書画の装い(所蔵品展)
三溪記念館恒例の所蔵品展は、中村暢子学芸員が担当する「書画の装い」として第1展示室と第2展示室で開催(7月14日~8月21日)、第3展示室では原未織学芸員が担当する特集展示「重要文化財 臨春閣 令和の大修理まるわかり!」(7月1日~8月8日)が開催中である。
今回は第1展示室の「書画の装い」を中心にお伝えする。いささかプロ向けの内容と思われがちであるが、プロ向けと言うより、基本中の基本と言うべきかもしれない。それを中村学芸員が明快かつ分かりやすく説く。以下に紹介したい。
書や絵画も人前に出るとき、装うのです。
フォーマルに恰好よくきめるのか、ラフにカジュアル感を楽しむのか、装いのスタイルはTPOに依ります。私たちが今日着る服を選ぶ感覚と同じようなものと考えると、イメージしやすいかもしれません。
日本美術において、書画が表される媒体は、紙や絹です。そのままでは薄く脆弱なため、床の間に飾って鑑賞したり、調度品として用いることができません。そこで、紙・裂地・糊などを使って、掛軸や巻物、襖などに仕立てることで、強度も見た目もさまになります。これを「表具」または「表装」といい、その技術は古代中国にまでさかのぼります。
本展では、表装の一つの形式である「掛軸」に注目し、その様々な装いを楽しんでいただける作品をご紹介します。「お気に入りのこの作品を、どんな時に、どんな風に観てもらおうか…」。昔の人も、観てもらう場面を意識しながら、書画の装いを決めたことでしょう。
所有者、描いた人、表装を手掛ける表具師等、作品をとりまく人々へも思いをはせながら、ファッションショーを見るような感覚でご覧いただければ幸いです。
この”ファッションショー”で取り上げる作品は、蓮を描いた三溪の作品が多い。折しも22日から始まる恒例の観蓮会(羽田雄一郎学芸員が担当、~8月14日まで)とからめて、蓮の絵が思わぬ展開を見せる可能性がある。
なお第2展示室の「書画の装い」は、最後の1週間(8月13日~21日)に行われる三溪園と江戸表具研究会<表粋会>の協働企画「掛軸と絵画の未来展―美大生と表具師@三溪園 パトロネージュのかたち―」(鶴翔閣と三溪記念館第3展示室にて)と一緒に紹介したい。
また第3展示室の特集展示「重要文化財 臨春閣 令和の大修理まるわかり!」(7月1日~8月8日)については、9月下旬から始まる臨春閣大改修の完成を祝う行事とからめて取り上げたい。
第1展示室
所蔵品展 書画の装い
◇ 原三溪ってどんな人?
原三溪(1868-1939)は、生糸貿易で財を成した実業家です。養祖父の原善三郎から受け継いだ広大な敷地を造園し、明治39(1906)年38歳のときに開園した三溪園を「遊覧御随意」の精神で広く一般に公開しました。
実業家として活躍するかたわら、お茶に親しみ、優れた古美術の蒐集や画家への支援も積極的に行うなど、茶人、コレクター、パトロンと、さまざまな顔をもつ三溪は、その温厚な人柄で多くの人に慕われました。
益田鈍翁や松永耳庵など、実業家で、茶や美術に親しんだ人物は同時代にもいましたが、自らも筆をとり、画を描くことを趣きとしたことは、三溪がほかの数寄者と一線を画す点です。
原三溪 「自画像(人物図)」 昭和8(1933)年 ※三溪65歳
晩秋の箱根、強羅(ごうら)の別荘・白雲洞(はくうんどう)で読書にふけり、くつろぐ自身を描いた、三溪晩年の作品です。白雲洞は大正11年(1922)に、茶友の益田鈍翁から三溪に、三溪没後は原家から松永耳庵に譲られ、現在の強羅公園内にあります。この自画像は袱紗(ふくさ)にして原家から縁のある人々へ贈られたようです。

◇ 三溪と蓮
泥の中から清らかな花を咲かせる蓮は、古来仏教や儒教で聖者の花とされ、尊ばれてきました。原三溪がどの花よりもとりわけ愛したのが、この蓮です。自ら蓮の画を好んで描き、多数所有した茶室の中でも自らの構想で建てた蓮華院では生涯最も多くの茶会を催しました。また、その最期を飾ったのも三溪園の池から切りとられた数本の蓮でした。
母方の祖父が南画家・高橋友吉(号 杏村)という環境もあり、10歳の頃から、三溪は叔父の高橋鎌吉(号 抗水/杏村の長男)に画を学びました。三溪が描く蓮は、輪郭線を描かない没骨(もっこつ)と呼ばれる技法により、蓮のぷっくりとした厚みのある花弁が表現されています。
当時、まだ評価が低かった琳派の作品を誰よりもさきがけて注目し、コレクションに加えた三溪。没骨技法は、琳派の祖として知られる、俵屋宗達などの作品から学んだようです。
原三溪 「白蓮」
夜明け前に咲き始めた蓮は、すがすがしい空気に包まれます。
本図は、つぼみがシルエットのように描かれています。朝もやのなかにぼんやりと浮き上がり、開いた蓮の花だけが光を放っているようです。花は早朝の2日目か3日目のもののようです。

原三溪 「蓮華図」 昭和12(1937)年 ※三溪69歳
三溪が描いた数ある蓮の絵の中でも、本図は大ぶりで、茶友・松永耳庵に贈られました。
大振りゆえ、様々な姿の蓮が一幅の中に描かれています。つぼみから美しい姿、開いた花弁が落ちそうなものまでみられます。

原三溪 「白蓮」 大正14(1925)年 ※三溪57歳
本図には蓮の花の最終日、4日目の姿が描かれています。3日目に開ききって閉じなくなった蓮は、4日目には散り始め、すべての花弁がなくなります。一番上に描かれている花托に雄しべだけとなった花はその最後の姿でしょう。蓮は4日間とその後の敗荷とよばれる姿も絵になります。

原三溪 「敗荷」 昭和3(1928)年 ※三溪60歳
敗荷とは、秋、風などに吹き破られた蓮の葉の様子をいいます。花びらが落ちた後の花托(かたく)の部分に翡翠(かわせみ)が羽を休めて物思いにふけっているようです。本図は三溪旧蔵の宮本武蔵筆《翡翠》と似た構図で、それを参考にしたと考えられます。三溪と交流の深かった哲学者・和辻哲郎に贈られました。

◇掛軸の形式
掛軸とは、書や絵画を表装し、床の間や壁面などに掛けて、飾りとしたり、鑑賞できるように仕立てたものをいいます。
起源は古代中国にさかのぼりますが、発祥時期は不明です。日本へは飛鳥時代以降に伝来したとされ、神仏の画像を礼拝するためのものとして、飛鳥時代の仏画を表装したものが、日本の掛軸の最初であるとされています。

鑑賞するときのポイント!
「風帯」と「一文字」の裂地は同じものを用いています。
風帯は何のため?
風帯(ふうたい)は、風でなびくことによって鳥よけとしたものが形
式化し、形として遺っています。中国で「驚燕(きょうえん)」「払燕(ふつえん)」とも称されているのは、このためです。
◇掛軸の真行草
形式には大きく3形式があり、どの作品にどの形式を用いるかは、伝統的にほぼ定まっています。
【真の形式】 表補(ひょうほ)表装
最もフォーマルな形式
「仏(ぶつ)表具」とも呼ばれる
仏画・曼荼羅・頂相(禅僧の肖像画)・神像など

【行の形式】 幢補(どうほ)表装
最も一般的な形式
「大和表具」とも呼ばれる。
歌切・懐紙・色紙・書画など

【草の形式】 輪補(りんぽ)表装
カジュアルな形式
「茶掛表装」「茶掛」とも呼ばれる。
禅僧の墨跡・茶人の書画・画賛などに用いられます。

◇ パトロン・原三溪
三溪は、明治の終わりごろから、日本美術院を中心とした画家の支援を始め、物心両面から支えました。横浜出身で日本美術院創設者・岡倉天心を通じて多くの画家を見出し、若手の育成を支援したのです。勉強のための奨励金を出したり、作品を買い上げるほか、制作の場を提供したり、蒐集品の鑑賞会を行ったりと、支援のかたちは多岐にわたります。
三溪が住まいとした鶴翔閣は、横山大観や前田青邨といった画家たちが集い、滞在して絵を制作するなど、文化サロンとしての役割も果たした場所です。古美術を中心とした三溪の収蔵品は若手作家へ供覧され、彼らの創作活動に重要なヒントを与えました。
三溪が見込んだ画家はその支援により、各展覧会での受賞や、後世に傑作といわれた名作を生むという成果を出しました。
三溪が支援した画家のうち、今回は、荒井寛方と安田靫彦の作品をご紹介します。
荒井寛方 「釈尊降誕」
仏画のため、掛軸はフォーマルな「真」の形式です。
上下の裂は、緑と紺の糸で織り込んだ地に金で宝相華と唐草文を表した豪華なもの。白金のお釈迦様を華やかに引き立てています。

ここに注目!
仏画の表装のため、掛軸の形式は、最もフォーマルな表補(ひょうほ)表装。「真の行」スタイルです。
上下の裂は、紺地に金で宝相華と唐草文を表した豪華なもの。白金の線で簡潔に表されたお釈迦様を華やかに引き立てています。
荒井寛方(1878-1945)
栃木県塩谷に生まれる。本名、寛十郎。
家業を手伝った後、22歳のとき、水野年方に入門し歴史画を学ぶ。翌年、師から「寛方」の号を受ける。
24歳で国華社に入社し、10年間仏画の模写に励む。国華社の仕事で、三溪所蔵の仏画「孔雀明王像」(平安時代)の模写を行なっていたところ、見出され支援を受けるようになった。大正3年(1914)、36歳で再興院展で院友、翌年、同人に推挙される。
のちに下村観山が描いた「弱法師」を、インドの詩人タゴールに所望され模写したことがきっかけとなり、タゴールの招待でインドへ留学した。インドでアジャンタ壁画の模写などを行い、仏画の真髄に触れる。帰国後、法隆寺壁画模写にも従事した。
◎荒井寛方が語る原三溪
「孔雀明王像」の模写は2か月余りを有し、この間、寛方は松風閣に泊まり、食事は原家と共にするなど、家族とも親しく交流をもった。画家として独り立ちするために支援を申し出た三溪は、逡巡する寛方に対し「君個人の世話をするのではなく日本の画道の為に世話をしたいからだ」と言葉を重ねたという。寛方はこのときの三溪を懐古し「ああ何たる謙虚な態度であらう」と綴っている。
安田靫彦「不動明王像」 昭和10年代(1935~44)
伝統的な不動明王の図像を用いながら、靫彦らしい軽やかで清廉な筆線でまとめています。本図とほぼ同じ構図の作品を、靫彦は昭和10年の第一回踏青会という展覧会に出品しています。
ここに注目!
不動明王は仏教で信仰の対象となる尊格ですが、偉さのレベルでいうと3番目(「如来」「菩薩」「明王」「天」)。それゆえか、一般的な形式にあたる幢補(どうほ)表装で仕立てられています。目を凝らしてみると、一文字が本紙をぐるりと取り囲んでおり、「行の真」の形式であることがわかります。不動明王の髪と着衣のグリーンが上下の裂地のグリーンと呼応し、さわやかな一幅に仕上がっています。

安田靫彦「羽衣」
明治末から大正初め、靫彦が三溪の支援を受けていた頃の作品と考えられます。天衣をひるがえす天女は蓮華の籠を手にして描かれ、散華が舞うやさしい絵です。
ここに注目!
天女は、如来や観音を称えつつ、ガードマンとしての役割を果たす「天」部に属します。表装の形式も、一番オーソドックスな「行の行」の形式です。上下の水色の裂地が、天女が舞う空を連想させます。
安田靫彦(1884-1978)
東京生まれ。本名新三郎。
小堀鞆音(こぼりともと)に師事。東京美術学校(東京藝術大学の前身)中退。初期院展、文展に出品。国画玉成会を組織し、新感覚を示す歴史画で認められたが、再興日本美術院に同人として参加、中国・日本の古典に取材した格調高い新古典主義的作風を確立。
大正初めに三溪の援助を受け、三溪園での古美術勉強会に参加。安田靫彦の作品「夢殿」など、三溪旧蔵品も多数あった。
◎安田靫彦が語る原三溪
明治44年11月頃、原三溪氏は岡倉天心先生から話があり、今村紫紅、小林古径、前田青邨、それに私とが、同氏から生活面の援助を受けることになり、紫紅と私は小田原に家を持った。
翌45年頃、丁度三溪園の造園中で、原氏の未曾有の大蒐集は絶頂に達せんとする時期で、我々は毎月のように三溪邸に招かれ、泊りがけで名品を拝見し、各々意見を述べあい、三溪氏も同輩の如くになって品評の仲間に入られ、他には田中親美氏だけを加えられた。これは氏の蘊蓄を自然の中に吾々に吸収させようとの配慮であったらしい。
こうした原氏の宏量と高識と謙虚な人柄に接するうちに、誰からともなく三溪先生と呼ぶようになり、泊りがけのこの会は集まる度に東洋画の名品が数点、時には十数点が加えられ興奮夜を徹することさえ度々であった。この楽園的会合は1年半か2年程も続いたかとおもう。
出典 安田靫彦「原三溪翁を偲びて」
『原三溪翁生誕百年記念 近代日本画大家展』図録 昭和42年
原三溪「観音経」昭和10(1935)年
三溪が友人・中村房次郎のために浄書した観音経。華麗な料紙装飾は古筆・絵巻研究家の田中親美によるものと推定されます。親美は国宝「平家納経」の復元に尽力し、本作品も平家納経を参考にしたと考えられます。先頭の表紙竹は飾り金具、軸は水晶、表紙・見返し・本紙にも金銀箔を散らして荘厳し、心を込めてつくられたことがわかります。
今回は第1展示室の「書画の装い」を中心にお伝えする。いささかプロ向けの内容と思われがちであるが、プロ向けと言うより、基本中の基本と言うべきかもしれない。それを中村学芸員が明快かつ分かりやすく説く。以下に紹介したい。
書や絵画も人前に出るとき、装うのです。
フォーマルに恰好よくきめるのか、ラフにカジュアル感を楽しむのか、装いのスタイルはTPOに依ります。私たちが今日着る服を選ぶ感覚と同じようなものと考えると、イメージしやすいかもしれません。
日本美術において、書画が表される媒体は、紙や絹です。そのままでは薄く脆弱なため、床の間に飾って鑑賞したり、調度品として用いることができません。そこで、紙・裂地・糊などを使って、掛軸や巻物、襖などに仕立てることで、強度も見た目もさまになります。これを「表具」または「表装」といい、その技術は古代中国にまでさかのぼります。
本展では、表装の一つの形式である「掛軸」に注目し、その様々な装いを楽しんでいただける作品をご紹介します。「お気に入りのこの作品を、どんな時に、どんな風に観てもらおうか…」。昔の人も、観てもらう場面を意識しながら、書画の装いを決めたことでしょう。
所有者、描いた人、表装を手掛ける表具師等、作品をとりまく人々へも思いをはせながら、ファッションショーを見るような感覚でご覧いただければ幸いです。
この”ファッションショー”で取り上げる作品は、蓮を描いた三溪の作品が多い。折しも22日から始まる恒例の観蓮会(羽田雄一郎学芸員が担当、~8月14日まで)とからめて、蓮の絵が思わぬ展開を見せる可能性がある。
なお第2展示室の「書画の装い」は、最後の1週間(8月13日~21日)に行われる三溪園と江戸表具研究会<表粋会>の協働企画「掛軸と絵画の未来展―美大生と表具師@三溪園 パトロネージュのかたち―」(鶴翔閣と三溪記念館第3展示室にて)と一緒に紹介したい。
また第3展示室の特集展示「重要文化財 臨春閣 令和の大修理まるわかり!」(7月1日~8月8日)については、9月下旬から始まる臨春閣大改修の完成を祝う行事とからめて取り上げたい。
第1展示室
所蔵品展 書画の装い
◇ 原三溪ってどんな人?
原三溪(1868-1939)は、生糸貿易で財を成した実業家です。養祖父の原善三郎から受け継いだ広大な敷地を造園し、明治39(1906)年38歳のときに開園した三溪園を「遊覧御随意」の精神で広く一般に公開しました。
実業家として活躍するかたわら、お茶に親しみ、優れた古美術の蒐集や画家への支援も積極的に行うなど、茶人、コレクター、パトロンと、さまざまな顔をもつ三溪は、その温厚な人柄で多くの人に慕われました。
益田鈍翁や松永耳庵など、実業家で、茶や美術に親しんだ人物は同時代にもいましたが、自らも筆をとり、画を描くことを趣きとしたことは、三溪がほかの数寄者と一線を画す点です。
原三溪 「自画像(人物図)」 昭和8(1933)年 ※三溪65歳
晩秋の箱根、強羅(ごうら)の別荘・白雲洞(はくうんどう)で読書にふけり、くつろぐ自身を描いた、三溪晩年の作品です。白雲洞は大正11年(1922)に、茶友の益田鈍翁から三溪に、三溪没後は原家から松永耳庵に譲られ、現在の強羅公園内にあります。この自画像は袱紗(ふくさ)にして原家から縁のある人々へ贈られたようです。

◇ 三溪と蓮
泥の中から清らかな花を咲かせる蓮は、古来仏教や儒教で聖者の花とされ、尊ばれてきました。原三溪がどの花よりもとりわけ愛したのが、この蓮です。自ら蓮の画を好んで描き、多数所有した茶室の中でも自らの構想で建てた蓮華院では生涯最も多くの茶会を催しました。また、その最期を飾ったのも三溪園の池から切りとられた数本の蓮でした。
母方の祖父が南画家・高橋友吉(号 杏村)という環境もあり、10歳の頃から、三溪は叔父の高橋鎌吉(号 抗水/杏村の長男)に画を学びました。三溪が描く蓮は、輪郭線を描かない没骨(もっこつ)と呼ばれる技法により、蓮のぷっくりとした厚みのある花弁が表現されています。
当時、まだ評価が低かった琳派の作品を誰よりもさきがけて注目し、コレクションに加えた三溪。没骨技法は、琳派の祖として知られる、俵屋宗達などの作品から学んだようです。
原三溪 「白蓮」
夜明け前に咲き始めた蓮は、すがすがしい空気に包まれます。
本図は、つぼみがシルエットのように描かれています。朝もやのなかにぼんやりと浮き上がり、開いた蓮の花だけが光を放っているようです。花は早朝の2日目か3日目のもののようです。

原三溪 「蓮華図」 昭和12(1937)年 ※三溪69歳
三溪が描いた数ある蓮の絵の中でも、本図は大ぶりで、茶友・松永耳庵に贈られました。
大振りゆえ、様々な姿の蓮が一幅の中に描かれています。つぼみから美しい姿、開いた花弁が落ちそうなものまでみられます。

原三溪 「白蓮」 大正14(1925)年 ※三溪57歳
本図には蓮の花の最終日、4日目の姿が描かれています。3日目に開ききって閉じなくなった蓮は、4日目には散り始め、すべての花弁がなくなります。一番上に描かれている花托に雄しべだけとなった花はその最後の姿でしょう。蓮は4日間とその後の敗荷とよばれる姿も絵になります。

原三溪 「敗荷」 昭和3(1928)年 ※三溪60歳
敗荷とは、秋、風などに吹き破られた蓮の葉の様子をいいます。花びらが落ちた後の花托(かたく)の部分に翡翠(かわせみ)が羽を休めて物思いにふけっているようです。本図は三溪旧蔵の宮本武蔵筆《翡翠》と似た構図で、それを参考にしたと考えられます。三溪と交流の深かった哲学者・和辻哲郎に贈られました。

◇掛軸の形式
掛軸とは、書や絵画を表装し、床の間や壁面などに掛けて、飾りとしたり、鑑賞できるように仕立てたものをいいます。
起源は古代中国にさかのぼりますが、発祥時期は不明です。日本へは飛鳥時代以降に伝来したとされ、神仏の画像を礼拝するためのものとして、飛鳥時代の仏画を表装したものが、日本の掛軸の最初であるとされています。

鑑賞するときのポイント!
「風帯」と「一文字」の裂地は同じものを用いています。
風帯は何のため?
風帯(ふうたい)は、風でなびくことによって鳥よけとしたものが形
式化し、形として遺っています。中国で「驚燕(きょうえん)」「払燕(ふつえん)」とも称されているのは、このためです。
◇掛軸の真行草
形式には大きく3形式があり、どの作品にどの形式を用いるかは、伝統的にほぼ定まっています。
【真の形式】 表補(ひょうほ)表装
最もフォーマルな形式
「仏(ぶつ)表具」とも呼ばれる
仏画・曼荼羅・頂相(禅僧の肖像画)・神像など

【行の形式】 幢補(どうほ)表装
最も一般的な形式
「大和表具」とも呼ばれる。
歌切・懐紙・色紙・書画など

【草の形式】 輪補(りんぽ)表装
カジュアルな形式
「茶掛表装」「茶掛」とも呼ばれる。
禅僧の墨跡・茶人の書画・画賛などに用いられます。

◇ パトロン・原三溪
三溪は、明治の終わりごろから、日本美術院を中心とした画家の支援を始め、物心両面から支えました。横浜出身で日本美術院創設者・岡倉天心を通じて多くの画家を見出し、若手の育成を支援したのです。勉強のための奨励金を出したり、作品を買い上げるほか、制作の場を提供したり、蒐集品の鑑賞会を行ったりと、支援のかたちは多岐にわたります。
三溪が住まいとした鶴翔閣は、横山大観や前田青邨といった画家たちが集い、滞在して絵を制作するなど、文化サロンとしての役割も果たした場所です。古美術を中心とした三溪の収蔵品は若手作家へ供覧され、彼らの創作活動に重要なヒントを与えました。
三溪が見込んだ画家はその支援により、各展覧会での受賞や、後世に傑作といわれた名作を生むという成果を出しました。
三溪が支援した画家のうち、今回は、荒井寛方と安田靫彦の作品をご紹介します。
荒井寛方 「釈尊降誕」
仏画のため、掛軸はフォーマルな「真」の形式です。
上下の裂は、緑と紺の糸で織り込んだ地に金で宝相華と唐草文を表した豪華なもの。白金のお釈迦様を華やかに引き立てています。

ここに注目!
仏画の表装のため、掛軸の形式は、最もフォーマルな表補(ひょうほ)表装。「真の行」スタイルです。
上下の裂は、紺地に金で宝相華と唐草文を表した豪華なもの。白金の線で簡潔に表されたお釈迦様を華やかに引き立てています。
荒井寛方(1878-1945)
栃木県塩谷に生まれる。本名、寛十郎。
家業を手伝った後、22歳のとき、水野年方に入門し歴史画を学ぶ。翌年、師から「寛方」の号を受ける。
24歳で国華社に入社し、10年間仏画の模写に励む。国華社の仕事で、三溪所蔵の仏画「孔雀明王像」(平安時代)の模写を行なっていたところ、見出され支援を受けるようになった。大正3年(1914)、36歳で再興院展で院友、翌年、同人に推挙される。
のちに下村観山が描いた「弱法師」を、インドの詩人タゴールに所望され模写したことがきっかけとなり、タゴールの招待でインドへ留学した。インドでアジャンタ壁画の模写などを行い、仏画の真髄に触れる。帰国後、法隆寺壁画模写にも従事した。
◎荒井寛方が語る原三溪
「孔雀明王像」の模写は2か月余りを有し、この間、寛方は松風閣に泊まり、食事は原家と共にするなど、家族とも親しく交流をもった。画家として独り立ちするために支援を申し出た三溪は、逡巡する寛方に対し「君個人の世話をするのではなく日本の画道の為に世話をしたいからだ」と言葉を重ねたという。寛方はこのときの三溪を懐古し「ああ何たる謙虚な態度であらう」と綴っている。
安田靫彦「不動明王像」 昭和10年代(1935~44)
伝統的な不動明王の図像を用いながら、靫彦らしい軽やかで清廉な筆線でまとめています。本図とほぼ同じ構図の作品を、靫彦は昭和10年の第一回踏青会という展覧会に出品しています。
ここに注目!
不動明王は仏教で信仰の対象となる尊格ですが、偉さのレベルでいうと3番目(「如来」「菩薩」「明王」「天」)。それゆえか、一般的な形式にあたる幢補(どうほ)表装で仕立てられています。目を凝らしてみると、一文字が本紙をぐるりと取り囲んでおり、「行の真」の形式であることがわかります。不動明王の髪と着衣のグリーンが上下の裂地のグリーンと呼応し、さわやかな一幅に仕上がっています。

安田靫彦「羽衣」
明治末から大正初め、靫彦が三溪の支援を受けていた頃の作品と考えられます。天衣をひるがえす天女は蓮華の籠を手にして描かれ、散華が舞うやさしい絵です。
ここに注目!
天女は、如来や観音を称えつつ、ガードマンとしての役割を果たす「天」部に属します。表装の形式も、一番オーソドックスな「行の行」の形式です。上下の水色の裂地が、天女が舞う空を連想させます。
安田靫彦(1884-1978)
東京生まれ。本名新三郎。
小堀鞆音(こぼりともと)に師事。東京美術学校(東京藝術大学の前身)中退。初期院展、文展に出品。国画玉成会を組織し、新感覚を示す歴史画で認められたが、再興日本美術院に同人として参加、中国・日本の古典に取材した格調高い新古典主義的作風を確立。
大正初めに三溪の援助を受け、三溪園での古美術勉強会に参加。安田靫彦の作品「夢殿」など、三溪旧蔵品も多数あった。
◎安田靫彦が語る原三溪
明治44年11月頃、原三溪氏は岡倉天心先生から話があり、今村紫紅、小林古径、前田青邨、それに私とが、同氏から生活面の援助を受けることになり、紫紅と私は小田原に家を持った。
翌45年頃、丁度三溪園の造園中で、原氏の未曾有の大蒐集は絶頂に達せんとする時期で、我々は毎月のように三溪邸に招かれ、泊りがけで名品を拝見し、各々意見を述べあい、三溪氏も同輩の如くになって品評の仲間に入られ、他には田中親美氏だけを加えられた。これは氏の蘊蓄を自然の中に吾々に吸収させようとの配慮であったらしい。
こうした原氏の宏量と高識と謙虚な人柄に接するうちに、誰からともなく三溪先生と呼ぶようになり、泊りがけのこの会は集まる度に東洋画の名品が数点、時には十数点が加えられ興奮夜を徹することさえ度々であった。この楽園的会合は1年半か2年程も続いたかとおもう。
出典 安田靫彦「原三溪翁を偲びて」
『原三溪翁生誕百年記念 近代日本画大家展』図録 昭和42年
原三溪「観音経」昭和10(1935)年
三溪が友人・中村房次郎のために浄書した観音経。華麗な料紙装飾は古筆・絵巻研究家の田中親美によるものと推定されます。親美は国宝「平家納経」の復元に尽力し、本作品も平家納経を参考にしたと考えられます。先頭の表紙竹は飾り金具、軸は水晶、表紙・見返し・本紙にも金銀箔を散らして荘厳し、心を込めてつくられたことがわかります。
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