fc2ブログ

書画の装い(所蔵品展)

 三溪記念館恒例の所蔵品展は、中村暢子学芸員が担当する「書画の装い」として第1展示室と第2展示室で開催(7月14日~8月21日)、第3展示室では原未織学芸員が担当する特集展示「重要文化財 臨春閣 令和の大修理まるわかり!」(7月1日~8月8日)が開催中である。
 今回は第1展示室の「書画の装い」を中心にお伝えする。いささかプロ向けの内容と思われがちであるが、プロ向けと言うより、基本中の基本と言うべきかもしれない。それを中村学芸員が明快かつ分かりやすく説く。以下に紹介したい。

 書や絵画も人前に出るとき、装うのです。
フォーマルに恰好よくきめるのか、ラフにカジュアル感を楽しむのか、装いのスタイルはTPOに依ります。私たちが今日着る服を選ぶ感覚と同じようなものと考えると、イメージしやすいかもしれません。
 日本美術において、書画が表される媒体は、紙や絹です。そのままでは薄く脆弱なため、床の間に飾って鑑賞したり、調度品として用いることができません。そこで、紙・裂地・糊などを使って、掛軸や巻物、襖などに仕立てることで、強度も見た目もさまになります。これを「表具」または「表装」といい、その技術は古代中国にまでさかのぼります。
 本展では、表装の一つの形式である「掛軸」に注目し、その様々な装いを楽しんでいただける作品をご紹介します。「お気に入りのこの作品を、どんな時に、どんな風に観てもらおうか…」。昔の人も、観てもらう場面を意識しながら、書画の装いを決めたことでしょう。
 所有者、描いた人、表装を手掛ける表具師等、作品をとりまく人々へも思いをはせながら、ファッションショーを見るような感覚でご覧いただければ幸いです。

 この”ファッションショー”で取り上げる作品は、蓮を描いた三溪の作品が多い。折しも22日から始まる恒例の観蓮会(羽田雄一郎学芸員が担当、~8月14日まで)とからめて、蓮の絵が思わぬ展開を見せる可能性がある。

 なお第2展示室の「書画の装い」は、最後の1週間(8月13日~21日)に行われる三溪園と江戸表具研究会<表粋会>の協働企画「掛軸と絵画の未来展―美大生と表具師@三溪園 パトロネージュのかたち―」(鶴翔閣と三溪記念館第3展示室にて)と一緒に紹介したい。
 また第3展示室の特集展示「重要文化財 臨春閣 令和の大修理まるわかり!」(7月1日~8月8日)については、9月下旬から始まる臨春閣大改修の完成を祝う行事とからめて取り上げたい。 
 
第1展示室
所蔵品展  書画の装い
◇ 原三溪ってどんな人?
原三溪(1868-1939)は、生糸貿易で財を成した実業家です。養祖父の原善三郎から受け継いだ広大な敷地を造園し、明治39(1906)年38歳のときに開園した三溪園を「遊覧御随意」の精神で広く一般に公開しました。
実業家として活躍するかたわら、お茶に親しみ、優れた古美術の蒐集や画家への支援も積極的に行うなど、茶人、コレクター、パトロンと、さまざまな顔をもつ三溪は、その温厚な人柄で多くの人に慕われました。
益田鈍翁や松永耳庵など、実業家で、茶や美術に親しんだ人物は同時代にもいましたが、自らも筆をとり、画を描くことを趣きとしたことは、三溪がほかの数寄者と一線を画す点です。

原三溪 「自画像(人物図)」 昭和8(1933)年 ※三溪65歳
晩秋の箱根、強羅(ごうら)の別荘・白雲洞(はくうんどう)で読書にふけり、くつろぐ自身を描いた、三溪晩年の作品です。白雲洞は大正11年(1922)に、茶友の益田鈍翁から三溪に、三溪没後は原家から松永耳庵に譲られ、現在の強羅公園内にあります。この自画像は袱紗(ふくさ)にして原家から縁のある人々へ贈られたようです。

20220727-01.jpg


◇ 三溪と蓮
泥の中から清らかな花を咲かせる蓮は、古来仏教や儒教で聖者の花とされ、尊ばれてきました。原三溪がどの花よりもとりわけ愛したのが、この蓮です。自ら蓮の画を好んで描き、多数所有した茶室の中でも自らの構想で建てた蓮華院では生涯最も多くの茶会を催しました。また、その最期を飾ったのも三溪園の池から切りとられた数本の蓮でした。
母方の祖父が南画家・高橋友吉(号 杏村)という環境もあり、10歳の頃から、三溪は叔父の高橋鎌吉(号 抗水/杏村の長男)に画を学びました。三溪が描く蓮は、輪郭線を描かない没骨(もっこつ)と呼ばれる技法により、蓮のぷっくりとした厚みのある花弁が表現されています。
当時、まだ評価が低かった琳派の作品を誰よりもさきがけて注目し、コレクションに加えた三溪。没骨技法は、琳派の祖として知られる、俵屋宗達などの作品から学んだようです。

原三溪 「白蓮」 
夜明け前に咲き始めた蓮は、すがすがしい空気に包まれます。
本図は、つぼみがシルエットのように描かれています。朝もやのなかにぼんやりと浮き上がり、開いた蓮の花だけが光を放っているようです。花は早朝の2日目か3日目のもののようです。

20220727-02.jpg


原三溪 「蓮華図」 昭和12(1937)年 ※三溪69歳
三溪が描いた数ある蓮の絵の中でも、本図は大ぶりで、茶友・松永耳庵に贈られました。
大振りゆえ、様々な姿の蓮が一幅の中に描かれています。つぼみから美しい姿、開いた花弁が落ちそうなものまでみられます。

20220727-03.jpg


原三溪 「白蓮」 大正14(1925)年 ※三溪57歳
本図には蓮の花の最終日、4日目の姿が描かれています。3日目に開ききって閉じなくなった蓮は、4日目には散り始め、すべての花弁がなくなります。一番上に描かれている花托に雄しべだけとなった花はその最後の姿でしょう。蓮は4日間とその後の敗荷とよばれる姿も絵になります。

20220727-04.jpg


原三溪 「敗荷」 昭和3(1928)年 ※三溪60歳
敗荷とは、秋、風などに吹き破られた蓮の葉の様子をいいます。花びらが落ちた後の花托(かたく)の部分に翡翠(かわせみ)が羽を休めて物思いにふけっているようです。本図は三溪旧蔵の宮本武蔵筆《翡翠》と似た構図で、それを参考にしたと考えられます。三溪と交流の深かった哲学者・和辻哲郎に贈られました。

20220727-05.jpg


◇掛軸の形式
掛軸とは、書や絵画を表装し、床の間や壁面などに掛けて、飾りとしたり、鑑賞できるように仕立てたものをいいます。
起源は古代中国にさかのぼりますが、発祥時期は不明です。日本へは飛鳥時代以降に伝来したとされ、神仏の画像を礼拝するためのものとして、飛鳥時代の仏画を表装したものが、日本の掛軸の最初であるとされています。

20220727-06.png


鑑賞するときのポイント!
「風帯」と「一文字」の裂地は同じものを用いています。

風帯は何のため?
風帯(ふうたい)は、風でなびくことによって鳥よけとしたものが形
式化し、形として遺っています。中国で「驚燕(きょうえん)」「払燕(ふつえん)」とも称されているのは、このためです。

◇掛軸の真行草
形式には大きく3形式があり、どの作品にどの形式を用いるかは、伝統的にほぼ定まっています。

【真の形式】 表補(ひょうほ)表装
最もフォーマルな形式
「仏(ぶつ)表具」とも呼ばれる
仏画・曼荼羅・頂相(禅僧の肖像画)・神像など

20220727-07.png


【行の形式】 幢補(どうほ)表装
最も一般的な形式
「大和表具」とも呼ばれる。
歌切・懐紙・色紙・書画など


20220727-08.png


【草の形式】 輪補(りんぽ)表装
カジュアルな形式
「茶掛表装」「茶掛」とも呼ばれる。
禅僧の墨跡・茶人の書画・画賛などに用いられます。

20220727-09.png


◇ パトロン・原三溪
三溪は、明治の終わりごろから、日本美術院を中心とした画家の支援を始め、物心両面から支えました。横浜出身で日本美術院創設者・岡倉天心を通じて多くの画家を見出し、若手の育成を支援したのです。勉強のための奨励金を出したり、作品を買い上げるほか、制作の場を提供したり、蒐集品の鑑賞会を行ったりと、支援のかたちは多岐にわたります。
三溪が住まいとした鶴翔閣は、横山大観や前田青邨といった画家たちが集い、滞在して絵を制作するなど、文化サロンとしての役割も果たした場所です。古美術を中心とした三溪の収蔵品は若手作家へ供覧され、彼らの創作活動に重要なヒントを与えました。
三溪が見込んだ画家はその支援により、各展覧会での受賞や、後世に傑作といわれた名作を生むという成果を出しました。
三溪が支援した画家のうち、今回は、荒井寛方と安田靫彦の作品をご紹介します。

荒井寛方 「釈尊降誕」
仏画のため、掛軸はフォーマルな「真」の形式です。
上下の裂は、緑と紺の糸で織り込んだ地に金で宝相華と唐草文を表した豪華なもの。白金のお釈迦様を華やかに引き立てています。

20220727-10-2.jpg


ここに注目!
仏画の表装のため、掛軸の形式は、最もフォーマルな表補(ひょうほ)表装。「真の行」スタイルです。
上下の裂は、紺地に金で宝相華と唐草文を表した豪華なもの。白金の線で簡潔に表されたお釈迦様を華やかに引き立てています。

荒井寛方(1878-1945)
栃木県塩谷に生まれる。本名、寛十郎。
家業を手伝った後、22歳のとき、水野年方に入門し歴史画を学ぶ。翌年、師から「寛方」の号を受ける。
24歳で国華社に入社し、10年間仏画の模写に励む。国華社の仕事で、三溪所蔵の仏画「孔雀明王像」(平安時代)の模写を行なっていたところ、見出され支援を受けるようになった。大正3年(1914)、36歳で再興院展で院友、翌年、同人に推挙される。
のちに下村観山が描いた「弱法師」を、インドの詩人タゴールに所望され模写したことがきっかけとなり、タゴールの招待でインドへ留学した。インドでアジャンタ壁画の模写などを行い、仏画の真髄に触れる。帰国後、法隆寺壁画模写にも従事した。

◎荒井寛方が語る原三溪
「孔雀明王像」の模写は2か月余りを有し、この間、寛方は松風閣に泊まり、食事は原家と共にするなど、家族とも親しく交流をもった。画家として独り立ちするために支援を申し出た三溪は、逡巡する寛方に対し「君個人の世話をするのではなく日本の画道の為に世話をしたいからだ」と言葉を重ねたという。寛方はこのときの三溪を懐古し「ああ何たる謙虚な態度であらう」と綴っている。

安田靫彦「不動明王像」 昭和10年代(1935~44)
伝統的な不動明王の図像を用いながら、靫彦らしい軽やかで清廉な筆線でまとめています。本図とほぼ同じ構図の作品を、靫彦は昭和10年の第一回踏青会という展覧会に出品しています。
 ここに注目!
不動明王は仏教で信仰の対象となる尊格ですが、偉さのレベルでいうと3番目(「如来」「菩薩」「明王」「天」)。それゆえか、一般的な形式にあたる幢補(どうほ)表装で仕立てられています。目を凝らしてみると、一文字が本紙をぐるりと取り囲んでおり、「行の真」の形式であることがわかります。不動明王の髪と着衣のグリーンが上下の裂地のグリーンと呼応し、さわやかな一幅に仕上がっています。

20220727-11.png


安田靫彦「羽衣」
明治末から大正初め、靫彦が三溪の支援を受けていた頃の作品と考えられます。天衣をひるがえす天女は蓮華の籠を手にして描かれ、散華が舞うやさしい絵です。
ここに注目!
天女は、如来や観音を称えつつ、ガードマンとしての役割を果たす「天」部に属します。表装の形式も、一番オーソドックスな「行の行」の形式です。上下の水色の裂地が、天女が舞う空を連想させます。

安田靫彦(1884-1978)
東京生まれ。本名新三郎。
小堀鞆音(こぼりともと)に師事。東京美術学校(東京藝術大学の前身)中退。初期院展、文展に出品。国画玉成会を組織し、新感覚を示す歴史画で認められたが、再興日本美術院に同人として参加、中国・日本の古典に取材した格調高い新古典主義的作風を確立。
大正初めに三溪の援助を受け、三溪園での古美術勉強会に参加。安田靫彦の作品「夢殿」など、三溪旧蔵品も多数あった。

◎安田靫彦が語る原三溪
明治44年11月頃、原三溪氏は岡倉天心先生から話があり、今村紫紅、小林古径、前田青邨、それに私とが、同氏から生活面の援助を受けることになり、紫紅と私は小田原に家を持った。
翌45年頃、丁度三溪園の造園中で、原氏の未曾有の大蒐集は絶頂に達せんとする時期で、我々は毎月のように三溪邸に招かれ、泊りがけで名品を拝見し、各々意見を述べあい、三溪氏も同輩の如くになって品評の仲間に入られ、他には田中親美氏だけを加えられた。これは氏の蘊蓄を自然の中に吾々に吸収させようとの配慮であったらしい。
こうした原氏の宏量と高識と謙虚な人柄に接するうちに、誰からともなく三溪先生と呼ぶようになり、泊りがけのこの会は集まる度に東洋画の名品が数点、時には十数点が加えられ興奮夜を徹することさえ度々であった。この楽園的会合は1年半か2年程も続いたかとおもう。
出典 安田靫彦「原三溪翁を偲びて」 
『原三溪翁生誕百年記念 近代日本画大家展』図録 昭和42年

原三溪「観音経」昭和10(1935)年
三溪が友人・中村房次郎のために浄書した観音経。華麗な料紙装飾は古筆・絵巻研究家の田中親美によるものと推定されます。親美は国宝「平家納経」の復元に尽力し、本作品も平家納経を参考にしたと考えられます。先頭の表紙竹は飾り金具、軸は水晶、表紙・見返し・本紙にも金銀箔を散らして荘厳し、心を込めてつくられたことがわかります。



スポンサーサイト



人類最強の敵(52)

 6月27日に掲載した(51)の最後で、東京都心の最高気温が35℃を超える猛暑が3日つづいたと述べたが、本日28日もまた猛暑日となり4日連続、6月史上初となる。予報では3日先まで同様と言う。後日判明したことであるが、7月3日(日曜)まで9日連続の猛暑日の晴れがつづく異常な事態となり、翌4日からは台風4号が九州に接近、一転して全国に豪雨と落雷・突風等をもたらす事態が予報されている。
 昨日27日の関東甲信・東海の梅雨明け宣言につづき、広く全国的に梅雨明けの宣言があり、残るは東北のみ、6月中の広域梅雨明け宣言は史上初である。
 熱中症に気を付けなければならない。2回も熱中症にかかった経験から、夕刻の室内作業にはとくに注意が必要である。万一、熱中症となった場合、その症状がコロナ感染と区別がつきにくいのが困ると医師たちが言う。
 この<異常気象>の要因がどこにあるのか、太平洋域の海温上昇が要因とする説があるが、なぜそうなるのかは誰も触れていない。

【岸田首相がG7サミットに参加】
 この間、26日からドイツ南部バイエルン州のエルマウでG7サミットが、ついで29日からはスペインのマドリードでNATO(北大西洋条約機構)の首脳会議が開かれ、日本から岸田首相が参加した。
 G7サミット(主要7か国)首脳会議は、フランス、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダの7か国とEU=ヨーロッパ連合の首脳が参加して、毎年開かれる。ロシアも加わりG8サミットとして開催されていたが、2014年にロシアがウクライナ南部のクリミアを一方的に併合したことを期にロシアは除外され、再びG7サミットとして開催されている。
 今回招待されたのは、インド、インドネシア、南アフリカ、アルゼンチンのG20(主要20か国・地域)4か国とアフリカ連合(AU)議長国のセネガル。
 G7と招待5か国が発表した共同声明では、食料やエネルギー安全保障、新型コロナ対策などでの協力が盛り込まれた。民主主義国として、ルールに基づく国際秩序を促進するため「他国の領土一体性と主権の尊重」や「自由で独立したメディア状況の確保」などを列挙し、ロシアや中国を強く意識する内容となった。ただ、ロシアや中国という言葉はなく、対露制裁への言及もなかった。
 首相官邸のホームページによると、6月27日(現地時間)、シャルル・ミシェル欧州理事会議長と会談を行った後、カナダのジャスティン・トルドー首相と会談を行い、続いてウクライナ情勢を議題としたセッションに出席した後、米国のジョセフ・バイデン大統領と会談を行った。午後には、G7及び招待国首脳との集合写真撮影に臨んだ後、気候、エネルギー、保健を議題としたセッションに出席、続いてセネガル共和国のマッキー・サル大統領と会談を行った後、南アフリカ共和国のシリル・ラマポーザ大統領とあいついで会談を行った。
 来年・2023年の議長国は日本が務めることになっていて、サミットは岸田総理大臣の地元・広島で開催される予定である。

【岸田首相がNATO首脳会議に参加】
 29日午後(日本時間同日夜~30日未明)、岸田首相は訪問先のスペイン・マドリードで、北大西洋条約機構(NATO)首脳会議に「パートナー国」として出席する。日本の首相としては初めて。軍事的に台頭する中国を念頭に、「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」としてNATO諸国との連携を訴える。
 岸田氏は、ロシアのウクライナ侵攻で国際秩序が揺らぐなか、法に基づく「自由で開かれたインド太平洋」の重要性を主張する。日本を発つ前の25日夜、記者団に「この機会を捉えてNATOとの連携を新たなステージに引き上げたい」と強調していた。
 中国による尖閣諸島周辺での領海侵入や東シナ海でのガス田開発といった現状を伝えたうえで、NATO諸国と結束し「力による一方的な現状変更はどの地域であっても認められない」とのメッセージを打ち出し、中国を牽制したい考えだ。
 日本とNATOはこの10年間で接近した。2013年にNATOのラスムセン事務総長(当時)が来日、日NATO間で「共同政治宣言」を発表。「グローバルな安全保障上の共通の課題について緊密に協力する決意」が示された。 
 また同地において、6月29日(現地時間)、NATO(北大西洋条約機構)首脳会合出席のためスペイン王国のマドリードを訪問している岸田首相は、アメリカ合衆国のジーン・シャヒーン上院議員一行による表敬を受けた後、スウェーデン王国のマグダレーナ・アンデション首相と会談した。午後には、オーストラリア連邦のアンソニー・アルバニージー首相、ニュージーランドのジャシンダ・アーダーン首相及び大韓民国の尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領とNATOアジア太平洋パートナー(AP4)の初の首脳会合が行われた。
 その後、スペインのペドロ・サンチェス・ペレス・カステホン首相と会談、続けて、米国のジョセフ・バイデン大統領及び韓国の尹大統領と日米韓首脳会談を行った後、NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務総長と会談した。その後、NATO+AP4首脳写真セッションに臨み、続けて、NATO首脳会合パートナー国セッションに出席し、最後に、NATO首脳会合等について会見を行った。

【ウクライナが黒海のズミイヌイ島を奪還】
 7月1日のNHKの昼の放送で、「ウクライナ南部のオデーサ州の沖合にあり、ロシア軍が占拠していた黒海のズミイヌイ島(蛇島)について、ウクライナのゼレンスキー大統領は30日、新たな動画を公開し「ズミイヌイ島は再び自由になっている」と述べ、島を奪還したと強調した。
 ズミイヌイ島は軍事侵攻が始まった直後にロシア軍に占拠され、ロシア側が港湾都市オデーサとその周辺一帯を攻略する拠点と位置づけているとみられていた。ロシア国防省のコナシェンコフ報道官は30日「ウクライナから農産物を輸出するための『人道回廊』を設置するという国連の努力に、いかなる障害もないことを国際社会に示すものだ」と説明し、あくまでも自主的に軍を撤退させたと主張している。
 こうした中、南部オデーサ州の当局の報道官は1日、州内にある9階建ての集合住宅にミサイル攻撃があり、少なくとも10人が死亡し子どもを含むけが人がいると明らかにし、ロシア軍は南部での攻撃も激化させているとみられる。
 ロシア軍は穀物の海上輸送拠点である南部オデーサ沖に位置する同島を要塞化し、黒海を封鎖する露軍艦艇に向けた防空網の拠点としてきた。ズミイヌイ島の奪還が、ロシア軍艦艇による黒海封鎖やミサイル攻撃に影響する可能性がある。ウクライナ産の小麦輸出の障害を除くことができるか、あるいは南部や黒海周辺での反転攻勢につながるかが次の焦点となっている。

【今後の<サハリン2>】
 1日の日経新聞は、「ロシアのプーチン大統領が6月30日、同国極東の石油・天然ガス開発事業「サハリン2」の運営をロシア側が新たに設立する法人に移管し、現在の運営会社の資産を無償譲渡するよう命じる大統領令に署名した。同事業に日本から参加する三井物産や三菱商事は今後、運営の枠組みから排除される可能性が出てきた」と報じた。
 同じ1日のデジタル朝日は、ロシア極東の資源プロジェクト<サハリン2>について、ロシアのプーチン大統領が6月30日、運営会社の資産をロシアの新会社に移すことを定めた大統領令に署名したことを受け、次のように報じた。
 「日本は液化天然ガス(LNG)の輸入の8・8%(2021年)をロシアに依存しており、その大部分がサハリン2とされる。仮に供給がストップすれば、国内のエネルギーの安定供給に大きな影響が出る。
 エネルギー分野を所管する経済産業省は対応に追われた。ある幹部は「大統領令の中身を確認している。詳細がまだ分からない」と話した。別の幹部は「こうした事態を想定し、ロシア以外からの代替調達の検討をしてきた。頑張るしかない」と語った。
 サハリン2で生産するLNGの約6割は日本向けとされ、東京電力と中部電力が出資する火力発電会社JERAの他、東北電力や九州電力、東京ガス、大阪ガスなどが調達している。広島ガスのように調達量の半分近くを占めるところもある。
 LNG調達の約1割をサハリン2に頼る東京ガスは「情報収集中のため、今申し上げられることはない」(広報)、約2割をサハリン2に依存する東邦ガス(名古屋市)も「事実確認中のためコメントできない」(広報)としている。
 サハリン2には三井物産が12・5%、三菱商事が10%出資している。三菱商事は「大統領令は認識している。日本政府などと連携し対応を協議中。足元で生産は継続している」とコメントした。
 LNGは、石炭や石油と比べて代わりの調達先の確保が難しいとされる。エネルギーの「脱・ロシア依存」を急ぐ欧州もLNGの確保に動いており、価格は高騰している。日本企業は通常、長期の契約で調達しているが、価格の高い短期契約で市場から買うことになれば、日本国内の電気代やガス代のさらなる値上がりにもつながる。
 日本は主要7カ国(G7)で足並みをそろえ、ロシア産の石炭や石油の段階的な禁輸の方針を示してきた。ただ、LNGは代替調達が難しいこともあり、ロシアへの制裁でも踏み込んでこなかった。
 サハリン2は日本へのLNGの輸出拠点で、日本の商社とともに参加していた英石油大手シェルは撤退を決めた。日本国内でも権益を手放すべきだとの声も一部にあったが、政府は「エネルギー安全保障上、極めて重要なプロジェクトだ」(経産省幹部)として撤退しない方針を示していた。
 萩生田経産相は5月の国会で、「地主はロシアかもしれないが、借地権・掘削権・プラントの地上権は日本政府も含めた日本企業が権益を有している。どけと言われてもどきません」と答弁し、権益を維持する姿勢を示していた。」

【そごう・西武売却の行方】
 2日の日経新聞は、「そごう・西武売却、米ファンドが交渉権 ヨドバシ連携も」の見出しで、次のように報じた。
 「セブン&アイ・ホールディングスが進めている百貨店子会社そごう・西武の売却について、投資ファンドの米フォートレス・インベストメント・グループが優先交渉権を得たことが2日わかった。提示額は2000億円を大きく超えたもよう。
 フォートレスはソフトバンクグループ傘下の投資ファンドで、不動産会社のレオパレス21や国内ゴルフ場最大手のアコーディア・ゴルフ・グループへの投資実績がある。フォートレスは不振が続くそごう・西武の再建について、家電量販店大手のヨドバシホールディングスと連携に向けた協議も進めている。
 そごう・西武は全国で10店舗を展開し、2022年2月期まで3期連続の最終赤字と経営不振に陥っている。西武渋谷店(同・渋谷)やそごう横浜店(横浜市)などの有力店が首都圏に集中しており、売却後の地方店の扱いも焦点となる。
 そごう・西武の売却が完了すれば、セブン&アイはコンビニエンスストア事業への経営資源集中を加速する。祖業の総合スーパー、イトーヨーカ堂についてはセブン&アイの井阪隆一社長は「同じグループにあることが将来の成長に資する」と売却しない考えを示している。」

【参院選のラストサンデー】
 7月3日(日曜)、第26回参院選(10日投開票)は選挙戦ラストサンデーを迎え、各党党首や幹部らが全国で支持を訴えた。自民党の岸田首相は東京・渋谷で東京選挙区(改選数6)に新人生稲晃子氏を皮切りに現職朝日健太郎氏、その後は北海道2カ所の応援に駆けつけた。菅義偉前首相も自身に近い朝日氏の応援でフル回転するなど、ポスト参院選をにらみ、派閥を中心とした勢力争いの動きが浮き彫りとなっている。

【KDDIの通信障害】
 4日朝の日経新聞は次のように報じた。
 「KDDIは4日、2日未明から発生していた通信障害が13時時点で「全国的にデータ通信はおおむね回復している」と発表したが、接続の制限を継続しており音声通話がつながりにくい状況が続いている。通信障害は発生から2日がたったが、全面的な復旧には至っていない。物流ではなおドライバーの音声通信ができないなど影響が続いている。
 今回の障害は音声電話や通信だけでなく、物流や自動車のサービスなど多様な業種に影響が広がった。JR貨物ではコンテナの位置を把握する機器が使えず全国で列車が遅延したほか、トヨタ自動車などではコネクテッドカー(つながる車)のサービスが一部で使えなくなった。」
 この事故はさまざまなことを教えてくれる。事故の原因、復旧作業の遅れの要因等の解明もさることながら、敵意を持った集団によるサイバー攻撃に対する弱さを露呈した。一企業、所管の総務省の問題にとどまらず、安全保障の基本にかかわる重要問題である。
 
【中国からロシアへの輸出】
中国の輸出相手国ランキング(2021年)は以下のとおり。対ロシアは15位で、その比率はきわめて低く、上位に並ぶのは米欧・日本である。中国としては米欧や日本・韓国・ベトナムから二次制裁を受けるのを敢えて冒してまで対ロシア輸出を優先させるとは思いないとする見解がある。
1位 アメリカ(中国の輸出額に占めるシェアは17.2%)
2位 香港(同10.3%)
3位 日本(5%)
4位 韓国(4.5%)
5位 ベトナム(4.2%)
6位 ドイツ(3.4%)
7位 オランダ(3%)
8位 インド(2.9%)
9位 イギリス(2.6%)
10位 台湾(2.3%)
11位 マレーシア(2.3%)
12位 タイ(2.1%)
13位 メキシコ(2%)
14位 オーストラリア(2%)
15位 ロシア(2%)
これを見ると中国にとってロシアは、「どうでもいい輸出相手国」といえる。国際関係ジャーナリストの北野幸伯は、中国が事実上、対ロ経済制裁に加わっている証拠を提示。すなわち中国は日米欧等による<二次的制裁>を恐れて、ロシアへの輸出を38%減らしている。
2月の中ロ共同声明で「両国の協力に上限はない」とした習近平は、プーチンにウソをついたのか?と自問し、北野幸伯は次のように自答した。「そのとおり。習近平は、プーチンにウソをついたのです。なぜ、ウソをついたのでしょうか? ロシアを守るために欧米日とケンカすると、あまりにも損失が大きすぎるからです」と。

【ジョンソン英首相が辞任表明】
7日の日経新聞は、【ロンドン=中島裕介】で次のように報じた。「ジョンソン英首相は7日、「新しいリーダーを選ぶプロセスを始めるべきだとの意見に同意した」と述べ辞任を表明した。首相官邸前で記者団に語った。新型コロナウイルス対策の行動規制下でのパーティー開催問題など政権の不祥事が相次いだことで、閣僚らが大量に離反し続投が困難になっていた。
ジョンソン氏は後任を選ぶ与党・保守党の党首選の日程が来週に示されると表明した。新党首の選出までは首相の職務を続ける方針も示した。ジョンソン氏は欧州連合(EU)離脱の実現などの実績を挙げ「この政権の功績を誇りに思っている」と語った。「世界最高の仕事を諦める悲しさもわかってほしい」と無念さもにじませた。
後任首相には、ウクライナ危機への対応で評価を高めるウォレス国防相や新型コロナ危機下での経済政策で評価を高めたスナク前財務相、通商政策に精通するトラス外相らが有力視されている。」

【G20外相会議がバリ島で開催】
こうしたなか7日夕刻の毎日新聞は、「主要20カ国・地域(G20)外相会合が7日、インドネシア・バリ島で2日間の日程で開幕した。議長国インドネシアは、G20のメンバーではないウクライナのクレバ外相をゲストとして招待した。欧米の制裁対象に指定されたロシアのラブロフ外相も出席するため、ロシアのウクライナ侵攻を強く非難してきた欧米の外相らとの激しい応酬が予想される」と報じた。
 11月に開かれるG20首脳会議の前哨戦とも位置づけられる今回の会議は、7日夜の夕食会から始まり、8日に実質的な協議が実施される。テーマは、多国間主義の強化と食料・エネルギー危機への対応で、グテレス国連事務総長らがゲスト講演する。日本からは林芳正外相が出席した。
 同じ7日の【ジャカルタ時事】によれば、インドネシアのバリ島で7日夜、20カ国・地域(G20)外相会合の歓迎レセプションが開かれた。全体会合は8日に行われ、林芳正外相、ブリンケン米国務長官のほか、ウクライナに侵攻したロシアのラブロフ外相も出席予定。ロシアと西側諸国の外相が対面するのは侵攻後初となり、どのような外交戦が展開されるのか、注目される。
 また7日の朝日新聞デジタルによれば、「8日の本会合に先立ち、7日は参加国同士の二国間会談があり、夜にはインドネシア外務省主催の夕食会が開かれた。ただインドネシアの外相によると、日本を含む主要7カ国(G7)が夕食会を欠席。林外相は「ラブロフ氏のいる社交の場には出席できない」(日本外務省幹部)と判断したという。ロシアへの対応をめぐり、国際社会の分断が早くも浮き彫りになっている。」

【ウクライナ東部ドネツク州の攻防】
 7日の読売新聞は、【キーウ=安田信介】で次のように報じた。
「ロシア軍は、ウクライナ東部ドネツク州で攻勢を強め、主要都市スラビャンスクの市長は6日、連日の攻撃による死傷者が80人以上に達したと明らかにした。市長はまた、ロシア軍が国際条約で使用が禁じられているクラスター爆弾を使用していると非難した。
 5日には、民間人が多く集まる市場付近や住宅地がロケット弾などによる攻撃を受けた。水道の供給は止まり、市の約3分の1の地域で停電している。市内には現在も約2万3000人が残っており、市長は住民に速やかな退避を呼びかけている。ロシアが侵略する前の同市の人口は約11万人だった。
 ロシア軍はドネツク州に隣接するルハンスク州を制圧しており、英国防省情報機関は6日、ロシア軍がスラビャンスクを次の標的にしているとの分析を示した。ロシア軍は市の北方約16キロ・メートルまで迫っているとみられる。

【安倍晋三元首相(67)が演説中に背後から銃で撃たれ死去】
 8日午前11時過ぎ、日経新聞の速報が入り、次のように伝えた。
 「8日午前11時半ごろ、奈良市内の路上で街頭演説をしていた自民党の安倍晋三元首相(67)が襲われた。背後から銃で撃たれた。奈良市消防局によると、安倍氏は血を流して倒れ、ドクターヘリで奈良県橿原市の県立医科大付属病院に搬送された。意識不明の状態で、心肺停止とみられる。
 近くにいた警察官が男を取り押さえ、殺人未遂容疑で現行犯逮捕した。奈良県警によると、男は奈良市大宮町3、職業不詳、山上徹也容疑者(41)。銃も押収した。」
 参院選の最中の凶悪な事件である。自民党は山形県で遊説中の岸田首相をはじめとして諸大臣を東京に呼び戻して対応を協議した。諸外国では、治安の良いとされる日本の選挙中の凶悪事件に驚きを隠さない。…警察庁は警備局長をトップとする対策本部を設置した。
 安倍氏は午後0時20分に搬送され、心肺停止状態だったという。奈良県警によると左肩に1カ所、頸部(けいぶ)に2カ所の銃創があった。この日の夕方、搬送先の奈良県立医科大付属病院は8日の記者会見で、午後5時3分に死亡が確認されたと明らかにした。弾丸は体内からは発見されなかった。死因は失血死とみられる。県警は同日夜、遺体の司法解剖を始めた。
 現行犯逮捕された山上徹也容疑者(41)の自宅マンションへの家宅捜索で、手製の銃のようなものが数丁見つかったことが8日、奈良県警への取材で分かった。山上容疑者は海上自衛隊の元自衛官で、銃を組み立てる訓練を受けていた可能性がある。県警は奈良西署に捜査本部を設置、事件の全容解明を急ぐ。
 奈良県警の鬼塚本部長は、警護・警備に問題があったと発言した。容疑者が背後から近づくのに誰も対応していないことに言及した。

【参院選で自民大勝、首相は「戦後最大級の危機」と語る】
 10日の参院選で自由民主党が大勝した。獲得議席は、自民63、立民17、公明13、維新12が確定した。憲法改正に前向きな「改憲勢力」は非改選とあわせ、国会発議に必要な参院の3分の2を維持した。立憲民主党は改選議席を大幅に下回り、17議席にとどまった。公明党は13議席だった。…日本維新の会が12議席、国民民主党が5議席、共産党が4議席、れいわ新選組が3議席、NHK党、社民党がそれぞれ1議席、無所属が5議席を確保した。政治団体の参政党が1議席を初めて獲得した。
 岸田首相(自民党総裁)は11日、参院選の勝利を受けて党本部で記者会見を開いた。憲法改正に前向きな「改憲勢力」が国会発議に必要な3分の2を参院で維持した結果をめぐり「できる限り早く発議にいたる取り組みを進める」と表明した。改憲を政権運営の中心に据える考えだ。10日投開票の参院選は改憲に前向きな自民、公明、日本維新の会、国民民主の4党などが95議席を得た。非改選を含め179議席で参院の3分の2の166を上回った。
 首相は年内にも改憲論議を始める意向だ。秋に召集する臨時国会について「与野党全体で一層活発な議論を強く期待する」と語った。改憲に積極的だった安倍晋三元首相の死去に関連して「思いを受け継ぐ」と唱えた。一方で発議は容易ではない。改憲勢力内にも異論があり、足並みがそろわない可能性がある。
 公明党の山口那津男代表は10日の投開票後に「数合わせでなく、どういう合意を目指すかが大事だ。国民の理解を伴わなければ発議に到底及ばない」と強調した。公約でも「自衛隊を憲法上明記すべしとの意見があるが、多くの国民は違憲とみていない」と記した。
 首相は記者会見で新型コロナウイルスの感染拡大やウクライナ侵攻、物価高を当面の課題に挙げた。「戦後最大級の危機に直面し、有事の政権運営を考えなければいけない」と説いた。

【世界人口の現在と今後】
 11日の日経新聞【ニューヨーク=白岩ひおな】によれば、国連は11日、2023年にインドの人口が中国を上回り、世界最多になるとの人口推計を発表した。中国とインドは22年にそれぞれ14億人以上の人口を抱え、インドが中国を上回るのは1950年の調査開始以来初めてという。世界人口は11月中旬に80億人を突破するとの予測も明らかにした。
 7月11日の世界人口デーに合わせて報告書をまとめた。世界人口は11年に70億人を突破し、現在は79億4200万人に上る。国連の最新の推計では、世界人口は30年に85億人、50年に97億人、80年代には104億人でピークに達すると予想する。

【安部元首相の葬儀】
 12日午後、安部元首相の葬儀が港区芝の増上寺で行われ(喪主は妻の昭恵さん)、遺体を乗せた車が活動の主な場であった国会議事堂、首相官邸、自民党本部を一巡して夕方に増上寺に戻った。

【コロナ感染が急拡大】
 オミクロン株のBA,5を中心に全国的にコロナ感染が急拡大している。東京都は12日、新型コロナウイルスの感染者が新たに1万1511人確認されたと発表した。直近1週間平均の新規感染者は8941人、前週(約3778人)の236.6%。累計の感染者数は168万442人となった。1日あたりの感染者が1万人を超えるのは3月16日(1万220人)以来、約4カ月ぶり。新規感染者を年代別に見ると、20代が2310人と最も多く、30代が1954人、40代が1828人と続いた。65歳以上の高齢者は912人。ワクチンの接種状況別では、2回接種済みが7085人、未接種は2284人だった。
 この勢いは日ごとに増加している。20日の日経新聞によると、新型コロナウイルスの新規感染者は全国でおよそ15万2000人となり、1日あたりで過去最多となった。これまで最も多かったのは7月16日の11万660人(厚生労働省集計)だった。速報によれば、21日は18万6000人、22日は19万5000人、23日は20万超と連日、過去最高を更新している。
【ラブロフ外相、「ロシアの戦略変わった」と述べる】
 21日の読売新聞【ワシントン=横堀裕也、キーウ=安田信介】によれば、ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は20日、露国営の国際放送RTのインタビューで、ウクライナ南部のヘルソン州とザポリージャ州などの地域についても制圧を目指していると述べた。 露軍は首都キーウ周辺から撤退し、東部ドンバス地方(ドネツク、ルハンスク両州)制圧のため戦力を集中していたが、ラブロフ氏は「ロシアの戦略は、米欧が射程の長い重火器をウクライナに供与してから変わった」と述べた。
 また、米欧がウクライナ軍に射程の長い重火器を提供すれば「進軍地域はさらに拡大する」とけん制した。一方、米国のオースティン国防長官と米軍制服組トップのマーク・ミリー統合参謀本部議長は20日、オンライン形式で開かれたウクライナへの軍事支援会合に参加後、記者会見し、新たに高機動ロケット砲システム(HIMARS)4基を追加供与する方針(これまでと合わせて計16基)を明らかにした。

【様相が変わるウクライナ戦況】
 21日のテレ朝ニュースは、次のように報じた。
「ウクライナ軍は南部へルソン州にあるロシア軍が補給の要としている橋をミサイルで攻撃した。ロシアが制圧を宣言している地域の奪還へ向け反撃を強めている。
 ウクライナ南部へルソン州を実効支配する親ロシア派幹部によると、ウクライナ軍が20日、ドニプロ川にかかる要衝の橋を攻撃した。アメリカが提供した高機動ロケット砲システム「ハイマース」が使用されたとみられ「深刻な被害を受けた」と主張している。イギリス国防省はドニプロ川を巡る攻防が今後の戦況を左右する重要な要素になると分析している。
 米軍・制服組トップ、ミリー統合参謀本部議長:「ドンバス地方のルハンシクとドネツクでは消耗戦が繰り広げられている。ドンバス地方はまだ陥落していない。ウクライナ軍はロシア軍に犠牲を払わせながら抵抗を続けている」と強調した。」

【貿易赤字、1~6月過去最大7.9兆円 資源高響く】
 21日の日経新聞によれば、財務省が21日発表した2022年上期(1~6月)の貿易統計速報によると、輸出額から輸入額を差し引いた貿易収支は7兆9241億円の赤字だった。資源高が響き、赤字額は比較可能な1979年以降で半期として過去最大となった。中国経済の減速などで円安でも輸出数量が停滞し、輸入の伸びに追いつかない。半期としての赤字額は過去最大だった2014年1~6月の7兆6281億円を超えた。輸入額は前年同期比37.9%増の53兆8619億円に膨らんだ。半期で50兆円を超えるのは初めて。

【バイデン米大統領、コロナ陽性 軽症、隔離で執務】
 日経新聞【ワシントン=中村亮】によれば、米ホワイトハウスは21日の声明で、バイデン大統領が新型コロナウイルスの検査で陽性になったと発表した。症状について「とても軽度」と指摘し、重症化を防ぐ飲み薬の服用を始めた。当面は隔離しながら執務を続ける。ホワイトハウスによると、バイデン氏は21日午前の検査で陽性になった。19日の検査では陰性だった。米ファイザーの飲み薬「パクスロビド」を使っている。バイデン氏は2回の追加接種(ブースター接種)を含めて新型コロナのワクチンを接種済みだ。
 ホワイトハウスのアシシュ・ジャー新型コロナ対策調整官は21日の記者会見で、バイデン氏は鼻水やからせきの症状があると明らかにした。20日夜には倦怠(けんたい)感があり、よく眠れなかったという。バイデン氏は20日、東部マサチューセッツ州で遊説していた。 
 79歳のバイデン氏は米国の大統領として史上最高齢だ。ジャー氏はバイデン氏が高齢であることを問われて「ワクチンから得る免疫力や治療を踏まえると深刻な病気のリスクは著しく下がる」と説いたが、健康を不安視する声が高まる。
 なお23日、松野官房長官が新型コロナに感染、無症状で自宅で療養しているという。22日に発熱の症状があり、23日にPCR検査を受けたところ陽性だった。職務中は常にマスクを着用しており、官邸内に濃厚接触者はいないという。

【安倍晋三元首相の「国葬」、9月27日実施 政府が閣議決定】
 22日の朝日新聞デジタルは、次のように報じた。政府は22日、銃撃されて今月8日に亡くなった安倍晋三元首相の「国葬」を9月27日に日本武道館(東京都千代田区)で行うことを閣議決定した。葬儀委員長は岸田文雄首相が務め、費用は政府が全額負担する。元首相の国葬は、1967年の吉田茂氏以来、55年ぶりとなる。
 松野博一官房長官は22日の記者会見で、国葬とした理由について、憲政史上最長の8年8カ月にわたって首相を務めたことや、国内外から幅広い哀悼・追悼の意が寄せられていることなどを改めて説明。葬儀の名称は「故安倍晋三国葬儀」とし、22日付で内閣府に準備を行う事務局を立ち上げたと発表した。
 また、費用の財源や、形式については「一般予備費の使用を想定しているが、詳細は今後検討していく。無宗教形式でかつ簡素、厳粛に行う」と述べた。なお外務省によると、海外に国葬開催の通知を出すのは、日本と国交がある195カ国、台湾、香港などの4地域、国連などの国際機関。この中にはウクライナへの侵略を続けるロシアも含まれるという。

【穀物1.3兆円分輸出へ ロシア「約束履行」表明】
 19日、ウクライナ産小麦の搬出についてトルコのエルドアン大統領とロシアのプーチン大統領がイランのテヘランで会談した。国連とトルコが仲介役となり、ウクライナとロシアが黒海経由でウクライナ産穀物を輸出することで合意。22日、ショイグ氏とウクライナのクブラコフ・インフラ相がトルコのイスタンブールで、輸出再開と航路の共同監視を柱とする合意文書にそれぞれ署名した。
 23日の日経新聞【キーウ=共同】によれば、ウクライナのゼレンスキー大統領は22日夜のオンライン演説で、ウクライナ産穀物の輸出再開でロシアと合意したことに関し、ウクライナは約100億ドル(約1兆3600億円)相当の穀物を輸出できると述べた。合意の実効性が課題となる中、タス通信によると、ロシアのショイグ国防相は「ロシアは約束を履行する」と表明した。 
 ゼレンスキー氏は昨年収穫した2千万トンに加え、収穫が始まっている今年分が輸出可能だとした。米国家安全保障会議(NSC)のカービー戦略広報調整官は、輸出再開の成否は「ロシアが取り決めを守るかどうかにかかっている」と述べ、合意履行を求めた。
 ゼレンスキー氏は昨年収穫した2千万トンに加え、収穫が始まっている今年分が輸出可能だとした。米国家安全保障会議(NSC)のカービー戦略広報調整官は、輸出再開の成否は「ロシアが取り決めを守るかどうかにかかっている」と述べ、合意履行を求めた。
 ゼレンスキー氏は「ウクライナが戦争に耐えられることを示す証拠だ」として合意を歓迎。一方、ロシアが2月の侵攻後に海上を封鎖し、港湾や鉄道、倉庫、サイロを攻撃して輸出を妨害したと非難した。

【合意翌日のロシア側ミサイル攻撃に避難】
 23日晩の日経新聞【カイロ=久門武史】によれば、ウクライナ軍は23日、黒海に面した南部オデーサの商業港がロシア軍のミサイル攻撃を受けたと発表した。両国はロシアの黒海封鎖でウクライナ産穀物の輸出が滞っている問題で、22日に輸出再開に向けた合意文書に署名したばかりだった。
 ウクライナのゼレンスキー大統領は23日、オデ-サ港への攻撃を受け、「ロシアは何を約束しようとも履行しない方法を見つける」と批判した。国連のグテレス事務総長は「明確に非難する」との声明を報道官を通じて発表し、穀物輸出再開の合意を履行するように改めて訴えた。トルコのアカル国防相は、攻撃についてロシアから「全く関与していない」と説明を受けたと発表した。
 この事態を受け、ブリンケン米国務長官は23日、ロシア軍がウクライナ南部オデ-サの商業港をミサイル攻撃したことを「強く非難する」との声明を発表した。 
 ウクライナ産穀物の黒海経由の輸出につて合意したことに中東やアフリカ諸国の輸入国が大歓迎の意を表した直後のロシアの軍事行動は、世界を落胆させたのみならず、これからの対ロシア行動について、<合意>とその履行への<信頼>を再考させる契機となるかもしれない。


 この間、以下の録画を視聴した。(1)BS1スペシャル「デジタル・ウクライナ:衛星が変えた戦争」6月30日。 (2)国際報道2022「北欧2国のNATO加盟をトルコが一転支持」30日。 (3)BS6報道1930「習主席 香港式典出席の狙い 強まる統制、”封鎖”上海の共通点」7月1日。 (4)国際報道2022「香港返還25年で言論の自由はいま」1日。 (5)週刊ワールドニュース(6月26日~7月1日)2日。 (6)BS6報道1930「円急落・物価上昇でも利上げに動けない日銀、”異次元”死守のワケ」4日。 (7)BS世界のドキュメンタリー「私たちは屈しない」4日。 (8)国際報道2022「ウクライナ復興会議開催 狙いは」5日。 (9)BS6報道1930「【なぜ不足? ニッポンの電力】 頼みは節電と太陽光? 原発再稼働の議論も」5日。 (10)国際報道2022「経済制裁下のロシアはいま」6日。 (11)BS6報道1930「【投資しない国ニッポン】少子化・教育・年金…税金の使い道を再考」7日。 (12)国際報道2022「アフガニスタン地震から2週間 進まない支援」7日。 (13)国際報道2022「ジョンソン英首相 与党党首の辞意を表明」8日。 (14)週刊ワールドニュース(7月4日~8日)9日。 (15)国際報道2022「G20外相会合 対立鮮明に」9日。 (16)クールジャパン「”あなたの街のラフかディオ”スペシャル」9日。 (17)BSスペシャル「ロシアジャーナリストの闘い」10日。 (18)BS朝日日曜スクープ「安部元総理、街頭演説中に銃撃され死亡」10日。 (19)BS6報道1930「安部元総理襲撃の衝撃 参院選後に政局を読む」11日。 (20)NHK総合 映像の世紀バタフライエフェクト「太平洋戦争 ”言葉”で戦った男たち」11日。 (21)BS世界のドキュメンタリー「スペース・ウォーズ 宇宙空間 軍拡競争の現実」12日。 (22)BS6報道1930「ウクライナ復興の課題 汚職が障壁 学位も金で買える?」12日。 (23)日経ニュース プラス9「新型コロナ”BA.5"拡大! どうなる夏休み」12日。 (24)Eテレ先人たちの底力 知恵泉「千年企業~時をかける! 世界最古の匠の技」12日。 (25)ダークサイドミステリー「笑顔が暴力を生んだ夜~なぜ人々はヒットラーに従った?」12日。 (26)NHKスペシャル「追跡、”謎の中国船~”海底覇権”を巡る攻防~」13日。 (27)BS6報道1930「【ウクライナ最新情勢】ロシア「電子戦」復活 ”圧倒的火力”で優位に?」13日。 (28)BS7日経ニュース9「狂乱!? 物価高の行方~景気後退する? 円安どこまで?」13日。 (29)BS6報道1930「中東”核武装”ドミノ 隠された狙いは中国か、新クアッドに米の深謀」14日。 (30)BS6報道1930「【追い込まれたバイデン大統領が中東訪問】犬猿サウジ皇太子と手打ち?」15日。 (31)週刊ワールドニュース(7月11日~14日)16日。 (32)BS1スペシャル「キーウ 市民たちの抵抗~映画監督が見つめた戦時下の首都~」17日。 (33)BS1スペシャル「メタバースがやってきた~仮想世界の光と影」17日。 (34)BS朝日日曜スクープ「安部首相「不在」…岸田政権と安全保障への影響は」17日。 (35)BS1 小さな旅「桜ときをこえて~岩手県北上展勝地(150種の桜)」17日。 (36)BS7日経ニュースプラス9「三重苦の欧州経済~通貨安・インフレ・ガス不足」18日。 (37)にっぽん歴史鑑定「古代史ミステリー 日本初の女性天皇 推古天皇」18日。 (38)BS6報道1930「日本”破綻” 円売り投機筋勝負あり 日銀は動かない」19日。 (39)BS6報道1930「プーチン氏 イラン訪問 ドロン調達か 貨物列車開通の思惑」20日。 (40)BS7日経ニュースプラス9「スリランカの次は? 中国・債務の罠の実態は」20日。 (41)日本周辺で軍事行動が活発化! その狙いは」21日。 (41)BS6報道1930「患者急増 第7波の真実、ワクチン4回目必要か」21日。 (42)BS6報道1930「旧統一教会と日本政治 ”教団票”で選挙支援”政界浸食”の原点は」22日。 (43)週刊ワールドニュース(1月18日~22日)23日。 (44)BS1スペシャル「癒着 中国受験街~”高考”(ガオカオ)運命の3日間」24日。

大学一年生の三溪園印象記

 横浜市立大学の一年生31名が、6月30日(木曜)、滝田祥子教授(社会学)の教養ゼミのフィールドワーク先として三溪園へやってきた。

 事前の打ち合わせで私が考えたのは、これまで座学で行ってきたことを三溪園をフィールドに行うには、どこに焦点を置くべきかである。各人が思うままに園内を回り、その過程で15~20分ほど私が案内するやり方はどうか。

 これまでの座学では、次の6つ分野に分かれて発表と討論を重ねてきたという。A.アートと社会風刺、B.アートと観光、C.アートと消費生活、D.アートと食、E,アートと海外文化、F.アートと戦争。これらを踏まえてフィールドワーク先として三溪園が選ばれた。

 三溪園の持つ魅力を一年生の有する新鮮な感性とどう結びつけるか。余計な知識の付与は不要であり、代わりに彼らの持つ感性をいかに高めるか。庭園そのものがアートであり、それに触れることで何かを得てくれると期待、また三溪記念館の展示「夏の訪れ」は三溪の描いた絵を中心に構成してある。

 考えてみると大学を離れて20年が経つ。孫ほどの年齢の31名を迎えると思うとワクワクした。

 全員を1つの会場に集める場所がないうえ、人数が多すぎると対面会話の効果が薄れる。雨天の時も考え、全員を3班に分け、定時に集合することにした。
 ①矢箆原(やのはら)家住宅(合掌造り)が9時半~
 ②旧燈明寺本堂が9時50分~
 ③内縁の三溪記念館が10時15分~

【5分間でなにを伝えるか】 
 移動時間を考えると、各所にいられるのはわずかに15分、そのうち後述の通り学生一人一人との対話が1分とすれば、私が伝えたいと思うことを話す時間は5分もない。
 そこで事前学習の資料として学生に次の3つを伝えてもらった。
(1)リーフレット「三溪園」を読み解いて、三溪園の歴史(形成過程)を導き出す
(2)「都市横浜と三溪園」を考える材料として添付の「略年表」を使う
(3)三溪園ホームページを検索して、謎解きに挑戦する(複数人でやると良い)

 そのうえで3つの会場で話す内容をほぼ決めた。
 (1)合掌造りの囲炉裏を囲んで話す場では、「略年表 都市横浜と三溪園」から開国・開港の簡史と原善三郎の功績。この善三郎(埼玉県の渡瀬出身)の孫娘と結ばれるのが岐阜県出身の青木富太郎、のちの原三溪であり、みずから三溪園に住まいの鶴翔閣を造り、三溪園という独自の庭園美を生み出す。以来、今年が100年。
 (2)次の旧燈明寺本堂(戦後の1987年に移築)では、はるか上方にそびえる三重塔(1914年に移築)を見せ、この2つの建造物が73年ぶりに三溪園で再会したこと、ついでリーフレットから三溪園の概要と形成過程の特徴、三溪園の歴史、外苑と内苑等を 伝える。
 (3)最後の三溪記念館では、三溪は稀代の実業家、生糸貿易+生糸製造(富岡製糸場を承継)であるとともに、画家+画家の育成(芸術支援)+庭造りに専念したこと、また三溪が尊敬した5歳年長の岡倉天心(東京美術学校校長)の提案で古社寺保存法(文化財保護法の前身)が成立、その意図を汲んで三溪は、京都や鎌倉から存続の危機にあった古寺を移築し三溪園を作った等を伝える。

 学生諸君は私の話の3分の1だけを聴くことになるが、問題なかろう。滝田教授、副担当の江口みなみさん(元横浜美術館学芸員)、金澤喜一さん(大学院生)の3人だけが、私の3つの異なる説明を通して全体を結びつける立場にある。

 6月30日は、待春軒(園内にある3軒の茶屋の一つ)を経営してきた松平夫妻の最後の営業日に当たっていた。7月後半から新装開店となる。滝田教授、金澤さんと3人で待春軒最後の<三溪そば>(三溪自らが考案したジャージャー麺に似たそば)を食べながら、<反省会>をした。金澤さんの得た印象を聞くと、年齢が一年生に近いだけ参考になることが多い。

【苦肉の策】
 フィールドワークの暑い日から10日ほど経ち、レポートが集まってきたと、滝田教授から連絡が入った。ぜひ読ませてほしいと返信。転送されたレポートがとて面白い。自由に園内を散策してもらい、そのうち15分間だけ3つの場所のどこかに集まり、私と対話しながら話を聞くという方式が誤りでなかったようである。

 そのレポートをぜひとも本ブログで伝えたいと思った。ところが、レポートをブログに転載する許可を事前に学生たちから取っていない。そこで苦肉の策として、届いた分のレポートを匿名で抄録させてもらうこととした。

 レポートの提出にさいして、その構成要素として次の3点が指示されていたようである。(1)タゴールが三溪園滞在中に詠んだ詩集『迷い鳥』(川名澄訳 風媒社 2010年)の冒頭から31番までを抽選で順に割り当て、その解釈を記す(これまでの座学の復習を兼ねる)。(2)三溪園で集合した場所および私から聞いた話の印象を記す。(3)これらを踏まえて全体の印象を記す。以下に転載するのは、主に(2)と(3)の一部である。

【合掌造りの囲炉裏を囲んで】
  私はまず学生一人一人に、三溪園の印象を一言で話してもらい、その一言を書き留めてほしいと名簿を渡しておいた。
 ボランティアさんが囲炉裏に薪をくべると煙があたりに立ち込め、2階へと昇って行く。初めて見たと言う者、煙りを避けようとする者、あるいは煙を浴びるのが好きという者。彼らの育った幼少時の環境がなんとなく分かる。
 さっそく三溪園の印象を「一言で」と促す。10人に順に声をかけると、想定した以上に屈託なく話す学生たち。<自然>、<緑>、<曲がった道>、<おちつく>、<鳥たち>、<有機的>…等々。

 以下が学生レポートの抄録である。
 
Aさん
 浦賀にペリーが来たときのことについてのお話を聞きました。日本に外国の軍艦で来航したにもかかわらずドンパチが起こらなかった一つの要因はオランダ語で交渉したからだそうです。
 横浜には今まで幕府や天皇がいたわけでもないのに栄えた理由として、ペリー来航が大きな要因になっているそうです。…
 なぜ今横浜が大都市として栄えているのか知るきっかけになりました。私は生まれた時からずっと横浜市に住んでいるのですが、そのことについて考えたことがありませんでした。横浜は港町として栄え、大都市へと発展してきたが、それは多くの昔の偉人たちの頑張りがあってのものなので、大切に守っていくべきであると改めて思いました。このように町の歴史を学ぶことでその町の魅力に気付けるのだと考えました。…
 三溪園は自然の多いとてものどかな場所でした。とても暑かったのですが、木々の隙間からくる風や、影など、自然のもので暑さをしのげてとても気持ち良かったです。
 また、園内で掃除や草刈りをしてる人がたくさんいて、この自然は人々の力によって保たれていることを目の当たりにしました。この自然は昔の人が守り、受け継がれてきたものだということを忘れてはいけないと思いました。
 季節によって見ることのできる風景が変わってくると思うので、また三溪園に行きたいと思っています。今回は何人かの友達とまわったけれど、一人で行ってみるのもいいなと思いました。また、横浜の歴史に詳しい方と行き、色々なつながりを聞きながら見るのも楽しいと思った。

Bさん
 加藤先生のお話は…、日米和親条約などの日本の開港についてであった。当時ペリーは2回訪れており、その時には争いごとは一切起きず、オランダ語で交渉したというのが話の概要であった。時間がなくてそこまでしかお話をお聞きすることはできなかったが、私は改めて横浜は日本が開国する時から日本の近代化が進むまであらゆるところで横浜は重要な場所であったと考えた。日本の近代化は横浜がなければ遂げられていないと思う。そのような近代化を支えた横浜で次々と工業化が進む中で、原三溪は心の落ち着く自然豊かな場所を横浜に残しておきたかったのだろうと考えた。
 全体の感想としては、普段自然とあまり関わる機会がない暮らしをしている私たちにとって、三溪園のような静かで落ち着いた環境はとても新鮮であった。普段は電車や自動車の音、人々が活動する音が溢れかえる中で生活しているが、三溪園に入ると、そのような音は遮断され、風の音や虫の音が聞こえてきた。心がとても落ち着く体験だった。しかし、三溪園を整備している方のお話を伺うと、あのような美しい景観は人の手が加えられないと保つことができないということを知った。
 私が見ていたのはありのままの自然ではなく、整備されたものを見ていたことがわかった。ということは、今回フィールドワークをした三溪園についてはそういった意味では1つのアートであると考えた。タゴールもそのアートとしての三溪園に心を動かされたのだと思う。今回のフィールドワークを通して、アートというものは私たちの生活に深く根ざしているということを改めて知ることができた。そして、たまには時間がある時には一人で自然に触れるという体験も大切であると感じた。

Cさん
 この三溪園がある土地(横浜)で、1854年に日米和親条約が調印された。調印(交渉)の際に用いられた言語は英語ではなくオランダ語であった。小さな村から始まった横浜村が徐々に人口を増やしていき、現在の大都市横浜市へと発展していった。横浜に限らず、各都市や町にはそれぞれの歴史背景が隠されているため、年毎に比較をすることで新たな面を見つけることができ、理解しやすくなる。…
 加藤先生のお話を聞き、その都市を理解するには都市の歴史から学ぶことが重要だと考えた。同じ都市はどこにもなく、それぞれが辿ってきた変遷などで現在の姿を描くことができるからだ。横浜を例にすると、日米和親条約を始めとして外国と日本をつなぐ玄関口となり、発展していき現在のような大都市に発展した。この事例のように、歴史と都市発展を結びつけることで今の姿を理解することができる。また、大都市に発展したからこそ、横浜の人々が安らぎを求め三溪園に足を運び、今でも都市の中で自然を感じることができる、都市らしくない場所として三溪園が残り続けているのだと感じた。昔も今も人々が三溪園に求めるものは同じであり、大都市になったが故に残り続けられる庭園だと考えた。また、加藤先生がお話の最初におっしゃっていた、「三溪園は作られた庭園である。」という言葉がとても印象的だった。庭園は全て人間の手によって作られた、人工的なものだが、三溪園は安らぎをテーマにそのコンセプトが伝わりやすい庭園だと感じた。人々が安らぎを感じる最大限の仕掛けやデザインがされていて、時代が変わってもコンセプトが一貫しているところが率直に良いと思う。

Dさん
 我々が参加した回では、加藤さんの用意なさったお話のうちの最初の段階のものを聞くことができた。主に江戸時代に日本が開国したことが中心であった。横浜が開港の地であることは明白であるが、それ以前にペリーは浦賀も訪れていたというエピソードは印象的であった。さらに、開港についてのやりとりを日本語でも英語でもなく、オランダ語で行ったというのも驚きであった。…
私自身、横浜市民であるので、開国についてのお話は何度も聞いたことがあったが、オランダ語でやりとりをしたエピソードは初めて聞いたので印象に残っている。火鉢を囲みながら歴史的な建物の中でお話を聞くのは貴重な体験であった。

Eさん
 私たちが三溪園に行った6月30日は何をしていなくても汗をかいてしまうほどのとても晴れた日だった。何度か三溪園に行ったことはあったが、これほど晴れた日に行ったことはなかったので、何もかもが鮮やかに見えた。…
 現代の家の雰囲気とは異なる、合掌造りの民家でした。馬屋があったり、行燈部屋があったり、現代では見ることの少ない部分も見られました。…
 加藤先生が用意してくださったお話の最初の部分を聞いた。まず初めに、「三溪園にきて何を感じたか」「三溪園に来たことがあるか」と聞かれた。その後、ペリーが黒船に乗って来航し、開国するときに武力が用いられず、平和に開国したことが珍しい事例だと知った。…
 中学時代に横浜開港記念館を訪れた時のことを思い出しながら聞いていた。当時のことをはっきりは覚えていないが、オランダ語で交渉がされたことは中学時代の事前学習時に調べていた。しかし、なぜオランダ語だったのかはわからなかった。今回のお話を通して、交渉時にオランダ語を用いるほどアメリカにとって日本の開国を望んでいたことにも納得がいった。

Fさん
 三溪園に来て何を感じたか?また、来たことがある感覚があるか?と問われた。その後、横須賀の浦賀で黒船が来航した際、武力による争いがなかったこと。横浜市に住んでいない人はそれぞれ自分が出身の地域があり、そこと横浜市を比較することができる。そして、それは大切なことだと述べられた。…
高校の個人研究の際に、日本の英語学習の原点について調べていたことがあり、黒船来航の際の話は非常に興味深かった。…
 普段よく見る横浜駅周辺のビルの栄えた雰囲気とは全く異なり、閑静な住宅街の中にある時代をそのまま閉じ込めた箱庭のような感じだった。夏もいいが他の季節に行ってみたいとも思った。大人になって日常に疲れたら一人で来てみたい。


【旧燈明寺本堂にて】
 ついで旧燈明寺本堂へ移動、別の学生10名と面会した。同じく「三溪園の印象を一言で…」と促す。短い時間でもいい、一人一人と対話をしたい、これが私の本音である。それを通じて私の話す内容がたんなる知識の付与ではなく、若い感性の中に入っていく入口を拡げる役割を果たせないか。私自身が大学一年生だった67年前の記憶が蘇る。「…あのときの、あの人の、あの一言と、その表情」を残してくれた先生方を想起する。換言すれば、各人の<内発力>(=内発的要因)に火をつけることである。

Gさん
 旧燈明寺本堂は、そこから見える旧燈明寺三重塔とともに京都の燈明寺から移築され、声明のために反響がしやすい構造になっている。三溪園は、人工的に手入れされた庭園ではあるが、横浜に多く見られた「谷戸」と呼ばれる地形を生かしながら、高低差や曲線などの自然に合わせてつくられている。現在は美しい新緑が、秋になると紅葉がきれいな良い木々が立ち並んでいる。
 短い時間ではあったが、加藤先生がこの三溪園を心から大切になさっていることがすごく感じられた。私は横浜出身でありながら三溪園は今回が初めてで、本当の日本庭園に初めて触れ、とても興味深く感じた。昔フランスでは人工的な庭園が、イギリスでは自然を創り出した庭園が、日本ではこの三溪園のように自然のなかに生きる庭園が好まれた。このような感性をもつ日本に生まれて改めて良かったと思える体験であった。

Hさん
 三溪園内は曲線状の道が多く、少し歩くと雰囲気が違う気がした。同じ庭園内であるはずなのに、内苑と外苑でも違った風情があった。
 また、園内はゆったりとしていて、そのためか地図などで見て、想像していたよりも大きく、広く感じた。
 そして、庭園内には何種類かの鳥や鯉などの魚や亀や蛇などの生き物がいて、横浜という都会の中にこんなに自然の生命力を感じられる場所があることに驚いた。…
 旧燈明寺本堂はお経を読む際に音が響くようにという設計がされているという事を聞きました。
 また、三溪園内の植物は365日手入れされていて、それによってあの綺麗な庭が保たれているということも知りました。
 三溪園には歴史があり、それを学び他の分野に生かしていくということが大切であるというようなことも聞きました。
 特に、園内の植物がしっかり世話や管理をされているというお話を聞いて、自分が知らないところでしっかりと人が動いてくれているということのありがたさを感じた。
 また、三溪園の建造物にはそれぞれの歴史があり、それを学ぶことによって、また違った角度から園内を散策し楽しめるのだろうとも考えた。

Iさん
 それぞれが三渓園をみて感じたことを話し、それについて感想をいただいた。
また、三渓園をリーフレットに載っている歴史と共に散策してほしいとおっしゃっていた。
 加藤先生がおっしゃっていたことのひとつで、三渓園は本当の自然ではなく、人の手によって管理された場所であるということが記憶に深く残っている。私は、三渓園や自然が多く残っている場所を訪れると、心のモヤモヤがすっとなくなり、自分の中では人口のものにあふれた世界から一時的に離れているように感じていた。しかし、加藤先生の言葉を聞いて、そういった緑があふれる場所に行って人の手が入っており、人の手から離れることは現代では難しいと少し悲しく感じた。だが、同時に少しの自然があるだけで人の心を癒すことができるということは、とてもすばらしく、道端の草木に少し意識を向けてあげることだけで、人の心は安らげると感じた。…
 大学生になってから、こういった一人になって、自分を見つめる時間を作れていなかったので、良い時間を過ごせた。もともと、散歩などが好きなのでぜひまた三渓園に行きたい。今度行くときは、ひとりか家族と一緒に来たい。一人でもっとゆっくりと自分の心と向き合いながら過ごしてみたい。

Jさん
 まず高いところを探しに行って見つけた場所が、三重塔付近の場所でした。そこから見える景色は絶景で良い眺めでした。下を見てみると、広大な三渓園の敷地の一部が見えました。けっこう、崖っぽくなっていたのでタゴールさんはここで詩を書いたのではないかなと思いました。愛ということについて考えたときに思ったのは、崖っぷちにある愛というのはもうすぐに崩れてしまうかもしれない愛なのかなと考えました。だからタゴールさんが伝えたかったのは、なにか辛いことなどが重なって追い込まれているときに、いろいろなものに対する愛を忘れてはいけませんよということなのではないかなと考えました。
 植物は一本一本個性を持っている。この時期の緑を楽しめ。歴史に思いをはせて歩いてみると良い!三渓園のリーフレットを完璧にマスターしたら、三渓園のガイドができるようになるかもしれない。
 遅刻してほぼお話を聞くことができなかったのですが、会った瞬間にこの方はすごい人なのだなというオーラを感じました。でも、電車の中で見つけたら話しかけてなどと、帰り際に仰っていてユーモアのある方だなあとも思う。


【内苑の三溪記念館にて】
 最後に内苑の三溪記念館に移った。同じように「三溪園の印象を一言で…」と促す。ここでの主な話題は、原三溪の人物と業績、そして現代に伝わるもの、これからも伝えつづけたいこと……である。すこし肩に力が入っているのに気づく。そこに偶然、中村暢子学芸員が通りかかったので、「展示の説明を1分でお願いしたい、とくに画家としての三溪について…」と要請。三溪の描いた絵を中心にした展示なので、絵を通して伝わる三溪の印象はまた格別に違いない。突然の要請に彼女は見事に応えてくれた。

Kさん
 開港後の横浜では日本と外国の商人が自由に取引を行っていた(居留地貿易)。それから横浜は着実に発展したが、それに貢献したのが原善三郎である。善三郎は生糸売込商として店を出し、初代市会議長を務めた。その孫娘に婿入りしたのが当時の青木富太郎であり、のちの原三溪である。原三溪は、英語が堪能だった岡倉天心に出会い、岡倉は1897年に古社寺保存法を作らせた。そして原三溪は存続不能な古建築を購入することで、文化財としての保存を進めた。…
 原三溪が古建築の保存を当時行っていなかったならば、現在ある重要な文化財は残っていなかったかもしれないと考えた。それゆえ原三溪が行ったことはとても偉大なことなのだと感じた。また、横浜という地が国際的に重要な役割を担っていたことは、今も当時も変わらないことなのだとも感じた。しかし原善三郎をはじめ、加藤先生のお話に登場した人物がいなかったならば、今のような大都市にはなっていなかったのではないかと思った。

Lさん
 私が三溪園で見つけたものの中で一番印象に残ったものは豊かな自然です。三溪園に入った瞬間まず大きな池が目に入りました。都会として知られている横浜にこのような大きな池があるのかと思いました。その後は林や竹林などの最近見ていなかった風景に心がとても落ち着くとともに趣を感じました。また、三溪園はただ自然であふれている場所ではなく、建造物や茶屋などもあり昔の村のように感じました。また、茶屋ではまるでおばあちゃんの家のような雰囲気を感じ、三溪園全体的な雰囲気としてなつかしさを感じました。今回は夏に訪れたので美しい緑の木々を見ることが出来ましたが、紅葉する秋にも来たいなと思いました。また、雪がうっすらと降っている景色も見たいなと思います。…
 三溪園は、明治時代末から大正時代にかけて製糸・生糸貿易で財を成した横浜の実業家・原富太郎が東京湾に面した三之谷と呼ばれる谷あいの地に造り上げた、広さ約53000坪の日本庭園である。三溪は芸術家や文学者などの文化人たちと広く交流したことでも知られている。また、三溪園は美術・文学・茶の湯など近代日本文学の一端を育んだ場所でもある。学術上・芸術上、そして鑑賞上優れていることから平成19年に国の名勝に指定され、庭園全域も文化財として位置づけられた。…
 私が加藤先生のお話や三溪園に行き考えたことは、三溪園はこれからもしっかりと次の世代へ受け継がれていくのだろうかということです。三溪園の中で働いている人は高齢者の方が多いように感じ、三溪園を訪れている人は年配の方が多いように感じました。加藤先生はこの三溪園はしっかりと整備をしなければこのきれいな庭園を維持することはできないとおっしゃっていたのでこの先維持をしてくれる人が出てきてくれないと横浜の中の憩いの場がなくなってしまうのでとても悲しく思います。

Mさん
 三溪園にてフィールドワークをした6月30日は立っているだけで汗ばむほどのとても暑い日だった。しかし、三溪園で木や草、花などの植物や魚などの動物といったたくさんの自然に囲まれてどこか涼しげで爽快な気持ちになることができた。私はタゴールの詩をはじめて読んだとき、普段は主役の花がわき役となっている姿を想像した。花は色とりどりで形もかわいらしく木や草よりも華やかに目立つ場合が多いが、この詩からは自然の隅っこで静かに咲く花の姿を感じた。三溪園を歩いていて見つけたのは緑に囲まれたなかに凛と咲くオレンジ色の花である。私はこの木の葉と花がタゴールの詩の中の世界を表していると感じた。しかし、写真を撮って考えが変わった。それはこの詩の中でも花は主役なのかもしれないということである。はじめはわき役となる花を想像したが、風で揺れ、ざわざわとなる木の葉のなかで、凛と静かに咲く姿がしっかりと自分の意見を持ち自立した人とも重なり、綺麗だと思った。…
 三溪園は1906年に原三溪によって一般に無料公開された。原三溪は岐阜県の青木家に生まれ、本名は青木富太郎である。幼少の頃から絵、漢学、詩文などのアートを学んでいた。1891年に横浜の商人である原善三郎の孫娘と結婚し原家の婿となった。加藤先生が思う原三溪の素晴らしいところは原家の実業を継ぎ、生糸輸出を始めるなど実業家として成功しただけでなく、住処であった三溪園内にある鶴翔閣で自ら筆を執り、作品作りを行い、さらには画家育成にも力を入れたということ。原三溪は様々な方面で活躍を収めていたことがわかった。…
 原三溪が多方面に尽力し、活躍した存在であることが印象的だった。実業家として成功をおさめながらも、アートの分野にも力を注ぎ、自らの作品を後世に残すこと、さらに若い画家の育成にも励むことは多くの人ができることではないと思ったため、原三溪の実力を感じた。…
 北海道で生まれ大学生になってはじめて横浜に来た私は、三溪園の存在も歴史や成り立ちも何も知らなかったため、三溪園で加藤先生から聞いたお話や見た景色が新たな知識となり、心に残る体験をすることができた。横浜に来てからの生活では地元にあるような大自然を感じることができていなかったので、三溪園の緑いっぱいの風景が懐かしい気持ちとともに、嬉しい気持ちを私にくれた。非日常的な特別な時間を過ごすことができた。三溪園ではゆっくりと時間が流れているような気がしたため、1年に1度ほどしか会えない祖父や祖母とともにもう1度来て、大自然の中でゆっくりとお話しながら楽しく過ごしたいと思った。三溪園自体が大自然のアートだと感じたが、園内にはカメラを片手に写真を撮る人や、風景画を描いている人を発見したため、人とアートをつなぐ場所でもあると感じた。園内に若者が少ない印象だったが、ぜひ若い人も行ってみてほしいと思った。詩の中の世界を見つけるためにたくさんの写真を撮ったが、写真を見返すと本当に景色が綺麗で、色鮮やかで、三溪園で感じた心晴れる爽快感を思い出すことができる。若い人は綺麗な写真を撮ったりその写真をSNSに投稿したりすることが好きだと思うので、三溪園の魅力を実際に肌で感じ、さらにそれを写真におさめることを薦めたいと思った。

Nさん
 三溪園には何度か訪れたことがあるが、いつ行っても静かで落ち着く場所だと思う。特に夏は気温や湿度が高くもやっとするが、三渓園は緑が多く、葉と葉が擦れる音が聞こえてくるため、爽やかな気持ちになった。また、植物だけでなく、鯉や鳥、猫もいた。…
 原三溪(青木富太郎)は岐阜出身の実業家で、画家でもあった。小さい頃から絵を描いており、その絵は三溪記念館に展示されている。また、自ら筆をとる画家でありながら、自身の住まいであった鶴翔閣で日本画家を育成していた。三渓の祖父の原善三郎は、商人であり、横浜の初代市議長に就任した人でもある。原善三郎が死去する前に、三溪は孫娘に婿入りし原富太郎となった。そして、三溪と交流のあった岡倉天心は、横浜居留地の石川家で生まれ育ち、英語を母語と同じくらい身に着けた。また、古社寺保存法を作ったり、東京美術学校の校長に就任したことのある人である。タゴールと岡倉天心には交流があり、タゴールが日本に来た際には三溪園に長い間泊まっていた。…
 原三溪は自分の敷地を皆に公開したり、画家を育てるために尽力するなど、文化の発展に貢献した人だと思った。原三渓のように日本の文化を守り、次の世代に継承していくことはとても大切なことだと思うし、自分も何かしらの方法で日本文化を守っていきたいと思った。

Oさん
 三溪園は日本を代表する庭園のため、枯山水のような場所もあると思ったが、自然豊かで都市化が進む現代の時間の流れを忘れさせてくれるような静穏な場所だった。また、緑映える自然、趣を感じる建物の対比がとても印象深かった。決して互いを邪魔するのではなく、それぞれがお互いの良さを引き立てているため、風情があった。
 松風閣の展望台へ行った際、三溪園の豊かな自然と首都高速湾岸線や広い工業地帯の両方を展望することが出来た。森閑としつつも幻想的で自然の力を秘めている三溪園、そして人間の手によって開拓された外界とのコントラストが、高度経済成長前後の日本を見ているようで、とても感慨深い気持ちになった。

Pさん
1.タゴールの詩 31番  ”樹木は私の窓へと伸びてくる、
            まるで口のきけない大地の恋い慕う声のように”
 屋内からの視点で、言葉を発することのできない大地を恋心を抱く生き物のように捉え、窓に向かって伸びる木を手のように表現しているのではないかと考えた。また、窓に向かって伸びる枝は定期的に切断されてしまうと考えられるため、叶うことのない切ない恋を表しているのではないかと思った。…
 横浜からバスで20分ほどの距離にあるのに、とても静かで涼しい場所だった。三溪園に入ってすぐに、大きな池とそこに浮かぶ一隻の船が見えた。その景色が今でも思い出せるくらいに印象が強く残っており、その時感じた寂しさや落ち着いた感じが自分の中での三溪園全体の印象を作り上げていると思った。… 
 加藤先生のお話の要約 三溪園の成り立ちや、原三渓の人生、横浜の歴史などについて関連づけながら話してくださった。
 考えたこと 原三渓は芸術の保護という点において重要な役割を果たした人だと思った。…
 三溪園は忙しい日々を送る現代人にとっての心の癒しであり、必要不可欠な存在だと思った。また、次に行く機会があったらその時は一人で行き、日常とはかけ離れた三渓園という空間を、他人の目を気にすることなく楽しみたいと思う。


Qさん
 三溪記念館で加藤先生からお話を伺った。原家初代の善三郎が、黎明期の横浜市の立役者であったこと、その孫娘婿の三溪が原家を継ぎ、三溪が日本古美術の保護や新進の芸術家の支援を行ったことなどを伺った。江口先生からお話頂いたことと共通する点もあったが、加藤先生のお話を通して、明治期の廃仏毀釈と三溪の活動の繋がりが見えた。単に日本古美術を愛好し、収集・保護をしたというのでも業績としては大きいが、それを、積極的に日本古美術を忘れ去ろうとする風潮の中で行ったことの、意志と意義の大きさを、改めて感じた。…
 自分の歩く音、遠くの話し声、鳥の羽ばたきや囀り、虫の声など、様々な音が遠くからでもくっきりと聞こえて、いつもと違う感覚を味わうことができた。自分が心の中で考えたことや、歩く中で伝わってくる感触に、ただただ集中して、一人で静かに気持ちを傾けるのが楽しかった。友人と共に、感じたことを分かち合いながら歩くのも楽しいだろうと思うが、自分の気持ちの赴くままに、立ち止まったり注視したりするのが、三溪園の楽しみ方として、私には一番合っていた。
 三溪が茶人だったため、園内に茶室が多くあったことも、茶道をかじった身としては、とても興味深かった。今回は、夏の盛りの青々とした緑が印象的な季節だったが、多彩な花々を見ることができなかったのが少し残念だった。次は、さらに多様な色が見られるだろう紅葉の季節に訪れたい。

年だからは思いこみ

 7月2日(土曜)、清談会の第34回会合が新高輪プリンス古希殿で開かれた。7日つづきの猛暑日(最高気温35℃超)にもかかわらず、6名全員が元気に出席した。清談会については本ブログで何回か取り上げている。
 永年幹事の小島さんが新しい「開催日時」の最新版を配ってくれた。初回は17年半前の2005年12月28日、新高輪プリンス イルレオーネとある。冬と夏の年2回開催で、今回が第34回である。
 清談会メンバーは横浜市立大学(以下、市大と呼ぶ)で、ある時期を共に過ごした面々、のちに他大学へ出た者、あるいは退職まで市大にいた者など、さまざまである。専門分野もまちまち、年齢順に専門分野を付して並べると、穂坂正彦(86歳、医学)、私(85歳、歴史学)、丸山英気(83歳、法学)、小島謙一(80歳、物理学)、山本勇夫(78歳、医学)、浅島誠(77歳、生物学)である。
 毎回、順繰りに話題提供をする。今回は山本(脳神経外科)さんの番で、表題は「年だからは思いこみ」。
 配られたA4×5枚のレジメは以下のとおり。

【1 脳の形態変化】
 冒頭の「1 脳の形態の変化」に25歳と78歳の脳の断面図の写真を並べ、説明を付す。「20歳代がピークで50歳を過ぎると委縮が始まり、特に前頭葉、側頭葉は後頭葉、前頭葉に比べて加齢による委縮が目立つ。但し、加齢による脳委縮は主に灰白質(神経細胞の集合体)で、白質の神経細胞のネットワークは減少しない(シナプスの可塑性)。
 この脳萎縮の原因に関する諸説を検証する。①神経細胞(ニューロン)数の減少説に対して1962年にアルトマンがラットを使い「神経細胞は新生する」と発表、ついで1998年、エリクソンたちが「成人脳でも海馬の歯状回で神経細胞は新生する」と発表した。グリア細胞の機能不全が問題の本質であるとするが、このあたりになると私は付いていけない。
 脳委縮の原因の第2は、②脳血流量の減少である。すなわち「蛋白質の血流量」は30歳代から減少し、80歳代で60%にまで減少、言い換えれば70歳代までは一定に維持される。
 第3の原因は③アミロイドβの蓄積で、ノンレム睡眠時にアミロイドβが洗い流され、運動によりアミロイドβの蓄積を防ぐ。運動も同じ動作の繰り返しではなく種類を変える方が効果的と、テニスの例を挙げ、私を見てニコッとする。始まる直前に私の日焼けに目をとめられたので、今朝も猛暑のなか2時間のテニスを楽しんできたと話したせいであろうか。

【2 知能は経験の積み重ねで向上する】
 次の一文「結晶性知能は生涯を通じて発達する」を引いたうえでグラフを掲げる。グラフは2本の線で示され、うち1本は結晶性(実用性)で加齢に伴いゆっくりと上昇、「文化的知識としての知能」と記されている。
 もう1本の線は20歳ころをピークとして急速に下降する。その説明には、「文化性(情報操作の巧みさ)」とあり、例として記憶、問題解決、(象徴、図形)、そして基本的情報処理としての知能、と記されている。

 ついで以下の説明がつく。「手続き記憶やプライミング記憶は加齢の影響を受けにくい」。「線条体からドーパミンが分泌される」。その根拠としてパルテスの<選択的最適化理論>(Selection-optimization-Compensation,SOC)と池田晶子『知ることより考えること』から次の一文を引く。
 「初めての青春にワクワクしたように、初めての老年にワクワクする。人生においては、あらゆることが初めての経験であるということは、今さらながら驚くべきことだ。未知を知ることの面白さがあるからこそ、我々は生きてゆけるのではなかろうか。」


【3 年をとっても脳は活性化する】
 リードに「ロンドンのタクシー運転手は、バスの運転手と比べて海馬後部が大きい」と記して、2種のグラフを置き、ついで「1万時間の法則」を次のように記す。
 1993年、エリクソン:反復練習の重要性
 「作曲家、バスケットボール選手、小説家、アイススケート選手、コンサートピアニスト、チェスの名人、大犯罪者など、どの調査を見てもいつもこの数字が現れる。
もちろん、だからといって、一部の者が他の者よりも、練習から大きな成果が得られる理由がわかるわけではない。だが、一万時間より短い時間で、真に世界的レベルに達した例を見つけた調査はない。まるで、脳がそれだけの時間を必要としてしているかのようにだ。専門的な技能を極めるために必要なすべてのことを脳が取り込むためには、それだけの時間が必要だというように思える。」(マルコム・グラッドウェル/勝間和代訳『天才! 成功する人の法則』)

【4 思い出のピーク】
 レピソンの発達段階。
 「児童と青年期」に始まり、17歳~22歳の「成人への過渡期」、28歳までの「大人の世界へ入る時期」、33歳までの「30歳の過渡期」、40歳までの「一家を構える時期」、45歳までの「人生半ばの過渡期」、50歳までの「中年に入る時期」、55歳までの「50歳の過渡期」、60歳までの「中年の最盛期」、65歳までの「老年への過渡期」、そして最後に「老年期」を置く。
 以上の分類をもとに線グラフ「出来事を経験した年代」を描く。「年代別における想起された出来事の生起率(61~82歳を対象)」。10代後半から<レミニセンス・バンプ>があり、これを期に下降線をたどり、50代からまた右上がりの<親近性効果>が現れる。
 <レミニセンス・バンプ>とは、60代以降の人が昔のことを思い出す場合、10代~30代頃のことをよく思い出すという現象・傾向を指す。また<親近性効果>(Recency effect=最新の効果)とはノーマン・ヘンリー・アンダーソンが提唱した<最後に得た情報によって全体の印象が左右される効果>を指す。

【5 「昔はよかった」は心の錯覚】
 読売新聞1939年5月21日より引用。「最近、電車、バスで女子子供老人に席を譲る者が非常に少なくなった。学校では何を教えているのか知らないが、学生達は老人がよぼよぼしていても横を向いて知らない顔をしている。しかし、かりに席を譲られた方は当たり前のような顔をしている。」
 ついで『徒然草』二十二段より、「何事も、古き世のみぞ、慕わしき。今様は、無下にいやしくこそなりゆくめれ。この木の未知の匠の造れる美しき器物も、古代の姿こそをかしと見ゆれ。」
 これら2つの引用について記している。
 ノスタルジー
 歳とともにpositivity biasを増す努力をしている。


【6 時の流れが速く感じる】
 「ジャネの法則」
 心的時間(内的時間)と実際の時間(物理的時間)
 ダウエ・ドラーイスマ/鈴木晶訳『なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか』から以下の引用をする。
 「ヒトの記憶は青春の時間と同じ働きをしているのだろうか。時間と空間の根本的な違いは、人はかつて知っていた場所には戻れることがあるが、その時代には戻れないということだ。昔の通りを六歳児として歩くことはできない。過ぎ去った時間の経過を、もはや事実に照らして吟味することはできない。いやそのようなことをしても、おそらく無意味だろう。「ずっと前」とか「昔」といった、時に関する多くの評価や判断は、昔の路地のように訂正を拒む。それはおそらく、そがある特定の物差しにもとづいて計測されたからだろう。自分自身の物差しである。」

【7 なぜ「あれ」が思い出せなくなるのか】
 以下に7つのエラー(ダニエル シャクター)を引く。
 ①物忘れ エビングハウスの忘却曲線の線グラフを示す。
 ②不注意 コード化に失敗すると、不注意による記憶のし損ないが起こる(メガ
  ネの置忘れ、鍵の紛失、約束の失念など)
 ③妨害 人の名前は最も度忘れしやすい。<舌先現象>
 ④混乱 デジャヴュ:無意識の盗作、目撃者による犯人の錯誤。側頭葉てんかん
 ⑤暗示 誘導尋問や暗示によって誤った記憶が植えつけられる。 「メタ記憶」
 ⑥置き換え 記憶は記憶ではなく自己都合:ウオーターゲート事件のジーン証
  言
 ⑦つきまとい 忘れたいような不快な情報や経験が繰り返し思い出される現象
   PTSD

【もろもろの印象】
 さて、と考えた。まず78歳の山本さんの言われることが85歳の私にそのまま当てはまるか。
 例えば【1 脳の形態変化】で、脳委縮の原因の第2、②脳血流量の減少で言う「蛋白質の血流量」は30歳代から減少し、80歳代で60%にまで減少、言い換えれば70歳代までは一定に維持されると述べている。これは80歳が限界期であることを示しているのか。
 最近とくに思うのは、歩く速度が落ちたことである。若い女性がすいすいと抜いていく。追いかけるには相当の努力が要る。これは筋肉量の減少のためか?
あるいは脳委縮もからんでいるのか?
 思えば6歳年長の先輩から、「…姿を見かけて追いかけたが、どんどん距離が開いてしまい、諦めた…」と言われたことがある。ちょうど数年前のことである。
 さらに、いつのころからか階段を駆け下りなくなった。

 ただ【2 知能は経験の積み重ねで向上する】については、すでに85歳なので、もう少し先まで通用しそうな気がする。

 そして【3 年をとっても脳は活性化する】は、その通りの気がする。

 さらに【4 思い出のピーク】の10代~30代頃のことをよく思い出すという現象・傾向は確かである。その体験の濃淡にも依るが。

 ついで【5 「昔はよかった」は心の錯覚】については、言うことなし。

 また【6 時の流れが速く感じる】も同感である。 

 最後の【7 なぜ「あれ」が思い出せなくなるのか】の、なかでも「③妨害 人の名前は最も度忘れしやすい」に心から納得!!

 脳神経外科医・山本さんの「年だからは思いこみ」説は、多くの人を救ってきた主治医としての経験を踏まえている。

 今回は呑気に楽しく聞いたが、わが身に置き換えて考えることはまだまだありそうである。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
カテゴリ
QRコード
QR