年の瀬に想う人々
【85歳を機に…】
「…85歳を機に、賀状を欠礼させていただきます」とある古い年賀状を見つけた。今年94歳になられる小倉芳彦先生からの賀状である。
小倉先生は1927(昭和2)年生まれ。東京大学文学部東洋史学科卒業で、私の9歳年長の大先輩である。同大学東洋文化研究所助手(ここまで私も同じ)を経て、1953年より学習院に勤務、同大学長を経て2001年に退職された。
中国古代史を専門とし、『春秋左氏伝研究 (小倉芳彦著作選)』(2003年)、『古代中国を読む』 (岩波新書、1974年)等の著作がある。前者は歯が立たないが、著者47歳で刊行された岩波新書は私の愛読書の一つである。当時の岩波新書は表紙が青、手元にある版は1997年刊の第4刷とあり、ロングセラーと分かる。
冒頭の<まえがき>で述べる。「はじめにおことわりしておかねばならぬ。この本では、古代中国そのものついていろいろ解説をするつもりはまったくない。…私にいまできることは古代中国にかかわって、どのようなイメージを私自身が抱き育ててきたかを、そのプロセスに即してたどり直してみることである。…歴史の研究者は、歴史事実を掘り起こし、分析し、それにもとづいて一貫した叙述をなすものだとされている。ところが…」
古代中国史の史料は漢文であり、その漢字を敢えて意図的に少なくしようとする小倉さんの日本語表現法にまず思いが行く。本書刊行の1974年、私は東大東洋文化研究所助手から横浜市立大学助教授に移って2年目、新たな研究対象や方法、歴史書の叙述法等を模索しており、そこに本書が飛び込んできた。自分もこうした歴史書を書いてみたいと強く思った。ここでは、これ以上の深入りは避けて、本ブログで連載中(一時中断)の<我が歴史研究の歩み>にゆずる。
小倉さんから「85歳を機に…」を頂戴したにもかかわらず、私は相変わらず年賀状を出しつづけ(宛先も印刷する無作法な形式)、それに対して手書きの返事をいただいている。その端正な字の魅力に惹かれる。
いつか長めの近況報告を書いたことがある。その拙文を我がパソコンが記憶していて眼前に現れた(2012年5月13日の日付)。その一部に次のようにある。
「ごぶさたしております。 過日、ご丁寧なお葉書を頂戴したにもかかわらず、返事を書かぬままに日が経ってしまいました。無礼を重ねています。申し訳ございません。…
ひょんなことから山梨県にある都留文大の学長を引きうけたのが一昨年の7月ですから、ぼつぼつ2年になろうとしています。…
東日本大震災(3・11)を機に<学長ブログ>を書き始めました。形式等は格別の決まりはありませんが、月に平均3本を目標として書きつなぎ、すでに40本を越えました。最近の5本を同封しましたので、ご笑覧いただければ幸いです。…
近くにおりながら、ゆっくりお話しする機会がありません。…くれぐれもご自愛ください。」
小倉先生のお宅の玄関脇には区の保護木クスノキが聳えている。 この木のように 末永くお元気であられますように!
【矍鑠たる西室陽一さん 93歳】
都留文科大学で苦楽を共にした西室陽一理事長、高田理孝副学長、椎廣行事務局長と、退職後の2015年に飲み会を結成、<4人会>と称して夏と冬に例会を開いてきた。それがコロナ禍で2年あまり休会中である。
そろそろ<4人会>を解禁しても良いのではと思っていた矢先、フェイスブックに登場した西室さんとお嬢さんの姿に驚かされた。大月駅前にある天野洋さんのレストラン<月カフェ>でワインに始まり、ウオッカ1本も平らげておられる。
拙文「西室理事長の退任によせて」が『(都留文科大学)学長ブログ』(本ブログにリンクを張った)の084号(2013年3月30日掲載)にある。その一部を再掲する。
「都留市立の都留文科大学を公立大学法人都留文科大学に制度変更したのが、2009 年 4 月である。この法人化から 4 年間、初代理事長だった西室陽一さんが、みなに惜しまれつつ、3月末で退任された。
それ以前にも、2006 年設置の都留文科大学法人化検討委員会委員長等の重責を担い、制度移行期の困難な時期に、その圧倒的な存在感と情熱を以て陣頭指揮を振るわれた。 国立大学法人とは異なり、公立大学法人の場合は、設置自治体の首長が<一体型>(理事長=学長)か<別置型>(理事長と別に学長を置き、学長は副理事長となる)のいずれかを選択できる。本学は「別置型」となった。
法律により理事長は市長が任命し、その任期は 4 年、さらに 2 年の更新(合わせて 6 年を超えない範囲)ができる。 昨年、西室さんが「私も 85 歳になるので、ここで引退したいと思う」と言われた。 とてもお元気なので、あと 2 年の続投を当 然と考えていた私には晴天の霹靂で、その夜はよく眠れなかった。しかし、西室さんは軽々にものを言われる方ではない。留まってほしいという言葉を、ぐっと飲み込むしかなかった。」
初めて西室さんにお会いした時、優しい眼、大きな福耳、立派な鼻骨、ダンディーなたたずまいが印象的だった。話しぶりは穏やかで、論理明快、海軍兵学校から東京大学で学び、さらに会社勤務(東京ガス株式会社 専務取締役)の経験から「頭を下げるのは慣れている」と言われる。なまじの「矜持」しか知らぬ学者の口からは出ない言葉である。
いまはコロナ禍を避けて、都留市のご自宅におられる時間が長いよし。そこから<月カフェ>へ行かれたのであろう。電話をしたら、お元気な声が返ってきた。「…声だけは元気そうに聞こえるかもしれないが、体がなかなか言うことをきかない…」とは言われるが、その話ぶりだけで私は嬉しかった。
【闘病中の松浦永司さん】
9年前の2011年12月10日のメール返信文が出てきた。四ッ谷パワーテニスの会長を長くつとめる松浦永司(えいじ)さんへスポーツ施設利用者カードを更新したと伝えたことに対する返信である。16年にわたるテニス仲間である。
「…ちなみに加藤先生が四ッ谷パワーテニスのMLに登録したのは2005年10月19日でした。それにしても6年前の加藤先生と、まさに「後期高齢者」にならんとする加藤先生の現在とで、いささかの乖離もないことに驚きます。…しかもその間には大腸がんという大病で腹切り?までしている…。そのような「後期高齢者」であるなら、まったくうらやましい限りです。
私は不覚にも前立腺がんの再発という新たなステージを迎えてしまいましたが、加藤先生ほどではなくとも、なんとか「後期高齢者」の域まで生きながらえたいと切望します。」
私はすぐに返信した。「…前立腺がん再発のこと、初めて聞きました。こいつは進行が緩いのが特徴、だましだましやっていきましょうや。共存期間が長ければ問題なし。姫(+妻?)のために、笑顔を絶やさずに!
テニスコートでの大声と気合があるかぎり、問題なし!
生老病死の4段階を視野に収めるようになって初めて一人前ですよね」。
しかし松浦さんの災難と闘病生活はこれで終わらない。
これから9年後の今年8月4日、Facebookの松浦さんの71歳の誕生日祝いに下記のような<意味不明>の送信をした。「誕生日おめでとうございます。生きていること、生き続けることを再認識するのが誕生日、自分で選んだものではないだけに大切にしたい……最近、そう思うようになりました。言い換えれば、自分で選べることはわずかですが、ここにこそ意志の意味がありそうです」。
すると松永さんから折り返し返信が来た。「Facebookに誕生日の祝福ありがとうございました。…そして、先生の「横浜からの夜明け」の読み込みも始めました。しかし、7月下旬から体調を崩し、8月に入って断続的に4回の多量出血がありました。…自己の免疫力を高め炎症が直腸等に浸潤しないようするしかないようです。…生れて71年、あっという間の人生でした。もう、「でした」と言ってもあながち誤りとは言えないでしょう。…。
自死を選ばない限り、ぼろぼろの身体でもその時までは生き続けねばなりません。この世に生まれたのは生きるために生まれてきたと思っているので、どんな時でも生きる事以外の選択肢は持っていません。「死」は私の領分ではなく、私の領分は「生」だけです。
最後の足掻きの下顎呼吸を終え、生きることを手放さざるを得ないその時まで生き続けようと思っています。あと一年あと一年と、あと一日あと一日と、生きる算段をしながら恐る恐る生き続けていきます…」。
これに対して当日の晩に、返信をした。「私には想像のできない苦境のようですね。これからでもできる自己免疫力をつける身体的な方法はないものでしょうか。いつか話したかもしれませんが、私は還暦から24年にわたり朝トレを続けています。いまは起きてから約1時間、16ポーズをゆっくり行うもので、すこしずつポーズの数も増やしています。…いま松浦さん専用のメニューを考えています。…」
それから4ヶ月後の12月3日、松浦さんからメールが入った。「…先月11日に入院、12日と19日に手術、25日に退院しました。…当初は11日に入院して順調なら4~5日で退院できると言われていたのですが、……レーザーで結石を砕く手術も同時にやることになりましたが、結石は破砕する事が出来ず、一週間後に出力の強い別のレーザー機器で改めて手術をすることになりました。」
松浦さんは壮絶な闘病を経て退院した。「…ひんぱんにトイレに行くのでどうしても寝不足になってしまい、午前中は頭がぼんやりしています。ただ、手術をして、明らかに改善されたのは痛みが軽減されたことです。今では30分以上も座っていることが出来るようになりました。…さらに良くなればクルマの運転も出来るようになるかと期待しています。まだまだ、元の体調に戻るには時間がかかるとは思いますが、リハビリがてらのスーパーへの買い物などで、少しずつ体力を回復して体調を戻していきたいと思います。そして、現在中断中の先生の朝トレメニューが再開できるよう頑張っていきます」。
松浦さんは、厳しい病状を逆手にとり、それをバネにして自身の領分は「生」だけと前に進んでいる。
【北澤義弘さん 97歳で逝去】
横浜市立大学(以下、市大とする)で長くご一緒した大先輩の北澤義弘さん(英文学)が2020年9月17日 97歳で逝去されたと、ご子息の義之さんからの喪中の挨拶で知った。
私が市大文理学部の東洋史担当の助教授(現在の准教授)に採用され、着任したのは1973(昭和43)年4月、それ以来、北澤さんとは長いお付き合いを頂いた。
着任時には、まだ大学紛争の火は消えておらず、活動家の多くが私の担任する東洋史の学生たちであった。研究室の建物は、古い将校兵舎。そのあたりのことは『横浜市立大学論叢 人文科学系列 第54巻 1・2・3合併号 加藤祐三教授退官記念号』に寄せた拙稿「史観と体験をめぐって」に述べた。
その後、学部改組や大学院(修士・博士課程)の設置が進み、以前の文理学部は、1995(平成7)年に国際文化学部と理学部に分かれたが、同じ釜の飯を食った者同士、定年退職した教職員と現役が<文理学部OB会>を作った。大学院・国際文化研究科(修士・博士)の設置が完了した1996(平成8)年頃だったと思う。毎年6月に開いてきたが、この2年間は新型コロナウイルス感染症のため休会している。
9年前の会合の様子を「文理学部OB会」として『(都留文科大学)学長ブログ』(本ブログにリンクを張った)の053号に載せた。そこには「今年の参加者は21名、最長老が89歳、最年少が現役教授の49歳。この1年間に逝去された6名の同僚の冥福を祈って黙祷、その数の多いのに愕然とした」とある。
「…話題は健康(病気)、学問、趣味、そして孫の順か」と事例を挙げ、「来年、文理学部OB会の参加者は何人となるだろう」と結ぶ。「最長老の参加者が89歳」とあるが、これが北澤さんだと記憶している。
<文理学部OB会>の会合では必ず北澤さんの隣りに座り、会話を楽しんだ。英文学の話題は拝聴するだけで対話にはならないが、<人生論>を巡っては丁々発止となる。しかし最後は12歳も年長の北澤さんの発言に納得して引き下がることが多かった。かけがいのない<人生の先達>であった。
【今井清一さん96歳で逝去】
同じ文理学部OB会の今井清一さんが2020年3月9日、肺炎のため逝去。享年96。これをニュースで知った。
今井さんと言えば、著書 『日本の歴史(23) 大正デモクラシー』(中央公論社 1966年/中公バックス1971年/中公文庫 2006年)や『日本近代史(2)』(岩波書店, 1977年)等で著名な日本近代史の第一人者である。
ちなみに『日本近代史(1)』の著者は遠山茂樹さんで、同じ市大の教授、2011年没、享年97。私は浪人中に講演を聴いたことがある。重子夫人は2021年、101歳で逝去された。
運よく市大に採用された私は、今井さんや遠山さんの同僚となり、光栄に感じるとともに、毎日が知的刺激に満ち、楽しかった。
そして『紀行随想 東洋の近代』(1977年 朝日新聞社)や『イギリスとアジア-近代史の原画』(1980年 岩波新書)と研究対象を拡げていく過程で、今井さんや遠山さんの著書・論文を改めて読み返していた。
それだけではない。教授会や各種委員会、あるいは会議の後の飲み会の場で、研究姿勢や人柄に触れ、さまざまに吸収することができた。今井さんはお酒が好きで二次会は欠かさなかったが、最後の数年はさすがに控えておられた。
最近、『横浜の関東大震災』(有隣堂 2007年)を読み直した。最後の著作は『濱口雄幸伝(上・下)』(朔北社 2013年)である。
【市大文理学部OB会永年幹事の宮崎忠克さん】
文理学部OB会は発足して25年になる。四半世紀!この2年はコロナ禍で休眠中ではあるが…。ここまで長く続いたのは、名誉教授の宮崎忠克(英文学)さんと現役幹事の浮田徹嗣教授(心理学)が中心の永年幹事のおかげである。
二人にメール連絡を取ろうとしたが、宮崎さんのアドレスが分からない。浮田さんだけにメールで問い合わせると、「宮崎先生は常に酸素ボンベからの酸素吸入が必要で、…基本的には在宅療養でほぼ毎月の通院が欠かせない」の返信に驚く。宮崎さんの自宅に電話すると、すぐに奥様が出られ、代わって出た彼の声がとても明るくて安心した。
文理学部改組による国際文化学部と理学部の誕生、翌年の大学院(修士・博士)の設置等々、苦楽を共にしてきた友である。学長時代(1998~2002年)には学長室を抜け出しては彼の研究室でコーヒーを手に雑談に耽った。愛する同志よ! 次の作品を待っている。
【猿渡副理事長のご母堂99歳の逝去】
三溪園保勝会副理事長で元横浜美術館学芸員、美術史を中心に広く活躍しておられる猿渡紀代子さんのご母堂が逝去された。他の用件のメールのなかで、さり気なく記されていた。 「…9月に母が亡くなり、11月に入ると様々な仕事が入って、ショーメの展示会に伺うことができませんでした」とあった。
すぐにお悔やみのメールをお送りすると、次ような返事をいただいた。
「お悔みのメールをいただき、ありがとうございました。母は99歳でしたので大往生です。コロナ渦中でしたが、最後の2週間は自室に戻り、私たちも意識のある内に会うことができたのが慰めです。誰しもそうでしょうが、母親との別れは何歳になっても特別なものであることを感じています。」
99歳を<白寿>と呼ぶ。<百>の字から一を引いて<白>、しめやかで気高い白いことぶき(寿)。
【岩原弘久さんの逝去】
横浜茶道連盟の理事長で、三溪園保勝会の理事と評議員を交互に長くつとめてくださった岩原弘久さんが11月10日に逝去されたと奥様の光世さんから事務所へ連絡があった。享年85。私と同年であり愕然とする。
岩原さんの三溪園役員歴はなんと1986(昭和61)年から2021(令和3)年まで通算36年におよぶ。1986(昭和61)年3月(選任)から2000(平成12)年まで評議員、ついで2000(平成12)年6月から2012(平成24)年まで理事、そして2012(平成24)年8月に公益財団法人に移行する時に評議員になられた。三溪園保勝会の恩人である。
奥様からの喪中の挨拶には、「横浜茶道連盟を引き継いで37年目になり、現在連盟は92周年です」とある。こちらも息の長い活動ぶりであった。
これとは別に事務局には12月3日つけの奥様手書きの文面が添えられていた。「9月最後の日曜日が横浜茶道連盟の役員会でしたが、朝になって具合が悪いので断ると言い出し、翌週からケイユウ病院に検査入院いたしました。肺癌で普通は1年、岩原さんは体力があるから3年と言われましたが、帰宅してからすっかり病人になってしまい、たった2ヶ月で亡くなりました。…」
今年6月の評議員会でお会いしているが、茶会の席で最後にお会いしたのは4年前である(ブログ2017年11月27日掲載の「第20回 三溪園大茶会」)。
【横浜学連絡会議の中村實さん86歳で逝去】
中村實(まこと)さんが7月、86歳で逝去されたと奥様から喪中の挨拶をいただいた。一歳年長である。横浜銀行の「はまぎん産業文化振興財団」事務局長を永くつとめ、横浜市の文化振興に大きく貢献され、のち東北文化学園大学教授となられた。温厚な風貌。バリトンで穏やかに話されるが、時に鋭い舌鋒で論じる。
初めて中村さんにお会いしたのは、市大の一般教育科目「横浜学事始」に出講をお願いした時だと思う。市大の学生の大半が横浜市外の出身者であり、高校まで育った故郷と、横浜という新しい故郷を持つ<特性>を意識的に発揮してほしいと願い、各分野から講師をお招きして構成した科目である(編著『横浜学事始』 1994年3月、市大一般教育委員会)。
ついで大学から市内へと活動範囲を拡げたのが横浜学連絡会議で、ここでもご一緒した。手元にある新書版『横浜の魅力を生かす』(2003年、横浜学連絡会議)を見ると、横浜学連絡会議は「横浜学シンポジウム」を第1回(1990年12月15日)から第10回(2002年12月21日)まで毎年1回を原則に12年にわたり開催している。また「横浜学セミナー(公開講座)、は第1回(1991年12月14日)から第35回(2001年12月1日)まで10年間におよぶ。
委員は20名、市民団体(鈴木隆・「横浜学」を考える会事務局長ほか)、学者(菅原一孝・桜美林大学教授、中村實・東北文化学園大学教授ほか)、作家・画家(山崎洋子、宮野力哉ほか)、行政(金田孝之・横浜市企画局長ほか)、産業界(篠崎孝子・有隣堂会長、小林弘親・横浜港ターミナル運営協議会理事長)等を網羅している。
これで終わらない。三度目がある。「かながわ検定」の出題委員としてご一緒した。かながわ検定協議会(テレビ神奈川、神奈川新聞、横浜商工会議所で構成)が主催する<ご当地検定>で、横浜ライセンスと神奈川ライセンスの2種があり、「神奈川や横浜を学ぶ機会を提供し、観光振興に寄与するとともに、当地の魅力を国内外に向けて発信すること」を目指し、2007年に始まり2017年3月に実施の第12回で終了した。10回までの出願者は延べ7500人超、1級に合格しても関連セミナーに参加し続ける、探究心の尽きないハマっ子もいた。出題分野は「歴史」「現代」「自然」「テーマ問題」「カナロコ問題」等、試験会場には主に横浜市大八景キャンパスが使われた。
【齋藤満・優子さんのご母堂逝去】
齋藤満・優子ご夫妻からの喪中の挨拶には、「母 佐藤壽美子 去る八月二十四、八十七歳にて永眠いたしました」とあった。ご母堂や優子夫人にはお会いしたことがないが、齋藤満さんとは長い付き合いである。
横浜市立大学時代に総務課庶務係長として新米学長の私に、ドレスコード、学内問題の処理、行政職や市会議員との付き合い方などを丁寧に教えてくれた。
それから10年後の2012(平成24)年6月、齋藤さんは横浜市文化観光局観光振興課長として突然の連絡をくれた。「…いま三溪園(正式には名勝庭園三溪園を管理する団体で公益財団法人三溪園保勝会)を所管する立場にあり、そのことでお願いしたい…」とのこと。
少年時代、パイロットか庭師になりたいと夢想したことがある。頂戴した資料のなかに「公益財団法人三溪園保勝会定款」があった。その第3条(目的)に「この法人は、国民共有の文化遺産である重要文化財建造物等及び名勝庭園の保存・活用を通して、歴史及び文化の継承とその発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信することを目的とする」と明記されている。
これを在任中の都留文科大学に諮ると、学長との兼務は問題ないとのこと。夢に見た新しい世界かもしれない。こうして2012(平成24)年8月、私は三溪園園長兼理事に就任した。
【混植・密植型植樹を先導した宮脇昭さん逝去 93歳】
宮脇昭さんが2021年(令和3年)7月16日に逝去された。1928(昭和3)年生れの生態学者、地球環境戦略研究機関国際生態学センター長、横浜国立大学名誉教授。元国際生態学会会長。
横浜には、横浜市立大学(通称は市大)と横浜国立大学(通称は国大)がある。新制大学としての誕生時から因縁があり、文部省の調整により名称を使い分け、市大と国大とした。名称に国立がつく国立大学は他にない。
1996年ごろから文部省周辺で<大学統合論>が出始めた。市大では文理学部を改組して国際文化学部と理学部が誕生(1995年)、つづけて大学院(修士・博士課程)を増設した時期である。その縁で文部省高等教育局とも知り合いができた。とくに国公立大学の統合となれば、「横浜市立大学+横浜国立大学=横浜大学」でスッキリするねと、冗談さえ囁かれた。
外部からの押しつけの、他律的な統合だけは勘弁してほしい。自律的な統合の可能性はあるのか。両大学の学部構成からして、重なるのは市大の商学部と国大の経済学部くらいであろう。両校の学長・学部長らによる懇親会が始まった。会場が国大の時、管理棟の前の広場の森に目を奪われた。シイ、タブノキ、カシ類の常緑広葉樹の木々が茂る、深い緑の森である。
宮脇さんを初めて知ったのは、その時である。国内外で土地本来の潜在自然植生の木群を中心に、その森を構成している多種の樹種を混ぜて植樹する「混植・密植型植樹」を提唱し活動して来られた。
以下、宮脇さんの理論と実践について、主なものを紹介したい。
理論 : 「日本の常緑広葉樹を主とする照葉樹林帯では土地本来の森は0.06%しか残っていない。ほとんど人間が手を入れて二次林や人工的で単一樹種の画一樹林にしてしまった。これが台風や地震、洪水などの際の自然災害の揺り戻し(2次災害)が起こる諸悪の根源である。その土地本来の潜在植生は、<鎮守の森>を調べればわかる。大抵、シイ、タブノキ、カシ類の木々が茂っているはずだ。…スギやヒノキ、カラマツ、マツなどの針葉樹林は、人間が材木を生産するため人工的に造林したもので、人が手を入れ続けなければ維持できない。本来の植生は内陸部ではシラカシなどの常緑広葉樹、海岸部はタブノキ、シイ等のいずれも照葉樹林が本来の姿である。現在の針葉樹では20年に一回の伐採と3年に一回の下草刈りが前提で、それをやらないと維持できない偽物の森である。マツにしても、元々条件の悪い山頂部などに限定して生えていただけのものを人間が広げてしまったのだからマツクイムシの大発生は自然の摂理である。その土地本来の森であれば、火事や地震などの自然災害にも耐えられる能力を持つが、人工的な森では耐えられない。手入れの行き届かない人工的な森は元に戻すのが一番、そのためには200年間は森に人間が変な手を加えないこと。200年で元に戻る」。
1980年から約10年をかけて日本全国を巡り、潜在的な自然植生を調査、宮脇昭編著『日本植生誌(1982年~、全10巻、至文堂)』を刊行。
実践 : 1970年、後に<宮脇方式>と呼ばれる、土地本来の植生をポット苗を用いて植える方法による環境保全林造りが初めて新日本製鐵大分製鐵所で行われた。この成功により企業や地方自治体など宮脇方式を取り入れた森造りが盛んになる。
1990年から国外において、熱帯雨林再生プロジェクトに参加する。マレーシアでは、根が充満したポット苗を植樹する方法で、再生不可能とまでいわれている熱帯雨林の再生に成功。1998年からは、中国の万里の長城でモウコナラの植樹を行うプロジェクトを進め、2000年代後半ごろから、潜在自然植生論に一定の成果を得て、自然林と二次林の違い、長所、共存といった総合的な研究に向かった。
神奈川県にある湘南国際村では、市民と企業と行政が一緒に行う協働参加型の森づくり<めぐりの森>の指導にあたっている。市民と企業と行政が共に行なう協働参加型の森づくりで、神奈川県のコア事業。土地本来の木を中心に多様な樹種の苗木を植えることで、成長が早く、病虫や雨風に強い森づくり目指す。植樹祭は2009年以降毎年行われている。
<めぐりの森>では、宮脇式をリノベーションし、「生態系機能回復式 植生復元」により 森づくりが引き継がれている。マウンド作りに大型重機を使用せず、従前の施工費を50〜70%カットすることで持続可能性を増した上で、自然への負荷を大きく減らした方法である。宮脇さん自身もこの方法を承認し、名誉顧問を務める非営利型一般社団法人Silvaの発案による「混植・密植方式植樹推進グループ」グループ長も努め、同法人と連名主催で植樹事業を推進してきた。
海外では、宮脇方式のミニ森林を設ける活動がオランダ、フランス、イギリスなど12か国で行われている。フランスには2018年3月に騒音の低減、空気の濾過を目的にパリにミニ森林が初めて生まれた。
【公立大学協会・中田晃さんのご尊父が逝去 85歳】
公立大学協会(公大協)の中田晃さんから喪中の挨拶が来た。「父 誠が一月十二日に八十五歳にて永眠いたしました。…」。ご尊父とは面識がないが、私と同年の85歳である。
中田さんは公大協事務局長として長く活躍し、編集デザイナーの特性を活かして公大協の抱える個別課題の解決につとめたばかりか、放送大学の博士論文を基に『可能性としての公立大学政策-なぜ平成期に公立大学は急増したのか』(特定非営利活動法人 学校経理研究会 2020年)を刊行した理論家でもある。
本書は、平成期(1989~2019年)の30年間に30校から93校に急増した公立大学を、当該公立大学と設置団体関係者へのインタビューを重ねて分析した画期的な内容である。
中田さんは2002年に公大協に入り、2007年から事務局長に就き、2021年現在、事務局長(常務理事)として公大協を支えている。彼との付き合いは意外に長く、私の横浜市立大学長(1998~2002年)時代から公大協相談役(2003~2016年)時代にかけてである。
とくに『地域とともにつくる公立大学-公立大学協会60周年記念誌』(2010年)を編集・刊行するのに苦楽を共にしたことが忘れられない。本誌は、その10年前に刊行した『地域とともにあゆむ公立大学-公立大学協会50年史』を引き継ぐもので、1999年から2009年という、日本の大学が遭遇した<疾風怒濤>の時代を描く。
彼は名古屋大学理学部化学科在学中に芝居に熱中して中退、劇団制作部、編集デザイナーを経て公大協に入った経歴と才能(理系+芸術系?)が、多種多彩な公立大学からなる『公大協60周年記念誌』の編纂に大きく貢献した。たった今まで、中田さんが私の息子の年齢であるとは思い及ばなかった。
【いとこ加藤敬二の夫人が逝去】
親戚では、加藤節子さんが逝去した。いとこの加藤敬二さんの夫人。長女の加藤真理さんから「3月24日 母 加藤節子が最愛の父の許へと旅立ちました。…2021年11月」と喪中の挨拶が届いた。
私の亡父・加藤七郎は加藤勝弥(かつや、1854年2月2日(嘉永7年1月5日)~ 1921(大正10)年11月5日)の末っ子(13番目)であり、加藤敬二さんは勝弥の四男・四郎の子である。四郎の次男の敬二さんと末っ子の七郎のまた末っ子の私とは、年齢が親子ほど違っていた。
敬二さんは東京高等商船学校を出て戦時中に日本郵船の氷川丸(1930年竣工、総トン数11,622トン)の船長を務め、引退してからは横浜港の水先案内人(パイロット)をしていた。
その関係で1960年から横浜港に係留されている氷川丸を見学に行ったり、1962年、私の初海外渡航が横浜港からフランスの大型客船ベトナム号であったこと(共著『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』)等も重なり、横浜は特別な場所あった。
1973(昭和43)年、横浜市立大学に赴任、中国近代史から近代世界史(著書『イギリスとアジア-近代史の原画』1980年 岩波新書)へと研究テーマを拡げ、やがて横浜村(現在の横浜市中区日本大通)で結ばれた日米和親条約(1854年)を論じた『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)、『黒船異変-ペリーの挑戦』(1988年 岩波新書)、『幕末外交と開国』(2012年 講談社学術文庫)等を上梓したのも、どこか底流でつながっていたのかもしれない。
【園田英弘さんと日文研】
京都にある(大学共同利用機関)国際日本文化研究センター(略称:日文研)の創設準備委員会が文部省内に置かれていた1986年、準備室長・梅原猛さんの下で働いていたのが、準備室次長の園田英弘さんであった。
園田さんは『西洋化の構造――黒船・武士・国家』(思文閣出版 1993年)刊行を準備していた新進気鋭の学者(社会学)で1947年(昭和22)年生まれ、私より一回り若い。拙著『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)を読んで、連絡をくれた。二人を結ぶキーワードは<黒船>である。浅草の飲み屋へ案内して談笑した。
この縁で私の日文研との付き合いが始まった。日文研の創設は翌1987年で初代所長が梅原猛さん、1995年から河合隼雄、2001年から山折哲雄さんとつづいた。山折所長のころ、私は客員教授(2005~2008年)をつとめ、京都へ、そして広く関西圏を回って認識を深めることができた。
日文研へ行くたびに園田さんと雑談を重ねていたが、2007年4月に急逝、享年60。いまでも信じられない。
【梅原猛『日本人の「あの世」観』】
日文研の梅原猛さん(1925年(大正14年)生まれ)が逝去されたのは一昨年 2019年(平成31年)1月12日、享年94。改めて『地獄の思想-日本精神の一系譜』(1983年 中公文庫)や『日本人の「あの世」観』(中公文庫 1993年)を読み直したいと思っていた。
梅原さんの『日本人の「あの世」観』にある<あの世>とは、私流に解釈すると次のようになる。
人生の最期に関する不安に怯えて生きているのは苦しいから、人生最期の問題を解決しようと取り組んだ結果、宗教が生まれた。どの宗教でも、肉体としての命は最期を迎えても、霊魂は死後の世界て生きているという死生観を持ち、死後の世界か存在すると主張している。…仏教は多くの日本人の中で息づいている教えで、日本人の死生観を形作っていると言えるが、仏教以前の日本人の死生観は、<この世>から<あの世>へ行くと、いつでもこの世に戻ってこられる。言い換えれば一方通行ではなく、自由往来が可能となり、世界が倍に拡がる…。
梅原さんは、時折、近くに来て、<この世>だけしか知らない我々を見守っておられるのではないか。
「…85歳を機に、賀状を欠礼させていただきます」とある古い年賀状を見つけた。今年94歳になられる小倉芳彦先生からの賀状である。
小倉先生は1927(昭和2)年生まれ。東京大学文学部東洋史学科卒業で、私の9歳年長の大先輩である。同大学東洋文化研究所助手(ここまで私も同じ)を経て、1953年より学習院に勤務、同大学長を経て2001年に退職された。
中国古代史を専門とし、『春秋左氏伝研究 (小倉芳彦著作選)』(2003年)、『古代中国を読む』 (岩波新書、1974年)等の著作がある。前者は歯が立たないが、著者47歳で刊行された岩波新書は私の愛読書の一つである。当時の岩波新書は表紙が青、手元にある版は1997年刊の第4刷とあり、ロングセラーと分かる。
冒頭の<まえがき>で述べる。「はじめにおことわりしておかねばならぬ。この本では、古代中国そのものついていろいろ解説をするつもりはまったくない。…私にいまできることは古代中国にかかわって、どのようなイメージを私自身が抱き育ててきたかを、そのプロセスに即してたどり直してみることである。…歴史の研究者は、歴史事実を掘り起こし、分析し、それにもとづいて一貫した叙述をなすものだとされている。ところが…」
古代中国史の史料は漢文であり、その漢字を敢えて意図的に少なくしようとする小倉さんの日本語表現法にまず思いが行く。本書刊行の1974年、私は東大東洋文化研究所助手から横浜市立大学助教授に移って2年目、新たな研究対象や方法、歴史書の叙述法等を模索しており、そこに本書が飛び込んできた。自分もこうした歴史書を書いてみたいと強く思った。ここでは、これ以上の深入りは避けて、本ブログで連載中(一時中断)の<我が歴史研究の歩み>にゆずる。
小倉さんから「85歳を機に…」を頂戴したにもかかわらず、私は相変わらず年賀状を出しつづけ(宛先も印刷する無作法な形式)、それに対して手書きの返事をいただいている。その端正な字の魅力に惹かれる。
いつか長めの近況報告を書いたことがある。その拙文を我がパソコンが記憶していて眼前に現れた(2012年5月13日の日付)。その一部に次のようにある。
「ごぶさたしております。 過日、ご丁寧なお葉書を頂戴したにもかかわらず、返事を書かぬままに日が経ってしまいました。無礼を重ねています。申し訳ございません。…
ひょんなことから山梨県にある都留文大の学長を引きうけたのが一昨年の7月ですから、ぼつぼつ2年になろうとしています。…
東日本大震災(3・11)を機に<学長ブログ>を書き始めました。形式等は格別の決まりはありませんが、月に平均3本を目標として書きつなぎ、すでに40本を越えました。最近の5本を同封しましたので、ご笑覧いただければ幸いです。…
近くにおりながら、ゆっくりお話しする機会がありません。…くれぐれもご自愛ください。」
小倉先生のお宅の玄関脇には区の保護木クスノキが聳えている。 この木のように 末永くお元気であられますように!
【矍鑠たる西室陽一さん 93歳】
都留文科大学で苦楽を共にした西室陽一理事長、高田理孝副学長、椎廣行事務局長と、退職後の2015年に飲み会を結成、<4人会>と称して夏と冬に例会を開いてきた。それがコロナ禍で2年あまり休会中である。
そろそろ<4人会>を解禁しても良いのではと思っていた矢先、フェイスブックに登場した西室さんとお嬢さんの姿に驚かされた。大月駅前にある天野洋さんのレストラン<月カフェ>でワインに始まり、ウオッカ1本も平らげておられる。
拙文「西室理事長の退任によせて」が『(都留文科大学)学長ブログ』(本ブログにリンクを張った)の084号(2013年3月30日掲載)にある。その一部を再掲する。
「都留市立の都留文科大学を公立大学法人都留文科大学に制度変更したのが、2009 年 4 月である。この法人化から 4 年間、初代理事長だった西室陽一さんが、みなに惜しまれつつ、3月末で退任された。
それ以前にも、2006 年設置の都留文科大学法人化検討委員会委員長等の重責を担い、制度移行期の困難な時期に、その圧倒的な存在感と情熱を以て陣頭指揮を振るわれた。 国立大学法人とは異なり、公立大学法人の場合は、設置自治体の首長が<一体型>(理事長=学長)か<別置型>(理事長と別に学長を置き、学長は副理事長となる)のいずれかを選択できる。本学は「別置型」となった。
法律により理事長は市長が任命し、その任期は 4 年、さらに 2 年の更新(合わせて 6 年を超えない範囲)ができる。 昨年、西室さんが「私も 85 歳になるので、ここで引退したいと思う」と言われた。 とてもお元気なので、あと 2 年の続投を当 然と考えていた私には晴天の霹靂で、その夜はよく眠れなかった。しかし、西室さんは軽々にものを言われる方ではない。留まってほしいという言葉を、ぐっと飲み込むしかなかった。」
初めて西室さんにお会いした時、優しい眼、大きな福耳、立派な鼻骨、ダンディーなたたずまいが印象的だった。話しぶりは穏やかで、論理明快、海軍兵学校から東京大学で学び、さらに会社勤務(東京ガス株式会社 専務取締役)の経験から「頭を下げるのは慣れている」と言われる。なまじの「矜持」しか知らぬ学者の口からは出ない言葉である。
いまはコロナ禍を避けて、都留市のご自宅におられる時間が長いよし。そこから<月カフェ>へ行かれたのであろう。電話をしたら、お元気な声が返ってきた。「…声だけは元気そうに聞こえるかもしれないが、体がなかなか言うことをきかない…」とは言われるが、その話ぶりだけで私は嬉しかった。
【闘病中の松浦永司さん】
9年前の2011年12月10日のメール返信文が出てきた。四ッ谷パワーテニスの会長を長くつとめる松浦永司(えいじ)さんへスポーツ施設利用者カードを更新したと伝えたことに対する返信である。16年にわたるテニス仲間である。
「…ちなみに加藤先生が四ッ谷パワーテニスのMLに登録したのは2005年10月19日でした。それにしても6年前の加藤先生と、まさに「後期高齢者」にならんとする加藤先生の現在とで、いささかの乖離もないことに驚きます。…しかもその間には大腸がんという大病で腹切り?までしている…。そのような「後期高齢者」であるなら、まったくうらやましい限りです。
私は不覚にも前立腺がんの再発という新たなステージを迎えてしまいましたが、加藤先生ほどではなくとも、なんとか「後期高齢者」の域まで生きながらえたいと切望します。」
私はすぐに返信した。「…前立腺がん再発のこと、初めて聞きました。こいつは進行が緩いのが特徴、だましだましやっていきましょうや。共存期間が長ければ問題なし。姫(+妻?)のために、笑顔を絶やさずに!
テニスコートでの大声と気合があるかぎり、問題なし!
生老病死の4段階を視野に収めるようになって初めて一人前ですよね」。
しかし松浦さんの災難と闘病生活はこれで終わらない。
これから9年後の今年8月4日、Facebookの松浦さんの71歳の誕生日祝いに下記のような<意味不明>の送信をした。「誕生日おめでとうございます。生きていること、生き続けることを再認識するのが誕生日、自分で選んだものではないだけに大切にしたい……最近、そう思うようになりました。言い換えれば、自分で選べることはわずかですが、ここにこそ意志の意味がありそうです」。
すると松永さんから折り返し返信が来た。「Facebookに誕生日の祝福ありがとうございました。…そして、先生の「横浜からの夜明け」の読み込みも始めました。しかし、7月下旬から体調を崩し、8月に入って断続的に4回の多量出血がありました。…自己の免疫力を高め炎症が直腸等に浸潤しないようするしかないようです。…生れて71年、あっという間の人生でした。もう、「でした」と言ってもあながち誤りとは言えないでしょう。…。
自死を選ばない限り、ぼろぼろの身体でもその時までは生き続けねばなりません。この世に生まれたのは生きるために生まれてきたと思っているので、どんな時でも生きる事以外の選択肢は持っていません。「死」は私の領分ではなく、私の領分は「生」だけです。
最後の足掻きの下顎呼吸を終え、生きることを手放さざるを得ないその時まで生き続けようと思っています。あと一年あと一年と、あと一日あと一日と、生きる算段をしながら恐る恐る生き続けていきます…」。
これに対して当日の晩に、返信をした。「私には想像のできない苦境のようですね。これからでもできる自己免疫力をつける身体的な方法はないものでしょうか。いつか話したかもしれませんが、私は還暦から24年にわたり朝トレを続けています。いまは起きてから約1時間、16ポーズをゆっくり行うもので、すこしずつポーズの数も増やしています。…いま松浦さん専用のメニューを考えています。…」
それから4ヶ月後の12月3日、松浦さんからメールが入った。「…先月11日に入院、12日と19日に手術、25日に退院しました。…当初は11日に入院して順調なら4~5日で退院できると言われていたのですが、……レーザーで結石を砕く手術も同時にやることになりましたが、結石は破砕する事が出来ず、一週間後に出力の強い別のレーザー機器で改めて手術をすることになりました。」
松浦さんは壮絶な闘病を経て退院した。「…ひんぱんにトイレに行くのでどうしても寝不足になってしまい、午前中は頭がぼんやりしています。ただ、手術をして、明らかに改善されたのは痛みが軽減されたことです。今では30分以上も座っていることが出来るようになりました。…さらに良くなればクルマの運転も出来るようになるかと期待しています。まだまだ、元の体調に戻るには時間がかかるとは思いますが、リハビリがてらのスーパーへの買い物などで、少しずつ体力を回復して体調を戻していきたいと思います。そして、現在中断中の先生の朝トレメニューが再開できるよう頑張っていきます」。
松浦さんは、厳しい病状を逆手にとり、それをバネにして自身の領分は「生」だけと前に進んでいる。
【北澤義弘さん 97歳で逝去】
横浜市立大学(以下、市大とする)で長くご一緒した大先輩の北澤義弘さん(英文学)が2020年9月17日 97歳で逝去されたと、ご子息の義之さんからの喪中の挨拶で知った。
私が市大文理学部の東洋史担当の助教授(現在の准教授)に採用され、着任したのは1973(昭和43)年4月、それ以来、北澤さんとは長いお付き合いを頂いた。
着任時には、まだ大学紛争の火は消えておらず、活動家の多くが私の担任する東洋史の学生たちであった。研究室の建物は、古い将校兵舎。そのあたりのことは『横浜市立大学論叢 人文科学系列 第54巻 1・2・3合併号 加藤祐三教授退官記念号』に寄せた拙稿「史観と体験をめぐって」に述べた。
その後、学部改組や大学院(修士・博士課程)の設置が進み、以前の文理学部は、1995(平成7)年に国際文化学部と理学部に分かれたが、同じ釜の飯を食った者同士、定年退職した教職員と現役が<文理学部OB会>を作った。大学院・国際文化研究科(修士・博士)の設置が完了した1996(平成8)年頃だったと思う。毎年6月に開いてきたが、この2年間は新型コロナウイルス感染症のため休会している。
9年前の会合の様子を「文理学部OB会」として『(都留文科大学)学長ブログ』(本ブログにリンクを張った)の053号に載せた。そこには「今年の参加者は21名、最長老が89歳、最年少が現役教授の49歳。この1年間に逝去された6名の同僚の冥福を祈って黙祷、その数の多いのに愕然とした」とある。
「…話題は健康(病気)、学問、趣味、そして孫の順か」と事例を挙げ、「来年、文理学部OB会の参加者は何人となるだろう」と結ぶ。「最長老の参加者が89歳」とあるが、これが北澤さんだと記憶している。
<文理学部OB会>の会合では必ず北澤さんの隣りに座り、会話を楽しんだ。英文学の話題は拝聴するだけで対話にはならないが、<人生論>を巡っては丁々発止となる。しかし最後は12歳も年長の北澤さんの発言に納得して引き下がることが多かった。かけがいのない<人生の先達>であった。
【今井清一さん96歳で逝去】
同じ文理学部OB会の今井清一さんが2020年3月9日、肺炎のため逝去。享年96。これをニュースで知った。
今井さんと言えば、著書 『日本の歴史(23) 大正デモクラシー』(中央公論社 1966年/中公バックス1971年/中公文庫 2006年)や『日本近代史(2)』(岩波書店, 1977年)等で著名な日本近代史の第一人者である。
ちなみに『日本近代史(1)』の著者は遠山茂樹さんで、同じ市大の教授、2011年没、享年97。私は浪人中に講演を聴いたことがある。重子夫人は2021年、101歳で逝去された。
運よく市大に採用された私は、今井さんや遠山さんの同僚となり、光栄に感じるとともに、毎日が知的刺激に満ち、楽しかった。
そして『紀行随想 東洋の近代』(1977年 朝日新聞社)や『イギリスとアジア-近代史の原画』(1980年 岩波新書)と研究対象を拡げていく過程で、今井さんや遠山さんの著書・論文を改めて読み返していた。
それだけではない。教授会や各種委員会、あるいは会議の後の飲み会の場で、研究姿勢や人柄に触れ、さまざまに吸収することができた。今井さんはお酒が好きで二次会は欠かさなかったが、最後の数年はさすがに控えておられた。
最近、『横浜の関東大震災』(有隣堂 2007年)を読み直した。最後の著作は『濱口雄幸伝(上・下)』(朔北社 2013年)である。
【市大文理学部OB会永年幹事の宮崎忠克さん】
文理学部OB会は発足して25年になる。四半世紀!この2年はコロナ禍で休眠中ではあるが…。ここまで長く続いたのは、名誉教授の宮崎忠克(英文学)さんと現役幹事の浮田徹嗣教授(心理学)が中心の永年幹事のおかげである。
二人にメール連絡を取ろうとしたが、宮崎さんのアドレスが分からない。浮田さんだけにメールで問い合わせると、「宮崎先生は常に酸素ボンベからの酸素吸入が必要で、…基本的には在宅療養でほぼ毎月の通院が欠かせない」の返信に驚く。宮崎さんの自宅に電話すると、すぐに奥様が出られ、代わって出た彼の声がとても明るくて安心した。
文理学部改組による国際文化学部と理学部の誕生、翌年の大学院(修士・博士)の設置等々、苦楽を共にしてきた友である。学長時代(1998~2002年)には学長室を抜け出しては彼の研究室でコーヒーを手に雑談に耽った。愛する同志よ! 次の作品を待っている。
【猿渡副理事長のご母堂99歳の逝去】
三溪園保勝会副理事長で元横浜美術館学芸員、美術史を中心に広く活躍しておられる猿渡紀代子さんのご母堂が逝去された。他の用件のメールのなかで、さり気なく記されていた。 「…9月に母が亡くなり、11月に入ると様々な仕事が入って、ショーメの展示会に伺うことができませんでした」とあった。
すぐにお悔やみのメールをお送りすると、次ような返事をいただいた。
「お悔みのメールをいただき、ありがとうございました。母は99歳でしたので大往生です。コロナ渦中でしたが、最後の2週間は自室に戻り、私たちも意識のある内に会うことができたのが慰めです。誰しもそうでしょうが、母親との別れは何歳になっても特別なものであることを感じています。」
99歳を<白寿>と呼ぶ。<百>の字から一を引いて<白>、しめやかで気高い白いことぶき(寿)。
【岩原弘久さんの逝去】
横浜茶道連盟の理事長で、三溪園保勝会の理事と評議員を交互に長くつとめてくださった岩原弘久さんが11月10日に逝去されたと奥様の光世さんから事務所へ連絡があった。享年85。私と同年であり愕然とする。
岩原さんの三溪園役員歴はなんと1986(昭和61)年から2021(令和3)年まで通算36年におよぶ。1986(昭和61)年3月(選任)から2000(平成12)年まで評議員、ついで2000(平成12)年6月から2012(平成24)年まで理事、そして2012(平成24)年8月に公益財団法人に移行する時に評議員になられた。三溪園保勝会の恩人である。
奥様からの喪中の挨拶には、「横浜茶道連盟を引き継いで37年目になり、現在連盟は92周年です」とある。こちらも息の長い活動ぶりであった。
これとは別に事務局には12月3日つけの奥様手書きの文面が添えられていた。「9月最後の日曜日が横浜茶道連盟の役員会でしたが、朝になって具合が悪いので断ると言い出し、翌週からケイユウ病院に検査入院いたしました。肺癌で普通は1年、岩原さんは体力があるから3年と言われましたが、帰宅してからすっかり病人になってしまい、たった2ヶ月で亡くなりました。…」
今年6月の評議員会でお会いしているが、茶会の席で最後にお会いしたのは4年前である(ブログ2017年11月27日掲載の「第20回 三溪園大茶会」)。
【横浜学連絡会議の中村實さん86歳で逝去】
中村實(まこと)さんが7月、86歳で逝去されたと奥様から喪中の挨拶をいただいた。一歳年長である。横浜銀行の「はまぎん産業文化振興財団」事務局長を永くつとめ、横浜市の文化振興に大きく貢献され、のち東北文化学園大学教授となられた。温厚な風貌。バリトンで穏やかに話されるが、時に鋭い舌鋒で論じる。
初めて中村さんにお会いしたのは、市大の一般教育科目「横浜学事始」に出講をお願いした時だと思う。市大の学生の大半が横浜市外の出身者であり、高校まで育った故郷と、横浜という新しい故郷を持つ<特性>を意識的に発揮してほしいと願い、各分野から講師をお招きして構成した科目である(編著『横浜学事始』 1994年3月、市大一般教育委員会)。
ついで大学から市内へと活動範囲を拡げたのが横浜学連絡会議で、ここでもご一緒した。手元にある新書版『横浜の魅力を生かす』(2003年、横浜学連絡会議)を見ると、横浜学連絡会議は「横浜学シンポジウム」を第1回(1990年12月15日)から第10回(2002年12月21日)まで毎年1回を原則に12年にわたり開催している。また「横浜学セミナー(公開講座)、は第1回(1991年12月14日)から第35回(2001年12月1日)まで10年間におよぶ。
委員は20名、市民団体(鈴木隆・「横浜学」を考える会事務局長ほか)、学者(菅原一孝・桜美林大学教授、中村實・東北文化学園大学教授ほか)、作家・画家(山崎洋子、宮野力哉ほか)、行政(金田孝之・横浜市企画局長ほか)、産業界(篠崎孝子・有隣堂会長、小林弘親・横浜港ターミナル運営協議会理事長)等を網羅している。
これで終わらない。三度目がある。「かながわ検定」の出題委員としてご一緒した。かながわ検定協議会(テレビ神奈川、神奈川新聞、横浜商工会議所で構成)が主催する<ご当地検定>で、横浜ライセンスと神奈川ライセンスの2種があり、「神奈川や横浜を学ぶ機会を提供し、観光振興に寄与するとともに、当地の魅力を国内外に向けて発信すること」を目指し、2007年に始まり2017年3月に実施の第12回で終了した。10回までの出願者は延べ7500人超、1級に合格しても関連セミナーに参加し続ける、探究心の尽きないハマっ子もいた。出題分野は「歴史」「現代」「自然」「テーマ問題」「カナロコ問題」等、試験会場には主に横浜市大八景キャンパスが使われた。
【齋藤満・優子さんのご母堂逝去】
齋藤満・優子ご夫妻からの喪中の挨拶には、「母 佐藤壽美子 去る八月二十四、八十七歳にて永眠いたしました」とあった。ご母堂や優子夫人にはお会いしたことがないが、齋藤満さんとは長い付き合いである。
横浜市立大学時代に総務課庶務係長として新米学長の私に、ドレスコード、学内問題の処理、行政職や市会議員との付き合い方などを丁寧に教えてくれた。
それから10年後の2012(平成24)年6月、齋藤さんは横浜市文化観光局観光振興課長として突然の連絡をくれた。「…いま三溪園(正式には名勝庭園三溪園を管理する団体で公益財団法人三溪園保勝会)を所管する立場にあり、そのことでお願いしたい…」とのこと。
少年時代、パイロットか庭師になりたいと夢想したことがある。頂戴した資料のなかに「公益財団法人三溪園保勝会定款」があった。その第3条(目的)に「この法人は、国民共有の文化遺産である重要文化財建造物等及び名勝庭園の保存・活用を通して、歴史及び文化の継承とその発展を図り、潤いある地域社会づくりに寄与するとともに、日本の文化を世界に発信することを目的とする」と明記されている。
これを在任中の都留文科大学に諮ると、学長との兼務は問題ないとのこと。夢に見た新しい世界かもしれない。こうして2012(平成24)年8月、私は三溪園園長兼理事に就任した。
【混植・密植型植樹を先導した宮脇昭さん逝去 93歳】
宮脇昭さんが2021年(令和3年)7月16日に逝去された。1928(昭和3)年生れの生態学者、地球環境戦略研究機関国際生態学センター長、横浜国立大学名誉教授。元国際生態学会会長。
横浜には、横浜市立大学(通称は市大)と横浜国立大学(通称は国大)がある。新制大学としての誕生時から因縁があり、文部省の調整により名称を使い分け、市大と国大とした。名称に国立がつく国立大学は他にない。
1996年ごろから文部省周辺で<大学統合論>が出始めた。市大では文理学部を改組して国際文化学部と理学部が誕生(1995年)、つづけて大学院(修士・博士課程)を増設した時期である。その縁で文部省高等教育局とも知り合いができた。とくに国公立大学の統合となれば、「横浜市立大学+横浜国立大学=横浜大学」でスッキリするねと、冗談さえ囁かれた。
外部からの押しつけの、他律的な統合だけは勘弁してほしい。自律的な統合の可能性はあるのか。両大学の学部構成からして、重なるのは市大の商学部と国大の経済学部くらいであろう。両校の学長・学部長らによる懇親会が始まった。会場が国大の時、管理棟の前の広場の森に目を奪われた。シイ、タブノキ、カシ類の常緑広葉樹の木々が茂る、深い緑の森である。
宮脇さんを初めて知ったのは、その時である。国内外で土地本来の潜在自然植生の木群を中心に、その森を構成している多種の樹種を混ぜて植樹する「混植・密植型植樹」を提唱し活動して来られた。
以下、宮脇さんの理論と実践について、主なものを紹介したい。
理論 : 「日本の常緑広葉樹を主とする照葉樹林帯では土地本来の森は0.06%しか残っていない。ほとんど人間が手を入れて二次林や人工的で単一樹種の画一樹林にしてしまった。これが台風や地震、洪水などの際の自然災害の揺り戻し(2次災害)が起こる諸悪の根源である。その土地本来の潜在植生は、<鎮守の森>を調べればわかる。大抵、シイ、タブノキ、カシ類の木々が茂っているはずだ。…スギやヒノキ、カラマツ、マツなどの針葉樹林は、人間が材木を生産するため人工的に造林したもので、人が手を入れ続けなければ維持できない。本来の植生は内陸部ではシラカシなどの常緑広葉樹、海岸部はタブノキ、シイ等のいずれも照葉樹林が本来の姿である。現在の針葉樹では20年に一回の伐採と3年に一回の下草刈りが前提で、それをやらないと維持できない偽物の森である。マツにしても、元々条件の悪い山頂部などに限定して生えていただけのものを人間が広げてしまったのだからマツクイムシの大発生は自然の摂理である。その土地本来の森であれば、火事や地震などの自然災害にも耐えられる能力を持つが、人工的な森では耐えられない。手入れの行き届かない人工的な森は元に戻すのが一番、そのためには200年間は森に人間が変な手を加えないこと。200年で元に戻る」。
1980年から約10年をかけて日本全国を巡り、潜在的な自然植生を調査、宮脇昭編著『日本植生誌(1982年~、全10巻、至文堂)』を刊行。
実践 : 1970年、後に<宮脇方式>と呼ばれる、土地本来の植生をポット苗を用いて植える方法による環境保全林造りが初めて新日本製鐵大分製鐵所で行われた。この成功により企業や地方自治体など宮脇方式を取り入れた森造りが盛んになる。
1990年から国外において、熱帯雨林再生プロジェクトに参加する。マレーシアでは、根が充満したポット苗を植樹する方法で、再生不可能とまでいわれている熱帯雨林の再生に成功。1998年からは、中国の万里の長城でモウコナラの植樹を行うプロジェクトを進め、2000年代後半ごろから、潜在自然植生論に一定の成果を得て、自然林と二次林の違い、長所、共存といった総合的な研究に向かった。
神奈川県にある湘南国際村では、市民と企業と行政が一緒に行う協働参加型の森づくり<めぐりの森>の指導にあたっている。市民と企業と行政が共に行なう協働参加型の森づくりで、神奈川県のコア事業。土地本来の木を中心に多様な樹種の苗木を植えることで、成長が早く、病虫や雨風に強い森づくり目指す。植樹祭は2009年以降毎年行われている。
<めぐりの森>では、宮脇式をリノベーションし、「生態系機能回復式 植生復元」により 森づくりが引き継がれている。マウンド作りに大型重機を使用せず、従前の施工費を50〜70%カットすることで持続可能性を増した上で、自然への負荷を大きく減らした方法である。宮脇さん自身もこの方法を承認し、名誉顧問を務める非営利型一般社団法人Silvaの発案による「混植・密植方式植樹推進グループ」グループ長も努め、同法人と連名主催で植樹事業を推進してきた。
海外では、宮脇方式のミニ森林を設ける活動がオランダ、フランス、イギリスなど12か国で行われている。フランスには2018年3月に騒音の低減、空気の濾過を目的にパリにミニ森林が初めて生まれた。
【公立大学協会・中田晃さんのご尊父が逝去 85歳】
公立大学協会(公大協)の中田晃さんから喪中の挨拶が来た。「父 誠が一月十二日に八十五歳にて永眠いたしました。…」。ご尊父とは面識がないが、私と同年の85歳である。
中田さんは公大協事務局長として長く活躍し、編集デザイナーの特性を活かして公大協の抱える個別課題の解決につとめたばかりか、放送大学の博士論文を基に『可能性としての公立大学政策-なぜ平成期に公立大学は急増したのか』(特定非営利活動法人 学校経理研究会 2020年)を刊行した理論家でもある。
本書は、平成期(1989~2019年)の30年間に30校から93校に急増した公立大学を、当該公立大学と設置団体関係者へのインタビューを重ねて分析した画期的な内容である。
中田さんは2002年に公大協に入り、2007年から事務局長に就き、2021年現在、事務局長(常務理事)として公大協を支えている。彼との付き合いは意外に長く、私の横浜市立大学長(1998~2002年)時代から公大協相談役(2003~2016年)時代にかけてである。
とくに『地域とともにつくる公立大学-公立大学協会60周年記念誌』(2010年)を編集・刊行するのに苦楽を共にしたことが忘れられない。本誌は、その10年前に刊行した『地域とともにあゆむ公立大学-公立大学協会50年史』を引き継ぐもので、1999年から2009年という、日本の大学が遭遇した<疾風怒濤>の時代を描く。
彼は名古屋大学理学部化学科在学中に芝居に熱中して中退、劇団制作部、編集デザイナーを経て公大協に入った経歴と才能(理系+芸術系?)が、多種多彩な公立大学からなる『公大協60周年記念誌』の編纂に大きく貢献した。たった今まで、中田さんが私の息子の年齢であるとは思い及ばなかった。
【いとこ加藤敬二の夫人が逝去】
親戚では、加藤節子さんが逝去した。いとこの加藤敬二さんの夫人。長女の加藤真理さんから「3月24日 母 加藤節子が最愛の父の許へと旅立ちました。…2021年11月」と喪中の挨拶が届いた。
私の亡父・加藤七郎は加藤勝弥(かつや、1854年2月2日(嘉永7年1月5日)~ 1921(大正10)年11月5日)の末っ子(13番目)であり、加藤敬二さんは勝弥の四男・四郎の子である。四郎の次男の敬二さんと末っ子の七郎のまた末っ子の私とは、年齢が親子ほど違っていた。
敬二さんは東京高等商船学校を出て戦時中に日本郵船の氷川丸(1930年竣工、総トン数11,622トン)の船長を務め、引退してからは横浜港の水先案内人(パイロット)をしていた。
その関係で1960年から横浜港に係留されている氷川丸を見学に行ったり、1962年、私の初海外渡航が横浜港からフランスの大型客船ベトナム号であったこと(共著『広島・アウシュビッツ 平和行進 青年の記録』)等も重なり、横浜は特別な場所あった。
1973(昭和43)年、横浜市立大学に赴任、中国近代史から近代世界史(著書『イギリスとアジア-近代史の原画』1980年 岩波新書)へと研究テーマを拡げ、やがて横浜村(現在の横浜市中区日本大通)で結ばれた日米和親条約(1854年)を論じた『黒船前後の世界』(1985年 岩波書店)、『黒船異変-ペリーの挑戦』(1988年 岩波新書)、『幕末外交と開国』(2012年 講談社学術文庫)等を上梓したのも、どこか底流でつながっていたのかもしれない。
【園田英弘さんと日文研】
京都にある(大学共同利用機関)国際日本文化研究センター(略称:日文研)の創設準備委員会が文部省内に置かれていた1986年、準備室長・梅原猛さんの下で働いていたのが、準備室次長の園田英弘さんであった。
園田さんは『西洋化の構造――黒船・武士・国家』(思文閣出版 1993年)刊行を準備していた新進気鋭の学者(社会学)で1947年(昭和22)年生まれ、私より一回り若い。拙著『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)を読んで、連絡をくれた。二人を結ぶキーワードは<黒船>である。浅草の飲み屋へ案内して談笑した。
この縁で私の日文研との付き合いが始まった。日文研の創設は翌1987年で初代所長が梅原猛さん、1995年から河合隼雄、2001年から山折哲雄さんとつづいた。山折所長のころ、私は客員教授(2005~2008年)をつとめ、京都へ、そして広く関西圏を回って認識を深めることができた。
日文研へ行くたびに園田さんと雑談を重ねていたが、2007年4月に急逝、享年60。いまでも信じられない。
【梅原猛『日本人の「あの世」観』】
日文研の梅原猛さん(1925年(大正14年)生まれ)が逝去されたのは一昨年 2019年(平成31年)1月12日、享年94。改めて『地獄の思想-日本精神の一系譜』(1983年 中公文庫)や『日本人の「あの世」観』(中公文庫 1993年)を読み直したいと思っていた。
梅原さんの『日本人の「あの世」観』にある<あの世>とは、私流に解釈すると次のようになる。
人生の最期に関する不安に怯えて生きているのは苦しいから、人生最期の問題を解決しようと取り組んだ結果、宗教が生まれた。どの宗教でも、肉体としての命は最期を迎えても、霊魂は死後の世界て生きているという死生観を持ち、死後の世界か存在すると主張している。…仏教は多くの日本人の中で息づいている教えで、日本人の死生観を形作っていると言えるが、仏教以前の日本人の死生観は、<この世>から<あの世>へ行くと、いつでもこの世に戻ってこられる。言い換えれば一方通行ではなく、自由往来が可能となり、世界が倍に拡がる…。
梅原さんは、時折、近くに来て、<この世>だけしか知らない我々を見守っておられるのではないか。
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