじゅういん かんざんこうりょず)
三溪の母方の祖父である、江戸末期の南画家・高橋杏村(1804~1868年)の作品です。緑の木々が生茂る夏山を行く人物と、枯れ木の冬山を馬に乗る旅人とが対になっています。

杏村の長男・高橋鎌吉(号 抗水)も南画家であり、三溪の叔父にあたります。こうした環境が、早くから三溪が絵に親しむ背景にありました。10歳の頃から、三溪は抗水に絵を学び、幼くして南画の素養を身につけました。そのほかにも、10代の頃から漢籍、詩文の教養を身につけ、成人してからも漢詩を作り、したためています。

原三溪「山水」
大正12年(1923)の関東大震災以降、画家への支援を中止し、自ら描くことが多くなった三溪の作品では珍しい明治期のもの。後のあっさりとした淡彩の絵画と異なり、中国絵画に倣った画風です。
三溪自筆の書画にみられる、伸び伸びとした筆致で和やかな雰囲気ではなく、祖父の高橋杏村が描いた山水図のように、かっちりした筆致は見応えがあります。
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原三溪「金港新涼」
征帆影尽暮潮生
不是離人也有情
鐵笛誰吹海門月
新涼一夜満江城

「金港」は「金川(神奈川)の港」という意味で、横浜港のことです。「新涼」は初秋の涼やかな情景をあらわす言葉です。海に月が浮かぶ、港の風景を詠んでいます。
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第3展示室で開催中のパネル展「多面体、原三溪の全体像」にて漢詩の詳しい解説があります。併せてご覧ください。

鵜(う)
三溪の故郷である岐阜の長良川で有名な鵜飼。鵜は長いのどが特徴で、「鵜呑み」という言葉があるように、獲った小魚をそのまま丸呑みします。これを利用して、その長いのどに蓄えさせ、鵜匠が吐き出させるものが鵜飼漁です。
絵としては、剣豪・宮本武蔵の《鵜図》(重文・永青文庫所蔵)の構図を参考にしたようです。三溪は宮本武蔵の水墨画を何点か所蔵しており、参考にして描法などを学んだようです。

菊図屏風
江戸時代の屏風です。紙の地に金箔(きんぱく)を置き、切箔(きりはく)(金箔を小さく切ったもの)をまき、籬(まがき)に菊の花を描いています。籬と白い花の部分は盛り上がっています。この部分は下地に貝の粉で作った胡粉(ごふん)と呼ばれる白い絵具を何層も塗り重ねる技法で、「盛上げ彩色」といいます。

塩出英雄「苑橋」(えんきょう)
内苑の池にかかる、亭榭(ていしゃ)という桧皮(ひわだ)葺(ぶき)の屋根のついた橋を、紅葉に萌える木々のなかに描いた作品です。
塩出は三溪記念館の建設委員を務めており、その頃、同じ内苑の臨春閣(りんしゅんかく)(重要文化財)の中から眺めて描いたといいます。
第74回院展出品作。

廣島亨さんと原三溪市民研究会

 三溪園内の三溪記念館第3展示室において、パネル展「多面体、原三溪の全体像」が開催中である(三溪園と原三溪市民研究会の主催)。会期は2022年10月28日(金)~12月11日(日)。
 三溪園のホームページに次のようにある。
 「原三溪は、生糸貿易経営の近代化を図った「実業家」であり、関東大震災では復興会会長として横浜の復興に尽くした「愛市の人」であり、また自ら彩管を揮(ふる)い、漢詩を作る「文芸の人」でもありました。三溪園・全園完成100周年にあたる本年、さまざまな面で大きな足跡を残した、人間・原三溪のさまざまな側面をパネルを通して改めてご紹介します。
 秋の深まりとともに華やぎを増す三溪園を楽しみつつ、ぜひゆっくりとご覧ください。
会場には、パネル展示に合せて原三溪市民研究会会員が出題する「原三溪・何でもクイズ」を用意しました。みなさま是非手に取って、挑戦してみてください。
 原三溪市民研究会(以下、市民研と略称)とは、「平成19(2007)年9月、横浜美術館の呼びかけにより、藤本實也『原三溪翁伝』の出版を目指して集まった市民による研究会である。専門家や研究者ではなく、「三溪を学ぶ、三溪に学ぶ」ことを目的に組織された。『原三溪翁伝』は平成21(2009)年11月に刊行され、平成22(2010)年4月から、市民が自立して運営する会となり、現在も定期的に研究会を行うなどの活動を続けています。」

 第3展示室を私も幾度か訪れ、パネル展「多面体、原三溪の全体像」の構成を閲覧した。<実業の人>、<文芸の人>、<愛市の人>をトライアングルの各頂点に置き、三溪の全体像に迫ろうとする。

【廣島さんの思い出】
 これを見て、すぐに市民研の前会長・廣島亨さんを思い出した。廣島亨さんは三溪園ガイドボランティアも務めて三溪園を支援して下さり、今年2022年2月10日、病死されたと訃報が事務局に入った。
 また去年2021年8月24日、市民研事務局次長の速水美智子さんが病死されている。市民研をけん引されてきた大黒柱の相次ぐ訃報が、市民研のみなさんに、どれほどの衝撃と落胆であったことか。
 それを乗り越えようと、尾関孝彦さんが先頭に立ち、歯を食いしばって懸命に耐えておられる。
今年の11月12日(土曜)午後、市民研の会員たちが三溪園内の鶴翔閣に集まり、お二人を「しのぶ会」が開かれたという。

 廣島亨さんの精力的かつ真摯な活動ぶりと、人に接するときの優しい風貌について、本ブログだけでも幾度か触れている。それを時間順に整理してみた。(その1)から(その7)まである。
 廣島さんは、実年齢こそ私よりお若かったが、原三溪に掛けた時間と理解の深さは私よりはるかに先を行っている。換言すれば、この道の大先輩である。廣島さんの後を追いかけるように、私は今も努力している。

【初めて原三溪の故郷を訪ねたとき】
(その1)
 2014年10月、私が三溪園園長に就任した直後、三溪の故郷・岐阜県佐波を訪れたときのこと(本ブログ2014年10月24日掲載の「原三溪の故郷」)である。「折しも岐阜市歴史博物館で特別展「岐阜が生んだ原三溪と日本美術-守り、支え、伝える」(2014年10月10日~11月16日)が開かれ、三溪園からも39件55点の所蔵品を貸出した。各方面からの資料を基に、郷里が誇る偉人の足跡を、説得力ある巧みな構成で展示していた(展示図録を参照)。」
 同ブログはさらに次のように述べている。少々長くなるが再掲したい。
 「この特別展で挨拶とテープカットの後、ひとり佐波を訪ねるつもりでいた。内覧を終えるころ、「原三溪・柳津文化の里構想実行委員会」会長の広瀬曻さん(平成18年の岐阜市合併前の柳津町長)に予定を聞かれ、佐波へ、と漏らすと、副会長の尾関孝彦さんと市川春雄さん(同会の事務局長)を紹介してくださった。
 同実行委員会は活動4年目、原三溪を軸に「柳津文化の里」を構想するもので、地縁・血縁のつながりも濃い。11月15日には、岐阜市教育委員会との共催で「三溪を育てた郷里・佐波を訪ねる三溪ウォーク」を予定している。
 生家のある柳津の佐波まで約10キロ、市川さんの運転で初秋の濃尾平野を走り、広々とした水田と地の利を生かした各種企業の配送センター団地を抜けて、佐波に入る。
 三溪(青木富太郎)は、慶応4(1868)年、庄屋・青木久衛(久兵衛)・こと(琴)の長男に生まれ、18歳までこの地で育った。明治5(1872)年から近くの寺小屋に通い、明治9年、佐波村尚文小学校入学、明治13年卒業、12歳で日置江の三餘私塾(青木東山の漢学塾)、ついで大垣の鶏鳴塾(儒者・野村藤蔭)で漢籍を学ぶ(いずれも自宅の通学圏内)。また祖父で南画家の高橋杏村の影響もあり、その長男・鎌吉から画を、母方の親戚・高橋寿山から詩を学ぶ。
 のち京都の草場船山に私淑して漢学と詩文を学ぶ。明治18年に上京、牛込区福田町に仮寓、東京専門学校(のちの早稲田大学)に入学、法律政治学等を修め、跡見学校に奉職、歴史・漢詩・漢文等を担当する。
 明治24(1891)年、同校創設者・跡見花蹊の支援者でもある原善三郎の孫娘で、教え子であった原屋寿(やす)と結婚、原姓となる(三溪は号)。この年、全壊家屋約14万の濃尾地震が起き、佐波復興資金400円を携え駆けつけた。
 後年は、実業界の重鎮をはじめ、敬愛した歴史家・徳富蘇峰(国民新聞創刊、『近世日本国民史』の著者)、インドの詩人タゴール等との交流を通じ、さらに思想を深化させる。こうした素養、自己研鑽、そして夫婦協働が、「脱亜入欧」とも異なる「近代の代表的日本人」、三溪その人を作りあげたのではないか。
 内苑完成の翌年、関東大震災(1923年)が襲う。自らも壊滅的な打撃を受けつつ、私財を投じ横浜の復興事業に先導尽力する。常人には及びもつかぬ事績だが、自ら誇示することなく、昭和14(1939)年、明治・大正・昭和にわたる生涯を閉じる(享年70)。」

【講演「三溪と横浜-その活躍の舞台」】
(その2)
 ついで2016年10月4日掲載の「三溪と横浜-その活躍の舞台」に廣島さんが登場する。これは平成28年度原三溪顕彰講演会(「原三溪・柳津(やないづ)文化の里構想実行委員会」と岐阜市教育委員会の共催)が、9月25日、岐阜市のメディアコスモス・みんなのギャラリーで開かれ、私が講演「三溪と横浜-その活躍の舞台」を行う機会をいただいたときである。
 「原三溪・柳津文化の里構想実行委員会」(以下、委員会とする)とは、原三溪出生地の柳津を文化の里とすべく、廣瀬曻さん(岐阜市に合併される直前までの柳津町長)を会長に、尾関孝彦さん、青木平七郎さん、友田靖雄さん、林憲和さんを副会長、市川春雄さんを事務局長とする組織である。
 今回は委員会創立から5年となる記念と、『青木富太郎(原三溪)公私日記帳 解読版』の刊行(文化庁補助事業)を祝うものであった。
 同委員会主催の講演会は2012(平成24)年に始まり、丸山幸太郎(岐阜女子大学)「原三溪の生涯と生き方」、同「原三溪 その美の追求」、川幡留司(三溪園)「三溪翁 故郷への篤き思い」、猿渡紀代子(横浜美術館)「原三溪と美術」、清水緑(三溪園)「原三溪と近代美術家支援」と5回つづけて、いずれも会場は柳津公民館であったが、今回の会場は岐阜市の中心部に移り、活動が市域全体に拡がったことを示す。
 講演の冒頭で私が「三溪園へ行かれた方は?」と尋ねると、200余名の参加者のうちなんと8割以上の挙手があった。岐阜出身の原三溪(青木富太郎、1868~1939年)が創生した三溪園が、いっそう強い支持を受けている。これも同委員会の5年にわたる活動の成果であろう。
 私は三溪の生まれ育ちについては地元の方々が詳しいと思い、三溪が活躍の舞台とした都市横浜をタテ糸に、そして三溪の活躍(主に三溪園の創生、原合名会社の経営)をヨコ糸に話をした。すなわち、
 1 横浜都市化の起源は条約にあり
 2 幕府主導のインフラ整備とその後の横浜の発展
 3 三溪園の創生と原合名会社

【都市横浜の起源とその特性】
 横浜という都市は誰でも知っているようでいて、実は意外に知られていない。そこで拙著『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)等を基に、当時の図像を放映して都市横浜の起源とその特性(上掲の1と2)を語った。
 ①平城京の誕生は約1300年前、平安京は1200年前、鎌倉は800年前、江戸は400年前。それに比べ横浜はきわめて若い都市である。
 ②150余年前、日米和親条約(1854年)が幕府とペリーの間で締結されたのが横浜村(神奈川宿から約4キロの半農半漁の村)で、これが横浜都市化の起源となる。
 ③条約内容は(俗説に反して)日本にきわめて有利であり、
 ④都市インフラ(横浜居留地、波止場、税関等)の整備は幕府が主導、ついで横浜市が継承発展させた。
 ⑤この状況下で生糸が最大の輸出品となり、開港直後に「関内」の「横浜居留地」で生糸売込商となった原善三郎(亀屋、原商店)らが大活躍する。
 ⑥「居留地貿易」(貿易業務を居留地内部の取引に限定)は日本の市場開放を段階的に進める形態となった。
 ⑦条約締結時には想定されなかった生糸輸出が国際市場の動向により急増、横浜の都市化に拍車をかけた。なお拙稿「横浜か、神奈川か」(『横濱』誌連載、「横浜の夜明け」8、2008年10月号)や本ブログ「20世紀初頭の横浜-(3)インフラ整備」(2015年11月11日掲載)等も参照されたい。
 若い都市横浜には全国から人が集まり、急激な人口増となった。横浜村の人口は500人弱、開港から30年後1889年の市政公布時に12万人、1901年の第1次市域拡張で30万人(三溪園のある本牧村等が中区に編入)となる。「三日住めば浜っ子」は、進取の気性に富む開放的な市民気質を表し、「三代住んで江戸っ子」と対比された。
 原商店(亀屋)は本町通り1丁目の町会所(現在の横浜市開港記念会館)に近く、日本大通りを挟んで、いちばん外国人居留地側にあった。
 青木富太郎(三溪)は岐阜から東京へ出て東京専門学校(早稲田大学)で学び、1891年、原善三郎の孫娘・屋寿と結婚、原家を継ぎ、開港横浜の第3世代をリードする。最初の仕事が横浜生糸売込問屋・原商店編『横浜生糸貿易十二年間概況』(明治27=1894年刊)で、1882(明治12)年から12年間の総括である。

【三溪園の創生と原合名会社】
 「3 三溪園の創生と原合名会社」では、新しい美的空間の三溪園がどのように創られたかに焦点を絞り、原合名会社の活動にも触れた。文献史料が少なく設計図もなく、分かるのは古建築の移築や三溪による茶室の設計・建造の年だけである。そこで20年にわたる造園過程を3期に分け、創生される時々の姿を再現するという手法を採った。なお移築は1898(明治30)年の古社寺保存法(岡倉天心らが主導)の精神の体現でもある。
 大震災から84年を経た2007(平成19)年、三溪園は名勝指定を受けた。その理由として「…(近世以前の象徴主義から脱却した)近代の自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・鑑賞上の価値はきわめて高い。内苑の移築建物の配置やそれらの建物とよく調和した周辺の修景もまた三溪の構想によるもので、数寄者としての三溪の美意識が窺える。…」とある。
講演の結びは、この世界に類のない宝、「近代の自然主義に基づく風景式庭園」を横浜の地に残した三溪の功績に心から感謝したい。この名勝は世界の財産であり、「原三溪・柳津文化の里構想実行委員会」、三溪園職員、同ボランティア、横浜で活動する市民研(発足して6年)のみなさんと相たずさえて、保存・継承に力を尽くしていきたい、と述べた。

【「公私日記帳(解読版)」刊行を祝う式典】
 講演会の後、廣瀬さんの案内により、創立5周年記念、「公私日記帳(解読版)」刊行を祝う式典会場へ向かう。丸テーブルが10卓、同席の岐阜市教育長の早川三根夫さん、横浜から市民研会長の廣島亨さんと再会、挨拶に立つ方々や参加諸氏の熱気に圧倒された。廣瀬さんのご子息・修さん(岐阜県会議員)たち若手も参加しており、とても頼もしく思う。…

【岐阜県歴史資料館の入江康太さんを訪ねる】
 翌日は、尾関さんと市川さんの案内(運転手も兼ね)で、廣島さん、速水美智子さん、野中宏泰さんの3人とともに、岐阜県歴史資料館の入江康太さんを訪ね、今回刊行された「公私日記帳」の原本等の貴重な資料を見る。
 この「公私日記帳 明治17年10月より」は、三溪の父・青木久衛が書いた1867年から1897年まで54冊の「諸事日記帳」のうちの1冊で、連合戸長となった多忙の父に代わり、17歳の長男・富太郎(三溪)が書いたもの。
 ほかに明治24年分収録の富太郎の結婚に関する久衛の記録、三溪の手紙2通、三溪園の絵はがき等の資料も見た。これら一次資料に関する論考を早く発表してほしいと入江さんに一同で要請、快諾を得た。
 ついで三溪ゆかりの水琴亭、文人で画家の高橋杏村(1804~1868年、長女の琴が三溪の母親)の旧宅跡地と日吉神社の三重塔(幼少時の三溪が目に焼き付けたもの)、神護寺・善学院(杏村の墓碑、森鴎外撰の彰徳碑がある)を訪ねた。
 2年前、同じく尾関さんと市川さんの案内で三溪の生まれた柳津佐波(やないずさば)を訪ねており(前述)、おかげで岐阜時代の三溪の姿がより明確になった。

【シンポジウム「原三溪と本牧のまちづくり-過去と現在の対話」】
(その3)
 2016年11月21日掲載の「原三溪と本牧のまちづくり」。これは同月12日(土曜)、午後1時半から3時間、市民研の第3回シンポジウム「原三溪と本牧のまちづくり-過去と現在の対話」が横浜美術館の円形フォーラム(定員100名)で行われたものの記録である。
 これによると、市民研とは、名著『開港と生糸貿易』(1939年刊)の著者・藤本實也さんが書き残した稿本(下書き、副本)を1979年に実見していた内海孝さん(本日の基調講演者、東京外国語大学名誉教授)を講師に迎え、脱稿から60余年を経た2007年9月、三溪園保勝会と横浜市芸術文化振興財団が、稿本(正本)の公刊を目的として発足させた「原三溪市民研究会」に端を発する。
 そもそもの稿本「原三溪翁伝」とは、三溪没(1939年)4年後の1943年、横浜経済界を代表する井坂孝、有吉忠一、中村房次郎、野村洋三の4氏が三溪の「伝記」を編纂する<発企人>となり、その編纂主任として藤本さんに委嘱、1945年8月16日に脱稿したものである(『原三溪翁伝』思文閣出版、2009年11月、内海さんと猿渡紀代子さんによる解説を参照)。
 同研究会は、本書出版の翌2010年4月から市民を主体とする団体として体制を整え、廣島亨さんを会長として再出発した。シンポジウムの配布物によると、「三溪を学ぶ、三溪に学ぶ」を基本姿勢として、毎月第2土曜に定例会(漢詩等三溪作品の解読を含む)を開催、スタディ-ツア-を組んで三溪ゆかりの地の訪問・調査を行ってきた。これまで箱根・小田原、岐阜、埼玉、伊豆長岡、茨城県五浦、京都、鎌倉を訪問している。また『五周年記念誌2010-2014』(A4×114ページ)と年2回発行の会報がある。

【第1回シンポジウム「富岡製糸場と横浜の原三溪-36年間の経営と継承」】
 その第1回シンポジウムのテーマは「富岡製糸場と横浜の原三溪-36年間の経営と継承」(2014年10月)。富岡製糸場の世界文化遺産登録に関連して、官営工場として誕生、三井に払い下げられ、ついで1902(明治35)年から1938(昭和13)年まで原三溪の経営にかかる、その発展期を中心に論じた。
 第2回シンポジウムは「原三溪と矢代幸雄-二人は美術を通して何を実現しようとしたのか」(2015年11月)。新しく発見された矢代宛の三溪書簡(神奈川県立近代美術館・葉山に寄託中)をめぐり、二人の美術を通じた交流と理念を論じた。
 第3回シンポジウム「原三溪と本牧のまちづくり-過去と現在の対話」は、速水美智子さん(本会事務局次長)が総合司会。第1部は内海さんの基調講演「善三郎の着眼と富太郎の本牧」、第2部は猿渡さん(上述、本会顧問)をコーディネーターに、5人のパネリストによるフォーラム「これからの本牧のまちづくり―課題と展望を考える」である。
 5人のパネリストによる「これからの本牧のまちづくり―課題と展望を考える」にも貴重な提言が幾つも含まれている。2016年11月21日掲載の「原三溪と本牧のまちづくり」をお読みいただきたい。

【第4回シンポジウム】
(その4)
 第4回シンポジウムについては、2017年11月20日掲載「三溪園と本牧のまちづくり」に次のようにある。役員(廣島亨会長、藤嶋俊會副会長、速水美智子事務局次長、内海孝顧問、猿渡紀代子顧問)も昨年と同じである。
 速水さんの司会で下記の通り4氏の報告(各20分)の後、猿渡さんがコーディネーターをつとめてパネル・ディスカッションが行われ、最後に廣島会長の挨拶があった。
(1) 吉川利一(三溪園事業課長)「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」は、戦後の1953(昭和28)年に生まれた財団法人三溪園保勝会による管理運営の歴史をまとめ、2007(平成19)年、国の名勝指定を受けた公益財団法人としての三溪園の活動を中心に、法人の定款3条(目的)を引いて演題を「守る・伝える・創る-三溪園らしさの継承と発信」として話した。とくに「蛍の夕べの子どもむけイベント」「ザリガニ釣り」「スタンプラリー」「夏休み子どもアドベンチャー」、「夏休み子どもパスポートの発行」等、近年の新たな取組の一つとして、未来を担う子ども向けの諸企画を紹介した。
(2) 當麻洋一(本牧神社宮司)「受け継がれる二つの価値~形あるものと形なきもの~」は、本牧神社の例祭に際して行われる特殊神事「お馬流し」(神奈川県指定の無形民俗文化財、室町時代創始と言われる)と本牧神社の場所の変遷について、2種の写真付き資料を使って語り、茅で作る馬首亀体(首から上は馬、胴体は亀の形)を海に流し地域の平安を祈る神事、そして関東大震災から戦後接収、海岸埋立に伴う神社の場所の変遷を明らかにした。
(3) 鬼木和浩(横浜市文化観光局文化振興課施設担当課長)「本牧・三溪園の文化資本を紡ぐ<ストーリー>」は、近代の本牧に住んだ画家(下村観山ほか)と作家(谷崎潤一郎や山本周五郎ほか)を丹念に取り上げ(資料の<本牧・三溪園 文化年表>を参照)、「…芸術に関するこのような記憶が、この地に創造性のオーラをまとわせ、さらなる芸術家を招き寄せ、…<美>を守り、<美>を育む遺伝子が一貫して受け継がれている…」とする。文化芸術基本法の改正により、文化と観光・まちづくりの分野の連携が期待されるようになったとも指摘する。
(4) 内海孝(東京外国語大学名誉教授)「本牧遠近考」は、当日に配られた「横濱全図」(『風俗画報』明治35(1902)年10月号、全図とは前年の市域拡張により本牧等も横浜市に編入した地域を指す)を資料として、横浜市域の配置とそのなかの本牧の位置を探ろうとする。すなわち前回のシンポジウムを引き継ぎ、三溪園草創期に焦点を当てる。
 4つの報告を受けて、私は以下のようなコメントを書いている。
「昨年の第3回「原三溪と本牧のまちづくり」は、原三溪を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」が含意されているが、今回の「三溪園と本牧のまちづくり」は誕生して110年を超える三溪園を主体(ないし主語)とする「本牧のまちづくり」である。その違いをもうすこし敷衍すると次のようになろう。
 前者は原三溪(富太郎、1868~1939年)が養祖父・原善三郎の購入した本牧三之谷に鶴翔閣を建造して野毛山から移り住み(1902年)、約20年をかけて作り上げた三溪園とその位置する本牧のまちづくりを語り合った。言い換えれば、三溪園の<草創期>、横浜の<成長期>を探ったものである。
 これに対して今回は、三溪園(1923年に完成)を主体(ないし主語)とし、その後の約100年を対象としている。したがって三溪園の完成直後に起きた関東大震災による壊滅的被害と震災復興に全力を投入した三溪、三溪没後の戦後と戦災復興、駐留軍の接収時期の約半世紀にわたる<五重苦>については十分に触れられなかった。<五重苦>とは、①関東大震災、②昭和初期の経済恐慌(横浜経済の中心が東京に移る)、③戦争と空襲、④占領と接収、⑤人口爆発である。この時期を<受難期>と呼ぼう。
 この<五重苦>を克服して、1965年の「横浜六大事業」頃を期に<再興期>に入り、それから半世紀が経過した。<受難期>を飛ばし、その後の<再興期>に直行したのが今回のシンポジウムであった。
 いま人口爆発はピークを打ち、横浜は人口減少の<成熟期>へと向かう次の段階にある。歴史は日常と直接の関係を持たない面があるとはいえ、やはり昨日があっての今日であり、明日である。文化や歴史を活かしたまちづくりとなれば、歴史の大局を把握したうえで、将来に向けたまちづくりを構想・推進することとなろう。
 今回のシンポジウムでも多くのことを学ばせてもらった。開催者にとっては、シンポジウムの副題にある<そのヒントを探る>ためにも有益であったに違いない。最後の廣島会長の挨拶から、次に向けた取組への情熱を強く感じた。」

【原三溪生誕150年記念シンポジウム】
(その5)
 2018年11月19日掲載「原三溪の生き方を考える」には、次のようにある。
 「今年は原三溪が生誕して150年、三溪(青木富太郎)の生地岐阜市では10月6日(土曜)、「清流の国ぎふ列伝-原三溪を語る~香り高き音色とともに」が開かれ、尾関孝彦さん(三溪を大叔父にもつ)のトークと粥川愛さんのピアノ演奏が行われた。
横浜では三溪園において、10月23日(火曜)、公益財団法人大師会主催の原三溪八十回忌追善茶会が催された(本ブログ2018年11月1日掲載の「三溪園の大師会茶会」を参照)。また三溪記念館では所蔵品展「生誕150周年 原三溪旧蔵品展」が11月8日から12月12日まで開かれている。
 こうしたなか、11月10日(土曜)、市民研と三溪園の共催で、公益信託ヨコハマ中区まちづくり本牧基金助成のシンポジウム「原三溪-その生き方を考える」が、三溪の居所(1902年~)であった園内の鶴翔閣で開かれた。開会前には三溪園ボランティアによる呈茶があった。…
 役員は廣島亨会長、藤嶋俊會副会長、尾関孝彦副会長(岐阜県)、速水美智子事務局次長、内海孝顧問、猿渡紀代子顧問である。」
以下の3つの報告があった。
 市川春雄(原三溪・柳津文化の里構想実行委員会事務局長)「岐阜と富太郎-郷里岐阜の資料に見る<富太郎、三溪へのステップ>」
 川幡留司(三溪園参事)「三溪園における三溪の生活」
 廣島亨(市民研会長)「『原三溪翁伝』から三溪の選択を考える」

 第一の市川春雄さんの発表は、岐阜に残る4幅の掛軸を史料とし、写真や解題を付すレジメを作成、「…青木富太郎が原三溪となっていった節目の資料を紹介する…」と課題を提起し、<予言>、<つぼみ・兆し>、<赤い糸>、<決意>の四段階を設定する。三溪は青木久衛(ひさもり)とこと(琴)の長男(9人兄弟)として、慶応四年=明治元年に生まれた。したがって下記の制作年は三溪の年齢(数え年)に該当する。
 <予言>は、明治15年春、文人で画家の高橋杏村(寿山、1804~1868年、母の長兄)筆「萬松草廬之図」のなかに「…向学心旺盛な富太郎を見て、上に立ち重責を果たす逸材となるであろう…」とある点を取り上げる。二つ目の<つぼみ・兆し>は、明治17年の富太郎の筆になる「乱牛図」で、旧加納藩主永井尚服の所望に応じて届けたもの。のちに書画を嗜む契機になった作品である。
 三つ目の<赤い糸>は明治19年の跡見花蹊筆「花蹊女史玉堂富貴図」で、花蹊が富太郎に跡見女学校の講師を委嘱した詩が付され、青木家の蔵に大切に収蔵されていたもの。のち花蹊を仲人として原善三郎の孫娘屋寿と結婚する重要な契機となる。
 四つ目の<決意>は、明治30年の原三溪筆「祥開黄道乾坤濶」で3メートル余の大きなもの。初めて原三溪と自署した掛軸である。この七言律詩の意味を庭園・三溪園を開くと解釈しており、これを先代善三郎に打ち明けたのか、密かに構想を練ったかについては不明と述べる。
 そして「…富太郎・三溪の根幹にあったものは、日本人を形成してきた日本の伝統文化(広義)の保存保護ではなかったか。在郷時から見聞きしてきた廃仏毀釈への憤りと、その裏返しの保存活動であった…」と結ぶ。

 第二の報告者の川幡留司さんは、三溪園勤務60年の「生き字引」であり、彼が蓄積した数多の聞書きや調査の宝庫から、30分の報告で何を引き出して伝えるかに苦労する様子が伝わってくる。A4×4ページのレジメに多彩な問題が詰めこまれており、その一つ一つが興味深い。
 私なりに分類すれば、(1)三溪と近しい矢代幸雄(美術評論)、村田徳治(執事)、西郷健一郎(三溪長女の長男、初孫)、小林古径・安田靫彦・前田青邨(いずれも日本画家)、益田鈍翁・松永耳庵(三溪とともに近代三茶人と呼ばれる)が語った三溪の人物像、(2)三溪自身の子どもの教育(多くが音楽)、(3)三溪園を舞台とした業績(三溪園の開放、美術品収集、日本画家の育成等)、(4)茶会の開催を通じた(近代)茶道の復興と女子教育への茶の湯の導入。
 このうち(1)から幾つか引用したい。①「…詩歌書画に至っては之を楽しむ事甚だしく、その高趣、素人離れの領域…」(矢代幸雄)、②「…徳富蘇峰と杯を酌み交わしながら歴史を語るのを楽しみにし…」(村田徳治)、③「…食事やお茶菓子を用意してお客様を招き、美術、歴史等を語り合うのを楽しみ、お客様が絶えず…」(西郷健一郎)、④「…三溪は美食が過ぎるのではと常々心配し、…美術についてなかなか偉いが、事業については美術以上に偉い…」(益田孝鈍翁)、⑤「…祖父は多才でしたが、歌を口ずさむのを一度も聞いたことがありませんでした。しかし子供の音楽等の教育には熱心でした…」(西郷健一郎)。

 廣島亨さんの報告は、ご自身の会社勤務時代の苦労を背景に、三溪の事業主としての折々の<選択>を語る。(1)三溪の原家入籍と原商店での店員見習い、(2)事業主として原商店の原合名会社への組織改革に着手、<家督>と<家業>の分離・統合を目ざし、自らは<家業>を継ぎ、それを本分としたこと、(3)事業主の仕事と三溪園の造営、換言すれば生き馬の目を抜く現実の事業と、三溪園造営や書画の創作による<永遠の美>の創造という二つの価値の両立を模索したこと。
 16枚のスライドを放映しつつ、複雑な側面を分かりやすく語るとともに、三溪57歳の作品の五言絶句「敗荷」(60歳に描いた絵とともに掛軸に仕立てた。レジメの裏面に写真あり。なお「敗荷」とは秋になり風に吹きやぶられたハスの葉や茎)を廣島さん自ら詩吟で詠い、三溪の内面の一端を披露した。そして最後を「…どの道を選んだかではなく、選んだ道をどう歩んだか」と結ぶ。
いかにも廣島さんらしい。

【廣島さんの描く三溪像】
(その6)
 2019年9月9日掲載の本ブログ「展示「もっと知ろう! 原三溪」がある。これは横浜美術館の開館30周年と原三溪生誕150年・没後80年を記念して、横浜美術館で特別展「原三溪の美術」が開かれ(2019年7月13日~9月1日)、この特別展と並行して、8月3日(土)~9月1日(日)の11時~16時、同館のアートギャラリー1において原三溪市民研究会・横浜美術館共催の展示「もっと知ろう! 原三溪-原三溪市民研究会10年の足跡-」を紹介したものである。
 副題にあるように、市民研の10年の歩みを踏まえ、<実業の人>、<文芸の人>、<愛市の人>をトライアングルの各頂点に置き、三溪の全体像に迫ろうとするパネル全28枚の展示である。
 この市民研の展示には最終日の9月1日夕方ギリギリに駆け込み、廣島亨市民研会長の熱い解説を聴くことができた。岐阜の尾関孝彦さん(本ブログ2014年10月22日掲載「原三溪の故郷」、2016年10月3日掲載「三溪と横浜-その活躍の舞台」を参照)や市民研の速水美智子さん、久保いくこさんにも嬉しい再会ができた。
 トライアングルの上角に<実業の人>を置き、原合名会社(生糸売込商・輸出業、製糸業)、近代的経営(技術・品質・人事)、安定・継続の方針(目先の利益に左右されない、林業・地所部、新会社設立)の3つのキーワードを入れる。
 トライアングルの左角は<愛市の人>で4枚のパネル、ここには三溪園の造園(一般公開)、横浜経済を救済(第一・二次帝国蚕糸株式会社の設立・責任者、七十四銀行破綻~横浜興信銀行設立)、震災復興(横浜貿易復興会・横浜市復興会の会長)、社会救済(寄付、横浜発展に尽力)の4つのキーワードを入れる。
 トライアングル右角<文芸の人>には11枚のパネルを充て、古美術の収集家、若手日本画家の後援・育成、文化財保護に尽力、茶人、漢詩・日本画の趣味の5つのキーワードを入れる。
 キーワードは総計12。近代的経営(技術・品質・人事)、若手日本画家の支援・育成、三溪園の造園、震災復興等々、どれ一つをとっても常人には成しえず、それが12とは尋常ならざる偉業である。

【三溪の<公人>と<私人>】
(その7)
 トライアングルの下方には、<公人>と<私人>の2面から描く「三溪像の側面」の図があり、別の視点から三溪の姿を照らし出そうとしている。
 <公人>のなかには、蚕糸業界の長、政財界との交流、現実社会の中で、関内(横浜の中心部)で、出張先で、横浜愛・使命感、実業の人、愛市の人、無心の心・唯有義耳(ただ義あるのみ)の9つのキーワード。
 一方の<私人>の側には、自然・田園風景への憧憬、故郷への思慕、三溪園で、別荘・旅先で、自然美・安らぎ、文芸の人、歴史・文化の見識、白雲の心の8つのキーワードを入れる。
 <公人>の枠に<実業の人>と<愛市の人>の2つを入れ、<私人>の枠には<文芸の人>が入っている。<文芸の人>から<美術の人>、<芸術の人>、<造園の人>へと想像を膨らませる人もおられよう。
ついで<実業の人>に6枚のパネル、<愛市の人>に4枚のパネル、そして<文芸の人>に11枚のパネルを充て、各論の説明に入る構成である。
 市民研の展示はプロローグで4枚のパネル(『原三溪翁伝』について、生い立ち、《乱牛図》、結婚を並べる。藤本實也が1945年8月16日(三溪の命日)に完成させた稿本『原三溪翁伝』を広く知らせたいと刊行作業に取り組む団体として生まれたのが市民研である。本書の解題を冒頭に置くことにより、展示の副題「原三溪市民研究会10年の足跡」が生きてくる。
 3つ目のパネルで岐阜時代の三溪の成長、とくに三溪が17歳(満16歳)で描いた《乱牛図》を取り上げて詳述する。私がこの絵を初めて観たのは、岐阜市歴史博物館の特別展「岐阜が生んだ原三溪と日本美術-守り、支え、伝える」(2014年10月10日~11月16日)だったと思う。
 また昨年秋、市民研と三溪園の共催で開かれたシンポジウム「原三溪-その生き方を考える」での市川春雄さん(原三溪・柳津文化の里構想実行委員会事務局長)の発表「岐阜と富太郎-郷里岐阜の資料に見る<富太郎、三溪へのステップ>」があった。その中で明治17年の富太郎の筆になる《乱牛図》は旧加納藩主永井尚服の所望に応じて届けたもの。のちに書画を嗜む契機になった作品」と言われた点に強い印象を受けた。

【満16歳の三溪が描いた《乱牛図》】
 今回の特別展「原三溪の美術」にも《乱牛図》が出品されており、この大好きな絵をじっくり眺め、「なだらかな山の裾野に60~70頭の牛が放たれ、子牛や牧童たちの戯れる姿も見える。のどやかで、どこか懐かしい」とブログに書いた(本ブログ2019年7月29日掲載「医療の近未来」)。
 《乱牛図》の賛に「嗚呼太平盛乎 縦馬華山之陽 牛放桃林之野」(ああ太平盛んなるかな、馬を華山の陽(みなみ)に縦(はな)ち、牛を桃林の野に放つ)とある。
 展示図録は、これが中国の古典『書経』(『尚書』)の故事成語「帰馬放牛」から取り、「泰平を寿ぎ不戦を誓い学問を重んじる境地を放牧された群牛と牧童の長閑な情景に託している」とある。
 市民研の解説は、「武を伏せ 文を修め 馬を華山の南に帰し、牛を桃林の野に放ち、天下に服せざるを示す」から取ったとし、戦の象徴の<馬>と、太平の世の象徴の<牛>の対比を際立たせる。

【廣島さんの描く三溪像】
 以上のプロローグの次に来るのがパネル「もっと知ろう! 原三溪」であり、このパネル1枚に全体像を示す重要なキーワードを凝縮して入れている。
 今回は<文芸の人>のなかで三溪の漢詩を強調している。市民研のなかの漢詩の会(講師は関東学院大学の鄧捷教授)を主導してきたのが廣島さんに他ならない。三溪の長女・春子さんの願いを受けて円覚寺住職・朝比奈宗源が編纂刊行した『三溪集』(13回忌の1951年刊)には、漢詩135首、和歌20首、小唄1首が収められているが、今回そこから漢詩16首を取り上げた。
 この展示は、昨年の第5回市民研シンポジウム「原三溪の生き方を考える」の3つの報告のうち、廣島亨「『原三溪翁伝』から三溪の選択を考える」を敷衍・深化させたものと見られる。

【廣島さん最後の言葉】
 特別展「原三溪の美術」も市民研展示も、ともに予想をはるかに超える入場者があったと聞く。2つの展示は、異なる観点から三溪に近づこうとしており、相互補完的で分かりやすい。
 なお展示パネルには明示してないが、廣島さんがぽつりと述べたことが心に残っている。「…生糸輸出は日本最大の外貨獲得源であり、その大半が横浜港から出ていて、これが日本経済を支える根幹という自負を三溪は持っていたのではないでしょうか…」。
 私はそのとき「同感である」とつづけた。
 その後、この指摘にますます共感することが多い。例えば、原合名時代の1909(明治42)年、生糸輸出量で日本が世界一になったことが好例である(2022年11月13日掲載「富岡製糸場創業150周年記念式典」)。
 廣島亨さん「最後の言葉」として、「…生糸輸出は日本最大の外貨獲得源であり、その大半が横浜港から出ていて、これが日本経済を支える根幹という自負を三溪は持っていたのではないでしょうか…」を再掲し、結びとしたい。

富岡製糸場創業150周年記念式典

 諸般の事情から、これは大幅に遅れた報告である。
 2022年10月1日の午後1時から、群馬県富岡市の富岡製糸場の西置繭所(にしおきまゆどころ)において、富岡製糸場創業150周年を祝う式典が開かれた。
 爽やかな秋晴れである。
 高崎まで新幹線で行き、上信電鉄に乗り換える。富岡製糸場見学往復割引乗車券を買う。駅員が懐かしい入鋏機でパンチを入れる。むかし都電の車掌が音をたてて車内を回っていたが、その改良型であろうか。
 高崎発、下仁田行きがゆっくり動き出した。駅が近づくごとに車内放送があり、「運転席の近くのドアが開きます。…」とか、「全部のドアが開きます。…」と内容が異なる。前者は無人駅で、全部のドアが開くのが比較的大きな駅である。むかしの都電を思い出し、懐かしく感じた。
 40分ほどして上州富岡駅に着いた。富岡製糸場までは1キロ弱、ほぼ碁盤目に通る道を、なるべく細目の通りを選んだ。食堂やスナック、バーが軒を並べ、それぞれの区画に特徴があるらしい。

 正門を入り、いちばん奥にある西置繭所(にしおきまゆじょ)が創業150周年を祝う式典の会場である。主催者を代表して、富岡市世界遺産観光部部長の森田昭芳さんが迎えてくださった。
富岡市のホームページによれば、
 「富岡製糸場は、明治5年(1872年)に明治政府が日本の近代化のために設立した模範器械製糸場です。
 明治維新後、政府は日本を外国と対等な立場にするため、産業や科学技術の近代化を進めました。そのための資金を集める方法として力を入れたのが、生糸の輸出でした。政府は生糸の品質改善・生産向上と、技術指導者を育成するため、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場をつくることを決めました。
 こうして富岡製糸場が建設され、現在までほぼ変わらぬ姿で残されています。」

【150周年の略史】
 富岡製糸場の略史をもう少し詳しく見たい。式典会場の西置繭所にある展示と上毛新聞社『世界へはばたけ!富岡製糸場~まゆみとココのふしぎな旅』等による。

1870(明治3)年 明治政府が製糸工場の創設を決め、指導者としてフランス人ブ
リュナを雇う。製糸工場を富岡に創ることが決まり、横須賀製鉄所の設計に当た
ったフランス人バスチャンが製糸場の設計に当たる。
1871(明治4)年 ブリュナがフランスへ帰国、製糸場のための機械や技術者等を集める。
1872(明治5)年 製糸場で働く工女を募集。製糸場が完成、尾高惇忠(おだか じゅんちゅう)が初代所長となる。
1873(明治6)年 製糸場で作った生糸がウィーン万博で二等賞に入選。工女556人となる。「富岡日記」の作者・和田英が女工として勤務。
1876(明治9)年 ブリュナがフランスへ帰り、日本人のみの操業開始。
1893(明治26)年 民間払い下げが決まり、三井家の経営となる。
1894(明治27)年 日本における器械製糸の生糸生産量が座繰製糸の生産量を上回る。
1902(明治35)年 三井家より原合名会社に経営が移る。
1909(明治42)年 生糸輸出量で日本が世界一になる。
1929(昭和4)年 世界大恐慌、生糸価格も下落、日本の蚕糸業にも打撃。
1939(昭和14)年 原合名会社から片倉製糸紡績会社に経営が移る。
1987(昭和62)年 工場がとまり、製糸工場としての115年の歴史が終わる。
2005(平成17)年 国の史跡となる。片倉工業株式会社から富岡市に管理が移る。
2014(平成26)年 富岡製糸場と絹産業遺跡群が世界遺産となる。富岡製糸場の糸繰所(いとくりじょ)、東置繭所(ひがしおきまゆじょ)、西置繭所(にしおきまゆじょ)が国宝となる。
 この略年表から分かったことを3つ挙げたい。

【お雇い外国人の功績と日本人の自立心】
(その1)
1870(明治3)年に明治政府が製糸工場の創設を決め、指導者としてフランス人ブリュナを雇い、製糸工場を富岡に創ることを決め、横須賀製鉄所の設計に当たったフランス人バスチャンが製糸場の設計を行い、わずか2年後に製糸場が完成、初代所長に尾高惇忠が就任、そして6年後の1876(明治9)年にブリュナがフランスへ帰り、日本人のみの操業開始に至ったこと。
 お雇い外国人の知恵と技術を導入し、数年のうちに日本人集団が自立するまでに成長したこと、これは富岡製糸場にとどまらず、今年2022年10月14日に開通し、150周年を迎えたばかりの横浜=新橋間の鉄道建設におけるE・モレルの貢献等、随所に見られる。
 お雇い外国人を雇用できたのは、日本開国の形が戦争を伴わない<交渉条約>に起源しているためである。ペリーと結んだ日米和親条約(1854年)に始まり、T・ハリスとの間に結ばれた日米修好通商条約(1858年)、そして翌1859年の横浜
開港(横浜居留地貿易の開始)の3段階を経て開国する日本は、その過程がすべて話し合いでなされ、幕府の力量が遺憾なく発揮された。
 戦争に伴う失費がなく、<敗戦条約>のような賠償金支払いがなく、外貨流出もなく、生糸輸出により外貨を獲得することにより、お雇い外国人を選択的に雇用することが財政的に可能であり、かつそれを実施する自主性にも事欠かなかった。
詳しくは拙著『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)、『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)、本ブログのリンクにある「横浜の夜明け」(『横濱』誌連載)等をご覧いただきたい。

【富岡製糸場総合研究センター報告書の発刊】
 日本人の技術吸収力の高さ、女工の募集、製糸場での女工の配置の妙、労働環境の整備等があった。詳しくは『富岡製糸場総合研究センター報告書』のうち『富岡製糸場 女性労働環境等研究委員会報告書 2020年 富岡市』等を参照されたい。
 なお『富岡製糸場総合研究センター報告書』は平成21(2009)年に発刊、同センターの岡野雅枝さんから寄贈いただいている。

【横須賀市の開国史研究会での岡野雅枝さんの講演】
 岡野さんとの出会いは横須賀である。本ブログ2014年12月16日掲載の「横須賀開国史講演会」によると、「今年の演題は「横須賀製鉄所と富岡製糸場」、副題に「プレ横須賀製鉄所(造船所)創設150周年記念」とあり、富岡製糸場総合研究センター学芸員の岡野雅枝さん(文化財保存学)の講演「富岡製糸場の設立に係る横須賀製鉄所との関連性について」を受けて、横須賀開国史研究会の山本詔一会長とのトークがあった。」とある。
 横須賀市の開国史研究会(山本詔一会長。以下、開国史研と略称)とは、私も縁があり、その創立総会(2000年)に招かれ、記念講演「ペリー来航とその時代」を行った。…研究会は地道に活動を積み重ね、機関誌『開国史研究』を発刊しつづけている。
 岡野さんの講演は言う。
 「富岡製糸場(群馬県富岡市)は、今夏にユネスコの世界遺産に登録された、明治5(1872)年設立の官営製糸場である。高い技術と規律を身につけた工女を育成すべく、養蚕地帯を中心として士族の子女を集め、模範伝習工女とした。彼女らが地元に戻って普及に当たり、良質な生糸の生産を進める、そのシステムに驚かされる。生糸は、横浜開港(1859年)以降、最大の輸出品で、日本の外貨獲得の筆頭の位置にあった。その生糸の品質改善を担う重点政策である。
 富岡製糸場の建造物が、日本伝統の木造建築と耐火性の強いレンガを組みあわせた独特の「木骨煉瓦造」であり、建造から142年後の現在も、立派に残されている(うち3棟が国宝指定)ことに聴衆は驚嘆した。
 一方、横須賀製鉄所(造船所)は、富岡製糸場設立の8年前の1864(元治元)年、幕府の小栗上野介らの尽力で創設され、来年150周年を迎える。開国史研の目的は「三浦半島と関わりのある開国及び近代化の歴史(以下「開国史」という)の掘り起しと研究を行う」(会則)ことであり、近代化の最重点テーマが、地元横須賀の「近代日本のルーツ」横須賀造船所の研究と施設の一部保存等の運動である。明治4年に横須賀造船所と改名し、この年にドライドック(船の修理施設、日本最古、現役で稼働)を完成させるが、同時に動力機械等の機械製造の総合工場でもあり、製品を日本各地に供給した。」

【鈴木淳さん講演「横須賀造船所再考」】
 ついで本ブログ2015年5月29日掲載の「横須賀造船所150年の記念講演」には、次のようにある。
 「慶応元(1865)年九月二十七日の鍬入れ式で誕生した横須賀製鉄所は、明治4(1872)年に横須賀造船所と改称された。今年は横須賀造船所150周年にあたり、各種の行事が予定されている。そのトップを切って、5月23日、汐入にあるベイサイドポケットを会場に、開国史研の総会記念講演、鈴木淳(東京大学教授)「横須賀造船所再考」が行われた。
 開国史研は、学術研究会であるとともに会員460人超を有する市民文化団体で、今年で16年目に入る。「開国史基礎講座」、「研究講座」、「古文書を読む会」等々の各種の催しを継続、その活動と意義に関しては、本ブログ「横須賀開国史講演会」(2014年12月16日)でも取り上げた。
 鈴木さんの講演は次のようであった。
 「造船・鉄鋼という新技術の導入にお雇い外国人(この場合はフランス人)の力を借りつつ、現場の担い手である技術者・技能者をいかに確保したかという、創設初期の中核的課題を明らかにしていく。
 鈴木さんは、著書『明治の機械工業-その生成と展開』(ミネルヴァ書房 1996年)、『新技術の社会誌』(中央公論新社 1999年 『日本近代』15)、『科学技術政策』(山川出版社 2010年)等で知られる、技術と社会のかかわりに精通する近代史家である。その具体論の一つが今回の演題と見られる。
 個性的な着想を基に、乏しい資料を丹念に読み解き、鋭く分析をすすめる。さすがである。典拠なしの従来の見解、すなわち横須賀造船所の主たる技能者が江戸・東京から転職してきた「渡り職人」とする説を否定して、明治3年の統計を使い、500名強の造船・鉄鋼の職人の過半が地元(横須賀町とその周辺)から採用された人たち(農業を兼業)であったことを示した。
 ついで、技術の「伝習」がたえず行われ、また熟練工である抱職工の約4割が農繁期に欠勤する兼業農家であったとし、その大半が明治6年中に「等外吏」(最下位ながら正規の官吏)に位置づけられたと述べる。
 すこし長くなるが、つづけて鈴木さんの指摘した点を再掲したい。
 「この経営改革を担った責任者が肥田浜五郎(1830~1889年)で、彼の履歴と才能を追う。韮崎代官江川太郎左衛門の侍医の子として生まれ、江戸で蘭学を学び、長崎海軍伝習、機関科の将校として技術を学び、咸臨丸の蒸気方(機関長)として渡米(1860年)、病気の勝海舟に代わり、肥田たちが操船を主導したと言われる。メーア島の米海軍工廠等を見学、造船現場を確認した。帰国後、1861(文久元)年、軍艦操練所頭取手伝出役を経て軍艦頭取出役となる。翌年、幕府軍艦として初の蒸気軍艦「千代田形」の蒸気機関を設計、長崎製鉄所に出張して製造、造船技術のトップエリートとして活躍。
 1863(文久3)年、軍艦頭取、海路上洛する徳川家茂の御座舟「翔鶴丸」の船将(艦長)を務めた。翔鶴丸の前身は、アメリカで1857年に製造された外輪蒸気商船「ヤンチー」(揚子)で、1864(元治元年)年に幕府が買い取り、9月、小栗忠順の交渉により横浜停泊中のフランス軍艦乗員の修理を受けた。その作業の誠実さに幕府は強い信頼を寄せ、親密な日仏関係の端緒となる。
 1865(慶応元)年、肥田は横須賀造船所の工作機械を購入のためオランダに派遣され、帰途、レオンス・ヴェルニー(フランス人、のち横須賀造船所首長)と会見、彼に機械を引き継いで帰国。1868(慶応4)年、軍艦頭に昇進、富士山丸艦長となる。維新後は、静岡藩海軍学校頭、1869(明治2)年8月15日民部省出仕、工部少丞、1870(明治3)年、造船頭兼製作頭として横須賀在勤、翌年11月から岩倉使節団理事官として欧米各国を歴訪、岩倉から絶大な信頼を得た。
 帰国後、工部大丞、海軍大丞兼主船頭と進み、1875(明治7)年4月、海軍少将となり、横須賀造船所長、主船(造船)局長を歴任。幕臣(とくに技術官僚)が維新後の明治政府に貢献した役割はつとに知られているが、肥田はそれを代表する人である。」
ついで講演では、1866年に洋務派官僚の左宗棠(陝甘総督)が作った福州船政局造船所(馬尾造船所)との比較分析、とくにフランスからの技術移転の日中比較を行う。ちなみにヴェルニーは、横須賀に来る前に福州で技術指導をしている。

【外来技術導入に果たした外国渡航経験者の果たした役割】
 横須賀造船所では、外来技術(とくに造船、製鉄等)の導入にさいし外国渡航経験者の果たした役割が大きい。鈴木さんが示した表「明治4年12月の横須賀造船所詰技術官」には、31名(造船上師から造船少手まで)の月給、のちの明治5年1月の職名、姓名、本籍、浦賀奉行所との関係、伝習・渡航歴、幕府海軍(慶応4年2月)の階級、榎本艦隊との関連、最終職が詳細に記されている。これによれば咸臨丸等の渡航経験者と浦賀奉行所の与力・同心が多い。
 遡れば、和船技術を洋式帆船や蒸気船に応用した技術の伝統があり、また外国船との応対の経験(発砲交戦を回避するに至る直接の接触や交流)が豊富な浦賀奉行所の存在があり、それが外来技術への強い探究心を掻き立てたことも、横須賀造船所の技術者・技能者に地元出身者が多い要因となろうと述べる。
 外国経験者が多いのは、日米修好通商条約の批准書交換のため1860年に幕府が派遣した遣米使節(咸臨丸はその随行艦)、文久遣欧使節(1862年)、明治の岩倉使節団(1871~73年)等、度々の海外派遣が行われたからである。
 その使節派遣が可能であったのは、最初の日米和親条約(1854年)が発砲交戦を伴わない「交渉条約」で、領土割譲の政治的恨みがなく、賠償金も伴わなかったためである。技術移転の好循環は、国際政治の好環境と無縁ではない。

【原時代の富岡製糸場】
 本ブログ2016年5月3日掲載の「原時代の富岡製糸場」には不思議な縁が記されている。
 高崎経済大学(群馬県)の石川弘道学長と同大地域科学研究所の西野寿章所長の連名で、新たに刊行された高崎経済大学地域科学研究所〔編〕『富岡製糸場と群馬の蚕糸業』(2016年3月、日本経済評論社)が送られて来た。350ページもの分厚い論文集である。当時の私は都留文科大学学長であり、都留文科大学(鶴)は高崎経済大学(鷹)と同じ公立大学として長い付き合いがあった。とりわけ学生のスポーツ交流の場としての鶴鷹祭(かくようさい)は30余年にわたって続けられており、隔年に相手のキャンパスで繰り広げる一泊二日の熱戦を通じて、(鷹)の石川学長と昵懇の仲となった。
 折しも私が三溪園の園長に就任したのが2012年夏、法人法改正により三溪園保勝会が財団法人から公益財団法人へ移行した時である。

【「木骨煉瓦造」という建造物を軸にした製糸場の継承・発展】
(その2)
 官営から1893(明治26)年に民間払い下げが決まり、三井家の経営とり、その9年後の1902(明治35)年、原合名会社に経営が移ったことである。
 そして原三溪(1868~1939年)没後の1939(昭和14)年、片倉製糸紡績会社に経営が移り、48年後の1987(昭和62)年、工場がとまり、製糸工場としての115年の歴史が終わった。
 さらにその18年後の2005(平成17)年、国の史跡となり、管理が片倉工業株式会社から富岡市に移った。ついでその9年後の2014(平成26)年、富岡製糸場と絹産業遺跡群が世界遺産となり、富岡製糸場の主な建造物が国宝に指定された。日本伝統の木造建築と耐火性の強いレンガを組みあわせた独特の「木骨煉瓦造」という建造物を軸にした富岡製糸場の継承・発展を示している。

【製糸業の成果が三溪園に引き継がれている】
(その3)
 原合名時代の1909(明治42)年、生糸輸出量で日本が世界一になったこと、その20年後の1929(昭和4)年、世界大恐慌により生糸価格も下落、日本の蚕糸業にも大打撃となり、かつ人口繊維の登場により製糸業・蚕糸業ともに衰退していったこと、すなわち軽工業の最盛期を原合名時代の富岡製糸場が経験していることである。
 この1909(明治42)年から大正12(1923)年の関東大震災を経て、1929(昭和4)年の世界大恐慌ころまでの20年間、  原三溪は三溪園の外苑・内苑の整備と古建築の移築を一挙に進めた。
すなわち旧燈明寺三重塔(1914年移築)、天授院(1916年移築)、臨春閣(1917年移築)、月華殿(1918移築)、聴秋閣(1922年移築)等であり、いずれも重要文化財である。

【糸のようにつながる縁の不思議】
 2016年5月3日掲載の「原時代の富岡製糸場」では、前述の高崎経済大学地域科学研究所〔編〕『富岡製糸場と群馬の蚕糸業』(2016年3月、日本経済評論社)の寄贈を受けたことに触れ、本書を手に、糸のようにつながる縁の不思議さに驚いている、と書いた。
 日本庭園・三溪園を造った原富太郎(三溪)は、幕末横浜開港(1859年)以来の最大の輸出品である生糸輸出(生糸売込)に加え、製糸業(群馬県の富岡製糸場等)や不動産業等の多角経営を進めた実業家である。
 その一方で、1902年に完成させた本牧三之谷の自宅(いまの鶴翔閣)へ移り住むと、庭園(三溪園)の構想を練り、地形の成形、植栽、古建築の移築等を進めて、1906年には外苑を公開、今年、開園110年を迎えた。
 もう1つの縁の糸が、開国史研(山本詔一会長)である。その創立総会(2000年)に招かれ、私が記念講演「ペリー来航とその時代」を行った。研究会は地道に活動を積み重ね、機関誌『開国史研究』を発刊しつづけている。
製糸場を通じて生まれた横須賀、富岡、横浜の三者の緊密な関係は、まだまだ発展の余地を残している。いまだ十分に解明できておらず残念でもあるが、同時にまた今が後継する人たちへバトンをつなげる絶好の好機と言えるかもしれない。

加藤勝弥没後100年記念シンポジウム

2022年10月16日(日曜)、新潟県村上市の教育情報センター視聴覚教室において、「加藤勝弥没後100年記念シンポジウム」(同実行委員会主催)が開かれた。私が招かれた経緯等については後に述べる。

 加藤勝弥(かとう かつや)とは誰か。それを示す文章が実行委員会から送られてきた

加藤 勝弥

 加藤勝弥 [安政元(1854)年~大正10(1921)年]は江戸末期、新潟県の北端、岩船郡八幡村(旧山北町・現村上市)板屋沢に生まれた。元々作り酒屋で大庄屋の家であった。明治維新後、近代日本の黎明期、若くして自由民権運動に身を投じた。明治12(1879)年に第一回新潟県議会で、最年少の25歳で当選し、明治13年(1880)年二期目の県会議員に当選。板屋沢に小学校設置。政治家活動中、国会開設の必要性を強く感じるようになった。板垣退助らが中心となり、日本最初の政党「自由党」をつくった。岩船郡自由党の中心になって活躍したのは加藤勝弥であった。明治23(1890)年の帝国議会国会の第一回総選挙に当選、中央政界にも進出し、明らかな足跡を残した。越後北端の草茫の中にあり、明治日本の近代化を押し進めた。また晩年には再度、県会議員となり郷土発展のために忠魂した。勝弥自身は自分の職を「農」と称していた。
 越後の北端から生まれた最初の国会議員加藤勝弥は、青年の教育、道路の整備、鉄道の開設(羽越線の着工の促進と勝木に停車場を設けることに大きな力を発揮)、植林の奨励、現新潟日報の設立にも関与し取締役就任、地方町村会の指導などに情熱的に努力した。
 こんな逸話がある。飢饉の折、板屋沢の邸内に、わざわざ土蔵作りを始めた。農民の労力と引き換えに、食料を提供した。また恐慌により農民たちの生活が危機に陥った時、加藤家への多額の負債を持つ民の為に全額免除した。更には、ある年、洪水から板屋沢の人々を救うため、官林を無断で伐採させ、その木材で堤防を築かせたこともあった。民を置き去りにして、自己の立身を求める途を自ら封じていた。[本井康博著「回想の加藤勝弥」]より
 加藤勝弥の生き方の根底を支えたのは母の俊子(自由民権活動家、独立女子学校設立者)であり、明治17(1884)年5月には妻子3人で洗礼を受け、プロテスタントキリスト者(クリスチャン)になったことである。新島襄(同志社創設者)、内村鑑三らと親交を結び、当時キリスト教界での活動も見るべきものある。なかでも1887(明治20)年、新潟市内に開設した中等教育学校(男子校)「北越学館」の創設に尽力し、初代館長として重責を担ったことは高く評価されている。
 加藤勝弥は、大正10(1921)年4月10日、旧朝日村猿沢に於ける国道開通式に臨み、祝辞演説に於いて倒れ、その年の11月5日に亡くなった。持てる力を発揮し満67歳の生涯を閉じた。   

【加藤勝弥没後100年記念シンポジウム開催を伝える最終チラシ】
 開催を伝える9月27日付の最終チラシが、早々とメール添付で送られてきた。開催日のほぼ1カ月前である。

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 ついで10月11日(開催5日前)に『加藤勝弥関係資料綴』が速達便で郵送されてきた。計34ページの冊子(以下『関係綴』と略称)で、基調講演を行う鈴木孝二さんは「サンデーいわふね」に発表した論考等の関連資料を載せている。
 シンポジウムに招かれて私の出したペーパーは「略年表 加藤勝弥の生涯に想う」の1枚(『関係綴』の22ページ)である。
『関係綴』の最終ページ(34ページ)にはシンポジウム実行委員会の名簿がある。

代表 五十嵐信(日本デザイン学会会員)
企画業務 澤治(村上市観光協会事務局長)
企画業務 安澤孝雄(写真家 街並みゼミ会員)
委員 中島秀雄(郷土史活動家)
委員 鈴木寿彦(関川村地域づくり活動家)
協力 菅原寿(NPO法人さんぽくスポーツ協会事務局)

【実行委員会代表・五十嵐信さんとのご縁】
 五十嵐信(いからし まこと)さんとのご縁は、冊子「伝道開始140周年記念誌」を送って下さり、そこにあったメールアドレスに下記のように返信したことに始まる。今年の3月である。
 「貴稿「勝弥様とのえにし」を拝読し、学生時代のインド放浪のこと、貴宅の場所がかつての勝弥の講議所(教会)の跡地であること等、不思議な縁を感じました。この冊子48ページの家系図に勝弥の子・七郎の次男の祐三(現在東大大学院在籍)とあるのが私です。…(中略)…3年前の夏、孫(娘の長男)を連れて板屋沢を訪れました。加藤二蔵さんのご長男で旧知のドライブイン店主、優(まさる)さんに拙著『幕末外交と開国』(2012年 講談社学術文庫)をお渡ししたのはその時です。
 いろいろとお伝えしたいことがございますが、まずは書き続けてきた私のブログ(http://katoyuzo.blog.fc2.com)をご笑覧ください。」

【イモリがつないだ縁】
 第2の縁が生物学の浅島誠東京大学名誉教授との繋がりである。横浜市立大学の後に東京大学に移り、副学長を務めた浅島さんとは清談会という私的な懇談会を夏と冬の2回、永年幹事・小島謙一さんの招集に応じて開いている。今年の夏の清談会で、浅島さんがイモリの採集に村上市へ行く予定と聞いていた。まさか16日の記念シンポジウムと重なるとは思わなかったが、メールで連絡を取り合い、新潟駅から特急いなほに乗り、車中で会おうと日程調整して、自由席で座った後ろの座席に、なんと浅島さんがいた。
 私は浅島さんと同行のお二人とは初対面で、挨拶を終えると、さっそく返却にいくイモリを見せてくれた。イモリはアカハラの別名を持つ、子どもの小指ほどの大きさのトカゲに似た可愛い動物で、同行した中学3年生の孫(娘の次男)にイモリに触れさせつつ、浅島さんの「講義」を聞かせた。浅島さんは春に採集したイモリを戻し、新しいイモリを採集するのが今日の目的と言う。
イモリは3憶年の間、変わらぬ姿で生き続けているが、人間はわずか20万年(人類は700万年)に過ぎない、と浅島さん。イモリの多様な適応能力のうち解明されたのはわずか数%とのこと。
 浅島さんはイモリを材料として発生のメカニズムを解明した。受精卵が発生して新しい個体となる誘発因子アクチビンを発見。アクチビンは卵巣や精巣から分泌されるタンパク質ホルモンの一つ。卵胞刺激ホルモン分泌の促進、両生類の胚における筋肉や脊索などの中胚葉誘導などの活性を有する。アクチビン濃度に応じて様々な器官や組織へと分化する。さらにイモリは、ガン撲滅の能力や各種の治療効果を持つことが次々と明らかになってきている。
 アクチビンの発見は、30年余りも前のことで、以来、浅島さんはノーベル生理学賞の候補に幾度も挙がっている。
浅島さんを五十嵐さんに紹介したいと思い、歩いて数分の教育情報センターへいっしょに向かう。
 迎えてくれた人に「五十嵐さんですか」と呼びかけると、「はい、五十嵐です」の答え。お会いするのは初めてである。

【登壇者との事前打ち合わせ】
 用意して下さった弁当を頂きながら、司会進行も兼ねる五十嵐さんと登壇者との打ち合わせに入る。前掲のチラシにある基調講演を行う鈴木孝二さん(基督教独立学園高校元校長)、山田耕太さん(敬和学園大学学長)、加藤亨(村上市郷土歴史研究会)さん。いずれも初対面である。
 山田さんが「私は東京都練馬区に住んでいました。新約聖書の研究をしています。イギリスのダラムに…」と言われる。練馬区、イギリス滞在とは不思議なご縁である。山田さんの専門は、ユダヤ・キリスト教文化とギリシア・ローマ文化にかかわるヨーロッパ思想史。千葉大学卒業後、国際キリスト教大学比較文化研究科、そして1986年にイギリスのダラム大学神学部博士課程修了(Ph.D.)。
 さまざまな話題をゆっくり話してみたい。山田さんはシンポジウム後に板屋沢に車を飛ばし、勝弥の墓参りをしてくださったと、後に五十嵐さんのメールで知る。
 敬和学園大学は、勝弥の創設した北越学館の流れを汲む(前掲『関係綴』9ページの「新潟にリベラルアーツ<北越学館>開校」、10ページの「加藤、建学の精神地下水脈となって流れ続け今日の敬和学園へ」に詳しい)。キャンパスは新潟市と村上市の間の新発田(しばた)市にある。

【鈴木孝二さんの基調講演】
 鈴木さんは、前掲『関係綴』に収めた多数の論考を主導的に発表してこられた方で、それの論考をもとに、以下の4つの側面から語った。
 (1)民権政治家として。『関係綴』6ページ所収の論考を中心として、高田事件や藩閥政治に対置する<無私の精神>に基づく民権派議員として県会議員、衆議院議員に挑み、足尾銅山鉱毒事件を摘発しつづけた栃木県の田中正造(1841~1912年)と対比されると言う。また『関係綴』7ページ所収の西潟為三『雪月花』には勝弥がひんぱんに登場する。
 (2)北越学館創設等、教育者として。『関係綴』11ページの「北越学館創設」、同32ページ所収の、母・俊子が東京で開いた女子独立学園の支援ほか。
(3)実業家として新聞社(新潟日報、新潟新聞等)の会計監査。在米の弟の加藤林吉の支援。
(4)家族のうち勝弥の四女・加藤タカの活躍について。『関係綴』13~15ページ所収の「加藤タカ物語」(サンデーいわふね連載)に記載がある。

【私の話したこと】
 私の提出したペーパーは『関係綴』22ページに収めた前出「略年表 加藤勝弥の生涯に想う」である。この略年表は全体を3段に分け、左段に「時代背景」、中央段が「加藤勝弥の生涯」、右段が「注と参考文献等」である。まず中央段「加藤勝弥の生涯」から。

加藤勝弥の生涯
 以下は主に本井康博編『回想の加藤勝弥-クリスチャン民権家の肖像』所収の「(四)加藤勝弥関係年譜」に加筆したもの。
1854年2月5日(嘉永七年正月五日)、新潟県岩船郡八幡村大字板屋沢にて大庄屋の加藤雄次郎と白井敏子の長男として誕生。

〇勝弥の青年期(1866~1888年)
  1866年 この頃から3年間、村上で藩士・水谷(雪舟)に学ぶ。
  1868年3月16日 父・雄次郎死去。同年8月、祖父・助太夫死去。板屋沢へ戻り、家督を継ぐ(14歳)。
   同年8月11日 戊辰戦争で村上落城。
  1871年10月10日 仙場久子と結婚(17歳)。
  1877年5月10日 T・A・パーム、押川方義、村上伝道開始。
1879(明治10)年6月 第1回新潟県議会に最年少で当選(25歳)。
1880年6月 第2回新潟県会に当選。
1882年4月 北辰自由党を設立、常備委員(28歳)。同年年10月 板屋沢で葡萄山北自由党を組織。
 1883年3月20日 高田事件。翌日、石川県金澤で捕縛され、新潟県高田で入獄(29歳)。
8月16日、山際七司とともに釈放。
この頃、弟の弘吉がパーム病院入院、そこで母俊子がキリスト教に出会う。
  1884年5月4日 村上にてR・H・デービスより俊子と勝弥夫妻受洗。以降、酒造業を廃業し、自らも断酒(30歳)。
  同年5月8日、高田事件の予審で免訴。
  同年6月18日、東京転出。数寄屋橋(銀座)教会長老に選出。同年8月24日、村上教会を設立。
 1887年6月、新潟に戻り、学校設立運動に従事。同年10月15日、成瀬仁蔵(日本女子大学を創設)とともに北越学館を設立して館長に就任(33歳)。
  1888年1月、県会議員に当選(3期目、自由党)。
  同年6月6日、内村鑑三を北越学館教頭に招聘。同年10月、北越学館事件勃発。
  1889年、俊子が東京角筈に女子独立学校を設立。

○勝弥の壮年期(1890~1921年)
  1890年7月1日、第1回総選挙に当選(36歳、一期目、大同派)。東京に戻る。北越学館館長を辞任。
  1892年2月15日、第二回総選挙に当選(38歳。二期目、自由党)。
  同年7月27日に渡米(~11月14日)。
  1893年から3年間、米国滞在(39~42歳)。
  1899年9月25日、新潟県議会に当選(五期目、憲政党)。
  1903年9月25日、新潟県議会に当選(六期目、政友会)。
  1907年9月25日、新潟県議会に当選(七期目、政友会)。
  1912年5月15日、第11回総選挙に当選(58歳、三期目、政友会)。
1915年9月25日、新潟県会議員に当選(61歳、八期目、政友会)。
  1920年5月10日、第14回総選挙で刈羽郡から立候補し、初めて落選(66歳)。同年8月4日、金婚式。
1921(大正10)年4月9日、岩船郡猿沢村での国道開通式で倒れ、同年11月5日午前8時10分、死去、享年67。

時代背景
〇勝弥の生前  
 1842年、天保薪水令の発布。文政令(異国船無二念打払令)を覆し穏健な対外令。第1次アヘン戦争の情報を徹底的に分析、海軍を持たない中国の敗戦を同じく海軍を持たない日本の<自国之戒>(我が国の戒め)として、南京条約締結の1日前の1842年8月28日に発布。幕府はこれを外交の基本とした。
 1839年、蛮社の獄。
 1853年7月 ペリー艦隊の(第一次)来航時には天保薪水令下にあり、発砲交戦なく平和裏に交渉が始まり、米大統領国書を久里浜で受理する。

〇勝弥の誕生後 
 1854年2月5日、勝弥誕生。
同年2月、ペリー艦隊2度目の来航。2月8日から武蔵野国久良岐郡横浜村において日米和親条約の交渉を開始。3月31日、日米和親条約に調印した。
 調印した条約文は日本語・英語・漢文・オランダ語の4言語からなる。どの言語を正文とするか。同年6月17日、幕府の主導のもと、日本語と英語を正文とし、オランダ語訳を付すとした下田追加条約に調印。
 1858年 ハリスと日米修好通商条約を調印する。ここで新潟を含む五港開港、アヘン禁輸、キリスト教の布教解禁等が決まった。
 1859年7月1日(安政六年六月二日)横浜開港、横浜居留地貿易始まる。中国産生糸が蚕の病気のため減少、日本の生糸輸出が伸びる。加えて外商の内地旅行を条約で禁止したため、日本の生糸売込商が有利となる。
 4大生糸売込商の一人が原善三郎であり、のち1889年、横浜市議会の初代議長、急増する人口を統一の取れた市民集団にまとめることに貢献した。
 原善三郎の孫娘と結婚した青木富太郎が原三溪と号し、三溪園を創設。
1860年、安政の大獄。1864年、四国艦隊 下関砲撃。


〇勝弥の青年期(1866~1888年)
 1868年 明治維新(勝弥家督を継ぐ。14歳)。慶応4年/明治元年~明治2年(1868年~1869年)の戊辰戦争。これは王政復古を経て明治新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍および奥羽越列藩同盟が戦った内戦。
 1869年1月1日(明治元年11月19日)新潟開港(15歳)。
 1871年 版籍奉還。岩倉具視ら米欧回覧のため横浜港より出航。同行した書記官・久米邦武の『米欧回覧実記』(1978年=明治12年)はベストセラーとなった( 24歳)。
このころから<新造漢語>の模索が始まり、柴田昌吉・子安峻『附音挿図和英字彙』(1873年)~島田豊纂訳『和訳英字纂』(1881年)でほぼ完成。自由、民主、革命、進歩、権利、新聞、概念…等の<新造漢語>が定着する。
 1872年10月14日、横浜=新橋間の鉄道開通、今年が150周年になる。
 1877年、西南の役(23歳)。
 1886年、第1回条約改正会議開催。
 1889年、大日本帝国憲法・皇室典範発布(35歳)。

○勝弥の壮年期(1890~1921年)
 1890年、第一回帝国議会総選挙(36歳)。
 1894~95年、日清戦争(40~41歳)。
 1898年、進歩・自由両党が合同、憲政党を組織、最初の政党内閣(44歳)。
 1900年、義和団事件に日本が出兵。
 1904~05年、日露戦争(50~51歳)。
日露戦争後、政党勢力が伸長、憲政擁護運動強まる。
 1913年、桂内閣に対する憲政擁護運動〈54歳〉。
 1918年、原敬の政友会内閣成立(64歳)。
 1919年、普通選挙獲得運動強まり、朝鮮万歳事件(三一事件)。
 1921年、勝弥死去。原敬首相、東京駅にて暗殺さる。

注と参考文献、その他
『総合歴史年表』(岩波書店)、児玉幸多編『日本史年表・地図』(吉川弘文館)、『世界史総覧』(とうほう)。神田文人・小林英夫編『決定版 20世紀年表』(小学館)。本井康博編『回想の加藤勝弥-クリスチャン民権家の肖像』(地方の宣教叢書1 キリスト教新聞社 1981年)。同『近代新潟におけるキリスト教教育-新潟女学校と北越学館』。小川原正道『明治の政治家と信仰』(吉川弘文館2013年)。ネット春城日誌研究会「市島謙吉(春城)年譜(稿)」(54ページ)、春城は新潟2区で勝弥と争った人物。
〇主な公的史料 : 『帝国議会会議録』(国会図書館で検索・活用)。『新潟県議会史』(明治篇1 明治維新から明治29年まで収録、明治篇2 明治30年から明治44年まで収録、大正篇 明治45年から大正15年まで収録)。
〇主な勝弥史料 
加藤勝弥の四男・四郎の子・敬ニさん宅にあった勝弥資料は、長女の眞理さんに見せてもらい、いま長男の加藤洋さんが保管、それを私が借りて整理中。
〇加藤祐三 :E-mail aakatoyz@nifty.com
主な著作。 『イギリスとアジアー近代史の原画』(1980年 岩波新書)、『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)、 『黒船異変-ペリーの挑戦』(1988年 岩波新書)、編著“Yokohama Past and Present”、1990 YCU、『幕末外交と開国』(2012年、講談社学術文庫)。
加藤祐三ブログ http://katoyuzo.blog.fc2.com/ +そのリンクにある諸論考。とくに「横浜の夜明け」(『横濱』誌に10回連載)等。


〇個人的な経験等
(1) 中学3年生の夏休み(1948年)、いとこの加藤代々子さん(四郎の次女)に連れられて板屋沢(いたやざわ)に行き、加藤二蔵さん宅に泊めていただいた。二蔵さんが水眼鏡を使って巧みに魚を取る様子やウナギ採りの仕掛けを見たり等、さまざまの体験を夏休みのレポートとして提出。担任の山下正太郎先生(担当は国語)にレポートを褒められ、書く喜びを知った。
(2) バンドン会議(1955年)に感銘をうけ、アジアの歴史を東京大学文学部東洋史学科で学ぶ。歴史学者。横浜市立大学長、都留文科大学長を務め、横浜市立大学名誉教授、都留文科大学名誉教授。いま国指定名勝・三溪園(横浜)園長・理事。
(3) 加藤タカ伯母の神奈川県葉山の家に、しばしば立ち寄り談笑した。また両親が外国旅行に出たときは、東京の実家に留守番に来てくれ、津田塾大学〈東京都小平市津田町、1900年創立〉の校地を探しに、津田梅子を支えて行動したこと等々の貴重な話を聞いた。
(4) 姉まち子の夫・岩堀行広(明治学院大卒)は日本の英学史・辞書史研究者であるとともに実業家。後楽園スタヂアム 常務取締役。『英和・和英辞典の誕生 : 日欧言語文化交流史』 (図書出版社 1995年)。コレクションは明治学院大学に寄贈(岩堀行宏文庫)、所蔵辞書とともに「幕末・明治英学辞書コレクション」に発展。



【勝弥の活躍を支えた時代背景-その出発点】
 提出したペーパー「略年表 加藤勝弥の生涯に想う」について。
 1890(明治23)年7月1日投票の第1回総選挙に勝弥は36歳で当選している。当時、選挙権を持っていたのは国税15円以上を収める満25歳以上の日本国男性であり、有権者数は約45万人、全人口3993万3478人の約1.13%に過ぎなかった。衆議院の定数は300人、一人区が214人、二人区が43人である。
 制限選挙とは言え、選挙を通じて議員(中央と地方)を選び、国や自治体のトップを決め、新しい教育のための学校制度を創る等、近代日本の歩みには、その前提となるものがあったはずである。
 それは日本と外国との「最初の接触」と、それに伴う「開国の形」に起源があるのではないか。上掲の時代背景の冒頭にある1842年の天保薪水令は、隣国中国と超大国イギリスとのアヘン戦争(第一次)を教訓とした、避戦の外交政策である。
ペリー来航はそれから11年後。幕府は武力に代わる知力の勝負に徹し、条約交渉を最優先させた。中国がアヘン戦争に敗れて「敗戦条約」を強いられたのに対し、幕府政権は「交渉条約」の推進で有利に立つ。「交渉条約」には、領土割譲もなく、賠償金支払いもない。
 論点は5つある。詳しくは拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(1980年 岩波新書)、『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)、『幕末外交と開国』(2012年 講談社学術文庫)やブログのリンクにある「横浜の夜明け」(『横濱』誌に10回連載)等を参照していただきたい。
 第1が、穏健な天保薪水令の政策下でペリーの黒船艦隊を迎え、発砲交戦なく交渉に入ることができた。
 第2が、ペリー艦隊の抱えていた諸問題である。ペリーが搭乗する旗艦ミシシッピー号はアメリカ東部の軍港を出て大西洋を横断、南下してアフリカ南端をまわり北上、それからはイギリス蒸気郵船の中継所で蒸気船の燃料である石炭や水・食料を購入して中国海域に着き、琉球を経て浦賀沖に姿を見せたのが出発から7か月半後であった。もし日本と交戦状態となりイギリスが中立宣言を出せば、巨大な艦隊は補給路を断たれ、帰還できなくなる。
第3が幕府の主導により、条約を2段階としたこと。すなわち日米和親条約(1854年)で国交樹立を宣言、詳細な通商問題についてはT・ハリスとの日米修好通商条約(1858年)で決めるとした。
第4が、ハリスとの交渉を通じて、最初にして最大の横浜居留地を幕府主導で設定、日本側にきわめて有利な<居留地貿易>を進めたこと。
 第5が、列強間の対立が日本に有利に作用したこと。なかでも1858年の日米修好通商条約のなかにある「アヘン禁輸」は、1842年の英清南京条約以来の米英対立に起源する。日本に一番乗りしたアメリカが、国際法上の「最恵国待遇」理論により「アヘン禁輸」を求めて条約に明記され、イギリス等の後続条約に継承された。このハリスの提案がなければ、日本もまたアヘン禍に陥っていたかもしれない。

 「交渉条約」に成功した日本には、多くの商人や宣教師たちがやってきた。戦争に伴う失費や賠償金支払いがないため、「お雇い外国人」(日本政府が雇い入れる外国人)を雇用することができた。
 例えば一昨日10月14日が横浜=新橋間に初めて鉄道が開通して150周年の記念日だったが、それにはお雇い外国人E・モレル(鉄道技術主任)の功績が欠かせない。さらに岩倉使節団等の海外派遣を行う資金もあった。
そして前述のとおり<新造漢語>を主体的に創造した。民主とは古い漢語では「民の主」=君主を指していたが、それを「民が主」としてデモクラシーの意味に換えた。フィロソフィーの訳語として哲学を造った。また民権とは民主的権利を短くした言い方である。
 なお、これらの<新造漢語>は、日清戦争(1894~95年)後に来日した清国留学生によって漢字の母国へ帰り、いま現代中国語のなかで生きている。

 このような新しい思想、新しい文化、新しい生活様式等の流入により変化していく近代日本形成期に、勝弥は政治、宗教、教育、実業の世界に身を投じ、自らの生き方を模索していったと思われる。
たくさんの課題を頂戴したシンポジウムであった。

【板屋沢の墓参り】
 その夜は、送迎バスで10分ほどの名湯・瀬波(せなみ)温泉に泊まる。シンポジウム後に合流した妻の光(ひかり)、長男、長女とその次男(孫)の総勢5人である。
 翌日、勝弥夫妻らの墓参りのため、羽越線の各駅停車で北上。無人駅の勝木(がつぎ)で、五十嵐さんご夫妻に出迎えていただいた。奥様は仕事のためここで別れ、五十嵐さんの運転で10分ほどの板屋沢へ向かう。
「雨模様だし、このまま、まっすぐ墓地へ行きましょう」と五十嵐さん。草深い道を巧みに進む。停車したところが、地元の人々が守っている墓地であった。
 なんと勝弥・久子の墓のすぐ隣に五十嵐家の墓がある。
 先祖たちは、はるか昔から親しくお付き合いしていたに違いない。
 墓参の後、五十嵐さんのご実家に招かれた。ここは勝弥の教議所(教会)の跡地に建てられており、すぐ近くの高台にはかつて勝弥の屋敷があった。
 五十嵐さんの「加藤勝弥シンポジウム」に取り組むまでの流れを伺った。

【五十嵐さんが勝弥シンポジウムを開くまで】
 若いころ家具屋に勤め、主にホテル向け特注家具専門の営業の仕事をしていた。ある日、山北の役場から「村おこしではじめた第3セクターの会社がある、家具屋での手腕を活かして漬物屋をテコ入れしてくれないか」と電話が来た。
 漬物屋の会社寮は東京三軒茶屋にあった。静岡の倉庫に赤カブの漬物が2000箱もあり、試食を通じて完売させた。
一度販売のルートができれば、人の口が覚えているから、誰がやっても売れるようになる。そこで別の新しいことをやってみたいと考えるようになった。
 どうしようかと考えているうちに、以前に講演を聞いた千葉大学工学部の宮崎清(みやざききよし)先生のことを思い出し、気持ちを抑えきれず、西千葉にある大学まで車を飛ばした。アポイントなしの訪問に「先生は忙しく会うことはできない」という秘書と押し問答をしているうちに先生が出てこられ、3分だけ時間をもらったが、結局1時間も語り合うことになった。
 君には熱意がある、研究生にならないか。ただし条件が一つある、役場の許可をとることと言われ、山北の役場に話をするが、役場は私を手放さない。結局、研究生にはなれなかった。
 その後、営業所長として損害保険会社へ転職する。金融業界は合併の嵐。再び宮崎先生(当時千葉大学副学長)のことが頭をよぎる。先生に連絡を取ると、在野で研究をしてはどうかと勧められる。
 テーマを『地域資源をデザインする』と定める。
 そこから、加藤勝弥、灰(灰汁)の文化、伝承芸能などのテーマが浮かんだ。
 宮崎先生が退官にあたり、山北を訪れる機会があった。その懇親会に招かれ先生と再会、先生が千葉大学を離れた後、私は誰に面倒を見てもらえばいいですかと相談すると、学会登録の道を用意していただいていた。
 それを機に『日本デザイン学会』への登録の運びとなった。先生と台湾での学会へ行ったときは、山北の役場が費用の7割を負担してくれた。
 既存の地域要覧や地域歴史文化記録をまとめた文章を見せると、宮崎先生は、「あなたにしか書けない論文を期待している」とおっしゃる。穴があったら入りたい気持ちになった。
 そこから一念発起し、研究にさらに身を入れた。
 この地域の特異性は何か。灰(灰汁)の研究は京都では50年前に完成しているが、山北ではまだである。
 10年前、宮崎先生から「継続は力なり」とのお言葉をいただく。勝弥については、地域の貴重な資産という点から注目した。

【そしてこれから】
 今年3月、宮崎先生と親友だった役場の佐藤庄平元企画課長が亡くなられた。亡くなる前に肖像画を描いてほしいと頼まれ、その時は写真を撮った。
 損害保険会社を定年まで勤め上げ、やっと時間のできた今、これからやりたいことは、佐藤元企画課長の肖像画を描くこと。
 灰(灰汁)の論文を書きあげ、灰(灰汁)のシンポジウムを開くこと。
 そして今回の村上での加藤勝弥シンポジウムの録画を使って、山北でも勝弥のシンポジウムを開きたい。

【勝弥が倒れた国道7号を行く】
 1921(大正10)年4月9日、勝弥は岩船郡猿沢村での国道開通式で倒れ、同年11月5日午前8時10分、死去した。この国道をいまは国道7号と呼ぶ。
 起点の新潟市から日本海沿いに、山形県庄内地方、秋田県、青森県津軽地方を経由して、終点の青森市に至る幹線国道で、総延長585キロ、1952年制定。江戸時代には新潟市~秋田市は羽州浜街道、秋田市~青森市は羽州街道として五街道に準ずる脇街道とされた。

 五十嵐さんのご実家から再び五十嵐さんの運転で国道7号へ出て村上方面へ向かう。しばらくして右手に加藤優さんが経営するドライブイン・フジがある。ここで優さんと大喜びの再会。ご夫妻が作る美味しい昼食をご馳走になった。
 雨のなか国道7号をさらに進み、脇にそれて猿沢に至る。倒れた勝弥が運び込まれたと思われる寺が2つある。五十嵐さんが当時の記録が残っていないか事前に問い合わせ、寺が調べてくださったが、100年も前のことで見つからなかったとの答えであった。
 村上駅で五十嵐さんと別れ、新潟駅から上越新幹線を使い、夜遅く帰宅した。
上越線はいまと路線が同じではないが、1884(明治17)年8月20日に初開業している(勝弥30歳)。勝弥の時代は所要時間がはるかに長かった。そんな想像をめぐらせながら「勝弥没後100年記念シンポジウム」の2日間を終えた。
 細やかな心遣いでお付き合い下さった五十嵐さんに、厚くお礼を申し上げたい。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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