春が来る
前回のブログ「大寒をしのげば」(2月2日掲載)で、南関東の厳冬期は<大寒>ではなく<立春>のころと書いた。
いよいよ春が来る。「春は名のみの風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず…」(唱歌『早春賦』 1913年)。
春をもっとも敏感に感得するのは五感のうち、どれであろう? 一輪一輪と蕾が開く可憐な白梅、地表から顔を出す淡緑のフキノトウ、それに常緑の広葉に真っ赤な花のツバキ(椿)等が思い浮かぶ。
都留文科大学に勤めていた時、残雪の藪で鶯がチッチチッチと笹鳴きを始め、春の進行に合わせるようにホーホケッからホーホホケキョと変わっていくのを楽しんだ。鶯は鳴かねど梅は咲く。三溪園は梅の名所でもあり、いま満開の樹もある。
2月19日(土曜)、自宅近くの秘密基地でフキノトウを摘み、蕗味噌をつくった。ほろ苦さと野生の香りが、眠っていた細胞を呼び覚ます。そう、「春の皿には苦味を盛れ」ともいう。
【所蔵品展 四季のうつろい―春の兆し】
三溪園では17日(木曜)、「所蔵品展 四季のうつろい―春の兆し」が三溪記念館の第1、第2展示室で始まった(~3月16日(水曜)まで)。企画・実施は今回も吉川利一学芸員。事業課長の業務もこなしつつ完成にこぎつけた。
梅の見ごろは2月上旬から3月上旬、それに合わせて「梅の盆栽展」(2月13日~2月20日 終了)、「合掌造りの雛飾り」(2月9日~3月7日)、「俳句展」(3月10日~6月1日)が並行して行われる。
吉川さんの構想、個々の展示品の解説を抄録し、展示の様子をご案内したい。
【第1展示室】
「百花のさきがけ」⇒どの花よりも早く咲き春の訪れを告げてくれることから、梅はこのような言葉で表現されます。
寒中にも凛として咲く風情を原三溪もたいへん好んだようで、三溪園を開園してまもない明治41(1908)年には、江戸時代から梅の名所として知られた東京の蒲田、川崎の御幸(みゆき)、横浜の杉田(磯子)から2000本もの古木をここに集めました。現在 “臥竜梅 がりょうばい”として遺されている木はこの時のものといわれています。
園内では3月上旬ごろまでが見ごろ。本展では、この梅を中心に春を予感させてくれる作品を紹介します。
■歌川広重「富士三十六景 武蔵本牧のはな」
「はな」は突き出たものを指す言葉で、本図では右側にある垂直に切り立った崖が「はな」、すなわち岬です。対岸には富士山とその手前に磯子の浜、白い帯状の部分は江戸時代からその名を知られた杉田梅林と思われます。
三溪園は原三溪の先代・善三郎がこの地に別荘・松風閣を構えたことに始まりますが、善三郎にこの地の購入を決めさせたのが本作品といわれています。松風閣の跡地に建てられた展望台からは今でも往時と同じ眺めが楽しめます。

■原三溪「曽我城前寺 そがじょうぜんじ」
小田原市にある城前寺は、鎌倉時代に父親の仇討ちを果たしたことで有名な曽我兄弟の菩提寺。周辺には梅林が広がり、梅の名所としても知られています。
画面では、梅が咲く早春の風景の先に真っ白な富士山も描かれています。

■原三溪「梅花五絶」
香りがいっそう際立つとされる
夜の梅を詠んだもの。
梅花江上寺
吟趁月明行
疎影鐘声古
寒香仏胆清

■雛人形
三溪が長女・春子誕生の際に誂えたもので、櫟(いちい)の木で作られています。屏風には三溪が支援した日本画家・前田青邨による柳と桜が描かれています。西郷家寄贈

■今村甚吉宛 原三溪書簡 明治37(1904)年2月26日
今村甚吉は法隆寺西門前町で仏教美術を専門に扱っていた骨董商。現在三溪園ではこの人物に宛てた三溪の書簡を31通所蔵しています。いずれも三溪の古美術・古建築の蒐集や庭園造成に対する価値観、思いなどを知ることができる貴重な資料です。
展示中の書簡では、日露戦争中のため、よほどの名品以外は収集を控えたい、庭石100個ほどを秋にでも自ら足を運んで選びに行きたい、豊公御堂(旧天瑞寺寿塔覆堂 きゅうてんずいじじゅとうおおいどう)の移築はしばらくそのままとしておきたいといった旨の内容が書かれています。
【第2展示室】
■原三溪「飛騨紀行貼交屏風 ひだきこうはりまぜびょうぶ」
本作品に貼り込まれた書画は、いずれも三溪が飛騨地方を訪れた際の印象やスケッチをもとに制作したもので、うち2面には桜の風景が描かれています。冬の間、深い雪に閉ざされる飛騨地方の春の開放感が伝わる作品です。
■牛田雞村「柳図」
金地に柔らかな曲線の枝と淡い緑の葉を図案的に描いた画面からは、春の穏やかな情景が伝わります。三溪が遺した記録には一双(2つで1組)の「雞村柳屏風」を縁者に半双ずつ贈ったとあり、本作品がこのうちの一つにあたるものと考えられます。
■狩野周信「鶴図」 臨春閣の障壁画
三溪園にある歴史的建造物の中で、三重塔と並ぶ代表的な建物が臨春閣です。江戸時代初期、紀州徳川家の別荘として築造されたといわれるこの建物の内部には障壁画が付属しており、本作品はこのうちの第一屋・鶴の間に嵌め込まれていたものです。(現在建物内には複製を置いています。)
松竹梅を配した画面にはそれぞれ異なる姿態の6羽の鶴が描かれています。

【三溪園の梅】
22日(火曜)、気温が12℃まであがり、春を強く感じる。来園者も増えた。記念館を出て白雲邸の屋根を眺める。檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の葺き替え工事が完成したときの鮮やかな褐色の屋根(2017年4月3日掲載の拙稿「白雲邸屋根の葺き替え」)が深い色合いになってきた。
そして改修工事(2018年度~)の終了を待つ臨春閣を飽きず眺める。工事の途中経過は2019年3月15日掲載の拙稿「臨春閣の屋根葺き替え工事」を参照されたい。屋根葺き替え工事や耐震工事の施工、資金難等々、いくつもの難関を乗り越えて今に至る。
臨春閣を最適の角度で視野に収めるビューポイントの近くにオオシマザクラ。声をかける。
ついで孟宗竹林と蓮華院の脇を抜け、海岸門をくぐると、あたりには猫たちがのんびりとたむろしている。<緑萼梅>(りょくがくばい)が勢いよく咲き始めている。横浜の友好都市・上海から1977年に移植した珍種で、緑色の萼(がく)と白い花が混ざって薄緑色を見せる。横浜から贈った桜の返礼という。
【早咲きの白梅と虚子の句碑】
<三溪園茶寮>近くの白梅は園内いちばんの早咲きで真っ盛り、高浜虚子の石の句碑と相並ぶ。「鴨の嘴(はし)より たらたらと 春の泥」(1933年の作品)。
鴨の字から、この大池に住む鴨を詠んだと何となく思っていた。
しかし腑に落ちない。「鴨の嘴」(カモノハシ)とも読める。カモノハシは全長50センチほどの卵生の哺乳類、オーストラリアだけに棲む珍獣、日本国内の動物園で飼育された事例はないという。ならば<写生>の句ではない。
二つの意味を重ねたのか。 虚子先生、恐れ入りました!
【臥竜梅は咲き始め】
先へ進んで<臥竜梅>(がりょうばい)。その名の通り竜が臥すが如き姿で、白い花がまさに咲かんとしている。三溪が支援した画家の一人、下村観山(1873~1930年)の有名な絵「弱法師」(よろぼし 1915年)のモデルの木として有名であり、多くの人がこれを目指して来園する。
関東の梅栽培は、江戸時代初期(17世紀)に始まる。三溪園は東京の蒲田(現梅屋敷)、川崎の小向(多摩川河川敷)、横浜磯子の杉田から名木を集め、1906年の開園当初から梅の名所として知られた。観梅会には初音茶屋で麦茶を供すが、今年もコロナ禍のため中止している。
名画「弱法師」の画題は能(謡曲)に因む。「河内国(現大阪府)の通俊は,人の告げ口を信じて、わが子の俊徳丸を追い出す。悲しみのあまり盲目となり乞食の弱法師と呼ばれた俊徳丸は,梅が咲く四天王寺(聖徳太子建立、6世紀、最古の仏教寺院)で施行(僧や貧しい人びとに物を施し与えること)を受ける。寺の縁起などを語るうち,父はわが子と気づき,日想観 (にっそうかん、西に没する日輪を観て、極楽浄土を想い浮かべる修行) を子にすすめる。弱法師は夕日に向かい、舞い狂う。」(2018年3月12日掲載の拙稿「女性駐日大使ご一行の三溪園案内」を参照)。
【合掌造りの雛人形】
24日(木曜)も園内を一巡できた。合掌造り(旧矢箆原家住宅)には数組のお雛様が飾られている。写真はそのうちの一つ。昭和初期、東京日本橋室町の一画、十軒店(じっけんだな)麗山豊玉斎製とある。撮影は村田和義副園長

【2体の石仏】
合掌造りを背に下ると、石造の<大漁地蔵>。手のひらに硬貨が置いてあった。来園者が置いたのであろう。私も必ず手を合わせる。左前方の高みに三重塔が見える。その尾根ぞいに石造の<出世観音>がある。2体の石仏は相呼応しているように思える。
<大漁地蔵>のすぐ先にある茶屋の<待春軒>(たいしゅんけん)では、名物の<三溪そば>(<三溪麺>ともいう)を出す。原三溪が自ら考案したとされるもので、中華のジャージャー麵に似ている。<待春軒>を過ぎると、満開の白梅と紅梅、さながら門構えのように立っている。
【水ぬるむ春の護岸工事】
外苑最奥にある旧東慶寺仏殿脇の滝に発する<流れ>が大池に至るまでの護岸工事が終盤を迎えている。水際の美しさを保ちつつ、土壌の流出を防ぐため、ヒノキの表皮を剥いだ丸太(長さ130センチほど)を3分の2ほど、計1200本も打ち込んで岸壁とする。完成前であっても美しい。

【自然観察会の看板にある写真】
正門に戻り、ボランティアの有志メンバー<自然観察会>の看板「見ごろの植物など」を眺めた。定期的に更新して季節の移り変わりを伝え、植物等の名前、学名、分類名、撮影場所と年月日が記されている。コロナ禍のため、引率して園内を巡回する自然観察会はほぼ2年間ちかく休止を余儀なくされていたが、昨年の11月から再開した。3月10日(木曜)の予告に「当面は密集、密接を避け、1グループ5名程度」の但し書きがある。
右欄にカワウ、ハクセキレイ等5種の鳥の写真と、1月22日に展望台から遠望した富士山と合わせて6点の写真。なお越冬のため飛来したキンクロハジロはほとんど北へ帰ったようである。
左欄の「見ごろの植物」の写真は計15種。そのつど入れ替えるため、撮影年月日順に並べ替えると、次にとおりである。
2021年11月27日のヤブツバキとスイセン
12月7日のクマザサ
2022年1月6日のロウバイ、ソシンロウバイ、ウメ
1月22日のコウバイ、ヒイラギナンテン
2月6日のフキノトウ、ガリョウバイ、カントウタンポポ
2月15日のノシラン、リョクガクバイ、ヤクシマツバキ(リンゴツバキ)、ベニワビスケ。
看板の前で幾人もの人が、「…これ見なかったわね。…」、「これは見たい。…」と言い交す。撮影日ごとの花の変化から、徐々に「春が来る」のを感じる。
いよいよ春が来る。「春は名のみの風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど 時にあらずと 声も立てず…」(唱歌『早春賦』 1913年)。
春をもっとも敏感に感得するのは五感のうち、どれであろう? 一輪一輪と蕾が開く可憐な白梅、地表から顔を出す淡緑のフキノトウ、それに常緑の広葉に真っ赤な花のツバキ(椿)等が思い浮かぶ。
都留文科大学に勤めていた時、残雪の藪で鶯がチッチチッチと笹鳴きを始め、春の進行に合わせるようにホーホケッからホーホホケキョと変わっていくのを楽しんだ。鶯は鳴かねど梅は咲く。三溪園は梅の名所でもあり、いま満開の樹もある。
2月19日(土曜)、自宅近くの秘密基地でフキノトウを摘み、蕗味噌をつくった。ほろ苦さと野生の香りが、眠っていた細胞を呼び覚ます。そう、「春の皿には苦味を盛れ」ともいう。
【所蔵品展 四季のうつろい―春の兆し】
三溪園では17日(木曜)、「所蔵品展 四季のうつろい―春の兆し」が三溪記念館の第1、第2展示室で始まった(~3月16日(水曜)まで)。企画・実施は今回も吉川利一学芸員。事業課長の業務もこなしつつ完成にこぎつけた。
梅の見ごろは2月上旬から3月上旬、それに合わせて「梅の盆栽展」(2月13日~2月20日 終了)、「合掌造りの雛飾り」(2月9日~3月7日)、「俳句展」(3月10日~6月1日)が並行して行われる。
吉川さんの構想、個々の展示品の解説を抄録し、展示の様子をご案内したい。
【第1展示室】
「百花のさきがけ」⇒どの花よりも早く咲き春の訪れを告げてくれることから、梅はこのような言葉で表現されます。
寒中にも凛として咲く風情を原三溪もたいへん好んだようで、三溪園を開園してまもない明治41(1908)年には、江戸時代から梅の名所として知られた東京の蒲田、川崎の御幸(みゆき)、横浜の杉田(磯子)から2000本もの古木をここに集めました。現在 “臥竜梅 がりょうばい”として遺されている木はこの時のものといわれています。
園内では3月上旬ごろまでが見ごろ。本展では、この梅を中心に春を予感させてくれる作品を紹介します。
■歌川広重「富士三十六景 武蔵本牧のはな」
「はな」は突き出たものを指す言葉で、本図では右側にある垂直に切り立った崖が「はな」、すなわち岬です。対岸には富士山とその手前に磯子の浜、白い帯状の部分は江戸時代からその名を知られた杉田梅林と思われます。
三溪園は原三溪の先代・善三郎がこの地に別荘・松風閣を構えたことに始まりますが、善三郎にこの地の購入を決めさせたのが本作品といわれています。松風閣の跡地に建てられた展望台からは今でも往時と同じ眺めが楽しめます。

■原三溪「曽我城前寺 そがじょうぜんじ」
小田原市にある城前寺は、鎌倉時代に父親の仇討ちを果たしたことで有名な曽我兄弟の菩提寺。周辺には梅林が広がり、梅の名所としても知られています。
画面では、梅が咲く早春の風景の先に真っ白な富士山も描かれています。

■原三溪「梅花五絶」
香りがいっそう際立つとされる
夜の梅を詠んだもの。
梅花江上寺
吟趁月明行
疎影鐘声古
寒香仏胆清

■雛人形
三溪が長女・春子誕生の際に誂えたもので、櫟(いちい)の木で作られています。屏風には三溪が支援した日本画家・前田青邨による柳と桜が描かれています。西郷家寄贈

■今村甚吉宛 原三溪書簡 明治37(1904)年2月26日
今村甚吉は法隆寺西門前町で仏教美術を専門に扱っていた骨董商。現在三溪園ではこの人物に宛てた三溪の書簡を31通所蔵しています。いずれも三溪の古美術・古建築の蒐集や庭園造成に対する価値観、思いなどを知ることができる貴重な資料です。
展示中の書簡では、日露戦争中のため、よほどの名品以外は収集を控えたい、庭石100個ほどを秋にでも自ら足を運んで選びに行きたい、豊公御堂(旧天瑞寺寿塔覆堂 きゅうてんずいじじゅとうおおいどう)の移築はしばらくそのままとしておきたいといった旨の内容が書かれています。
【第2展示室】
■原三溪「飛騨紀行貼交屏風 ひだきこうはりまぜびょうぶ」
本作品に貼り込まれた書画は、いずれも三溪が飛騨地方を訪れた際の印象やスケッチをもとに制作したもので、うち2面には桜の風景が描かれています。冬の間、深い雪に閉ざされる飛騨地方の春の開放感が伝わる作品です。
■牛田雞村「柳図」
金地に柔らかな曲線の枝と淡い緑の葉を図案的に描いた画面からは、春の穏やかな情景が伝わります。三溪が遺した記録には一双(2つで1組)の「雞村柳屏風」を縁者に半双ずつ贈ったとあり、本作品がこのうちの一つにあたるものと考えられます。
■狩野周信「鶴図」 臨春閣の障壁画
三溪園にある歴史的建造物の中で、三重塔と並ぶ代表的な建物が臨春閣です。江戸時代初期、紀州徳川家の別荘として築造されたといわれるこの建物の内部には障壁画が付属しており、本作品はこのうちの第一屋・鶴の間に嵌め込まれていたものです。(現在建物内には複製を置いています。)
松竹梅を配した画面にはそれぞれ異なる姿態の6羽の鶴が描かれています。

【三溪園の梅】
22日(火曜)、気温が12℃まであがり、春を強く感じる。来園者も増えた。記念館を出て白雲邸の屋根を眺める。檜皮葺(ひわだぶき)の屋根の葺き替え工事が完成したときの鮮やかな褐色の屋根(2017年4月3日掲載の拙稿「白雲邸屋根の葺き替え」)が深い色合いになってきた。
そして改修工事(2018年度~)の終了を待つ臨春閣を飽きず眺める。工事の途中経過は2019年3月15日掲載の拙稿「臨春閣の屋根葺き替え工事」を参照されたい。屋根葺き替え工事や耐震工事の施工、資金難等々、いくつもの難関を乗り越えて今に至る。
臨春閣を最適の角度で視野に収めるビューポイントの近くにオオシマザクラ。声をかける。
ついで孟宗竹林と蓮華院の脇を抜け、海岸門をくぐると、あたりには猫たちがのんびりとたむろしている。<緑萼梅>(りょくがくばい)が勢いよく咲き始めている。横浜の友好都市・上海から1977年に移植した珍種で、緑色の萼(がく)と白い花が混ざって薄緑色を見せる。横浜から贈った桜の返礼という。
【早咲きの白梅と虚子の句碑】
<三溪園茶寮>近くの白梅は園内いちばんの早咲きで真っ盛り、高浜虚子の石の句碑と相並ぶ。「鴨の嘴(はし)より たらたらと 春の泥」(1933年の作品)。
鴨の字から、この大池に住む鴨を詠んだと何となく思っていた。
しかし腑に落ちない。「鴨の嘴」(カモノハシ)とも読める。カモノハシは全長50センチほどの卵生の哺乳類、オーストラリアだけに棲む珍獣、日本国内の動物園で飼育された事例はないという。ならば<写生>の句ではない。
二つの意味を重ねたのか。 虚子先生、恐れ入りました!
【臥竜梅は咲き始め】
先へ進んで<臥竜梅>(がりょうばい)。その名の通り竜が臥すが如き姿で、白い花がまさに咲かんとしている。三溪が支援した画家の一人、下村観山(1873~1930年)の有名な絵「弱法師」(よろぼし 1915年)のモデルの木として有名であり、多くの人がこれを目指して来園する。
関東の梅栽培は、江戸時代初期(17世紀)に始まる。三溪園は東京の蒲田(現梅屋敷)、川崎の小向(多摩川河川敷)、横浜磯子の杉田から名木を集め、1906年の開園当初から梅の名所として知られた。観梅会には初音茶屋で麦茶を供すが、今年もコロナ禍のため中止している。
名画「弱法師」の画題は能(謡曲)に因む。「河内国(現大阪府)の通俊は,人の告げ口を信じて、わが子の俊徳丸を追い出す。悲しみのあまり盲目となり乞食の弱法師と呼ばれた俊徳丸は,梅が咲く四天王寺(聖徳太子建立、6世紀、最古の仏教寺院)で施行(僧や貧しい人びとに物を施し与えること)を受ける。寺の縁起などを語るうち,父はわが子と気づき,日想観 (にっそうかん、西に没する日輪を観て、極楽浄土を想い浮かべる修行) を子にすすめる。弱法師は夕日に向かい、舞い狂う。」(2018年3月12日掲載の拙稿「女性駐日大使ご一行の三溪園案内」を参照)。
【合掌造りの雛人形】
24日(木曜)も園内を一巡できた。合掌造り(旧矢箆原家住宅)には数組のお雛様が飾られている。写真はそのうちの一つ。昭和初期、東京日本橋室町の一画、十軒店(じっけんだな)麗山豊玉斎製とある。撮影は村田和義副園長

【2体の石仏】
合掌造りを背に下ると、石造の<大漁地蔵>。手のひらに硬貨が置いてあった。来園者が置いたのであろう。私も必ず手を合わせる。左前方の高みに三重塔が見える。その尾根ぞいに石造の<出世観音>がある。2体の石仏は相呼応しているように思える。
<大漁地蔵>のすぐ先にある茶屋の<待春軒>(たいしゅんけん)では、名物の<三溪そば>(<三溪麺>ともいう)を出す。原三溪が自ら考案したとされるもので、中華のジャージャー麵に似ている。<待春軒>を過ぎると、満開の白梅と紅梅、さながら門構えのように立っている。
【水ぬるむ春の護岸工事】
外苑最奥にある旧東慶寺仏殿脇の滝に発する<流れ>が大池に至るまでの護岸工事が終盤を迎えている。水際の美しさを保ちつつ、土壌の流出を防ぐため、ヒノキの表皮を剥いだ丸太(長さ130センチほど)を3分の2ほど、計1200本も打ち込んで岸壁とする。完成前であっても美しい。

【自然観察会の看板にある写真】
正門に戻り、ボランティアの有志メンバー<自然観察会>の看板「見ごろの植物など」を眺めた。定期的に更新して季節の移り変わりを伝え、植物等の名前、学名、分類名、撮影場所と年月日が記されている。コロナ禍のため、引率して園内を巡回する自然観察会はほぼ2年間ちかく休止を余儀なくされていたが、昨年の11月から再開した。3月10日(木曜)の予告に「当面は密集、密接を避け、1グループ5名程度」の但し書きがある。
右欄にカワウ、ハクセキレイ等5種の鳥の写真と、1月22日に展望台から遠望した富士山と合わせて6点の写真。なお越冬のため飛来したキンクロハジロはほとんど北へ帰ったようである。
左欄の「見ごろの植物」の写真は計15種。そのつど入れ替えるため、撮影年月日順に並べ替えると、次にとおりである。
2021年11月27日のヤブツバキとスイセン
12月7日のクマザサ
2022年1月6日のロウバイ、ソシンロウバイ、ウメ
1月22日のコウバイ、ヒイラギナンテン
2月6日のフキノトウ、ガリョウバイ、カントウタンポポ
2月15日のノシラン、リョクガクバイ、ヤクシマツバキ(リンゴツバキ)、ベニワビスケ。
看板の前で幾人もの人が、「…これ見なかったわね。…」、「これは見たい。…」と言い交す。撮影日ごとの花の変化から、徐々に「春が来る」のを感じる。
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