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人類の敵=新型コロナウィルス(55)

 この連載「人類最強の敵=新型コロナウィルス」は55回目になる。前回の(54)は2202年9月27日の安倍元首相の国葬で終え、末尾で次のように述べた。「反対を叫ぶグループと参列する人たちが静かに並存する東京都心部の映像が世界の人たちの目にどう写ったのだろうか。ロシアによるウクライナ侵攻の映像を見慣れた人たちには、意見の違うグループの静かな並存は驚くべき光景であったに違いない。「国民の分断を招いた国葬」(朝日新聞夜ニュースレター)ではなく、多様性の表れと見る方が現実に近いのではないか。」

 27日の日経新聞によれば、岸田首相は追悼の辞で安倍氏の死を「まだまだ長く生きてもらわなければならない人だった。痛恨の極みだ」と悼んだ。安倍氏の外交戦略について「重層的な外交は世界のどの地域とも良好な関係を築いた」と評価した。「あなたが敷いた土台の上に持続的で全ての人が輝く包摂的な日本をつくっていくことを誓う」と述べた。
 菅義偉前首相は友人代表として追悼の辞を読み「悲しみと怒りを交互に感じながらこの日を迎えた」と話した。「安倍総理、あなたは日本にとって真のリーダーだった」と語りかけた。官房長官として安倍氏を支えた日々を振り返り「首相官邸でともに過ごし、あらゆる苦楽をともにした7年8カ月は本当に幸せだった」と振り返った。

【日立とGE、三菱重工業も新型原子炉を開発へ 政策転換追い風】
 29日の日経新聞は、次のように伝えた。日立製作所とゼネラル・エレクトリック(GE)の合弁会社の日立GEニュークリア・エナジーは、安全性が高い「革新軽水炉」と呼ぶ新型原子炉を開発する。手掛ける沸騰水型軽水炉(BWR)は、2011年に事故のあった福島第1原子力発電所で使われていた。事故を踏まえた安全機能を高める。
 三菱重工業も29日、関西電力など電力4社と新型原子炉を開発すると発表した。次世代型原発の開発・建設の検討に入った政府の方針転換が追い風となる。
 既存のBWRを基に改良する。電源がなくても液体の温度差を用いて、核燃料を冷やす冷却水が対流する仕組みを採用する。11年の事故では津波で電源が喪失し、冷却水を注入できなくなった。排気口に放射性物質を多く含む希ガスを除去するフィルターを設置し、水蒸気を逃がす「ベント」を円滑に進められるようにする。事故では格納容器の圧力が高まった際にベントに手間取り、水素爆発を招いた。
 実用化の時期は30年代半ばだが、将来のBWRを用いている原発の新増設に備え、技術開発を進める。

【日本と中国、友好と摩擦の半世紀 国交正常化50年】
 29日の日経新聞は次のように伝えた。
 日本と中国の国交が正常化して29日で50年を迎えた。「日中友好」の名の下に日本が中国の経済発展に協力してきた雰囲気は薄れた。近年は中国が経済と軍事の両面で台頭し、日本は米国と連携してどう抑止するかに腐心する。経済面では地理的に近い中国と簡単に関係を切り離せないという難しさもある。
 日本が中国と国交を正常化するきっかけは米中の接近だった。1971年7月、当時のニクソン米大統領は国交正常化を話し合うため翌年訪中すると電撃発表した。直前には米大統領補佐官のキッシンジャー氏が訪中していた。
 東西冷戦下で米国と歩調を合わせていた日本は頭越しの米中接近に驚いた。田中角栄氏は72年7月に首相に就くと、米国より先に中国と国交を結ぶことを目指し、9月25日に北京を訪れて周恩来首相らと連日協議し、29日に人民大会堂で日中共同声明に署名した。大平正芳外相らも同行した。
 中国はこのとき対日戦後賠償を放棄した。日本が79年度に始めた対中政府開発援助(ODA)にはその見返りの意味があるとの指摘は多い。対中ODAはインフラ整備など中国の経済発展を下支えした。2021年度に終了させるまで、総額およそ3兆6000億円が投じられた。

【プーチン大統領、ウクライナ4州の一方的「併合」宣言】
 30日の日経新聞は次のように伝えた。
 ロシアのプーチン大統領は30日、モスクワで演説し、ウクライナ東・南部の4州を一方的に併合すると宣言した。強行した住民投票で編入賛成が多数だったと主張し、「編入条約」に署名した。2014年3月のクリミア半島併合を再現しようとするが、4州の併合によってウクライナを支援する西側諸国との分断は決定的になる。
 プーチン氏は演説後、クレムリン(ロシア大統領府)で、ウクライナ4州(東部のルガンスク、ドネツク、南部のザポロジエ、ヘルソン各州)の一部を占領する親ロシア派武装勢力代表との間で編入の「条約」に署名した。議会での批准や関連法案の採択を経て、来週半ばにも手続きを終える。
 議員や政府幹部らを前に行ったクレムリンでの演説で、プーチン氏は4州の住民が「明確な選択をした」と述べ、「我々の国民になる、永遠にだ」と表明した。さらに「停戦し、すべての作戦を止め、交渉のテーブルに戻るようウクライナ側に呼びかけている」と述べた。4州の併合問題は協議の対象ではないと語った。
 プーチン氏は演説で「歴史的な大ロシアのための戦いが起きている」とも述べ、ウクライナ東・南部の併合を正当化しようとした。「すべての手段を使用し(国土を)守る」と核兵器使用の可能性を示唆し、「米国は広島、長崎に原爆を使用した唯一の国であり、前例を作った」と主張した。
 演説の半分以上を米欧批判が占め、対決姿勢を鮮明にした。欧米が「ロシアを崩壊させようとしている」と批判。「米国は事実上、いまでもドイツと日本、韓国さらに他の国々も占領している」「アングロサクソンが(欧州向けのガス管である)ノルドストリームの爆破をしかけた」などと語った。
 ロシアの一方的併合に対し、国際社会は非難を強めている。バイデン米大統領は29日、「ロシアの主張を決して認めない」と表明した。根拠とする住民投票に関し「結果はでっち上げだ」と断じた。
 ウクライナのゼレンスキー大統領は29日、「命よりも戦争を望む人物を止めなければならない」とプーチン氏を非難した。国連のグテレス事務総長も同日、「法的価値を持たない」と批判した。欧米などは直ちに厳しい対ロシア追加制裁を科す方針で、ウクライナへの軍事、経済支援の拡大も急ぐ。
 ロシアは2月24日、ウクライナへの軍事侵攻を開始し、4州の一部で、同国全土の約14%に当たる地域を占領した。9月23~27日には占領地域で銃剣の下、ロシア編入を問う住民投票を強行し、87~99%が賛成だったと主張した。併合地域は今後、クリミア半島も含めてウクライナ全土の2割近くに達することになる。
 プーチン政権は30日夕、署名式と演説に続いて、モスクワ中心部の赤の広場で、併合を支持する集会を開いた。クリミア半島併合時のように、国民の愛国心を鼓舞して、侵攻と政権への支持を固める狙いだ。ほぼ、死傷者を出さなかったクリミア併合後には、プーチン氏の支持率が8割を大きく超えた。
 ただ、国民の間で当時の熱狂は見えない。21日に一部予備兵を招集する「部分動員令」が出された。職業軍人だけでなく一般の国民の命が失われる事態に直面し、プーチン政権への不満が広がりつつある。街頭デモが各地で起き、拘束者は2000人を超えた。招集を逃れ、外国に逃げる人も急増している。
 ロシアの独立系調査機関レバダセンターは28日、9月のプーチン大統領の支持率が前月比6ポイント減の77%に落ち込んだと発表した。今回の侵攻後の調査では、支持率は初めて8割を切った。調査は22~28日にかけて実施され、部分動員令の発令が大統領支持率にも打撃を与えている。
 プーチン政権にとっては、侵攻の長期化が誤算になった。兵士や武器が不足し、欧米の軍事支援を受けるウクライナ軍の反転攻勢を受けた。9月中旬までに占領していたハリコフ州の一部地域から撤退を強いられ、部分動員の発令だけでなく、併合計画の前倒しも迫られた。
 30日の演説でプーチン氏は、和平交渉を呼びかけながらも、ウクライナ侵攻を続行する強硬な姿勢を示した。ゼレンスキー氏は同日、北大西洋条約機構(NATO)加盟を正式申請すると表明。ビデオ演説で「平和を回復するには全領土から占領者を追い出すしかない」と現段階での停戦を否定した。「ロシアと交渉する用意はあるが、この(プーチン)大統領とは不可能だ」とはね付けた。停戦の糸口を探る西側諸国の期待に反し、戦闘が一段と長期化するのは避けられない。

【ロシア、ウクライナ「併合」強行 1930年代と酷似】
 10月1日の日経新聞は、欧州総局長 赤川省吾の見解として次のように述べた。
 ロシアのプーチン大統領が30日、ウクライナ東・南部4州の併合を宣言した。国際法に違反し、戦後秩序を根底から覆す一方的な併合。勢力圏とみなす地域を力ずくで従わせようとする「プーチン・ドクトリン」は1930年代の欧州と酷似する。
 国際秩序の安定に責任を持つべき国連安全保障理事会の常任理事国。それが「ロシア系住民の保護」を口実に隣国を侵略し、領土の割譲を迫る。
 1938年、ナチス・ドイツがチェコのズデーテン地方を併合した際、「弾圧されたドイツ系住民の保護」を大義名分に掲げた。英仏は戦争を回避するため、併合を認めたものの、ドイツは翌年ポーランドに侵攻し、世界を戦火に巻き込んだ。
 一方、ソ連の指導者スターリンはナチスと一時的に手を組み、東欧分割に動く。1940年、「現地の自発的な意思」があったとしてバルト3国を強制併合した。
 欧州は全体主義に覆われていた時代に戻ったかのようだ。国連のグテレス事務総長は29日、ロシアのウクライナ領併合は「国連憲章と国際法に反する」との声明を出したが、プーチン大統領は動じない。30日の演説で「(併合地域の)住民は我々と同じ未来を進むことを決めた」として併合を正当化した。
 ロシアの展望が開けるわけではない。「併合」でウクライナの東西分断を固定化するには停戦が不可欠だが、ウクライナのゼレンスキー大統領は29日の演説で「クレムリン(ロシア大統領府)が望むようなことにはならないだろう」と語った。併合地域への攻撃を緩めないというメッセージだ。
 いまのところウクライナに欧米諸国は寄り添う。「我々はプーチン氏が戦争で負けることを保証する」。30日、トラス英首相は声明を出した。ドイツ与党・社会民主党のシュミート連邦議会議員(外交担当)も日本経済新聞に対し、「ウクライナへの人道・経済・軍事支援を続ける」と答えた。戦争の長期化は避けられない。

【インドネシア、サッカー場で観客が暴動 125人死亡】
 10月2日の日経新聞【ジャカルタ=地曳航也】によれば、インドネシアの東ジャワ州マラン県のカンジュルハン競技場で1日夜、プロサッカーリーグの試合の後、一部の観客が暴動を起こし、警察官を含む125人が死亡した。国家警察が明らかにした。300人以上が負傷したという地元メディアの報道がある。
 同州政府は一時、死者が174人に達したと表明するなど、犠牲者の確認をめぐり混乱した。同競技場では1日、地元のアレマFCとアウェーのペルセバヤ・スラバヤの試合があり、ペルセバヤが勝つと、敗戦に激高したアレマFCのサポーターが競技場のピッチになだれこんだ。
 事態を収拾しようと、警備に当たっていた地元警察が催涙弾を発砲したところ、観客がパニックになって出入り口に殺到し、圧死や窒息死する人が多数出た。当時、競技場では4万人の観客が試合を観戦していた。地元メディアは日本人選手2人も出場していたと報じた。
 在インドネシア日本大使館によると、日本人の死傷者は確認されていない。ジョコ大統領は2日、国家警察長官に事故の経緯を徹底して解明するよう指示した。事故を起こしたプロサッカーの1部リーグの試合を当面見合わせることを同国サッカー協会に求めた。
 なおFIFA(国際サッカー連盟)のスタジアムでの保安・警備規則は「小銃や催涙ガスは所持も使用もしてはならない」と定めており、今回の警察の行為はこれに明らかに違反している。
 
【ウクライナ、「併合」地域の要衝リマン奪還 ドネツク州】
 10月2日の日経新聞によると、ウクライナのゼレンスキー大統領は2日、東部ドネツク州の要衝リマンをロシア軍から奪還したと表明した。リマンは東部ルガンスク州に近い交通の拠点で、同州の奪還にも前進となる。ロシアは9月30日にドネツク、ルガンスクをふくむウクライナ東・南部4州の「併合」を宣言したばかりで、プーチン政権に大きな打撃となる。
 ロシア国防省も1日、ウクライナ軍の包囲を避けるため、リマンから部隊が撤退したと認めた。
 リマンはドネツク州北部の都市で、ルガンスク州の要衝であるセベロドネツクやリシチャンスクにも近い。ロシア軍は7月初旬までに両都市を制圧し、ルガンスク州の支配を固めていたが、ウクライナ軍による奪還の動きが加速する可能性がある。
 ロシア内部では政権や軍部への批判が強まりそうだ。英国防省は2日、リマンからの撤退は「大きな政治的な挫折を意味する」と分析。さらなる領土の損失は、政府への批判や軍部への圧力の高まりにつながるとした。

【ヤクルト・村上宗隆が三冠王達成 「王超え」56号も放つ】
 3日の日経新聞は以下のように報じた。
 プロ野球ヤクルトの村上宗隆内野手(22)が3日、神宮球場で行われたDeNAとの今季レギュラーシーズン最終戦に出場し、打率3割1分8厘、56本塁打、134打点と主要打撃3部門でセ・リーグトップが確定、史上8人目の三冠王を達成した。
 「4番・三塁」で先発出場した村上は三回に左前に適時打を放ち、七回には右翼に日本選手シーズン単独最多となる56号ソロ本塁打を放った。この日4打数2安打とし、既に3割1分4厘で今季を終えていた大島洋平(中日)に4厘差をつけての首位打者が確定した。本塁打王は39本を放った2021年に続いての獲得で、首位打者と打点王は初。
 三冠王は04年の松中信彦(ダイエー)以来。ほかに中島治康(巨人)、野村克也(南海)、ブーマー(阪急)、王貞治(巨人)とバース(阪神)が各2度、落合博満(ロッテ)が3度達成している。
 村上は18年、熊本・九州学院高からドラフト1位でヤクルトに入団。2年目の19年に36本塁打、96打点、20年は初の打率3割(3割7厘)をマークし、21年は39本塁打で岡本和真(巨人)とともにタイトルを獲得した。今季は夏場にプロ野球初の5打席連続本塁打を放つなどアーチを量産した。8月に自身初のシーズン40号、9月には日本選手では02年の松井秀喜(巨人)以来となる50号にそれぞれ史上最年少で到達。9月13日には1964年の王に並ぶ日本選手シーズン最多の55号本塁打を放った。

【北朝鮮が弾道ミサイル、東北上空通過 EEZ外に落下】
 4日の日経新聞は次のように報じた。
 政府は4日午前7時22分ごろ、北朝鮮から弾道ミサイルが発射されたと発表した。東北地方上空を通過し、排他的経済水域(EEZ)外の太平洋に落下した。北朝鮮のミサイルが日本上空を通過するのは2017年9月15日以来、5年ぶりとなる。
 松野博一官房長官は記者会見で、ミサイルが午前7時44分ごろに日本のEEZ外に落下したと説明した。現時点で航空機や船舶の被害は確認されていないと述べた。
 全国瞬時警報システム(Jアラート)は弾道ミサイルが日本上空を通過したとみられると公表した。「不審な物を発見した場合には決して近寄らず、直ちに警察や消防などに連絡してください」と言及した。北海道と青森県を対象地域に指定した。
 防衛省によると22年に入ってから北朝鮮による弾道ミサイル発射は20回目で少なくとも36発にのぼる。19年の25発を上回り、すでに年間発射数で過去最多を更新している。
 続伸によれば、最高高度は1000キロで過去最長の4600キロ飛行したとみられる。東北地方上空を通過して排他的経済水域(EEZ)外の太平洋に落下した。北朝鮮のミサイルが日本上空を通過するのは2017年9月15日以来、5年ぶりとなる。

【OPECプラス、200万バレル減産で合意 米欧の反発必至】
 6日の日経新聞【カイロ=久門武史、ワシントン=中村亮】によれば、石油輸出国機構(OPEC)とロシアなど非加盟の主要産油国でつくる「OPECプラス」は5日、ウィーンで閣僚級会合を開き、11月に日量200万バレル減産することで合意した。産油国の財政圧迫を招く原油価格下落に歯止めをかける。エネルギー高に苦しむ米欧の反発は必至で、米ホワイトハウスは「バイデン大統領は失望している」との声明を出した。
 OPECプラスは新型コロナウイルス禍の2020年5月、世界需要の1割に当たる日量970万バレルの協調減産に踏み切った。その後生産を増やしてきたが景気減速などで需要が減るとの見方が強まり、前回の9月会合で10月に日量10万バレル減産することを決めた。今回の200万バレル減産は世界需要の2%に当たり、20年以来の規模感になる。
 米ホワイトハウスは5日の声明で大幅減産について「バイデン大統領は目先のことしか見えていない決定に失望している」と言及した。「この決定はエネルギー価格上昇ですでに混乱している低所得・中所得国に最も大きな負の影響をもたらす」とも指摘した。米議会と連携し、OPECの価格支配を弱めるための措置を検討するとした。


【地方の鉄道・バス、広域連携支援 国交省が複数年で補助】
 7日の日経新聞はつぎのように伝えた。
 「利用者が減り経営が厳しい地方の公共交通機関を再構築する取り組みが始まる。国土交通省は鉄道やバス、タクシーなどを地域一体で運営する計画に複数年で補助する制度を2023年度にも設ける。事実上の赤字補塡は縮小し、デジタル技術の導入など事業見直しの支援に軸足を移す。将来像を描けない路線の淘汰につながる可能性もある。
 人口が減る地方の公共交通は存続が危うい。中小民鉄や第三セクターは特に厳しく、国交省によると20年度は95社のうち93社が経常赤字だ。国交省の有識者会議は7月末、いわゆるローカル鉄道の赤字区間は輸送密度が1000人未満などの条件で、自治体や事業者による協議会を設置するとの提言をまとめた。自治体には協議が廃線ありきで進むことへの警戒感がある。」

【クリミア橋で謎の爆発 ロシアの実効支配の象徴】
 8日の毎日新聞は次のように報じた。
 「ロシアが2014年に一方的に「併合」したウクライナ南部クリミア半島とロシア本土を結ぶ唯一の橋「クリミア大橋」で8日、爆発が起きた。ロイター通信などによると、貨物列車の燃料タンクに引火して炎上し、橋の一部が崩落。3人が死亡した。橋は通行止めになっており、ロイターは、ウクライナ南部に侵攻するロシア軍の「重要な補給路に打撃を与えた」と報じた。
 ウクライナは同半島の奪還を目指している。ウクライナ国防省は8日、ツイッターで、4月に沈没したロシア黒海艦隊旗艦の巡洋艦「モスクワ」とクリミア大橋に触れ「クリミア半島での悪名高いロシアの権力の象徴が2つ沈んだ。次は何だ?」と投稿した。
ポドリャク大統領府長官顧問も同日、ツイッターでクリミアの橋に言及し「盗まれたものはすべてウクライナに返されなければならない」と書き込んだ。一部が崩落した橋の写真も添えており、同日の爆発に関する投稿とみられる。プーチン政権が激しく反発するのは必至だ。
 橋はプーチン氏肝いりで建設された。18年の開通時にはプーチン氏が自らトラックを運転するパフォーマンスも見せており、クリミア「併合」の象徴と言える。ウクライナ南部のロシア軍に兵器や物資を輸送するルートに使われており、軍事上の要衝でもある。通行止めが続けば補給に影響を及ぼす可能性がある。露国防省は8日、陸海のルートを通じて必要な物資を補給できていると強調した。
 橋には車道と線路があり、長さ19キロ。ロシア国家テロ対策委員会は、橋のロシア側で8日午前6時過ぎにトラックが爆発し、クリミア半島へ向かう貨物列車の七つの燃料タンクに引火したとしている。「自動車爆弾」だったとの情報もある。プーチン氏は8日、原因を調査する委員会を設立するよう指示した。
 ウクライナのゼレンスキー大統領は8月、同半島の奪還と再統合に向けた諮問会議を設立する大統領令に署名している。」

【危機の時代、私はSNSをやめた】
 8日の朝日新聞デジタルは、<朝日地球会議2022>の一つとして次ぎのように報じた。
 「新型コロナのパンデミックと、ロシアのウクライナ侵攻で、今までの民主主義と資本主義のあり方が根底から問い直されている。国家という存在をどうとらえればいいのか。「倫理的な資本主義」はいかに可能なのか。ドイツの気鋭の哲学者、マルクス・ガブリエル氏に聞いた。
 日本の国境閉鎖は「ナショナリズムの表出」
 ――コロナ禍で主要国はマスクやワクチンを奪い合い、自国の利益を最優先にしました。主権国家の優位性という概念が復活したのでしょうか。
 「パンデミックによって、私たちは、結局のところ国民国家が存在することを認識したのです。医療制度は国家単位のものです。私たちの社会は、基本的にまだ国民国家の論理で動いていて、その点では19世紀と同じです。純粋に経済的な意味でのグローバル化である、モノの交換だけでは、倫理的な問題を解決できない。それが教訓だと思います」

【日産、ロシア撤退へ 1ユーロで売却し特別損失1000億円】
 11日の日経新聞は、次のように報じた。
 「日産自動車は11日、ロシア市場から撤退すると発表した。ロシア事業を手がける子会社の株式を自動車・エンジン中央科学研究所(NAMI)に1ユーロで売却する。売却にともない約1000億円の特別損失がでる見通し。
 日産と企業連合を組む三菱自動車なども撤退の検討に入った。国内車大手ではトヨタ自動車が撤退方針を発表している。ロシアのウクライナ侵攻を受けた日本車の事業撤退の動きが広がっている。
 完成車の製造を手がける子会社の「ロシア日産自動車製造会社」の全株式を売却する。ロシア北西部のサンクトペテルブルクにある完成車工場は2009年に稼働を始めた。ウクライナ侵攻を受けた供給網の混乱で、22年3月から生産を停止している。日産のロシア唯一の完成車工場として、多目的スポーツ車(SUV)「エクストレイル」や「キャシュカイ」などを生産している。
 同国での従業員は約2000人にのぼるが、雇用への影響は最小限に抑える。完成車の在庫がなくなり次第販売は終了し、すでに販売した車の保守サービスのみ当面続ける。」

【東芝、国内連合に優先交渉権 中部電力やオリックス参画】
 11日の日経新聞は、次のように報じた。
 「東芝が再編案について国内投資ファンドの日本産業パートナーズ(JIP)に優先交渉権を与えたことが11日、わかった。今後、買収価格などの詳細な条件の協議を始める。JIP案では中部電力やオリックスなど日本企業が出資する計画。株価が再編を織り込む形ですでに高値で推移するなか、株主が合意できる価格を提示し、2兆円台半ばともみられる資金を調達できるかが焦点となる。
 東芝は9月30日、2次入札に進んでいた複数の候補から、法的拘束力のあるものも含めて詳細な意向表明書を受け取ったと発表していた。そのうちJIPと先行して交渉に入ることにした。」

【円下落、一時148円台後半 32年ぶり】
 14日の日経新聞によると、「14日のニューヨーク外国為替市場で円が対ドルで下落し、一時1ドル=148円台後半を付けた。148円台は1990年8月以来32年ぶりの円安・ドル高水準。14日に発表した米経済指標が市場予想を上回り、円売り・ドル買いが膨らんだ。米連邦準備理事会(FRB)がインフレを抑えるために急激な利上げを続けるとの見方もドル全面高を後押ししている。…政府・日銀は9月22日に1ドル=145円90銭を付けた後に円買い・ドル売りの為替介入に踏み切っている。市場では円安の加速を受けて再び大規模な円買い為替介入もあり得るとの警戒感も強まっている。」と報じた。
 17日には、ニューヨーク外国為替市場で円が対ドルで下落し、1ドル=149円台を付けた。14日に付けた32年ぶりの安値(148円86銭)を更新した。米長期金利が再び4%台に乗せたことで日米の金利差拡大に注目して円売り・ドル買いの動きが加速した。18日午前の東京外国為替市場でも一時149円台を付けた。

【旧統一教会、政府調査へ 宗教法人法「質問権」を初適用】
 15日の日経新聞は次のように報じた。
 「政府は世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題を巡り宗教法人法に基づく「質問権」の規定を活用する方針だ。関係省庁などが教団に質問し、業務や管理運営に関して報告を求める。法令違反などの解散命令の要件に該当する疑いがあると判断した。
 宗教法人法で規定する質問権を使った調査は解散命令の前段階で、違法行為を防ぐ狙いで設けている。これまでこの権限を使った事例はない。結果次第では教団の解散命令の請求につながる可能性もある。
 同法に基づく解散命令の要件は「法令に違反して、著しく公共の福祉を害すると明らかに認められる行為」「宗教団体の目的を著しく逸脱した行為をしたこと」などがある。質問や報告要求はその疑いがある場合などに発動できる。
 政府が9月5日に開設した旧統一教会に関する電話窓口への相談は同月28日までで2200件超にのぼった。解散命令を発動する要件に該当の疑いがあるとして質問権の行使を文部科学省の宗教法人審議会に諮問する方向で調整する。
 岸田首相が近く旧統一教会の被害者救済について方針を表明する見通しだ。霊感商法での高額寄付を取り消しやすくする消費者契約法の改正、相談体制の強化と合わせた柱とする。」

【習氏、台湾問題「武力行使を放棄せず」 中国共産党大会】
 16日の日経新聞【北京=羽田野主】によると、中国共産党の幹部人事を決める5年に1度の第20回党大会が16日、北京の人民大会堂で開幕した。習近平総書記は過去5年間の成果と今後の方針を示す活動報告で台湾統一方針を巡り、「決して武力行使の放棄を約束しない。必要なあらゆる措置をとる選択肢を持ち続ける」と強調。
 台湾問題に介入を深めるバイデン米政権や台湾の蔡英文政権を威嚇した。習氏は「台湾問題は中国人自身のことであり、中国人が自分で決めなくてはいけない」と主張。「祖国の完全な統一は必ず実現しなくてはならず、また必ず実現できる」と訴えた。「平和統一の見通しを得るために最大限の努力をする」とも述べた。
 中国共産党には、党トップの総書記は2期10年との慣習がある。習氏は党大会後、この慣習を破って異例の3期目に入る見通しだ。
 習氏は「これからの5年間は、社会主義現代化国家の全面的な建設が始まる重要な時期だ」と述べ、異例の3期目入りに向けた正当性を強調した。「最悪の事態も想定した思考を堅持しなくてはいけない」とも話し、習氏の指導のもとでの結束を訴えた。
 翌17日、習氏は今後5年間の重要目標として、海外に依存しないハイテク技術の開発を加速させることを掲げ、技術力を持つ中小零細企業の成長を促し、優秀なエンジニアなど高度人材の育成でも国際的に優位にたてる「製造強国」を目指すと述べた。
 米インターナショナル・ビジネス・ストラテジーズの推計によると、中国の半導体自給率は2022年時点で26%だった。この10年間で20ポイント近く高まったとはいえ、当面は海外の技術への依存は続く。
 科学技術の強化にまい進するのは、覇権争いを挑む米国の存在が大きい。米国を中心に、半導体などのサプライチェーン(供給網)で中国排除の動きが進む。米国は今月7日、スーパーコンピューターなどに照準を定めて中国への輸出規制を強めた。
 こうした包囲網に立ち向かうため、自国だけでまかなえる技術力の強化が欠かせず、供給網の整備などで強国を急がざるを得ない。取り組みが遅れれば、その分、中国の劣勢は強まることになる。

【米国への留学、インドが中国を逆転 米中関係緊張を反映】
 17日の日経新聞【ニューヨーク=弓真名】によると、米国で留学生の出身国が大きく変わってきた。中国人への学生ビザの発給数は2022年度(21年10月~22年9月)の7月までで前年同期と比べて3割減った一方、インドが6割増え、中国を抜いてインドが首位になった。米中間の政治的な緊張の高まりを反映したほか、中国の「ゼロコロナ」政策も響いた。

【米国、台湾と武器共同生産へ協議 中国抑止へ提供前倒し】
 19日の日経新聞【ワシントン=中村亮】によると、バイデン米政権が米国製の武器を台湾と共同生産する案を検討していることが分かった。関係者3人が日本経済新聞の取材で明らかにした。携行型の防空システムや弾薬を念頭に置く。台湾有事に備えて協力して生産能力を高める。武器提供を早めて中国抑止を急ぐ。
 ブリンケン米国務長官は17日、西部カリフォルニア州で開いたイベントで「中国は以前に比べてかなり早い時間軸で(台湾との)再統一を目指すと決意した」と指摘した。22日まで開く第20回共産党大会で中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席は異例の3期目を決めるとみられ、台湾への軍事的圧力をさらに強める可能性がある。
 米台の共同生産をめぐって、関係者の一人は初期段階の協議が始まったと認めた。米国の防衛企業が技術供与をして台湾で武器を製造したり、台湾でつくった部品を使って米国で生産したりする案がある。別の関係者は「2023年を通して詳細を詰めることになるだろう」と語った。
 米大手防衛企業が加盟する米国・台湾ビジネス評議会は「米国の弾薬や(戦闘機や艦船などの)プラットフォームについて米国と台湾が共同生産したことはない」とコメントした。米国の歴代政権は機密情報が漏れるリスクを懸念し、米国製武器の共同生産に慎重だったとみられる。
 バイデン政権が共同生産を検討するのは、引き渡しを早めるためだ。一般的に米政府が武器売却を承認してから引き渡しが完了するまで数年から10年程度を要するケースが多い。一方で米軍は中国が27年までに台湾侵攻能力を取得すると分析しており、台湾の自衛力向上に残された時間は限られる。

【ロシアの動員、悲惨な実態 「これはやばいよ」新兵SNSで訴え次々】
 ウクライナ侵攻を続けるロシアで、9月に始まった「部分的動員」の実態を伝えるSNSの投稿が相次いでいます。訓練なく戦場に送られ、防弾チョッキも自分でそろえるように言われた。「止血用」に生理用品も入手するように求められた……。戦地に赴く人が自ら投稿したとみられる写真や映像からは、切羽詰まった不安や、どうしようもない苦しさが伝わってきます。プーチン大統領は、国民の動揺や不安がここまで広がるとは予想しなかったのでしょうか。大きな犠牲を払いながらもナチス・ドイツと戦った「大祖国戦争」の記憶があったのでしょうか。「ナビゲーターが選ぶ1本」でご紹介する、インタビュー「『国家の戦争』から『個人の戦争』へ プーチン氏は変化を見落とした」とあわせてお読み下さい。
 穴の開いた防弾チョッキやさびた自動小銃――。ウクライナへの侵攻を続けるロシアで、9月に始まった部分的動員の悲惨な現状を伝えるSNSの投稿が続いている。「(配置前の)訓練はないと告げられた」と涙ながらに訴える人までいる。プーチン政権は動員で侵攻の劣勢を覆す考えだが、早くも動員による戦死者が出ており、士気の低下は深刻だ。
 戦地に赴く人が自ら投稿したとみられる写真や映像からは、切羽詰まった不安や、どうしようもない苦しさが伝わってきます。プーチン大統領は、国民の動揺や不安がここまで広がるとは予想しなかったのでしょうか。大きな犠牲を払いながらもナチス・ドイツと戦った「大祖国戦争」の記憶があったのでしょうか。「ナビゲーターが選ぶ1本」でご紹介する、インタビュー「『国家の戦争』から『個人の戦争』へ プーチン氏は変化を見落とした」とあわせてお読み下さい。
 動員を免除されるはずの学生や病気の人にまで招集令状が届いたほか、「誘拐まがい」の例も伝えられている。モスクワに働きに来た建設作業員5人が、宿泊先にきた警官に拘束された例もあった。その後徴兵事務所で書類への署名を強制され、訓練施設に連れて行かれたという。
 動員を免除されるはずの学生や病気の人にまで招集令状が届いたほか、「誘拐まがい」の例も伝えられている。モスクワに働きに来た建設作業員5人が、宿泊先にきた動員発表から1カ月も経たない中、戦死者の報告も続く。
 中部チェリャビンスク州の当局は13日、動員された地元出身の5人が死亡したことを明らかにした。英BBCは、親族や友人の話として、5人が訓練を受けないままウクライナ南部ヘルソン州に送られた、と伝えた。ウクライナ軍が奪還をめざす激戦地だ。

 プーチン政権は、動員されれば訓練を受けた後に戦地へ送られると説明してきた。 だが、モスクワ市の28歳の公務員は戦闘経験がないのに数日で前線に送られて戦死した。サンクトペテルブルク出身の弁護士も従軍経験があったとはいえ、動員後、わずか3日間の訓練で戦地へ派遣され亡くなったと報じられた。
 英国防省は9月26日、「招集された部隊の多くが、動員を急いで極めて少ない準備で前線に配備されるとみられ、高い割合で消耗することになりそうだ」と分析した。

【トラス英首相が辞任表明、経済混乱で引責 就任44日】
 20日の日経新聞【ロンドン=中島裕介】によると、英国のトラス首相は20日、「保守党から選出された任務を果たすことができない」と辞任を表明した。9月下旬に打ち出した大規模減税策が金融市場を混乱させ、経済対策の大半は撤回に追い込まれた。辞任はその引責とみられる。9月6日の政権発足から44日という異例の短命政権となった。

【円が急騰、一時146円台 安値から5円上昇 介入観測も】
 22日の日経新聞は次のように報じた。
 「21日のニューヨーク外国為替市場で円が対ドルで急騰し、一時1ドル=146円台を付けた。上昇前は151円台で推移しており、わずか1時間ほどで5円以上上昇した。円相場は32年ぶりに1ドル=150円を超えて円安が進んだ後、極めて荒い値動きとなっている。市場関係者の間では、政府・日銀が円買い介入に踏み切ったとの観測も出ている。
 外国為替市場では日本時間21日夜に円安・ドル高が進み、一時1ドル=151円90銭台と1990年7月以来32年ぶりの安値を更新した。27~28日に日銀の金融政策決定会合を控え、改めて日米金融政策の方向性の違いを意識した円売り・ドル買いが膨らんだ。米長期金利が14年ぶりに4.2%台を付けたことも、ドル買いにつながった。
 ところが日本時間の21日深夜になって突然、流れが変わった。円相場は151円台から一気に円高に転じ、断続的に水準を切り上げた。
 政府・日銀は9月22日に24年ぶりに円買い・ドル売り介入に動いた。市場では円安にブレーキがかからない中、当局が再び大規模な介入に動くとの警戒感が強まっていた。当局者は今回の円急騰について、介入の実施の有無を明らかにしていないが、ある外銀関係者は「介入の可能性がある」と話す。
 この日の午後、政府・日銀が円買い・ドル売りの為替介入に踏み切ったと関係者が22日未明、明らかにした。21日に一時1ドル=151円90銭台となり、32年ぶりの安値を更新していた。通貨当局として過度な動きを阻止する姿勢を改めて示した。政府・日銀は9月22日にも約24年ぶりに円買い介入を実施していた。
 24日の日経新聞によれば、外国為替市場で政府・日銀と投機筋の攻防が激しさを増している。1ドル=151円台後半で大規模介入に踏み切った21日に続き、24日にも政府・日銀が2営業日連続で介入を実施したとの観測が市場で広がっている。21日の介入規模は9月を上回る5.5兆円規模との見方がある。市場では150円が政府・日銀の防衛ラインとして意識され、極めて荒い値動きが続いている。
 24日の東京外国為替市場に再び衝撃が走った。午前8時半すぎ、じりじりと下落していた円相場が149円70銭と節目の150円に接近すると、突然、大量の円買い注文が入った。円相場は一気に4円以上も上昇し、1ドル=145円台前半を付けた。
 これは21日深夜の円買い介入をなぞるかのような値動きで、市場では今回も政府・日銀による為替介入だとの観測が広がった。シティグループ証券の高島修氏は「24日にも介入を実施したとすれば完全にサプライズ。投機の抑制に向けて当局は心理戦をしかけており、当面は1ドル=150円が円の底値として意識される」と指摘する。
 24日朝の円相場の急伸直後、財務省の神田真人財務官は記者団に「24時間365日、過度な変動に対しては適切な対応をとる。それをこれからもずっと続けていく」と強調した。相場が急伸する前には鈴木俊一財務相が「市場を通じて投機筋と厳しく対峙している」と険しい表情で述べていた。
 政府・日銀は21日に円買い介入を実施し、円相場を32年ぶり円安水準となる151円台後半から144円台半ばへと7円も押し上げた。24日も介入を実施していたとすると、政府・日銀は150円よりも円安に進むことを認めない強い姿勢を市場に示したことになる。

【習近平氏の3期目入り確定 中国新指導部、23日立ち上げ】
 22日の日経新聞【北京=羽田野主】によると、中国共産党の習近平総書記が第20回党大会で党序列約200位以内の中央委員に選ばれ、続投が確定した。中国国営の新華社が伝えた。習氏は異例の3期目に入る。
 党幹部は党大会時に68歳以上ならば引退する慣例があるが、69歳の習氏はこれを破って続投を決めた。
 新たな中央委員は23日に北京市で第20期中央委員会第1回全体会議(1中全会)を開き、政治局委員を決める。政治局委員の中から最高指導部に相当する政治局常務委員を選出し、さらに政治局常務委員の中から総書記を選ぶ流れで、総書記には習氏が再任されるのが確実な情勢だ。
 候補者名簿は事前調整で決められ、実態は形式的な手続きとされる。再任されれば、習氏は23日に新指導部を立ち上げる。
 党トップの総書記は近年、2期10年との慣習があった。習氏は2012年の党大会後に総書記に就任し、17年に再任されていた。
 中国の李克強首相が共産党の最高指導部を指す政治局常務委員から退任することが22日、決まった。同日閉幕した第20回党大会で、党序列約200位以内の中央委員に選出されなかった。7人いる最高指導部のうち、李氏を含め計4人が退任する。
 
【中国最高指導部、「習派」8割に 政治リスク増大懸念】
 24日の日経新聞【北京=多部田俊輔】によると、3期目となる新たな習近平指導部が23日に発足した。習氏に近いとされる「習派」は最高指導部を指す政治局常務委員で7人中6人を占めた。序列24位以内の政治局員でも約7割とみられ、権力集中がいっそう進んだ。習氏と距離があるとされる胡春華氏が降格したほか、年上の「重し」役も去り、政治リスクはより強まっている。
 新たな最高指導部をみると、習氏「1強」が色濃くなった。序列2位で次期首相候補となる李強氏は浙江省出身。習氏の浙江省トップ時代に秘書長として働いた。同4位の蔡奇氏も習氏が福建・浙江の両省にいた時代に仕え、習氏の信頼が厚いといわれる。
 留任した趙楽際氏、汚職摘発を担う規律検査委員会のトップとなった李希氏は、ともに習氏や父の習仲勲・元副首相とゆかりがあり、習氏が厚い信頼を寄せるとされる。同6位の丁薛祥氏は日本の官房長官に相当する党中央弁公庁主任を務め、習氏を支えてきた側近中の側近だ。
 残る同4位の王滬寧氏は、習氏や江沢民氏、胡錦濤氏の3代にわたる総書記に仕え「三代帝師」との異名を持つ。習派には該当しないが、習氏に忠誠は尽くしている。
 一方、李克強首相を輩出した共産党の青年組織「共産主義青年団(共青団)」、江氏らを柱とする「上海閥」といった習氏と距離があるとされる勢力は一掃された。

【英首相にスナク氏、無投票選出 アジア系初・最年少42歳】
 24日の日経新聞【ロンドン=中島裕介】によると、20日に辞意を表明した英国のトラス首相の後任に、リシ・スナク元財務相(42)が就任することが24日固まった。与党・保守党の党首選に出馬を表明していたモーダント下院院内総務が撤退し、無投票で選出された。トラス政権が失墜させた経済政策の信頼回復や財政再建、党勢の回復に取り組む。
 アフリカから移住したインド系の両親のもと英国で生まれ育ったスナク氏は、同国史上初めてのアジア系の首相となる。43歳で首相となったキャメロン、ブレア元首相を抜き、過去200年あまりで最年少の首相となる。
 スナク氏は党首選出後の国民向け演説で「私たちは深刻な経済的課題に直面している」と語った。財政危機や物価高騰などの課題克服のため「安定と団結が必要だ。私は保守党と英国を一つにする」と訴えた。

【台湾統一に習近平氏「37年の計」】
 25日の日経新聞は、「大中国の時代 共産党大会編 習氏の兵法 ①」を掲載して表題の特集を組み、「兵貴神速」(兵は神速を貴ぶ)のキーワードを掲げ、(1)習政権、台湾統一を3期目の「公約」に、(2)37年前の福建着任から台湾取り込みに腐心、(3)有事には軍民を糾合して一気に動く構え、の3点を強調した。
 この連載「大中国の時代 共産党大会編 習氏の兵法」の②は、26日掲載の「習近平氏、後継明かさず、忠臣競わせる 集団指導と決別」であり、27日掲載の③は「経済リスクを黙らせろ、不良債権マグマ 規制と成長 天秤」であろ、さらに28日掲載の③は「ハイテク兵糧戦 備えよ、半導体囲い込み」であり、さらにつづくと思われる。

【経財相に後藤前厚労相 山際氏の後任】
 25日の日経新聞は、次のように報じた。
岸田文雄首相は事実上更迭した山際大志郎経済財政・再生相の後任に後藤茂之前厚労相を起用する。25日午後に皇居での認証式を経て就任する見通し。後藤氏は経財相として政府が月内にまとめる総合経済対策や新型コロナウイルス対策を担う。
 首相は後藤氏の厚労相時代の国会答弁の安定性などを踏まえた。自民党が9月に公表した世界平和統一家庭連合(旧統一教会)との関係をめぐる調査で後藤氏の名前はなかった。首相は教団との過去の接点も考慮したとみられる。
 後藤氏は厚労相として新型コロナ対策を推進した。旧大蔵省(現財務省)出身で自民党の税制調査会の幹部も務めてきた。経済財政政策や厚労行政に精通する。
 松野博一官房長官は25日の記者会見で、政府の総合経済対策に関し「予定通り月内にとりまとめたい」と述べた。
 自民党の茂木敏充幹事長は25日の記者会見で、山際氏の辞任について「本人から申し出があったことで致し方ない」と語った。経済財政運営や新型コロナ対策など担当が幅広い経財相に関し「説明能力が高い人が就任することを期待したい」と話した。

【ECB、0.75%利上げ決定 物価高騰の抑制へ2会合連続】
 27日の日経新聞【フランクフルト=南毅郎】によると欧州中央銀行(ECB)は27日の理事会で、政策金利を0.75%引き上げると決めた。通常の3倍となる大幅利上げは、前回9月から2会合連続。ウクライナ危機に伴う資源高などの影響でユーロ圏の物価上昇率が過去最高の10%近くとなり、インフレに歯止めがかからない。景気後退のリスクが差し迫るなか苦渋の決断に動いた。
 ECBは7月に11年ぶりの利上げを実施した。7月の0.5%利上げに続き、9月には利上げ幅を過去最大の0.75%に広げた。今回の追加利上げでは主要政策金利を1.25%から2.00%、銀行が中央銀行に預ける際の金利(中銀預金金利)を0.75%から1.50%に引き上げる。主要政策金利は2009年以来13年ぶりの高さとなる。

【米GDP、7~9月2.6%増 3四半期ぶりプラスも消費は減速】
 同じ27日の日経新聞【ワシントン=高見浩輔】によると、米商務省が27日発表した7~9月期の実質国内総生産(GDP、季節調整済み)速報値は、前期比の年率換算で2.6%増だった。3四半期ぶりのプラス成長だが、個人消費は減速した。米連邦準備理事会(FRB)による急速な利上げが景気を下押ししており、高インフレが和らぐかが焦点となる。米景気の停滞は世界経済の失速リスクを高める。
 事前の市場予測は2.3%増で、公表値はこれを上回った。1~3月は1.6%減、4~6月は0.6%減だった。7~9月は輸出の伸びが拡大し成長に寄与した一方、GDPから差し引く輸入が6.9%減った。輸入が前期を下回ったのは20年4~6月以来。

【東京都区部物価3.4%上昇 10月、40年ぶり伸び】
 28日の日経新聞は次のように伝えた。
 総務省が28日発表した東京都区部の10月の消費者物価指数(中旬速報値、2020年=100)は変動の大きい生鮮食品を除く総合指数が103.2で前年同月比3.4%上がった。消費税の影響を除くと1982年6月以来、40年4カ月ぶりの大幅な伸びとなった。資源高や円安の影響で、エネルギーや食料など生活に欠かせない品目を中心に値上がりが続く。上昇率は生鮮食品を含む総合で3.5%に達した。生鮮食品とエネルギーを除くと2.2%だった。
 品目別にみると食料は6.1%で、物価全体を1.55ポイント押し上げた。メーカーの値上げが相次ぐ食用油は37.9%、調理食品は6.6%、外食は5.6%だった。サケ(27.6%)はロシアのウクライナ侵攻による輸送ルートの変更でコストがかさんでいる。全体に原料高を円安が増幅している構図もある。
 エネルギー関連は24.2%で、全体を1.20ポイント押し上げた。電気代は26.9%、都市ガス代は29.3%上がった。ガソリンは価格抑制の補助金の効果もあって2.0%と、前月の5.8%から縮小した。
 前月にマイナス14.4%だった携帯電話通信料は1.8%のプラスに転じた。前年の値下げの影響がなくなった。
 全国の消費者物価指数は東京都区部よりエネルギーの比重が大きく、上昇率は9月に既に3.0%に達している。10月はインフレが一段と加速する公算が大きい。

【経済対策の補正29.1兆円 電気代軽減など、政府28日決定】
 27日の日経新聞は次のように報じた。
 政府は28日、物価上昇などに対応する総合経済対策を決める。電気・ガス代の抑制策や子育て支援拡大などを盛り込む。財源の裏付けとなる2022年度第2次補正予算案の一般会計は29.1兆円程度、民間投資などを含めた事業規模は71.6兆円ほどとする方針だ。
 地方支出や財政投融資を入れた財政支出総額はおよそ39兆円になる。岸田文雄首相は同日、記者会見を開いて説明する。
 政府は電気・ガスの支援を23年1月以降早期に始める。平均的な世帯のエネルギー関連費は石油元売りへの補助金でガソリン価格を抑える効果を含めて月5000円ほど軽減されると見込む。家計や企業の負担を減らす目的だが、需給に基づく価格決定メカニズムをゆがめる面がある。効果を検証して「賢い支出」につなげる必要がある。
 電気は家庭向けの「低圧」契約で1キロワット時7円補助し、およそ2割安くする。企業向けの「高圧」契約は1キロワット時3.5円を支援する。22年1~3月の販売電力量に基づく単純計算で3カ月の支出額は1兆円に迫る。企業向けは再生可能エネルギー普及のために電気料金へ上乗せする「固定価格買い取り制度(FIT)」の賦課金分を政府が実質的に肩代わりする金額だ。長期化すれば再生エネの促進を支える財源が曖昧になる。都市ガスの補助は1立方メートルあたり30円。平均的な世帯で月900円ほどの軽減になる。
 ウクライナ情勢に起因する影響へ迅速に対処するための1兆円規模の予備費も創設する。賃上げ促進に向けたリスキリング(学び直し)の支援拡充や妊娠した女性への助成拡大も入れる。

 
 この間、下記の録画を視聴することができた。(1)報道1930「[窮地のプーチン氏] ロシア正規軍崩壊か。「予備役動員」で国内動揺」9月26日。 (2)報道1930「改めて問う 国葬の意味、岸田総理の深謀と誤算」27日。 (3)報道1930「[旧統一教会は変われるか]元信者は「国葬」をどう見た?」28日。 (4)NHKスペシャル「中流危機を越えて」29日。 (5)報道1930「“日中逆転“の50年、世界制覇狙う強権習氏、停滞日本とどう向き合う」29日。 (6)報道1930「追いつめられるプーチン氏 支持率急落 動員への反発」30日。 (7)週刊ワールドニュース(9月26日~30日)「ロシア国内抗議デモ 国外脱出、住民投票の実態」10月1日。 (8)TV朝日 朝までテレビ「激論! 国交正常化50年~ド~する日中関係~」1日。 (9)BSプレミアム 日中2000年「戦火を越えて「後編 周恩来の決断”民を以て官を促す」1日。 (10)NHKスペシャル「新型コロナ病棟 いのちを見つめた900日」1日。 (11)BS朝日 日曜スクープ「ロシアが4州併合を表明 ”部分的動員”で国内動揺」2日。 (12)NHKスペシャル「安倍元首銃撃事件と旧統一教会」2日。 (13)報道1930「旧統一教会問題と国葬で失速する岸田政権 国会での起死回生策は」3日。 (14)報道1930「頻発する北朝鮮ミサイル発射 狙いは」4日。 (15)BS世界のドキュメンタリー「エネルギーを我らの手で~欧州の挑戦~」4日。 (16)BS世界のドキュメンタリー「リチウムを獲得せよ 欧州エネルギー安全保障と新秩序」5日。 (17)報道1930「窮地プーチン氏の命運 語られ始めた“命運”のシナリオとは」5日。 (18)報道1930「旧統一教会改革と実態 与野党に問う 被害救済、解散請求はばむ壁は」5日。 (19)NHKスペシャル(選)「追跡・謎の中国船~“海底覇権”をめぐる攻防」5日。 (20)報道1930「領土奪還ウクライナ 最前線兵士が語る要衝マリン奪還作戦部隊裏」7日。 (21)週刊ワールドニュース(10月3日~7日)8日。 (22)NHKスペシャル「食の革命 10年後 私たちは何を食べている?」8日。 (23)BS朝日 日曜スクープ「戦況激化でロシア国防相に批判…政権内部で何が!?」9日。 (24)報道1930「「ICBMや核実験も? 北朝鮮狙いと代償 韓国で”核武装論”再浮上」10日。 (25)報道1930「【旧統一教会と北朝鮮】 反共なのにナゼ金王朝に接近?」12日。 (26)報道1930「報復攻撃 プーチン氏の苦境と劣勢は露軍の本音?」13日。 (27)報道1930「四面楚歌のプーチン氏 旧ソ連諸国とすきま風で戦争継続困難に?」14日。 (28)週刊ワールドニュース(10月10日~14日)15日。 (29)BS朝日 日曜スクープ「ロシアがミサイル攻撃 戦況悪化。習近平氏 3選確実」16日。 (30)報道1930「習近平氏に絶対的地位 強まる権力の一局集中 <後継候補>は不在か」17日。 (31)BS1映像の世紀バタフライエフェクト「ジェノサイド 虐殺と黙殺」17日。 (32)報道1930「最悪の選択<ロシアの核>戦争拡大のシナリオとプーチン氏の停戦条件」18日。 (33)BS8プライムニュース「欧州ウクライナ軍事支援で苦境プーチン氏は…」18日。 (34)報道1930「苦境のロシア軍 兵器・兵力不足で戦術変化か」19日。 (35)報道1930「岸田政権は万事休す? 旧統一教会問題・円安・物価高に打つ手なしか」20日。 (36)報道1930「【4州に戒厳令】プーチン氏の真の狙いは戦闘効率アップか」21日。 (37)BS朝日 日曜スクープ「ロシアが4州に戒厳令&ヘルソン攻防」23日。 (38)報道1930「習近平氏4期目視野か “後継候補”不在?」24日。 (39)報道1930「ロシア国民に不安急増…戦況悪化で動揺の大義なき戦争の出口は」25日。 (40)報道1930「要衝ヘルソン攻防戦」26日。 (41)報道1930「ウクライナ命運握る巨大衛星通信網の実力 ヘルソン市街戦も」27日。
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所蔵品展「秋、空を見上げて」

会期 2022.10/7(金)~11/7(月)
※参考 
田中克昌写真展 9/8(金)~10/23(日)
臨春閣特別ツアー 10/9(日)・10日(月)
臨春閣匠の技ツアー 10/29(土)
菊花展 10/26(水)~11/23(水・祝)

 
 今年度着任の中村暢子学芸員(美術史)による4回目の作品である。
 名勝三溪園の創設者であり、生糸輸出・生産の実業家であり、美術品のコレクター等の多彩な顔を持つ原三溪の、日本画家としての側面に焦点を充てる。
 タイトルは所蔵品展「秋、空を見上げて」とさりげないが、三溪の画技の神髄とも言える「鳥獣戯画模写」等を紹介するとともに、パトロンとして鶴翔閣に若手画家を泊めて制作にあたらせつつ、自らの日本画を磨きあげ、夜を徹して語り合った様子を彷彿とさせる。
 中村学芸員の解説を頼りに、三溪の画家としての側面をご案内したい。 

 所蔵品展「秋、空を見上げて」を紹介する。 

第1展示室
駆け抜けるように過ぎていった夏に思いをはせつつ、秋風に、次の季節の訪れを感じる頃になりました。
「坐して雲を見る」。三溪翁の書に促されるように、ゆったりとした気持ちで、空を見上げてみませんか?
携帯の画面から広がる世界も楽しいものですが、共感できる作品との出会いもまた、楽しいものです。
秋の虫が鳴き、葉が色づきはじめるこの時期。少しゆっくりしたい気分に適うような作品を選びました。深呼吸するように、気負いなく、ご覧いただければ幸いです。

三溪自筆の書画
原三溪(1868-1939)は、実業家として活躍するかたわら、優れた古美術の蒐集や、画家への支援を行い、自らも書画をたしなみました。幼くして、南画、漢籍、詩文の教養を身につけた三溪。母方の祖父が南画家・高橋友吉(号 杏村)という環境もあり、絵については、10歳の頃から、叔父の高橋鎌吉(杏村の長男 / 号 抗水)に学びました。
江戸時代の文人が、本職ではなく余技としてたしなんだ南画の伝統を引き継ぎ、三溪も事業を手掛けるかたわら、伸び伸びとした筆致で和やかな絵を描いています。

原三溪「坐見雲」
「坐して雲を見る」としたためられた、三溪自筆の書です。「雲」は、三溪にとってひとつのキーワードだったようで、三溪の漢詩には次のようにあります。「富貴独自来/去時亦自去/恰似白雲心/曾無定住処/小院秋之夕/葉深人到稀/石泉細如語/独坐見雲帰」。往来自由で、ふっと湧き上がり、ふっとまた消える、そのような雲の姿が、三溪の心を捉えたのかもしれません。

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原三溪「指月(布袋)」
愉快な表情をした布袋(ほてい)が指さす先を見ると…。描かれてはいませんが、月があります。
「月」は「円満な悟りの境地」を、「指し示す指」は「経典」を象徴しています。
布袋は中国の僧で、日用品を詰めた布の袋を杖で担いで市中を徘徊(はいかい)したことから、布袋和尚(ほていおしょう)とよばれました。日本では七福神の一人として知られます。

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原三溪「石山秋月」
中国には「瀟湘八景(しょうしょうはっけい)」という八つの勝景を描いた画題があります。日本でも鎌倉時代以降描かれ、その八つの名所は、その後、近江(滋賀県)や金沢(神奈川県)などに変容され、親しまれました。
本作品は、琵琶湖付近の八つの景勝地である「近江八景」のうち、石山寺の月を描いたもので、多宝塔の右側にうっすらと清らかな月が見られます。
石山寺は、紫式部が源氏物語を執筆したことでも名高い古寺です。

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原三溪「鳥獣戯画模写」
原本は京都の高山寺(こうざんじ)に伝わる、平安時代から鎌倉時代にかけて制作された国宝の絵巻で、甲(こう)乙(おつ)丙(へい)丁(てい)の四巻からなります。三溪はこのうち、動物を擬人化して描いた甲巻から、5つの場面を選んで模写しています。
擬人化されたウサギやサル、カエルなどの姿が、生き生きと写されています。多くの人が知っている絵巻物の模写だけに、三溪の画技の高さがわかります。

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*10月16日(日)まで、福岡市美術館で鳥獣戯画の展覧会が開催されています。
特別展「国宝 鳥獣戯画と愛らしき日本の美術」(福岡市美術館)
*10月23日(日)まで、関連企画展で、三溪の模写図がパネルにて紹介されています。
鳥獣戯画展関連企画「明恵礼讃 ‟日本最古之茶園” 高山寺と近代数寄者たち」


原三溪「新涼一味」
「新涼」とは、初秋、秋に入ってから感じる涼しさのことです。「一味」は、字のとおり「一つの味」。ここでは、秋の味覚、山葡萄(やまぶどう)を指します。山葡萄の下にいるのは、かわいらしい小さなリス。秋の新鮮な味覚を味わう様子が描かれています。
墨の濃淡のみで葡萄の遠近感とめりはりが描き分けられています。
初秋の涼しい気配を感じさせる一幅です。

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原三溪「柿と椎茸」
食欲の秋、視覚にも味覚にも訴えてくるおいしそうな秋の食材です。しいたけの肉厚な様子がよく表されています。
美食家であった三溪は、魚や海老など、季節の野菜を描いた作品もいくつかのこしています。

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原三溪「宮城野所見」
川に橋がかかり、橋のたもとの旅館には「みやぎの」という看板がかかっています。ここは、箱根の宮城野温泉。三溪は箱根の強羅(ごうら)と芦之湯(あしのゆ)に別荘をもっており、すぐ隣の宮城野へもでかけたようです。月明かりのもと、路上では琵琶と笛を奏でる旅芸人がみえます。

原三溪「愛菊翁」
菊の黄色の中に印象的な鶏の赤いとさか。農夫が菊を満足そうに眺めています。
菊を愛でるという画題は古くから決まった型があります。「菊を採る東籬(とうり)のもと」という詩を詠んだ中国の詩人・陶淵明(とうえんめい)や、菊の露を飲んで不老不死になったという美少年の菊慈童(きくじどう)などが描かれてきました。
三溪園では、10月26日(水)から11月23日(祝)まで、菊花展が開催されます。

美術蒐集家・原三溪  ―書簡にみる三溪の美意識―
三溪は30代の頃(明治30年頃)から古美術の蒐集に力を入れました。優れた美術品を蒐集するには情報が重要です。当時の数寄者たちは古美術商を通して数々の美術品を集めていました。
三溪が交流をもっていた骨董商の一人に今村甚吉(~1907)がいます。三溪が今村に宛てた書簡は、三溪の古美術・古建築の蒐集、庭園造成の過程や思いなどを知ることができる貴重な資料です。
三溪園が所蔵する31通の書簡から、明治36(1903)年7月1日付けの書簡をご紹介します。

原三溪筆今村甚吉宛書簡 明治36年7月1日
三溪が、今村から話があった複数の古美術品について、いずれも気に入らず返還を伝えています。さらに、「庭石は一つもよいものがなく失望した、次回はもっと上等なものを積み出してほしい」と要望しています。
翌年2月26日の書簡では「実際に奈良へ行き、庭石を見て選びたいから、それまでは仕入れた庭石を保管しておいてほしい」という内容が書かれています。
庭石ひとつとっても、妥協することなく、自分の美意識にかなったものだけを蒐集したい―三溪の熱い思いがうかがえます。


第2展示室
パトロン・原 三溪
三溪は、明治の終わりごろから、日本美術院を中心とした画家の支援を始め、物心両面から支えました。横浜出身で日本美術院創設者・岡倉天心を通じて多くの画家を見出し、若手の育成を支援したのです。勉強のための奨励金を出したり、作品を買い上げるほか、制作の場を提供したり、蒐集品の鑑賞会を行ったりと、支援のかたちは多岐にわたりました。
三溪が住まいとした鶴翔閣は、画家たちが集い、滞在して絵を制作するなど、文化サロンとしての役割も果たした場所です。古美術を中心とした三溪の収蔵品は若手作家へ供覧され、彼らの創作活動に重要なヒントを与えました。
ここでは、三溪が支援した画家のうち、下村観山、横山大観、前田青邨の作品をご紹介します。

下村観山「布袋」
布袋を描く図像には、「大笑い」、「月を指差す」、「お腹をなでる」など、いろいろな型があります。本図の布袋は、大きなお腹を出してにっこりと微笑む姿で表されたもので、墨の渋さとあいまって味わい深い作品となっています。
第1展示室に飾ってある、三溪が描いた指月布袋図と比べてみるのも一興かもしれません。

下村観山
【生没年】1873-1930(享年58歳)
【出身】和歌山
紀州徳川家に代々仕える能楽師の家に生まれる。
狩野芳崖(かのう ほうがい)に師事し、狩野派の描法を身につける。16歳で東京美術学校(現・東京藝術大学)第1期生として入学。卒業後は、同校の助教授となるが、岡倉天心を排斥する美術学校騒動を機に辞職。日本美術院の創立に参画し、新しい日本画の創造に尽力。30歳のときに渡英し、西洋画・水彩画を学び、自身の画風に取り入れた。
■ 三溪による支援 ■
三溪が観山の支援を始めたのは明治44(1911)年からで、三溪44歳、観山39歳の頃でした。同年、三溪は園内の松風閣の障壁画「四季草花図」の制作を観山に依頼。2年後には、三溪の援助により、本牧に終の棲家となる居宅を構えました。
観山の穏やかな性格と、美しい描線を持ち味とした作品を三溪は好ましく思ったようで、二人は親しく交流しました。

横山大観「赤壁」
中国の詩人・蘇軾(そしょく)の「赤壁賦(せきへきのふ)」のうち「前赤壁」に取材したもの。
旧暦7月の満月に、『三国志』の戦場として有名な赤壁に思いを馳せながら、客とともに酒を酌み交わし、舟遊びをする静かな夜がテーマとなっています。
大観はその様子を、切り立った赤壁と月光に照らされた波間に丁寧に描いています。

横山大観
【生没年】1868-1958(享年89歳)
【出身】茨城県 水戸
20歳のとき、結城正明(ゆうき まさあき)の画塾で毛筆画を学び、翌年、東京美術学校(現・東京藝術大学)第1期生として入学し。岡倉天心の薫陶を受けたほか、橋本雅邦(はしもとがほう)の指導を受ける。卒業後は同校の助教授として、また日本美術院創立に加わり活躍。大正初めに下村観山とともに日本美術院を再興した。
■ 三溪による支援 ■
日本美術院の創設者である岡倉天心の紹介により、三溪は大観を見出し、明治後期頃から援助することになります。大観が45歳のときに制作した六曲一曲屏風の「柳蔭」(東京国立博物館蔵・三溪旧蔵)は、三溪園の鶴翔閣(かくしょうかく)に逗留して制作されたもの。三溪の近代日本画コレクションのなかでは大観の作品が最多。作品を購入することで、大観を援助したことがわかります。

前田青邨「中国所見」
前田青邨は、大正時代の半ば、中国を旅行し、その風景を水墨画で残しています。
左幅は、水に煙る中国の町・蘇州(そしゅう)、右幅は塔が霧にかき消え、雨が降っている情景です。この塔は、雲岩寺(うんがんじ)虎丘塔(こきゅうとう)という10世紀に建てられた八角七層のものです。雨に濡れる様子を、淡墨を縦に刷(は)くことで効果的に表しています。

*岐阜県美術館にて前田青邨の特別展を開催中です。
 三溪園所蔵品(前田青邨「遊魚」)も出品されています!
 開館40周年記念 前田青邨展 究極の白、天上の碧-近代日本画の到達点-
 会期:2022年9月30日(金)~11月13日(日)

前田青邨
【生没年】1885-1977(享年92歳)
【出身】岐阜県
小学校の頃から画才を示し、早くより画道を志す。14才で上京するも病のため一旦帰省し、満16才で再上京。大和絵に造詣が深い梶田半古の画塾に入る。17歳のとき、第12回日本美術院・日本絵画協会共進会で初入選を果たす。
岡倉天心が立ち上げた日本美術院に参加、再興院展以後も活躍した。

■ 三溪による支援 ■
青邨は、20代後半から、三溪園での美術研究会に参加した。安田靫彦や小林古径らとともに、夜を徹して芸術論をたたかわせたり、三溪が所蔵する古美術品を鑑賞したことが、青邨の創作の糧になりました。
明治45(1912)年、文展3等を受賞した絵巻「御輿振(みこしぶり)」(東京国立博物館蔵・三溪旧蔵)は、三溪園で制作されたもので、青邨の出世作となりました。

臨春閣の襖絵
三溪園・内苑の景観の中心に置かれている臨春閣は、三溪がとりわけその移築に情熱をそそいだ建物で、明治39(1906)年の入手から構想、移築完了まで実に11年の歳月を費やしました。三溪自身は、豊臣秀吉の聚楽第遺構と思い、その価値を評価していましたが、現在では、和歌山県の紀の川沿いにあった、紀州徳川家の別荘とされています。
各部屋の障壁画は、狩野派などによる江戸時代の漢画(中国の様式による日本の水墨画)が中心です。今回は、第三屋にある2つの部屋の襖絵をご紹介します。* 現在の臨春閣には複製が嵌められています。狩野山楽「村雨松林図」

狩野安信「四季山水図」
この障壁画があった「天楽(てんがく)の間」には床(とこ)と違棚(ちがいだな)があり、展示中の襖以外にも床壁(とこかべ)・違棚部分の貼付画があります。右の襖から左の床壁貼付画まで四季を順番に描き、ごつごつした樹木や岩肌は、狩野派の宗家(そうけ)を継いだ安信らしい、古風な描き方です。
展示部分では、馬に乗る人物の道行きと、遠方に見える三重塔が表されています。臨春閣の第3屋から望める三溪園のシンボル・三重塔とリンクするような、趣きあるシーンです。

「百人一首色紙貼交襖」
臨春閣、第三屋二階の〈村雨の間〉に嵌められていた襖です。この部屋は、襖以外にも四方の小壁に百人一首の色紙が貼り巡らされ、襖と小壁でちょうど百首あります。ただし、11枚が欠失しており、うち襖部分に4枚の欠失があります。
襖には、天皇や内親王など当時の身分の高い人の歌が集められたと考えられます。色紙を書いた人名が色紙のわきの短冊に書かれており、臨春閣創建から約100年後の江戸時代中期の宮家や公家の人物であることから、この襖が仕立てられたのはそれ以降であることがわかります。

アヘン戦争と日本の開国(上)

 9月24日(土曜)、青山学院大学総合研究所シンポジウム「オランダ別段風説書にみるグローバリゼーション-19世紀の世界と日本-」が17号館の17411教室で開かれた。プログラムは次のとおり。
 開会の挨拶 11:00~ 阪本 浩(青山学院大学学長)
 第一部 特別講演 加藤祐三(横浜市立大学名誉教授) 「アヘン戦争と日本の開国」
    (休憩 12:30~13:30)
 第二部 研究報告・シンポジウム 13:30~17:00
  佐藤 隆一(元青山学院高等部教諭) 別段風説書の概要
  松本 英治(開成中学校・高等学校教諭) 風説書から別段風説書へ
  嶋村 元宏(神奈川県立歴史博物館主任研究員) 別段風説書の中の戦争と平和
   (休憩 14:35~14:50)
  白石 広子(洋学史学会会員) 別段風説書の翻訳上の問題
  岩下 哲典(東洋大学文学部教授) 別段風説書の中のペリー来航
  岩田みゆき(青山学院大学文学部教授) 別段風説書の在地社会への浸透
  割田 聖史(青山学院大学文学部教授) ヨーロッパ史からみた別段風説書
   (休憩 16:10~16:25)
 コメント
  飯島 渉 (青山学院大学文学部教授)
  安村 直己(青山学院大学文学部教授)

 報告者の一人である嶋村元宏さんから講演依頼のメールがあったのが今年の5月。およそ30年前、私は青山学院大学史学科の非常勤講師をしていたが、その受講生の一人が嶋村さんである。嶋村さんは神奈川県立歴史博物館に勤務、私が横浜の公益財団法人三溪園の園長をしており、いわばご近所付き合いの仲でもある。
 依頼の趣旨は、一昨年度より岩田みゆき青山学院大学教授を研究代表者とする科学研究費(科研費)助成「オランダ別段風説書の研究」(研究分担者:片桐一男(青山学院大学名誉教授)、岩下哲典(東洋大学教授)、嶋村元宏ほか3名)を実施しており、その成果の一部を青山学院Global Weekhttps://www.aoyamagakuin.jp/aggw/の一環として、一般の方々に紹介するシンポジウムを開催する。そのため、ペリー来航前後、とくにアヘン戦争と日本の開国について、基調となる講演をしてほしいというもの。
 ついで岩田みゆき教授から風説書研究会編『オランダ別段風説書集成』(吉川弘文館刊行 青山学院大学総合研究所叢書 2019年)が送られてきた。705ページの大著である。風説書研究会会長の片桐一男(青山学院大学名誉教授)先生は『杉田玄白』(吉川弘文館 1971年)や『阿蘭陀通詞の研究』(吉川弘文館 1985年)等の名著で知られる。
 『オランダ別段風説書集成』の執筆者紹介を見ると、片桐さんは1934年生まれ、岩田さんが1958年生まれ、岩下さんが1962年生まれ、そして嶋村さんが1965年生まれ…と世代交代がうまく進んでいる印象を受ける。
 私はシンポジウムで片桐さんの基調報告を受け、オランダ別段風説書と唐風説書を入手した幕府(老中は水野忠邦)が天保薪水令(1842年)を発布する経緯と理由について話すつもりでいた。
 ところが諸般の事情から30分の基調講演が80分の特別講演に変わった。そこで私はアヘンを中心にして「アヘン戦争と日本の開国」を語ることとした。
事前に「報告要旨」をA4×2ページで作成をと要請があり、すでに作成してあったパワーポイントのスライドの一部を、そのまま「報告要旨」にした。その1枚目が次のものである。

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このスライドの右側に講演の趣旨を示す目次を置き、以下の4点を掲げた。
1 アヘンはどこから来たか
 ① 19世紀アジア三角貿易
 ② 英植民地インドのアヘン生産と輸出の140年
2 アヘン戦争情報と天保薪水令
 ① オランダ別段風説書(べつだんふうせつがき)
 ② 唐風説記(とうふうせつがき)
3 ペリー来航と日米和親条約(1854年)⇒発砲交戦を伴わない<交渉条約>の背景とその意義
4 日米修好通商条約(1858年)のアヘン禁輸条項

 そのうえで、左に掲げた略年表(拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2014年の35ページより)には重要な論点が含まれているとして、以下の6点の説明をした。
 ① 4つの対外令 1791年の寛政令(薪水供与)、1806年の文化令、1825年の文政令(無二念打払令)、1842年の天保薪水令(薪水供与に復す)は右欄の南京条約締結の1日前である。最後の天保薪水令を発布する契機として1837年のモリソン号打払いへの反省と風説書がもたらした情報がある(後述)。
 ② その後のアメリカ船来航(ビッドル、グリン)時には天保薪水令下にあり、穏便に対処することができた。その延長上にペリー来航がある。
 ③ ペリー来航(2回)と日米和親条約の締結(1854年)。
 ④ ハリス総領事の下田着任と日米修好通商条約の締結(1858年)。
 ⑤ 横浜居留地の設定と横浜開港(1859年)。ここにおいて日本の開国が具体的な姿で完成する。
 ⑥ 右欄の世界の欄の冒頭に「1773年 英がインドを植民地化、アヘン生産を開始」とある。ついで1776年のアメリカ合衆国建国(独立)。ペリー提督もハリス総領事も、イギリス植民地から独立した新興国アメリカの気負いを強く抱いていた。

 講演で使ったのは以下の計22枚のスライドである。
上記1枚目のあとに下記の2から8まで。ここまでを「アヘン戦争と日本の開国(上)」とし、ついで9「ペリー来航と日米和親条約の概略」以下については続稿「アヘン戦争と日本の開国(中)と(下)」にゆずる。
なお図像資料の多くは、拙著『東アジアの近代』(1985年 講談社ビジュアル版『世界の歴史』第17巻)から採った。本書は、写真やエッチング(銅版画)等のビジュアル資料を約800点集め、うち約500点を採用したもので、アヘン戦争の末期、1842年5月14日創刊の週刊新聞『イラストレイテド・ロンドンニュース』(The Illustrated London News)から採った図像が多い。日本語では『絵入りロンドン新聞』『絵入りロンドン・ニュース』などと訳される。

2 【図像】「19世紀アジア三角貿易」の概念図
3&4 植民地インドのアヘン専売制
5【図像】「ケシの花と子房」
6【図像】「アヘン倉庫の内部」
7【図像】「インド産アヘンの140年と中国海関での厘金等の課税」
8【図像】「アヘン運搬の快速船」
 これ以下は「アヘン戦争と日本の開国(下)」につづく。
9 ペリー来航と日米和親条約の概略
10【図像】「ペリー艦隊の軍楽隊の久里浜上陸」
11【図像】「日米トップの似顔絵 林大学頭とペリー」
12【図像】「ペリー艦隊2度目の来航」
13【図像】「ハイネのペリー横浜上陸の図」
14【図像】「香山栄左衛門がペリーを案内する」
15 論点整理 ペリー来航から日米和親条約締結(1854年)まで
16 2つの史料 ①ペリーへの発砲厳禁命令(アメリカ上院史料)
 ②最初の日米会談でのペリー発言と林大学頭の応答
17【図像】「4カ国語からなる日米和親条約(末尾の署名欄)」
18【図像】「ハリス登城の図」
19 論点整理 日米修好通商条約(1858年)から横浜開港(横浜居留地の設定)18
59年7月1日まで」
20 「条約一覧 とくにアヘン条項をめぐって」
21【図像】絵図「横浜居留地」
22 「敗戦条約と交渉条約の比較一覧」

【研究史の整理と歴史家としての<旅>の意味】
 スライドを選びながら、どうやら私自身の研究史を整理しなおすことになりそうだと感じた。アヘンについて言及した最初の著書が『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)であり、ついで『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)と同増補版(ちくま学芸文庫 1994年)である。それに『幕末外交と開国』(2024年 ちくま新書)、同増補版(講談社学術文庫 2014年)の計3冊を手元に置き、これらを基に私自身の研究史を振り返り、着想・史料点検・叙述の過程をまとめて話したいと考えていた。しかし十分に伝えきれず、聴講してくださった方々には申し訳ない。

 そこで講演後のまとめ(本稿)では、いささか異なるアプローチをとり、「アヘン戦争と日本の開国」に至る私自身の研究過程に沿って述べてみたい。通常の手続きでは先行研究の整理から始めるが、先行研究がない課題はどう進めるか。
 歴史学の場合、そのヒントをくれる重要な一つが<旅>ではないか。文字資料に加えて図像資料もモノの資料(産業遺稿や用具等)も重要であり、それらは<旅>を通じて得られることが多い。
 その意味で上掲3冊の前提となるのが、1977年刊行の『紀行随想 東洋の近代』(朝日選書97)である。東京大学東洋文化研究所助手から横浜市立大学助教授に転任した1973年から、雑誌『道』(現代評論社の木村剛久さんが担当)に15回にわたり連載した「遥かなる道-東南アジア紀行」を1冊にしたもので、国際文化会館(松本重治会長)の奨学金による2度目のインド・東南アジア旅行の記録である。
 そこに次のように記している。
「その地や人々の生き方を実感すれば文献史料の読み方が変わるにちがいない。歴史学は古今東西森羅万象を包含するが、そのなかで何が大切かを決めるのは個々の歴史家の史観である。この史観は、狭い自分だけの日常を脱し、多様な日常に接して得られる着想と、そこに始まる文献調査や史料批判を通じた実証的な叙述のなかで初めて形となると考えた。旅を通じて得た着想に沿って文献調査と実証を重ね、論文集の形ではなく、一般書として届けられればと思った。
 旅は歴史家の母というのは、古今東西を問わず、あてはまる。短い旅であっても、旅をとおして歴史を考えるということは、現代においても、いな現代においてこそ、いっそう大切だといえるかもしれない。…文献で知った事柄を、実地に見聞して確かめるという現場検証的なやり方が一つあるが、これはむしろ邪道である。文献史料の教えてくれないこと、語りかけてこないこと、これらを掴みとるのが旅の意味であろう。旅は歴史を考えるきっかけを与えてくれる。そこで直感したものを、のちの文献探索が肉付けしてくれる。いいかえれば、旅で直感した主体的な何ものかが、死んでいた史料に新しい生命をふきこむ」 。
 本書は、「1 香港の農村」で農村の風景と日々の営みを語りつつ、農民が中国革命の原動力となったことへつなげ、「2 植民地支配の技術」で香港島の植民地化(1842 年の南京条約でイギリス領)と、それ以前のアジアで入れ替わる植民地宗主国(ポルトガル、オランダからイギリスへ)の主導権及び支配の形態を分析し、「4 ビルマの成熟」、「5 国際商品コメの政治」、「11 造化の島―セイロン」では、モノカルチャーという植民地遺制を語った。
 もう1つが思想史の分野である。「3 幕末日本人の海外認識」、「6 <日本意識>と多民族国家」、「7 <アジア>-価値観の分裂」、「8 <東洋>-象徴語としての意味転換」へとつながるもので、<東洋>と<アジア>という無意識に使い分けている主要キーワードに焦点を当て、その使い分けを解明した。
 
 本書は幸いに好評を得た。その1つ、朝日新聞の1977年10月31日付けの書評に、「…中国研究者として知られ、ヒントンの『翻身』その他の翻訳もある著者は、東南アジアへの旅によって…アジアの全体像に挑戦しているようにみえる。まことに貴重な努力であるとともに、アジアへの思考を刺激せずにはおかない…どれ一つをとっても長大な論文を必要とするテーマである。それでいて読みづらいとか、硬くてこまるとかいったところはない。…問題の意味を十分に知り、自分のものとしていなければ、できることではない。それに筆が実にやわらかい。…」とある。
 これをイギリス滞在中のリーズ市で受け取った。本書には問題提起したままフォローしていない課題がいくつもある。着想だけが示され、実証が伴っていない課題と言い換えても良い。そのどれかに焦点を絞り、実証を進めようと決めた。

 研究を進めれば進めるほど、日本国内にある史料の限界を痛感し、歯がゆい思いに駆られる。これに関する史料の蓄積がもっとも厚いのは「超大国」イギリス、そこには無尽蔵とも言える膨大な史料が眠っているはずである。イギリスにしかない史料の収集が必要と思っていた矢先の1976年、文部省(現文部科学省)助成事業の「在外研究」1コマが大学に来ていることを知り、すぐに手を挙げた。
 「在外研究」とは特定のテーマを持ち、国外で研究に専念することへの経費助成(実質は半年分)である。私は個別課題を示したうえで、総合テーマを「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」と名づけた。
 アヘン問題に気づいたのは、この在外研究でイギリスへ渡ってリーズ市に拠点を置き、しばらく経った1978年ころである(「史観と体験をめぐって」&「著作目録」。横浜市立大学論叢人文科学系列第54号「加藤祐三教授退官記念号」2003年所収)。

【アヘンとは?】
 アヘンの主成分であるモルヒネは最強の鎮痛剤であり、医療には不可欠であるが、売れれば売れるほど良いとして野放しにすれば麻薬となる。社会的管理が必要な物質である。
 そのために右下に図12「インド産アヘンの140年」(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)の136ページ所収を掲げた。
 これだけでは分かりにくいが、140年間にわたるインド産アヘンの輸出額等を線グラフで図示したもの。輸出先は中国にとどまらず、シンガポール(英植民地)やインドネシア(オランダ植民地)等を含む。これらのアヘンは植民地政府が独占的に輸入し、国内のアヘン業者に高く売り、その差額を財政収入の一つとした。
 アヘン戦争はアヘンを排斥しようとする清朝政府とアヘンを売り込むイギリスとの戦争である。アヘン戦争は歴史用語として広く知られるが、その原因となったアヘンや戦争の結果として結ばれた南京条約の具体的内容に関しては意外に知られていない。
 そもそもアヘンはどのように作るのか。
 ケシの成長した子房がまだ青いうちに表面に傷をつける。滲み出した白濁色の液が太陽光で茶褐色に固まると、ピンセットのような道具で集めて、子供の頭ほどの大きさに丸め、陰干しする。この状態をクロと呼び、水に入れて煮沸したのち底に残るものをシロと呼んだ。

スライド6【図像】「アヘン倉庫の内部」
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 アヘンの摂取法は3通りあった。アルコールに溶かし、薬剤として売る。イギリスではゴッドフレイ・コーディアル(強心剤)という商品が有名で、制止する法律がなかったため、猛烈に売れた。これが<飲む>方法である。
 ついで中国では煙にしてパイプで<吸う>方法が流行した。
そして主要産地のインドのベンガル地方では、生産したクロを丸めて飲みこんだ。

 インド産アヘンを中国等へ運搬する大砲を備えた快速船が活躍。その先の中国沿海部にアヘン貯蔵船を係留し、運び入れる。そこからは小舟で陸揚げした。

スライド8【図像】「アヘン運搬の快速船」
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【リーズ大学図書館】
 1976年のイギリス行きには、妻の光(ひかり)と小学生の娘を連れて行った。住まいを旧知のデイリア・ダヴンに相談した。彼女は中国女性史・経済史の研究者で、生後1年に満たない幼い娘を連れて東京大学東洋文化研究所(当時の私の勤務先)に史料収集に来ていた時に知り合い、家族ぐるみの付きをしていた。彼女の住いは北イングランドのリーズ市で、我々もそこに決める。
 さっそくリーズ大学の図書館利用証を貰い、館内を巡回するうちに、統計書や議会文書、新聞・雑誌が想像以上に充実していることが分かった。1831年創設の医科大学と1874年創設の文理学部を前身とし、1904年に大学となった伝統と歴史に由来する。貴重書を除き、すてが開架式で、コピーは自分でコピー室まで運び、自分でとる。コピー機は日本製で使い慣れた機種。夜の11時までの開館を幸いに夕食後にまた戻り、広い図書館をほとんど独占状態で活用した。
 各種の研究会にも参加し、家族や知人と旅行して産業革命の遺稿や文書館を訪ねたりしつつ、多くの時間を図書館にある膨大な量の議会文書(行政府が議会に提出する文書等)から統計を五線紙に書き込む作業に没頭した。
 ただ議会文書は良質で貴重な史料だが、合冊された1冊が厚さ20センチ、数キロの重さで、かつ書架一面を圧倒する分量である。頭上からおろしてコピー室まで運ぶ。トレーニングジムを併設した図書館さながら。
この基礎作業のおかげで、次第に植民地インドで専売制によりつくられるアヘンの実態と年次変化がわかってきた。その成果物が拙著『イギリスとアジアー近代史の原画』(1980年 岩波新書)所収の「図12 インド産アヘンの140年」(同書136~137ページ)である。

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 使った資料はイギリス議会文書で、詳しくは上図下段の右側に記載してある。
 実線がインド産アヘンの輸出額(約64キロ入りの箱数)である。1839年の林則徐によるアヘ没収・焼却措置により急落するが、アヘン戦争中に増え始め、1858年の天津条約によるアヘン貿易合法化を契機に急上昇する。ピークに達するのが1880(明治13)年で、それ以降、減少はするものの、なお20世紀に至るまでつづき、終了するのが国際アヘン会議(1909~1914年)の決議による1914(大正3)年である。
 下段の線グラフは、1887年から始まるアヘン厘金の導入による中国海関の収入を示す。中国海関とは輸出入税を扱う行政府の一つで、海関長はイギリス人のR・Hartが長く務めた。
 これだけ長期にわたって大規模に進められたインド産アヘンの東方への輸出が、なぜ日本へは及ばなかったのか? 日本は圏外にあったのか? ではなぜか?
 この疑問に答えるには、日本の開国に取り組む以外に手はない。

 実家に残っていた古い手紙(カーボン紙を挟んで数通を作成、大学や実家へ送っていた)の、リーズ定住から約1か月後の1977年10月16日付けには、運転時にラウンドアバウトを通過するときの注意事項や、横断歩道も車優先である等の記述に続き、図書館の自作の見取図、史料の宝庫を見つけて興奮する様子や作業計画を記している。
 作業計画は、①議会文書や”The Times”紙索引の活用、②幕末に輸入された漢英・英漢辞書の著者Lobsheid等の伝記資料収集、③綿工業の経営資料の閲覧、④地名・地形を知るための自動車旅行等々、8項目である。
 いまもイギリス人を魅惑する紅茶の中国からの輸入統計のグラフ作成から始めた。貿易統計を集計するうちに品種別の推移が分かってきた。一方、紅茶の淹れ方は、煮沸した湯を注ぎ、ポットに布をかけて蒸らす。産業革命で工場近くに集住した労働者には汚染した水の煮沸は必然であった。
 私は利便性の高いリーズ大学図書館をベースキャンプとし議会文書や”The Times” 紙の索引を集中的に使う腹を固め、他の異なる史料構成を持つロンドン大学SOAS (School of Oriental and African Studies) 、公文書館 (Public Record Office、現在の National Archives)、オクスフォード大学、ケンブリッジ大学等の図書館へは必要に応じて通うこととした。

【多くの知人たちに教えられて】
 加えてディリアの姉のアンナがイギリス近代史の研究者であることから、ロンドンに出ると彼女の紹介で斎藤三郎訳『匪賊の社会史―ロビン・フッドからガン・マンまで』(みすず書房, 1972年)等の著者 E・J・ホブスボーム教授が主催する研究会や、イギリス近代社会史のF・M・L・トンプソン教授が主催する研究会等に顔を出す機会を得て、最前線のイギあス近代史研究の雰囲気を感じ取った。
 麻薬史研究のV・ベリッジ教授から頂いた論文にも、イラン産、トルコ産アヘンをアルコールに溶かしたアヘン・チンキが19世紀のイギリス各地で大流行していたことが記されている。
 さらにイギリス民衆史のR・サミュエル教授や彼のもとに下宿するイギリス近代史研究の草光敏雄さん(当時はシェフィールド 大学大学院生、のち東京大学教養学部教授、放送大学教授)と知り合ったのも、望外の好運であった。
 近代イギリスの特徴として挙げられる産業革命、交通革命(運河開発から鉄道開発へ)の遺構や、農業革命の遺構である石垣や生垣で作る農地囲い込み(エンクロージャー)の跡も見たい。地方の郷土資料館等に残る可能性があるロザラム犂(中国 犂を改良したものとする仮説を私は立てていた)や関連する農家の道具類も確かめたい。
 文献史料とモノの史料の組みあわせやフィールドワーク等を重ねる手法は、東洋文化研究所時代の諸先輩や中国農業史の熊代幸雄先生や天野元之助先生から学んだ。
 こうして新しい知見が拡がる。それら一つ一つ事例を書き留めるだけでは不十分と考え、再び『道』誌に連載させてもらった。題名は「紀行随想 イギリスの近代」。
 一方、『横浜市立大学論叢』30巻、遠山茂樹教授退官記念号に拙稿「19世紀のアジア三角貿易-統計による序論」を発表した。統計分析を主とし、紅茶、アヘン、綿製品の3章に分けて論じた。末尾に掲げた3表は、いまでも貴重なデータである。
 第1表「紅茶・アヘン・綿製品 1815~1898年」
 第2表「インドの主要輸出-アヘン・原綿・綿糸 1815~1899年」
 第3表「中国の主要輸出入 1860~1900年」
 本稿を読み直すと、第1表で紅茶・アヘン・綿製品の3大商品をまとめ、第2表でインド産アヘンの輸出統計の詳細を載せ(以上はイギリス議会文書から)、第3表では中国側の海関統計を基に上海を主とする開港場の輸出入合計を明らかにしている。
『道』誌連載の第5回(1979年5月号)にも「アジア三角貿易」(1880年)の概念図を掲載した。本稿を書いたころには紅茶・アヘン・綿製品の3大商品による、イギリス・インド・中国を結ぶ「19世紀アジア三角貿易」の統計を正確に把握できていた。

【野放しのアヘン】
 アヘン貿易の史料探しに頭を痛め、”The Times” 紙索引で「アヘン」を検索していると、19世紀のイギリス国内でアヘン・チンキ(アルコールに溶かした飲用アヘン)の服用が異常に流行し、その薬害を指摘する記事がしばしば出てくる。ゴッドフリー強心剤という商品がよく売れ、泣く子に飲ませる記事(1844年頃)もある。
 さらに『嵐が丘』の筆者エミリー・ブロンテの弟もアヘン中毒患者で、姉妹と弟を描いた絵から弟の姿が消されていたのを、ブロンテ記念館で見た。
 ロマン派の作家ド・キンシーに『アヘン常用者の告白』(1821年発表)という著名な作品がある。イギリス国内でこれほどアヘンが野放しであるとは、予想外の驚きであった。もともとは風土病の痛みに対する鎮痛剤として主に農村地方で使われたという。イギリスの風土はケシ栽培に適していないはずで、輸入統計を調べると、イラン産とトルコ産が大量に輸入されていた。
 
【インド産アヘンの統計を見つけて】
 イギリス国内での「アヘン・チンキ」流行は分かったが、植民地インドで生産されるアヘンとその輸出統計が見つからない。議会文書(BPP)の辺りを歩き回って目録を引き 直しているうちに、やっと” Statement showing the Number of Chests of Opium exported from India to China, Bengal and Malwa. 1798/99-1859/60.”等の史料のあることを発見した。
 初期の議会文書ではなく、1880年代に議会に提出されている。この時期、アヘン貿易反対論が議会内外で強まり、それに押されて提出されたことが後に分かった。
 それによると、19世紀初頭、植民地インドから中国・東南アジア等へ、アヘンと綿花の輸出が増え始める。両者がほぼ同じ割合で、合わせて紅茶輸入の約7割(価格)にあたる。時代が下るにつれてアヘン輸出の比率が高まることが、この新しい史料で分かった。バラバラに見えた二国間貿易を三国・地域間貿易として把握すると、まったく新たな構造になる。
 中国産紅茶、インド産アヘン、イギリス製綿製品の三大商品による三国・地域間(インドはイギリス植民地であり、慣例では 「地域」とすべき)の貿易、すなわち「三角貿易」に発展し、これによりイギリスの貿易赤字が急減する。この構造を私は「19世紀アジア三角貿易」と命名した。

スライド2 【図像】「19世紀アジア三角貿易」の概念図
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 「三角貿易」という概念と部分的な統計的知見はすでに知られていた。つまり二国間貿易から多国間貿易への移行期に三角貿易が存在している。二国間では輸出入品目が合わず、三国間で処理すれば輸出入が循環する。その好例が、香辛料を求めてアジアへ来た西洋人(早くはポルトガル、ついでオランダ、イギリス)がインドで綿布を買い(支払いは主に銀貨ないし銀塊)、その綿布を対価にして、銀貨や銀塊の通用しない東南アジアで香辛料を買い付け、帰国して銀貨や銀塊に換える。西欧・インド・東南アジア間の、綿布・香辛料・銀貨(と銀塊)による三角貿易である。
 もう一つが大西洋三角貿易である。18世紀後半に勃興したイギリス産業革命の工場製綿布を軸に、原料の綿花を当初はアフリカ、のちアメリカ南部で栽培し、その労働力としてアフリカからアメリカへの奴隷貿易を介在させ、工場製綿布を奴隷やその地域の人々に売るという、綿花・奴隷・綿布による三角貿易である。
 三角貿易を構成する香料や紅茶も、綿花も綿糸・綿布も、またアヘンも銀塊もみな等しく軽量で高価、かつ熱帯の海を渡っても変質しない。軽量・高価・不変質という3つの特性は、当時の船による長距離運送、つまり世界貿易にとって不可欠の要素であった。

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【『イギリスとアジア-近代史の原画』の発刊】
 『道』誌連載の「紀行随想 イギリスの近代」を読んでいた木村秀彦さん(岩波書店)が、帰国後の1979年春、新書にまとめないかと声をかけてくれた。イギリスから自宅へ送った大量の史料コピーは、べニア板張りの大型紅茶箱で7箱はあり、開けてみると史料的価値の高さが改めて分かった。これらの史料とメモを駆使すれば新たな歴史書ができる、と胸が高鳴った。
 ワープロやパソコンが普及する以前で、強い筆圧から来る腱鞘炎に悩まされ、鉛筆を4Bに変えて、表面の滑らかなA4サイズの縦書き原稿用紙に向かう。1979年の夏休みは執筆に専念した。能率を上げるため早朝2時に起床してすぐ執筆、11時頃までつづけると休憩を入れても8時間は確保できる。昼食後、1時間半の仮眠。午後2時に再開して夜10時まで8時間、合わせて16時間の作業ができた。若さのおかげである。
 私は書き始めると速いが、仕事上のパートナーでもある妻・光(ひかり)による点検とそれを受けての推敲には時間をかける。このやりとりが楽しい。
 雑誌連載に加えて新たな書き下ろしを組み入れ、『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年1月)を刊行した。黄表紙版の108番。偶然とはいえ、この数字が仏教でいう煩悩の数と同じであるのが嬉しかった。
 本書は序章「点描」と「おわりに」を除くと、3部9章の構成である。序章と各部の冒頭には、副題の「近代史の原画」に相応しい、時代を象徴する銅版画(エッチング)を入れた。
 Ⅰ 「イギリス近代の風景」には、「第1章 村の生活-1790年」、「第2章 人と交通と情報」、「第3章 都市化の波」の3章が並ぶ。第1章はイングランドを中心として旅を重ねた成果を取り入れ、近代の幕開けに村の生活が変わる状況を、文書館所蔵の家計簿等から示し、第2章で交通網(道路と運河)の展開が情報を広く運ぶ状況を招来したと述べ、第3章では急激な都市化(とくに産業革命都市)による下水道整備等の及ばない過渡期の姿を描いた。
Ⅱ 「19世紀のアジア三角貿易」には、「第4章 紅茶と綿布」、「第5章 アヘン貿易」、「第6章 アヘン生産」の3章が入る、本書の核心的部分である。貿易統計を活用して、第4章では薄手のインド産綿布と厚手の中国産綿布のイギリスへの輸入から反転して産業革命の工場製綿布のインドへの輸出に代わる状況を示し、第5章では植民地インドから中国・東南アジアへのアヘンの輸出を明らかにし、イギリス・インド・中国を結ぶ19世紀アジア三角貿易の実態を明らかにした。第6章にはケシ栽培・アヘン生産の科学的実験例等を加えた。
Ⅲ 「イギリスとアジア」は、「第7章 イギリス国内のアヘン」、「第8章 パブと禁酒運動の産物=レジャー」、「第9章 イギリスとアジア」の3章が入る。第7章ではイギリス国内のアヘン消費(主にアヘンをアルコールに溶かしたアヘン・チンキの流行)の状況を述べ、第8章は近代化初期のイギリス国内の諸相(酒税歳入が40%を占める等々)と近代スポーツの誕生等を描き、第9章でイギリスのアジアとの関係やアジアに及ぼした影響に触れ、イギリスは清朝中国と戦争による激烈な出会いをしたが、日本とは「おだやかな出会い」をしたと述べる。
 「あとがき」(1979年10月付け)では、中国近代史からイギリス史を見ることを中断し、イギリス近代史からアジアとの関係を考える発想の転換に至った経緯を述べ、また副題「近代史の原画」に触れて、「本書に描いた近代の姿は世界史の教科書にないものが多く、これはコピーではなくオリジナル(原画)ではあるがデッサン(原画)にとどまっているかもしれない」とも述べた。
 また新書にしては長めの6ページの参考文献を付け、本文に省略形で入れた注と対応させる方式をとった。本書は広い読者を対象とする一般書として、何よりも読みやすさを心がけたが、従来の常識とかなり違う内容を含んでいるため、学術書と同様に史料の出典を示し、史料の表記に工夫をこらした。読み進めるための障害を少なくする一方、根拠を知りたい読者には参考文献に到達できる工夫である。新書にこの方式を採用したのは、本書が初めてではないかと思う。

【戦争の原因となったアヘンの生産と流通】
 アヘン戦争(1839~42年)を知らない人は少なくないが、戦争の原因となったアヘンの生産と流通に関しては、中国史学界はもとより欧米でも十分な研究がなかったため、本書が初めて明らかにした事実も少なくない。毎日新聞は「私の仕事」欄(1980 年2月18日)で「イギリス国内のアヘン需要は第一次大戦中までつづき、近代日本のお手本のイギリスは大正時代に”アヘン漬けになっていた“」と驚きを表明、主題とした「19世紀アジア三角貿易」とは違う側面に注目していた。
 学術誌では『史学雑誌』(1981年1月号)の新刊紹介で石井寛治さん(東京大学経済学部)は「…本書の面白さは、最近とみに豊かになったイギリス社会史の研究成果を取り込みながら、さらにオリジナルな史料に当たってゆくさいの、東洋史家たる著者の眼のつけどころである…」とし、それぞれの中心課題をⅠ部では「中国産紅茶に呪縛されたイギリス社会の構造」、Ⅱ部では「インドから中国へのアヘン輸出のピークが1880(明治13)年であること」、第Ⅲ部では「アヘン中毒とアルコール漬けの19世紀イギリスから公園とレジャーに象徴される今日のイギリス社会がいかに生まれたかの説明」と述べている。
 本書には中国語訳『19世紀的英国和亜州』 (『加藤祐三史学選之一』 中国社会科学出版社 1991年)がある(訳書出版に対して横浜市海外交流協会から助成金を受けた)。訳者の蒋豊さんは私のもとに留学してきた北京師範大学史学科出身の英才で、いま『人民日報日本月刊』(東京)の編集長であり、東方出版社(北京)の東京支社長でもある。この訳書を通じて、中国近代史の起点であるアヘン戦争の世界的な背景が、初めて中国人読者に届けられた。

【コンフェレンス「世界市場と幕末開港」】
 前著『イギリスとアジア』のとりわけ第9章「日本のアヘン問題」で書き残した課題が最大の関心事であったが、研究を進めるにつれて、課題はさらに拡大していった。1981年12月、コンファレンス「世界市場と幕末開港」が3日間にわたり開かれた。東京大学経済学部の経済史学者が中心となり企画したもので、部外者の私も招かれた。著書や論文で、「19世紀アジア三角貿易」について述べていたからであろう。その報告書が石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』 (東京大学出版会 1982年)であり、6本の報告とそれぞれのコメント・討論を収める。
すなわち関口尚志「問題提起-開港の世界経済史」、毛利健三「報告一 ギリス資本 主義と日本開国-1850、60年代におけるイギリス産業資本のアジア展開」、楠井敏朗 「報告二 アメリカ資本主義と日本開港」、権上康男「報告三 フランス資本主義と日本開港」、加藤祐三「報告四 中国の開港と日本の開港」、石井寛治「報告五 幕末開港と外国資本」、芝原拓自「報告六 日本の開港=対応の世界史的意義」である。
 このコンファレンスは10年前の1971年5月に開かれたシンポジウム「世界資本主義と開港」(この書名で1972年に学生社から刊行)やその後の著書等を受けて、「いま必要なのは単なるアイディアの開陳ではなく、実証研究の推進に裏づけられた新たな問題 点の指摘…」と狙いを定めている。
 私の「報告四 中国の開港と日本の開港」 (193~223ページ)は原朗氏の司会で、加納啓良氏と竹内幹敏氏によるコメントと討論(~244ページ)がつく。報告内容は、①問題の所在、②アジア三角貿易にかんする従来の研究、③統計資料について、④インド財政とアヘン収入、⑤貿易統計、⑥日本開港時の東アジア市場の6項に、コメントで⑦アヘンの持つ意味、⑧通商条約への諸段階、⑨アジア三角貿易の諸相を補足して、計9点である。
 うち②は研究史の整理だが、とくに同時代人のK・マルクスが1858年に『ニューヨー ク・デイリー・トリビューン』紙に書いた4つの論文について、正確な現状分析であると同時に多くの事実誤認を含むと指摘し、それを正すためには何よりも統計を正確に把握することが不可欠として、③、④.⑤によりインドのアヘン生産・貿易とアジア三角貿易を詳論した。
 とくに表1「インド産アヘン-輸出量とそれに伴う植民地政府の財政収入」が行論に深く関連する。報告要旨を事前に渡してコメントを得たため、加納氏からは、植民地インドネシア政府がベンガル・アヘンを独占的に輸入して、特定の請負商人に売却、それがライセンス収入を含め税収の19%と高い比率を占め (1860年の事例)、その一部は本国へ送金されていた等の新しい知見を得ることができた。
 なお本書には次の4点の書評があり、関心の高さが伺える。石井孝(『日本史研究』 1983年7月)、中村哲(『歴史評論』 1983年7月)、杉山信也(『社会経済史学』1983年12月)、杉原薫(『土地制度史学』 1984年7月)である。

【「幕末開国考」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1983年)】
 このころ書いたもう1つの論考が、「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸問題を中心とし て」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1983年)である。遠山茂樹館長は、本誌創刊によせて「…横浜という地域の考察にとどまらず …世界近代史と日本近代史との相互影響・ 相互対立の接触面を代表し…館外研究者の成果も本誌に反映させたい…」と述べる。拙稿がこの創刊号の巻頭論文となった。
 本稿は論点の中心をアジア三角貿易から政治・外交史へと拡大し、日本史の領域に本格的に踏み込んだ私の初の論考である。すなわちペリーとの日米和親条約(1854年)から1858年7月29日(安政五年六月十九日)の日米修好通商条約(「安政条約」と略称)に到る外交の経緯を整理したうえで、同時代にアジア諸国が結んだ各種の条約(とくに中国が1858年に結んだ天津条約と1860年の北京条約)と比較し、安政条約のもつ不平等性は「ゆるやかで限定的」として、とくにアヘン禁輸問題に焦点を当てた。
 これまで学界で話題に上らず、したがって先行論文が皆無の、幕末日本におけるアヘン問題である。日米和親条約以来4年間にわたる各国との外交交渉におけるアヘンについて分析した。
 モルヒネを含有するアヘンは最強の鎮痛剤であり、同時に麻薬である。鎖国中の日本では三都(江戸・京都・大坂)の漢方医が前年の使用実績を長崎奉行に報告し、会所貿易により唐船(中国商船)と蘭船(オランダ商船)に発注するという、厳しいアヘン統制を敷いていた。

【連載「黒船前後の世界」(『思想』誌)】
 前著『イギリスとアジア』 (岩波新書 1980年)で書き残した幕末日本のアヘン問題は、石井寛治・関口尚志編『世界市場と幕末開港』東京大学出版会 1982年)所収の報告四「中国の開港と日本の開港」や論考「幕末開国考」(1983年)で明らかにしたが、もう少し踏み込もうと思った。
 19世紀アジア三角貿易から幕末日本のアヘン問題へ、そして開国・開港をめぐる条約交渉へ、さらに外交と戦争の国際政治へと関心が拡がるにつれて、これらを統合した歴史を描くことに思いが向かった。
 幕末の開国・開港を描いた日本史の先行研究で主に参照したのは、石井孝『日本開国史』 (1972年)である。上掲「幕末開国考」でも条約の日中比較を具体的に論じる時、大いに活用した。しかし日本史の側からだけでは、使う史料の制約から、どうしても欠落する視点が出てくる。
 日本の開国・開港には相手国があり、最初の相手はアメリカである。その解明には日米双方の史料を対等に使う必要がある。それに留まらない。「日本史のなかの開国・開港」を超えて、「世界史のなかの日本の開国・開港」に分け入るには、その前のアヘン戦争(1839~42年)や、その後も戦争を軸に進んだ中英関係を知る必要があり、それにはイギリス側や中国側の史料も必要となる。幕府の対外政策や日本人の世界観も、アヘン戦争を機に大きく変わっている。

 そのころ『思想』誌(岩波書店)に「<大正 >と<民国>」(1981年11月号)を書いた縁で、同誌編集長の合庭淳さんが雑誌連載を勧めてくれた。有り難い話であるが、連載を始めるには全体像を持ち、ある程度の書き溜めが要る。
 模索する中で、題名が決まった。ヒントは日本史家・服部之総の『黒船前後』(1933 年)である。本書は黒船到来によって大きく変わる日本を描いている。それなら私は黒船前後に大きく変わる「世界」を描こうと思い、「黒船前後の世界」とした。その瞬間、全体のイメージが浮かんだ。
 連載の第1回は「ペリー艦隊の来航」とした。1853年7月8日、浦賀沖に姿を現し た4隻のペリー艦隊との緊迫した初の接触、さまざまな要因が凝縮するこの時を、歴史の大きな転換点と考えたからである。
 日本側の動向を示す先行研究には田保橋潔『近代日本外国関係史』(1930年、増補版 1943年)等がある。一次史料は、東京大学史料編纂所編『大日本古文書』シリーズ内の『幕末外交関係文書』にあり、1853年のペリー来航から翌年の日米和親条約の締結に関係する文書は、その一から五まで(1910~14年刊)に収められ、附録(1913年~刊行) にも本編の補遺に当たる貴重な史料がふくまれている。
 ペリー艦隊来航以前の異国船到来については、幕府の『通航一覧』や『通航一覧続輯』 等に詳細な記録がある。異国船とは、長崎への定期的な往来を認めたオランダ商船と中国商船以外の国の船を指す。異国船対応令(対外令)は、4回発令されており、ペリー来航時は4回目の穏健な天保薪水令(1842年)下にあった。

【アメリカ議会文書】
 一方、ペリー艦隊の浦賀沖の動きを知るには、『ペリー提督日本遠征記』(アメリカ議 会上院文書、1856年、以下『遠征記』と略称)がある。しかし、その背後の、ペリー派遣に至る諸事情については十分ではない。通常は国務省所管の条約締結を、なぜ海軍省所管のペリー東インド艦隊司令長官に担わせたのか、また太平洋横断の航路を取らず、大西洋から喜望峰を回り、 インド洋、中国海域を経るという最長の航路を取ったのはなぜか、等々も明らかにしておきたい。
 アメリカ側のいちばんの基本史料は、膨大な量のアメリカ議会文書(上院と下院)である。『遠征記』以外の議会文書全体は、まだ日本の図書館に入っていなかった。さらに国務省や海軍省等の文書類は、ワシントンDCの国立公文書館所蔵である。
 膨大な資料を見るにはアメリカへ行くしかない、と決めかけた頃、先輩の太田勝洪さん(国会図書館勤務、のち法政大学教授)から朗報が入った。国会図書館がアメリカ議会文書を一括購入し、閲覧に供するという。何という幸運か。膨大な資料を検索するための CIS という索引(単行本)もアメリカでは刊行されていた。
 こうして国会図書館通いが始まった。ここは開架式ではなく、目録カードで番号を調べて借り出す方式である(現在はコンピューター端末から請求)。せっかく請求しても、「該当の巻号は棚にない」とつれない返事が返ってくることもあった。膨大な量の議会文書を入れた直後で、まだ利用者も少なく、係員は書庫内の配列に慣れていなかったのであろう。
 史料を読み進めるうちに新たな世界が拡がる。大規模艦隊を組むはずの船が揃わず苛立つペリー、発砲厳禁の重い大統領命令、中国海域に到着後の海軍省管轄下のペリーと国務省管轄下のマーシャル弁務官との確執等、ペリー艦隊の行動を縛る諸事情も浮かび上がってきた。
 これらの新しいアメリカ側史料で、「(一) ペリー艦隊の来航」、「(二)ペリー派遣の背景」、「(三)ペリー周辺の人びと」と書き進め、アヘン戦争以降の東アジア情勢はイギリス側史料と中国側史料をつきあわせて「(四)香港植民地の形成」、「(五)上海居留地の成長」と展開、そして翌1854年の幕府とペリーとの交渉、その先に「日本開国」……ここまでの見通しをつけて連載に踏み出した。

【連載(七)「経験と風説-モリソン号事件とアヘン戦争情報」】
 連載「黒船前後の世界」の(七)「経験と風説-モリソン号事件とアヘン戦争情報」 が「日本開国」に関する最初の論考である。冒頭に結論めいた一文を置く。
 「幕府は長崎で収集したオランダ商船と中国商船が伝えるアヘン戦争情報(風説書)を読み解き、これにモリソン号打払い事件(1837年)という<経験>を結びつけた。 それにより強硬な文政令(異国船無二念打払令)から穏健な天保薪水令(供与令)に政策変更する経緯を解明した。」と。
この政策変更は老中・水野忠邦ら幕閣のトップレベルの措置であり、江戸では泰平の世さながらに朝顔づくりが流行し、俗謡の都々逸が武士や町人を魅了、貸本屋の「読本」(よみほん)が争うように読まれていた。
 1節は、英中双方の史料を用い、アヘン戦争の発端となる地域的軍事衝突(1839年 9月4日)から南京条約締結(1842年8月29日)までの概要をまとめた。
 2節は、イギリス派遣軍のカントン沖集結を皮切りにアヘン戦争の経過を次の4期に分けて概観する。(1)1840年6月~11月、イギリス軍の北方沿海部の攪乱と華中の長江下流域の封鎖、(2)1840年11月~41年8月の広東戦争、(3)1841年8月~42年5月、華中の寧波、鎮海、定海を中心とする攻防、(4)1842年5月~8月、イギリス軍の長江遡航、大運河と交差する鎮江=揚州を越えて食糧運搬の水運を封鎖、南京(明代の首都)に迫り、南京条約締結に到る。
つづく3節ではイギリス派遣軍の具体的な作戦展開を述べる。
 4節と5節は、アヘン戦争の展開を、幕府は、いつ、どのように収集したかがテーマである。小西四郎、森睦彦、片桐一男等の先行研究と、民間に流布した写本(『阿片類集』、 『阿芙蓉彙聞』等)を整理し、中国商船がもたらす唐風説書(唐①等と表記、和解(和訳)のみを含む)とオランダ商船のもたらす情報(蘭①等と表記する和蘭風説書と和蘭別段風説書)を一覧した。
すなわち(1)最初の情報である1839年8月入手の蘭①と1840年7月入手の蘭 ②、 (2)1840年夏のほぼ同時に入手した唐①と蘭③の情報、(3)唯一の情報源となった唐②(1840年秋までの状況)と唐⑦(1841年末までの状況)の情報、これら3期の情報から幕閣が把握した戦況を検討した。
鎖国により海外渡航はできず、風説書だけを頼りに、周到かつ多角的に検討し、情勢 判断に努める幕閣の動きが窺える。加藤周一のいう<命題論理学>の手法を使い、同じ事件に関するある命題(情報)と他の命題(情報)を比べて、論理矛盾のないもの(あるいは少ないもの)を<より正しい>とする手法である。
 上掲(1)で蘭①はアヘン厳禁という清朝政府の政策に理があるとしたが、翌年の蘭②はイギリスが「仇を報んがため」に出兵したと述べる。戦争の正義・正統性が大きく転換され、幕閣はイギリス側に出兵理由があるのかと驚く。
 6節は上掲(2)1840年夏に入手した唐①と蘭③の比較検討に充てる。中国船情報は戦場での目撃情報に官報の一部等を含む。オランダ船情報の情報源はカントン、シンガポールなどの英字紙誌であり、これらをバタビア(オランダ総督府の置かれた植民地インドネシアの首都)で編集、オランダ語に翻訳したものである。
 うち1831年創刊の月刊誌”Chinese Repository”はとくに信頼性が高い。とりわけ編集に当たったイギリス人宣教師R・モリソン、アメリカ人宣教師E・C・ブリッジマンやS・W・ウィリアムズが重要である。
 モリソンは1807年にカントンに渡って中国語・中国情勢の研究に励み、” A Dictionary of the Chinese Language”(1815~1822)を上梓した。ブリッジマンは米清望厦条約(1844年)の通訳を担い、またウィリアムズは後にペリーに随行して来日する。

【戦況を冷徹に語るオランダ語情報】
 これら英文紙誌の編集・蘭訳は、アヘン禍問題やアヘン戦争の「正義」の所在には深入りせず、戦況情報を優先する。第1の交戦事件(1839年9月4日、英艦ボラージュ号の中国船への発砲)、第2の交戦事件(1839年9月12日、清朝砲台からスペイン船をアヘン貯蔵船と誤認・発砲)、第3の交戦事件(1839年11月3日、英艦ロイヤルサクソン号がカントン湾を遡航して清朝官船へ発砲)を列挙、「唐人敗北したり」や「…1艘は空虚に打ちとばされ…」等でイギリス側の圧倒的優位を伝える。
これらの艦船はイギリス派遣軍到着前の、イギリス貿易監督官付きの軍艦であり、つづく大部隊のイギリス派遣軍到着後の風説書解読の前提となる。
 7節は、これらの情報が幕閣に与えた影響について述べる。唐①はアヘンについて、当初、イギリスが紅茶等の対価として中国へ輸出、貴賤を問わず服用者が増大、諸外国の商人でアヘン貿易にかかわらない者はおらず、「現在は金銀をもって公然と売買し、怪しむべきことにただ口腹の利益をむさぼるのみで、生命を害するの恐るべきことを顧みない。アヘンを用いる者は徐々に憔悴し、ついにその生命をそこなう…」と伝える。
そして銀流出に伴う財政危機論とアヘン害毒論の2点をめぐり、アヘン厳禁派の林則徐の上奏(1833年)、黄爵滋の上奏(1835年)、さらにアヘン弛禁派の許乃済の上奏 (1836年)、黄爵滋の上奏(1838年)を経て、林則徐のアヘン没収(2万箱余、一箱あたり銀3600両)に到る経緯を伝える。
 これを読んだ幕閣は、正義は清朝側にあるものの、軍事力では中国側に勝ち目があるとは言えないと判断した可能性が高い。

【制海権を握ったイギリス海軍】
 8節は、1840年秋までを扱う唐②と、一年後の1841年末までを扱う唐⑥から幕閣が戦況をどう読みとったかの解析である。この間、オランダ別段風説書の舶来はなく、唐風説書が唯一の情報源であった。
 イギリス派遣軍が植民地インドのセポイ(イギリス東インド会社のインド人傭兵)を率いてカントン沖に到着する1840年6月からの戦争情報は、3段階に分けられる。第一段階ではカントン到着後のイギリス派遣軍が間を置かず北上して華中の定海と華北の白河入口を占領(1840年6月~11月)、第二段階は1840年11月から41年8月にかけてカントン近辺に戦力を集中、第三段階は1841年8月から翌1842年8月まで戦場を華中へと展開し、長江(揚子江) と大運河の交差する水運の要所を抑え、南京条約の締結に追い込む。
  第一段階の唐②は、1840年7月5日の交戦に触れ、寧波沖に「尹夷(イギリス)船七 十八艘到来」、交戦のすえ「舟山定海県の総兵官(指揮官)は戦死、知県(県知事)は驚愕極まり入水自死、居民は四散逃亡…」と述べる。
 第二段階の唐④は、「…いまにいたるも定海県は港をふさがれ、その地の人民はとも に貿易の便路を失い、次第に離散…」と、イギリス艦隊による封鎖を明らかにし、「広東には新たにイギリス軍百余艘の噂…」とも記す。
9節では、1840年秋から41年春までの戦況を伝える唐⑤と、1842年2月に入手 した唐⑦が伝える第三段階の情報に触れ、「…イギリスは軍艦を広東外洋の香港等に移して停泊、あるいは鎮海、寧波、定海等の一帯、二、三百里の洋面を遊弋…」と記す点に注目した。
 制海権をイギリス艦隊が掌握との情報に、海外書生と名乗る日本人が清朝官僚に成り代わって、「平夷説」、「平夷論」の2編の上奏文を発表した(『阿芙蓉彙聞』所収)。清国の敗因は「陸地の砲台からの応戦にすぎなかったことにあり、それも命中率がきわめて悪く、海戦はすべて小舟によるもの。戦艦をつくり兵士をきたえ、外洋に出て戦うことをしなかった」と分析し、今後、中国の6大港に110人乗りの大型戦艦140隻編成の大軍団を作るべしと展開する。裏を返せば、幕府の鎖国政策への批判でもある。

【モリソン号事件と<蛮社の獄>】
10節は、幕府の対外令が1791年の寛政令(薪水供与)、1806年の文化令(薪水供与の枠の拡大)、1825年の文政令(異国船無二念打払令)と変化してきたことを整理、その上で、1837年に浦賀来航のアメリカ船モリソン号(船名をイギリス人モリソンと結びつけイギリス船と誤解した)を文政令に従って打払った事件、および翌年モリソン号の目的は日本人漂流民の送還にあったと述べるオランダ風説書を契機に、高野長英、渡辺崋山などが幕政を批判し投獄・処罰された、天保10年(1839年)の言論弾圧事件<蛮社の獄>の経緯を述べる。
11節と12節では、第一にモリソン号事件と<蛮社の獄>を追いかけるように届いたアヘン戦争情報により、イギリス脅威論がどのように増幅されたか、第二に鎖国以来の幕府の対外政策にどのような修正を迫ったかについて、田保橋潔や井野辺茂雄等の先行研究を整理する。
 老中水野の諮問に対して、評定所答申は打払令の継続であった。一方、林大学頭の答申は穏健な文化令への復帰であり、両者は対立する。
13節は、イギリスが日本と中国等をどのように見ているかという点から水戸の徳川 斉昭の臣下の上書を取り上げた。すなわち清国は大国で、朝鮮・琉球等は小国ゆえ、イ ギリスは第一に日本を狙うはずであり、邪教・蘭学を禁じ、さらには日本も大型船の製造禁止を解いて海難を避け、蝦夷地の開拓に本腰を入れるべしと主張する。対外強硬派が、鎖国の柱である大型船製造の解禁に言及している点に注目したい。
 水野はアヘン戦争情報の分析から、強大なイギリス艦隊にとって江戸湾の封鎖、物流の阻止はごく容易であろうと考えた。加えて、非武装のモリソン号の来航目的を知った以上、文政令(異国船無二念打払令)の継続は無策と判断、隣国のアヘン戦争を「自国之戒」 として穏健な文化令(薪水供与令)に復した。これが天保薪水令であり、南京条約締結(1842年8月29日)の1日前であった。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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