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人類最強の敵(54)=新型コロナウィルス

 前回の(53)掲載は、8月30日の朝いちばんであった。そのころからウクライナでは南西部のヘルソン州での攻防が激しくなり、また2014年にロシアが併合したクリミヤ半島でも砲撃が激化している。

【オミクロン型対応ワクチン、9月にも接種へ 厚労省検討】
 8月29日の日経新聞によれば、厚生労働省は新型コロナウイルスのオミクロン型に対応した改良ワクチンの接種を9月中に始める検討に入った。これまでは自治体などに対して、9月に順次ワクチンを輸入し、10月半ば以降に始める想定と説明していた。全国でオミクロン型感染が広がる中、できる限り前倒しでワクチンの接種体制を整える。

 厚労省は米ファイザーと米モデルナから供給を受ける契約を結んでいる。両社とも8月上旬に厚労省への承認申請を済ませている。接種の前倒しには両社からの早期のワクチン調達が必要になる。

 改良ワクチンは従来型とオミクロン型の2種類の成分を含む。現在まん延しているオミクロン型の派生型に対して、高齢者の重症化や若者の感染、発症を防ぐ効果が期待されている。英国が米モデルナ製を承認した実績がある。

 厚労省は自治体に、2回目を打った全員を対象とする想定で準備を進めるよう求めている。予防接種法上の臨時接種として無料で受けられるようにする。接種間隔などの詳細は今後、薬事承認や予防接種法上の手続きを経て決める。4回目から5カ月空ける場合、60歳以上の対象者数のピークは12月以降になる見通し。

 
【ウクライナ、南部州で反撃 ロシア「IAEA調査に協力」】
 30日の日経新聞【ドバイ=福冨隼太郎、ワシントン=中村亮】によると、ウクライナ軍は29日、ロシアが占領するウクライナ南部ヘルソン州の奪還に向けて大規模な攻勢を開始した。同国南部に位置するザポロジエ原子力発電所をめぐっては、ロシア側が国際原子力機関(IAEA)の調査に協力する姿勢を示した。

 ウクライナメディアによると、同国軍はヘルソン州でロシア軍の最初の防衛線を突破した。ロシア軍は防衛拠点から撤退したり、後退を始めたりしているという。ヘルソン州はロシアが侵攻初期に占領を進めたが、その後、ウクライナが反攻を強めている。

 ウクライナのゼレンスキー大統領は29日のビデオ演説で「ロシアを国境まで追い出す」と述べ、ヘルソン州やルガンスク州などロシア占領下の地域を奪還すると強調した。「ウクライナに占領者の居場所はない。生き残りたければロシア軍は逃げるべきだ」とも語った。

 米軍高官は29日、記者団に対してウクライナ軍が先週末にヘルソン州でロシア軍に対する砲撃を増やしたと説明した。ウクライナ東部ではロシア軍の兵士数がウクライナ軍を上回ったが、南部では同規模に近いという。高官はウクライナ軍の攻勢を「反撃」と表現しなかったが、24~36時間後に情勢がいまより把握できるとも話した。

 ロシア国防省は同日、ウクライナ軍がヘルソンなどで大規模な攻勢をしかけ大きな損失を被ったと主張した。タス通信が報じた。ロシアのペスコフ大統領報道官は29日、ザポロジエ原発へのIAEAの調査団がウクライナ側からロシアが占領している同原発に入ると明らかにした。同氏は記者団に「ウクライナ側で安全を保証するのはウクライナだ」とする一方で「ロシア側では必要な安全が保証される」と語った。

 調査をめぐってロシア側は、ロシア軍や親ロシア派が実効支配する地域から原発を訪れるよう求めていた。調査団は週内にも現地入りし損傷などを確認する。

 ウクライナや欧米が求めている同原発一帯を非武装化することについては「話し合われない」と指摘。兵力を撤退させることについては改めて否定的な考えを示した。

 原発周辺では砲撃が相次いでおり、調査団の安全確保が課題となっている。ロシアとウクライナの双方が、攻撃は相手によるものだと非難の応酬を続けている。ロシアメディアは29日、核燃料を保管している建物の屋根がウクライナの砲撃で破損したと一方的に伝えた。

【京セラ創業者の稲盛和夫さん死去、90歳 JALの経営再建にも貢献】
 30日の朝日新聞デジタルは次にように伝えた。
「京セラとKDDIの創業者で、日本航空(JAL)の経営再建にも尽くした稲盛和夫(いなもり・かずお)さんが24日午前8時25分、老衰のため京都市内の自宅で死去した。90歳だった。葬儀は近親者を中心に執り行われた。後日、お別れの会を開く。喪主は長女金沢しのぶさん。
 鹿児島市生まれ。鹿児島大学工学部を卒業後、京都の碍子(がいし)メーカーに就職した。1959年、独立して京都セラミック(現京セラ)を設立した。97年から名誉会長。
 70年ごろ、半導体の回路を保護する入れ物にあたるパッケージの開発量産に成功した。以来、主力のファインセラミックス部品から電子部品、太陽電池、携帯電話などの分野に事業を広げ、グローバル化も進めた。創業時、28人だった従業員は、グループで8万3千人、世界30以上の国や地域に広がる。
 また、80年代に電気通信事業の自由化の論議が高まったとき、当時の電電公社による「独占はよくない」との思いから、84年に第二電電企画(後のDDI)を設立した。通信事業は畑違いだったが、毎晩「動機善なりや、私心なかりしか」と自問自答して参入を決めたという。
 2000年にはDDI、KDD、日本移動通信(IDO)を合併に導き、今のKDDIを設立した。国内の長距離電話の料金引き下げを主導したほか、携帯電話の普及にも尽くした。01年より最高顧問を務めた。」

 また30日の日経新聞によれば、「<日本をよくするには政権交代が可能な国にすることが必要>との思いで野党時代から民主党を支援。民主党が与党となった09年に行政刷新会議の議員に就任、10年からは日本航空の会長を務め、再建に奔走した。
 経営破綻した日航の再建では会長に就いてアメーバ経営を導入。コスト管理の徹底などで業績を回復させ、再上場にこぎ着けた。内閣特別顧問も務めた。
 著書は「アメーバ経営」「人を生かす」など多数。1984年紫綬褒章、97年に得度。」とある。

【ゴルバチョフ元大統領の逝去】
 31日のNHKは、ゴルバチョフ元大統領の逝去について、次のように伝えた。
「旧ソビエトの最後の指導者で東西冷戦を終結に導いたミハイル・ゴルバチョフ氏が30日に亡くなった。91歳。国際社会からは、東西冷戦を終結に導き、核兵器の削減に取り組んだゴルバチョフ氏の死を悼む声が相次いでいる一方、その業績に対してはロシアの市民から批判の声が聞かれるほか、ロシアメディアも比較的冷ややかに伝えている。
 ゴルバチョフ氏は1931年、ロシア南部のスタブロポリ地方に生まれ、共産党の要職を歴任したあと、1985年に54歳でソビエトの最高指導者にあたる書記長に就任。ペレストロイカと呼ばれた政治改革や、情報公開を意味するグラスノスチなど、閉鎖的な社会を民主化する政策を進めた。
 外交政策でも、欧米諸国などとの対立の緩和を目指す「新思考外交」を掲げ、社会主義圏だった東ヨーロッパ諸国の民主化や東西ドイツの統一を容認したほか対立が続いていた中国との関係を正常化した。
 アメリカとは核軍縮を進め、1987年にINF=中距離核ミサイルの全廃条約、1991年には、戦略核兵器の削減を定めたSTART=戦略兵器削減条約に調印、1989年12月、アメリカの当時のブッシュ大統領とともに、東西冷戦の終結を宣言した。こうした功績が評価され、翌年にはノーベル平和賞を受賞した。
 日本との関係では、1988年、モスクワを訪問した当時の中曽根前首相に対して、北方領土問題の解決を模索する考えを示し、日本とロシアの平和条約交渉のきっかけを作った。そして1991年、ソビエトの最高指導者として初めて来日し、当時の海部総理大臣と会談し、「日ソ共同声明」で、国後島・択捉島を含む北方四島を領土問題の交渉対象とすることを初めて文書で確認した。
 さらにこの時ソビエト側から、日本人と四島住民との交流を拡大するため、「ビザなし」の枠組みが提案され、翌1992年には、今につながるビザなし交流が始まった。ゴルバチョフ氏は北方四島の返還に関して譲歩は示さなかったが、それまでまったく動かなかった北方領土問題について日ソ、日ロ間で協議されるきっかけとなった。こうした北方領土問題の議論を継続することに前向きな姿勢は、日本では好意的に受け止められ、ゴルバチョフ氏は「ゴルビー」の愛称でも親しまれた。」
 また9月1日のヤフーニュースによれば、
「ゴルバチョフの父はロシア人、母はウクライナ人、妻もウクライナ系。生まれ故郷はロシア人とウクライナ人が住む小さな農村だった。今日のロシアとウクライナのねじれた関係を体現したような人物だった。
 ゴルバチョフ氏の父方の祖先は19世紀末に、ロシア内部から移住してきた。母方はウクライナ北部チェルニゴフからやってきた。祖父母はウクライナ人。したがってその娘で、後にゴルバチョフ氏を生むマリーヤさんもウクライナ人だった。ゴルバチョフ氏の母は、ロシア語の読み書きができなかった。母が独ソ戦で出征した夫に宛てて手紙を書く時は、まだ子どもだったゴルバチョフ氏が口述筆記していた。
 現在のウクライナでは、国民の約2割がロシア系とされている。ロシア語が話せる人は国民の半数を超えるという。
 旧ソ連は多民族国家だったが、現在のロシアにも182の民族が住む。ロシア人(民族)が全人口の77.71%を占めるが、同じ東スラブ人のウクライナ人の割合も1.35%。全体の3位となっている。ゴルバチョフ氏の家族史は、こうしたロシアとウクライナの強い結びつきが凝縮されている。」

 9月4日のBBCによれば、「先月に死去したソヴィエト連邦最後の最高指導者ミハイル・ゴルバチョフ氏の葬儀が3日、ロシア・モスクワで営まれた。ゴルバチョフ氏は冷戦を平和的に終結へと導いた人物として知られる。
 モスクワ中心部にある労働組合会館「円柱ホール」には多くの市民が集まり、ゴルバチョフ氏に敬意を表した。ゴルバチョフ氏の棺はその後、市内の墓地に眠る妻ライサ氏の隣に埋葬された。」

【日米「統合抑止」への変革 台湾有事想定し戦略・制度も】
 4日の日経新聞は、次のように報じた。
 【この記事のポイント】
・防衛省は概算要求で過去最大の防衛費を計上した
・新戦略は日米「統合抑止」。幅広い領域で深く連携
・ミサイルが重要。中国との戦力不均衡是正が急務
 日本の防衛が歴史的な転換点を迎える。防衛省は8月末、2023年度予算の概算要求で過去最大の防衛費を計上した。国内総生産(GDP)比で1%の上限を撤廃し、2%も視野に入る。大幅に増やす防衛費は何が必要なのか。課題をみる。
「統合抑止(Integrated Deterrence)」。日米で進む外交・安全保障戦略擦り合わせのキーワードだ。5月、日米防衛相会談ではオースティン国防長官が促し、事務方の交渉でもこの言葉が軸になっている。
 統合抑止は米国が新たに打ち出した安全保障の基本戦略で、これまでの軍事力だけではなく、同盟国の能力、サイバーや宇宙の領域を幅広く活用する。米軍単独では中国の脅威に対処できない危機感がある。過去最大となった防衛省の概算要求は、その第一歩だ。これまで日本の防衛費論議は国民総生産(GNP)比1%枠が象徴する「数字ありき」の議論や、どんな装備品を購入するのかの「買い物計画」に偏りがちだった。
 米国とより連携を深めるなら米国と補完し合う形で装備品を調達し、戦略や制度も見直さなければならない。年末に国家安全保障戦略など3つの政府文書を改定するのもそのためだ。特に台湾有事の対応が問われる。
 第1段階の統合抑止で最も重要なのはミサイルになる。
 米国は過去の条約の制約で現在、中距離ミサイルを持たない。日本から中国に届く中距離ミサイルは日米ともに保有していない。条約の対象外だった中国は1250発以上を持つとされる。「0対1250」の圧倒的不均衡の修正が急務だ。
 日本の防衛省は今回の概算要求で一つの策を示した。
 相手の射程外から攻撃できる長射程の「スタンド・オフ・ミサイル」だ。国産の「12式地対艦誘導弾」の射程を1000キロメートルに伸ばす改良費に272億円を計上した。1000発以上を量産する案が取り沙汰されている。
 政府・自民党内では22年度に沖縄県・石垣島に陸上自衛隊の駐屯地を新設し、ミサイル部隊を置く構想がある。構想通りに配備すれば沖縄の在日米軍基地や台湾に近く、中国側に届く。米国の統合抑止への目に見える関与といえるが、中国の反発も必至だ。米中対立のはざまに入る覚悟もいる。
 統合抑止は装備だけではない。インフラや制度、組織も日米がともに使えなければ機能しない。「本州にある航空自衛隊の基地を米軍の戦闘機に使わせてほしい」。今夏、米シンクタンク、ランド研究所が実施した机上演習でこんな場面があった。台湾有事の仮想シナリオで米軍幹部が自衛隊幹部に要請した。
 台湾周辺の米戦闘機は沖縄の在日米軍基地に集中する。中国の攻撃前に分散しなければ、簡単に壊滅しかねない。日本が退避場所を提供できるかが米軍の生命線になる。
 自衛隊組織の見直しも大事だ。米国が参加する北大西洋条約機構(NATO)や米韓同盟には「最高司令部」や「連合司令部」がある。トップは米軍の司令官だ。日米には統合司令部はなく指揮も別々だ。
 米韓や日米には朝鮮半島有事にどう協力して対処するかを規定する「共同作戦計画」があるが、日米の間で台湾有事に向けた計画は完成していない。装備や人員の配置、輸送や補給手段などを具体的に定めなければ統合作戦は動かせない。
 陸海空3自衛隊を束ねる統合幕僚長を務めた折木良一氏は「米国との窓口を担う統合司令官をつくるのが基本中の基本だ。危機になると統合幕僚長は防衛相や首相官邸など文官を補佐する仕事に追われる」と指摘する。
 統幕長は有事に①3自衛隊の統括、②首相や防衛相への説明、③在日米軍やインド太平洋軍司令部との調整――をすべて担う。同時並行でこなすのは非現実的だ。
 南西諸島には全長300メートル以上の米空母が寄港できる港湾設備はない。最新鋭戦闘機が発着できる堅固で長い滑走路も見当たらない。港や空港は国土交通省の所管だ。国・地方あわせて15兆円の公共投資予算で防衛向けは1900億円。従来の防衛費の概念に入らない他省庁の予算は多い。
 日本は戦後、自らは一度も紛争に巻き込まれたことがない平和国家だった。防衛費増を危険視する向きもあるが、軍事に傾斜する中国や北朝鮮、ロシアが近くにあり安保環境は厳しさを増す。必要な備えがなければ、攻撃は抑止できない。平和を守るには有事をにらんだ備えがいる。

【英国、リズ・トラス氏、3人目の女性首相誕生】
 5日の日経新聞【ロンドン=中島裕介】は、次のように報じた。
「英与党の保守党は5日、ジョンソン首相の後任を選ぶ党首選の結果、リズ・トラス外相(47)を新党首に選んだ。6日にエリザベス女王の任命を受けて、正式に首相に就任する。内政では物価高対策が最優先課題となる。ウクライナ危機への対応を巡っては対ロシア強硬姿勢を継続する見通しだ。
 故サッチャー氏、メイ氏に続く同国史上3人目の女性首相となる。一般の保守党員による投票でトラス氏が約57%の8万1326票を獲得、対抗馬のスナク前財務相は6万399票だった。トラス氏は当選後の演説で「私は減税と経済成長のための大胆な計画を実現する」と党所属議員らに訴えた。
 党首選で最大の争点だったのが、10%を超えるインフレの主因であるエネルギー価格対策だ。トラス氏はこれまでに国民保険料の引き下げなど国民の負担軽減策を掲げていた。党首選の最中に10月から光熱費が9月までと比べてさらに8割上昇するとの試算も出たことから、トラス氏は1週間以内に家計と企業への追加対策を表明する見通しだ。
 ウクライナ危機を巡って英国は、ジョンソン氏がキーウ(キエフ)に電撃訪問し、英軍がウクライナ軍の兵士を訓練するなど西側諸国の中でも支援を鮮明にしてきた。トラス氏は党首選で「ウクライナが勝利し、プーチンが失敗するまで私はあきらめない」と訴えており、ジョンソン路線を継続する方針だ。
 欧州連合(EU)離脱以降、関係が冷え込む対EU外交でも手腕が問われる。トラス氏は摩擦が続く英領北アイルランドでの通商ルールを巡る問題で、簡単に妥協しない方針で英国のEUへの強硬姿勢は続きそうだ。
 党首選に敗れたスナク氏の両親はインド系で英国初のアジア系首相を目指していた。決選投票に進む2人を決める党所属国会議員による投票では首位を維持した。だが7月上旬に財務相を辞任してジョンソン氏退陣のきっかけをつくったことなどが嫌われ、党員の支持は伸び悩んだ。
 党首選は7月上旬に、不祥事が相次いだジョンソン氏が辞意を表明したことで始まった。複数回の投票で、立候補した8人を下位候補から順番にふるい落とし、7月20日に決選投票に進む2人を決めた。」
 
【英エリザベス女王、逝去、96歳】
 9日の毎日新聞によれば、英エリザベス女王死去 96歳 在位70年。1952年から70年と約7カ月に及んだ在任期間は、英国の歴代君主として最長。世界の君主としてはフランスのルイ14世(在位1643~1715年)の72年と110日に次ぎ、史上2番目の長さだった。
 女王死去を受け、王位継承権1位の長男チャールズ皇太子(73)が新国王「チャールズ3世」として即位した。新国王は「慈しまれた君主であり、多くの人々に愛された母の死を深く悼む。英国民、そして世界の人々が喪失を感じるだろう」との声明を発表。
 女王は6日、バルモラル城でトラス新首相を任命したばかりだった。7日には医師の勧告に従って休養を取り、オンライン会合などを欠席。8日には医師の診察を受けていたが、容体悪化が伝えられる中、王室メンバーが続々とバルモラル城に集まった。
 「英国の顔」として外遊は約100カ国、260回超。71年の昭和天皇訪英の返礼として75年に訪日した。旧植民地諸国を中心とした緩やかな連合体・英連邦(コモンウェルス)の元首も務めた。

【安倍晋三元首相の国葬をめぐって】
 16日の朝日新聞デジタルは、質疑応答形式で次のように報じた。
 「世論が二つに割れたまま、安倍晋三元首相の国葬予定日が近づいています。小熊英二・慶応大学教授(歴史社会学)が、自民党政権が慣例化してきた「首相経験者の葬儀」の歴史から、問題の所在を明らかにします。
  「世論調査をみると、時が経つにつれて反対が多数になりました。旧統一教会(世界平和統一家庭連合)の問題は大きいですが、この問題がなくても賛否は割れていたでしょう」
 ――なぜでしょうか。
 「死去から2カ月も時間があいたからだと思います。安倍氏は評価が分かれる政治家でした。亡くなった直後はみんな悼む気持ちを強く持っていたとしても、時が経つとともに批判が出てくるのは自然なことです」
 「諸外国にも国葬はありますが、たいてい死後10日前後で、遺体の棺を前に行われます。戦前の日本でも、天皇の大喪は別として、明治の元勲などの国葬は死去後10日前後でした。死後2カ月もあけて行うのは、葬儀というより『しのぶ会』に近いでしょう」
 ――なぜこうした形になったのですか。
 「1980年代以降の前例を踏襲したからでしょう。首相経験者の『内閣・自民党合同葬』は死去から1~2カ月後に行われてきました。その歴史は『私物化の歴史』と呼ばれてもやむを得ない」
 ――どんな歴史でしょうか。
 「合同葬が始まるのは1980年の大平正芳氏からですが、その前に吉田茂氏の国葬と佐藤栄作氏の国民葬がありました。1967年の吉田氏の国葬は死去後11日で実施されましたが、大きな反発はなかったようです」
 ――実施まで時間が短かったからですか。
 「それもあると思いますが、終戦からわずか22年という時代状況が大きいでしょう。当時の30~40代以上は戦前・戦中に生まれ育った世代で、現在ほど『国葬』に違和感がなかったのではないでしょうか。当時の報道をみても、国葬が浮上した当初から反対している野党は見当たりませんでした」
 「またこの時期は海外でも1965年に英国のチャーチル元首相、1967年に西独のアデナウアー元首相の国葬がありました。戦後の再建を担った政治家が亡くなれば国葬は当然という雰囲気もあったでしょう」

【上海協力機構が共同宣言 イラン23年加盟、10カ国に】
 16日の日経新聞は、次のように伝えた。
 「中国とロシアが主導する地域協力組織「上海協力機構(SCO)」は15~16日、ウズベキスタンのサマルカンドで首脳会議を開いた。16日には複数の大国や地域統合による「多極的世界秩序」の強化を盛り込んだ共同宣言を採択した。イランが正式に加盟し、10カ国体制に広がることが固まった。ただ緩やかな協力組織だけに、加盟国の協調には限界がある。
 「内政干渉にはともに対抗しなければならない」。16日の首脳会議の全体会合で、中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席は台湾問題などを念頭に呼びかけた。
 SCOは2001年、ソ連崩壊後の国境地域の安定と信頼の醸成、加盟国間の協力促進を目的に設立し、合意履行の拘束力がない緩やかな協力を目指してきた。中ロのほか、カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタンの中央アジア4カ国とインド、パキスタンが加盟する。
 今回の首脳会議には加盟国とオブザーバー国(アフガニスタン、ベラルーシ、イラン、モンゴル)や対話パートナー国(アゼルバイジャン、アルメニア、カンボジア、ネパール、トルコ、スリランカ)の一部など計14人の首脳が出席した。

【中ロ首脳会談】
 16日の中日新聞【モスクワ=小柳悠志、北京=新貝憲弘】は次のように報じた。
「ロシアのプーチン大統領と中国の習近平(しゅうきんぺい)国家主席は十五日、上海協力機構(SCO)首脳会議に合わせて中央アジア・ウズベキスタンのサマルカンドで会談した。両国は欧米との対立や制裁に対し、経済面の連携を強化して対抗する構え。台湾情勢についても協議した。
 プーチン氏は冒頭、「ウクライナ危機に対し中国はバランスの取れた立場を保っている」と評価。台湾情勢を巡る米国の対応を「挑発行為」と非難し、「ロシアは『一つの中国』の原則を支持する」と強調した。
 習氏は「刻々と変化する世界を安定的に発展させるため、わが国はロシアとともに主導的な役割を果たす準備がある」と応じた。
 習氏の外遊は新型コロナウイルスの世界的大流行が始まって以来初めて。ロシアとの共闘姿勢を欧米に誇示する狙いに加え、エネルギーや食糧の確保という思惑がある。欧州連合(EU)がロシアからの石炭や石油、天然ガスの輸入制限を打ち出す中、ロシアも中国市場を開拓することが喫緊の課題だ。」

【中ロ、共同声明出さず 首脳会談、かりそめの結束 習氏、侵攻巡り一線】
 17日の日経新聞【北京=羽田野主】は次のように伝えた。
「ロシアによるウクライナ侵攻後初めてとなる中国との首脳会談は15日、2月の前回会談とは異なり、共同声明を出さないまま終了した。対米での結束を演出したものの、ウクライナ侵攻を巡る温度差は明らかだ。中国は貿易では協力しつつも軍事支援には一貫して慎重で、かりそめの結束をあらわにした。
 15日、ウズベキスタンのサマルカンドでの会談の冒頭で、ロシアのプーチン大統領は「ウクライナ危機に関する中国の懸念を理解している」と話した。ウクライナ情勢への中国の「懸念」に異例の言及をした。
 プーチン氏は「ロシアは(中国大陸と台湾は1つの国に属するという)『一つの中国』の原則を断固として守っている」と表明し、中国の習近平(シー・ジンピン)国家主席が重視する台湾問題にも配慮を示した。
ウクライナ侵攻直前の2月の対面会談では「両国の友情に限界はない」と蜜月ぶりを強調する共同声明を発表していた。現在はウクライナ軍が南部や東部で攻勢をかけ、米欧の経済制裁で経済減速も止まらない。プーチン氏の会談での発言はロシアの苦境を映す。
 一方、中国側は両氏が会談する事実すら当日の外務省記者会見でも公表しなかった。習氏は会談中もうつむいて紙を読み上げる場面が目立った。ロイター通信によると、15日のプーチン氏らとの夕食会も欠席した。
 中国共産党機関紙、人民日報の16日付の1面トップ記事は中国・ウズベキスタン首脳会談で、中ロ首脳会談はその下の位置だった。中ロ会談の記事は両首脳が握手していない写真を載せるなど、ロシア側の積極姿勢とは温度差がある。
 なかでも輸入の伸びが目立つ。8月の輸入は6割増の112億ドル(約1兆6000億円)で過去最大を記録した。主要品目である原油の輸入量は5月以降、ロシアがサウジアラビアを上回っている。ロシア産原油は制裁の影響で割安になっており、低コストで資源を調達できているとみられる。
 ただ中国は軍事支援には慎重だ。中国人民大学国際関係学院の時殷弘教授は「ウクライナとの戦争に中国を巻き込もうとするロシアの試みを中国政府は断固拒否する」と指摘する。
 習指導部はロシアに傾倒しすぎると米欧が対中圧力を強め、制裁を発動しかねないと警戒する。中国はエネルギーの購入でロシア経済を下支えしているが、ウクライナで戦況が悪化すれば支援を拡大するのは難しい。

【プーチン氏、早期停戦に言及=インド首相の侵攻批判に】
 17日の時事通信は、AFP通信などを引いて、「ロシアのプーチン大統領とインドのモディ首相は16日、ウズベキスタンのサマルカンドで会談した。モディ氏は「今は戦争の時ではない」とプーチン氏に伝え、ロシアによるウクライナ侵攻を間接的に批判。プーチン氏は「懸念は理解する」と応じた上で、早期の停戦に努めると約束した。
 プーチン氏がウクライナ側に条件を明示せず、停戦に言及するのは異例。ウクライナ侵攻を決断してから半年以上が経過し、今月に入ってからはロシア軍が北東部ハリコフ州で撤退を余儀なくされるなど、ロシア側に不利な戦況が続いている。プーチン氏は「敵側が停戦交渉を拒否し、目的を軍事的に達成しようとしている」と述べ、ゼレンスキー政権に長期化の原因があると持論を展開した。」

【岸田内閣支持、最低の43% 旧統一教会調査「不十分」79%】
 18日の日経新聞はテレビ東京と一緒に16~18日の世論調査を行い、その結果を次のように報じた。岸田文雄内閣の支持率は43%で8月調査(57%)から14ポイント低下した。2021年10月の政権発足後で最低となった。内閣を「支持しない」と答えた割合は49%だった。
 「支持しない」が「支持する」を上回ったのは岸田政権で初めて。内閣支持率は66%だった5月から4カ月連続で下がった。21年10月以降で一番低かったのは新型コロナウイルスの感染拡大「第6波」の最中だった今年2月の55%だった。
 今回は自民党と世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の関係への懸念が影響した。党が公表した所属国会議員と旧統一教会の接点を巡る調査結果について「十分だとは思わない」との回答が79%にのぼり、「十分だと思う」は14%にとどまった。
 安倍氏の国葬を巡っては「反対」が60%で、「賛成」の33%を上回った。同趣旨の質問をした7月の調査はそれぞれ47%、43%で拮抗していた。首相が国会で国葬の理由を説明したものの理解は広がっていない。

【英女王国葬、各国元首含む2000人参列 沿道に群衆 最後の別れ】
 20日の[ロンドン 19日 ロイター] によると、エリザベス英女王の国葬が19日、ロンドンのウェストミンスター寺院で営まれた。バイデン米大統領を始めとする世界各国の首脳や王族ら500人を含む2000人が参列し、英歴代君主として最長の70年にわたる在位で生涯を通じ献身した女王に敬意を表した。国葬では聖書の朗読や聖歌の斉唱が行われ、全土での2分間の黙とうに続き、英国の国歌が斉唱された。
 国葬終了後、王室の旗がかけられた女王のひつぎは砲車に乗せられ、バッキンガム宮殿周辺を行進。英国会議事堂の大時計「ビッグベン」の弔鐘が鳴り響く中、チャールズ国王らがひつぎと共に歩いた。ひつぎはその後、ウィンザー城に到着。19日夕には城内にある聖ジョージ礼拝堂で近親者による礼拝が執り行われた。女王のひつぎは昨年99歳で亡くなった夫のフィリップ殿下のひつぎとともに、女王の父親であるジョージ6世、母親のエリザベス王太后、妹のマーガレット王女が眠る礼拝堂に納められた。沿道には数万人の市民が集まり、女王のひつぎを見送った。

【バイデン大統領、中国が台湾侵攻なら米軍が防衛】
 19日の日経新聞【ワシントン=坂口幸裕】は次のように伝えた。
「バイデン米大統領は18日放送の米CBSテレビのインタビューで、中国が台湾を攻撃すれば米軍が防衛すると明言した。中国が台湾へ武力行使した場合の対応を明確にしない歴代政権の「あいまい戦略」の修正と受け止められかねない発言だ。
 番組の司会者から「米軍は台湾を守るのか」と問われ、バイデン氏は「はい(YES)、もし実際に前例のない攻撃があれば」と答えた。「(ロシアが侵攻しても派兵しなかった)ウクライナと違って、米軍は中国の侵攻があった場合に台湾を守るということか」と聞かれても「はい」と表明した。またバイデン氏は「一つの中国政策があり、台湾は自らの独立について自身で判断する。我々は独立を促していない。台湾が決めることだ」と述べた。」

【苦境のプーチン氏が予備兵招集、核の脅しも 緊張高めるロシアの戦術】
 21日の朝日新聞デジタルは、次のように報じた。
 「ウクライナ侵攻をめぐってロシアのプーチン大統領は21日、国民向けのビデオ演説で「部分的な動員令」の発動を宣言し、軍事訓練経験のある予備兵の市民を招集することを明らかにした。さらにウクライナ東部、南部の親ロシア派が「ロシアへの編入」を求めて実施する住民投票を支持すると表明。ウクライナ領土の一部併合を示唆した。苦境に立つ戦況の打開を図る考えだが、対立の激化と侵攻の長期化は必至だ。

 ショイグ国防相は21日、ロシアの予備兵は2500万人に上るとし、新たに招集される予備兵はその1・1%にあたる約30万人だと述べた。2月の侵攻開始当時、ロシア軍はウクライナ国境付近に最大19万人を集結させたと米政府はみており、その後の死傷者は半数近くの7万~8万人にのぼると推定している。

 プーチン氏はこれまで、ウクライナ侵攻は限定的な軍事作戦だと国内で説明してきた。そのため、徴兵の導入が可能な総動員令が出せず、長期化する侵攻での人員不足は明らかだった。「部分的」とはいえ、動員拡大を図ったことでロシアの戦略は転換点を迎える。」

【台湾外交部長「中国の野望、台湾にとどまらない」と発言】
 22日の日経新聞【台北=中村裕、龍元秀明】によれば、「台湾の呉釗燮・外交部長(外相)は21日、日本経済新聞の取材に「中国の野望はもはや台湾だけでなく他国にも向けられている」と述べた。8月初旬のペロシ米下院議長の訪台以降、「中国の軍事的脅威は一段と高まった」との認識を示し、対中国で国際連携の必要性を訴えた。」 ペロシ氏の訪台以降、台湾の外交トップが日本メディアの単独インタビューに応じるのは初めて。
 中国については「権力基盤となってきた(高い)経済成長が鈍化している今が、台湾にとっては一番危ない」と述べた。習近平(シー・ジンピン)国家主席が国内での求心力を高めるため、台湾に対して一段と強硬姿勢に出る可能性に警戒感をにじませた。
 「一方、中国に対抗するため、米国との連携の強化が今後も必要だとの認識を示した。特に経済面では、台湾は先端半導体の世界生産の9割を占め、世界のサプライチェーン(供給網)で欠かせない役割を果たす。呉氏は「民主主義陣営が今後、半導体のサプライチェーンで強固な関係を築ければ、それは権威主義国からの脅威の回避につながる」と述べた。「例えば、米国が(ある国に対し)半導体の供給を止めれば、台湾も半導体の供給を止めて連携する」と語り、米国などとの緊密な連携が重要になるとの認識を示した。」

【米国は金利引き上げ、日本は緩和を維持】
 22日の日経新聞【ワシントン=高見浩輔】は、「FRB、3回連続の0.75%利上げ 年末4.4%で景気に試練」の見出しで次にように伝えた。「米連邦準備理事会(FRB)は21日の米連邦公開市場委員会(FOMC)で0.75%の利上げを決めた。通常の3倍の利上げ幅で、6月に約27年ぶりに実施してからは3会合連続となる。高インフレの長期化を回避するための急ピッチの金融引き締めにより、景気の悪化懸念は一段と強まりそうだ。

 同じ22日、日経新聞は「日銀、大規模緩和を維持 コロナ対応の資金繰り支援延長」の見出しで次のように報じた。「日銀は21~22日の金融政策決定会合で、大規模な金融緩和策を維持する方針を決めた。円安や資源価格の高止まりで日本でもインフレ圧力が高まっているが、新型コロナウイルス禍からの景気回復を下支えするため緩和的な金融政策を据え置く。新型コロナの影響を受けた中小企業に融資する金融機関向けのオペは延長を決めた。大幅な利上げを続ける米国と、日本の金融政策の違いが鮮明となり、日銀の発表後、ドル円相場は一時1ドル=145円台と24年ぶりの安値水準まで下げた。」

【円買い・ドル売りの為替介入に踏み切る】
 これらの状況を受けて、財務省の神田真人財務官は22日午後、外国為替市場で円相場が一時1ドル=145円台に下落したことを受け、「相場が乱高下している。過度な変動、無秩序な動きは容認できない」と記者団に述べた。為替介入の可能性を問われて「スタンバイの状態と考えていい。いつでもやる用意がある」と語った。
 この日の夕方、政府・日銀は1998年6月以来、約24年ぶりとなる円買い・ドル売りの為替介入に踏み切った。145.84円が140.75円と一挙に円高となったものの、その後のロンドン市場では141.05とまた戻しているため、介入の効果は十分に測れないという。
 22日夜、鈴木俊一財務相は介入の実施後に財務省内で記者会見し、為替介入に踏み切ったと表明した。為替は原則として市場で決まるものだと前置きしつつ、「投機による過度な変動が繰り返されることは決して見過ごすことができない」と理由を述べた。介入が日本単独かどうかや規模、タイミングなどについては明言しなかった。また鈴木氏は「引き続き為替市場の動向に高い緊張感を持って注視する」と語り、「過度な変動に対しては必要な対応をとりたい」と強調した。
 同じ日の深夜、日経新聞【ニューヨーク=秋山裕之】によると、ニューヨークにいた岸田首相は「今後の対応として「過度な変動に対しては断固として必要な応をとりたい」と強調し、「投機による過度な変動が繰り返されることは決して見逃すことができない」と介入の理由を述べた。「(対ドルの円相場が)1年で30円以上円安に動いたのは過去30年ない状況だ」と話した。
 しかし為替介入には限界があると指摘する声もある。介入の原資の問題がある。政府は外貨準備としてドルや米国債を持っており、これを原資に円を買ってドルを売る介入を実施する。外貨準備が介入可能な金額の上限となる。外貨準備は8月末時点で約1.29兆ドル(185兆円)程度あり、一見潤沢にみえるが国際決済銀行(BIS)の2019年4月の調査によると、日本の外国為替市場の1営業日あたりの平均取引高は約3700億ドルだ。ドル以外の取引も含む金額だが、単純計算で外貨準備はその3日分ほどしかない。
 野村総合研究所の木内登英氏は「外貨準備も現実的にはすべてを使うわけにはいかず、持続的な効果はない」とみる。投機筋との攻防は長引く恐れがある。投機筋は今回の円安が、世界のファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)に沿ったものという点を円売りのよりどころとしている。

【入国者数の上限撤廃、10月11日から 岸田首相表明】
 22日深夜の日経新聞【ニューヨーク=秋山裕之】によると、岸田首相は22日、訪問中のニューヨークで記者会見し新型コロナウイルスの水際対策を巡り1日あたりの入国者数の上限を撤廃すると表明した。個人旅行も解禁し、査証(ビザ)取得は短期滞在なら免除する。いずれも10月11日に実施する。
 
 円安効果を生かして秋冬の観光需要を取り込み、インバウンド(訪日観光客)拡充による経済浮揚につなげる。主要7カ国(G7)のうち新型コロナ対策で入国者数を制限しているのは現時点で日本だけだ。首相は国内の観光代金を補助する「全国旅行割」や、チケット料金を割り引く「イベント割」も同日に始めると言明した。「コロナ禍で苦しんできた宿泊業、旅行業、エンタメ業などを支援する」と語った。

【トヨタがロシア撤退 侵攻長期化、日本の車大手で初】
 23日の日経新聞によれば、トヨタ自動車は23日、ロシア事業から撤退すると発表した。ロシアのウクライナ侵攻を受け3月4日からサンクトペテルブルクにある工場を一時停止していた。日本の自動車メーカーが撤退方針を明らかにするのは初めて。ウクライナ侵攻の長期化と地政学リスクの高まりを受けて、事業の整理の決断を迫られる企業が増えそうだ。
 トヨタはロシアで2021年、世界生産台数の約1%にあたる8万台を生産、11万台を販売していた。07年からロシア西部のサンクトペテルブルクで現地生産を始め、21年は多目的スポーツ車(SUV)「RAV4」などを生産した。
 トヨタ以外では日産自動車がロシア工場の稼働休止を12月末まで延長することを決定。三菱自動車も同様に生産を止めているが、事業の一時休止にとどまり撤退の判断には至っていない。

【ロシアで再び動員令に抗議デモ、750人拘束 反発拡大】
 26日の日経新聞によれば、ロシアで24日、同国軍のウクライナ侵攻を巡ってプーチン大統領が21日に署名した部分動員令に反対する抗議行動が広がった。21日夜に続いて24日も各地で街頭デモがあり、治安当局により750人を超える市民や活動家が拘束された。ロシア社会に動員令への反発と不安が広がっている。
 独立系の人権団体「OVDインフォ」によると、モスクワ時間24日午後7時(日本時間25日午前1時)の時点で、国内32都市で約750人が治安当局によって拘束された。特に首都モスクワでは拘束者が380人を超え、サンクトペテルブルクでも120人を超えた。
 24日の抗議行動は、社会団体「ベスナ(春)」が21日に続いて呼びかけた。21日夜の抗議行動では各地で合計約1400人が拘束された。23日も各地で小規模な街頭デモがあったと伝えられた。
 SNSのテレグラム上では、若者が拘束される映像だけでなく、モスクワで高齢の女性が警官隊に激しく抑えられる光景も投稿された。サンクトペテルブルクではこん棒だけでなく電気ショックを与えるスタンガンのような道具が使われたという。
 ロシアではウクライナへの軍事侵攻が始まった2月24日直後から3月にかけて、各地で抗議行動が続いた。その後は治安当局の厳しい取り締まりや、新型コロナウイルスの感染拡大を理由にした大規模集会の禁止措置などで抑え込まれていた。

【イタリア総選挙、極右政党が第1党に】
 26日の日経新聞【ローマ=佐竹実】によれば、イタリアの総選挙は25日、投開票された。伊公共放送RAIによると、メローニ党首率いる野党の極右「イタリアの同胞(FDI)」が第1党になる見通しだ。右派連合を組んでいる極右「同盟」や、ベルルスコーニ元首相率いる中道右派「フォルツァ・イタリア」と合わせると、上下両院で議席の過半を確保したもようだ。メローニ氏は同国初の女性首相となる可能性がある。
 メローニ氏は26日未明にローマのホテルで「国民は選挙を通じて、我々が率いる政権への明確な支持を示した」と述べ、勝利宣言をした。極右の政治家が国のトップに選出されれば、第2次世界大戦後の欧州主要国では極めて異例となる。メローニ氏は保育所の無償化や子ども手当の増額などを掲げ、記録的なインフレに直面する国民の支持を集めた。主要政党として唯一、2021年2月に発足したドラギ政権に加わらずに同政権を批判してきたことも得票につながった。

【領事拘束、ロシアに抗議 外相「違法活動全くない」】
 27日の日経新聞によれば、林芳正外相は27日、ロシア当局に一時拘束された在ウラジオストク日本総領事館の領事について「違法な活動をした事実は全くない」と述べた。森健良外務次官がガルージン駐日大使を呼んで抗議し、謝罪と再発防止を求めたと明らかにした。
 林外相は、領事に関し「終始、目隠しをされたまま両手および頭を押さえつけて身動きがとれない状態で連行され、威圧的な取り調べを受けた」と説明した。「極めて遺憾だ」と非難した。
 松野博一官房長官は同日の記者会見で、領事が28日までにロシアを出国する予定だと話した。外交官の追放で両国が応酬する事態になれば日本がロシアに置く大使館に影響する恐れもある。在留邦人や現地企業の保護といった業務に支障をきたし、情報収集の能力が低下する可能性がある。

【ロシアからのガスパイプライン損傷、「破壊工作」か】
 同じ27日の日経新聞によれば、ロシア産天然ガスを欧州に輸出する海底パイプライン「ノルドストリーム」の運営会社は27日、パイプラインに「前例のない」損傷が生じ、復旧の見通しが立たないと明らかにした。デンマーク当局は、ガス漏れの発生した海域の航行を禁止する措置を講じた。運営会社はロシア国営ガスプロムの子会社。損傷はノルドストリーム「1」と「2」の両方で見つかった。
 迫りくる冬に向かい、欧州各国は天然ガスの確保に神経質になっている矢先の出来事であり、一刻も早い原因究明と修理復旧が望まれる。

【安倍元首相の国葬】
 27日午後2時から日本武道館で安倍元首相の国葬が行われ、約4200人が参列した。世論調査でANNは賛成30%、反対54%と伝え、NHKは32%、57%と反対が多いなかでの国葬であったが、献花する市民の長蛇の列に何時間も延長した。
 開会の辞に続く1分間の黙とうの後、安倍氏が掲げた経済政策「アベノミクス」や外交・安全保障政策「自由で開かれたインド太平洋」、安全保障法制の制定などにかかわる映像が流れた。
 葬儀委員長を務めた岸田首相は、「あなたが敷いた土台のうえに持続的ですべての人が輝く包摂的な日本、地域、世界をつくる」。首相は遺志を引き継いで政権運営にあたると述べた。

 反対を叫ぶグループと参列する人たちが静かに並存する東京都心部の映像が世界の人たちの目にどう写ったのだろうか。ロシアによるウクライナ侵攻の映像を見慣れた人たちには、意見の違うグループの静かな並存は驚くべき光景であったに違いない。「国民の分断を招いた国葬」(朝日新聞夜ニュースレター)ではなく、多様性の表れと見る方が現実に近いのではないか。

 この間、以下の番組を視聴することができた。(1)BS6報道1930「国力低下し地位転落も…日本外交の”武器“とは何か? 林芳正外相直撃」8月30日。 (2)BS世界のドキュメント「真実こそ私たちの武器 リトアニア フェイクとの闘い」9月1日。 (3)報道1930「極右思想家の娘暗殺の裏で何が…侵攻長期化とプーチン氏にかかる圧力」1日。 (4)BS世界のドキュメンタリー選「イラクの失われた世代 ISの子どもたちは今」1日。 (5)報道1930 2日。 (6)週刊ワールドニュース(8月29日~9月2日)3日。 (7)NHKスペシャル「玉鋼(たまはがね)に挑む 日本刀を生み出す奇跡の鉄」3日。 (8)BS1グローバルアジェンダ「核戦争 いま危機を乗り越えるために」4日。 (9)NHKドキュメント「休診日に会おうぜ!~毒舌院長「大丈夫みんなできない」~」5日。 (10)NHKスペシャル「日本を襲う三重苦、米中景気不安に物価高、円安加速で最悪シナリオ」5日。 (11)BS1映像の世紀「映像プロパガンダ戦 嘘と嘘の激突」5日。 (12)報道1930「徹底的にロシアを叩け…カギ握る米供与の兵器」6日。 (13)報道1930「【旧統一教会】山上家の実情知るキーマン”元奈良教会長“が初証言」7日。 (14)報道1930「国葬問題、国会追及…」8日。 (15)NHK総合アナザーストーリーズ「東大安田講堂事件 あのとき学生は何と闘ったのか」9日。 (16)週刊ワールドニュース(9月5日~9日)10日。 (17)報道1930「中国人民解放軍のいま 40年間”実戦経験なし“ 人民解放軍の実力」12日。 (18)報道1930「謎のロ軍の精鋭<第3軍団> <ウクライナ反撃の主役・機甲部隊>」13日。 (19)報道1930「中ロで広がる国力格差 苦境のプーチン氏に習氏が差し伸べる手は?」15日。 (20)百年インタビュー「稲盛和夫」15日。 (21)報道1930「アメリカ中間選挙の行方 トランプ氏は大統領選挙に出馬せず?」16日。 (22)NHKスペシャル「”染紅“ 変貌する香港 <自由と民主>が消えるとき」15日。 (23)週刊ワールドニュース(9月12日~16日)」17日。 (24)NHKスペシャル「”中流危機”を超えて「第1回企業依存を抜け出せるか」18日。 (25)報道1930「エリザベス女王国葬に英国民<最後の別れ> 新国王を待つ課題は?」19日。 (26)NHKクローズアップ現代「築50年の空き家に入る入居者ぞくぞく 空き家の新たな活用法とは?」20日。 (27)報道1930「予備役動員プーチン氏 核は本気? 戦争新局面 変革兵器供与加速か?」23日。 (28)ETV特集「ゴルバチョフの警告」24日。 (29)日中2000年 戦火を越えて【前編 知られざる修復のシナリオ】24日。 (30)週刊ワールドニュース(9月19日~23日)」24日。 (31)「あなたと共に生きたい 細井恵美子さん91歳 介護現場への想い」25日。 (32)報道1930「【窮地のプーチン氏】ロシア正規軍崩壊か」26日。 
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所蔵品展「あらためまして、臨春閣です」

 2022.8/26(金)~10/4(火)
 ※参考 臨春閣特別公開 9/17(土)- 9/25(日)

 三溪記念館で所蔵品展「あらためまして、臨春閣です」が開催中である。担当は中村暢子学芸員。臨春閣を主語にした擬人法を用いて、みなさまを巧みに案内している。私もそれに導かれて会場を回りたい。

第1展示室
プロローグ
 あらためまして、臨春閣です。
 本日は、三溪園に足をお運びくださり、ありがとうございます。
 私、臨春閣と申します。自分で言うのもなんですが、「春に臨む」と書くこの名前、素敵でしょう?
 元々は大阪にあったんですが、第二の親である原三溪さんが、この横浜の地に私を移されたんです。
 引越しが大変だったんじゃないかって?そうなんです。私、三つの棟からできていますし、かっこいい二階もついてますから。しかも、移築にあたって、三溪さんは各棟の配置を入れ替えたんです。私も最初は驚きました。どうなってしまうのかしら…と。
後で聞いたことですが、庭園の地形と景観に合うように、敢えて配置を変えられたそうです。今では気に入ってますよ。園のランドマークである三重塔も望めますし。
 長々とごめんなさい。昭和の大修理以来のメンテナンスを経て、久しぶりにお披露目の機会を得たものですから、うれしくて、つい。
 400年近く生きていますので、いろいろなことがありました。私のたどった歴史については、これから展示で紹介していきます。
どうぞご覧ください。

「花鳥人物彫扉」
臨春閣の二屋の廊下に取り付けられていた扉です。朝鮮最後の王朝、18世紀頃の朝鮮・李朝後期のものかと思われます。画面が4つずつに区切られ、竹・ざくろ・牡丹・梅・芙蓉・水仙のほか、人物が浮き彫りにされています。周囲も唐草や唐花で装飾され、彫りの素朴さと華やかさが凝縮されています。

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◆最初の名前は八州軒
臨春閣は、移築前は大阪の春日出新田(現・大阪市此花区)にあり、八州軒と呼ばれていました。
この名は、摂津・河内・和泉・紀伊・淡路・播磨・山城・大和の八州を一望できたことに由来し、当時は清海氏が所有していました。
◆三溪園に移るまで
原三溪が八州軒を購入したのは、明治39(1906)年。このとき三溪は38歳。三溪園の外苑を一般に公開した年でもありました。
所有者の清海氏から、三溪が懇意にしていた古美術商の今村甚吉に売込みの話があり、今村が三溪に話を持ちかけ、仲介役となったようです。
三溪が今村に宛てた書簡から、入手に至るまでの過程をみていきましょう。

原三溪から今村甚吉へ宛てて送った書簡
 原三溪は、明治39(1906)年に臨春閣を購入していますが、その経緯を知る手がかりは、三溪が今村甚吉に宛てた書簡だけです。
 書簡は8通確認されており、臨春閣について最初に記述が見られるのは、明治38 (1905)年3月19日です。このときの文面からは、あまり興味がなさそうですが、続いて同年5月16日、7月27日、8月14日、10月2日、10月6日、12月4日と、次第に関心を高めている様子と交渉の過程がわかります。
3月19日 三溪 → 今村甚吉
 大坂口桃山(臨春閣)については目下、必要ない
 八州軒は当時かなり荒廃しており、買い手がつかないほどだったのかもしれません。そのためか、三溪も当初は興味を示していなかったようです。

5月16日 三溪 → 今村甚吉
 建築一覧の上、絵図を取り寄せてほしい
 3月の時点では購入の意思が見られませんでしたが、この2ヶ月の間にとても前向きな姿勢で検討している変化がうかがわれます。
*このとき制作された絵図が、次のコーナーで展示している「春日出新田建築図」と考えられています。

7月27日 三溪 → 今村甚吉
●価格交渉を行う
3万円以内におさめられないか。
八州軒ははじめ、3万8千円で売り込まれたようです。三溪は移築のための費用を見込み、総額で3万円以内におさめたいと考えたようで、強く価格交渉を行っています。

● 部屋の配置について
間取りの変更が必要である

● 取り寄せた絵図について
建築規模がわからないので、改めて自分で確認したい。
 
8月24日 三溪 → 今村甚吉
購入したく考えているが、支払いは来年度まで延期してほしい
明治30年代後半から、三溪の美術品購入は盛んになっており、この時期、大きな買い物が二品もかさんでいるので…とも述べています。

10月2日 三溪 → 今村甚吉
● 再度、価格交渉を行う
どこまで値引きが可能だろうか。確認してほしい。

今村甚吉宛書簡(原三溪)明治38年10月2日(部分)
大坂の桃山御建築ハ
実際ハ何程迠ニ
見切り可申候哉確
たる処御突止メ被下度候

大坂の桃山御建築(臨春閣)は実際はいかほどまでに見切れるものだろうか。確たるところ、お突き止めいただきたいという趣旨のことが述べられています。
 ここに記される「見切り」が何を示しているのか明確ではありませんが、続く10月6日の書簡で、価格交渉を行っているため、どこまで値引きが可能かということと考えられます。

10月6日 三溪 → 今村甚吉
● さらに価格交渉を行う
3万円ではまだ高い。2万円で購入したいと考えている。
先方との交渉に尽力してほしい。

所有者の清海氏は、襖絵に価値があると言っているようだ。
君の見立てはどうか。率直に意見を聞かせてほしい。
その上で熟考する。

11月11日 三溪 → 今村甚吉
● 購入の契約を取り交わすための最終確認
契約書の案を作成したので、公正人に確認をお願いしたい。
契約が決まれば、すぐに1万円をお送りする。

12月14日 三溪 → 今村甚吉
● 契約は成立したものの、取引が遅れており、心配になる。
ご心労のほど、お察しする。
しかし、支払いの手続きが延期になっており、心配している。
取引が完了したら、すぐに電信にて知らせてほしい。
 
春日出新田建築図
明治38(1905)年
移築前の大坂春日出新田時代の建築図。三溪が購入の交渉の中で描かせた、明治38(1905)年5月16日の書簡に登場する「繪図」にあたるものと考えられます。
この建築図から、本瓦葺であった屋根が桧皮(ひわだ)葺と杮(こけら)葺へ改められ、三つの棟の構成や襖絵も一部替えられたことがわかります。三溪園以前の臨春閣の姿を知ることができる、貴重な図面です。

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三溪園天瑞院内古建築の由来及説明 昭和9(1934)年
 三溪が園内のそれぞれの建物の由来書をまとめ、印刷したものです。一般に向けて配布したかどうかは不明ですが、三溪がどのような思いで古建築の蒐集にあたったかがわかります。
 各建物の来歴について詳しく記載があり、三溪が建物の歴史やストーリーを重視していたことがうかがえます。特に、臨春閣については、豊臣秀吉ゆかりのものであることが記されており、三溪が秀吉の聚楽第遺構と思っていたことが確認できます。
 
臨春閣・月華殿・聴秋閣図面
 内苑の古建築である、臨春閣と月華殿、聴秋閣の図面です。内苑の入口に位置する、三溪が住まいとした白雲邸から、臨春閣、月華殿を経て山上の金毛窟までは、かつて廊下ですべて繋がり、白雲邸を基点として住まいの延長に古建築が配されていました。
 本図面には、白雲邸は記されていませんが、臨春閣から月華殿までの廊下をみてとることができます。


第2展示室
◆三溪園での愛称は桃山御殿
 三溪は、八州軒を豊臣秀吉によって建てられた聚楽第の遺構の一部と考え、園内に移築してきました。そのため、臨春閣は通称「桃山御殿」とも称されていました。
 三溪は、秀吉の時代、つまり桃山時代の美意識を求め、内苑の造園にあたったと考えられています。また、美術工芸の方面でも秀吉関係の書状や調度を集めました。

原三溪 「桃山史料臨春閣蔵品」
 原三溪自筆による桃山史料の蔵品目録です。三溪は臨春閣を「桃山御殿」と呼び、秀吉ゆかりの美術工芸品を集めて「桃山史料」と分類し、管理していました。
 この目録が記録された時期はわかりませんが、大正12(1923)年に起きた関東大震災後、所蔵品の所在確認を兼ねて、まとめられたものかもしれません。

太閤脇息
桃山時代  〔16世紀後半~17世紀初め〕
 三溪が秀吉ゆかりの調度として収集したものです。脇息とは、座った時にひじを掛け、からだをもたせかけて休息するために使う道具で、正倉院にも遺品がのこります。
 菊桐文はもともと天皇の紋章でしたが、豊臣秀吉はじめ、武家でも好んで用いられた文様です。

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四弦琵琶 伝淀君使用 桃山時代  〔16世紀後半~17世紀初め〕
 豊臣秀吉の側室である淀(1569?-1615)が使用したという伝来がある琵琶で、臨春閣に三溪が飾っていた写真ものこされています。
 琵琶は中国に由来し、日本では奈良時代、雅楽とともに伝来しました。この琵琶は、棹の上部が後ろへ曲がった曲頚(きょくけい)の四弦琵琶です。

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豊太閤古塔の手紙  文禄3(1594)年8月23日
 豊臣秀吉(1537-1598)こと豊太閤(ほうたいこう)が大和郡山城主であった甥の羽柴秀保に宛てた手紙です。
秀吉は晩年に伏見城を築き、内部を侘び茶の利休好みにしつらえ、「滝の座敷」と呼ばれる部屋を設けました。手紙では座敷から眺める古い塔の趣向について指図をしています。臨春閣から三重塔を眺める様子と似ており、三溪が参考にしたかもしれません。

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豊臣秀頼侯御母堂淀殿和歌扇子(桃山時代)
 黒漆の扇子です。扇面には金銀の切箔があしらわれ、葦の図様が描かれた上に、和歌が記されています。
住吉の岸に/よる波/夜るさへや/
ゆめのかよひ路/人めよくらむ
「大坂夏の陣」で豊臣家が敗れたことから、淀殿は、息子の秀頼とともに自害しています。

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◆臨春閣の障壁画
 臨春閣の外観は、屋根の素材や形、池に面して3つの棟を奥にずらしながら連結させた建物の配置など、三溪が自ら理想とする形に変えていますが、内部を彩る障壁画や数寄屋風書院造りの意匠等は、移築前のものをほぼ踏襲しています。
 各部屋の障壁画は、狩野派などによる江戸時代の漢画が中心です。ここでは、第二屋の障壁画を紹介します。

狩野 探幽(1602-72)「琴棋書画図」 江戸時代・前期
*臨春閣 第二屋「琴棋書画の間」北川襖3面
 第二屋「琴棋書画の間」の襖絵です。 「琴棋書画」とは、古来、中国で高士(こうし)の風流事として尊ばれた嗜みで、琴は音楽、棋は囲碁、書は読書や書、画は鑑賞や描くことを指します。
 幅の広い壁画と4面の襖に、4種類の場面が描かれています。
展示している場面は、欄干に手をかけ、リラックスした姿で水辺の景色を眺めている高士の姿を表しています。

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伝・狩野 永徳「芦雁図」
伝・狩野 永徳(1543-1590)
江戸時代・前期
臨春閣 第二屋「浪華の間」西側襖3面
 第二屋「浪華の間」に嵌められていた「芦雁図」です。春日田新田にあった当時は、華やかな桜の濃絵(だみえ)でしたが、三溪はこの墨絵の芦雁図に変更しました。変更の理由は、数寄屋風書院造りの瀟洒な雰囲気に合わせたためとされています。 
 また、天瑞寺寿塔覆堂の傍らにはかつて桜が植えられていたことから、屋内からの眺望を意識し、重複を避けたためとも考えられます。

◆入手から構想、移築完了まで11年
 三溪園・内苑の景観の中心に置かれている臨春閣は、三溪がとりわけその移築に情熱をそそいだ建物です。
 明治39(1906)年の入手から構想、移築完了まで実に11年の歳月を費やしました。
 長男・善一郎の婚礼に間に合うよう、大正6(1917)年に完成した臨春閣は、原家の大事な人生の節目を彩り、多くの人々が集った場でした。
 明治39(1906)年 購入 〔三溪38歳〕
 大正3(1914)年  旧燈明寺三重塔  京都より移築完了 〔三溪46歳〕

旧燈明寺三重塔
建築:室町時代
移築:大正3(1914)年
 燈明寺は、京都府南部の相楽郡加茂町(現在の木津川市)に所在した寺院で、現在は廃寺となっています。
景観の要として丘の上に配され、以後、三溪園のシンボルのように親しまれてきました。
 旧燈明寺三重塔が丘上に据えられたことで、建物内からの眺望が定まり、臨春閣の配置構想が定まったとされています。
三溪は、三屋から構成されている建物のうち、二階のある三屋を移築前の配置と変更していますが、これは、二階から三重塔が見えるようにするためです。
 臨春閣は各部屋から外の景色を巧みにとりこむよう熟考を重ねて再建されました。
 大正4(1915)年 臨春閣の移築をはじめる 〔三溪47歳〕

■ 美術史家・矢代幸雄の談 ■
 三溪園の公開しない部分桃山遺構の臨春閣が移建されつつあり、三溪先生は毎日庭に出て桃山御殿の建て方を指図し或はその釣殿の前に池を掘らせ、その池に渡す橋を高台寺の渡り廊下のようにしようとか、或いは池の対岸に淀君の母を祀った天随院の廟をどう置こうかとか、毎日毎日運動がてら杖をついて庭に出て、庭師や大工の棟梁の指図をしていた。或いはまた広い三溪園の中であの石組の恰好が悪いとか、どの木を植替えをしなければならないとか、絶えず修正に修正を重ねていた。
 出典:矢代幸雄「原三溪」『芸術新潮』昭和30年(1945)3月号

 大正6(1917)年 【秋】 移築完了 
 11月12日 長男・善一郎の結婚披露会 〔三溪49歳〕

【写真】寿枝子と善一郎(於:臨春閣 住之江の間)
 三溪の長男・善一郎は、団琢磨の娘・寿枝子と結婚し、親しい友人を招いて、臨春閣で結婚披露会を催しました。三溪はこの式に間に合うよう、臨春閣の移築を急ピッチで仕上げました。
 式は住之江の間で執り行われ、招待客らは、灯りのない室内を、日本髪を結い雪洞(ぼんぼり)を掲げた女中らに案内されました。矢代幸雄はその様子を「夢よりも美しい現実の記憶」と語っています。

 大正12(1923)年
 4月21・22日 内苑の完成を記念して大師会茶会を開く 〔三溪55歳〕

【写真】大師会当日の三溪
 大正11(1922)年に聴秋閣の移築完了をもって全園が完成した三溪園。これを祝して、翌年4月に大師会茶会が行われました。
 園内各建物に全18席が配され、政財界人をはじめ多くの人が訪れた盛大な茶会で、臨春閣は第5席と6席が充てられました。
 ここでは障壁画が展観されたほか、益田鈍翁が席主をつとめた第3屋「天楽の間」では、豊臣秀吉ゆかりの蒔絵など、桃山時代由緒の珍品が飾られました。

 昭和6(1931)年 国宝(当時)に指定される 〔三溪63歳〕
 同時に指定された三溪園の建造物
 ・月華殿
  ・春草廬
  ・旧天瑞寺寿塔覆堂
  ・聴秋閣
  ・旧東慶寺仏殿
・旧燈明寺三重塔

 昭和14(1939)年 8月16日 原三溪 逝去  〔三溪70歳〕
 三溪自身の人生の幕引きは、三溪が大切にしていた臨春閣で行われました。
 住之江の間に安置された棺の前には、園内の池から切り取られた大輪の蓮の花が飾られました。

 昭和20(1945)年  〔三溪 没後6年〕
 5月29日 横浜大空襲
 隣接地に高射砲陣地があったため、園内各所に被害を受けました。
 6月10日 臨春閣被災

【写真】戦後の臨春閣
 5月29日の横浜大空襲では、三溪園は爆撃を受けませんでした。背景には、米国人美術家ラングドン・ウォーナーが作成した、日本において空爆すべきでない文化財のリスト「ウォーナー・リスト」に三溪園が挙げられていたためと言われています。
 6月10日の爆撃では、園内各所が被害を受け、臨春閣も半壊。戦時・戦後の維持管理状況の厳しさから、建物の状況は悪化しました。

昭和28(1953)年 【三溪 没後14年】
2月 重要文化財建造物等の寄附採納願が出される(原家当主より横浜市長あて)

3月 三溪園の復興に関する陳情書が出される(神奈川県文化財保護審議会委員より横浜市長あて)

4月 三溪園の復興陳情書提出(中区選出県市議員団より)

8月 財団法人 三溪園保勝会設立

昭和31年(1956) ~昭和33年(1958) 戦後の復旧工事 【三溪 没後20~22年】
和歌山県紀の川沿いに建てられた、紀州徳川家初代・頼宣(よりのぶ)の別荘建築という説が提唱されました。

平成30年(2018) ~令和4年(2022)  【三溪 没後79年~83年】
令和の大修理
・耐震補強工事
・屋根の葺替工事
第二次大戦で被災し、失われたとされていた、玄関棟の遺構が発見されました。

板絵十二支図額色見取図  令和元(2020)年
 原三溪は臨春閣を移築する際に、当初、手前にあった部屋を最も奥に変更し、「繋の間」を増設しています。この壁面に埋め込まれている「板絵十二支図額」の色見取図です。
 本体は修理で表面の汚れを除去したことで描線がはっきりと見えるようになり、絵具の剥落止めで、現状を長く維持できるようになりました。令和の大修理の一貫として行われた詳細な調査によって制作された、この色見取図によって、当初の鮮やかな色彩を知ることができます。

エピローグ 
 あらためまして、臨春閣です
 あらためて、原三溪さんには感謝しています。
 三溪園に来て、新しい命をいただきました。私と同じように、豊臣秀吉ゆかりのストーリーをもつ、旧天瑞寺寿塔覆堂もすぐ近くにいて、毎日楽しく過ごしています。
恩人である三溪さんがこの世を去られてから、もう何年になるのかしら。昭和14(1939)年の夏は、とても悲しい年でした。
その後、大きな戦争があって、私も被災して、そのときはもうだめかと思いました。幸い、昭和30(1955)年から復旧修理工事を行っていただき、助かりました。
 え?すっかりそれでよくなったか?そんなことないんですよ。
 大きな体をしていますが、こうみえて、わりと繊細なんです。屋根は天然の樹皮や板ですから、定期的な葺替えが必要ですし、地震も多い国でしょう?耐震補強工事も必要ということで、平成30(2018)年からの今回の大修理は、5年もかかりました。
 完了した今年は三溪園完成100周年の節目のタイミングと聞いて二重の喜びとなりました。携わってくれた職人さんたちには、本当に感謝しています。
 三溪園の主がいなくなっても、文化財を守り伝えるという三溪さんの心は、みなさんにも引き継がれているようで、心強く思っています。
 これからも、よろしくお願いしますね。


第3展示室
 田中克昌写真展「あ と さ き ー臨 春 閣ー」
 通りすがりに目を捉えたふとした光景、建築物としてのたたずまい。
 写真家・田中克昌氏が、臨春閣を対象に、情緒的な表現で切り取った写真を紹介します。
 原三溪によって横浜の地に移築され、現代に受け継がれた臨春閣に流れる時間や記憶。
 場所と時間の前後、過去と現在を意味する「あとさき」という言葉を手がかりに、厳選した写真をご覧ください。
 うち写真2点を本ブログに掲載するにあたり、中村学芸員を通じて田中克昌さんから許可をいただいた。

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外からの眺め ― 第二屋と第三屋

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狩野探幽 「琴棋書画図」 一 第二屋から外へ ぬける景色

 田中克昌さんの写真について
 歴史的建造物は誰のものだろう。
 所有者という点でいえば、三溪園保勝会である。
 「国指定重要文化財」という言葉を負って語るときは、「過去の人が私たちに遺してくれた、現代の我々のものであり、未来に  
 受け継ぐべき大切なものである」という説明をする。それが「文化財」というものだと考える。
歴史的な建物として語るとき、「過去、この建物でどのようなことがあったか」「どのように使われたか」というように、歴史の一場面の追想の場としてしか見られないことがある。
 そのとき建造物は「過去の人のもの」でしかありえなくなってしまう。
田中克昌さんが捉えた臨春閣の写真は、そのような考えを覆すようなインパクトを与える。現代建築を撮り続けてきた田中さんの目線は、「今の建物」を見る目線と同じように、「過去の建物」を捉え、映し出している。
 田中さんの目を通して捉えられた臨春閣は、「過去の人のもの」から「現代の我々のもの」へと一段進化を遂げた気がする。
臨春閣は、令和の大修理事業という大きな工事を経たが、根本的には何も変わらない。変わらないことが文化財を修復することの意義だから。
 「過去の人のもの」である臨春閣から、私たちは何を得るだろう。
 私たちは、田中さんが映した「現代の私たちのもの」である臨春閣から何を得るだろう。そして、未来へ受け継がれる臨春閣は、何を与えるだろうかー未来の人々に。
 この写真展は、令和の私たちからの、過去の人々への返答であり、未来の人々への手紙である。  三溪園 原未織(建築担当学芸員)


 今、臨春閣を撮影するということ
 写真の主題である「臨春閣」そのものが、すぐそばにある写真展とは、どうあるべきなのか — 。
 建築を撮影する写真家として最も素晴らしいと感じることは、いい写真を撮れることではなく、撮影時にその建物を存分に体験できるということです。建物の実体験には、その日の温度や匂い、風の感覚、流れる時間のスピードや記憶、木々のせせらぎなど、写真では捉えることのできない空間の質があります。
 こうした複雑な要素からなる体験に対して、一瞬の視覚のみを保存するメディアである写真に、どのように同等の価値を与えることができるのか。建築と写真の関係として、私が常に考え続けてきたことでした。
 この写真展を開催するにあたってたどりついた答え、これを端的に示す言葉が「あとさき」です。
現在の臨春閣の姿と、この建物の過去に連なる歴史、そして私自身の臨春閣とのストーリーを込めること。
私は横浜に越して以来、幾度となく臨春閣を訪れました。特に、令和の大修理が行われている間には、建物に使われる材の製作の現場から、修理中の建物の内部まで特別な姿を見させていただきました。
 そして、熱意をもって修理に関わる人々との交流もありました。素晴らしい体験でした。
私は自身の臨春閣との関わりと、建物の歴史へのリスペクトを持って撮影に臨みました。そして素直に建物に招き入れられ、懐に入らせていただいた、そんな思いでシャッターを切りました。
 写真には、表層の情報だけでなく、その奥にある深みを伝える力があると信じています。紙の表層だけでなく、その奥にある  
 臨春閣の含む時間を感じてもらえれば幸いです。
 田中 克昌
 1978年 兵庫県生まれ
 2005年 ニューヨーク州立大学FIT校卒
 2007年 建築専門誌GA フォトグラファー
 2017年 フリーランスとして独立


【協賛】株式会社ピクトラン
 本展の開催にあたり、株式会社ピクトラン様の協賛を得て、写真の出力紙をご提供いただきました。御礼申し上げます。今回の写真展にご提供いただいたのは局紙ロール44インチ×15M。

■ 基材の局紙ピクトラン
 基材の局紙ピクトランは日本の伝統的な和紙の一種で福井県越前市で作られています。
 その紙の持つ高い品質安定性から、日本のお札の基本技術となっています。
 現在では表彰状等にも使用され、過去には証券紙にも使用されていました。
 長期にわたる奥深い生成の白さ、腰の強さ、表面の非機械的な表面性状は
 他の基材紙では得られないという特徴を持っています。
■ 表面構成
 インク受容層は安全な無機多孔質材料で構成され、染料系プリンターでの色再現範囲はファインアート向けのインジェット用 紙の中では最大であり、従来の銀塩写真や印刷を超えてます。
 したがってモニター上の色をもっとも忠実に再現できます。
 顔料系では黒色の濃度はバライタ紙以上です。
 したがってより広い階調性が得られます。表面性状はマット紙とも光沢紙とも異なり、バライタ紙や絵画的な表現を可能にします。
 【出典】株式会社ピクトランHP
 http://pictran.com/html/pic001.htm

 田中克昌さんに聞く、局紙の魅力
 本展のためにご提供いただいた出力紙は、 写真家・田中克昌さんが長年愛用している「局紙」です。
 田中さんに、局紙のよさ、好きな理由をうかがいました。
Q. 好きな点はどこですか?
 写真をプリントしたときの存在感と高級感です。
一般的な紙に出力すると無機質な感じがしますが、局紙を使うと物質感が生まれ、被写体が生きているような感じがします。
Q. 局紙は少し黄みがかかって、光沢もありますね。
 生成りっぽい色味があたたかく、自分の好きな雰囲気の写真を仕上げられる点も気に入っています。
Q. 局紙を使って何年になりますか?
 もう15年以上は使っていると思います。
これからも使っていくと思います。


後記;9月17日、臨春閣特別公開の初日の午前、臨春閣の前庭で横浜雅楽会による雅楽の公演があった。その折、田中克昌さんと藤本博さん(KAWARA)にお目にかかり、歓談した。異分野のプロから学ぶことは多く、楽しい時間を過ごすことができた。

晩年の山崎友宏

 2018年3月、仏教僧侶の佐藤行通上人が亡くなられた。その四十九日の法要に参列するためが2018年4月18日(水曜)、茨城県鉾田市の上人の庵へ、古い友人の梶村慎吾と共に向かった。あいにくの冷たい雨の中、最寄りの駅に佐藤昭子庵主さんが迎えにきて下さり、庵に着くと、なんと酒迎(しゅげい)天信上人がおられる。56年前、インドの日本山妙法寺の仏舎利塔のある王舎城(ラージギール)でお会いし、コルコト(カルカッタ)を経て南インドへ向かう広島・アウシュビッツ平和行進を共にした。

 これについては本ブログ2018年4月24日掲載の「佐藤行通ジー逝去」に書かれている。もうすこし本稿から転記したい。

【「佐藤行通ジー逝去」より転記】
 佐藤行通上人(俗名は弘)が白寿を迎え、お会いしたいと思っていた矢先、今年の3月1日、肺炎で亡くなられた。1918(大正7)年12月5日、秋田県生まれ、99歳と3か月。
 我々は佐藤上人(しょうにん)と呼ぶ代わりに、尊敬と愛情を込めて佐藤ジーないし、ただジーと呼んでいた。ジーはインド語(ヒンディー語)で、男性につける尊称であり、「爺」の意味ではない。

 すぐに梶村慎吾とニューヨーク在住の山崎友宏へメールを送った。後述の通り、56年前(1962年)、「広島アウシュビッツ平和行進」で33カ国を巡った仲間である。

 ジーは陸軍航空士官学校を首席で卒業、訓練中に目に被災してパイロットの道を断念、陸軍航空通信学校に入り、のち東北帝国大学で学ぶ。1945年8月の終戦時に27歳、「降伏文書」の調印(9月2日、東京湾上のアメリカ戦艦ミズーリ号)を阻止せんと画策したが、失敗。茫然自失の日々のなか、藤井日達上人に出会い、出家した。

 藤井日達上人(1885~1985年)は日本山妙法寺の創設者であり、最近の新聞で山折哲雄さん(宗教学)が書いている。「…日蓮宗左派過激派のリーダー、藤井日達上人…は、昭和6(1931)年、単身でインドに渡り、題目を唱える伝道をはじめて、ついにガンジーとの会見にこぎつけた破天荒の荒僧だった。近代の日本宗教史の上では、まさに異端中の異端児で…」(山折哲雄「私の履歴書」㉕ 日本経済新聞2018年3月25日)。

 藤井上人やジーと初めてお会いしたのは1960年。安保反対闘争、原水禁運動、平和運動に邁進、カーキ色の法衣を纏い、団扇太鼓を叩きながら街頭行進する雄姿があった。…

 安保闘争の敗北の中から「広島アウシュビッツ平和行進」が組織された。掲げたスローガンは、「広島は核戦争を阻止するための象徴であり、アウシュビッツは戦争による非人道的行為をくり返さないための象徴である。広島とアウシュビッツは平和への道標である。No more Hiroshima, never again Auschwitz」。

 アウシュビッツをめざす平和行進の団長がジーで、出発時(1962年)に44歳。他のメンバーは年齢順に、私(特定の宗教を持たない)が26歳、山崎友宏(カトリック)が24歳、梶村慎吾(プロテスタント)が23歳であった。

 私以下の3人は、終戦時に小学生と未就学児で、ジーとは親子ほどの年齢差である。(私は国民学校3年生、集団疎開先の群馬県勢多郡新里村 祥雲寺学寮で<玉音放送>を聞いた)。この四人組は、父親と三人のドラ息子のような関係でもあったが、よく「三蔵法師と三匹の従者」に譬えられた。

 藤井上人の計らいにより連絡事務局とした東京九段の日本山妙法寺に友人・知人が詰めて、連絡や広報活動に当たってくれた。

 1962年2月6日に広島を出発、上掲のスローガンを掲げて、アジア・東欧を行進、翌1963年、1月27日のアウシュビッツ解放記念日に収容所跡地に到着した。その後、西ヨーロッパまで足を伸ばし、ソ連・中国、計33ヵ国を経て帰国したのは、16ヵ月後の1963年6月である。準備過程から出発、帰国までの約3年間、我々四人は文字通り寝食と苦楽を共にした。

 歴訪中、会計担当は山崎、写真撮影は梶村、記録をとり記事を書くのは主に私で、電送手段がなく、各地で印画した写真と記事を航空便で送り、これが連絡事務局経由で新聞社等に配信、掲載された。

 帰国後、この体験の一部を加藤祐三・梶村慎吾『広島・アウシュビッツ-平和行進青年の記録』(弘文堂 フロンティアブックス 1965年)として公刊した。そのなかで山崎友宏について次のようにある(14、15ページ)。

 「山崎友宏(上智大学経済学部卒、会社員) 1938年函館に生まれた。彼は「これを行うことに意味ありや否や」と考えあぐねて結局行動に移さない、などという優柔不断な男ではない。もちろん思い悩むことはたくさんあるから、そういうときには何も手につかなくなって、マッチ箱でも本でもメチャメチャに壊してしまうが、なにかを懸命にやっているときの姿こそ、彼の本来の姿である。
 彼は優しい男である。カトリックの信者になったということは、彼が人間の原罪というものと自分とをいつも対置しているからであろう。だから、と言っていいと思うが、だから彼は他人にたいしていつも優しく、怒ることはない。ケンカを売られても相手がケンカを売っていると取らないため、ケンカは成立しないのである。
 彼は経済学部出身なので、ぼくらの小さなサイフをあずかることになった。それまでもらっていた月給は、いつでも一週間もたないうちになくなっていたというから、おおいに不安ではあった。しかし、商社では多額の帳簿をケタをまちがわず処理していたと主張するので、任せることにした。しかし、この財政長官は、ぼくらの小さい出納簿をつけないで悠然としていたのである。おかげでみな悠然としていられた。」


【新たな偶然の出会い】
 今年になって2022年1月15日、菅野賢治さんという東京理科大学の教授からメールが入った。佐藤庵主さん(行通夫人)に出会い、私のメールアドレスを聞いたと記してあった。
 「昨日、佐藤さまよりお電話でメールアドレスをうかがって、お便りを差し上げます。東京理科大学でフランス語を教えてております、菅野賢治(かんのけんじ)と申します。
 フランスのユダヤ人の歴史を長らく研究したあと、しばらく前から、戦時期の
日本と上海に到来したユダヤ難民のことを調査しております。
 その研究をつうじて、戦後日本におけるユダヤ・ジェノサイドの受容、というテーマにも導かれ、ここしばらく、「アウシュヴィッツ」「ホロコースト」といったキーワードを書名に含む日本語の書物を、古い順に再読する、という作業を続けてまいりました。
 そこで、当然、先生の1965年のご共著『広島・アウシュビッツ平和行進の記録』も手にし、佐藤行通上人の存在も初めて知った次第です。
 続けて、佐藤上人の『日本中が私の戦場』も読みまして、加藤先生や佐藤上人が
アウシュビッツから譲り受けていらして、その後、日本国内の平和行進の際にも
掲げてお歩きになったという遺骨、遺品は、今現在どうなっているのか、という点がとても気になりまして、日本山妙法寺をつうじて、佐藤さまをご紹介いただいた、という事の経緯でございます。
 この点につきまして、加藤先生のご教示を仰ぐことができますれば、誠に幸いに存じます。
 突然のご連絡にて、誠に恐縮でございますが、よろしくご指南のほど、お願い申し上げます。」

 2日おいて、私は以下の返信をした。
 「諸般の事情から返信が大幅に遅れ、申し訳ございません。
アウシュビッツへ同行した梶村慎吾との連絡がまだつかず、最終的な回答ではございませんが、お尋ねの件、アウシュビッツ博物館から預かった遺骨・遺品は、最終的には広島の原爆資料館にお渡ししたと記憶しています。
確認が取れましたら、またご連絡します。
 なお私はブログを書いておりますが、索引機能がついていないため、5つのカテゴリのうち「我が歴史研究の歩み」の一部を<合冊版>として原稿から編集しました。このなかに広島・アウシュビッツ平和行進に関する記述があることを想起、ここに添付ファイルとしてお届けします。」
 
 このやり取りから始まった菅野さんとの共同作業はいま着実に進展しており、いずれ改めて報告したい。


【加藤祐三・梶村慎吾『広島・アウシュビッツ平和行進 青年の記録』 】
 本ブログのリンク欄に「我が歴史研究の歩み」の一部を<合冊版>として掲載、その2015年12月9日掲載「【7】アウシュビッツ到着」に次のようにある。

 「30年以上も昔になるが、ゼミの学生から「国会図書館でカードを引いていたら、先生の著書(共著)らしい本が出てきたのですが…」と尋ねられた。…
 この学生が見つけた本とは、加藤祐三・梶村慎吾『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』(昭和40(1965)年 弘文堂 フロンティア・ブックス)という50年前の新書版である。歴史研究とは直接の関係がないと思い、講義要項の参考文献等に挙げたことはない。 …」


【山崎友宏とのメール交換を基に】
 山崎友宏は、「広島・アウシュビッツ 平和行進」に参加した仲間で、1962年から1963年の間、世界の33カ国を回った平和運動から帰国して役割を終えると、それぞれが自分の道に戻った。うち上智大学経済学部出身の山崎はポーランドへ留学したため、『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』(弘文堂フロンティア・ブックス、1965年)は梶村と私が担当した。
 のち山崎はニューヨークの法律事務所等で日本人の特許関係の仕事を支援する仕事を大成功させている。
 そこに私の使っている@niftyのメール容量が限界に近づき、古い不要なメールを削除するよう求められた。起点である2014年8月5日の受信メールの周辺を検索するなかで、山崎友宏とのメール交換が出てきた。
 それらを用いて「晩年の山崎友宏」を描き、冥福を祈りたい。合わせて13通に【特番】が2通の計15通である。各メールの往復では、新しい返事が先に来て、古いものが後にくることに注意してお読みいただきたい。なお再録に際して個人が特定できるメールアドレスは削除した。


(1)記録に残る最古が2014年8月8日着信のメール。ニューヨーク在住の上智大学同窓会で、山崎らしく生き生きと振舞っている様子がよく分かる。
Dear Yuzou-san and Dear Shingo-san, Please let me call you in American way of First Name.
当地NYでも平和集会とコンサートが開催されました。当方は都合悪く出席しませんでした。
祐三兄 『幕末外交と開国』入手しました。貴文は歯切れ良く興味津々です。当方、郷里が函館で、ペリー艦隊とジョン万次郎も函館を訪ねており、3年前に函館で関係文献を集めてきました。追って読後感をメイルします。
慎吾兄  貴宅への当方の郵便物は間もなく受領されると思います。
母校上智のNY同窓会(NY Sophia-Kai)でメイル交換した通信文を転送しました。  Tomo
Begin forwarded message:
From: tyamazaki
Subject: Re: [newyorksophiakai:880] 広島・長崎 平和集会
Date: August 5, 2014 9:46:54 AM EDT
Reply-To: newyorksophiakai@googlegroups.com
Dear Okada-san, Thank you for your very good information. With my pleasure I will attend 9/11 Peace Gathering.
Dear NY Sophians,
 日本人にとってまた忘れてならない日がきました。一つ思い出すことがあります。1948年湯川秀樹博士がプリンストン大学を訪ねたとき、アインシュタインAlbert Einstein は、「罪もない日本人を原爆で殺傷して申し訳ない]と涙して、湯川氏に謝罪したとのことです。
アインシュタインは大の親日家で、1922年日本各地を訪問、ノーベル賞授賞者として大歓迎された。特に好きな料理は、新橋橋善の天ぷら弁当。
日本のお辞儀という文化にもいたく感動したという。当方3年前に、アインシュタインの活動の拠点を知りたく、プリンストン大学を訪ねたことがあります。
彼が好んで食事したレストランのお好みのテーブルでワインを飲み、アインシュタインの後光を浴びました。tomo yamazaki
n Aug 5, 2014, at 8:29 AM, Kei Okada wrote:
ソフィアン・ファミリーの皆さん
広島・長崎の平和集会について、お知らせします。 
以下の添付をご覧ください。  岡田
「 JCH「とも」、8/5 (火) 広島・長崎の平和集会で歌う」
 我が混声合唱団 JCH (Japan Choral Harmony) 「とも」は、5月のスペイン遠征公演の余韻も覚めやらない今夏、既に秋にかけ演奏会が目白押しです。来週の 8/5 (火)広島・長崎被爆者追悼のインターフェイス平和祈念式「平和の集い」、毎年恒例の 9/11 (木)風の環追悼コンサート、10/12 (日)福島県のお母さん合唱連盟の50周年記念公演に特別参加、と続きます。

1)8/5 (火)広島・長崎被爆者追悼の平和祈念式「平和の集い」
 まず来週の火曜(8/5)には、NY仏教連盟会長の中垣顕實法師が主催する第20回広島・長崎被爆者追悼の平和祈念式「平和の集い」があり、米国ジャズ界の「大御所」秋吉敏子さんや夫君のサックス奏者ルー・タバキン、広島出身の伝説的ヒットメーカーのシンガーソングライター原田真二さん等と共に、我々「とも」が長崎の被爆者2世である福山雅治が作詞作曲した「クスノキ」と、その他2曲を歌います。
この歌「クスノキ」が出来た経緯については、こちらをお読み下さい。=> http://ameblo.jp/nobu630/entry-11819700299.html?fb_action_ids=560433217398411&fb_action_types=og.likes
 人類初の原爆が広島に落とされた日本時間 8/6 (水)午前8時15分は、NYではこの日 (8/5)の午後7時15分に当たる時刻にあわせて黙想と共に平和の鐘が鳴らされます。
 なお 8/1~10 の期間中の同じ会場では、広島平和大使でもある原田真二さんの平和コンサート(8/8)、長崎の被爆者(早崎氏)証言やQ&A(8/8)など様々なイベントが企画されています。(添付チラシ参照)
Peace Exhibition 2014.jpeg

2)第7回 9/11 (木)風の環追悼コンサート(9/11 Circle of Wind Memorial Concert)
 次に、今年で 7年目となり我々の定演(定期演奏会)とも言うべき「9/11 風の環追悼コンサート」が 9/11 (木)に昨年と同様、リンカーン・センターの一角マーキン・ホールにて開催されます。
 今年は少し趣向を変え、第1ステージで我々がスペイン遠征公演で歌った数曲を歌い、その内の1曲で怠け者闘牛士の歌「トレロ・カモミロ」をリセ・ケネデイ日本語学校の子供達と一緒に歌い踊ります。                                                  第2ステージは「J-Pop Now & Then」と題し、我々「とも」は当団員がメンバーのギター・バンド "Swing 16" とコラボして J-Pop の今と昔の名曲を数曲歌います。
 特別ゲストとして、超有名なアーテイスト2人が応援のステージに立ってくれます。モダン・ダンスで世界的に有名な折原美樹さんが、これまた日本で超有名でNYで現在ジャズの演奏をされている大江千里さんのオリジナル曲を本人が弾き、これに合わせて踊ります。
後半は去年もステージを共にしたGregory Singer が率いるManhattan Symphonie Orchestra との共演と独演です。 
 風の環コンサートの詳細は当ブログ・サイトでどうぞご覧下さい。=> http://kazenowa911.blog6.fc2.com

3)10/12 (日)題50回福島県お母さん合唱祭への特別参加
 来る 10/12 (日)、福島県のお母さん合唱団33団体が参加する第50回福島県お母さん合唱祭(福島市音楽堂ホール)にNYから「とも」有志が特別ゲストとしてトリに唄う。そして、最後は参加者全員が「とも」の白田さんの指揮の下、「福島から世界へ」を歌うことになっている。
 この「福島から世界へ」は、俳人の黛まどかさんが大震災後の福島に大して限りない愛情を注がれて作詞(作曲は千住明)された曲であり、2012年NYで「とも」が世界初デビューして歌った。
 今回「とも」及び白田氏が特別ゲストとして招待されたのは、去年カーネギー・ホールに福島県お母さん合唱団を招待し一緒にステージに立たせてもらったことへのお礼とのこと。(東北人は情が厚い。)


(2)2014年8月11日の着信メール。
Dear Yuzou-san and Shingo-san, 下記ご参考ください。私どもの行進団の京都での集会で湯川令夫人と面談したと記憶しています。私の記憶正しいでしょうか。
加藤兄 貴著『幕末外交と開国』入手しました。貴文は司馬遼太郎並みの歯切れのいい文体ですね。3年前に郷里函館を訪ね、ペリー艦隊とジョン万次郎が函館を訪ねており、関係文献と郷土史家と意見交換してきました。面白いエピソ-ドが満載でした。追って、読後感をメイルいたします。           tomo
Dear NY Sophians, 日本人にとってまた忘れてならない日がきました。一つ思い出すことがあります。1948年湯川秀樹博士がプリンストン大学を訪ねたとき、アインシュタインAlbert Einstein は、「罪もない日本人を原爆で殺傷して申し訳ない]と涙して、湯川氏に謝罪したとのことです。
アインシュタインは大の親日家で、1922年日本各地を訪問、ノーベル賞授賞者として大歓迎された。特に好きな料理は、新橋橋善の天ぷら弁当。
日本のお辞儀という文化にもいたく感動したという。当方3年前に、アインシュタインの活動の拠点を知りたく、プリンストン大学を訪ねたことがあります。
彼が好んで食事したレストランのお好みのテーブルでワインを飲み、アインシュタインの後光を浴びました。tomo yamazaki


(3)2014年9月4日の着信メール。
Dear Shingo-san, Thank you very much for your nice comments. 丸山先生については貴方にもっとききたいことがありますが、また次回にします。
日本の将来については当方は楽観的です。ここNYでは日本の製品は品質の良さで高い評価を受け、日本食も人気抜群。中国の評判はよくありません。
これからも時々貴方にメイルし意見交換いたしましょう。ではお元気で。tomo yamazaki
On Sep 2, 2014, at 10:32 PM, Shingo Kajimura wrote:
山崎友宏兄
メール有難うございました。9月に入って暑さが戻ってきました。気候不順による農作物への悪影響も限定的であってほしいものです。ニューヨークでいろいろ日本のニュースに接しておられるようですね。学生時代に、丸山真男先生の授業のノートを編集して東大出版会教材部に出版してもらったことを思い出します。古事記・日本書紀にみられる日本の原型的思想についての授業でしたが、その内容は丸山先生の著作に含まれていないものであったと聞きました。
日本の将来が明るいものであるためには、社会が大きく変身しなければならない難しい時代にあると感じます。健康保険や年金の原資の重圧に耐えられる経済であり続けられるか、少子高齢化の進展でどのような社会になるのか、等々問題山積です。106歳で外国へ行って講演している人の本を読んでいます。昇地三郎著『106歳のスキップ』(亜紀書房)。8月に75歳になりましたが、年をとったと思わないことにしています。貴兄がますますご活躍されますように。
梶村慎吾


(4)2015年1月29日の着信メール(題名は70th anniversary of Auschwitz Concentration Camp)
Dear Friends, このニュースは、当地のTVニュースでも詳しく報道解説されていました。
NY市の人口の約20%はユダヤ系アメリカ人で、当方が勤務した法律事務所のトップもユダヤ系が多く、当方がアウシュビッツを訪ねたことがあると伝えたところ、大いに歓迎されたことがあります。
私ども4人が平和行進した時は、零下20度であったとのこと。当地NYもいま寒波に見舞われていますが、ポーランドでは風邪も引かず日程をこなすことが出来たのはやはり若さと意気の高さのお陰なのでしょう。当地NYの日中の気温は零下5度で外出は控え、鍋料理に励んでいます。
加藤兄  大河ドラマ”花燃ゆ”は楽しみに視聴し、貴方の”幕末外交と開国”も時々読み返しています。
くれぐれもお元気で。またご連絡します。 山崎友宏拝


(5)2015年1月31日の着信メール
Hi Shingo-san, Confirmed your comments on the Swedish lady. 行通師の動静ありがとうございました。またご連絡します。tomo
Subject: Re: 70th anniversary of Auschwitz Concentration Camp
Date: Fri, 30 Jan 2015 16:34:48 +0900
山崎様
メール有難うございました。貴兄の質問にあるスウェーデンの女性の名前を思い出そうと努力しましたが、思い出せませんでした。佐藤行通師の近況は詳しくはわかりませんが、奥さんの佐藤昭子さんからの今年の年賀状には次のように書かれていました。「家族の介護も7年目になり出かけることも少なくて社会参加も少ないですが穏やかな年であってほしいと願っています。」
梶村慎吾
From: Tomohiro Yamazaki
Sent: Friday, January 30, 2015 2:42 AM
Subject: RE: 70th anniversary of Auschwitz Concentration Camp
Dear Shingo-san, Thanks very much for your comments.
お二人へ 昨夜当地のテレビ局CNA は一時間の特集番組で、アウシュビッツ、ビルケナウの現況を生存者証言を交えて詳しく報じました。ところで、我々の行進当日、スエーデンからきた中年の女性が一生懸命対応してくれましたね。彼女のお世話で我々はスエーデンのマルメー市を訪ねたことを思い出します。彼女の名前は何と言いましたか ?
ところで、佐藤行通師はその後いかがでしょうか?広島とアウシュビッツのキーワードを結びつけた佐藤氏はやはり希有の人物ですね。 tomo yamazaki
> Subject: Re: 70th anniversary of Auschwitz Concentration Camp
> Date: Thu, 29 Jan 2015 13:06:56 +0900
> 山崎大兄 加藤大兄
> アウシュビッツ解放70周年記念行事のニュースは私もTVで見ました。生存者の数が年々減っていく中で、出席生存者が涙を流しておられる姿は胸にジーンと来るものがありました。我々の行進が多くの国で歓迎され、アウシュビッツで多くの人々と共に行進できたことは、広島ーアウシュビッツ平和行進の訴えるものが多くの国で共感を持って支持されていたのだと感じます。もう52年も経ってしまったのですね。  梶村慎吾
> -----Original Message-----
> From: 加藤祐三
> Sent: Thursday, January 29, 2015 9:07 AM
> To: Tomohiro Yamazaki
> Subject: Re: 70th anniversary of Auschwitz Concentration Camp
> 山崎兄  慎吾兄
> 52年前の1963年1月27日に、我々はアウシュビッツに着いた。
> 『広島・アウシュビッツ-平和行進青年の記録』(弘文堂 昭和40(=1965)年)によれば(183ページ)、 「…一月二七日は、前の晩にはしきりに降っていた雪がやんで、どんよりと曇った天気だった。…一〇時頃になって…雪が舞い始めた。雪だか氷片だかわからない。小さくキラキラ光る。零下二五度位だと教えてくれる…」 とあります。
  我々には少しの「先見の明」があったのでしょうね。この時の苦労が、体験が、考えたことが、いま血肉となって生きているように感じます。それぞれ行く道は異なるものの。  加藤祐三


(6)2015年3月13日の着信メール。
Shingo-san, Confirmed. Thanks.
お二人へ 歴史認識で日、中、韓で激しい論争が続き、日中韓100年戦争とも言われているようです。
この件でも追ってお二人と意見交換したく思っています。習近平主席、パククネ大統領もかなりしつこいですね。tomo yamazaki
> Subject: Re: Your answer
> Date: Thu, 12 Mar 2015 18:20:08 +0900
> 加藤大兄
> 西園寺公一氏に関する詳しい記載にはいろいろ考えさせられるところがありました。教えていただき、有難うございました。
> 梶村慎吾
> -----Original Message-----
> From: 加藤祐三
> Sent: Tuesday, March 10, 2015 11:03 AM
> To: Shingo Kajimura
> Cc: Tomohiro Yamazaki ; 加藤祐三
> Subject: Re: Re: Your answer
> 慎吾大兄 山崎大兄
> ウィキペヂアで近衛公一を引くと、西園寺 公一(さいおんじ きんかず、明治39年(1906年)11月1日 - 平成5年(1993年)4月22日)と出ます。かなり詳細な記載があり、初めて知ったことも多々ありました。参考まで。
> 加藤祐三
> ----- Original Message -----
> >Subject: Re: Your answer
> >Date: Tue, 10 Mar 2015 10:46:23 +0900
> >山崎大兄 加藤大兄
> >中国でお世話いただいた近衛さんは、近衛家直系の公一氏と記憶しています。
> >梶村慎吾
> >From: Tomohiro Yamazaki
> >Sent: Sunday, March 08, 2015 6:34 AM
> >Subject: RE: Your answer
> >加藤大兄 東京は梅の花が満開とのこと。当地は今日も日中2、3度。西ベルリンのおばさんの名前よく思い出しましたね。彼女が日本山妙法寺で太鼓を叩き修行していたこと思い出します。
> >ところでロンドンではYMCA の施設に宿泊しましたが、その時世話してくれたのおじさんの名前はご存知ですか。Great Britainと誇らしく言うEnglishman でしたね。懐かしく思い出すのは、ブダペスト滞在中お世話してくれたTiborさん。当方のポーランド留学中に再度ブダペストを訪ね再会しています。人なつっこい日本通でしたね。もう一つ質問、中ソ対立の最中、モスクワから緊張しながら北京にはいりましたが、中国側のスポークマンに近衛さんという方がいたようです。この方のフルネームは何と言いましたでしょうか。
> >I have more questions for both of you. Thanks and best regards, tomo yamazaki
> >> Date: Sat, 7 Mar 2015 16:55:15 +0900
> >> Subject: Re: Icy Hudson River
> >> 山崎大兄 慎吾大兄
> >> 遅くなりました。
> >> 大寒波襲来とか。たいへんですね。好転しましたか?
> >> 電車に乗ろうとしてフッと思い出したこと、ミッチェルさん、西ベルリンで世話になり、私は黒のレインコート(彼女の息子のもの?)を貰いました。九段の日本山妙法寺で修行された大柄な女性、体重のせいか膝が痛いと言っておられましたね。
> >> キエフ、ドレスデンはいずれも訪れていません。
> >> 3.11の東日本大震災を間近にして、テレビや新聞でさまざまな報道がなされています。
> >> 加藤祐三
> >> ----- Original Message -----
> >> >Subject: Icy Hudson River
> >> >Date: Sat, 28 Feb 2015 14:25:17 -0500
> >> >Dear Friends, How are you ? 当地は数10年ぶりの寒波到来で、アパートから徒歩5分のハドソン川では下記写真のように大量の流氷が流れています。遠くに自由の女神像が見えます。ところで、2、3質問があります。我々のソ連滞在中、今問題のキエフは訪ねましたでしょうか。当時のスターリングラードを訪ねたことはよく記憶しています。それから、西ベルリンでお世話してくれたおばさんの名前は覚えていますか。
> 東西ベルリンの検問を超えて西ベルリンに入った時の目映い街並みを思い出します。それから東ドイツではヤルタは訪ねましたが、ドレスデンは訪ねたでしょうか。
> >> >Shingo-san, NHKTVニュースで貴方の住んでいる八王子市のしゃれた駅を時々見かけます。しゃれたシテイーに変身しましたね。高尾山は2度ほど訪ねたことがあります。
> >> >では、益々お元気で。 山崎友宏拝
> >> >Date: Thu, 26 Feb 2015 16:56:26 +0000


(7)2015年9月13日の着信メール。
Dear Yuzou Kato-san, Thank you so much for your exciting Blog and your comments.
I am very glad to know you are very fine and you look very nice.  安倍学習院長に面談したことかすかに思い出しております。貴方の横浜についてのコメント追ってまた感想の一報送ります。
Dear Shingo-san, 当方も79歳、NYにて生き抜いています。毎日ワインは嗜んでいます。NYのある国際法律事務所の日本業務に関するコンサルタントをしています。お二人に追ってまた電話いたしましょう。では益々お元気で。tomo yamazaki 
> Date: Tue, 22 Sep 2015 20:39:29 +0900
> Subject: 私のブログです
> 梶村慎吾大兄 山崎友宏大兄
> 敬老の日が終わり、明日は秋分の日ですね。シルバーウィークと呼ぶのは今年が初の気がします。
> 都留文科大学での学長ブログにつづけて、昨年春から「加藤祐三ブログ」の掲載を開始し、いくつかのカテゴリーのうち「我が歴史研究の歩み」も始めました。その「【4】広島・アウシュビッツ平和行進」を掲載しましたのでお知らせします。両兄の名前も出しました。
> 誤記等があればご指摘ください。修正はすぐできますから…
> 以下から接続できます。
> http://katoyuzo.blog.fc2.com/
> 加藤祐三


(8)2016年5月31日の着信メール。
Dear Friends, This is just for your information. On June 13(Mon) at pm 1 I want to have lunch with both of you. See you soon in Tokyo. otto yamazaki
From: newyorksophiakai@googlegroups.com on behalf of Tomohiro Yamazaki
Sent: Sunday, May 29, 2016 10:02 AM
To: newyorksophiakai@googlegroups.com
Subject: [newyorksophiakai:1503] President Obama’s Visit to Hiroshima

Dear NY Sophians, 皆様もいろいろな感想があるでしょうが、広島の被爆者とオバマさんがhugしあった瞬間が私には一番感動的でした。オバマさんの心のなかには謝罪の気持ちがあったと思われます。これでノーベル平和賞受賞者としての面目が保てたと思う。そこで思い出すのは、アインシュタインが戦後湯川秀樹博士と米国で面会した時、アインシュタインは多少なりとも原子爆弾開発を後押しした行為を行ってことを悔やみ涙ながら謝罪しととのことです。爆弾男トランプ候補が日本、韓国は北朝鮮と対決するため核兵器を持つべきと大変物騒な発言して核兵器廃絶にブレーキをかけています。トランプはメキシコとの国境に強固な壁を作りその費用はメキシコに払わせると、メキシコ国民を侮辱する発言を繰り返すという危険な人物と判断します。ワシントンポスト紙によれば、今年12月7日のPearl Harvor記念の式典には安倍首相は出席すべきと提言していますが、全く同感です。tomo yamazaki


(9)2016年6月26日の着信メール。
Dear Friends, Thanks very much for your great news. 日本での写真展開催が可能であれば、ニューヨークでの広島記念平和集会での開催の可能性もあると思われます。友人と相談してみます。tomo yamazaki
From: 加藤祐三
Sent: Monday, June 27, 2016 6:30 AM
To: Shingo Kajimura
Cc: 加藤祐三; tyamazaki
Subject: Re: 広島ーアウシュビッツ平和行進のフィルム・写真の件
慎吾大兄 cc:友宏大兄
大兄の性格を反映してか、「大きなビニール袋に除湿剤を入れておいたおかげで、ほぼ良い状態で保管できていた」よし、万々歳ですね。
良い業者か、特異なアマに頼んで、なんとかしたいですね。
第一に大まかな内容(点数、撮影場所等)を把握すること、
第二に焦点・構図・被写体等から見て使えそうなものが何割ほどあるかを知ること、
第三に50年前の記録の現代的な意味をどう明示できるか(解説も含めて)
あたりを詰めていきましょう。
また次の考えを送ります。取り急ぎ。
加藤祐三
----- Original Message -----
>From: "Shingo Kajimura"
>To: 加藤祐三 "tyamazaki"
>Subject: 広島ーアウシュビッツ平和行進のフィルム・写真の件
>Date: Mon, 27 Jun 2016 17:43:19 +0900
>加藤大兄 山崎大兄
>先日の50年ぶり3人そろっての再会時にお約束しました標記フィルム・写真の件、遅れましたが、ついに我が家で探し出しました。ダンボール2箱に収まっていました。(加藤注;50年ぶり3人そろっての再会とは、山崎が帰国した折に新橋のレストランで再会したことを指す)
50年ほど前に宝物のつもりで大きなビニール袋に除湿剤を入れておいたおかげで、ほぼ良い状態で保管できていました。プリントされた写真のほか、現像されたままのフィルムの状態のものも多数あり、合計すれば何千枚かになると思われますが、ほぼ正確にどの程度の数になるのか今は見当がつきません。我々4人の宝ですので、相談しながらこれをどう生かすかを考えていければと思います。
>梶村慎吾


(10)2017年1月7日の着信メール。この年は本メール1本のみ。
Dear Friends, 今年のご多幸ご健勝節に祈念します。トランプ嫌いは消えました。彼は日米友好信頼関係を強化したいということで今では大いに期待しています。当方の米国永住権も最近無事に更新されました。6月米国弁護士と最後の日本出張の予定です。加藤大兄 先日テレビで三渓園の紹介され、すばらしい庭園は拝見しました。梶村大兄 佐藤行通師は98歳ですね。先日テレビで、武田信玄の松姫の城下町が八王子とのこと。情調豊かな宿場町の情景の拝見しました
それでは益々お元気で。山崎友宏拝


(特番1)2018年2月28日着信の梶村慎吾メールに次のようにある。
「お元気でご活躍のことでしょう。先に、佐藤ジー訪問についてメールでご相談しましたが、山さんから連絡がなく、そのままになっていました。ところが突然ヤマサンから電話があり、今函館にいる。毎日温泉に入っているが、(体の調子から)佐藤ジー訪問に参加できそうもないので、二人で行ってほしい。春になると思うが、その時には金一封の参加費用で参加したいので、花かなにかを持っていくのに参加させてほしい。ということでした。詳しい事情は聞きませんでしたが、体調の関係で行けないと推察しました。その為、我々二人で春にでもジーのところへ行きましょう。3月後半はいろいろ忙しい季節なので4月に行くのはどうでしょうか。佐藤夫人には3月後半に、ご都合を問い合わせるのはどうでしょうか。
梶村慎吾」


(11)2018年3月20日の着信メール。
慎吾兄
調整、ありがとうございます。
了解しました。
4月18日(水曜)、東京駅6:53発のひたち1号の自由席で落ち合いましょう。
加藤祐三
----- Original Message -----
>From: "Shingo Kajimura"
>Cc: "tyamazaki"
>Subject: Re: お返事
>Date: Fri, 9 Mar 2018 11:33:37 +0900
>祐三大兄  cc山崎大兄
>調べたところ、次のようになりました。
>常磐線特急  ひたち1号  東京駅発 6時53分   上野駅 7時  水戸駅着 8時10分
>鹿島臨海鉄道 水戸駅発 8時23分  大洋駅着 9時15分(次の電車は10時24分着となり10時30分の法要開始には少し遅れてしまいます。)
>特急自由席で東京駅待ち合わせでどうでしょう。
>梶村慎吾
>-----Original Message-----
>From: 加藤祐三
>Sent: Thursday, March 8, 2018 12:01 PM
>To: Shingo Kajimura
>Cc: 加藤祐三 ; 加藤祐三 ; tyamazaki
>Subject: Re: Fw: お返事
>慎吾兄 友宏兄
>この日に合わせて行きましょう。
>4月18日 (水) 10時30分、これに参加するには、どこを何時に出れば良いか、教えてください。よろしくお願いします。
>加藤祐三
>----- Original Message -----
>>Subject: Fw: お返事
>>Date: Thu, 8 Mar 2018 11:05:35 +0900
>>祐三大兄 山崎大兄
>>佐藤昭子さんからのメールをとりあえず転送いたします。
>>梶村慎吾
>>-----Original Message-----
>>From: 佐藤昭子
>>Sent: Wednesday, March 7, 2018 5:47 PM
>>To: 梶村慎吾
>>Subject: お返事
>>4月18日 (水) 10時30分より49日の法要を日本山妙法寺の方により執り行なっていただきます。
>>ご都合のよい時をお知らせ下さいませ。
>>気にかけていただき有難うございます。 佐藤昭子


(12)2018年3月25日の着信メール。
Dear Shingo san, Thank you for your confirmation.
Dear Yuzo San, 九段下の日本山妙法寺日本山妙法寺を訪ねられたとのこと。本当に懐かしい。
またご連絡します。年内に東京でお二人に再会できればと希求しております。tomo yamazaki
Subject: Re: How are you ! Dear Prof. Kato,
祐三大兄  cc山崎大兄
香典袋の件承知しました。 日本山妙法寺は懐かしいですね。
梶村慎吾
-----Original Message-----
From: 加藤祐三
Sent: Friday, March 23, 2018 6:26 PM
To: Shingo Kajimura
Cc: 加藤祐三 ; Tomohiro Yamazaki
Subject: Re: Re: How are you ! Dear Prof. Kato,
慎吾兄 友宏兄
3人の名の香典袋に3人分を入れてお供えの準備方、お願いします。 過日、飯田橋へ行く用事があり、靖国神社とその裏門の近くにある日本山妙法寺をお参りしました。どなたもおられませんでしたが、56年前の1962年と変わらぬ風情でした。時の経つのは速いものですね。
加藤祐三
>Subject: Re: How are you ! Dear Prof. Kato,
>Date: Fri, 23 Mar 2018 18:05:42 +0900
>山崎大兄 CC 祐三大兄
>本日山さんからのお金を受取りました。お見舞いの袋に入っていましたので、佐藤ジーの49日の法要では祐三大兄のメールにありますように、3人の名の香典袋に3人分を一緒に入れてお供えしたいと思います。
>梶村慎吾
>-----Original Message-----
>From: 加藤祐三
>Sent: Wednesday, March 21, 2018 11:18 AM
>To: Tomohiro Yamazaki
>Cc: Shingo Kajimura ; Shingo Kajimura
>Subject: Re: How are you ! Dear Prof. Kato,
>友宏兄 cc:慎吾兄
>今日は東京も格別の寒さです。
>函館におられるのですか。一時帰国ですか。
>佐藤ジーの49日法要にお香典を慎吾に預けられるよし、了解しました。
>われわれ3人のお香典を届けたいと思います。
>加藤祐三
>----- Original Message -----
>>Subject: How are you ! Dear Prof. Kato,
>>Date: Tue, 20 Mar 2018 07:34:12 +0000
>>パソコンの調子が悪く只今テスト中。誠に失礼!慎吾さんから貴兄のご活躍拝聴しております。近く慎吾さんにお線香代金を送付します。追ってまたお電話します。Tomo Yamazaki from Hakodate


(13)2019年3月15日の着信メール、これが山崎からの最後のメール、題名のみで本文はなし。発信地は山崎の郷里の函館である。
Dear Prof. Kato, Thank you so much for your kind message. Very sorry for my delayed answer. Yokohama is a really charming city. Your performance is Great !!! Tomo Yamazaki from Hakodate, Hokkaido


(特番2)なお梶村慎吾からの着信メールを点検すると、前掲(13)から約2年後の2021年1月23日着信メールに、「一つご報告:山崎氏に年賀状を出したところ、片岡雅子さん(妹さん)から「兄は昨年11月より熱が出て大変です。今も入院中です。」という返信をもらいました。「お大事にしてください。」という内容の返事を出しました。」とあった。
 
 山崎友宏の命日は、2021年2月19日である。ご冥福を心より祈る。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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