fc2ブログ

人類最強の敵=新型コロナウィルス(51)

 5月25日掲載の前号(50)は、日米豪印の4カ国の枠組み「Quad(クアッド)」の共同声明に触れ、過去3回の文書になかった安全保障に特化した章を新設、ウクライナ侵攻や中国の海洋進出を踏まえ、「力による現状変更に強く反対する」と明記した。これについて岸田首相は記者会見で「4カ国首脳が一致して世界に発信できたのは大きな意義がある」と訴えた。
 共同声明はまた中国の海洋進出が活発な東・南シナ海について「ルールに基づく海洋秩序に対する挑戦に対抗する」とも強調した。具体策として海洋監視の協力システムをあげた。違法漁船など沿岸警備に関する情報をインド太平洋地域の国で共有する構想である。南シナ海で中国と領有権を争うベトナムやフィリピンなどとの連携を想定する。

【バイデン米大統領が銃規制で記者会見】
 アメリカ東部時間の24日、日本から帰国直後のバイデン米大統領はテキサス州ユバルディのロブ小学校で起きた銃乱射事件について記者会見を開き、銃規制を訴えた。この事件では、これまでに19人の児童と2人の大人の死亡が確認されており、犠牲者数は2022年に起きた銃撃事件で最多となった。
 バイデン氏はスピーチで「国として、私たちは問わねばなりません。私たちはいつ銃規制反対団体を拒否するのでしょうか。心の中で必要だとわかっていることを、いつ実行するのでしょうか」と呼びかけた。
 10年前の2012年に起きたコネチカット州サンディフック小学校銃乱射事件で、26人が犠牲になって以来、学校で900件を超える銃撃事件が発生したと述べ「もううんざりです、私たちは行動しなければいけない」と訴えた。
また、ロブ小学校銃乱射事件容疑者が18歳の高校生だったことについて「18歳の少年が銃販売店で銃器を買える状況は間違っている」と指摘し、銃販売の規制を強く求めた。

 日本からの帰国の機中で「世界の他の国でも、アメリカと同じようにメンタルヘルスや家庭内暴力の問題があるにもかかわらず、なぜ頻繁に銃撃事件が起きないのか」を考えたという。「一体なぜでしょう?なぜ、私たちはこの大虐殺の中で生きようとするのでしょうか?なぜこんなことが起き続けるのでしょうか?」

 「銃規制反対活動を拒否する、私たちの勇気と強さはどこにあるのでしょうか?痛みを行動に移す時です。この国のすべての親や市民のために、選ばれた議員全員が行動すべきだということをはっきりさせねばなりません」

【米中など98カ国・地域から観光客受け入れ 6月10日から】
 27日の日経新聞によると、政府は26日夜、岸田文雄首相が表明した外国人観光客受け入れ再開の詳細を発表した。米国や中国など98カ国・地域からの観光客を対象に、6月10日から受け入れの手続きを始める。新型コロナウイルスの感染が落ち着いていて、入国時の検査でも陽性率が低い国が対象だ。ワクチン接種の有無にかかわらず、入国時の感染検査や待機は不要にする。観光による入国は2020年春以来およそ2年ぶりの再開となる。国内の旅行会社などが受け入れ責任者となる団体旅行に限定し、個人旅行は認めない。
 観光受け入れの再開に先だち、6月1日から入国時の検査や待機措置の緩和を行う。各国・地域をコロナウイルスの流入リスクが低い順に「青、黄、赤」の3グループに分ける。「青」に分類した米国や中国など98カ国・地域は入国時の検査も自宅などでの待機も不要とする。「黄」となったサウジアラビアやウクライナなど99カ国・地域はワクチンを3回接種済みなら検査と待機が不要になる。「赤」としたパキスタンなど4カ国は検査・待機ともに継続される。
 観光入国は3グループのうち最もリスクの低い「青」の国・地域に限定する。「黄」の国・地域から入国する場合は、ビジネス客ならワクチン接種に応じて検査などが免除されるが、観光目的の入国は認めない。検査・待機が不要となるのは、直近の入国者数のうち8割程度になるという。

【要衝セベロドネツクの攻防】
 これまでウクライナ軍がロシア軍に対して反転攻勢をかけていると伝えられたウクライナ東部ルハンシク州の要衝セベロドネツクで、またロシア軍が優勢になっているとの報道があった(平日ゴールデンタイム1時間半「生放送」というBS-TBS史上初となる大型報道番組BS6<報道1930(ほうどういちきゅうさんまる)>の5月26日放映分)。マリウポリについでセベロドネツクがロシアの手に落ちると、ウクライナ東部の様相が一変してロシアに有利となる。
ウクライナ側も「情勢は厳しい」と認めつつ、新しい重火器がとどけば反転攻勢も可能と主張している。26日の朝日新聞デジタルは、次のように報じた。
 「ロシア軍が完全掌握を目ざすウクライナ東部ドンバス地方で、攻防が激しさを増している。ルハンスク州ではロシア軍が昼夜を問わず攻撃を繰り返しているという。ウクライナのゼレンスキー大統領は25日夜のビデオ演説で、「ウクライナ軍は、すさまじい攻撃に抵抗を続けている」と語り、ロシアに譲歩しない姿勢を改めて明確にした。
 ルハンスク州は95%がロシア軍に占拠されたものの、ウクライナ軍は拠点都市セベロドネツク(人口=約10万人)を守り続けている。ハイダイ知事は25日、SNSで「砲撃がまったくやまない」と訴えた。州内のウクライナ支配地域には4万人以上の市民が残り、その99%が街を離れないと言っていると説明。この1週間ほどを持ちこたえれば、状況が落ち着くとの見方を示している。」

【プーチン政権に異変】
 25日の朝日新聞デジタルは、「プーチン政権に異変、盟友・外交官らから相次ぐ苦言<全世界が敵対>」の見出しで、次のように報じた。
 ウクライナ侵攻の開始から24日で3カ月を迎えるなか、ロシアでプーチン政権の支持基盤に異変が見え始めた。外交官や盟友、国営メディアなどから公然と侵攻への批判の声が上がり、軍司令官の処分も指摘される。ロシア軍にも多くの犠牲が出るなか、侵攻が長期化するとの見方が強まっており、政権に対する国民の不満が少しずつ高まっている可能性がある。
 「20年間、わが国の外交政策の様々な展開を見てきたが、(ロシアがウクライナに侵攻した)2月24日ほど母国を恥じたことはない」
 今月23日、ロシアの在ジュネーブ国連代表部に務めていたボリス・ボンダレフ参事官がジュネーブの外交官らに宛てた声明が公表され、ウクライナ侵攻に抗議して辞職したことが明らかになった。

【ダボス会議でも激論】
 27日の日経新聞【ダボス(スイス東部)=中島裕介】によると、26日に閉幕した世界経済フォーラム(WEF)の年次総会(ダボス会議)では、ロシアと戦うウクライナの停戦後の姿についても議論が交わされた。一部の識者が領土の事実上の分割が避けられないとの見方を示す一方で、ウクライナ首脳がこれに強く反論した。
 キッシンジャー元米国務長官は23日、ダボス会議にオンラインで登壇し、「(2月の)ロシアの侵攻前の状況」をロシアとウクライナの国境とすることが望ましいと指摘した。2014年にロシアが併合したクリミア半島の奪還を断念する提言といえる。西側諸国にも戦争が長期化すれば「ウクライナの自由を求める戦いではなく、ロシアに対する新たな戦争になる」とロシアへの配慮を呼びかけた。
これに対してウクライナのゼレンスキー大統領は25日の声明で強く反論。「領土分割論を唱える者は、その地域に住んでいるウクライナ人を考えていない人だ」と訴えた。「キッシンジャー氏のカレンダーは2022年でなく1938年になっている」とも指摘した。英仏が台頭するナチス・ドイツに融和姿勢を示し、第2次世界大戦の惨禍を招いたとされる歴史の経緯を引き合いにした非難である。
クレバ外相も25日のセッションで「譲歩しても、うまくいかない」と強調した。ウクライナの政府関係者の間では、ロシアが停戦後に再び侵攻するリスクが拭えないとの声が強い。領土割譲は主権国家として許せないだけではなく、停戦につなげる戦略としても悪手だという見立てである。

【上海の都市封鎖、2カ月超ぶりに解除】
 6月1日の日経新聞は、次のように報じた。
「中国・上海市は6月1日、2カ月超にわたり実施してきた都市封鎖(ロックダウン)を解除する。供給網の回復を見込みホンダが6月の日本国内生産を微増とする計画を取引先に伝えたほか、現地に進出するセブンイレブンなども順次営業を再開する。当局の詳細な通達内容などはまだ不透明な面もあり、企業活動の正常化にはしばらく時間がかかりそうだ。
上海市の宗明副市長は5月31日の記者会見で「正常な生産と生活に全面復帰する」と述べた。一定期間内に陽性者がいた地区を除いて、6月1日から市民の自由な外出を認める。ロックダウンで停滞していた日本企業の活動も徐々に再開しつつある。
ホンダは上海ロックダウンなどの影響で日本の4~5月の生産が前年同月を下回ったもようだが、6月国内生産は前年同月比微増とする計画を取引先に伝えており供給網は徐々に回復してくると見込む。シャープは稼働を停止していた上海の洗濯機などの工場で5月上旬から生産を順次再開している。「生産挽回を急ぐ」(同社)としている。富士通ゼネラルも6月中旬までに上海市にある小型空調機製造工場のフル稼働を目指している。
 現地で販売網を持つ小売り各社も対応を急ぐ。セブンイレブンは約150店舗のほぼ全てで、ローソンは5月30日時点で4割の店舗で休業が続いているが、6月1日以降は2社とも営業時間の制限の有無など当局の詳細な通達を待ってから営業を順次再開する方針だ。良品計画では4月から上海市内の「無印良品」の全35店舗を休業していたがすでに2店舗が時短で営業を再開しており、今後、当局からの指示に従い営業を順次再開する方針。」

【中国の王毅外相、南太平洋7カ国を訪問】
10日の日経新聞は次のように報じた。
「中国の王毅(ワン・イー)国務委員兼外相は6月4日、南太平洋7カ国と東南アジアの東ティモールへの旅を終えた。訪問は10日間におよび、複数の国々に経済協力を約束し、フィジーでは域内の10カ国とオンラインの外相会合を開いた。
ここからうかがえるのは将来、南太平洋を自分の影響圏にしたいという中国の望みである。その意図があらわになったのが、10カ国に提案している新協定だ。締結は見送られたものの、事前にリークされた草案は波紋を広げた。中国が各国の警察やデジタル統治、サイバー安全保障などの体制づくりに協力する中身だったからだ。
南太平洋では、軍や治安の体制が乏しい国々が多い。協定が結ばれれば、各国の統治に中国が大きな影響力を持つことになる。」
【オーストラリア新政権が巻き返し】
 3日の日経新聞【シドニー=松本史】によると、太平洋諸国に外交攻勢をかける中国に対抗し、発足間もないオーストラリアの新政権が巻き返しを図っている。ウォン豪外相は就任から10日あまりで地域の3カ国を訪問。3日には南太平洋のトンガで首相と会談した。中国の王毅(ワン・イー)国務委員兼外相も先週から7つの島しょ国を訪問しており、太平洋を巡る中豪のつばぜり合いが激しさを増してきた。
 「豪新政権はこれまで以上のエネルギーを割いて太平洋島しょ国に向き合う」。3日、トンガを訪れたウォン氏は同国のフアカバメイリク首相と共に記者会見し、地域に密接に関与する姿勢を強調した。
 島しょ国で、温暖化による海面上昇で国土浸水が大きな懸念となっているとして「気候変動問題は安保上、経済上の大きなリスクだ」と指摘。豪州は「より意欲的な行動を取る」とも語った。これに先立つ2日にウォン氏はサモアを訪問し、同国のフィアメ首相と会談。巡視船の寄贈などを約束した。
 島しょ国で、温暖化による海面上昇で国土浸水が大きな懸念となっているとして「気候変動問題は安保上、経済上の大きなリスクだ」と指摘。豪州は「より意欲的な行動を取る」とも語った。これに先立つ2日にウォン氏はサモアを訪問し、同国のフィアメ首相と会談。巡視船の寄贈などを約束した。

【ウクライナ産小麦の輸出滞留】
 7日の日経新聞【ベルリン=南毅郎】によれば、ウクライナのゼレンスキー大統領は6日、今秋までに最大7500万トンの穀物が国内に滞留する恐れがあるとの見方を示した。世界全体の年間貿易量の15%に相当する。ロシアによる海上封鎖が続き、小麦の主産国であるウクライナからの輸出が滞ったままになれば新興国での食料不足が深刻になる恐れがある。
ゼレンスキー氏がウクライナの首都キーウ(キエフ)で記者団に語った。ロイター通信によると、第三国の海軍が保証する形で黒海から穀物を安全に輸出する案を英国やトルコと議論しているという。
 ウクライナメディアによると黒海のロシア艦隊はウクライナ海岸から100キロメートル以上離れた地点まで押し戻された。ただ戦闘が長引くなか、海上輸送の本格的な再開はなお見通せない。米農務省によると、世界全体の年間穀物貿易量は2021~22年度(推計)に5億トンだった。7500万トンはその15%に相当する規模で、需給逼迫の懸念から小麦などの国際価格にはすでに上昇圧力がかかっている。

【首相の経済政策<新しい資本主義>の具体策を反映】
 政府は7日午後の臨時閣議で、経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)と<新しい資本主義>の実行計画を決める。自民党は同日午前の総務会で、公明党は常任役員会でそれぞれ了承した。岸田文雄内閣になって初めてまとめるもので、首相の経済政策<新しい資本主義>の具体策を反映する。
人への投資に重点を置くほか、個人の金融資産を貯蓄から投資に促すための「資産所得倍増プラン」を年末までに策定する方針も明記する。
 防衛力の強化では「5年以内」との目標期限を盛り込む。原案には明確な期限の記述がなく、自民党の要求を踏まえ修正した。

【半導体投資、台湾全土が沸騰 全20工場16兆円の衝撃】
 7日の日経新聞【台北=中村裕、龍元秀明】は、「半導体投資、台湾全土が沸騰 全20工場16兆円の衝撃」の見出しで次のように報じた。
 中国からの統一圧力に揺れる台湾。軍事侵攻リスクも懸念されるなかで、未曽有の半導体の投資ラッシュが起きている。総額16兆円に及ぶ世界でも例を見ない巨額投資だ。昨年来、世界から台湾の地政学リスクが何度も指摘されてきたが、それでも台湾は域内で巨額投資に突き進んでいる。なぜか。全土を縦断し、各地で建設が進む全20工場の映像とともに検証した。
台湾南部の中核都市・台南市。5月後半、台湾最大の半導体生産拠点がある「南部サイエンスパーク」を訪れると、町は少し異様な雰囲気に包まれていた。工事用の大型トラックが頻繁に行き交い、至る所で建設用のクレーンがつり荷作業を繰り返すなど、複数の半導体工場の建設が同時に急ピッチで進んでいた。
 ここはもともと、世界大手の台湾積体電路製造(TSMC)が一大生産拠点を構えた場所。米アップルのスマートフォン「iPhone」向けの半導体を中心に、世界で最も先端の工場が集まる場所として知られ、最近でもTSMCが4つの新工場を完成させたばかりだった。それでも十分ではなかったようだ。TSMCはさらに最先端品(3ナノメートル=ナノは10億分の1)の新工場建設を周辺4カ所で同時に進め、拠点の集中を加速させていた。

【ウクライナ東部の要衝をめぐる戦い】
 この1週間、ウクライナの戦闘は一進一退である。東部の要衝と呼ばれるルハンシク州のセベロドネツクではロシア軍が優勢となり、95%を奪回したと言われる一方、川を挟むリシチャンシクはまだウクライナの治下にあり、こここそが本当の最終決戦の場であるとも言われる。ニュースはいささか混乱しているが、ウクライナとロシアの双方が、いまだ<決着がついていない>と表明している。
 武器の種類も変わりつつある。かつては対戦車のジャベリンが主体であったが、この2週間、フランスから自走りゅう弾砲(射程は40キロ)に次ぎ、アメリカがハイマースを、イギリスがMMSと性能の高い長距離ロケットシステムを送る約束をしている。

【米消費者物価、約40年ぶり水準更新】
 10日の日経新聞は「米消費者物価、5月8.6%上昇 約40年ぶり水準更新」の見出しで、【ワシントン=高見浩輔】により、次のように報じた。「米労働省が10日発表した5月の消費者物価指数(CPI)は前年同月比の伸び率が8.6%となった。3月の8.5%をさらに上回り、40年5カ月ぶりの水準となった。新型コロナウイルス禍で控えていた旅行などの「リベンジ消費」も夏にかけて物価を押し上げ、インフレは高止まりしそうだ。米連邦準備理事会(FRB)による急ピッチの利上げが長引く可能性もある。…変動の激しい食品とエネルギーを除いたコア指数の上昇率は6.0%で、前月の6.2%を下回った。コア指数を前月比でみると4月と同じ0.6%の上昇で、市場予想を上回った。インフレの根強さを示す結果となった。…エネルギーは前年同月比で34.6%、食品は10.1%上昇した。住居費が5.5%値上がりするなどサービス価格も全般的に上昇した。貧困層を中心に生活を圧迫するインフレへの不満がますます高まる公算が大きい。米国は人手不足が深刻で、失業者1人に対して約2人分の求人がある状態だ。賃金の上昇が加速すれば、インフレの制御はますます困難になる。」

【はやぶさ2成功、日本が小惑星探査でリード】
 10日の朝日新聞デジタルは、「はやぶさ2成功、日本は「着眼点の勝利」 小惑星探査で世界をリード」の見出しで、「私たち生命の起源はどこから来たのか――。壮大な謎を解くカギを地球に持ち帰った成果は、小惑星探査に活路を見いだした着眼点の勝利だ。世界の宇宙開発が月や火星を指向する中、日本の研究者が1980年代から着目したのは小惑星だった。安全性の確保が難しい有人探査に比べて無人探査は低予算で、試料が得られれば科学的な成果につながる。そして、数億キロかなたの探査機を小惑星に着陸させて、地球に帰還させる技術を持つ国はなかった。」と報じた。

【アジア安全保障会議(シャングリラ対話)での岸田首相基調講演<外交・安保面での役割強化>】
 10日のヤフー・ニュースは、「アジア安全保障会議(シャングリラ対話)での岸田首相基調講演全文 <外交・安保面での役割強化>」を伝えた。その概要は以下の通り。
 本日は、ここにお集まりの皆さんと、現下の国際社会が直面する厳しい状況について認識を共有するとともに、われわれが目指すべき未来の姿について展望したいと思います。…そうした議論を展開するのに、このシャングリラ・ダイアローグほどふさわしい場所はありません。まさに、アジアは、世界経済の35%近くを占め、拡大を続ける世界経済の中心であり、一体性と中心性を掲げる
 ASEAN(東南アジア諸国連合)を核に、多様性と包摂性のある成長を続けているからです。
 今、ロシアによるウクライナ侵略により国際秩序の根幹が揺らぎ、国際社会は歴史の岐路に立っています。…国際社会が、前回大きな転換期を迎えたのは、約30年前のことでした。…世界が2つに分断され、両陣営の冷たい対立が再び熱を帯びてしまう可能性に人々がおびえ続けた<冷戦>が終わりを告げ、<冷戦後>の時代が始まった頃でした。
 私の故郷、広島の先輩であり、私の属する政治集団「宏池会」の先輩リーダーである、宮澤喜一元総理は、「冷戦後の時代」について、日本の国会での演説で「新しい世界平和の秩序を構築する時代の始まりと認識したい」と述べました。宮澤元総理は、わが国が安全保障分野で国際的に一層の役割を果たすことが求められている現実を直視し、大変な議論の末に、PKO(国連平和維持活動)協力法を成立させ、同法に基づき自衛隊をカンボジアに派遣しました。
 宮澤元総理の時代から約30年。今、われわれはどのような時代に生きているのでしょうか。…パンデミックが起きて以降、世界は不確実性を一層増していきました。経済的な混乱が続く中、私たちは、信頼できる安全なサプライチェーンの重要性を認識するようになりました。
 そして、世界がパンデミックから立ち直ろうとしている最中、ロシアによるウクライナへの侵略が起きました。これは、世界のいかなる国・地域にとっても、決して「対岸の火事」ではありません。本日ここにお集まりの全ての方々、国々が「わがこと」として受け止めるべき、国際秩序の根幹を揺るがす事態です。
 南シナ海において、「ルール」は果たして守られているでしょうか。長年にわたる対話と努力の末に皆が合意した国連海洋法条約を始めとする国際法、そして、この条約の下、仲裁裁判の判断が守られていません。
 そして、わが国が位置する東シナ海でも、国際法に従わず、力を背景とした一方的な現状変更の試みが続いており、わが国は断固とした態度で立ち向かっています。…この2つの海の間に位置する台湾海峡の平和と安定も、極めて重要です。…残念ながら、人々の多様性や自由意志、人権を尊重しない動きも、その多くがこれらの地域で起こっています。
 さらに、北朝鮮は、今年に入ってから、新型ICBM(大陸間弾道ミサイル)を含め、かつてない頻度で、かつ新たな態様での発射を繰り返すなど、安保理決議に違反して核・ミサイル活動を強化しており、これは国際社会に対する明白かつ深刻な挑戦です。先日の安保理決議が拒否権により採択されなかったのは極めて残念です。私の政権が最重要課題としている北朝鮮による拉致問題も、重大な人権侵害です。
 こうしたさまざまな問題の根本には、国際関係における普遍的なルールへの信頼が揺らいでいる状況があるのです。これが本質的かつ最も重大な問題です。…われわれが努力と対話と合意によって築き上げてきたルールに基づく国際秩序が守られ、平和と繁栄の歩みを継続できるか。あるいは、<ルール>は無視され、破られ、力による一方的な現状変更が堂々とまかり通る、強い国が弱い国を軍事的・経済的に威圧する、そんな弱肉強食の世界に戻ってしまうのか。…それが、われわれが選択を迫られている現実です。

(日本の責任と取組)
 世界第三位の経済大国であり、そして、この地域で戦後一貫して平和と繁栄を追求し、経済面を中心に貢献してきた、日本。その日本が果たすべき責任は大きい。そうした認識の下、歴史の岐路に直面するわれわれの平和を実現するために、日本が果たすべき役割とは何か。
 誰もが尊重し、守るべき普遍的価値を重視しながら、「核兵器のない世界」を目指す、といった未来への理想の旗をしっかりと掲げつつ、しかし、時にはしたたかに、果断に対応する。私はこうした徹底的な現実主義を貫く<新時代リアリズム外交>を掲げています。…その中でも、日本は、謙虚さ、多様性を重視する柔軟性、相手方の主体性を尊重する寛容さ、を失うことはありません。しかし、日本、アジア、世界に迫り来る挑戦・危機には、これまで以上に積極的に取り組みます。
 そのような観点から、私は、この地域の平和秩序を維持、強化していくため、次の5本柱からなる「平和のための岸田ビジョン(Kishida Vision for Peace)」を進め、日本の外交・安全保障面での役割を強化してまいります。
 第1が、ルールに基づく自由で開かれた国際秩序の維持・強化です。特に、「自由で開かれたインド太平洋」の新たな展開を進めます。
 第2が、安全保障の強化です。日本の防衛力の抜本的強化、および、日米同盟、有志国との安全保障協力の強化を車の両輪として進めます。
 第3が、「核兵器のない世界」に向けた現実的な取組の推進です。
 第4が、国連安保理改革を始めとした国連の機能強化です。
 第5が、経済安全保障など新しい分野での国際的な連携の強化です。
 ルールに基づく自由で開かれた国際秩序の維持・強化とFOIP(自由で開かれたインド太平洋)の新たな展開
 (1)ルールに基づく自由で開かれた国際秩序の維持・強化
 国際社会を平和に導くために、われわれは、第1に、「ルールに基づく自由で開かれた国際秩序」の維持・強化を進めていく必要があります。
 そのような秩序を支える基盤が、「法の支配」です。また、「紛争の平和的解決」であり、「武力の不行使」であり、「主権の尊重」です。
 さらに、海に目を転じれば「航行の自由」であり、経済に目を転じれば「自由貿易」です。
 当然、「人権の尊重」も重要であり、人々の自由意志と多様性が反映される民主的な政治体制も重要です。
 これらは、世界の全ての人々が、国際社会の平和を希求し、英知を結集して紡ぎ出した、共通で普遍的なものなのです。今申し上げたルールや原則が、国連憲章の目的と原則にも合致していることは、言うまでもありません。
ルールは守られなければなりません。自らに都合が悪くなったとしても、あたかもそれがないかのように振る舞うことは許されません。一方的に変更することも許されません。変更したいのであれば新たな合意が必要です。
 (2)「自由で開かれたインド太平洋」の新たな展開
 わが国は、この地域におけるルールに基づく自由で開かれた国際秩序の維持・強化に向け、「自由で開かれたインド太平洋」を進めてきました。そして、このわが国が提唱したビジョンは、国際社会において幅広い支持を得るようになりました。
わが国は、ASEAN(東南アジア諸国連合)が自ら基本方針として示した「インド太平洋に関するASEANアウトルック」を一貫して強く支持しています。
 世界を見渡せば、米国、豪州、インド、英国、フランス、ドイツ、イタリア、オランダ、そしてEUといったさまざまなアクターが、インド太平洋へのビジョンを打ち出しています。 志を同じくする国々が、大きなビジョンを共有した上で、誰かの押しつけではなく、自らの意思で、それぞれの取組を進める。それこそが、包摂性、インクルーシブネスを基本とする、自由で開かれたインド太平洋、FOIPの考え方なのです。
 特に、ここインド太平洋においては、ASEANとの協働が不可欠です。
 私も、総理大臣就任後、最初に、本年のASEAN議長国を務めるカンボジアを、その後、インドネシア、ベトナム、タイを訪問し、本日は、シンガポールにやってまいりました。ASEAN各国首脳との会談も積み重ねてきました。
 わが国と東南アジアの歴史は、長きにわたる善意と友好に支えられています。戦後、わが国は東南アジアの発展を支援し、そして、東南アジアも、わが国が未曾有の震災に見舞われたときに、その復興に手を差し伸べてくれました。
今後もASEAN各国首脳との間で、手を携えて、この地域の平和と繁栄を確保していくための方策について議論を深めていきたいと思っています。
 また、ASEAN諸国と並んで太平洋の島国の皆さんもFOIPの実現のための大切なパートナーです。彼らの存立にかかわる気候変動問題への対応をはじめとして持続可能で強靱な経済発展の基盤強化に貢献をいたします。日米豪が連携した海底ケーブル敷設など、近年の安全保障環境の変化に応じたタイムリーな支援を実施してきています。法の支配に基づく持続可能な海洋秩序の確保に向け、太平洋島嶼国の皆さんとともに歩んでいきます。 FOIPに基づく協力。それは、永年にわたる信頼に立脚した協力です。インフラ建設といったハード面にとどまらず、現地の人材を育て、自律的かつ包摂的発展を促す支援や、投資のパートナーとして官民挙げた産業育成などが中心でした。ASEANの連結性強化の取組も支援してきました。
 有志国が連携してこの地域にリソースの投入を増やしていく必要があります。先程述べたASEAN、太平洋島嶼国といった仲間に加えて、FOIPの推進に重要な役割を果たす日米豪印、クアッド。先般のクアッド東京サミットでは、インド太平洋地域の生産性と繁栄の促進のために不可欠なインフラ協力について、今後5年間で500億ドル以上の更なる支援・投資の実施を目指すことを確認しました。
 私は、こうした取組をさらに加速してまいります。ODA(政府開発援助)を通じた国際協力を適正、そして効率的かつ戦略的に活用しつつ、ODAを拡充するなど、外交的取組を強化し、従来のFOIP協力を拡充いたします。巡視艇供与や海上法執行能力強化、サイバー・セキュリティー、デジタル、グリーン、経済安全保障といった分野にも重点をおきつつ、FOIPというビジョンをさらに推進していくためのわが国の取組を強化する「平和のための『自由で開かれたインド太平洋』プラン」を来年春までに、お示しすることを表明します。
 中でも、近年、日本は、衛星、人工知能、無人航空機等の先端技術も活用しながら、海洋安保の取組を強化しており、各国との知見・経験を共有していきます。この観点から、今後3年間で、20カ国以上に対し海上法執行能力強化に貢献する技術協力および研修等を通じ、800人以上の海上安保分野の人材育成・人材ネットワークの強化の取組を推進していきます。
 さらに、インド太平洋諸国に対し、今後3年間で少なくとも約20億ドルの巡視船を含む海上安保設備の供与や海上輸送インフラの支援を行うことをここに表明をいたします。クアッドや国際機関等の枠組みも活用しながら、各国への支援を強化していきます。
加えて、法の支配といった普遍的価値やルールに基づく国際秩序を維持・強化するため、国と国・人と人とのつながりやネットワーク作りを強化していきます。そのため、今後3年間で法の支配やガバナンス分野における1500人以上の人材育成を行ってまいります。
(安全保障面での日本の役割・拡大)
(1)日本自らの防衛力の抜本的強化
第2に、安全保障面での日本が果たすべき役割についてお話ししたいと思います。
ロシアによるウクライナ侵略を目の当たりにし、世界各国の安全保障観が大きく変容しました。ドイツは、安全保障政策を転換し、防衛予算をGDP比2%に引き上げることを表明しました。ロシアの隣国であるフィンランドやスウェーデンは、伝統的な中立政策を転換し、NATO(北大西洋条約機構)加盟申請を表明しました。
 私自身、「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」という強い危機感を抱いています。わが国も対露外交を転換するという決断を行い、国際社会と結束して、強力な対露制裁やウクライナ支援に取り組んでいます。平和国家である日本の総理大臣として、私には、日本国民の生命と財産を守り抜き、地域の平和秩序に貢献する責務があります。
 私は対立を求めず、対話による安定した国際秩序の構築を追求します。しかし、それと同時に、ルールを守らず、他国の平和と安全を武力や威嚇によって踏みにじる者が現れる事態には備えなければなりません。
 そうした事態を防ぎ、自らを守る手段として、抑止力と対処力を強化することが必要です。これは、日本自身が、新たな時代を生き抜く術を身につけ、日本が平和の旗手として発言し続ける上で不可欠です。
 日本を取り巻く安全保障環境が一段と厳しさを増す中、本年末までに新たな国家安全保障戦略を策定いたします。日本の防衛力を5年以内に抜本的に強化し、その裏付けとなる防衛費の相当な増額を確保する決意です。
その際、いわゆる「反撃能力」を含め、あらゆる選択肢を排除せず、国民の命と暮らしを守るために何が必要なのか、現実的に検討してまいります。
 皆さまには、日本の平和国家としての在り方は不変だということを強調させていただきます。わが国の取組は、憲法・国際法の範囲内で、日米同盟の基本的役割分担を変更しない形で進めていきます。各国にも、引き続き、透明性をもって、丁寧に説明してまいります。
(2)日米同盟、有志国との安全保障協力
 いずれの国もその国の安全を一国だけで守ることはできません。だからこそ、私は、日米同盟を基軸としつつ、普遍的価値を共有する有志国との多層的な安全保障協力を進めてまいります。
 先般日本を訪問されたバイデン米国大統領との会談において、防衛力に関する私の決意に対する強い支持をいただきました。日米の安全保障・防衛協力を拡大・深化させていく、この点でも一致をいたしました。
 インド太平洋を超え世界の平和と安定の礎となった日米同盟の抑止力と対処力を一層強化していきます。
同時に、豪州や有志国との安全保障協力も積極的に進めていきます。
 リー・シェンロン首相、貴国、シンガポールとの間で、防衛装備品・技術移転協定の締結に向けた交渉を開始することを大変うれしく思います。引き続き、ASEAN各国との間で、防衛装備品・技術移転協定の締結を進めるとともに、ニーズに応じた具体的な協力案件を実現してまいります。
 円滑化協定、RAAについては、1月の豪州との協定の署名に続き、先般、英国との間で大枠合意に達しました。欧州、アジアの同志国との協定締結にむけて、関係国と緊密に連携していきます。
 また、自由で開かれた海洋秩序の実現に貢献すべく、日本は、海上自衛隊の護衛艦「いずも」などを中心とした部隊を6月13日からインド太平洋方面に派遣し、東南アジアや太平洋諸国を含む地域の国々との共同訓練などを行います。
「核兵器のない世界」に向けた現実的な取組の推進
第3に、「核兵器のない世界」の実現に向けても全力で取り組んでまいります。
ウクライナ危機の中で、ロシアによる核兵器の使用が現実の問題として議論されています。核兵器による惨禍を繰り返してはならない、核兵器による威嚇も使用もあってはならない。唯一の戦争被爆国の総理大臣として、このことを強く訴えます。
今回のロシアによる核兵器の脅しの問題は、それだけには止まりません。既に核不拡散体制に深刻なダメージを与えてしまったのではないか。核開発を進める国に核を放棄させることを一層困難にしたのではないか。さらには、核兵器を開発、保有しようとする動きが他の国にも広がるのではないか。さまざまな懸念が示されています。
 ウクライナ危機以前から、北朝鮮は、ICBM級を含む弾道ミサイル発射を頻繁に繰り返しており、近く核実験を行うのではないかと深刻に懸念しています。
 わが国の周辺で見られる、核戦力を含む軍事力の不透明な形での増強は、地域の安全保障上の強い懸念となっています。
イランの核合意順守への復帰もいまだ実現していません。
「核兵器のない世界」への道のりは、一層厳しくなっているといわざるを得ません。しかしながら、こうした厳しい現状だからこそ、私は、被爆地広島出身の総理大臣として、「核兵器のない世界」に向けて声を上げ、汗をかき、この現状を反転し、少しでも改善するべく行動をしてまいります。
 わが国を取り巻く厳しい安全保障環境という「現実」を直視し、そして国の安全保障を確保しつつ、同時に、「核兵器のない世界」という「理想」に近づいていくこと、これは決して矛盾するものではありません。わが国は、「現実」と「理想」を結びつけるロードマップを示しながら、唯一の同盟国である米国との信頼関係を基礎とし、現実的な核軍縮の取組を進めてまいります。
 このような取組の基礎となるのが核戦力の透明性向上です。核軍縮の不可逆性と検証可能性を下支えし、核兵器国間、そして核兵器国・非核兵器国間の信頼関係を構築するための第一歩となります。一部に不透明な形で核戦力の増強を進める動きも見られる中、全ての核兵器国に対して、核戦力の情報開示を求めてまいります。
 また、米中二国間で核軍縮・軍備管理に関する対話を行うことを関係各国とともに後押ししてまいりたいと思います。
さらに、最近忘れられた感すらあるCTBT(包括的核実験禁止条約)やFMCT(核兵器用核分裂性物質生産禁止条約)、こうした議論を、今一度呼び戻すことも重要です。
 国際的な核軍縮・不拡散体制の礎石であるNPT(核拡散防止条約)を維持・強化していくことが、今まで以上に求められています。核兵器国、非核兵国の双方が参加する、8月のNPT運用検討会議が意義ある成果を収めるよう全力を尽くします。
核兵器の使用がまさに現実の問題となる中、核兵器の使用がもたらす惨禍、その非人道性を改めて世界に訴えていくことも重要です。唯一の戦争被爆国である日本から、来る「核兵器の人道的影響に関する会議」を含め、あらゆる機会を捉えて、被爆の実相を世界に発信してまいります。
 さらに、私が外相時代に設置した「賢人会議」の議論を発展させ、国際的な核軍縮の機運をもう一度盛り上げるべく、各国の現、あるいは元政治リーダーの関与も得ながら、「核兵器のない世界に向けた国際賢人会議」を立ち上げ、本年中を目標に、第1回会合を広島で開催をいたします。
 北朝鮮については、国連安保理決議に従った北朝鮮の完全な非核化の実現に向け、日米韓で地域の安全保障、国連での議論、外交的取組などで緊密に連携をし、国際社会と協力して取り組んでまいります。
こうした取組を積み重ね、「核兵器のない世界」に向け、一歩一歩近づけるよう努力してまいります。
(国連安保理改革を始めとした国連の機能強化)
 第4に、平和の番人たるべき国連の改革も待ったなしの課題です。
国際社会の平和と安全の維持に大きな責任を持つ安保理の常任理事国であるロシアが、国際秩序の根幹を揺るがす暴挙に出たことにより、国連は試練の時を迎えています。
 国連を重視する日本の立場に変わりはありません。私自身、外相時代から、国連改革に向け積極的に取り組んでまいりました。総理就任以降も、首脳外交の機会も活用して、各国のリーダーとの間で、国連の機能強化に向けた方策について議論を重ねてまいりました。
 各国の複雑な利害が絡み合う改革は簡単ではありませんが、日本は平和国家として、国連安保理改革を含む国連の機能強化に向けた議論を主導してまいります。日本が来年から安保理入りすることが決まりました。安保理の中でも汗をかいていきます。同時に、国際社会の新たな課題に対応したグローバルガバナンスの在り方についても模索してまいります。
(経済安全保障など新しい分野での国際的連携)
最後に、経済安全保障など新しい分野での国際的連携についてです。
未曾有のパンデミックの中、世界のサプライチェーン(供給網)の脆弱性が浮き彫りになりました。他国に自国の一方的な主張を押し付けるために不当な経済的圧力をかける。意図的に偽の情報を流布する。こうしたことも認めてはなりません。

 われわれはウクライナ侵略により、一層自明かつ生活に直結する喫緊の課題として、われわれ自身の経済の強靱性を高めなければならないことを認識するようになりました。
 経済が国家の安全に直結し、サイバー・セキュリティー、デジタル化などの分野の国家安全保障上の重要性が高まっていることも踏まえ、国家および国民の安全を経済面から確保する観点から、経済安全保障の取組を推進します。
 日本国内ではこの課題に取り組むため、岸田内閣の下、経済安保推進法を制定いたしました。
しかし、この取組は日本だけでできるものではありません。G7(先進7カ国)といった同志国の枠組みを含め国際連携が不可欠です。
 わが国とASEANは、かねてより、重層的なサプライチェーンを構築してきました。今後も、こうしたサプライチェーンの維持・強化に向け、官民が投資を行っていくことが大切です。
 このため、わが国は、今後5年間で100件を超えるサプライチェーン強靱化プロジェクトを支援してまいります。
 また、経済的な発展を含め、国際社会における地位が向上したならば、恩恵だけを享受するのでなく、その地位に見合った責任や義務を果たすことが重要です。経済協力や融資についても透明性を確保し、被支援国の国民の長期的な幸せにつながるものであるべきです。
 われわれは、引き続き、人間の安全保障の考えに基づき、各国の主体性と各国民の利益を尊重した経済協力を進めていきます。
 この困難な時代において、繁栄を実現するためには、ASEANが、インド太平洋地域が、世界の成長エンジンであり続ける必要があります。大きく困難な挑戦に直面しようともそれを乗り越える強靱な国づくりに日本は貢献していきます。
(結語)
 皆さん、改めてわれわれの未来を思い浮かべてください。
今日、私が皆さんと共有したビジョン、ルールに基づく自由で開かれた国際秩序の構築に向け、皆で取り組む。「自由で開かれたインド太平洋」を次のステージに引き上げていく。
 そうすれば、平和と繁栄を享受する未来が、希望に満ちた、お互いに信頼しあい、共感しあえる明るく輝かしい世界が必ず待っている。私は、そう信じています。
ご清聴ありがとうございました。

【米中の国防相が対面で議論、衝突回避で一致】
 11日の日経新聞は、米中の国防相が対面で初めて議論、台湾をめぐる応酬を行うと同時に、衝突回避を巡っては一致した、と伝えた。
【ウクライナ東部の戦況】
 14日の日経新聞【ウィーン=押切智義】は、「ウクライナ東部要衝が孤立 ロシア、投降を要求」の見出しで次のように報じた。
「ウクライナ東部ルガンスク州の要衝セベロドネツク市で、近隣都市からの支援物資の主要輸送路だった橋がすべて破壊され、孤立の懸念が高まっている。ガイダイ州知事は14日「市の状況は著しく悪化している」と通信アプリに投稿した。
 ロシア国防省は14日、セベロドネツクの化学工場に残るウクライナの戦闘員に投降を要求したと発表した。同工場に避難した民間人を退避させる<人道回廊>を15日に設けると主張した。工場には民間人約500人が避難しているとされる。
セベロドネツクは西隣のリシチャンスクと3本の橋でつながっていた。同州知事は13日「避難や人道支援物資の輸送が困難になった」と述べた。
 ロシアメディアなどによると親ロシア派武装勢力幹部は13日「ウクライナ軍は市にとどまり降伏か死を選ぶことになる」と語った。英国防省は14日、ロシア軍が東部ハリコフ州でも数週間ぶりに支配地域をやや拡大したとの見方を示した。
ウクライナ軍参謀本部は13日、セベロドネツクの中心部から部隊が撤退したと明らかにした。同市ではおよそ1万人規模の市民が退避できていないとされる。
 ウクライナのゼレンスキー大統領は13日夜のビデオ演説で「東部ドンバス地域での戦闘は欧州における最も過酷な戦闘の一つとして、軍事史に刻まれるだろう」と訴えた。火砲や弾薬の数で劣るなか「十分な数の近代的な大砲だけが我々の優位性を確保し、ロシアによる拷問を終わらせる」と欧米諸国に一段の軍事支援を呼びかけた。
 ウクライナのポドリャク大統領府長官顧問も13日、戦争を終結させるために155ミリりゅう弾砲1000門、多連装ロケットシステム300両、戦車500両などが追加で必要だとSNS(交流サイト)に投稿した。「15日から開かれるウクライナ軍事支援会合で決定を待っている」とした。

【NTTがテレワーク】
 18日の日経新聞は、「NTT、居住地は全国自由に 国内3万人を原則テレワーク」の見出しで次のように報じた。
 NTTは7月から国内のどこでも自由に居住して勤務できる制度を導入する。主要7社の従業員の半分となる約3万人を原則テレワークの働き方とし、勤務場所は自宅やサテライトオフィスなどとする。出社が必要になった場合の交通費の支給上限は設けず、飛行機も利用できる。多様な働き方を認め、優秀な人材の獲得につなげる。NTTの取り組みが、多くの企業の働き方改革に影響を与える可能性がある。
 6月中旬、制度導入を巡り労働組合と合意した。まずNTT、NTTドコモやNTTデータなど主要7社が対象になる。7社の従業員数の合計は6万人で半分が原則テレワークで働くことになる。課題を検証しながらグループ全体に広げる。NTTの国内従業員数はグループ会社を含めて約18万人いる。
 各社でテレワークを原則とする部や課などの部署を決める。企画やシステム開発などが中心となる見込みだ。NTTは2021年9月に転勤や単身赴任をなくす方針を打ち出した。新制度の導入に伴い、単身赴任している社員が自宅に戻る場合の引っ越し代は会社が負担する。出社が必要になった場合は「出張扱い」とし、宿泊費も負担する。
 子育て中や介護中の社員も働きやすくなり、人材の多様性(ダイバーシティー)が生まれ新たな付加価値を生み出せると見込む。場所にとらわれない働き方は人材採用でも働き手にアピールしやすいとみる。
全国のどこでも居住して勤務できる制度はヤフーやディー・エヌ・エー(DeNA)などIT(情報技術)企業が導入している。ただ伝統的な大企業では前例がなくNTTが最大規模になる。
 新型コロナウイルス禍から経済正常化に向かうなかで、多くの企業が柔軟な働き方と生産性向上の両立という課題に直面している。出社を再開する企業もある一方で、NTTのように原則テレワークとする企業もあり、対応の二極化が進んでいる。

【日本経済新聞社とテレビ東京の世論調査】
 19日の日経新聞は、当社世論調査の結果を「物価高「許容できず」64% 内閣支持60%に低下」の見出しで報じた。「日本経済新聞社とテレビ東京は17~19日に世論調査を実施した。岸田文雄内閣の支持率は60%で、前回の5月調査(66%)から6ポイント低下した。資源高騰や円安などによる足元の物価上昇について「許容できない」は64%で「許容できる」の29%を上回った。…内閣支持率は下がったものの岸田政権が発足した2021年10月の59%を超えている。内閣を支持しないと答えた人は32%で同政権で一番高くなった。…内閣を支持する理由の首位は「安定感がある」(27%)、2位は「自民党中心の内閣だから」(26%)だった。支持しない理由は「政策が悪い」(33%)がトップだった。物価上昇を「許容できない」と回答した層の内閣支持率は55%で全体より低かった。…「許容できない」と答えた割合を世代別にみると18~39歳が63%、40~50歳代が65%、60歳以上が67%だった。…政府・与党の物価高対策を「評価しない」は69%で5月から8ポイント上昇した。「評価する」は21%で5月の28%から下がった。
 日銀の政策については金融緩和を「続けるべきではない」が46%、「続けるべきだ」は36%だった。日銀は16~17日の金融政策決定会合で大規模緩和を継続する方針を決めた。景気の下支えが狙いだが、米欧との金利差の拡大が円安要因になっている。…物価上昇を「許容できない」と答えた人の53%が金融緩和を「続けるべきではない」を選択した。
【参院選、22日に公示、7月10日に投開票】
 22日の読売新聞によれば、第26回参議院議員選挙は22日公示され、7月10日の投開票に向けて18日間の選挙戦に入った。立候補の受け付けは午前8時30分に始まり、午後5時の締め切りまでに全国で545人(選挙区367人、比例178人)が立候補の届け出を済ませた。…岸田首相(自民党総裁)は、勝敗ラインを自民、公明の与党で非改選を合わせた過半数(125議席)に設定。目標達成には今回の参院選で56議席が必要となり、与党が63議席を獲得すれば、改選過半数を確保することになりる。

【BRICSの首脳会議がオンラインで開催】
 23日のテレ朝ニュースは、「中国とロシア、インド、ブラジル、南アフリカの5カ国で構成するBRICSの首脳会議がオンラインで開かれ、習近平国家主席は「一方的な制裁に反対する」と述べ、欧米などの対ロ制裁を牽制(けんせい)した。… 習主席は、23日の首脳会議の冒頭挨拶で「一方的な制裁や制裁の乱用に反対する」と述べ、ロシアに対する欧米や日本などの制裁を批判した。…また、NATO=北大西洋条約機構などを念頭に「軍事同盟の拡大によって絶対的な安全保障を求めようとたくらみ、他国の権益を無視している」などと主張した。…ウクライナへの侵攻を続けるロシアを非難することはなかった。…会議にはオンラインでプーチン大統領も出席した。…中国はロシアとともに欧米などに対抗する勢力を形成し、結束をアピールしたい狙いです。」

【ウクライナ東部の戦況】
 26日の産経新聞によれば、ロシア軍は25日、ウクライナ軍が東部ルガンスク州で最後の拠点とするリシチャンスク市への攻勢を強めた。インタファクス通信によると、親ロ派「ルガンスク人民共和国」の部隊の報道官は同部隊とロシア軍が市内に入り、戦闘が始まったと述べ、一部の工場などを掌握したと主張した。東部ドンバス地域(ルガンスク、ドネツク両州)制圧という主要目標実現へ戦果を急ぐ。リシチャンスクに隣接するルガンスク州の要衝セベロドネツクの市長は25日「ロシア軍が市を完全掌握した」と地元テレビに語った。同市はウクライナ軍が撤退を始め、事実上陥落していた。ウクライナ側は態勢を立て直し、米国が供与した武器を実戦投入して抗戦を続ける構えである。(共同)
 同じ26日の朝日新聞デジタルも「ウクライナ東部ルハンスク州の主要都市セベロドネツクのストリュク市長は25日、同市が「ロシア軍に制圧された」と明らかにした。ロシア側は同州の大部分を支配下に置くことになり、軍事的成果として誇示するとみられる。ウクライナ側にとっては先月制圧された南東部マリウポリ以来の大きな打撃となる」と報じた。

【東電管内で初の電力需給逼迫注意報】
 25日と26日、太平洋高気圧が北上し、梅雨にもかかわらず、全国的な猛暑(最高気温が35度超)と各所で大雨・落雷となっている。関東を中心に25日は高気圧に覆われて晴れ間が広がり、群馬県伊勢崎市では午後3時過ぎに40.2度を観測。6月の国内最高気温を更新した。これまでは2011年6月24日に観測した埼玉県熊谷市の39.8度が最高だった。
27日も都心で3日つづきの猛暑となり、経済産業省は初めての需給逼迫注意報を発令した。昼間の電力需給は比較的余裕がある一方、夕方は電力の需要が伸びる上に太陽光発電の出力が落ちて需給が逼迫しやすい。…27日午前11時時点の経産省の評価では、東京エリアの電力需給は午後4時から午後4時30分の予備率が2.8%、午後4時30分から午後5時が1.2%に下がると発表した。
 電力広域的運営推進機関は27日午前10時ごろ、北海道電力、中部電力、北陸電力、関西電力の4つの送配電会社に対し、午前10時半から午後8時にかけて東京電力管内に最大91万キロワットの電力を融通するよう指示した。さらに東北電力にも最大55万キロワットの融通指示を出す方針という。
 気象庁は27日午前、関東甲信、東海、九州南部の各地方で梅雨明けしたとみられると発表した。統計開始以来、最も短い梅雨の期間ととなった。

【岸田首相がドイツ開催のG7サミット参加】
 27日の産経ニュースによれば、岸田首相は、ドイツ開催G7サミットで次のような発言を想定している。
「岸田文雄首相は26日にドイツ南部エルマウで開幕した先進7カ国首脳会議(G7サミット)で、インド太平洋地域の脅威となっている中国に関する議論を主導する意向だ。欧米諸国の意識がロシアのウクライナ侵攻に向く中、東・南シナ海で力による現状変更を試みる中国への警戒を呼び掛け、改めてG7の結束を強化したい考えだ。…首相は会議で、尖閣諸島(沖縄県石垣市)周辺の領海侵入など中国の海洋進出や、途上国のインフラ権益を奪う「債務のわな」など開発金融の問題を提起。中国が東シナ海で進めるガス田開発についても言及する方向。」
 政府高官は「中国はロシアのような国際法違反やルール破りをアジアで継続的に行っている。日本は国際社会が一致して対応すべきだと訴える必要がある」と強調する。…昨年6月に英国で開催されたG7サミットは中国が議題の中心となり、初めて首脳宣言に「台湾」を明記。経済的な結びつきから中国寄りの姿勢が目立っていた欧州の対中警戒感の高まりを象徴していた。
ただ、今年2月以降、各国ともウクライナ危機が外交・安全保障だけでなく、物価高やエネルギーなど内政にも大きな比重を占めるようになった。政府関係者は「首脳全員が中国を話題にしていた昨年のサミットと環境が変わっている」と危機感を見せる。伝統的に欧州はロシアや中東・アフリカ地域への意識も強い。
 日本はこれまでもG7で中国の問題を粘り強く提起し、首相もかねて「ウクライナは明日の東アジアかもしれない」と訴えてきた。首相は3月にベルギーで開かれたG7サミットでも、ロシアとの停戦交渉に中国の役割を期待する欧州勢にクギを刺した。…実際、中国はロシアと歩調を合わせ、日本や欧米諸国を牽制(けんせい)する動きを見せる。中国やロシアの海軍艦隊が日本列島周辺で活動を活発化。23日には中国やロシア、インドなど新興5カ国(BRICS)のオンライン首脳会議を開いた。
 G7サミットに続き、28日からは北大西洋条約機構(NATO)首脳会議が予定されており、外務省幹部は「中国が意識しているのは間違いない」と語る。…国連安全保障理事会の機能不全が浮き彫りになる中、自由や民主主義など価値観を共有するG7は重要性を増している。首相には、サミットを通じ、各国のインド太平洋地域への関与を深化させる役割が求められている。 

 この間、以下の録画を視聴することができした。(1)BS世界のドキュメンタリー「ワグネル 影のロシア傭兵部隊」5月22日。 (2)NHK映像の世紀バタフライエフェクト「スターリンとプーチン」23日。 (3)報道1930「エネルギー危機の予兆 対ロ制裁は諸刃の剣?」25日。 (4)報道1930「終末か? プーチン院政 情報機関筋が見る院政の可能性と”後継者”」26日。 (5)国際報道2022「北朝鮮ミサイル発射 韓国新政権はどう対応したのか」26日。 (6)国際報道2022「ツイッター買収劇から考える”言論の自由”」27日。 (7)報道1930「プーチン氏のNATOけん制が加盟ドミノへ岐路に立つ専守防衛」27日。 (8)国際報道2022「肥料供給不足に揺れるブラジル農家」28日。 (9)BS1「週刊ワールドニュース 5月23日~27日」28日。 (10)日曜スクープ「ウクライナ主力部隊はせん滅を回避できるか 食料不足の恐れ」29日。 (11)NHKスペシャル「離反か従属か~グルジアの苦悩~」29日。 (12)報道1930「太平洋戦争の<要衝>狙う中国 王毅外相が歴訪」30日。 (13)NHK映像の世紀バタフライエフェクト「我が国のテレサ・テン」30日。 (14)報道1930「情報統制にほころびか。プーチン体制動揺も?」31日。 (15)国際報道2022「ガザ紛争1年 正義求める活動家」31日。 (16)国際報道2022「シンガポール海運革命 成功の翼<3Dプリンター>」6月1日。 (17)報道1930「ウクライナ危機で豹変 軍拡に舵を切るドイツ ”防衛費増”で日本は」1日。 (18)NHK総合「ダボス会議 ウクライナ侵攻<新たな冷戦>を議論」2日。 (19)NHK総合「侵攻から100日 ”ロシア軍 領土の約2割を支配”」4日。 (20)報道1930「”太る”欧米軍需産業とロシア離れ」2日。 (21)報道1930「<国恥地図>が秘めた中国”失われた帝国”、習氏<歴史観>の原点」3日。 (22)BS1「週刊ワールドニュース 5月30日~6月3日」4日。 (23)TV東京 美の巨人たち「横浜・文化財<帆船日本丸>」4日。 (24)NHK日曜討論「コロナからの復活へ 新たな観光・旅のカタチ」5日。 (25)BS1スペシャル「ドキュメント クラクフ中央駅~ウクライナ難民の日々~」5日。 (26)報道1930「ソ連独裁者の”残像”とプーチンの誤算」8日。 (27)国際報道2022「両親を失ったウクライナの少年 日記につづった戦争」7日。 (28)報道1930「”幽霊タンカー”急増 漂流するロシア産原油、ロシア制裁逃れの実態」6日。 (29)国際報道2022「ウクライナ発の食糧危機は回避できるか 欧州の挑戦」11日。 (30)クローズアップ現代「NATOとロシア”新たな攻防”の行方」9日。 (31)BS1「週刊ワールドニュース 6月6日~10日」11日。 (32)ETV特集(選)「ウクライナ侵攻 私たちは何を目撃しているのか。 海外の知性に聞く」11日。 (33)BS朝日日曜スクープ「攻防激化 セベロドネツク」12日。 (34)国際報道2022「水不足にあえぐイラン 世界遺産や小麦にも影響」14日。 (35)国際報道2022「”コロナ後遺症”研究最前線 リスクは? 予防は?」15日。 (36)報道1930「プーチン氏が恐れる事、民間人を狙う意味とは」15日。 (37)BS世界のドキュメンタリー「"氷上のシルクロード”ねらう中国」15日。 (38)国際報道2022「”債務の罠”のスリランカ 赤く染まるインド洋の真珠」16日。 (39)週刊ワールドニュース(6月13日~17日)18日。 (40)フジテレビ日曜報道 THE PRIME「物価は? 防衛は? 参院選へ与野党が生討論」19日。 (41)BS朝日日曜スクープ「ウクライナ都市奪還戦が激化 ロシア経済悪化の予測」19日。 (42)報道1930「日本防衛の”哲学”は? 中国”認知戦”と日本」20日。 (43)BS5「自分流 浅島誠」25日。 
スポンサーサイト



国際ヨガの日

6月21日(火曜)朝、<国際ヨガの日>の一環として、三溪園の正門を入り左手の、大池に面した芝生広場で集団ヨガが行われた。特別に誂えたT白いシャツを着た人たちが約150人、マットの上に座す。特設ステージの先には三溪園のシンボルの三重塔を望む。


20220627001.jpg


【経緯】
 インド政府及びインド国営放送Doordarshanによる国際ヨガの日・祝賀事業「Global Yoga Ring (国際ヨガの輪)」の企画概要が入ったのが今年の5月26日、担当のインド大使館ヴィヴェーカナンダ文化センターからである。
三溪園側は吉川利一事業課長が応対、「インドにゆかりの深い場所として当・三溪園をお選びいただきましたこと、当方にとりましては意義深いものと受け止め、ぜひご期待に沿うよう、進めさせていただきたいと思います。」と応えた。

【Global Yoga Ring(世界ヨガの輪)について】
 そこには次のようにあった。
 6月21日の<国際ヨガの日>の当日、インド時間6時~22時の間、世界各地で行われているヨガセッションや国際ヨガの日の祝賀イベントをインド国営放送で生中継します。
 日本は一番目の枠、インド時間6時-7時(日本時間0930-1030)が割り当てられておりますが、韓国や中国等、他6ヶ国、また、日本における他ロケーション(東京・沖縄)も同じ時間枠で中継されるため、実際に三溪園で行われるヨガセッションが生中継されるのは5分程になる予定です。尚、セッション全体の動画はインド大使館やインド国外務省等の公式YOUTUBEチャンネルにて公開予定となります。
以来、大使館とヴィヴェーカナンダ文化センターの関係者が何度も来園され、綿密な打合せを行った。

【サンジェイ・クマール・ヴァルマ駐日インド大使】
いよいよ6月21日。9時に開園すると、特設会場へ向かう人の列がつづく。サンジェイ・クマール・ヴァルマ駐日インド大使と黒岩祐治神奈川県知事が相次いで到着。大使はヨガ愛好家とお揃いの白シャツ姿で、足早に会場へ向かわれた。

事前に大使のプロフィールをいただいていたので、以下に引用する。
大使は1965年7月28日生まれの57歳。パトナ大学を卒業後、インド工科大学デリー校物理学修士課程に進学。1988年、インド外交職(Indian Foreign Service)に採用され、在香港インド総領事館、中国、ベトナム、トルコ等のインド大使館に勤務。駐日インド大使に着任する前は、デリーの本省で次官補(アドミニストレーション担当)兼サイバー外交局長を務めた。
大使は情報技術(IT)、人工知能(AI)、サイバー外交、ヒト主体のインタラクティブ・テクノロジーに深い情熱を持っており、中小企業、投資家を指導し、発展を促進したいという強い意欲を持っている。ヒンディー語、英語、中国語(マンダリン)の読み書き、会話をこなす。ベンガリ語の会話もできる。 一男一女の父。

 9時半開会、大使の挨拶から始まった。正門脇で配られた大使の挨拶文(日本語訳)が、今回の試みの全体を示す最良の案内でもあるので、ここに全文を再掲する。

【ヴァルマ駐日インド大使の挨拶】
黒岩祐治神奈川県知事閣下
内田弘保三溪園保勝会理事長
ヨガ愛好家、ヨガインストラクター、インドの友人の皆様
ご来場の皆様、

ナマスカール、おはようございます。

第8回国際ヨガの日を、アジア初のノーベル文学賞受賞者ラビンドラナート・タゴールが滞在した歴史ある三溪園で皆様と祝うことができ、光栄に思います。黒岩知事閣下と神奈川県庁のご支援、ご参加に心より感謝いたします。

 神奈川県はヨガやインド古来の伝統的知識の普及を担うインドAYUSH省と協力覚書を締結しており、ヨガと特別な縁があります。

今回の「国際ヨガの日」のテーマは「人類のためのヨガ」です。現在の世界において、人間性と調和の重要性がいかに切実に感じられているかは、私が強調するまでもないでしょう。
 
 2014年12月11日、国連はヨガの普遍的な力を認識し、6月21日を「国際ヨガの日」とすることを宣言し、国連史上最多となる175の加盟国から賛同を得ました。決議を国連総会で提案したナレンドラ・モディ首相は、「ヨガは、古代インドの伝統がくれた貴重な贈り物です。ヨガは、心と体、思考と行動の統一を体現し、私たちの健康や幸福に全体的に働きかけるアプローチです。ヨガは単なる運動ではなく、自己、世界、自然との一体感を発見する方法なのです」と述べました。

 ヨガのもたらす無形の、しかし現実的な恩恵は、普遍的な平和-自己の内なる平和、仲間との平和、自然との平和、ヴァスーダ(<世界>を意味するサンスクリット語)との平和です。

 2022年は印日国交樹立70周年、インド独立75周年という2つの節目の年でもあります。過去70年間に、印日関係は特別戦略的グローバルパートナーシップへと格上げされました。

 2022年 第8回国際ヨガの日、「人類のためのヨガ」のためにお集まりくださった皆様に心より感謝します。皆様と御家族の健康と平和を祈念します。

 ご清聴ありがとうございました。


【黒岩県知事の挨拶】
 ついで黒岩祐治神奈川県知事の挨拶。ヴァルマ大使が触れた「ヨガやインド古来の伝統的知識の普及を担うインドAYUSH省と協力覚書を締結しており、ヨガと特別な縁がある」との紹介を受けての挨拶である。
 
 <未病>とは「心身の状態を健康と病気の二分論の概念で捉えるのではなく、<健康>と<病気>の間を連続的に変化するものとして捉え、この全ての変化の過程を表す概念です。
 日常の生活において、「未病改善」により、心身をより健康な状態に近づけていくことが重要になります。

 ちなみに神奈川県庁のホームページに、AYUSH省は、2014年、現在のBJPモディ政権が発足したあとに設立され、インド中央政府厚生省に属する組織とあり、その狙いが以下にも書かれている。
かながわ未病改善宣言[PDFファイル/166KB]


【内田理事長の挨拶】
 ついで三溪園を管理運営する国指定名勝・公益財団法人・三溪園保勝会の内田理事長の挨拶。

ヴァルマ大使閣下、ご列席の皆様
三溪園は、横浜の実業家・原三溪によって今から100年前に造られた日本庭園です。175,000㎡という広大な園内には多くの歴史的建造物があり、また庭園の全域も文化財に指定され、横浜市民憩いの場ともなっています。
1916年6月18日、詩聖と謳われるラビンドラナート・タゴール翁は、この三溪園のあるじ・原三溪に賓客として迎えられ、あの三重塔が立つ丘の上にあった別邸に約3か月の日々を過ごされました。
滞在中には池に咲くハスもご覧になり、「わが郷国は蓮の花のさく国」とおっしゃったそうです。遙か祖国のインドを懐かしく思い出されたことでしょう。
翁はその後、1923年と1929年の計3回もここを訪れています。本当に三溪園の風光がお気に召したのでしょう。
今回「Global Yoga Ring」のセレモニーを、このように貴国とゆかりの深い私どもの三溪園で、開催いただいたことは非常に意義深いことです。
どうかこれを機により深い交流が長く続き、そしてたくさんの方がこの庭園にお越しいただくことを願ってやみません。
本日はまことにありがとうございました。


【今年はインド独立75周年、日印国交樹立70周年】
 駐日インド大使の挨拶の後段にある「2022年は印日国交樹立70周年、インド独立75周年という2つの節目の年」に改めて注目した。
インド独立75周年とあるが、必ずしも一筋縄では行かなかった。18世紀半、インドはイギリス東インド会社の支配下に置かれ、19世紀半ばの1857年、イギリス領インド帝国となったインドでは、19世紀末に独立運動が起こり、マハトマ・ガンディーの非暴力抵抗や第二次世界大戦後の1947年8月15日、デリーの赤い城にてジャワハルラール・ネルーがヒンドゥー教徒多数派地域の独立を宣言、イギリス国王を元首に戴く英連邦王国インド連邦が成立した。また、イスラム教徒多数派地域はパキスタンとして分離独立した。1950年にはインド憲法が施行されたことにより共和制に移行し、イギリス連邦内のインド共和国となった。


【アジア・アフリカの時代】 
 日本とインドは、1952(昭和27)年に外交関係を樹立、それ以降、手を携えながら共に歩みを進めてきた。戦後間もない日本の高度経済成長を支えたのは、インドから輸入された鉄鉱石であり、インドから贈られた象は日本の子供達を元気づけた。当時まだ戦後復興の途上にあった日本が、1958年に初めて政府開発援助(ODA)を供与した先がインド、その後、日本のODAと技術により造られ、デリー市民の生活にとって欠かせないのがデリー・メトロ、これが日印の関係を象徴する。

日印国交樹立から3年後の1955(昭和30)年、アジア・アフリカ会議(またはバンドン会議)は、第二次世界大戦後に独立したインドのジャワハルラール・ネルー首相、インドネシア大統領スカルノ、中華人民共和国首相周恩来、エジプト大統領ガマール・アブドゥル=ナーセルが中心となって開催を目指した会議の総称。1955年インドネシアのバンドンで開催された。


【私とインドのつながり】
個人的なことだが、バンドン会議は私の心に強く残っている。開催された年の1955(昭和30)年は高校卒業の年で、大学で何を学ぶかを模索していた。詳細はここでは省くが、1958年に文学部東洋史学科へ進んだ遠因もバンドン会議が発した<熱気>であった。それから45年後、横浜市立大学を定年退官時に書いた「史観と体験をめぐって」(横浜市立大学論叢 人文科学系列 1~3合併号 加藤祐三教授退官記念号 2003年 所収)を参照されたい。

以来、インド旅行は合わせて1年ほどになるか。楽しいことも辛いこともあり、流行性肝炎で死に損なった経験もある。私の初のインド体験は、加藤祐三・梶村慎吾『広島・アウシュビッツ-平和行進 青年の記録』 1965年 弘文堂)にあり、旅を通じて発見したことを史料による実証で確認した加藤祐三『紀行随想 東洋の近代』(1977年 朝日新聞社)へとつづく。

研究面では、<19世紀アジア三角貿易>の中核となる植民地インドは欠かすことができない(『イギリスとアジア-近代史の原画』 1980年 岩波新書)。これが『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)、『東アジアの近代』(1985年 講談社)、『黒船異変-ペリーの挑戦』(1988年 岩波新書)へとつながり、『幕末外交と開国』(2014年 講談社学術文庫)等に至る。書名だけでは分かりにくいが、底流にはインドでの体験と思索が脈々と流れている気がする。


【ヨガセッション】
 10時からヨガセッションが始まった。壇上に3人のヨガ指導者が座り、その模範演技に習う集団ヨガである(山口智之撮影)。例年と異なり、6月下旬に太平洋高気圧が北上して梅雨前線を押し上げたため、全国的に高温多湿となった。急に訪れた蒸し暑さは、インド滞在の日々を思い出させる。

 うつぶせのポーズ。大地の鼓動に聞き入る。


20220627002.jpg


 のけぞる(ラクダのポーズか)。正面の大池の先に鶴翔閣が見える。

20220627003.jpg


関係者の集団写真(山口智之氏撮影)。中央のシャツ姿がヴァルマ駐日インド大使、その右が内田理事長。大使の左が黒岩神奈川県知事、その左に園長の私と村田副園長。

20220627004.jpg


【終わりに】
 11時、行事が終了、仮設のステージもすぐに撤去され、静謐な三溪園に戻った。
 地球の回転にともない、集団ヨガは東南アジア、インド、中東、欧州とめぐり、大西洋を渡って北米を通過、太平洋上の日付変更線近くで終わったはずである。

 なお当日の状況を伝える在日インド大使館の報道に以下のものがある。
https://www.youtube.com/watch?v=zwTAEYKsiAs
https://www.facebook.com/IndiaInJapan

大佛次郎没後50年記念講演

 2022年6月3日(金曜)、大佛次郎研究会「第35回公開討論会」において大佛次郎没後50年記念講演「大佛次郎の開国開港論と都市横浜の成長」を行う機会をいただいた。会場は、横浜市中区<港の見える丘公園>隣の大佛次郎記念館近く、神奈川近代文学館ホール。

 今年の1月、元神奈川新聞社の加藤隆さんから「…いま大佛次郎記念館の幹事をしています。突然ですが…」と電話があり、追って横浜出身の作家・大佛次郎の<没後50年 大佛文学を継承する>というテーマで開港史を中心に、『天皇の世紀』などの大佛作品や史観を引用・検証しつつ、話を展開してもらえれば…とのメールを受け取った。

 大佛次郎(おさらぎ じろう)は、1897(明治30)年1月 9日 ~1973年(昭和48年)4月 30日。小説家・作家。大仏次郎(新字体)とも書く。本名は野尻清彦(のじり きよひこ)。『鞍馬天狗』シリーズなど大衆文学の作者として著名であり、歴史小説、現代小説、ノンフィクション、新作歌舞伎や童話などまでを幅広く手がけた。作家の野尻抱影(正英)は兄。

【<文武両道>の青年期】
 大佛次郎の多彩な作品群は、どのような経歴から創出されたのか。最晩年の作品『天皇の世紀』を念頭に、青年期までの<文武両道>とも言える姿を追ってみたい(ウィキぺディア等による)。
 日本郵船社員の父のもと横浜市中区英町に生まれ、市立太田尋常小学校に入学後、二人の兄の東京の大学進学に伴い、数か月で東京新宿の津久戸尋常小学校に転校。1909年、父の定年退職とともに芝白金に移り、白金尋常小学校に転校。東京府立一中(現在の日比谷高校)から外交官を目指して一高の仏法科に進む。寄宿寮に入り、野球や水泳に熱中、歴史と演劇に関心を持ち、箭内亙に東洋史の教えを受けた。…1916年に一高の寮生活をルポルタージュ風にまとめた小説「一高ロマンス」を連載して1917年に出版。…父の強い希望で東京帝国大学法学部政治学科へ。在学中には東大教授吉野作造が右翼団体浪人会と対決した「浪人会事件」で吉野の応援に駆けつける。…本代がかさむのに窮し、兄抱影が編集長の研究社の雑誌『中学生』に、海外の伝奇小説の抄訳や、野球小説の創作を掲載する。
 1921年に東京帝国大学を卒業、菅忠雄の紹介で鎌倉高等女学校(現・鎌倉女学院高等学校)教師に。国語と歴史を教える。1922年、外務省条約局嘱託。傍ら翻訳業も。博文館の鈴木徳太郎の知遇を得て『新趣味』誌にサバチニ、ゴーグら海外の大衆小説の翻訳も手がけ、また翻案小説を書いた。

【明治百年記念としての『天皇の世紀』連載】
 大佛は明治百年を記念して1967(昭和42)年の元日から朝日新聞に『天皇の世紀』の連載を始める。「期限なし、読者を顧慮せず」という破天荒な作業の最中、7年目の1973年4月25日掲載の1555回目、第(12)巻<金城自壊>の項で、明治に入る直前の長岡藩の河合継之助を描く文章が絶筆となった。同年4月30日に転移性肝臓癌により、国立がんセンター病院で死去(文春文庫版『天皇の世紀』(12)の福島行一解説)。享年76。
 『天皇の世紀』連載にあたり、<作者の言葉>において大佛は「明治時代と言う貧しかったにしろ雄渾な日本民族の努力と冒険と飛躍のことを、この時代についてすべて無関心になっている今日の若い方たちにも素直に正しくお話できれば…」と抱負を述べていた(文春文庫版『天皇の世紀』(1) 福島行一解説 『天皇の世紀』の周辺(1))。
 当時、新聞各社は、明治百年の企画を競い合い、産経新聞は司馬遼太郎「坂の上の雲」を連載した。

 大佛が描き、描こうとした時代を、私が講演で語り残したことも含めて、記していきたい。

【私の歴史テーマの拡大】
 『天皇の世紀』連載の頃、私は30歳代で、かつベトナム戦争の激化から大学闘争へと世論を二分する嵐が吹き荒れていた。私の歴史研究が本格化する時でもあり、私の研究テーマを東洋史・東アジア史のどこに定めるのかは、関心のあり方と同時に史料の多寡にかかっていた。現在のように簡単に外国へ史料探索に出たり、外国の史料館にネットでアクセスできる時代ではなかった。関心があっても史料がなければ話にならない。
 『中国の土地改革と農村社会』(アジア経済出版会 1972年)を刊行して以来、迷いが続いた。これについては、横浜市立大学を退任する時に書いた「史観と体験をめぐって」並びに著作目録(ともに『横浜市立大学論叢』 加藤祐三教授退官記念号 2003年)に譲りたい。
 
 迷いの挙句、これまでの中国農村史研究と<近代世界史>を結びつける具体的テーマを「近代東アジアにおけるイギリスの存在」と定める。想定していた時代は主に19世紀の<変革期>で、イギリスと清朝中国のアヘン戦争から日本の明治維新を経て日清戦争頃までの東アジアとした。このテーマにより文部省の在外研究費を得てイギリスで研究を進め(1978~79年)、確度の高いイギリス議会文書の膨大な統計を収集・分析。近代イギリスがアジアとの関りで果たした役割を示すことができた。

【アジア三角貿易とアヘン】
 イギリスでの成果の一つが『イギリスとアジア-近代史の原画』(岩波新書 1980年)である。中心テーマの一つがイギリス・インド・中国を結ぶ<19世紀のアジア三角貿易>。これを図示すると(1)中国からイギリスへの紅茶の輸出、(2)イギリス植民地インドで生産したアヘンの中国等(東南アジアの植民地)への輸出、(3)イギリス産業革命により作られた綿布類のインドへの輸出、の3辺からなる。

 第2が、上掲(2)に関連する図「インド産アヘン生産の140年」(1773~1917年)である。アヘン戦争後にインド産アヘンの輸出が急上昇するとともに、植民地インド財政のうちのアヘン収入の比率も上昇する。アヘン輸入の合法化(1858年の天津条約によるアヘン解禁)以降さらに上昇、1880(明治13)年にピークを打つも、アヘン貿易が禁止されるのは、国際アヘン会議後の1917(大正6)年である。
 イギリス植民地インド財政のなかで高い比率を占めるアヘン収入を銀塊で本国に送金(輸送)することにより本国財政を補填、「安い政府」と呼ばれる状況を実現した。これが民主主義国の代表と言われたイギリスの、20世紀初頭までの実態である。

【連載「黒船前後の世界」と<事柄の承継>】
 後に分かることだが、大佛次郎『天皇の世紀』の発想と遠くはなかった。その存在がいっそう身近になったのは、「黒船前後の世界」を『思想』誌(岩波書店)に連載し始めた1983(昭和58)年7月ころからである。

 今回、『天皇の世紀』を歴史家として読みなおし、とくに私が注視した点は、歴史的な事柄と人物の動き・心情との関係である。それを心打つ物語にして伝えるのが小説であるとすれば、ある事柄とその前後の事柄を結びつける論理、言い換えれば、<事柄の承継>を把握し、記述することが歴史家の役割ではないか。

【先に示した講演概要】
 講演のチラシが届いた。「大佛次郎没後50年へ向けて大佛文学を継承する」のタイトルがあり、報告「『パリ燃ゆ』読書会を終えて」と、大佛次郎没後50年記念講演「大佛次郎の開国開港論と都市横浜の成長」という二本立てである。
 後者については、次のようにあった。
 日本開国を決めた日米和親条約(1854年)、それに基づく日米修好通商条約(1858年)による横浜開港(五港開港の一つ)、そして横浜居留地の設定と開港(1859年7月)の3段階は、いずれも話し合いで合意され、日本側の主体性が担保された。これを前提に、横浜は村から町、市へと成長してきた。なぜか。それを主に<文化力>の側面から解明したい。

伝えたいことがあまりにも多く、大学の90分授業でも4~5回はかかりそうである。そこでパワーポイントのスライド資料を2種つくった。1つが14枚のスライドからなる地図・年表‣資料で事前配布用、もう1つがそれに絵図等を加えて28枚の講演用スライドである。

【主な課題を一覧】
大項目を7つ掲げ、それぞれに5つほどの小項目を立て、重点項目(〇印を付したもの)を中心に話すことにした。

1 黒船来航以前
 (1)幕府の対外情報の収集・分析法=命題論理学
〇(2)幕府による4つの対外令。
 (3)アヘン戦争情報⇒2つのルートから交戦国の情報
     ⇒漢文とオランダ語
 (4)ペリー来航の予告情報
 (5)シーボルト『日本』の英訳本から得たペリーの日本像
    ⇒世界最古
 鎖国の最中、外国船の往来が増えたため、幕府は海岸部を有する諸藩と直轄地に対して異国船にいかに対処するかの対外令を4度定めた。①1791年の寛政令(薪水供与令)、②さらに緩和した1806年の文化令、③英艦フェートン号の長崎侵入(1808年)に対応する1825年の強硬な文政令(異国船無二念打払令)に変更、④アヘン戦争に関する風説書(ふうせつがき)を分析し、南京条約締結1日前の1842年8月28日、穏健な<天保薪水令>(文化令に復す)とした。

略年表(加藤祐三『幕末外交と開国』2012年 講談社学術文庫)

20220617_1.png


2 ペリー艦隊の抱えた問題
〇 (1)ペリー派遣の形式と内容⇒発砲厳禁の大統領命令
フィルモア大統領の「発砲厳禁命令」
Mr.Conrad to Mr.Kennedy(Nov.5,1852) “He will bear in mind that, as the President has no power to declare war, his mission is necessarily of a pacific character, and will not resort to force unless in self defense in the protection of the vessels and crews under his command, or to resent an act of personal violence offered to himself, or to one of his officers.”   US Congress(S)751-No.34
 ちょうどこの頃、国会図書館(東京)でアメリカ議会文書が公開された。
 (2)大西洋横断、インド洋経由、最長距離の遠征
 (3)独自の補給路(シーレーン)なく、イギリスのP&O社に依存
 (4)日本語通訳案の破綻、上海でポートマン(オランダ系アメリカ人)を通訳に採用
 (5)森山栄之助 vs ポートマン
 下の絵は、本来であれば幕府側の通訳である森山栄之助が日米双方(右奥が林大学頭、左奥がペリー提督)の中間に座るべきではないが、ポートマンには通訳するだけの力がなく、森山が双方の通訳と進行を務めた。ポートマンが描いたもの。

20220617_2.jpg

3 日米和親条約(1854年)の締結
(1)1853年7月8日、浦賀沖の最初の出会い⇒I can speak Dutch!
(2)交渉言語(口頭)はオランダ語。森山栄之助vsポートマン
〇(3)1854年3月8日、横浜村応接における日米首脳会談
 
 【概要】条約をめぐる論戦の冒頭部分(1854年3月8日、横浜村の応接所にて)
○ペリー「我が国は以前から人命尊重を第一として政策を進めてきた。自国民はもとより国交のない国の人民でも、漂流民を救助し手厚く扱ってきた。しかしながら貴国は人命を尊重せず、近海の難破船も救助せず、海岸近くに寄ると発砲し、日本へ漂着した外国人を罪人同様に扱い、投獄する。日本国人民を我が国人民が救助して送還しようにも受取らない。いかにも道義に反する。我が国のカリフォルニアは太平洋をはさんで日本国と相対し、往来する船はいっそう増えるため、放置できない。国政を改めないならば国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する準備がある。我が国は隣国のメキシコと戦争をし、国都まで攻め取った。次第によっては貴国も同じようなことになりかねない。」

○林大学頭「戦争もあり得るかもしれぬ。しかし、貴官の言は事実に反することが多い。伝聞の誤りを信じこんでおられる。我が国は外国との交渉がないため、外国側が我が国の政治に疎いのはやむをえないが、我が国の政治は決して反道義的なものではない。我が国の人命尊重には世界に誇るべきものがある。第一、この三百年にわたり太平の時代が続いたのも人命尊重のためである。第二に、大洋で外国船の救助ができなかったのは大船の建造を禁止してきたためである。第三に、他国の船が我が国の近辺で難破した場合には、必要な薪水食料の手当てをしてきた。他国の船を救助しないというのは事実に反し、漂着民を罪人同様に扱うというのも誤りである。漂着民は手厚く保護し、長崎に護送、オランダカピタンを通じて送還している。貴国民の場合も、すでに措置を講じて送還ずみである。不善の者が国法を犯した場合はしばらく拘留し、送還後にその国で処置するよう計らっている。貴官が我が国の現状を考えれば疑念も氷解する。積年の遺恨もなく、戦争に及ぶ理由はない。とくと考えられたい。」
 
 ぺリ-が1825年の<文政令>(異国船無二念打払令)を前提に日本の対外策を高圧的に述べたのに対し、受けて立つ林は1842年の穏健策<天保薪水令>下にあると、毅然として述べる。ペリーはこれに反論できなかった。

 ついで幕府が準備した昼食を出す。折しも、この講演3日後の6月6日、「ペリー提督一行への饗応料理」の翻刻等を進めている齊藤淳一さんから、「ペリー提督一行への饗応料理」研究の新しい進展(その2)」が入った(本ブログ2018年3月26日掲載の「善四郎とペリー饗応の膳」も参照)。
詳細な調査過程を省いて結果のみを記すと、(ア)饗応料理の列席者は、米側34人、幕府側4人(林大学頭は退席し、対馬守、美作守、民部小輔、満太郎)の計38人(アメリカ側は警備を含めて総勢442人が上陸していた)、(イ)料理名の一つ<fried snakes>とは季節等を考慮すると<穴子の天ぷら>である。
(4)3月31日の調印まで(土産物の交換、宴会)
(5)4カ国語から成る日米和親条約(正文の取り決めなし)
 
 こうして締結された日米和親条約の、現存するアメリカ公文書館所蔵のものは、下記のとおり4つの言語で書かれている。末尾の署名欄のみを挙げると、右上が日本語で林大学頭ほか4名の署名と花押、左上が松崎満太郎の署名と花押がある漢文版、その下がペリー署名の英語版、そして右下が森山栄之助署名のオランダ語版である。

20220617_4.png


 日本側が受理したものは関東大震災で焼失したとされる。おそらく日本語版と英語版は同じで、漢文版にはS.W.Williams(広東でペリーに日本語通訳を要請されたが、日本語と中国語は別の言語であり、日本語の通訳はできないと断り、顧問として艦隊に同行)が、オランダ語版にはポートマンが署名している。
 ただ、この段階では、どの言語で書かれた版が条約の<正文>であるかの記載がなかった。そこでペリー艦隊が避難港として開港した箱館(函館)を実見した後の6月8日から下田の了仙寺で再度の協議に入る。そして6月17日、<下田追加条約>を交わし、ここで初めて日本語と英語を<正文>とし、これにオランダ語の訳文を付すことを決めた。


4 日米和親条約の骨子
 (1)国交樹立
 (2)避難港として下田と箱館(函館)の開港
 (3)漂流民救助費の相互負担
 (4)米国に片務的最恵国待遇
 (5)アメリカ領事の下田駐箚(1858年にハリスが着任)

20220617_5.jpg

5 日米修好通商条約(1858年)の骨子
 (1)箱館(函館)・新潟・神奈川・兵庫・長崎の開港
 (2)江戸・大坂の<開市>
 (3)開港場周辺の遊歩規定
 (4)片務的領事裁判権
〇 (5)アヘン禁輸
 アヘン禁輸の条項を提案したのは、幕府ではなくハリスである。ハリスは日本へ向かう途上、シャム(タイ)と通商条約を結んだ。イギリスは一足先にシャムと結んだ条約でアヘン輸入を解禁したため、2番手のアメリカは、<最恵国待遇>によりアヘン禁輸にできなかった。
 アヘン戦争後の英清南京条約(1842年)には<アヘン条項>がない。その2年後に米清望夏条約を締結するアメリカは自国の外交の基本に沿い、かつ清朝政府の意向を汲んで<アヘン禁輸>条項を入れた。これに対してイギリスは先に結んだ英清南京条約に<アヘン条項>がないのだから、米清望夏条約には拘束されないと主張した。
 このような経緯を知るハリスは、イギリスに先んじて結ぶ日米通商条約(1858年)に<アヘン禁輸>の条項を入れるよう提案したのである。最初の条約にアヘン禁輸条項が入れば、後続の条約も、これに拘束される。

 アヘンについて一言。アヘンの主成分モルヒネは最強の<鎮痛剤>(医薬品)であるとともに、野放しにすれば<麻薬>となる。英清天津条約(1858年)では<解禁>して野放し(売れれば売れるほど良い)とし、同年に結ばれた日米通商条約では<禁輸>とし医薬品に限定した。
 それには歴史的な前提があった。鎖国の最中、三都(江戸、京都、大坂)の医師(漢方医)が前年度に使用したアヘンを長崎奉行へ提出、長崎奉行は想定されるアヘン必要量をオランダ船と中国船に発注していた。
 したがって幕府としては政策の承継であり、ハリスの<アヘン禁輸>の提案は格別のものとは考えなかった(ものと思われる)。しかし、日米修好通商条約(1858年)に、もし<アヘン禁輸>の提案がなければ、日本のアヘン問題はどのように展開したであろうか。
 念のため改めて【インド産アヘンの140年】を再掲する(拙著『イギリスとアジア-近代史の原画』1980年 岩波新書より)。
 
【イ ン ド 産 ア ヘ ン の 1 4 0 年】
20220621-01.png


6 幕府主導の横浜居留地建設
(1)開港場の<神奈川>とは、神奈川宿か、横浜村か? 
(2)幕府とハリスの論争と決裂
 〇 (3)横浜開港の期日に間に合わせるため、幕府が3か月間の突貫工事を行い<横浜道>、<運上所>、外国人居留地と日本人町からなる<関内>を設定
 (4)区画を整理して外国人に賃貸する形式(所有権は幕府が持つ)
 
 横浜居留地の成立前後の地図の比較。「横濱村等近傍之図」では、下部の海岸端の地形が後の埋め立て後と大きく異なる。


20220617_6.jpg

 次の2点の地図が示す通り、横浜居留地は外国人町(左側で番号を付す)と日本人町で構成され、双方の往来は自由で、商人たちは店頭の品々を見定め、取引を行った。これを<居留地貿易>と呼ぶ。日本側は生糸売込商が最有力で、急増する世界の需要に応えた。
 また外国人に土地を賃貸する方式(所有権は幕府=国が持つ)もきわめて重要であり、明治政府もこれを承継し、主権を失うことがなかった。

20220617_7.jpg

20220617_8.jpg


7 日本開国に好意的な関心を寄せ、横浜へ応援に来た外国人 
例1:ヘボン『和英語林集成』(西洋語による近代日本語の最初の辞典)。初版 (1867年)。Japanese-English Dictionary; with an English and Japanese Index、横浜で発行、上海の美華書館で印刷。見出し語数20,772語。明治のベストセラー辞書。
 例2:5歳ころから岡倉天心(覚三)に英語を教えた宣教師ジェームス・バラとマーガレット夫人。

【大佛次郎の構想】
 例えば『天皇の世紀』の<天皇>は明治天皇を指すと思われるが、『天皇の世紀』(1)の<外の風>で、孝明天皇の第2皇子、のちの明治天皇の生誕(1852年)より10年以上も前、中国とイギリスのアヘン戦争(1839~42年)から稿を起こす。そこに出発点を置いたことに注目したい。長崎に入る中国船が舶来する<風説書>(ふうせつがき)を集めた斉藤竹堂『鴉片始末』や坂原雄『阿片乱記』を資料とし、大佛はこう描く。
 「イギリスがアヘン戦争を起こしたのは、イギリスの貿易監督官と臣民が監禁さた生命の危機を受けたと言うのが理由であった。禁制のアヘンの引渡しを承知しなかったために起こったことで、引渡さねばならぬアヘンをイギリス人だけが引渡さなかったのが、監禁に近い待遇を招いたのだとは、一切感じていないように見えた。マカートニー卿以下を派遣して平等の国交に入ろうと努めて、頑冥な清国の拒絶にあい、何とかこの壁を突破しようとしたのが、この強引な戦争で初めて目的を達し、香港を割譲させ、イギリスの貿易のために五つの港を開かせ、イギリス臣民の居住貿易の自由と安全を保障せしめ、イギリスの治外法権を認めしめた。
 武力と言う直接で解決が早い手段で成功した。南京条約にはシナにアヘン輸入公認させた条項はない。しかし、禁制品のアヘンを没収したのに対して賠償金をイギリス人に向け払わせたのは、将来もアヘンを密輸入しても没収不能のような印象を人に残したものである。」
 
 歴史家として補足すれば、『風説書』を分析してアヘン戦争の予測を立てた幕府は、清朝政府がアヘン戦争に敗北すること必至と見て、開国派と攘夷派の論争の末、南京条約締結の1日前の8月28日、強硬な1825年の文政令(異国船無二念打払令)を撤回、穏健な天保薪水令に戻した(前掲の<略年表>を参照)。平和的な解決を模索したのである。

【臨場感あふれる描写】
 また浦賀沖に出現したペリー艦隊の黒船と日本人との接触を描く場面(第2)巻の<黒船渡来>の項)の描写は、臨場感にあふれ、あたかもその場にいるような印象を受ける。その主な資料は土屋喬雄訳『ペリー艦隊 日本遠征記』(岩波文庫 1953年)、1853年7月8日の第1回来航(浦賀)の接触を次のように描く。
 「浦賀奉行所与力の中島三郎助が通詞堀達之助を従え、旗艦サスケハナに小舟をつけ、仏文で認めて用意されていた退去命令書をペリーに渡そうとしたが、士官が奉行でなければ面会できぬと言って、乗艦を許さない。…中島は堀に英語で通訳させながら自分は偽って奉行次席だと名乗り相当する士官に会いたいと申し入れて、始めて船内に入ることができた。先方から副官のコンティ少佐が出て対面したので、不意に来た理由を尋ね、日本の法として外国船は長崎で応接する規定になっているから、そちらへ行ってもらいたいと要求した。ペリーの副官は、司令長官の意志を明らかにした。予は我が大統領の命を奉じ、貴国と通商貿易の約を結ばんと欲し国書を持参した。これは帰国を代表する高官でないと渡すことは許されぬ。…
 4日の朝には、他の与力香山栄左衛門が奉行だと称して旗艦を訪問したが、ペリーはやはり面会しない。艦長以下士官3人と会い、浦賀は外国人応接の土地でないから国書を受けられぬ。長崎に回航してもらいたいと重ねて要求した。先方はこれを拒絶して、貴国政府が大統領の国書受領のために相当の官吏を任命しないようなれば、我が長官は武力を用いて上陸し、将軍に面会して国書を渡す手段を採る、と、はっきりと告げた。…」
 4隻からなる(蒸気船2隻、帆船2隻)ペリー艦隊は、三浦半島を回るころ全艦に戦闘態勢を敷いたが、陸にある日本側の砲台は沈黙。日本は穏健な<天保薪水令>下にあった。歴史家として補えば、避戦に立脚する以上、なによりも話し合い姿勢を前面に出すことが肝要であると幕府は考えた。この対応は周到に準備されていたもの。
 なお『ペリー提督 日本遠征記』の翻訳には、新たに宮崎壽子=監訳による角川ソフィア文庫版(上下 2014年)等がある。


20220617_9.jpg

初めての軍楽隊演奏。右の総大将がペリー。


 ペリー艦隊の2度目の来航は翌1854年2月、9隻の大艦隊であった。応接する地をめぐる日米の応答があり、横浜村に決定する。ペリーを応接所へ案内し、左手で示す白袴姿は与力・香山栄左衛門。



20220617_10.jpg



【ペリーにとっても避戦に基づく交渉は最重要事項】
 避戦に基づく交渉は、ペリー側にも重要であった。以下のとおり、幾つか基本的な理由がある。
 (1)ペリーはフィルモア大統領から発砲厳禁の大統領命令を受けていた(前述)。Z・タイラー大統領の死去に伴い(憲法の規程により)選挙を経ずに大統領に昇格したフィルモアにとって、発砲厳禁の命令は議会対策上、不可欠であった。
 (2)アメリカは独自の補給路を持っていなかった。アメリカ東部を出港後、大西洋を横断して南下、ケープタウンを回り、インド洋に入ってからは、超大国イギリスの蒸気郵船P&O社の貯蔵所で食料・水はもとより燃料の石炭まで購入する補給線を頼りに中国沖へ、そして琉球から浦賀に至る。地球の約5分の4を回る最遠のルートで7か月半を要した(下図の「ペリー提督旗艦の航路図」等を参照)。
 (3)もし日米交戦となりイギリスが中立宣言を出せば、補給路を断たれ、艦隊は身動きができなくなる。
 (4)ペリーはシーボルト『日本』の、「日本は同じ家系の統治者(=天皇家)による世界最古の歴史を有する」の記述から日本への畏敬の念があった。
 (5)さらに植物愛好家であるペリーは、鎖国中の島国日本には交雑していない新種が多くあると考えており、収集を意図していた。

20220617_11.png

【日本側の主体性と文化力の発揮】
 戦争を避け、主体性を維持しつつ外国に窓を開いた日本及び日本人に対する世界の人々の目には驚きと賞賛があった。折しもロンドン万博(1850年)が開かれ、新しい物産の要望が高まる。それに加わろうと日本側の動きも激しくなる。
 一方、ジャポニスム(日本趣味)と呼ばれる<文化運動>がフランスを中心に巻き起こり、浮世絵や伝統工芸品への評価が急上昇する(本ブログ2021年11月19日掲載の「日仏文化交流-CHAUMET 特別公開によせて」を参照)。こうした世界的な動きのなかで、来日した文化人は、五港開港場のうち最大規模の横浜に集まった。 
 日本人にとっても横浜居留地(<関内>)は、外国の文化が日常的にあり、外国人にも会える場所として人気を呼んだ(本ブログ右欄のリンクに連載「横浜の夜明け」(10回)『横濱』誌2007~2009を参照)。福沢諭吉などは習得したオランダ語を媒介にして英語を学び、新しい時代の知識を学ぶ。
 それには辞書が不可欠であり、ヘボン『和英語林集成』(初版は1867(慶応3)年発行)が高い評価を誇った。いま何気なく使っている基本語彙の、民主、自由、哲学、議会、人民等の、基本的には2字の漢字からなる新造漢語が明治10年代に市民権を得るが、その起爆力となったのがヘボン『和英語林集成』に他ならない(岩堀行宏『英和・和英辞典の誕生-日欧言語文化交流史-』1995年 図書出版社 を参照)。
 また日清戦争(1894~95年)後に来日する清国留学生の手により、新造漢語は漢字の母国の中国へ持ち込まれ、現代中国語のなかのキーワードとして今も活用されている。これがなければ中国共産党の諸文献も現在とはまったく違うものとなっていたであろう。

【都市横浜の成長のカギ】
 こうして人口わずか500人ほどの武蔵野国久良岐郡横浜村を中心とした横浜居留地(関内)は、ムラが合併して横浜町、さらに1889(明治22)年に横浜市となり、人口12万人(ムラ時代の約240倍)を数えた。
 都市横浜の成長のカギを握る立役者の一人が原善三郎である。彼は埼玉県の渡瀬出身で横浜に生糸売込商<亀屋>(かめや)を開き、1873年には横浜生糸改会社社長、翌年、第二国立銀行(横浜銀行の前身)を設立して初代頭取、1880年に横浜商法会議所(現在の横浜商工会議所)の初代会頭となり、市政公布をした1889(明治22)年に初代市会議長となった。
 ちなみに善三郎の孫娘と結ばれるのが青木富太郎、のちの原三溪であり、三溪園に鶴翔を建てて住まいとし、三溪園に独自の庭園の美を生み出す。1906(明治39)年に外苑が一般公開され、ランドマークの旧燈明寺三重塔を1914(大正3)年に移築すると、内苑(原家の私邸)への臨春閣等の古建築の移築が進み、1922(大正11)年の聴秋閣の移築により完成する。今年がそれから100年となる。

【最後に】
 幕末期の避戦に立脚する外交が好循環し、また次の事例を生み出す<事柄の承継>が遺憾なく発揮された。とりわけ<文化力>ともいうべき側面を、①日米和親条約、②日米修好通商条約、③横浜居留地の建設という3つの時期それぞれに見てきた。
 それらに貫通するのは条約の発生根拠ではないか。日米交渉の最初から一門の大砲も火を噴くことがなかった。日米双方が避戦に徹し、冷静かつ論理的な交渉を進めた。そこで浮かんだのが<敗戦条約>と<交渉条約>の対比である。
 
 大先輩の著書、石井孝『日本開国史』(1972年)を一覧した対比表「敗戦条約と交渉条約の比較一覧」を最後に掲げたい。これは「幕末開国考-とくに安政条約のアヘン禁輸問題を中心として」(『横浜開港資料館紀要』第1号 1983年)に初出。ここに至る過程については本ブログ2017年8月8日所収【28】幕末開国考(連載「我が歴史研究の歩み」28)、その後の展開については2017年8月21日掲載の【29】「黒船前後の世界」(連載「我が歴史研究の歩み」29)を参照されたい。
 こうして①列強、②植民地、③敗戦条約、④交渉条約という<4つの政体>が成立、これが近代世界を構成する。不平等性の最強が②植民地であり、立法・司法・行政の国家三権をすべて失う。ついで③敗戦条約、そして日本が結んだのが④交渉条約であり、不平等性は微弱なうえ、早めに条約改正を達成できた。
 
 交渉条約に導いた日本側の文化力と判断力とともに、交渉条約を実現可能とした世界情勢も見逃せない。

20220617_12.png

所蔵品展 夏のはじまり

 三溪記念館の第1展示室と第2展示室を使い、6月2日(木曜)から所蔵品展「夏のはじまり」 が始まった。期間は7月12日(火曜)まで。担当は今年度着任の中村暢子学芸員(美術)、その初の作品である。これまでの1年間、吉川利一学芸員(歴史)が超多忙の事業課長の任務を果たしつつ担当してきた作業を引き継いだ。

 中村学芸員は、多摩美術大学美術学部を卒業後、慶応義塾大学大学院文学研究科美学美術史学専攻に進学、博士課程を満期退学後に、神奈川県小田原市役所の郷土文化館係として松永記念館の学芸業務と施設管理等に携わってきた。

 松永記念館とは、戦前・戦後を通じて「電力王」と呼ばれた実業家で数寄茶人としても高名であった松永安左ヱ門(耳庵)が昭和21年に小田原に居を構えてから収集した古美術品を一般公開するため、昭和34年に財団法人を創立して自邸の敷地内に建設した施設。昭和54年に財団は解散、敷地と建物が小田原市に寄付された。

 ちなみに原三溪の隠居所であった白雲邸の入口に掲げる揮毫「白雲邸」は、茶友・松永安左エ門耳庵翁、95歳の手になる。本ブログ「白雲邸」(2015年11月23日掲載)や「白雲邸屋根の葺き替え」(2017年4月3日掲載)を参照。

 また三溪より7歳若い耳庵、両者の親密な交友関係の一端を描いたブログが「三溪園の大師会茶会」(2018年11月1日掲載)である。そこにも記したが、三溪を茶道に導いたのが、三溪より20歳年長の益田孝(鈍翁、1848~1938年)で、鈍翁、三溪、耳庵は<近代三茶人>と称される。 

 6月2日午後、定例の職員ミーティング後、中村さんの案内で展示を見て回り、ついで白雲邸の強固な倉庫を見学した。

 中村さんの流麗な解説をそのまま使わせていただき、所蔵品展「夏のはじまり」をご案内したい。なお第3展示室は、臨春閣の大規模修繕工事の完了をめぐる展示を7月1日から予定している。


第1展示室
緑が鮮やかな立夏(5月5日頃)を過ぎ、季節は夏に向かいます。夏の中頃は梅雨の時期。曇天や雨が続き、憂鬱な気分になりがちですが、草花にとっては恵みの季節。雨が開花をうながすことから「雨は花の父母」とも言われます。三溪園の庭園も菖蒲、紫陽花と濃淡さまざまな紫が彩りを添えます。雨後、鮮やかに映える草花の色彩はこの季節ならではの趣きでしょう。
1年で最も昼の時間が長い夏至(6月21日頃)を過ぎると本格的な夏の始まりです。七夕などの行事もあり、なんとはなしに気分も浮き立ちます。あわただしく変わる景色を追いかけるように、この季節にふさわしい所蔵品を選びました。園内の風景と重ねながら、ゆっくりご覧ください。

20220614-01.jpg


◇ 三溪自筆の書画
原三溪(1868-1939)は、実業家として活躍するかたわら、優れた古美術の蒐集や、画家への支援を行い、自らも書画をたしなみました。幼くして、南画、漢籍、詩文の教養を身につけた三溪。母方の祖父が南画家・高橋友吉(号 杏村)という環境もあり、絵については、10歳の頃から、叔父の高橋鎌吉(号 抗水/杏村の長男)に学びました。
江戸時代の文人が、本職ではなく余技としてたしなんだ南画の伝統を引き継ぎ、三溪も事業を手掛けるかたわら、伸び伸びとした筆致で和やかな絵を描いています。

20220614-02.jpg 20220614-03.jpg 20220614-04.jpg 20220614-05.jpg 20220614-06.jpg
 雨竹      山中宰相    漁翁     飛燕   渓間の家


原三溪 「雨竹」 大正2(1913)年 ※三溪45歳
雨にしなだれる竹が描かれています。雨そのものを描かず、雨を受けた竹の姿態(したい)で雨を表現していること、特に、雨の重みで垂れ下がっている手前の枝葉を濃い墨で表し強調している点がポイントです。

原三溪 「山中宰相」 昭和7(1932)年 ※三溪64歳
竹やぶそばの川沿いで書物を広げ、傍(かたわ)らの水鳥をふと見やるのは、陶弘景(とうこうけい)という5世紀頃の中国の高士です。俗世を離れ、山中に隠居しましたが、国に大事がおこると、朝廷から相談に訪れたので、「山中宰相」と呼ばれました。竹林は涼しげに描かれ、高士の高潔さを表しているようです。

原三溪 「漁翁」 昭和2(1927)年 ※三溪59歳
大きな岩に座り、釣り糸を垂れる人。麦わら帽をかぶった頭を後ろにそらし、空を仰いでいます。上空の青空に鳥でも飛んでいるのでしょうか。釣れないと嘆いてため息をついているのでしょうか。
渓流には澄んだ水が涼しげに流れていきます。

原三溪 「飛燕」 昭和3(1928)年 ※三溪60歳
ハナショウブの上を燕が飛んでいます。
燕が飛ぶ初夏、三溪園の大池の周りには、ハナショウブが彩ります。濃紫色の花から咲き始め、薄紫色、白色へと菖蒲田の色合いの変化が楽しめます。三溪が造園した当初は、10万株96種が植えられましたが、潮風により根付かず、他所へ移植されました。

原三溪 「渓間(たにま)の家」 昭和10(1935)年 ※三溪67歳
山間(やまあい)の家で暮らす人のひとこま。お母さんが赤ちゃんを抱いて屋外のお風呂に入っています。桶のそばには男の子が順番を待つようにお母さんに話しかけています。小川のそばのお風呂はカキツバタに囲まれています。このように素敵なお風呂だったら、とても気持ちが良いでしょうね。


前田青邨が語る原三溪の画
日本画家の前田青邨(1855-1977)は三溪の絵を評して次のように語っています。
「原さんの絵は何といふか、調子の高い、個性のはっきりした専門家には絶対に描けない画であった。それこそ、専門家のわれわれが一も二もなく頭が上がらないほどであった。」

前田青邨(1855-1977)
日本画家。三溪と同じ岐阜出身で、同門の先輩である小林古径(1833-1957)とともに三溪の支援を受けた。

◇ 美術蒐集家・原三溪-書簡にみる三溪の美意識-
三溪は30代の頃(明治30年頃)から古美術の蒐集に力を入れました。優れた美術品を蒐集するには情報が重要です。当時の数寄者たちは古美術商を通して数々の美術品を集めていました。
三溪が交流をもっていた骨董商の一人に今村甚吉(~1907)がいます。三溪が今村に宛てた書簡は、三溪の古美術・古建築の蒐集、庭園造成の過程や思いなどを知ることができる貴重な資料です。
三溪園が所蔵する31通の書簡から、明治36(1903)年6月20日付けの書簡をご紹介します。

今村甚吉宛て原三溪書簡 明治36(1903)年6月20日
この書簡には、平安時代の観音像(「藤原時代観音像」)や奈良時代の石灯篭(「天平燈明」)を購入したことが記されています。
観音像については、観音像の台座である蓮台を急ぎ調整してほしいことを重ねて依頼。美術品を単に蒐集するのではなく、設えの仕方も含め、全体観を重視していたことがわかります。
石灯籠については、運搬に慎重を期したにもかかわらず、菰(こも)包み(束ねた藁での梱包)の方法が悪く、桧苔(ひごけ)が丸はげになっていて大変残念だ、このような姿では、過日示された金額では支払いしかねると述べられており、三溪が桧苔による「古色」の趣きを評価していたことがうかがえます。

今村甚吉(~1907)
奈良の法隆寺西門前町で古美術商「楳林堂」を営んでいた骨董商

(書簡書き下し)
陳者其後ハ失礼仕候
扨藤原時代観音像
ハ過般御頼ミ申候通り
何卒大至急蓮台
御調製被成下度甚相
待申居候
五斗台上等御座候得ハ
此又入手いたし度
御運動願入候
扨此ニ困リ入リタル事
出来仕候過日御積送
りの燈明仏像類ハ
御案内之通無事
着仕候然ニ尤モ大切
ナル天平燈明之ぎ
ハ幾重ニもこも包みニ
相成居候為メカ或ハ
汽車場迠運搬ノ
不注意ナリシ為メカ
ひごけハ全部丸はげ
誠ニ残念ニ御座候
尤も燈明ハ石ノ古色ハ
はげ不申候得共ひごけハ
全部めくれ申候
是非此次ニ御一覧
被成下度候扨小生も
今日之姿ニ候てハ過日
之代価ハ出し兼申候
御考へ置被下度候
当方運搬之模様ハ井上
能く承知いたし居候間
同人よりも御聴取被成
度候
不取敢右御報知迠ニ
申入候  草々頓首
  二十日  原
今村君


◇ 三溪が支援した画家-下村観山-
三溪は明治の終わりごろから、日本美術院を中心とした若手作家の支援を始め、物心両面から支えました。その中でも、三溪が最も親しく支援した作家が下村観山(1873-1930)です。
具体的に支援を始めたのは明治44(1912)年からで、三溪44歳、観山39歳の頃でした。同年、三溪は園内の高台に建つ松風閣の障壁画「四季草花図」の制作を観山に依頼、観山は三溪園に滞在し制作に励みます。やがて観山は、三溪園そばの本牧和田山(現在の本牧山頂公園)の土地と屋敷を三溪より与えられ、画室を構え、終生の住まいとしました。観山の穏やかな性格と、美しい線描を持ち味とした作品を三溪は好ましく思ったようで、二人は親しく交流しました。

*大正12(1923)年の関東大震災で松風閣が倒壊したため、観山が手掛けた「四季草花図」は残念ながら現存しない。大正4(1915)年の日本美術院再興第2回展覧会に出品した「弱法師(よろぼし)」(東京国立博物館所蔵)は、三溪園内の臥龍梅(がりょうばい)に着想して描かれた名品。


下村観山 「城外の雨」 大正3(1914)頃
中国の城壁に囲まれた街の外、「城外」の様子です。地面はひざまでつかるほどの水。大きな傘で牛の背に乗り赤ん坊を抱く女性、天秤竿でバランスをとりながら歩く男性。波紋はところどころ輪になって、雨粒が落ちている様子をも描き出しているようです。上空の鳥も右に左に行き交い、突然の豪雨を印象づけます。


20220614-07.jpg


下村観山 「虹」 制作年不詳
橋がかかる遠浅の河川沿い、空から地面へむかって一本、虹が大きく陽炎(かげろう)のように描かれています。虹のむこうには鳥が飛んでいます。雨は細く、かすかに描かれ、虹が出て、いままさに降り止むところのようです。パステル調の色調が、美しくやさしい景色を醸(かも)し出しています。

20220614-08.jpg


第2展示室
原三溪 「青琅玕詩帖(せいろうかんしじょう)」
美しい料紙装飾が施された色紙に、三溪の和歌を書いたものが13枚あります。展示中の左の色紙は、雨後の情景を詠んでいます。
「雨あかり みきしめりたる 松並木 するかの国に 一筋に縫ふ」 (するがの国をすぎて)

*青琅玕詩帖
帖の名は所収の一句に由来し、琅玕(ろうかん)は半透明の美石のことです。
この帖のほとんどが、『三溪集』(三溪自作の漢詩・和歌集)所収の歌で構成されています。漢詩を多く遺している三溪ですが、和歌はあまり多く見られず、そういった点でも貴重な資料です。

20220614-09.jpg


「燕子花図風炉先屏風」
尾形光琳などに代表される琳派風の燕子花が描かれた茶席に用いる「風炉先屏風」。茶の湯で茶釜をかける灰が、冬場の「炉」から夏場の「風炉」に変わるのは5月。風炉の季節にはこの風炉先屏風を用います。この屏風は三溪が園内の茶会で、この季節に使用したものかもしれません。

◇ 琳派と三溪
琳派は、桃山時代の俵屋宗達、江戸前期の尾形光琳、江戸後期の酒井抱一ら、装飾的な画風を得意とする一派をさします。直接の師弟関係ではなく、個人的に先達を尊敬し、模範して学ぶことで、時代を超えて画風が継承されました。かれらの画風は大正時代初めに注目を集め、現在の「琳派」の原型となる言葉を生みました。この一派に注目した人物たちは、三溪をはじめとする美術愛好家や近代日本画家たちでした。

小茂田青樹「菖蒲」大正9(1920)年
背の高いまっすぐな葉に埋もれるように、白や紫の花菖蒲が咲いています。にじみやぼかしを用いて、雨にしっとりと濡れる様子を表しているようで、風情があります。小茂田青樹(1891-1933)は三溪が支援した日本美術院の画家の一人です。


小茂田青樹(1891-1933)
日本画家。大正初めの巽画会出品の「野趣四題」が三溪に認められ、速水御舟(1894―1935)、牛田雞村(1890-1976)とともに三溪の支援を受ける。赤曜会(せきようかい)にも加わり、出品作を三溪が買い上げている。

*赤曜会
大正3年結成の日本画研究会。今村紫紅を中心に同門の牛田雞村、速水御舟などによって結成された。2年後、紫紅の急逝により解散となる。三溪は赤曜会展の作品も支援の一環として購入している。


「竹図屏風」江戸時代
江戸時代の屏風です。紙の地に金箔(きんぱく)を置き、太い竹を大きく力強く描いています。竹の上部は金箔の雲形による霞(かすみ)などにより、ぼかしをいれる手法をとり、空間のひろがりを感じさせます。
竹の緑青(ろくしょう)が金地によく映え、簡素な画題でありながら、鮮やかな印象を与えます。

20220614-10.jpg
20220614-11.jpg


◇ 乞巧奠(きこうでん・きっこうでん)
七夕は、中国由来の織姫・彦星の天の川伝説によるもので、旧暦七月七日には、公式行事として「織女祭」が行われました。これとは別に、天皇や貴族の私的行事として行われたのが乞巧奠です。織物関係だけでなく、次第に管弦演奏や詩歌などの技芸向上を願う行事になっていきました。

牛田雞村「紙人形作り図」
糸切ばさみに白い糸を傍らに、女性が紙人形を作っています。肌が薄く透けた青い涼しげな着物は夏用の絽(ろ)の着物。手にした人形は姉様人形。七夕は裁縫の上達を願う乞巧奠(きこうでん)に由来します。北陸や信州などでは、七夕に紙人形を作り川に流す風習があります。そのような風景を思い起こさせる作品です。牛田雞村(1890-1976)は三溪が支援した画家の一人です。

牛田雞村(1890-1976)
日本画家。三溪の長男の善一郎と小学校の同窓であったことが縁で支援を受ける。今村紫紅らとともに赤曜会を結成。日本美術院を戦後脱退、舞台芸術で活躍する。三溪園に晩年まで訪れ、よくスケッチをした。

蟹に笹蒔絵鼓
鼓は能などで用いられる打楽器です。この鼓胴(こどう)といわれる真中の芯(しん)になる部分は、音質や音量を決定する大切な部分です。特に、室町時代から美しく大胆な蒔絵(まきえ)が施されるようになり、鑑賞用ともなりました。この鼓胴は、沢蟹と笹の涼しげな意匠となっています。
笹は竹と明確に区別されておらず、竹の細いものを笹と呼ぶということです。

◇ 三溪自筆の書―茶友との交流、白雲の心―
詩歌などの技芸向上をも願う乞巧奠にちなみ、三溪自筆の書をご紹介します。
一つは、ともに茶の湯に親しんだ鈍翁 益田孝のためにしたためた五言絶句。もう一つは、夏の空に悠々と浮かぶ「白雲」の書。この二字は、三溪が好んだ言葉でもあります。
「歌を詠じ、詩を賦し、書は大師流の素晴らしいものを書き」とは、日本画家・前田青邨が三溪について述べた評。幼い頃に身につけた漢籍・詩文の教養を、大人になっても生活のなかでたしなむ生き方は、現代においても見習いたい、素敵なありようです。

原三溪「呈鈍翁大人」(どんのうたいじんにていす)大正14(1925)年
天風吹嶽雪
散作海上花
鈍翁之所隠
水清雲擁家
大正乙丑夏賦五言短右一首
呈鈍翁大人


大正14(1925)年の夏、三溪が鈍翁に贈った五言絶句。風・水・清という言葉で鈍翁の高潔さを表現しています。このとき三溪57歳、鈍翁77歳。二人の年齢は離れていますが、信頼関係は厚く、公私にわたり親交をもちました。

鈍翁 益田孝(1848-1938)
三井物産の創始者で実業家。数寄者としても知られ、「利休以来の大茶人」とも称されました。明治35(1902)年に原合名会社が三井より製糸工場を譲り受けた際の立役者とされています。大正10(1921)年には箱根に所有していた別荘「白雲洞」を三溪に無償で譲っています。

*三溪没後、白雲洞は昭和15年(1940)耳庵 松永安左ヱ門(1875-1971)に贈られました。近代三茶人(鈍翁、三溪、耳庵)をつなぐ茶室は、現在、箱根強羅公園にて見学することができます。

原三溪「白雲心」
三溪が好んだ「白雲」という言葉。禅語では、何ものにもとらわれない自由闊達な境地、無心で物事にこだわらない清々しさがあるという意味を持ちます。
人格高潔な君子や高士に通じ、三溪の目指す境地を表しているようです。

20220614-12.png




プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
カテゴリ
QRコード
QR