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野村弘光さん講話「戦時下の三溪園」をめぐって

 野村弘光さんの講話「戦時下の三溪園」を拝聴する機会がようやく来た。2021(令和3)年11月22日(月曜)夕方5時から、場所は三溪園内の三溪記念館貴賓室。日程調整に時間がかかり大幅に遅れたが、それが幸いし、10月に入ると新型コロナウィルス感染者が急減、11月には神奈川県で1日に10人程度までに下がった。
 それでも会場の換気に十分な注意を払い、マスクを着用して臨む。イベント関連のシフト勤務が不規則になり、残念ながら参加できない職員もいた中で、川幡留司、吉川利一、渡邊栄子、鈴木正、石元幸一、滝田敦史、田代倫子(敬称略、順不同)、それに高井典子さん(神奈川大学教授、観光学、三溪園保勝会理事)と私が参加した。
 あいにくの雨であったが、野村さんは、写真、地図、1945年5月29日の<横浜大空襲>で爆撃を受け全焼した自宅の復元図、これに基づき製作したジオラマ(50分の1)等を運んでこられた。このジオラマは前回のジオラマ<サムライ商会>(後述)に次ぐ第2作で、2年前に完成した。作者は同じ人気ジオラマ作家の山本高樹さん(1964年~)。
体験談の合間、適宜、質問に応じる89歳の野村さんと最年少は30代の、熱い世代を跨ぐ交流となった。その概要を掲げたい。

【中学一年の体験】
 野村さんは太平洋戦争当時、三溪園の近くの三之谷97番に住まわれ、横浜市立間門(まかど)小学校から神奈川県立横浜第三中学(現在の横浜緑ヶ丘高校)へ進学した直後、1945(昭和20)年5月29日昼の<横浜大空襲>を体験、九死に一生を得た。
 モノを見る力や社会的な判断力を身に着けつつある中学1年生という年齢は、当時は<学徒勤労動員>に駆り出される年齢であったが、幸い野村さんには、ふだん通りの学校生活を送り、放課後も遊び回れる自由があった。
 1945年3月現在の学徒勤労動員率は大学・高専・師範学校が64.1%、中等学校(中学校・高等女学校・実業学校)が81.9%、国民学校高等科が58.6%(「学徒勤労動員」 Wikipedia)で、野村さんは辛うじて動員を免れたことになる。

 野村さんについて私は3点の資料を配布し、講話を聴きながら必要に応じて参照されたいとメンバーに伝えた。資料1野村さんの略歴、資料2祖父・野村洋三氏について、資料3野村さんが過去に行った講演の記録である。

資料1 【野村さんの略歴】
 まず野村さんご自身のことを記す。1932(昭和7)年10月7日、横浜市中区本牧三之谷に生まれる。慶応大学法学部を卒業後、1955(昭和30)年、横浜銀行入行、1973(昭和48)年に原地所株式会社(横浜市中区山下町11-1グランドアネックス水町)に移り、1976(昭和56)年6月に取締役総務部長、1991(平成3)年に常務取締役、2016(平成28)年から取締役(監査等委員)、株式会社ホテル、ニューグランドの役員を兼務する。2020(令和2)年に退職。
 
資料2 【祖父・野村洋三について】
 野村さんの祖父は野村洋三さん。原三溪と同じ岐阜県の生まれで、二人は生涯にわたる盟友であった。野村洋三顕彰会ホームページには「世界へ挑んだ文化人 野村洋三 おもてなしの精神を 胸に宿して」と題して、次のように伝えている。
 「1870(明治3)年、岐阜県大野町に生まれ、14歳のとき英語の専修学校と同志社学校(現在の同志社大学)へ入学。その後、東京専門学校(早稲田大学の前身)に進学。卒業後は通訳として活躍、1891(明治23)年、苦難の末、輸出製茶業の市場開拓のため渡米。東京帝大教授退官後、アメリカのボストン美術館東洋部主任となっていたアーネスト·フェノロサ、同じく動物学者のE·S·モース、ジアスターゼの高峯譲吉らと知遇を得る。
 翌1892(明治24)年、コロンブス世界博覧会の通訳として渡米、新渡戸稲造と知己となる。
 1896(明治28)年、横浜にサムライ商会を立ち上げ、関東大震災(1953年)後の1927(昭和2)年に開業したホテル、ニューグランド(HOTEL NEW GRAND)の建設に携わり、同ホテルの会長を務め、横浜商工会議所会頭、日米協会の終身会長、横浜ロータリークラブを立ち上げた。95歳没」。

【サムライ商会をジオラマで復元】
 渡辺浩生<天地人のブログ>の2014年3月29日号「祖父野村洋三の足跡をジオラマで復元 ニューグランドの野村弘光さん」は次のように述べる。
 ▽ 野村さんの祖父、野村洋三は明治、大正、昭和の横浜を「懸け橋」として生きた。美術貿易商<サムライ商会>を創業し、ホテル、ニューグランド(横浜市中区)会長時代には、終戦後、同ホテルを最初の宿舎とした連合国軍最高司令官マッカーサー元帥を迎え入れた。
 ▽ 「横浜が輝いていた時代を生きた祖父の足跡を形に残したい」。ニューグランド取締役を務める傍ら、祖父の生涯と重なる横浜の近代史探究を続ける野村弘光さん(81)は昨年、人気ジオラマ作家の山本高樹さんに<サムライ商会>の“復元”を依頼。25分の1の豪華絢爛(けんらん)な店舗が完成した。26日から4月7日まで玉川高島屋(東京都世田谷区)で開催される山本さんの「昭和幻風景ジオラマ展」に展示される。
 ▽ 洋三は20代で渡米。帰路、船上で出会った新渡戸稲造の「太平洋の懸け橋に」という信念に感化され、自らは横浜港に上陸する外国人相手に日本の美術品を売ろうと明治27(1894)年、サムライ商会を開店した。店の名は新渡戸が説いた「武士道」にちなんだ。
 ▽ 得意の英語で客の心をつかみ、赤色の馬車による送迎サービスも評判に。日本の名工を発掘して海外に紹介するなど「店は横浜の文化交流の場となった」と弘光さん。しかし、大正12(1923)年の関東大震災で焼失。ホテル経営に転身した洋三に昭和20年8月末、大役が回ってきた
 ▽ 占領軍が横浜入りした翌朝。苦労して調達した一個の卵をマッカーサーにふるまった洋三は、「占領を平和的に行うために婦女子の安全確保と食糧供給をお願いしたい」と民間人の立場で直訴した。「敗戦国だからと卑屈にならず、堂々とふるまう度胸が祖父にはあった」。その“おもてなしの心”は今日も新しいと弘光さんは感じる。(渡辺浩生)

資料3 【横浜の空襲-その体験を語り継ぐ】
 野村さんは、戦中、占領期を含む横浜現代史の講演をこれまで20回あまりつづけて来られ、それを紹介する記事が新聞に掲載された。それらのなかから主なものを以下に抜粋して紹介する。
(1)6年前(2015年4月16日)の産経新聞の記事「ドゥーリトル本土初空襲、目撃した野村弘光さん 実体験を検証、伝え続ける」。
「73年前の昭和17年4月18日、ドゥーリトル中佐に率いられた米陸軍爆撃機16機が本土を初空襲した。横浜上空でも焼夷(しょうい)弾を落とし、機銃を掃射して幼児1人が死亡。当時小学4年の野村弘光さん(82)=ホテル・ニューグランド取締役=は、超低空で飛び去った爆撃機を中区の自宅近くで目撃した。3年後の20年5月29日には横浜大空襲に遭遇。体験を手記にまとめ講演で語り伝えてきたが、戦後70年の今、自身を含めた空襲体験者の高齢化にもどかしさを感じる日々だ。(渡辺浩生)」
 ■一瞬の出来事、手記に 《その日は土曜日で、学校からの帰途、自宅前まで来たとき、いきなり空襲警報のサイレンが鳴り、激しい対空砲火音の中、和田山の方角から聞き慣れない爆音のする方を見ると、約100メートルくらいの超低空を、濃い色の機体に星のマーク付きで双発2枚垂直尾翼の飛行機が、東南方向へ東京湾に向かって、かなりのスピードで飛び去った》
 日米開戦4カ月後の17年4月18日は快晴だった。日本近海の米空母ホーネットから飛び立ったB25陸軍爆撃機16機のうち、横浜を攻撃した1機を目撃した「一瞬の出来事」を、手記「横浜空襲を通しての戦争体験」に記した。平成10年8月に執筆し、友人らの証言などから新たに知った事実を書き加えてきた。
 当時、市立間門国民学校4年。中区本牧三之谷の自宅のそばで、同級生と一緒に機影の消えた方向を呆然(ぼうぜん)と眺めていた。同級生は「マフラーを巻いた人間が見えた」と語ったが、<飛行機マニア>の野村さんは、目に焼き付いた機体が何か知りたくて、すぐ自宅に帰り「世界の翼」(朝日新聞社刊)で調べ、「英ハンドレページか米ロッキード・ハドソンの爆撃機じゃないか」と興奮気味に説明した。
 後日の新聞で、米軍のB25(哨戒爆撃機)による初空襲だったことを知った。南区堀ノ内町付近で焼夷弾が落とされ、家屋が焼失。JR石川町駅に近い中区打越では、当時5歳の幼稚園児が機銃掃射を頭部に受け死亡した。しかし、初空襲で犠牲者が出たことを野村さんが知ったのは戦後になってから。「まだ空襲の恐ろしさを全く知らなかった」と振り返る。
 だが、超低空による奇襲は南方での緒戦の勝利に酔う軍部、国民に衝撃を与えた。野村さんもこう記す。《日本本土の防空防衛の脆弱(ぜいじゃく)さを露見し、軍部も遅まきながら防空態勢の再検討を迫られた…わが家も早速、大工に頼んで庭の隅に半地下の防空壕(ごう)を作った》。
 ■非戦闘員ばかり犠牲。 昭和20(1945)年4月に県立第三中学に進学した野村さんは「一生忘れることのできない日」、5月29日を迎えた。
 空襲警報が発令され、物干し台に上り、雁行する編隊の数を驚きながら数えていた。《10編隊目になった時、ザザーという音とともに、最初は無数の黒い豆粒が、みるみるグレーに変わり斜めに落ちてきた》
 「焼夷弾落下」と叫びながら階段を駆け下り、風呂場の外まで来たとき、地響きと物すごい爆音にとっさに地面に伏せた。顔を上げると、家の壁が燃え、塀や門柱が倒れていた。爆弾が家に直撃したのだ。「駆けっこが苦手だったのが幸いした。足が速かったら、倒れた壁とともに爆風にやられていたと思う」 
 家族も無事だったが、近くの寺院には遺体がリヤカーやトタン板で次々運ばれ、荼毘(だび)に付される光景を見た。市街は壊滅し、横浜市史資料室によると、死者3649人、負傷者1万人以上の犠牲を出した。
 「爆撃で犠牲になるのは、子供や老人など非戦闘員ばかり。それは今も変わらない」。豊富な航空知識も生かし、資料を集めて横浜での空襲記録を調べ続ける。体験を美化することなく自分なりに事実を検証したい。祖父の洋三さんはニューグランド会長として昭和20年8月30日、横浜に進駐したマッカーサー連合国軍最高司令官を出迎えた。
 《空襲の全貌は、公式記録・個人の体験伝聞の集大成なくしてつかめない。しかしながら、当時から半世紀以上を経過し公式記録も出尽くした上、体験者の高齢化が進み、記録の再現が不可能になりつつある》。最初に手記に書いてから、17年がたった。
 以上、野村さんの以前の講演録(新聞に掲載)に見る空爆の事実である。
 これらの記述を受けて、野村さんは机上に置いたジオラマ(50分の1)について語り始めた。写真右手前が野村さん。ジオラマの手前に米軍の航空機、いちばん大きい機がB29、ボーイング B-29 スーパーフォートレス(Boeing B-29 Superfortress)と呼ばれる、アメリカのボーイングが開発した大型戦略爆撃機。高度9,000 mで高度2,400 m相当の気圧に耐えることができる。
  B29は1943年から開発にかかり、1944年の1月中旬までに97機が完成していたが、そのうち飛行可能だったのはわずか16機に過ぎなかった。1944年6月15日、中国の成都の基地を発ち、九州にある八幡製鉄所を主な標的として日本初空襲が実施された。75機が出撃したが、7機が故障で離陸できず、1機が離陸直後に墜落、4機が故障のため途中で引き返すこととなり、残りの63機だけが飛行を継続した。


ジオラマを前に語る野村さん


 ジオラマを前に語る野村さん(右側)。記憶にある自宅を図面に起こし(机上の右脇)、それを基にして山本高樹さんにジオラマ作成を依頼、一昨年に完成した。それを前に熱く語る。
たんなるノスタルジーではない。横浜大空襲の三之谷の実像を後世に残そうと願い作成したジオラマである。高級車1台分ほどの経費がかかったと言う。
 さらに机上の手前に、当時の三之谷の地図と自宅復元図が見える。その復元図が下記のもの。


図面


 図面は南が上。敷地96.78坪、建坪33坪。南東(図面の左上)に門扉があり、出窓のある洋間(6畳)と玄関につづく3畳間がある。その北側の部屋に焼夷爆弾(50キロ弾か)の爆心点と赤い矢印で記されている。
 南西側(右上)に開けた庭には井戸、防空壕、砂場に鉄棒がある。東南に開けた8畳間と6畳間には縁側がついている。野村少年の部屋はと尋ねると、台所の隣の3畳間だったと言う。玄関の脇に<ニワトリ小屋>があり、新鮮な卵を得ていた。当時の住宅や風俗を知る貴重な民俗学的資料でもある。
 当時、サラリーマン向けに、この種の貸家が多くあったという。ご尊父の野村光正さん(会社員、のちホテル、ニューグランド役員)は洋三さんの四女の夫。前年の秋、43歳で召集され不在だった(戦後に復員)。そのため長男の弘光少年が家を守る立場にあった。
 北西の端(図面の右下)に前述の物干し台がある。弘光少年は空襲警報でそこに駆け上がり、襲来敵機を観察。前述のとおり、「焼夷弾落下」と叫びながら避難中、風呂場の外で地面に伏せた。「…足が速かったら、倒れた壁とともに爆風にやられていたと思う」。弘光少年の等身大の戦災体験は、このジオラマとともに現存する。
【<横浜大空襲>とは】
 野村さんの講話を拝聴した後、改めて<横浜大空襲>とはどのような大事件であったか、その概要をまとめておきたいと思った(下記参考文献等による)。
 太平洋戦争末期の昭和20(1945)年5月29日昼、アメリカ軍のB-29爆撃機 517機とP-51戦闘機 101機による無差別の焼夷弾攻撃で、市街地の4 6パーセントが被害を受け、約8千から1万人の死者が出たとされる。三之谷の被災は、その一部である。
工業地、商業地、住宅地及びこれらの混在地を焼夷弾攻撃すると、どのように燃え拡がるかのデータをアメリカ軍は得ておらず、当空襲は、そのデータ収集の実験的攻撃であった。1時間余に2570トンの焼夷弾を投下。燃えやすい木造住宅の密集地を事前に綿密に調べ上げ、焼夷弾で狙い撃ちにする作戦だったことが、後にアメリカ軍資料を分析した日本人研究家によって明らかにされた。最初から非戦闘員を狙った住民標的爆撃であり、東京や大阪、また他都市へも同様の作成がとられたという。
 アメリカ軍は攻撃目標を東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校の5ヶ所に定めて襲撃。とくに被害が甚大だったのは、現在の神奈川区反町、保土ケ谷区星川町、南区真金町地区一帯とされる。
星川町が攻撃を受けたのは被服廠があったからである。また横浜市立大鳥小学校は焼け残り、戦後に自殺を図った東條英機元首相を収容した病院となった。
 京浜急行電鉄黄金町駅周辺一帯では、東急湘南線の上下線に停車中の電車から退避中の乗客も被害にあい、多数の焼死体が累々と折り重なった。また同線の平沼駅は前年に廃駅となっていたが、焼夷弾によって壊滅的被害を受け、その鉄骨が1999(平成11)年まで架線柱代わりに残されていた。建立中だった護国神社(現三ツ沢公園)も本殿などすべてが焼失した。
 白昼の空襲であったことから、第三〇二海軍航空隊(厚木海軍飛行場駐在)の零戦や雷電、第十飛行師団(天翔)の屠龍・鐘馗などの戦闘機、高射第一師団(晴兵団)の八八式七糎野戦高射砲が大挙して応戦、B-29の7機を撃墜、175機を損傷させた。
被害面積は、17,8平方キロ、市域臨海部の34パーセントが壊滅、市の中心部で無事だったのは山手地区の大部分と山下公園付近のみ。臨海部の軍需工場より人口密集地域の破壊が甚大だった。
 なお前日の5月28日、アメリカは第3回原爆投下目標地選定委員会を開き、横浜を候補地から除外した。それまで横浜は原爆投下の候補地であった。除外され、大規模空襲地となったのである。
【主な参考文献】
(1)今井清一『大空襲5月29日―第二次大戦と横浜』(有隣堂 1981年/新版 1995年)。
(2)西和夫『三溪園の建築と原三溪』(有隣堂、2012年)。
(3)『三溪園 100周年-原三溪の描いた風景』(財団法人三溪園保勝会 2006年)。
(4)近刊の鈴木冬悠人『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』 (新潮新書 2021年)
(5)戦後50年の節目に「戦後50年横浜平和祈念展」の開催に伴い刊行した図録『写真でみる横浜大空襲~戦時下の市民生活~』(1995年)がある(Web版もあり)。この図録の大半の写真は、横浜市史資料室「横浜の空襲と戦災」関連資料を使用しており、以下の資料が含まれる。
ア)写真。約1,000点。戦時下から戦後の講和条約締結、接収解除のころまでの写真が収集。市民が撮影した写真のほか、アメリカの空軍図書館や国立公文書館に所蔵されているアメリカ軍カメラマンの手になる写真も含まれる。
イ)体験記・日記・書簡。約500点。市民が寄せた体験記・日記・書簡などの文字資料は、『横浜の空襲と戦災』(全6巻)の第1巻「体験記編」や第2巻「市民生活編」、『調査概報』(全9集)の第5集「空襲体験記」で多くが活字化されている。
 ウ)紙資料。約800点。戦時下の市民生活を物語る衣料切符や生活必需品購入通帳、戦時貯蓄債権のほか、罹災証明書、仮設住宅申込書など。
 エ)現物類。約300点。国民服やもんぺ、学生服などの衣服、手製パン焼機や弁当箱などの食生活に係わる資料が中心。
 オ)書籍類。約3,500点。シリーズとしてまとまっている資料に、『アサヒグラフ』(大正12(1923)年の創刊号から昭和20(1945)年まで)、『写真週報』(昭和13(1938)年の創刊号から昭和16(1941)年まで)、『週報』(昭和11(1936)年の創刊号から昭和20(1945)年まで)、駐日アメリカ陸軍が発行していた"Stars and Stripes"紙。

【6月10日の空爆】
 5月29日の<横浜大空襲>では、アメリカ軍が三溪園を爆撃の対象から除外していた(貴重な文化財が集中する地域を爆撃対象から除外するよう一覧した<ウオーナー・リスト>による)、そのため三溪園は爆撃を免れたが、同じ中区三之谷の三溪園北側一帯は焦土と化した。
加藤注:ウオーナー・リストとは、アメリカの美術史家Langton Warner(1881~1955)が作成した日本の文化財リストを指す。これがそのまま空爆の除外に直結したとは言えず、このリストと実際の爆撃が一致しなかったケースも少なくない。
 6月10日、B29、363機・P51、30機が中区本牧から磯子区富岡町方面を爆撃した。トンネルに待避した東急湘南電車の乗客は全滅。その1機が三溪園の南側の八聖殿近くにあった高射砲台をめがけて爆撃、一部は三溪園にも落下、内苑の臨春閣玄関棟が吹き飛び、外苑の旧東慶寺仏殿前の灯篭が倒壊、田舎屋や横笛の像が焼失した。
 野村さんは、6月10日空爆のわずか6日前に、叔母の住む栃木県日光市へ縁故疎開をしていたため、この空爆を知らず、翌年1月に戻って以降の<伝聞>しか持ち合わせていないと言われた。

【戦後の三溪園】
 疎開から三之谷へ帰還後に知る三溪園について、野村さんは幾つかを語られた。ジープで三重塔へ上るアメリカ兵の乱暴ぶりに手を出せなかったこと。また本牧一帯には<パンパン>や<オンリーさん>と呼ばれた女性が多数いたことにも言及された。
 <パンパン>とは不特定多数の連合国軍兵士を客とする女性を指し、特定の相手(主に上級将校)と愛人契約を結んで売春関係にあった女性は<オンリー>または<オンリーさん>と呼ばれた」。これを知るのは昭和11(1936)年生まれの川幡さんと私くらいであろうか。若い世代には聞きなれない、女性蔑視の現実を否応なしに突きつける言葉である。

【財団法人としての三溪園の発展】
 荒れ果てた三溪園を原家から横浜市の所管に移し、財団法人三溪園保勝会としたのが戦後8年目の1953(昭和28)年である。それから半世紀余を経た2007(平成19)年に国指定名勝を受け、2012(平成24)年には公益財団法人三溪園保勝会となった(『三溪園の百年』2006年)。
野村さんは2007年、国指定名勝となった年から財団法人三溪園保勝会の理事に就任、本年2021年6月の理事会をもって退任された。
 私事にわたるが、野村さんに私が初めてお会いしたのは9年前の2012(平成24)年8月1日、公益財団法人三溪園保勝会の理事会(鶴翔閣にて)であった。会議後の雑談のなかで、野村さんが「定期的にジムに通い筋トレをしている」と言われ、そのお元気な様子に感嘆した。機械に詳しく、趣味は手先を使う工作や手作業とのこと。これも健康維持の秘訣であろうか。
 本牧三之谷の空襲と被災の証言者であり、三溪園の創造に尽してこられた功労者であられる野村さんから伺いたいことはまだまだ多い。野村さんしか語り得ない貴重な体験をもっと聴かせていただきたい。 
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日仏文化交流-CHAUMET 特別公開によせて

 このたびショーメ(CHAUMET)がフランス大使館の協賛を得て、11月23日(火曜 祝)から27日(土曜)までの5日間、三溪園の鶴翔閣内で「特別公開 フランスと日本文化のConversation-ショーメのサヴォワールフェールと日本の名匠3人との対話」を開催する。

 三溪園のホームページは次のように言う。
 フランスを代表するハイジュエリーメゾンのショーメが、 11月23日(火・祝)〜28日(日)の日程で、三溪園内でおこなうハイジュエリーイベント『フランスと日本文化のConversation―ショーメのサヴォワールフェールと日本の名匠3人の対話』を特別一般公開いたします。
 本展は、フランス文化と日本文化の対話をコンセプトに、日本初お披露目を含むショーメのハイジュエリーと日本の伝統芸術の職人たちが手掛ける作品をテーマごとにご紹介します。
 フランスのサヴォワールフェール(匠の技)と日本文化の匠による美と文化の競演をお楽しみください。
ショーメのジュエリーと対話をするのは、日本を代表する名匠3家。竹芸家・四代田辺竹雲斎、盆栽作家・木村正彦、刀匠・月山貞利と月山貞伸。奥義に達した名匠たちの「人の手が成す仕事」、素材へのこだわり、優れた技能、高い精神性はいずれもフランスが誇りとするショーメの深い美と共通する部分です。
 会場には名匠達が生み出した作品の数々がショーメの芸術と呼ぶべきジュエリーとともに展示されます。人の手で美を希求するというショーメと日本の名匠たちの対話を、作品を通してお楽しみください。
■日程:2021年11月23日(火)~11月28日(日)
■時間:9:00~17:00
■会場:鶴翔閣
■料金:無料(入園料別途)
※会場が混雑する場合には、入口にてお待ちいただく場合がございます。
■主催:LVMH ウォッチ・ジュエリージャパン株式会社 ショーメ ディヴィジョン
■共催:公益財団法人 三溪園保勝会
■協賛:在日フランス大使館

【ショーメのジュエリーと対話する日本の3名匠の作品】
 以下に3つの作品の特徴を掲げる(10月28日の三溪園記者発表文)。
<VIDES ET PLEINS 余白の美>CHAUMETx四代田辺竹雲斎
 編む、組むというテクニックはショーメならではの優美さの源。メゾンの技である「フィルクトー」はナイフの刃(クトー)のように薄い線(フィル)でパーツを繋ぎあわせ、ジェムストーンが軽やかに宙に浮いているように見せる極めて高度な技術。竹という素材のフレキシビリティを駆使し、古くから伝わる編み技を進化させ、これまで見たこともないようなかたちを空間に創造する四代田辺竹雲斎。新しい表現を追い求める彼の精神は、荘重なクラシックを軽快なモダニティへと再解釈するショーメのエスプリに重なるのです。

<自然を彫るSCULPTER LA NATURE >CHAUMETx木村正彦
 色あせることなく輝くショーメのジュエリーに欠かせないものは、自然からの贈り物ともいえるジェムストーン。数十億年も大地の奥底で眠っていた石を選び抜き、カットし、ときにデザインに合わせてまたカットします。石に人の手を加えるラピデール(宝石細工)の技で、めくるめく輝きが引き出されるのです。100 年、ときに1000 年を超える樹齢の盆栽も、手入れを続けることで長い歳月を生き、その命脈を保ちます。移ろい、変わりゆく時代の流れのなかにあって「永遠」の意味を教えてくれるもの。しっかりと根を張り、揺るぎないもの。木村正彦の盆栽も、ショーメのハイジュエリーも、その在り方は同じなのです。

<金属の芸術L’ART DU METAL>CHAUMETx月山貞利、月山貞伸
 18世紀に生まれたショーメの創業者マリ=エティエンヌ・ニトは、金細工に秀でた人でした。極限まで薄く引き延ばしたゴールドで、フォルムを大胆にかたち作る技は、職人の至芸ともいえるもの。オルフェーヴル(金細工)の伝統をショーメは今なお正しく守り伝えています。およそ800年の長きにわたり、作刀の技を受け継いできた刀匠・月山貞利、月山貞伸。彼等の鍛えた刀身には、綾杉肌と呼ばれる独特の模様が浮かび上がります。刀身に彫物をするのも月山派の特徴。ショーメ、月山家ともに時代を越えて今もなお継承された昔ながらのやり方で、伝統そして技を継承しているのです。

【宝飾店ショーメ(CHAUMET)とは】
 主催者のLVMH(Moët Hennessy ‐ Louis Vuitton) ウォッチ・ジュエリージャパン株式会社 ショーメ ディヴィジョンとは、1780年に創業したフランスの宝飾店ショーメ(CHAUMET)の後継であり、1812年に伝説的なヴァンドーム広場(Place Vendôme)に店を構えた最初のジュエリーメゾン(宝飾店)として有名である。
 次のような逸話が残る。
「創業から約240年の歴史を持つショーメ。その始まりは1780年のパリにまで遡る。当時、王妃マリー・アントワネットのお気に入りの宝石商であった"オベール"の元で修行を積み貴族の家に出入りしていた一人の宝石職人、マリ・エティエンヌ・ニトがパリのサントノレ通りに小さな宝飾店を構えたことから始まる。
 ある日、ナポレオンが手綱を握っていた馬車がショーメのお店の前で突然暴れだし、それを見かけたニトは懸命にナポレオンを救い出した。深く感謝したナポレオンはショーメに必ず礼をすることを約束し、その後ナポレオンが皇帝になったのち、儀式にショーメのティアラを用いるという形で果たされた。
 そしてショーメが手掛ける美しい品々に魅了されたナポレオンは、1802年にショーメを初の公式宝石商に任命した。」

 フランス文化と言えば、折しも11 月11 日(木)~11 月14 日(日)、みなとみらい21 地区中心に<フランス映画祭 2021 横浜  Festival du film français au Japon 2021 >も開催されたばかりである。

【163年前に始まった日仏文化交流】
 日仏交流が始まったのは、163年前の1858(安政5)年、安政五ヵ国条約と称される条約が結ばれて以来である。幕府がアメリカと結んだ日米修好通商条約を皮切りにオランダ、ロシア、イギリス、フランスの順で五ヵ国と締結した修好通商条約を指す。うち日仏修好通商条約は、 安政 5年 9月3日 (グレゴリオ暦 1858年 10月9日 )に結ばれた。フランス側全権は ジャン・バティスト・ルイ・グロ 男爵 、日本側全権は幕府の改革派を代表する水野忠徳 ・ 永井尚志 ・ 井上清直 ・ 堀利煕 ・ 岩瀬忠震 ・ 野々山鉦蔵 の6名。
 条約の主な内容は、 (1) 江戸に駐在代表をおく、 (2) 下田、箱館、長崎、新潟、兵庫の5港を開港し、江戸と大坂を開市とし、それぞれ駐在領事をおく、 (3) 開港場における外国人の遊歩規程を定める、 (4) 信教の自由を尊重し合う、 (5) 輸出、輸入に制限を設けない、(6)領事裁判権を与える、(7)関税率の自主的改定権は日本側にない。
 これらの条項のうち、とくに(6)と(7)が日本側に不利な内容であるとして、明治政府はその改正に尽力、(6)については日墨修好通商条約(1888年)から法権を回復し、全体としては日清戦争開戦の約半年前、1894年7月16日に調印した日英通商航海条約で条約改正を実現、その5年後に居留地制度が終了した。
 しかし、この2点だけを以て全体を<不平等条約>と決めつけるならば、歴史の実態を読み誤ることになる。広く当時の世界を見ると、この条約の<不平等性>はごく限られたものであることが分かる。
 これら5カ国は<列強>(“Powers”の訳語)と呼ばれ、それ以前に強大な力を誇っていたスペインとポルトガルは入っていない。<列強>の支配下に下記の②、③、④の3つの政体が生まれ、世界は合わせて4つの政体から構成された。
① <列強>
② 戦争に敗北して<植民地>となる(立法・司法・行政の国家三権を喪失) :
南アメリカの諸国、アフリカの諸国、インド、インドネシア等
③ 戦争に敗北して<敗戦条約>の締結を余儀なくされた国(<懲罰>としての賠償金支払いや領土割譲等を伴う) : 清朝中国
④ 対話による<交渉条約>を締結(<懲罰>の概念がないため、賠償金支払いや領土割譲等がない) :日本、シャム
これら4つの政体のうち、<不平等性>は②がいちばん強く、③、④の順で弱くなる。日本は発砲交戦を伴わず対話によりペリーと日米和親条約(1854年)の締結に成功した。詳しくは拙著『黒船前後の世界』(岩波書店 1985年)、拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)、『横濱』誌の連載(10回)「横浜の夜明け-開港150周年に向けて」(本ブログのリンクにあり)等を参照されたい。

【<交渉条約>が<主体性>を発揮】
 戦争を伴わず対話を通じて成立した<交渉条約>は、日本側(幕府)の情報収集力と分析力、交渉場所、通訳、使用言語の選択等をめぐる交渉力等が存分に発揮された成果である。これを<主体性>と呼べば、<主体性>は条約締結後に各方面でさらに発揮される。
 例えば諸外国の良い面を積極的に吸収する意欲、そのための外国語の習得、海外への使節派遣(賠償金が課せられないため、派遣のための資金を確保できたことも重要)、読み書きそろばんに始まる教育制度の高度化等々である。
 なかでも近代世界を象徴する外来語の訳語化に成功したことは見逃せない。いま当然のように使われるキーワード、例えば自由、民主、哲学、美学、文化、法律、政治、外交、概念、伝染病等々、主に2つの漢字で構成する基本語彙は明治初年に主に英語からの訳語として誕生したもの。これらのキーワードは20世紀に、来日中国人留学生により漢字の母国へ里帰りした(本ブログのリンクにある『(都留文科大学)学長ブログ』の2014年3月12日掲載の「黒船来航と洋学」を参照)。
 ペリーとの日米和親条約(1854年)についで、ハリス(アメリカ総領事、のち公使)と日米修好通商条約(1858年)を締結する。これらの<交渉条約>には<懲罰>の概念がなく、賠償金支払いも領土割譲もない。
 そのため、賠償金支払いによる富の流出も領土割譲による政治な恨みも伴わず、進んで新たな政策を展開する。上掲の各種使節団の派遣(本ブログ2015年4月2日掲載「『米欧回覧実記』をめぐって」等を参照)に加え、各分野で優秀な<お雇い外国人>を選択的に雇用、その必要経費も捻出できた。

【国際法の<最恵国待遇>】
 19世紀の国際法では、先行する条約に対して<最恵国待遇>を主張し、後続の列強が同等以下の条約を求める権利を持つ。1842年に締結されたイギリスと中国との南京条約(アヘン戦争の結果の<敗戦条約>)に対して、アメリカとフランスが<最恵国待遇>を主張して清朝政府と交渉し、2年後にイギリスと同等以下の条約を締結したことに始まる。
 この<最恵国待遇>の国際法は、その後、日本と諸外国との条約にも適用され、最初の日米修好通商条約(1858年7月29日調印)の<交渉条約>と同等以下の条約が、つづいてオランダ、ロシア、イギリス、フランスの順に締結された。

【進取の気性を育てた横浜】
 このような開国・開港後の新しい文化や習慣を具体的に展開した地が、5つの開港場(函館、新潟、神奈川、兵庫、長崎)と2つの開市場(江戸と大坂)であり、それぞれに特徴がある。そのなかで最大規模を誇り、かつ早期に開港した横浜(居留地)が<進取の気性>を持つ人びとが集まる先進地帯となり、全国からの参観者が絶えなかった。なお条約では神奈川(横浜)と長崎の開港が1859年7月4日、新潟が1860年1月1日、兵庫(神戸)の開港は1863年1月1日と定めている。
 最大規模で最初に開港すると定めた横浜開港場(居留地)の建設(のち都市計画と呼ばれる)が試金石となる。そこに<主体性>が発揮された。幕府がすべてを主導して開港場(居留地)を建設し、完成後に外国商人たちを招き入れた。立法・司法・行政の国家三権を堅持した上で、外国人の犯罪に関する一部を<領事裁判権>として外国領事に譲渡(条約改正まで、後述)したに過ぎない。
 開港場建設の経緯を簡単にまとめると次の通り。安政五ヵ国条約では開港場を<神奈川>としたが、具体的にどこを指すかをめぐり、1859年3月5日からハリスと幕府の対話が始まり、第6回(3月18日)までつづくが合意が得られない。ハリスは東海道の神奈川宿を主張したが、幕府はその街道筋では広い面積を取れず、多くの外国人を収容できない、それに遠浅の湾のため大型船が着岸できない、と主張する。
 対話が硬直し、ハリスは駐在地の下田へ戻り、さらに休暇をとって上海へいく。幕府は条約に定めた開港予定日(1859年7月4日)が3ヶ月後に迫るなかで、時間を優先させ、神奈川宿から直線で約4キロ離れた武藏国久良岐郡(くらきぐん)横浜村(現横浜市域にあった215ヵ村の1つ、約90戸)の駒形を中心に開港場を定め、突貫工事により埋め立てと区割りを行った。
 ここ横浜村は、5年前の1854年2月からペリーとの日米和親条約の交渉地(幕府が提案して合意、応接所を建設)であり、大型船が着岸できる深く広い湾が前面に拡がる。現在の大さん橋付け根、開港広場から神奈川県庁の一帯である。
 また陸路で神奈川宿と横浜村を結ぶ<横浜道>を造成し、その中間地点に神奈川奉行所(外国奉行所を兼帯)を置き、港に面して運上所(税関と上陸許可等の業務を所管)を置いた(本ブログのリンクにある『横濱』誌連載(10回)「横浜の夜明け-開港150周年に向けて」の第8回、第9回を参照)。

【若い都市・横浜の形成と発展】
 この運上所と日本大通りを境に、山手側を<外国人居留地>として区画に番号を付し、外国商人に賃貸した。英ジャーデン・マセソン商会が借地したのが1番(通称:英一番)で、そこから海岸沿い(現在は関東大震災後に埋め立てて造成した山下公園沿い)に堀川の手前を20番とし、21番は1番の裏手に戻り、また堀川方面へ29番まで並ぶ。ほぼ同じ原則で最後は377番である。
 反対側の桜木町方面は<日本人町>とし、本町通りを中心に海岸に平行して海岸通り、北仲通り、反対側に弁天通り、南仲通りの5筋の道路を通し、この一帯に江戸商人や近在からの商人を誘致した。これらの古地図等は『横浜もののはじめ考 第3版』(斉藤多喜夫ほか編 横浜開港資料館 2010年)を参照。
 貿易(輸出入)は、この開港場(居留地)内において日本人商人と外国商人との間で行われたため、<居留地貿易>とも呼ばれる。日本人商人は<売込商>(これが輸出商にあたる)と<引取商>(輸入商にあたる)に分かれ、開港場(居留地)内を互いに往来して店頭で取引を行った。その後の海外への搬出(輸出業務)は外国人商人が行ったが、やがて日本人商人が海外への搬出を行う<直貿易>を始める。
 日本の最大輸出商品となる生糸を扱う商人が<生糸売込商>と呼ばれた。<生糸売込商>は、養蚕地帯の繭・生糸をみずから集荷した上で、これを居留地内で外国人商人に売り込む。
 修好通商条約の規定により、外国人商人の貿易行為は居留地内に限定されていたため、みずから養蚕地帯に入り、繭・生糸を直接掌握することはできなかった。居留地外への旅行にも幕府の許可が必要であったが、<遊歩道>を日帰りで往来することはできた。
 生糸輸出は日本全体の輸出のトップに位置した。その<生糸売込商>の一人が<亀谷>の原善三郎(1827~1899年、現埼玉県神川町出身)であり、彼を含む5大<生糸売込商>だけで生糸輸出の約7割を占めた。
 原善三郎は、商売はもとより、その後の都市横浜の形成に不可欠の横浜市会(市議会)の初代議長となり、若い都市・横浜の町づくりに多大な貢献をした。
 誕生したばかりの若い都市・横浜では「三日住めば浜っ子」と言い、進取の気性に富む開放的な市民気質が「三代住んで江戸っ子」と対比された。成長期の都市横浜の進むべき方向を示し、それにふさわしい施策がなければバラバラになりかねない。そこで市政が公布され(1889年)、その初代議長に就いた。
 都市横浜がいかに若いか、<都市年齢>を比較してみる。日本の都市は、①天皇創建の都市(奈良1300年前、京都1200年前)、②武家創建の都市(鎌倉800年前、江戸400年前)、③条約起源の都市(開港5港)の三者があり、京都を80歳とすれば、江戸東京は27歳、横浜は10歳である。
 1891年、原善三郎の孫娘の屋寿(やす)と結ばれたのが、青木富太郎(岐阜出身)、原三溪その人である。生糸輸出にとどまらず、富岡製糸場等の製糸工場を経営して生糸の品質向上に尽力した。三溪と横浜については、さしあたり本ブログ2016年10月4日掲載の「三溪と横浜-その活躍の舞台」を参照されたい。

【欧米でのジャポニスムの時代】
 こうした異文化交流の地、横浜開港場の形成等を考えているうちに、8年前のシンポジウム「岡倉天心生誕150年」(『(都留文科大学)学長ブログ』2013年11月1日号)を思い出した。佐藤道信(東京芸大)教授の、「(天心の活躍した)幕末から明治にかけて(1860年~1910年代)、世界はジャポニスム(日本趣味)の時代として、巧まずして日本美が欧米諸国で高く評価され、日本文化の応援団ができていた」とする指摘である。
 ついで6年前、三井記念美術館で観覧した「超絶技巧  明治工芸の粋」は、京都の清水三年坂美術館の村田理如コレクション約1万点から選りすぐった約160点を展示していた。七宝、刺繍絵画、牙彫、金工、自在、刀装具、印籠、漆工、木彫、薩摩等の分野にわたる展示図録に、次のようにある(本ブログ2014年4月26日掲載の「明治工芸の粋」)。
 「260余年の平和がつづいた江戸時代、武家の甲冑、刀剣、刀装具等が美術品化し、金工技術や漆器の装飾技術が磨かれた。その頂点が幕末開港期であり、やがて明治時代に武家社会が崩壊すると、諸大名や豪商に代わり殖産興業を推進する明治政府(農商務省、皇室、宮内省)がパトロンとなった。
 折しも欧米世界は1851年のロンドン万博に始まる<万博の世紀>に入る。幕末の1867年、日本はパリ万博から初参加、明治政府も1873(明治6)年のウィーン万博(の産業館)以来、全国からの出品を奨励し欧米へ輸出、新たな市場を欧米の貴族・富豪らに求めた。ただ、この勢いは約30年で終焉…」と。

【18世紀<中国趣味>から19世紀<日本趣味>へ】
 19世紀後半にヨーロッパで流行した<日本趣味>をフランス語でジャポニスム(Japonisme)、英語でジャポニズム(Japonism)と呼ぶが、これに約1世紀先行する18世紀の中ごろにロココ趣味が融合、人気が最高潮となったシノワズリ(chinoiserie)が<中国趣味>の美術様式である。
 英語で小文字のchinaは陶磁器を意味し、japanは漆器、漆工を指す。18世紀には中国製の陶磁器が<中国趣味>の代表とされた。陶磁器とは厳密には、①陶器が土器の進化したもので十分には焼き締まらず吸水性があるため釉薬をかけたもの(日本の薩摩焼等)で、②磁器は素地が焼き締まりガラス化して吸水性がない純白透明な焼物である。
 陶磁器の起源や発展は、先史時代から中国が一貫して先導してきた。清代(1644~1912年)には景徳鎮が主産地となり、その官窯では中央政府から製陶の監督を行う官僚、監陶官が技術開発のために派遣され、大きな役割を果たした。
 康熙帝(1662~1722年)の末頃、景徳鎮に滞在したフランス人イエズス会宣教師のフランソワ・グザヴィエ・ダントルコルは1712年と1722年の2度にわたり、本国あての書簡の中で当時の景徳鎮の様子や作陶方法などについて詳細に報告している。作陶は分業が徹底しており、陶土の採取・精製、成形、絵付け、施釉、窯焚き・窯出しから製品の検査、梱包、運搬に至るまでに約70人の工人が関わっていた。絵付けの作業はさらに細分化され、器の上部の界線のみを引く者、花の輪郭を描く者、ぼかしを入れる者など、それぞれに専門化していたという。
 最盛期の中国磁器は欧州へ輸出されており、陶磁器がchinaで代表されたのも当然である。しかし日本製の磁器も、有田焼の<青花>が17世紀初頭の平戸に11年間のみ置かれたイギリス商館(1613~23年)からイギリスに輸出されていたことをケンブリッジ大学のジョン・コーツ教授(数学)から聞いた(本ブログ2017年9月4日掲載の「400年前の英語」、2017年10月4日掲載の「平戸イギリス商館」等)。
 それはともかく、大量に英国や広く欧州に入ったのが中国産陶磁器であったことは確かであり、そのあまりの人気と高値に対抗して、18世紀初頭、輸入代替品としてドイツでマイセン磁器(白磁)が誕生する。
 こうした18世紀からの<中国趣味>の土壌の上に、19世紀中葉の日本(Japan)開国開港で、多くの商船が西洋から押し寄せた。写真技術と印刷技術により日本の様子が広く知られると、小文字のjapanは漆器、漆工(木地に漆を塗った美術品や日用品)を指すようになる。前述の「明治工芸の粋」でも、また以下に掲げる、日本から初めて出品したロンドン万博(1862年) でも、またパリ万博(1867年)でも、漆器や漆工が目を引いた。
 イギリスでは、1862年のロンドン万博により日本の陶磁器や置物などを通して日本文化への関心が高まり、美術界ではロセッティ・サークル(画家のロセッティを中心としたラファエル前派のグループ)の人々を中心に<日本熱>が起こった。
 フランス美術界においては、1856年ごろ、エッチング画家フェリックス・ブラックモン(1833~1914年)が摺師の仕事場で『北斎漫画』を目にしており、1861年に出版された本に浮世絵がモノクロで紹介されている。
 ブラックモンによる浮世絵の古典的名作の最初の発見にもかかわらず、当初ヨーロッパに輸入された大半の浮世絵は同時代(1860~1870年代)の絵師による包み紙で、それ以前の巨匠たちが紹介され、評価されるのはもう少しあとである。そのため同時期のアメリカのインテリたちは、雪舟や周文などのような日本の洗練された宗教的、国家的遺産とは区別されるべきだと主張した。
1870年にジャポニスムの影響はすでに顕著であり、1872年に美術評論家のフィリップ・ビュルティがその流行を「ジャポニスム」と呼び、1876年には"japonisme"という単語がフランスの辞書に登場する。
 1873年のウィーン万国博覧会後、そこで展示されていた日本の建物と庭園がアレクサンドラ・パレス&パーク (Alexandra Palace and Park) に移築され、日本村Japanese Villageと呼ばれた。日本庭園が世界展開する先駆となる。

【万博の世紀】
 19世紀後半からは<万博の世紀>(国際万国博覧会の略称が万博)に入る。主な開催地と開催年を見ると、以下の通り。
 第1回 ロンドン万博(1851年)
 第2回 ニューヨーク万博(1853年)
 第3回 パリ万博(1855年)
 第4回 ロンドン万博(1862年) 日本から初めて出品
 第5回 パリ万博(1867年)  日本から初めて使節派遣と出品
 第6回 ウィーン万博(1873年) 明治政府が本格的に出品
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 第10回 シカゴ万博(1893年)
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 第23回 モントリオール万博{1967年}
 なお様々な物品を集めて展示する博覧会(国内博覧会)は 1798年 、 フランス革命 の時期の パリ で初めて開催された。 1849年 までにパリで11回開催され、徐々に規模が大きくなっていく。一方、イギリスは、世界に目を向けて多くの参加国を集め、ロンドン万博(1851年)開催をリードした。
 英仏の競合と住み分けを通じて、世界の物産と匠の技の大規模交流が始まる。

【第4回 ロンドン万博(1862年)に日本から初出品】
 1858(安政5)年の<安政五ヵ国条約>から4年後のロンドン万博(1862年)に初代駐日総領事オールコック(Rutherford Alcock)が、自身で収集した漆器や刀剣、版画の美術品のほか、蓑笠や提灯、草履など民具類を出展した。オールコックのコレクションに対するロンドンでの評価は、日本の国民性をみごとに表現したものとして評価され、ヨーロッパにおけるジャポニズムの契機にもなった。
 オールコックは、中英アヘン戦争(1839~1842年)後の1844年、福州領事に任命され、条約港福州で領事業務に携わり、租界管理や領事裁判権などの複雑な業務で成果を挙げ、15年の長きにわたって中国に在勤、租界の発展に尽力した。また市場開拓を企図して清との再戦論を唱え、首相パーマストン子爵に清朝に武力行使をするよう進言する書簡を送り、アロー戦争(1856年)を引き起こした。
 初代駐日総領事に任命されたのは1859年。日英修好通商条約の批准書交換を7月1日(安政6年6月2日)以前に行う命を受けて、6月26日(5月26日)に品川沖に到着、高輪の東禅寺に入った。アメリカが先導した日米修好通商条約(<交渉条約>)に最恵国待遇を主張して結ぶ<交渉条約>であり、先行条約を超えるものではない。
 条約上の<開港場>の神奈川(東海道の神奈川宿)を視察した際、対岸の横浜にはすでに居留地が完成しており、開港場となることを知らされと、オールコックは実利的な面からは横浜が有利と認めながらも、条約遵守を要求し、英領事館は神奈川宿の浄瀧寺に設置することで妥協した。
 オールコックは率直に言う。「我が国をふくめた商人たちは(神奈川宿ではなく)横浜村を選び、そちらへ移住する。・・・幕府は、外国商人たちと外国代表(外交官)のそれぞれの目的を食いちがわせ、不体裁にも対立させて、思いのままにことを運びはじめた。その時から明らかに多勢に無勢の負け戦であった」(『大君の都』1863年、ロンドン)。
 オールコックは、戦争をも仕掛ける対中強硬策とは対照的に、二番手の条約という制限を熟知し、個人的にも日本びいきで、富士登山をしたり、日本各地の旅行を楽しんだ。
 なおオールコックの収集品を出品したロンドン万博(1862年)の開会式には、文久遣欧使節(文久元(1862)年第1回遣欧使節、開市開港延期交渉使節とも言う)の正使・竹内下野守(56歳)ほか総勢38名)の一行が参加し、日本が万博に関与した最初の事例となった。
 日本の展示品は現地では絶賛されたが、使節団の淵辺徳蔵は『欧行日記』に「全く骨董品の如く雑具」、「かくの如き粗物のみを出せしなり」と不満を書き残した。使節団の一員だった福沢諭吉がExhibitionを「博覧会」と訳したと言われる。
 開会式に出席した使節代表は感想を聞かれ、「全体としての情景はまことに感銘深い。そして音楽もすばらしく壮大である。…イギリスの音楽は日本ではとうてい理解されないだろうし、日本の音楽もイギリスでは理解されないだろうが、両方とも甚だ立派であることは同じだ」と答えている。また、随行員の市川渡は西洋の写実的な絵画について、「西洋の絵画は写実の手法には優れているが、形を超えた気品や神髄を伝える点においては無知」と記す。

【パリ万博(1867年)へ日本から初出展】
 ロンドン万博(1862年)から5年後、幕末ぎりぎりの1867(慶応3)年4月1日から10月31日まで開かれた第2回パリ万博に日本は初めて使節を派遣して出展。時期が幕末の政権移行期にあり、日本からは江戸幕府、薩摩藩、佐賀藩がそれぞれ出展した。割り振られたのは中国、タイと一緒の区画であった。
 幕府は将軍徳川慶喜の弟で御三卿・清水家当主の徳川昭武(この時15歳)を派遣する。随員の一人として若き日の渋沢栄一(澁澤 榮一、天保11年2月13日(1840年3月16日) ~ 昭和6年(1931年)11月11日)がいた。
 一方、薩摩藩からは家老の岩下方平らが派遣された。薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成した。幕府は薩摩藩に抗議したが聞き入れられず、幕末の政争が如実に現れた万博となった。
 幕府は開成所の高橋由一・宮本三平らの油彩、北斎・国貞・芳幾・芳年らの浮世絵、銀象牙細工の小道具、青銅器・磁器、水晶細工などを、また薩摩藩はコンプラ瓶に入れられた状態で日本から運ばれた焼酎などを出品している。
 ほかに江戸・浅草の商人が数寄屋造りの茶屋をしつらえた。そこで3人の柳橋芸者(おすみ、おかね、おさと)が独楽を回して遊んだり、煙管をふかしたりする。物珍しさから、幕府や西南雄藩による公式展示を凌ぐ人気を集めたという。

【岡倉天心の登場】
 欧州でジャポニズム旺盛の同じころ、ユーラシア大陸の反対側の日本で、一人の<異才>が生まれた。文久2年12月26日(1863年2月14日)、横浜開港場(通称、関内)の日本人町のいちばん外国人居留地に近い本町5丁目(現1丁目)にあった福井藩の石川屋(いま横浜市開港記念会館のある場所)において、越前福井藩士の岡倉覚右衛門(勘右衛門)と妻この夫妻の次男として誕生した岡倉天心、幼名は角蔵、のち大学時代に覚三と改名。天心は通称である。
 横浜開港場(居留地)は、前述の通り、日本大通りを境にして外国人居留地と日本人町とから成っており、それぞれが相手方の店頭を訪れて商売をした。子どもも往来自由で内外入り混じり遊びまわっていた。
 天心の家・石川屋は日本人町のいちばん外国人居留地側にあり、ジャーディン・マセソン商会(<英一番>)は数百メートルの目と鼻の先。棒切れを振りかざして遊ぶなかで、自然に話し言葉としての英語を身に着けたと考えられる。当時の居留外国人の子どもは約100人、イギリス人が最多である(本ブログ2019年7月5日掲載「三溪と天心(その2)所収)。
 この基礎の上に天心は5歳ころから英語を宣教師ジェームス・バラとマーカレット夫人から学び、話し言葉の英語を鍛えると同時に書き言葉としての英語も身に着けたと思われる。漢籍は母の菩提寺の長延寺(浄土真宗)で玄道和尚から学び、10歳で高島学校、11歳で東京外国語学校、12歳で東京開成学校に入学、その2年次に東京大学となった文学部2年に編入、卒業後の17歳で文部官僚となる。現在の常識からは5歳ほども若い。
 千葉信行(講演)「岡倉覚三の遺したもの」(岡倉天心市民研究会第40回講演会)は、天心の生涯を(1)<学びの時代>(0~17歳)、(2)<官僚の時代>(17~35歳)、(3)<私人の時代>(35~50歳)の3期に分け、講演では主に(2)と(3)の時代を主に対象とした(本ブログ2021年9月10日掲載)。このなかで、(2)<官僚の時代>について次のように論じる。
 「前提1 アーネスト・フェノロサ(お雇い外国人、理財学・哲学・政治等)との出会い」をあげ、明治15(1882)年の政府要人を前にした演説でフェノロサが「日本の美術は西洋美術より優れている」と述べたことから、天心が日本の古美術に開眼したとする。
「前提2のA 廃仏毀釈運動の全国展開」ではこれを明治政府の最大の愚策、文化破壊の汚点と考え、仏像破壊と国外流出の嵐が吹き荒れたとする。そのなかで岡倉は23歳の明治19年に宮内省に「美術品保存に意見」を出し、「今日ニシテ其保存ニ着手セサレバ我日本ノ名誉タル東洋美術品ハ数年ヲを出ズシテ散逸滅亡シ悔ユルモ亦及ハザルニ至ルヘシ宮内省ニテ美術品ヲ採集スルコト」を提言する。
 「前提3 欧米はジャポニズム全盛期」では、1867年のパリ万博をきっかけにジャポニズム全盛期に入り、23歳の天心は欧米視察を通じてフェノロサ『美術新説』のとおりと実感、日本絵画に自信を持ったとする。
 そして「官僚・岡倉覚三の急成長」で矢継ぎ早に文部官僚として出した提言の数々を示す。その第一声が19歳で書いた「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」で述べる。「西洋開化ハ利欲ノ開花ナリ。利欲ノ開花ハ道徳ノ心ヲ損ジ風雅ノ情ヲ破リ、人身ヲシテ唯一箇ノ射利器械タラシム。貧者ハマスマス貧シク、富者ハマスマス富ミ、一般ノ幸福ヲ増加スル能ワザルノミ」と。
 次いで「美術ノ奨励ヲ論ズ」、「守旧派ノ排除」、「日本美術ノ滅亡座シテ俟ツヘケンヤ」とつづく。明治19年からは宮内省の奈良古美術調査という実践行動を開始、つづけて宮内省・文部省による関西古美術調査に着手する。
 明治19年9月~明治20年10月の欧米視察を経て、帰国後は図画取調掛(委員にフェノロサ、狩野芳崖、岡倉)から衣替えした東京美術学校を浜尾新校長、天心幹事により日本画だけで発足、翌明治23年、27歳で東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)の校長に就任。
 天心には美術への感性とそれを政策に活かす文化行政の多様性(万国博覧会や農商務省主催の内国絵画共進会等の殖産興業への活用等)を、国際的な視野で俯瞰する力があった(本ブログ2019年7月5日掲載「三溪と天心(その2)所収)。

【天心の欧米視察と<日本画>の誕生】
 天心は、①宮内省の奈良古美術調査=伝統の確認、②ジャポニスム全盛期の欧米視察=世界の潮流の確認、これら2つを通じて日本画教育を先導した。
 天心の「欧州視察日誌」(明治20年)は、横浜出航後半年を経た1886年3月2日のリヨン(フランス)での記述(『岡倉天心全集』第3巻281ページ~)に始まる。正式な報告書は不明であり(上掲の解題による)、わずかに天心の講演「観画会に於て」に一部が見られるのみである。以下、帰国報告の形で<観画会>の主義を定めるべしとして、次のように言う。
 「…美術のことようやく世人の注意を惹起するにいたった今日、…世人の関心は東西両様の美術のうちどれを取るべきかにある。…」と述べ、現状の考え方を①純粋の西洋論者、②純粋の日本論者、③東西併設論者即ち折衷論者、④自然発達論者の4つに分け、それぞれの特徴を示して批判した後、観画会が実践する④に依拠せざるを得ないとし、「自然発達とは東西の区別を問わず美術の大道に基づき、理のある所は取り、美のある所は究め、過去の沿革に拠り現在の情勢に伴って開達するものである。…日本の美術家諸君よ、美術は天地の共有である。東西の区別をすべきではない。…上は皇国の光栄に関し、下は貿易の消長に係り、諸君の責任は重い。泰西理学の結果を軽視せず、勉めて精神を存養し、他日の大成を期していただきたい。自から信じ、疑うことなかれ」と言う。
 天心は採用すべき考えとして「自然発達論」を挙げ、「東西の区別を問わず美術の大道に基づき、理のある所は取り、美のある所は究め、過去の沿革に拠り現在の情勢に伴って開達するもの」とし、狭い国粋主義とは無縁である。これは生涯にわたり変わることがなく、東京美術学校の創設とその後の学生指導の原則であり、新進画家を育てる際の原則でもあった。

【三溪と天心】
 そして三溪と天心のつながりである。拙稿「三溪と天心(その2)」(本ブログ2019年7月5日掲載)で、私は次の仮説を立てて調査を進めていると述べた。すなわち、(1)三溪は5歳年長の天心の思想と東京美術学校校長就任(1890年)や日本美術院の創設(1898年)等の実践活動に敬意を払い、天心の豊富な著作を読みこんでいたのではないか、(2)天心たちの主導で1897(明治30)年に成立した古社寺保存法(こしゃじほぞんほう、法律第49号)を受け、その具体的実践として三溪園へ古建築を移築したのではないか。
 この仮説はいまだ実証の途上にあり、十分とは言えないものの、以下の点から見て、三溪が天心の影響下に、三溪園を造成し古建築の移築を実践したことは確かである。
 (1)三溪は養祖父・原善三郎亡き後の原家を継ぎ(明治32年=1899年)、本牧三之谷(現在の三溪園所在地)に邸宅を建て、1902年に野毛山から移り住んだ。これが現在の鶴翔閣である(戦時下の空襲等で一部が破損、改築した部分もある)。
 (2)その後、三溪は谷戸の地形を活かして古建築を配置し、三溪園全体を大きな庭園とする構想を練り、1906年、外苑を広く開放し、<観覧ご随意>とした。外苑に燈明寺三重塔を移築(大正3=1814年)すると、内苑の建造に着手、三重塔を遠望する位置に、天授院(大正5=1916年移築)、臨春閣(大正6=1917年)、月下殿(大正7=1918年)、聴秋閣(大正11=1922年)等を移築・配置した(本ブログ 2018年3月12日掲載「女性駐日大使ご一行の三溪園案内」参照)。
 (3)庭園造りの集大成を示すのが大正12(1923)年4月21日(土曜)と22日(日曜)の2日間にわたり開かれた大師会茶会である(2018年11月1日掲載「三溪園の大師会茶会」参照)。広大な園内の古建築で18席の茶会を催し、「…場所・建物・庭園三拍子打揃った天下の名園が出来上がり、大師会は無比の好会場を得た…」と称された。
 その模様を記す幻庵「大師会茶会 於横浜郊外三溪園」は次のよう記す。「目を東方に放てば、桃山遺構(臨春閣を指す、加藤注)の前面には洋洋として紺碧の地水を湛え、谷を隔つる磯山には三重の髙塔兀立して三溪全園の中心標的となり、宛然雪舟筆山水図を目前に見るが如きは真に海内無比の勝地たるに背かず、更に此丘上よりダラダラ下りに山径を伝い行けば、泉石の結構布置、悉く園主の苦心惨憺を語りて感興盡る所を知らなかった。…」
 その4ヵ月半後、関東大震災の襲来。以降、三溪は震災復興に全身全霊を注ぐ。三溪園はここで姿を固定する。

【おわりに】
 三溪の活動拠点であり、家族との休息の場でもあった鶴翔閣、ここを会場に「特別公開 フランスと日本文化のConversation-ショーメのサヴォワールフェールと日本の名匠3人との対話」が開催されるのも、何かの縁か。
上掲の3つの作品、<VIDES ET PLEINS 余白の美>CHAUMETx四代田辺竹雲斎、<自然を彫るSCULPTER LA NATURE >CHAUMETx木村正彦、<金属の芸術L’ART DU METAL>CHAUMETx月山貞利、月山貞伸の狙いについては前述したとおりである。
これら日仏合作の逸品を、どこに置くのか。三溪園という広大な庭園にある鶴翔閣の特性をどのように活かすのか、楽しみにしている。

人類最強の敵=新型コロナウィルス(44)

 衆院解散から一夜明けた10月15日(金曜)、与野党は19日公示―31日投開票の総選挙へ事実上の選挙戦に入った。解散から投開票まで戦後で最も短い17日という短期決戦になる。岸田首相(自民党総裁)は公務をこなし、野党幹部は各地へ遊説に出向いて支持を訴えた。

 首相は週末には東北3県の被災地の視察を予定し地方重視の姿勢を打ち出す。公明党の山口那津男代表は15日、都内で企業などを訪問する。立憲民主党の枝野幸男代表は15日午前、北海道に入って旭川市で街頭演説した。共産党の志位和夫委員長は同日午前、党本部で報道機関の取材に対応、立民との小選挙区の候補者調整をほぼ終え289選挙区のうち7割超で候補者を振り分ける。

【電磁鋼板をめぐる知財訴訟】
 15日(金曜)、前稿「人類最強の敵=新型コロナウィルス(43)」で述べた「TSMC社が熊本に半導体新工場」の報道につづいて、日経新聞が「日鉄、トヨタを提訴 中国・宝山も 鋼板特許侵害で」の見出しで次のように報じた。
「電気自動車(EV)など電動車のモーターに使う電磁鋼板に関し、日本製鉄が自社の特許権を侵害したとしてトヨタ自動車と中国の宝山鋼鉄を提訴した。同鋼板は電動車の基幹部品で、脱炭素が進むとともに知的財産保護が課題となっていた。大口ユーザーもまとめて訴えることで宝山製の電磁鋼板の流通をけん制する狙いがある。知財の重みが増す中で訴訟も新しい段階に入った。
 訴訟対象になった「無方向性電磁鋼板」は、EVやハイブリッド車(HV)に載せるモーターの部品。EVにはエネルギー効率に優れ、長い航続距離を走行できるモーターが求められる。モーターのエネルギー損失を抑えられ高回転にもつながる電磁鋼板は日鉄にとって「虎の子」素材である。
 英LMCオートモーティブによると、世界のEV市場は2030年に2891万台と、2020年の13倍に広がる。需要の伸びを見込み、日鉄は電磁鋼板の増産に総額1千億円以上を投資する計画である。
 一方、トヨタは近年「電動車の普及が進んでおり調達先を多様化する」(幹部)として宝山からも電磁鋼板を仕入れ始めていた。日鉄は「特許侵害を看過できない」と判断し、宝山の電磁鋼板を使って電動車を製造・販売するトヨタも同様に訴える展開となった。」
いささか分かりにくいので、同紙が伝える続報を引用する。特許に詳しい牧野和夫弁護士は「侵害技術が組み込まれた製品を使用したり販売したりする場合も特許侵害に該当する」と話す。トヨタは「調達時に侵害がないことは確認済み」としているが、日鉄は「認識にかかわらず特許侵害品を使うのは違法だ」との立場だ。…自動車向けの鋼材需要は国内需要全体の約3割を占める。日鉄にとってトヨタは最大の顧客でもある。日鉄は提訴に先立ちトヨタと交渉を重ねたが不調に終わったという。玉井克哉・東大教授は「宝山だけを訴えて勝訴しても中国などでの製造を止めるのは簡単ではない。トヨタという大口販売先も訴えることで実効性の高い解決を目指したのではないか」とみる。
 なお翌15日の同紙は「日鉄vs宝山・トヨタ、異例の提訴に中韓への技術流出の影」の見出しで次のように続報した。
「相手が顧客企業であれば紛争を避けて取引を続けることが優先されるし、競合企業との間にも知財の利用を相互に認める<クロスライセンス契約>がある。紛争になってしまうと互いに製品が作れなくなる恐れがあったからである。
 今回、日鉄はそんな<常識>を飛び越え、競合会社の宝山鋼鉄どころか最大顧客のひとつであるトヨタと事を構えた。要因のひとつは、電磁鋼板が電動車のモーターに使われる脱炭素時代のキーテクノロジーのひとつだからだ。今後、世界中で膨大な需要が広がる上、半導体などと並ぶ経済安全保障技術とも見込まれる。電磁鋼板は特殊な製造工程を経るため、つくるのが難しく、品質の安定を維持するには独自の技術やノウハウが要る。日鉄からみれば、簡単につくれるはずのない製品である」と。
【経済安保と6つのバイアス】
 15日の日経新聞(有料会員限定)に「TSMC誘致にみる台湾問題 6つのバイアスを乗り越えよ」(本社コメンテーター 中山淳史)は、次のように述べる。
 「熊本県に新工場を共同で建設する半導体受託製造の世界最大手、台湾積体電路製造(TSMC)とソニーグループ。プロジェクトは<日本の半導体産業再興>という文脈で語られることが多いが、米国の意向も働いた台湾からの<供給網の一部避難>という見方があるのも、確かだ。
 <今そこにある危機>は、いつまで続くか。中国は台湾の防空識別圏に繰り返し侵入し、習近平国家主席は<台湾統一>に先週も言及した。米中間には歩み寄りの兆しもあるが、<台湾有事>の懸念に困惑する日本企業は半導体産業に限らず、多いのではないか。
 偶発的なことを含めて、中国が台湾などと衝突する可能性はあるのか。どの程度想定しているかを日本の経営者に聞くと、有事は心配だが、本格的な備えはまだ、といったところだろう。なかには「中台の経済、人的なつながりは深く、中国側も打撃が大きい。有事の可能性は限りなく小さいと思う」との声もあった。
 もちろん過剰に反応するのは良くない。一方で、何も起きないと最初から考えるのも適切ではないだろう。比較するのがふさわしいかは分からないが、20年前の米同時テロ事件を思い出してみよう。正確に予測し、きちんと対処できた企業、人はほとんどいなかった。
 米経済学者ロバート・マイヤー氏(保険学)らが書いた<ダチョウのパラドックス>にその経緯が詳しい。人間には6つ、具体的には近視眼的思考癖、忘却癖、楽観癖、惰性癖、単純化癖、同調癖という厄介な<バイアス>があるという。バイアスとは先入観や思い込みのこと。例えば、テロの標的となったニューヨークの世界貿易センタービル(WTC)の実質オーナー、シルバー・スタイン氏の場合は楽観癖のケースに相当し、<テロなど起きるはずがない>と高をくくってしまったのが、取り返しのつかない損失の原因になった。」
【日本の年収 30年横ばい】
 16日(土曜)の日経新聞は特集「データが問う 衆院選の争点」の1つとして1面トップに「日本の年収 30年横ばい 米は1.5倍に 新政権、分配へまず成長を」掲げ、次のように述べた。
 「衆院選(31日投開票)に向けた論戦が本格的に始まった。経済政策での重要な論点は成長と格差是正のどちらに軸足を置くかだ。与野党は生まれた富をいかに「分配」するかを公約で競うが、日本の平均年収は横ばいが続く。格差よりも、まずは低成長を抜け出し、分配のためのパイを拡大するほうが優先度が高い。」
【総選挙の予測の一つ】
 18日(月曜)の日刊スポーツ紙は「自民30議席減「勝利」か、目標「与党過半数」上回るも…/角谷浩一氏の目」において次のように述べた。「野党は4年間かけて野党共闘を推進してきた。ここまでたどり着いたことを成果とみるか、道半ばと見るかは有権者が審判することだが、最終的には自民党は30議席前後を減らすことになるだろうが与党で過半数を掲げる自民・公明両党の議席は過半数を上回る。一方、立憲民主党も現有戦力を大きく躍進させる。両党ともに勝利したように見えるが、本当の結果は来年夏の参院選で決着するといえよう。
 他に「サンデー毎日」10月24日号(三浦雅史予測)、「週刊文春」10月21日号(久保田正志予測、「週刊ポスト」10月29日号(野上忠興予測)、「日本農業新聞」10月14日付(小林吉弥予測)等があるが、衆議院の定数は、小選挙区289、比例区176の計465。過半数は233で、自公合わせてこれを割り、政権が揺らぐという予測は今のところ皆無である。
 自民党の獲得議席をいちばん多く見るのが三浦氏で自民257、公明の32と合わせて289。少なく見ているのは小林氏で、231と自民党で単独過半数を割るも公明の28があるので計259になり政権維持という見立てである。
【ワクチン接種の誤登録】
 18日(月曜)晩の朝日新聞デジタルは、「ワクチン打ったけど記録がない? 国の管理システム、一部を誤登録」の見出しで次のように報じた。
 新型コロナワクチンの接種状況を一元管理するために国が導入した「ワクチン接種記録システム」(VRS)で、個人の接種記録の一部に誤りがあることがデジタル庁などへの取材で分かった。政府が配布したタブレット端末のカメラで接種券に印刷された18桁の数字を読み取る作業があるが、その際に数字の5を3に誤読したり、3を8に誤読したりする例があるという。 また、接種会場で手入力している接種日やワクチンメーカーについても日付を間違えたり、モデルナとファイザーを間違えたりする人為的なミスもある。職域接種や大規模接種の会場で入力されたデータに誤りが目立つという見方もある。
 デジ庁は、すでにデータの修正を進めている自治体の傾向などをもとに誤データの量を全体の0・07%ほどと推測しているが、自治体によっては全体の1%を超えるという。10月17日時点では、2回のワクチン接種を終えた人だけでも約7800万人おり、ミスが仮に1%だとすると誤登録は数十万人単位にのぼることになる。デジ庁によると、誤データの修正作業は自治体側の業務だ。東北地方の自治体の担当者は「少なくとも1%は誤りがある。全国的にエラーデータは1~2%はあるのでは」と話す。
 デジ庁は年内にもVRSのデータをもとにワクチン接種証明を発行することを計画している。また政府が準備を進める3回目のワクチン接種に向けても、過去の接種記録を参照しなければならず、VRSのデータには正確さが不可欠である。

【パウエル元米国務長官が死去】
 19日(火曜)の日経新聞によると、18日、米共和党の重鎮だったコリン・パウエル元国務長官が死去した。84歳。パウエル氏はブッシュ(第41代)政権で米軍制服組トップの統合参謀本部議長に就き、ブッシュ(第43代)政権で黒人初の米国務長官を務めた。家族がSNS(交流サイト)の公式アカウントで明らかにした。死因は新型コロナウイルスの感染による合併症だった。氏は2月に2度目のファイザー製ワクチンの接種を受けていたが、骨髄腫の治療を受けて免疫機能が低下していたという。
 パウエル氏はジャマイカ系移民の子としてニューヨークのハーレムに生まれた。大学卒業後に米陸軍に入隊しベトナム戦争に従軍した経験がある。かつて共和・民主両党で大統領候補と目されたパウエル氏は外交政策では<現実派>とされ、国内問題では<リベラル派>とみられていた。また現役時代から自信に満ち溢れたロジカル、明瞭な発言、説明を得意としたと言われる。
 レーガン政権下の1987年に大統領補佐官(国家安全保障担当)に就いた。89年には統合参謀本部議長に就任し、90年のイラクによるクウェート侵攻を受けて91年に始まった湾岸戦争で集中的な空爆でイラクの防空施設などを破壊する「砂漠の嵐作戦」を指揮した。湾岸戦争を短期間で終わらせた功績により全米で名前を知られるようになった。
 パウエル氏は2003年にイラク戦争が始まった際の国務長官だった。同年2月に米政府代表として国連安保理で演説し、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有していると非難した。これを大義名分として同盟関係にあるフランスやドイツの反対にもかかわらず、イラク戦争に踏み切った。その後、大量破壊兵器は発見されなかった。米政府の情報を踏まえ、同盟国の日本はイラク復興のために自衛隊を派遣した。国務長官を退任後、パウエル氏は米メディアに自らの国連演説について「(人生の)汚点となるだろう」と語った。欺かれたと知った時の心境を「ひどいものだった」と振り返った。
 国際協調派とされ、国務長官時代は外交・安保チームの強硬派とされた新保守主義派(ネオコン)のチェイニー副大統領、ラムズフェルド国防長官(いずれも当時)らと対立した。なおブッシュ政権(第43代)とフォード政権で国防長官を2回務めたドナルド・ラムズフェルド氏も死去と家族が6月30日に発表、享年88。

【現在のアメリカ】
 現在のアメリカ政治はどうか。2度目のワシントン赴任となった朝日新聞の望月洋嗣総局長が、9.11の現場の一つ、ペンシルベニア州シャンクスビル郊外、ユナイテッド航空93便が墜落して大破した現場(44人が死亡)で今年も開かれた追悼式典を訪ねたことを23日付の<WORLD INSIGHT>「米国の最大の脅威は米国 退く大国、9.11後の<結束>はどこに」で次のように書いている。
  「…ワシントンから車で3時間のシャンクスビル郊外に足を運んだのは、ブッシュ元大統領が登壇し、スピーチをすると聞いたからだ。ブッシュ氏は、21世紀の最初の年に起きた歴史的なテロを受けて、アフガニスタンとイラクでの「二つの戦争」を始めた。あれから20年、国力が相対的に低下し、政治的な分断に苦しむ米国について、なにを語るのか。ぜひとも、その場で聞きたかった。
 …ブッシュ氏がそのあとに続けた一節に、私は驚いた。「外国の過激主義者と、米国の過激主義者との間で文化的に重なる部分はほとんどない。しかし、多元主義への軽蔑や人々の命の軽視、国の象徴を汚すという決意において、彼らは同じ汚れた精神から生まれた子どもたちなのだ」。…ブッシュ氏の言う「外国の過激主義者」とは、同時多発テロを実行した国際テロ組織アルカイダや過激派組織「イスラム国」(IS)などを意味している。ブッシュ氏、その後のオバマ元大統領が米国の宿敵と見なし、壊滅を目指した組織だ。ブッシュ氏は、米国民である国内の過激主義者について、国際テロ組織やイスラム過激派と同類である、と言い切ったのだ。

 …トランプ前大統領の支持者のうち過激な勢力は、昨年の大統領選でのトランプ氏敗北を認めず、「選挙が盗まれた」と訴えて米議会議事堂襲撃を引き起こした。それを踏まえても、トランプ氏と同じ共和党のブッシュ氏が、トランプ支持の過激派を念頭に、これほど強い表現を使うとは。
 …ブッシュ氏はさらに「結束という点で、現在の米国はかつてとは違っている」と述べ、国籍や人種、宗教の違いを超え、最後に一致団結することが米国の良さだったと指摘。「それこそが私の知る米国だ」というフレーズを繰り返し、スピーチを終えた。

 …<結束>や<団結>の大切さは、セレモニーの前夜に発表されたバイデン大統領の国民向けビデオ演説でも、中心的なメッセージだった。式典終了後、シャンクスビル郊外の墜落現場に追悼に訪れたバイデン氏は「ブッシュ氏は本当によい話をした。米国民とはどんな人々かについての実によいスピーチだった」と絶賛した。
 …ブッシュ、バイデン両氏の頭にあるのは、米国の政治が分極化し、米国社会が直面している困難な課題の解決に、党派を超えて一致団結することができなくなっていることへの強い危機感であろう。民主党と共和党の対立は年々深まり、かつてなら超党派で通されたはずの重要法案も、米議会でなかなか可決されない。
 …しかも、民主、共和両党は、党内にそれぞれ深刻な路線対立を抱えている。バイデン氏の民主党では、リベラルな左派と中道派との対立がしばしば問題になる。共和党では、トランプ支持の政治家たちが「トランプ党」と言える主流派をつくっている。トランプ氏の敗北をいまだに認めず、米議会襲撃事件の調査にも協力しない姿勢だ。ブッシュ氏をはじめ、かつての共和党で主流派だった中道的な政治家は、共和党の中で居場所を失いつつある。
 …ニューヨーク・タイムズ氏のニコラス・クリストフ氏は、初夏に発表したコラムで、各種の国際指標を引用し米国の後退ぶりを指摘した。国際競争力は世界銀行の調査で、174カ国中35位。別の調査では64カ国中10位だったという。「米国の未来にとって最大の脅威は、台頭する中国でも悪漢のロシアでもない。米国の劣化なのだ」「米国の最大の脅威は米国だ」とクリストフ氏は警鐘を鳴らす。」
【北朝鮮の弾道ミサイル発射】
 19日(火曜)、韓国軍合同参謀本部は北朝鮮が午前10時17分ごろ、東部の新浦(シンポ)付近から日本海に向けて弾道ミサイル1発を発射したと発表した。聯合ニュースによると、飛距離は450キロメートルだった。新浦は潜水艦を建造する造船所のある場所で、韓国軍は「潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)と推定される」との見解を示した。
 北朝鮮は2016年6月22日の参院選の公示日にも弾道ミサイルを発射している。今回も衆院選の公示日に発射。自民党総裁選が告示される2日前の9月15日も弾道ミサイル2発を発射、日本の排他的経済水域(EEZ)内に落下した。
 さらに今年9月11、12両日には長距離巡航ミサイル、15日は変則的な軌道が特性の短距離弾道弾を列車につなげた発射台から撃った。28日には音速の5倍以上の速さで飛ぶ「極超音速ミサイル」の発射実験をしたと主張している。30日には対空ミサイルの発射実験も実施している。
【松坂大輔投手の引退試合】
 19日、西武・松坂大輔投手(41)が引退試合に登板、23年にわたるプロ野球選手生活に幕を下ろした。松坂は横浜高校の投手として1998年春・夏の甲子園で優勝、第1次西武時代は<平成の怪物>と呼ばれ、2度のパ・リーグ優勝、1度の日本シリーズ優勝に貢献した。松坂大輔と同学年の選手には、投手を中心にプロで活躍する逸材が揃っており、総称して<松坂世代>と呼ばれている。
 2006年にボストン・レッドソックスへ移籍し、1度のワールドシリーズ優勝、2度のワールド・ベースボール・クラシック (WBC) 優勝を経験している。2014年、大型契約で福岡ソフトバンクホークスへ移籍するも右肩のケガで調子が出ず、2017年に中日へ移籍、2019年ふたたび西武へ移籍した。
 私の印象は横浜高校時代の甲子園での彼の活躍にクギ付けされたままである。1998年の第70回春センバツでは完成度の高い投球とチームメイトの活躍で他校を寄せ付けず優勝。夏の大会では、準々決勝でPL学園高校に延長17回という長丁場の試合に250球を投げ完投勝利。翌日の準決勝、寺本四郎擁する明徳義塾戦でも1イニングに登板し、逆転劇を呼び込む。決勝の京都成章戦では59年ぶり史上2人目となる決勝戦でのノーヒットノーランを達成、圧倒的な活躍で春・夏連覇を達成した。
 この時の横浜市長は高秀秀信さん(1929年生まれ)、1990年以来の3期目(1998年~2002年)に就任した高秀さんの粋な計らいで、地元の横浜高校野球部のメンバーを横浜市役所に招いて祝福、その場に私も居合わせた。この1998年は私が横浜市立大学の学長に就任した年でもあり、市役所1階の熱気を鮮明に覚えている。高秀さんが若くして去り(2002年8月没、享年73)、松坂さんが23年にわたるプロ野球の選手生活を終えた。一抹の寂しさが募る。
【公示後の党首の第一声】
 19日(火曜)、衆議院選挙の立候補者届け出があった。定数465議席に対して立候補者は合計1051人、内訳は小選挙区857人、比例代表817人(うち重複立候補者623人)である。合計を党派別で見ると、自民336人、立民240人、公明53人、共産139人、維新96人、国民27人、れいわ21人、社民15人、N党30人、諸派23人、無所属80人となる。1996年に始まった<小選挙区比例代表並立制>で、小選挙区では個人名を、比例代表では党派名を書いて投票する。
 20日(水曜)の日経新聞朝刊は、公示後の<第一声>で用いた言葉を分析すると、政治姿勢や重点政策の違いが浮かぶとして、以下のように報じた。
 岸田首相は東日本大震災の被災地、福島市で公示後の初演説を実施した。前回の2017年衆院選で当時の安倍晋三首相も第一声の場所に選んだ同市で<復興>を唱えた。首相の演説で際立ったのが<治療薬>だった。新型コロナウイルスの感染拡大による<第6波>に備えるため、新型コロナの飲み薬を年内に開発・普及させると提起した。
 「最悪の事態にもしっかり備える」と述べ、先手で対策に取り組む姿勢を強調した。「できるだけ平時に近い社会経済活動を取り戻す」と語り、事業者向けの支援などを盛った経済対策を策定すると主張した。経済政策で意識したのは<成長>である。首相は所信表明演説などで成長より分配に力を入れていると指摘を受けた。今回は<成長>が<分配>の2倍以上登場した。
 経済成長を巡り「地方こそ大きな可能性、潜在力がある」と話した。医療や交通などの分野でデジタル化を進める<デジタル田園都市国家構想>や農産物の輸出促進にふれた。
 立民の枝野氏は松江市で街頭に立ち、新型コロナ対策に重点を置いた。特色は<司令塔>である。東日本大震災のとき官房長官を務めた経験と教訓から<直ちに首相と官房長官を中心とした強い司令塔をつくる>と説いた。
 経済政策は<賃金>が目立った。安倍政権の経済政策<アベノミクス>を批判したうえで、所得再分配を強化し、賃金を引き上げると提案した。<一億総中流社会>を取り戻すと呼びかけた。
 公明党の山口那津男代表は<連立政権>や<政権選択>を口にした。首相が好む<聞く力>を用いて、自民党と協調しながら安定政権を築く方針を示した。公明の目玉政策に絡めて<現金給付>を取り上げた。
 共産党の志位和夫委員長の演説を分析すると、批判する<岸田>の名が多い。批准を目指す<核兵器禁止条約>や<ジェンダー>なども出てきた。
 日本維新の会の松井一郎代表は<改革>の発信が強い。「分配をしようと思えば、まず最初に改革をやる」と言明した。

【外国人の来日足止め37万人】
 22日(金曜)の日経新聞は、「外国人、来日足止め37万人 入国制限緩和の遅れ際立つ」の見出しで次のように報じた。
「出入国在留管理庁から在留資格の事前認定を受けながら、新型コロナウイルス対策の水際対策で来日できていない外国人が10月1日時点で約37万人に上ることが分かった。7割が技能実習生や留学生だ。海外では経済再開を見据えて入国制限を緩和する動きが相次ぐ。原則としてすべての国からの入国を拒否する「閉じた日本」の鈍さが際立っている。
 外国人が3カ月を超えて日本に滞在する場合、「技能実習」や「留学」といった在留資格を事前申請するのが一般的だ。入管庁関係者によると、2020年1月以降に57万8千人に認定証明書を交付したが、うち37万1千人が来日できていない。
 政府は21年1月に海外での変異ウイルス流行などを受けて入国制限を強化した。いったん入国したことがある人や、日本人の配偶者がいるなど「特段の事情」がある外国人に来日を限っている。この場合も入国時の検査や一定期間の待機が条件となる。
厚生労働省では条件緩和を検討する動きが一部にあるものの、外国人の新規入国には「変異型などによる感染再拡大につながりかねない」と慎重な姿勢をとる。自民党にも「水際対策が不十分だったから国内で感染が拡大した」との理由から緩和に反対する考えがある。厚労省などが自民党の反対派と積極的に調整する動きもみえない。
 政府は31日投開票の衆院選を受けて水際対策を段階的に緩和する方針だ。行動範囲を限定できる短期出張者向けが優先課題の一つになる。接種証明や陰性証明を求めるなど、安全性に配慮した上で入国を認めていくことが必要になる。
 大手居酒屋チェーン幹部は3割前後いた外国人従業員がほぼゼロになったと明かす。「経済が回復したとき、外国人労働力の奪い合いになる可能性がある」と警戒する。
 留学生もコロナ前は年約12万人が入国していたが、20年以降に事前認定された19万9千人のうち14万7千人が未入国だ。19年末に34万5千人いた国内の留学生は21年6月末に22万7千人と34%減った。日本語教育機関関係6団体が7月に実施したアンケートで、184校のうち95校が「このまま入国制限が続くと1年以内に事業継続が不可能になる」と答えた。
 一方、主要国は制限緩和に動く。米国は入国を原則禁止していた33カ国からの渡航者について、11月8日からはワクチン接種証明と陰性証明があれば入国を認め、隔離も不要とする。シンガポールは10月19日以降、欧米8カ国からのワクチン接種済みの入国者の隔離を免除。タイは11月1日から米国や中国など少なくとも10カ国からの入国者を隔離なしで受け入れる。」
【コロナ感染者の減少と制限措置の解除】
 21日(木曜)、東京都は飲食店への営業時間の短縮要請を25日から解除すると決めた。新型コロナウイルスの感染防止対策を徹底している認証店は酒類提供時間の制限もなくす。ただ、非認証店には酒類提供を午後9時までとするよう求める。同日から11月30日を「基本的対策徹底期間」とし、取り組みや感染状況を見ながら年末年始の対応を検討する。
 新型コロナウイルス感染<第6波>への警戒から足元は客足の回復が鈍く、通常営業への復帰を見送る外食企業が相次いでいる。業績を支えてきた時短協力金は制限解除により自治体から得られなくなる。外食企業の苦境は続く恐れがある。
 大阪府も同日、新型コロナウイルス対策本部会議を開き、飲食店などへの営業時間短縮要請を25日から解除することを決めた。ワクチンの普及などで府内の感染状況が改善して病床使用率が低下したことを踏まえ、31日の期限を前倒しして解除、「1テーブル4人まで」などの人数制限は11月30日まで継続する。
 10月25日以降、営業時間や酒類提供の制限はなくなる。認証店では5人以上のグループでの来店も認める一方、大人数で固まらないように「1テーブル4人まで」と制限を残した。非認証店も酒類提供を認めるが、来店は1グループ4人までとする。いずれの店舗に対しても、会食の時間は2時間程度以内とする。
 22日(金曜)、東京都は都内で新たに26人が新型コロナウイルスに感染していることを確認したと発表、今月18日の29人を下回り、ことし最も少なくなった。50人を下回るのは6日連続である。
 同じ22日公表の国内ワクチン接種率(全人口に占める割合)は、1回目完了者が76.1%、2回目68.6%となった。これを先行接種した65歳以上に限ると、それぞれ91.3%と90.3%となる。これが新規感染者の急減の最大要因とされる。「免疫を持つ人々の割合が一定の値に達すると、<集団免疫>により病気が徐々に集団から排除されるようになる」とされる。これは小児麻痺や天然痘等から得られた経験値であり、すべての感染症に関する理論値ではない。だが、<免疫を持つ人々の割合が一定の値>とは<総人口の6割以上>とも言われている。

【2つの参議院補選】
 24日(日曜)投開票の参議院補欠選挙が静岡と山口で行われた。山口は衆院選にくら替え出馬した自民の林芳正氏の辞職に伴うもの。自民前職の北村経夫氏が参院比例代表から転出して臨み、3回目の当選を決めた。
 静岡は6月の静岡県知事選に立候補した自民の岩井茂樹氏の辞職に伴う補選で、野党系の無所属新人で前静岡県議の山崎真之輔氏が当選した。自民は前御殿場市長の若林洋平氏を公認し、公明党が推薦。野党は共産党が新人の鈴木千佳氏を擁立して2陣営に割れたが、静岡県の川勝平太知事の全面支援を受けた山崎氏が接戦を制した。
 自民党は2勝で勢いをつける狙いが外れ、衆院選への影響回避に向けて各陣営を引き締める。一方、野党の立憲民主党と国民民主党は衆院選へ弾みをつける。25日の日経新聞によれば、国民民主党の玉木雄一郎代表は静岡での勝因を「無党派の支持を多数得たこと」と言及した。
 コロナ禍の国政選挙として各選挙委員会の工夫も加わり、若者の投票行動が高まり、期日前投票も増え、投票率が向上する可能性が高い。これがどう全体に影響するか、予断を許さない。

【4都府県で時短要請を解除】
 25日(月曜)、東京、埼玉、千葉、大阪の4都府県で時短要請が解除された。去る9月28日、19都道府県に発令中の緊急事態宣言と8県への「まん延防止等重点措置」を30日の期限で全面解除すると決定した上で、宣言解除後も10月24日までは段階的に緩和する方針で、酒を提供する飲食店の営業時間などで一定の制限を要請した。この時短要請も解除された10月25日、都内の新規感染者は17人と今年最少を更新、昨年末から11ヵ月ぶりである。
 各地の飲食店の賑わいが報じられた。これから年末年始に向かうなかで、この賑わいがつづくか不安の声も少なくない。飲食店の営業主は休業中に解雇したスタッフが戻らず、人出不足で予約に応じられないと悲鳴を上げる。また昔の客が戻ってくるか不安を抱える店主たちの声も聞かれる。テレワークの普及により客の行動様式が変わる可能性があり、従来型の忘年会・新年会を見送る予定の会社が7割にのぼるとの調査も出ている。

【生活困窮者の急増】
 その背景の一つに、生活困窮者の急増という深刻な問題がある。生活基本要素の<衣食住>のうち、<住>を示す指標、すなわち<住居確保支給金>の申請件数が急増して、今年度には約78万軒にのぼり、前年度の50倍に達している。
 <住居確保支給金>とは、厚労省ホームページに「新型コロナウイルス感染症の影響で収入が減少し生活の困窮する方へ」と題して次のようにある。
 「主たる生計維持者が離職・廃業後2年以内である場合、もしくは個人の責任・都合によらず給与等を得る機会が、離職・廃業と同程度まで減少している場合において、一定の要件を満たした場合、市区町村ごとに定める額(=生活保護制度の住宅扶助額)を上限に実際の家賃額を原則3か月間(延長は2回まで最大9か月間)支給します。
 支給された給付金は賃貸住宅の賃貸人や不動産媒介事業者等へ、自治体から直接支払われます。」
なお現在は「3か月間の再支給の申請期間が令和3年11月末日まで延長となりました。申請やお問合せ先は、お住まいの自治体の自立相談支援機関です。」との補足がついている。今年の11月末までの延長である。
 すこし古いデータが『全国賃貸住宅新聞』2021年5月26日号にあり、申請・支給件数は昨2020年5月、6月に急増、20年4月から21年3月までの累計は、申請件数15万2923件、支給件数13万4976件である。21年の3ヵ月増加しているとあるが、本年10月25日現在、直近の統計は見あたらない。

【眞子さんと小室圭さんの結婚】
 26日(火曜)の朝日新聞デジタルによれば、秋篠宮家の長女眞子さま(30)と小室圭さん(30)の婚姻届が26日、宮内庁職員によって都内の役所に提出され、受理された。皇室典範の規定により、眞子さまは皇族の地位を離れ、30年間過ごした皇室を離れ、民間人の「小室眞子さん」となった。
 松野博一 官房長官は「眞子さまにおかれましては、これまで内親王として誠心誠意おつとめを果たしてこられたものと思います。眞子さまの末永いご多幸と、皇室の一層のご繁栄を心からお祈りを申し上げたい」と祝意を述べた。
 同日午後から、都内のホテルで小室さんとともに記者会見に臨み、眞子さんは「一部の方は、ご存じのように、婚約に関する報道が出て以降、圭さんが独断で動いたことはありませんでした」と述べ、圭さんの母親と元婚約者との金銭トラブルへの対応については「私がお願いした方向で進めていただきました」と述べた。また圭さんの留学については、「圭さんが将来計画していた留学を前倒しして、海外に拠点を作ってほしいと私がお願いしました」と話した。留学について、眞子さんは援助をしていないことを明らかにした上で「圭さんが厳しい状況の中、努力してくれたことをありがたく思っています」と語った(読売新聞)。
 圭さんは次のように述べた。「私は眞子さんを愛しております。一度きりの人生を愛する人とともに過ごしたいと思っています。これまで幸せな時もそうでない時も、さまざまな気持ちを2人で分かち合い、励まし合ってきました。このたびの結婚に関してご迷惑をおかけしてしまった方には大変申し訳なく思っております。いろいろなことがありましたが、眞子さんと一緒に、人生を歩みたいという思いを持ち続けられたのは、眞子さんと、これまで周りで私たちを支えてくださった方々のおかげです。心から感謝申し上げます」と話した(読売新聞)。
 この日までの動きを追っておきたい。圭さんは9月27日(月曜)午後、アメリカから帰国した。日本の地を踏むのは2018年8月に渡米して以来、3年2か月ぶりである。成田空港は多数の報道関係者が集まっており、ピリピリムード。「白マスクに、濃紺のスーツ、ストライプの入ったシャツ、ノーネクタイといういで立ちで、髪の毛は後ろに縛っていた」(AERAdot.)。2週間の待機期間を経て、報道は激しくなった。
 10月17日(日曜)、眞子さまは皇族として最後となる宮中祭祀に参列された。翌18日、圭さんは秋篠宮ご夫妻にあいさつするため、赤坂御用地(東京都港区)を訪問、3年2か月ぶりに眞子さまと再会した。なお宮中祭祀とは、国家行政機関の宮内庁とは別の内廷の組織として、掌典長の統括の下に、毎朝午前8時から、賢所及び皇霊殿では内掌典、神殿では掌典が清酒や神饌などを供える「日供の儀」(にっくのぎ)をそれぞれ行う。
 ここで眞子さんの歩みを振り返っておきたい(10月23日づけ毎日新聞等による)。秋篠宮さまと紀子さまの長女として1991年10月23日に誕生、次女佳子さまと長男悠仁さまとともに赤坂御用地(東京都港区)で育ち、幼稚園から高校まで学習院に通い、2010年4月に皇族として初めて国際基督教大(ICU)に進学、教養学部アーツ・サイエンス学科で学び、部活はスキー部に所属した。
2012年のイギリス留学前に、ICUであった説明会で眞子さんは圭さんと出会い交際に発展、翌2013年には圭さんからプロポーズを受けていた。…交際を続けていた圭さんとの婚約内定が発表されたのは2017年9月。小室家の金銭トラブルを巡る週刊誌報道が相次ぎ、2018年2月には結婚延期が決まったが、眞子さんの結婚の意思が変わることはなかった。…2020年初めごろには、天皇陛下に助言する宮内庁参与らを順番に宮邸に招き、個別に面会。結婚に対する意見を求めた。その際、眞子さんは自身の結婚への強い決意を示すとともに、結婚の儀式を行わないことや、皇籍離脱時に支給される一時金を受け取らない案を提示したという。
眞子さんの公務はICU卒業後から本格化した。中学時代からテニスに親しんでいた眞子さんは、15年に秋篠宮さまから引き継ぐ形で公益財団法人「日本テニス協会」の名誉総裁に就任。また16年には、桂宮さまが14年に亡くなってから不在だった公益社団法人「本工芸会」の総裁にも就任、また国民体育大会の競技観戦をはじめ単独での泊まりがけ公務だけでも2013~19年に13回(11県)あった。
 眞子さんは海外にも多く足を運ばれた。初の単独公式訪問は2015年、中米のエルサルバドルとホンジュラスを訪れ、滞在中は日本と両国との外交関係樹立80周年を記念する行事に出席し、大統領を表敬訪問した。の後もパラグアイやブラジルを訪れて日系人と懇談を重ねるなど国際親善に貢献。2019年にはペルー、ボリビアを訪れた。これまで、海外公式訪問は5回7カ国。側近によると、いずれの訪問も事前に専門家から話を聞き、書籍を読み、時間をかけて現地の式典でのあいさつの言葉を考えるという。訪問先では各国の要人や日系人ら、さまざまな人と交流してきた。
 圭さんは、米ニューヨーク州の弁護士会が主催したビジネス法部門の学生論文コンペで優勝した。弁護士会のウェブサイトによると、論文のタイトルは「ウェブ接続におけるコンプライアンス問題と起業家への関わり」。コンペの審査基準はジャーナルとの関連性、トピックの適時性、独創性、研究と執筆の質、明快さと簡潔さなどと説明されている。賞金は2000ドル(約23万円)。

【首相、COP26に参加表明】
 26日の時事通信によれば、岸田首相は今月末に英北部グラスゴーで開幕する国連気候変動枠組み条約第26回締約国会議(COP26)に出席する意向を表明した。首相官邸で有識者から気候変動対策推進のための報告書を受け取った際、「温暖化対策を経済の発展や豊かな暮らしにつなげていく考え方は大変重要だ。COP26に出席し、議論に貢献していきたい」と述べた。
 COP26出席は岸田氏の首相就任後初めての外遊となる。衆院選後の11月1~2日に開かれる首脳会合の一部に参加する予定で、各国首脳との個別会談も調整している。気候変動対策で国際的な議論の主導権を握る狙いがある。
【新型コロナの<4か月間隔>説】
 知人の齊藤 淳一さんが多数の知人宛てに長い文章を送信した。そのなかに「2020年4月中旬の小さな山が第1波、その後、2波、3波、4波、そして今年8~9月の一番高い山が第5波です」として、次のようにつづける。
「山の高さではなく、山がピークに達した時期をよく見てください。ほぼ綺麗に等間隔ですね。およそ4か月間隔です。他国の感染者数推移をみても、山の高さ(新規感染者数)やその時期は異なっても、だいたい同じ約4か月間隔です。
 感染拡大と減少の波には、感染症の病原体(ウイルスや細菌)毎に特徴的な間隔がみられることが知られています。どうやら<4か月間隔>というのが、新型コロナウイルスの特徴のようです。しかも、各ピーク期に主流となった変異株の種類もすべて異なります。
この波のタイミングが問題です。日本では、
ピーク期: 12~1月、4~5月、8~9月
減少期:   2~3月、6~7月、10~11月
と、日本の生活習慣や季節毎のイベントや年中行事、ビジネスなどにとって、一番人々が動く時期にピークが重なってしまっています。」と述べている。
 いまが減少期の10~11月であり、<4か月間隔>説によれば、次のピーク期(第6波)は12月~来年1月に来るということになるが、過去における<4か月間隔>説が将来も繰り返すか否か、これはなんとも言えない。しかし今後の対策を考えるとき一考に値する見解である。

【投票所の改善】
 総務省は26日、衆院選(31日投開票)で、商業施設など利便性の高い場所で投票できる<共通投票所>が、2017年の前回選の約7倍となる48か所(11道県の17自治体)で過去最多になったと発表した(27日の読売新聞)。投票所は、前回選よりも1275か所減少し、4万6466か所となる。<共通投票所>は、投票率向上のため、ショッピングセンターや公共施設に設けられ、同じ自治体の有権者であれば投票が可能で、国政選では16年参院選から導入された。二重投票を防ぐためのシステム導入で経費はかかるが、投票所を共通投票所に集約することで人件費の削減ができる。投票所は過疎化などで減少の一途をたどっており、ピークだった00年衆院選の5万3434か所から13%減った。前回と比較すると45都道府県で減り、減少数が最も大きかった秋田県では109か所減少した。
 一方、期日前投票所の設置数は5940か所で、前回衆院選よりも556か所増加し、過去最多となった。総務省は、新型コロナウイルス対策の一環で分散投票を呼び掛け、自治体に積極的な設置を求めていた。
 茨城県稲敷市江戸崎甲の県立江戸崎総合高校で25日、衆院選の臨時期日前投票所が校内に開設され、選挙権を持つ3年生が一票を投じた。
【<人権問題担当の首相補佐官>設置問題のその後】
 26日のZAKZAKで評論家の江崎道朗氏は次のように述べた。
「今回の衆院選では、香港やウイグルなどで人権弾圧を繰り返す中国にどう対峙(たいじ)するのかも大きな争点だ。この争点について、岸田文雄首相は先の自民党総裁選で、画期的な提案を行っている。9月13日、中国政府によるウイグルや香港での人権弾圧に対応する「人権問題担当の首相補佐官」を新たに設置することを表明したのだ。
 人権問題の首相補佐官は、官邸内に置き、海外の人権問題の情報収集・分析などにあたり、外務省や法務省など関係する省庁を横断し、人権問題の司令塔としての役割を果たすとしていた。
 総裁選に勝利して、首相指名を受けた岸田首相だが、約束通り、人権担当の総理補佐官は新設されたのか。官邸の公式サイトを見ると、《内閣総理大臣補佐官(国家安全保障に関する重要政策担当)木原誠二》とあるだけだ。
 論点は2つ。第1に、この「国家安全保障に関する重要政策」に、ウイグルや香港での人権弾圧に対応する人権問題が含まれているのか、ということ。
 第2に、仮にそうだとしても現行の補佐官制度には数人のスタッフしかおらず、《海外の人権問題の情報収集・分析などにあたり、外務省や法務省など関係する省庁を横断し、人権問題の司令塔としての役割》など果たすことは無理だ。わずか数人のスタッフで《海外の人権問題の情報収集・分析》など出来るわけがないし、そもそも補佐官には《外務省や法務省など関係する省庁》に対して指揮・命令をする権限などない。
 なぜ、この問題にこだわるのか。
 カジュアル衣料品店「ユニクロ」が、「ウイグル人に対する強制労働による綿花を使っている」として米税関当局から一部製品の輸入を差し止められたように、中国の人権問題が企業活動に大きな影響を与えている。そして、日本の経営者の多くが、中国の人権問題に関する「情報不足」で困っている。
 財務省統計によれば、2020年の日本の貿易相手上位5カ国(カッコ内は構成比)は、中国(22・1%)、米国(18・4%)、韓国(7・0%)、台湾(6・9%)、香港(5・0%)で、中国・香港を抜きにして日本経済は成り立たない。
 だが、中国のどの企業が人権問題に関わっているのか、自前で調査をするのはほぼ困難だ。何しろ、下手に現地で調査をすれば中国政府によって逮捕・処罰されることになりかねない。
 よって、日本政府として中国の人権問題について独自に調査を行い、どの企業との取引は避けるべきなのか、具体的な情報を示してもらいたい-と、ひそかに期待している日本企業の経営者は少なくない。
 日本政府が主体的に人権外交を進めるためにも、《外務省や法務省など関係する省庁を横断》する《人権問題の司令塔》の新設が急務なのだ。」
【小室論文が論文コンペで首位】
 小室圭さんがニューヨーク州弁護士会の主催する論文コンペティションで優勝した。昨年の同コンペでも’19年に寄稿した論文が2位を受賞しており、2年連続での快挙となった。コンペは学生を対象にしたビジネス法に関するもので、今回、圭さんが執筆した論文のテーマは「ウェブサイトのアクセシビリティにおけるコンプライアンス上の問題と起業家への影響」(『女性自身』10月24日号)。
論文は、今年3月に刊行された法律専門誌『NY Business Law Journal』に掲載された。同誌は小室さんの論文を《初めてウェブサイトを開設しようとしている企業が考慮すべきことを、明確かつ論理的に説明している》と絶賛。
 論文のはじめに、起業家が自分でウェブサイトを作ると《法的な落とし穴に陥りやすくなります》《自分たちがどんな法的リスクを負っているのか、それにどう対処すべきか、わからないことが多いのではないでしょうか》と問題提起。
 最後で《法律を理解することで、ビジネスオーナーは潜在的な訴訟を回避し、他のビジネスとの差別化を図ることができます》と綴り、次のように締めくくっている。《Webサイトのアクセシビリティに関するすべての問題に対処することは困難な場合もありますが、法的な落とし穴を避け、潜在的なリスクをできる限り抑えるためには、企業家は常にWebサイトのコンプライアンスに関する法律について最新の情報を得る必要があります》
 なお30日(土曜)の毎日新聞によれば、圭さんが今年7月に受験した米ニューヨーク州の弁護士試験で、主催者が29日に公式ホームページ(HP)で公表した合格者のリストに圭さんの名前は確認されなかった。主催者側によると合格したのは5791人。公式HPにはそのうち5785人の名前が掲載されていた(6名が掲載なし)。主催者側は圭さんの合否について「ノーコメント」とし、明らかにしていないという。
【中台外相の訪欧】
 27日の産経新聞は「中台外相が欧州で火花 東欧歴訪の台湾に中国が巻き返し」の見出しで次のように報じた。「台湾の呉釗燮(ご・しょうしょう)外交部長(外相)が東欧諸国を訪問し、関係を強化する中、中国の王毅国務委員兼外相は27日、ギリシャなど欧州4カ国の歴訪を開始、巻き返しに乗り出した。台湾としては、共産主義へのアレルギーが根強く残る旧ソ連圏の東欧を足場に、欧州でのプレゼンスを少しでも拡大したい考え、これに対し中国の習近平政権は、関係が特に良好な欧州の国々で中国との結び付きをアピールする戦略とみられる。(北京 三塚聖平、台北 矢板明夫)」。以下は、その解説文である。
 「現在、欧州で台湾と外交関係があるのはバチカンのみだが、台湾の蔡英文政権は、民主主義や自由といった欧州と共通の価値観を掲げて、欧州諸国との関係強化を図っている。中でも近年、急接近しているのが、共産主義に苦しんだ経験をもつチェコやリトアニアなど旧ソ連圏諸国だ。
 呉氏は27日にチェコを訪れ、昨年訪台したビストルチル上院議長と会談した。26日には、隣国スロバキアで「台湾とスロバキアは自由や人権といった価値観を共有しており、貿易、投資、産業面で協力を強化すべきだ」などと演説した。その中で、中国を念頭に「独裁国家による軍事的恫喝(どうかつ)やサイバー攻撃、偽情報の流布などを組み合わせた『ハイブリッド戦』が増えており、台湾の民主主義が脅威にさらされている」と強調。「台湾は決して独りではない。同じ価値観を持つ仲間はたくさんいる」と述べ、中国を牽制(けんせい)した。
 呉氏に先立ち、台湾の国家発展委員会の龔明鑫(きょう・めいきん)主任委員(閣僚)が団長を務める経済視察団も21日からリトアニアと東欧を訪問。25日にはチェコと経済貿易、産業分野での協力に向けた覚書を締結した。
 新型コロナウイルスの世界的な流行や香港、ウイグル問題などを受け、欧州では中国への警戒論が強まっている。それと軌を一にするように、9月には欧州連合(EU)が貿易や投資などの分野で台湾と関係を深めることに意欲を示した。
台湾を「核心的利益」とする習政権としては、そうした流れを押しとどめることが喫緊の課題となっている。王氏が今回、27~29日の日程で歴訪する欧州の国々はギリシャ、セルビア、アルバニア、イタリア。
 中国外務省の汪文斌報道官は25日の記者会見で、王氏が訪問する4カ国について「中国の欧州における重要な協力パートナーだ」と指摘した。イタリアは、中国の巨大経済圏構想「一帯一路」への参画を先進7カ国(G7)で初めて表明した国、ギリシャやセルビアも中国がインフラ整備で影響力を及ぼしている。
 アルバニアは、1971年10月に、台湾の蔣介石政権が保持していた国連での「中国」の代表権を中華人民共和国政府に認め、蔣政権の追放を求める「アルバニア決議」の提案国の一つだ。習政権は同決議の正当性を強調しており、王氏も同国訪問を通じてそうした主張を行うとみられる。
 中国メディアは、王氏の訪問について「台湾当局者の欧州訪問がもたらすマイナスの影響を相殺することができる」と指摘した。
こうした中、EU欧州議会の議員団が来週、台湾を訪問するとも報じられており、中国側が激しく反発している。
 習国家主席は26日、フランスのマクロン大統領と電話会談し、「フランスが、中国・EU関係の健全で安定した発展を推進するため、積極的な役割を果たすよう望む」と協力を求めた。」
【脱炭素資源のレアメタル世界偏在】
 コロナ禍のため1年延期の末、2021年11月1日から12日までイギリスのグラスゴーで第26回気候変動枠組条約締約国会議(United Nations Climate Change conference、略称COP26)が開かれる。世界19?ヵ国・地域が参加する大規模な会議になると予測され、岸田首相は11月2日から参加した。
 これはSDG’s(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)という文書(全部で17項目)の一部で、2015年の国連総会で全会一致採択された「我々の世界を変革する 持続可能な開発のための2030アジェンダ」のなかの第13「気候変動に具体的な対策を」にある。
 ちなみに全17項目とは、1貧困をなくそう、2飢餓をゼロに、3すべての人に健康と福祉を、4質の高い教育をみんなに、5ジェンダー平等を実現しよう、6安全な水とトイレを世界中に、7エネルギーをみんなに。そしてクリーンに、8働きがいも経済成長も、9産業と技術革新の基盤を作ろう、10人や国の不平等をなくそう、11住み続けられるまちづくりを、12つくる責任、つかう責任、13気候変動に具体的な対策を、14海の豊かさを守ろう、15陸の豊かさも守ろう、16平和と公正をすべての人に、17パートナーシップで目標を達成しよう。
 COP26開催を翌日に控えた31日(日曜)、日経新聞「チャートは語る」は「脱炭素資源、3カ国でシェア8割 リチウムなど調達難も」の見出しで、「…電気自動車(EV)などで使う資源は産地の集中度が石油などの従来資源以上に高く、リチウムは上位3カ国の生産シェアが、豪州=50%、チリ=20%、中国=18%で併せて88%に達する。資源国が資源を囲い込む動きも出始めた。欧米や日本などが十分な量を確保できなくなれば、脱炭素の達成が壁にぶつかる恐れもある」と報じた。英調査会社ウッドマッケンジーは、リチウムの需要が2040年に2020年の12.5倍に、コバルトも5.7倍に増えると予測する。背景にあるのは産地の偏りだ。コバルトはコンゴ民主共和国など3カ国で77%にのぼる。
【総選挙の結果】
 11月1日(月曜)未明、小選挙区と比例代表を合わせた465議席が全て確定した。自民党が追加公認を含めて261議席を獲得し、過半数の233議席を突破、<安定多数>の244議席さえ上回る265議席を得て<絶対安定多数>を確保した。選挙区で65%勝利したこととなる。
 立憲民主党は共産党との共闘が不発で議席を減らし96議席、日本維新の会は大きく議席を増やして41議席の第3党となり、公明党は32議席(3議席増)、国民民主党は11議席(3議席増)、共産党は10議席(2議席減)、れいわ新選組は3議席、社民党は1議席を得た。無所属は10、「NHKと裁判してる党弁護士法72条違反で」は衆院の議席を失った。
 各常任委員会の委員長ポストの独占を意味する安定多数の状態に加えて、各種委員会に所属する委員の過半数を与党議員が占めることができる議席数を「絶対安定多数」と言う。
 自民党は善戦したとは言え、神奈川13区で甘利明幹事長が立民の太栄志氏(新人)に敗れ、比例代表で復活当選となった。これに伴い甘利氏は幹事長を辞任したいと岸首相(自民党総裁)へ申し出た。東京8区は石原伸晃元幹事長が立民の吉田晴美氏(新人)に敗北して落選(比例復活なし)、また香川1区で前デジタル相の平井卓也氏が立民の小川淳也氏に敗北したが、比例で復活した。
 一方、13議席を減らした立憲は以下の<大物議員>が苦杯をなめた。小沢一郎氏が岩手3区で自民の藤原崇氏に敗けたが、比例代表の東北ブロックで復活当選、1969年の初当選から連続18回目の当選となった。辻本清美氏(大阪10区)は、日本維新の会(新人)の池下卓氏に負け、比例代表としての復活もなかった。平野博文代表代行(大阪11区)は立民の選挙対策委員長も兼務していたが、日本維新の会(新人)の中司宏氏に負け、比例代表の復活もなかった。

【選挙結果の総評】
 当選者の女性の比率は1割足らず、平均年齢は55・5歳、20代の当選者は一人のみである。朝日新聞デジタル版1日の[夜ニュースレター]は、「女性の人口が約半分を占める社会でありながら、国会議員の多くは中高年男性に偏っています。日本社会の格差是正が求められるなか、これでは政界こそが究極の格差社会のようにも見えます。背景の一つは、地盤、看板、鞄(かばん)の3点セットが重視される選挙のあり方にもありそうです。多様な候補が参入できる民主主義の原点がいびつになっていないか、目をこらす必要があります。」と述べた。
 1日の日経新聞は、若者層(18~19歳)の比例代表の投票先を聞いた出口調査(回答数は約40万人)の結果、自民が最多の36・3%、ついで立民が17・2%と分かった。また同紙が伝える共同通信社による無党派層(約10%)の出口調査の結果、立民が24・6%、維新が20・9%、自民が17・1%と分かった。

【総選挙後の波紋】
 1日午後、岸田首相(自民党総裁)は、党本部で茂木俊充外相と会い、甘利明幹事長の後任に起用すると伝えた。4日の党総務会で正式に決める。会談後、茂木氏が記者団に明らかにした。茂木氏によると首相は「党改革を具体的に大胆に進めてほしい」と要請した。外相の後任人事に関し「改めて相談したい」と説明した。
 茂木氏は記者団に「新型コロナウイルス対策と同時に党改革を進める。国民の信頼に応えられる党をつくるのが重要だ」と強調した。茂木氏は衆院当選10回。外相や経済財政・再生相、党政調会長などを歴任した。自民の派閥である竹下派の会長代行も務める。
 2日、立民の枝野幸男代表は、国会内で開いた党執行役員会で、衆院選で敗北した責任を取り、代表を辞任する意向を表明した。これを受け、今回の衆院選香川1区で、前デジタル相で自民党の平井卓也氏を破った小川淳也氏は、実施される代表選について「私なりの決意、腹は固まっている」と立候補に意欲を示した。

【岸田首相がCOP26で表明】
 2日(火曜の日経新聞によれば、「岸田首相は2日、英グラスゴーで開いた第26回国連気候変動枠組み条約締約国会議(COP26)の首脳級会合に出席。アジアなどの脱炭素を巡る技術革新に新たに5年間で最大100億ドル(およそ1兆1400億円)を追加支援すると表明した。
 6月に決めた今後5年で600億ドル規模の支援を増額する。先進国は官民で年1000億ドルの途上国支援をすると約束している。経済協力開発機構(OECD)によると2019年時点の支援額は800億ドルに満たない。日本が率先して不足分を補う姿勢を示す。
 温暖化ガス排出量では30年度までに13年度比で「46%削減を目指し50%削減の高みに向け努力する」との政府目標も伝えた。首相が国際会議で公表するのは就任後初。長期戦略として50年までに実質ゼロをめざす「50年カーボンニュートラル」にも言及した。…首相は太陽光など再生エネルギーを最大限導入し、ともに脱炭素社会をめざす考えを訴えた。温暖化ガスを排出しない火力発電の実現に向け、燃料となるアンモニアや水素の技術開発事業を展開する。官民による資金支援を通じて後押しする。…防災など気候変動に適応するための支援を倍増し、148億ドルの支援も打ち出した。先端技術を活用し、国際機関と連携しながら世界の森林保全のため2.4億ドルの資金支援も発表した。…首相の外国訪問は就任後初めてで3日に帰国する。」
【石炭火力発電の廃止問題】
 岸田首相の表明後、焦点の一つが石炭火力発電の廃止問題であるが、COP26議長国イギリスは4日、先進国などは2030年代、世界全体は40年代に石炭火力を廃止することなどを盛り込んだ声明を発表。アロク・シャーマ議長によると石炭廃止を初表明した23カ国を含む46カ国が賛同した。
 日本や米国、中国、インドは加わっていない。米国は州単位では一部が同意している。産炭国のウクライナのほか、インドネシアや韓国、シンガポールなどが段階的な廃止を約束したという。
石炭火力が現在、約3割の日本は30年度に2割弱を見込み、廃止目標はない。原発の再稼働が進まず、再生可能エネルギーの導入も遅れているためだが、批判を受ける。
 世界の石炭火力の縮小でカギを握るのは中国やインドだ。米調査団体のグローバル・エナジー・モニターによると、世界の石炭火力発電所の容量は20.6億キロワット。このうち中国だけで10.4億キロワットと、過半が集中する構図となっている。インドは2.3億キロワットある。
 アジアの新興国は多くが石炭火力に頼る。先進国の支援により、縮小しても供給できる体制作りが課題となる。アジア開発銀行は3日、既存の石炭火力を計画的に廃止し、クリーンな電力への置き換えを促す枠組みを立ち上げると発表。発電量の6割前後を石炭に頼るインドネシアとフィリピンをまず対象にする。
【コロナ飲み薬の承認】
 4日の日経新聞は【ロンドン=佐竹実】で次のように報じた。英医薬品・医療製品規制庁(MHRA)は4日、米製薬大手メルクが新型コロナウイルス向けに開発した飲み薬を承認したと発表した。自宅で服用できる新型コロナの抗ウイルス薬の承認は世界で初めて。コロナ対策の切り札と期待されている。
 メルクが米新興リッジバック・バイオセラピューティクスと共同開発する「モルヌピラビル」。ウイルスの体内での増殖を抑える。MHRAによると、臨床試験(治験)では感染の初期段階で服用すると最も効果的だったという。検査で陽性となり、症状が出てから5日以内にできるだけ早く服用することを推奨している。

 メルクによると重症化リスクのある軽度から中程度の症状のコロナ患者で、入院や死亡リスクを約50%低くする効果が治験で確認された。同社は2021年内に1000万回の治療量を生産する予定で、22年末までに世界8カ国にある自社工場で生産できるよう投資を進め、生産量を年間2000万回分に増やす。
 日本の厚労省はモルヌピラビルについて、年内にも特例承認して国内で使用できるようメルクと調達協議を進めている。厚労省は米国など海外で使用許可が下り、国内で承認申請されれば審査を簡略化する特例承認の適用を想定する。
 英国は1日4万人程度の新規感染者が出ているが、死者や重症者が急増していないことからコロナと共生していく路線を変えていない。だが足元では入院患者数がやや増えており、冬に医療体制が逼迫する懸念もある。ジャビド保健相は4日、「英国にとって歴史的な日だ。モルヌピラビルをできるだけ早く患者に投与できるよう計画を立てている」とコメントした。

 化合薬のモルヌピラビルは、ワクチンや抗体カクテル薬と比べて製造しやすい。メルクは10月、国連の関係機関がつくった非営利団体(NPO)「医薬品特許プール(MPP)」にモルヌピラビルの製造ライセンスを供与すると発表した。後発薬メーカーなどが途上国向けに安価に生産できるようになる。アフリカ諸国などワクチンの供給が遅れる地域では、重要な選択肢となる。
 同じ5日、米製薬大手ファイザーは開発中の新型コロナウイルス向け飲み薬の投与により入院や死亡するリスクを約9割減らせたとの臨床試験(治験)データを公表した。緊急使用許可を得るため米食品医薬品局(FDA)に詳細なデータを提出するという。早ければ年内に米国で投与が始まる可能性がある。
 開発中の治療薬<パクスロビド(PAXLOVID)>を、発症後3日以内の患者に投与したところ、投与していないグループに比べて入院・死亡リスクが89%減った。デルタ型など各種の変異ウイルスに対しても効果がある可能性があるという。
 飲み薬は患者自らが服用するだけで、在宅治療でも対応しやすい。ファイザーのアルバート・ブーラ最高経営責任者(CEO)は「パンデミックを食い止めるための取り組みにおいてゲームチェンジャーとなる」とコメントした。パクスロビドは米国以外に、日本を含め各国の薬事規制当局にも承認申請する見通しだ。
 米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)によると、パクスロビドは1回の治療につき30錠の錠剤を5日間かけて投与する。既にファイザーは錠剤の製造を開始しており、今後1年間かけて生産量を増やしていくという。米政府はファイザーとの間でパクスロビド170万回分の新薬調達を交渉しており、さらに330万回分の追加調達枠も確保する見通しである。
 米政府側は1回の治療分につき約700ドル(約8万円)の支払いを見込む。従来の新型コロナ治療薬に比べて安価な点が特徴である。英国などもファイザーと調整を進めているという。一方、ファイザーは途上国に対しては、国連が支援する非営利団体を通じて  割引価格で供給するもようだ。ブーラCEOは「世界中の人々へ公平で幅広いアクセスを確保する」とコメントした。
 日本の製薬会社も飲み薬を開発、塩野義製薬は9月末から最終段階の治験を始めた。感染初期の患者に投与して重症化を抑制するほか、発熱やせきなどの症状改善を狙う。安全性や有効性を検証した上で2021年中の承認申請を目指しており、22年3月までに国内で100万人分を生産する計画である。

【新しい勤務形態への模索】
 同じく4日の日経新聞は、「在宅など恒久化8割 日経調査、働き方改革上位にソニー」の見出しで次のように報じた。「日本経済新聞社がまとめた2021年の<スマートワーク経営調査>によると、在宅勤務やウェブ会議など新型コロナウイルス下で本格導入した働き方を「常時運用したい」とする企業が8割に達した。副業を解禁した企業も4割を超え、柔軟な働き方が広がった。企業は、働きやすさを生産性の向上や事業革新に結びつける実行力が問われる。」
 また同じ<スマートワーク経営調査>の「多様性が競争力つくる 定年引き上げ2割が実施」の見出しでは、「少子高齢化に歯止めがかからない日本。パーソル総合研究所と中央大学の共同調査によれば、2030年時点で国内の労働需要は労働供給を644万人上回る。企業の競争力を維持するには、多様な働き手の能力を生かす取り組みが不可欠だ」と述べる。
 人手不足解消の切り札の一つがシニア層だ。定年延長などでシニアの労働参加を増やせば163万人の労働力を上積みできる。外国人労働者の受け入れ(81万人)などを上回る。2021年4月の高年齢者雇用安定法の改正で、70歳まで従業員の就業機会を確保することが努力義務となった。日本企業の7~8割は現在60歳定年だが、人手確保の必要性と法規制への対応から、多くの企業が社員の現役期間の延長に動き出した。21年のスマートワーク経営調査で、定年が61歳以上の企業の割合は19.7%で、19年の調査時の比率の2倍以上になった。
 再雇用者には上司と話し合って勤務日数や勤務時間を決める「個別設定型勤務」を導入するなど、体力や家族の事情に合わせた多様な働き方を認める。各部署でのシニアと若手の連携など、世代間融合にも力を入れる。
 シニア活用の課題は賃金だ。働き手の現役期間が長くなれば採用抑制をしない限り総人件費は膨張する。すべてのシニアについて、現役時代と同じ処遇を維持するのは困難となる。調査でも61歳以上に定年を引き上げた企業の47%が、報酬は60歳までと比べて2~5割程度下がると答えた。
【入国時の待機を最短3日に】
 5日の日経新聞は、「入国時の待機、8日から緩和 接種済みなら最短3日」の見出しで次のように報じた。
「政府は5日、新型コロナウイルス禍で原則停止していた海外からの入国を緩和すると発表した。外国人の新規入国はビジネス目的や留学生、技能実習生に認める。ワクチンを接種したビジネス客は入国後の待機を最短3日に縮める。8日から適用する。
日本政府から在留資格を事前に得ながら入国できていない人は37万人ほどいる。このうち留学生は15万人、技能実習生は11万人程度になる。こうした人が順次、入国できるようになる。ビジネス客の往来も拡大する見通しだ。
受け入れ先の企業や大学などが入国後の防疫措置に責任を持つことが条件になる。受け入れ団体は経済産業省、文部科学省、農林水産省といった所管省庁に行動計画を提出する。
 現在はワクチンを接種した人でも入国後10日間は自宅などで待機を求められる。期間が3日になれば、ビジネス再開に追い風になる。…政府は1月、変異型ウイルスの流行などを受けて、入国制限を強化した。全世界を対象に「特段の事情」がある外国人以外は新規入国を禁じた。
 今回の緩和措置に観光客は入らない。新型コロナの感染状況を見ながら、段階的に緩和対象を広げるか検討する。
第一生命経済研究所の永浜利広・首席エコノミストは今回の緩和によって国内総生産(GDP)を年8300億円ほど押し上げる経済効果があると試算する。」
【欧州でコロナ感染が拡大】
 日本でコロナ感染が急減少しているの対して、海外とく欧州では再拡大に転じている国が見られる。NHK特設サイト新型コロナウイルスによれば、4日、WHOヨーロッパ地域事務局は管轄するヨーロッパとロシア、中央アジアなど53か国で先週確認された感染者の数は6%、死者の数は12%、いずれも前の週よりも増加したと発表、クルーゲ事務局長は、感染再拡大について強い懸念を示した。
 ドイツで感染症対策にあたる政府の研究機関は5日、ドイツ国内の新型コロナウイルスの新規感染者が3万7120人に上ったと発表した。2020年春に感染が拡大して以降、1日の感染者数としては最も多く、2日連続で過去最多を更新しました。亡くなった人の数は154人。ロシアでは、新型コロナウイルスの1日あたりの感染者の数が、政府の発表でこのところおよそ4万人に上っているうえ、4日には1日の死者がこれまでで最も多い1195人となった。

【アメリカの政情】
 5日の日経新聞は、本社コメンテーター 菅野幹雄による「バイデン氏退潮の霧は濃く 惑える米国、世界の胸騒ぎ」を掲載、次のように述べた。
 「間の悪い一言だった。「我々はバージニアで勝つ」。2日、英グラスゴーをたつ前に明言したバイデン米大統領の帰国を「民主党敗北」の速報が待ち構えていた。米民主党は南部バージニア州での知事選など重要選挙で共和党に完敗した。ニュージャージー州知事選もまさかの大接戦に見舞われた。民主地盤の「青い州」での混迷はバイデン大統領の退潮ぶりと言葉の軽さを同時に露呈した。
 全下院議員と約3分の1の上院議員を改選する2022年の中間選挙まで1年。民主党はさらに後退して両院で守っている優位を失うのか、それとも危機をバネに形勢の反転に動くのか。率直に言って、前者の混迷の展開に身構える必要が一段と増している。」
 翌6日、新しいニュースが入った。「米下院は5日夜、バイデン政権の2つの看板政策のうち、1兆ドル(約110兆円)規模の超党派インフラ投資法案を先行して可決した。上院はすでに可決しており、バイデン大統領が署名すれば成立する。子育て支援などに10年で1.75兆ドルを投じる歳出・歳入法案は党内調整になお時間がかかるため採決を先送りした。」
 その背景にあるのは、民主党が2日投開票のバージニア州知事選で敗北するなどバイデン政権の支持低下と、2022年の中間選挙への危機感である。民主党のペロシ下院議長は成果を急ぎ、インフラ法案の採決に踏み切った。
 民主党内の急進左派が1.75兆ドル法案を推し、保守系に近い中道派議員がインフラ法案を推進。与党内から造反が出れば法案の実現がおぼつかなくなる。両派は互いに相手の推す法案を人質にとる形で対立し、いずれも実現できない膠着に陥っていた。
 ペロシ議長はこれまで2つの看板政策を同時に実現させる方針を示してきた。政権浮揚のために成果を急ぐ必要があるとみて、8月に上院で可決済みのインフラ法案の実現を優先した。ペロシ議長の方針転換に党内左派は反発したが、バイデン大統領が1.75兆ドル法案を15日の週に下院で可決すると「公約」して説得にあたり、可決に成功した。
【人権問題担当の首相補佐官に中谷元氏】
 8日(月曜)、岸田首相が首相官邸で中谷元・元防衛相と面会し、新設する人権問題担当の首相補佐官に任命すると伝えた。第2次岸田内閣の発足に合わせ10日に就任する。中谷氏が8日、首相官邸で記者団に明らかにした。首相は先の自民党総裁選で中国によるウイグル族への人権侵害などに対処するため、人権問題担当の首相補佐官を新設する考えを示していた。企業の人権問題への取り組みの促進なども受け持つ。中谷氏は人権侵害に関与した外国の当局者へ制裁を科す法整備を目指す超党派の議員連盟の共同会長を務めていた。
【第2次岸田内閣の発足】
 10日(水曜)午前の閣議で、第1次岸田内閣が総辞職した。午後の衆院本会議では、新しい議長に自民党の細田博之元幹事長、副議長に立憲民主党の海江田万里元経済産業相をそれぞれ選出した。
 この後、衆参両院で首相指名選挙を実施、与党などの多数で岸田氏が首相に再び指名され、同日夜に自民、公明両党連立の第2次岸田内閣(101代内閣)が発足した。茂木前外相が自民党幹事長となったため、外相には林芳正元文部科学相を起用する。外相以外は第1次内閣の閣僚を再任した。
 立憲民主党の枝野幸男代表は12日に正式に代表を辞任する意向を表明しているが、首相指名選挙では自身への投票を呼び掛けた。
 第2次内閣は皇居での首相親任式と閣僚認証式を経て10日夜に正式に発足した。副大臣と政務官は11日に任命した。
自民党と公明党の選挙公約が異なっていた「経済対策の柱となる18歳以下の子どもへの10万円相当の給付」を巡り、自民党側が示した年収960万円以上の世帯を対象から外す案で一致した。対象者には年内にも現金5万円を配り、残り5万円分を来春ごろに子育て関連に使途を限ったクーポンとして原則支給する。
 これを受けて10、11両日、日本経済新聞社とテレビ東京は、第2次岸田内閣の発足を受けて緊急世論調査を実施した。内閣支持率は61%で、10月上旬の前回調査の59%からほぼ横ばいで、内閣を「支持しない」と答えた割合は27%だった。上掲の「18歳以下への10万円相当給付」を巡っては消費喚起策として「適切ではない」との回答が67%、「適切だ」が28%だった。
【中国の習近平総書記が3期目就任へ】
 11日(木曜)、中国国営の新華社は、中国共産党の重要会議である第19期中央委員会第6回全体会議(6中全会)が4日間の日程を終えて閉幕したと伝えた。習近平総書記が説明した「新時代」の到来を強調する<歴史決議>(「党の100年にわたる奮闘の重大な成果と歴史経験に関する決議」)を採択した。
 <歴史決議>は建国の父である毛沢東と、改革開放を進めた鄧小平の時代に続き3回目の採択となる。習氏の権威を毛・鄧並みに高め、2022年秋の共産党大会で3期目就任を固める狙いがある。6中全会で習氏の後継候補になりうる人物の昇格は見送られ、22年秋の共産党大会で習氏が3期目入りすることが事実上固まった。
 習氏の総書記就任以来の9年間と、毛沢東から胡錦濤(フー・ジンタオ)前総書記までの約90年をほぼ同じ分量の約2000字でまとめた。「習近平の中国の特色ある社会主義思想」を「21世紀のマルクス主義」と位置づけた。習氏を核心とする党中央が「歴史的な成果を上げ、歴史的変革を起こした」と評価し「共同富裕」や「自立自強」などの政策を推進していくとした。
 習氏の香港政策について「愛国者による香港支配」を実現し、混乱から統治への移行を果たしたと誇った。台湾問題についても「台湾独立をたくらむ分裂行動と外部勢力の干渉に断固として反対して、両岸(中台)関係の主導権をしっかりと握っている」と評価した。今後の方向として「(ともに豊かになる)共同富裕の推進」や軍の装備のハイテク化などを掲げた。
【瀬戸内寂聴さん逝く】
 作家として、僧侶として、一人の女性として、さまざまな立場の人に寄り添い、世間に率直な思いを発信し続けてきた瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんが、9日、心不全で亡くなった。享年99。近現代の新しい女性の生き方を描いた小説で人気を集め、反戦・平和を訴える社会活動にも精力的だった。
 徳島市生まれ。名は「晴美(はるみ)」と名付けられた。東京女子大在学中に結婚し、卒業後は夫の勤務先だった北京にわたるが、敗戦で1946年に帰国。夫のかつての教え子と恋に落ち、幼い一人娘を残して京都へ。その後離婚し、少女小説や童話を書きながら、丹羽文雄主宰の同人誌「文学者」に加わった。

 11日(木曜)の朝日新聞〈夜ニュースレター〉の石田博士のEvening Aから幾つか抜粋する。
▽51歳のときに出家した大きな理由も文学のためだった。当時、すでに人気作家となり、寝る間もなく売れる小説を書いた。だが、理想とする文学とはほど遠く、むなしさや絶望を感じていた。「人間より大きな、目に見えない存在に救いを求め、バックボーンになる思想を身につけたかった。すべてはいい小説を書くためでした」
▽法名の「寂聴」を名づけたのは、作家で岩手・中尊寺貫首だった今東光(こんとうこう)さん。出家した心は乱れなく、仏の心が聞こえてくるという意味の「出離者は寂なるか、梵音(ぼんのん)を聴く」から取った。
▽「正しい戦争と教えられ信じてきたが、戦争に負け、自分の愚かさに気づいた。これからは自分の心で感じたことだけを信じて生きていこうと決めた。それが私の戦後の革命だった」
▽家を出た後、父から「お前は人の道を外れ、鬼になった。どうせなら大鬼になれ」と言われた。この言葉を胸に、寂聴さんは何ものにも流されず、自由を貫き、文学の大鬼になった。
▽小説で描いた多くは、時代に翻弄(ほんろう)されながらも自我に目覚めた女性たち。こうした女性たちが、まだ小説のモデルになることが少なかった時代に光を当てた。代表作「夏の終(おわ)り」のように自らの恋愛にも正面から向き合い、生涯で出した本は400冊を超えた。
▽愛や性を見つめた創作は源氏物語の現代語訳に結びついた。70歳から6年半を費やして全10巻を完成させた。晩年には「人生で一番うれしかったのは、世界に誇れる文化遺産の源氏物語を訳せたこと」と語った。


 この間、以下のテレビ番組を視聴することができた。(1)BS世界のドキュメンタリー「“氷上のシルクロード”狙う中国」10月14日。 (2)BS世界のドキュメンタリー(選)「カラーでよみがえるイギリス帝国植民地拡大と独立」15日。 (3)「週刊ワールドニュース(11日~15日)」16日。 (4)ETⅤ特集「新型コロナ こぼれ落ちた命~訪問看護師たちが見た“自宅療法”」16日。 (5)NHK クールジャパン「外国人が選んだ”横浜“」17日。 (6)BSフジLIVEニュース「桜井よしこ+先崎彰容 民主主義か専制主義か 中国の台頭と世界秩序」21日。 (7)NHK歴史探偵「江戸城 3つの天守の秘密」22日。 (8)BS1スペシャル「市民が見た世界のコロナショック 9~10月編」23日。 (9)BS1スペシャル「おうちに帰ろう~医療者たちの新たな挑戦~」23日。 (10)週刊ワールドニュース(10月18日~22日)24日。 (11)BS1スペシャル欲望の資本主義 特別編「生き残るための倫理」が問われる時 25日。 (12)「BS222 NEXT TRIP~横浜みなとみらい中央編」28日。 (13)BS世界のドキュメンタリー「”復讐“からの解放~グアンタナモ その後」29日。 (14)週刊ワールドニュース(10月25日~29日」30日。 (15)クローズアップ現代+「コロナ禍の政治決戦 ▽激戦区の密着取材 若者の新たな動き」11月1日。 (16)NHK 逆転人生「娘が残した宿題 社会を変えた医療裁判 診療明細書が出される契機に」1日。 (17)クローズアップ現代+「急増! 現役世代コロナ後遺症▽退職や解雇も 最前線で何が」3日。 (18)コスミック フロント「レディ・サピエンス」4日。 (19)週刊ワールドニュース(11月1日~5日)6日。 (20)BSTBS「マザー・アース 奇跡の星 宇宙から見た地球の未来」6日。 (21)NHK教育 地球ドラマチック「海に消えた古代都市カノープス」6日。 (22)ドキュメント 列島誕生 ジオ・ジャパン(2)「絶景への路」(プレートの方向転換で北アルプスと瀬戸内海が現われる)7日。 (23)BSプレミアム ワイルドライフ「アフリカ ケニア 水の小宇宙に響き合う命」8日。 

夕暮れと菊花(所蔵品展 2021年秋冬)

 三溪園の菊花展が10月26日(火曜)から始まった(~11月23日火曜・祝)。つづいて「紅葉の遊歩道開放」(11月27日(土曜)~12月19日(日曜))。これら2つの季節行事に合わせて、三溪記念館では2つの所蔵品展が開かれている。期間は10月28日(木曜)から12月19日(日曜)まで。
第1展示室  所蔵品展Ⅰ  四季のうつろい―夕暮れ
  第2展示室  所蔵品展Ⅱ  四季のうつろい―菊花
 展示担当と以下の解説は、前回につづけて吉川利一学芸員(事業課長)である。

第1展示室
所蔵品展Ⅰ  四季のうつろい―夕暮れ  
 “秋は夕暮れ” ご存知、平安時代の女流歌人・清少納言(せいしょうなごん)が著した随筆「枕草子(まくらのそうし)」の冒頭にみられる一節です。秋は夕暮れ時が趣深い。冬に向かって日が短くなるこの季節、日暮れ時に特別感じるしみじみとした風情は1000年以上経った現代の私たちにも変わらず受け継がれている感覚です。
 本展では、所蔵の作品からこうした夕暮れの風情をお届けします。

1 横山大観「煙寺晩鐘」 大正(1915)年
 木々の間には夕霧が漂いはじめ、あたりはそろそろ夜の闇が迫るころ。寺へと急ぐ尼僧の姿や空にはカラスも描き込まれ、日暮れの刻限を知らせる鐘の音までもが聞こえてくるような風情です。
   
2 黒田古郷「夕陰」 

3 今村紫紅「山村夕暮」
今村紫紅「山村夕暮」


4 小林古径「夕暮」
 地面の部分には薄く墨が塗られ、夕闇が迫っていることがわかります。畑に植えられた作物を見ると季節はまだ夏のようですが、暑さも和らいでくる頃のような秋の兆しも感じさせる画面です。
  
5 原三溪「漁村返照」(瀟湘八景のうち)
 中国湖南省にある瀟湘は景色の優れた地として知られ、古来山水画に多く採りあげられてきました。「瀟湘八景」はこの土地の8つの風景をセットにした画題で、「漁村返照」はそのうちの1つ、夕日に照らされる漁村の情景を描いたものです。
中国発祥の画題ながら、本作では身近な日本の漁村風景のように描かれています。市井の人々の暮らしに目を向けた三溪らしい表現です。
原三溪「漁村返照」


6 原三溪「薄暮」 
画中に「鬼怒川奥所見」とあり、旅先の栃木県鬼怒川で描き留めたスケッチをもとに制作されたものであることがわかります。川沿いに建つ家には子どもと杖を曳く老人、入浴中の人物、そして荷車を曳く馬とともに描かれているのは仕事から帰り着いたばかりのこの家の主でしょうか。季節は夏のようですが、秋の気配も感じられる、山里のたそがれ時のワンシーンを捉えた作品です。
三溪の遺した絵にはこうした農山村の日常の暮らしを描いたものが多く、三溪の市井の人々に向けた暖かなまなざしが感じられます。
原三溪「薄暮」



7 ケース内 絵はがき
 明治33(1900)年に私製はがきの発行が認められると、日本各地で続々と様々な絵はがきが作られるようになりました。
 ここ三溪園の周辺でも土産物店などで販売されたようで、現在でも園内各所をとらえた絵葉書が多数みられます。
 ここでは、夕暮れをキーワードに2点の絵葉書を紹介します。
三溪園風景(正門から三重塔を望む)
 三溪園の正門付近からは、丘上の三重塔の後方に日が沈む光景が望めます。日が短くなる秋から冬にかけては開園時間内に、夕日を背にした三重塔のシルエットが楽しめます。展示しているものは、夕景のイメージでしょうか、モノクロ印刷の上に薄く彩色が施されています。
夕日ヶ丘
 旧燈明寺本堂背面近くの山を写したもの。
 展示の絵はがきでは、「日夕ヶ丘」となっていますが正しくは「夕日ヶ丘」。
 美しい夕日が眺められたことからこの名がつけられたのか、あるいは夕日が当たる場所であることからなのか、現在では詳細は不明です。

第2展示室
所蔵品展Ⅱ  菊花  
 三溪園で開かれている菊花展には、毎年大輪の花や盆栽仕立てのものなどバリエーション豊かな菊花が並びます。その多くは元をたどれば江戸時代や明治時代に端を発しているもの。こうした園芸文化が現代まで連綿と受け継がれていることを知れば誰しも驚かされるのではないでしょうか。
 本展では、そんな昔から親しまれてきた菊にちなむ作品を紹介します。

8 菊図屏風  原三溪旧蔵
 背景には金箔を押した地にさらに細かく切った金箔(切箔 きりはく)をまくなど華やかな雰囲気のある作品です。
紅白の菊花が竹や木の枝で作られた籬(まがき)と呼ばれる垣根の各所に咲き乱れる様子を描いた構図で、花と籬は貝を砕いた絵具(胡粉 ごふん)を塗り重ねて半立体的に表現する「盛上げ彩色」という技法が用いられています。

菊図屏風1


菊図屏風2


9 原三溪「菊に小禽」(菊に雀)

原三溪「菊に小禽」


10 高台寺蒔絵菊桐文箱  原三溪旧蔵
 高台寺蒔絵とは、豊臣秀吉とその妻・ねねを祀った京都高台寺の霊廟の扉などに施されている様式の蒔絵で、豊臣家の紋である菊桐文を配したり、2つの違う模様や色合いなどを組み合わせる片見替り(かたみがわり)というデザインを取り入れたりなどの特徴がみられます。

11 菊型燭台 
 燭台の台座は16弁の菊花です。

12 臨春閣 瀟湘八景図  
 三溪園にある歴史的建造物の中で、三重塔と並ぶ代表的な建物が臨春閣です。江戸時代初期、紀州徳川家の別荘として築造されたといわれるこの建物の内部には障壁画が付属しており、本作品はこのうちの第一屋・瀟湘の間に嵌め込まれていたものです。(現在建物内には複製を置いています。)
 瀟湘八景図は、古来景勝の地とされた中国湖南省にある瀟湘の風景を8つの画題で描いたもので、日本では室町時代ごろから描かれるようになったといわれています。
 8つの画題とは、山市晴嵐、漁村夕照、遠浦帰帆、瀟湘夜雨、煙寺晩鐘、洞庭秋月、平沙落雁、江天暮雪です。

【三溪園のホームページに3つの案内】
(1)10月26日(火)からの菊花展について
 愛好家の高い技術により仕立てられた、大菊や懸崖、古典菊など伝統の花、繊細で風流な佇まいの小菊盆栽、盆景など、多種多様な作品を味わえます。また、園内で唯一、常時内部を公開している合掌造りの古民家・旧矢箆原家住宅(重要文化財)では、フラワーデザイナー五十嵐道子氏による「菊の生け込み」を展示。山里の雰囲気が漂う古民家で、菊の新しい魅力を感じていただけます。
 期間 2021年10月26日(火)~11月23日(火・祝) 9:00~16:00
※「切り花」11月3日(水)~、「菊の生け込み」11月6日(土)~
 料金 無料 (入園料は別途必要です)
【中央広場】 横浜菊花会
 展示点数(予定)は大菊250点、懸崖5点、千輪作り2点、江戸菊・古典三菊35点、切り花120点ほか 計約400点。
【正門藤棚広場】 小菊盆栽芸術協会長生会
 展示点数(予定)は小菊盆栽55点、大盆景5点、小盆景10点

(2)プレミアムツアー『菊めぐり』について
 「三溪園菊花展プレミアムツアー『菊めぐり』。学芸員、フラワーデザイナー、菊づくり名人と巡る特別体験《抹茶とお土産付/1回10名限》定」の案内があり、こう記されている。
 「京都や鎌倉などから移築された歴史的に価値の高い建造物が巧みに配置された三溪園は、四季折々の花が楽しめる横浜屈指の日本庭園です。毎年秋に開催される「菊花展」では、神奈川県内でトップレベルの栽培技術を持つ「横浜菊花会」や「小菊盆栽芸術協会長生会」のバリエーション豊かな作品が集められ、秋の風物詩として人気を集めています。また、岐阜の白川郷から移築された古民家「旧矢箆原家住宅」の中では、フラワーデザイナー五十嵐道子氏とのコラボレーションによる「菊の生け込み」作品が展示され、古民家と融合した菊花の新しい魅力も楽しめます。 開催は11月13日(土曜)の午前と午後、翌14日(日曜)の午前と午後の計4回、参加費は各7500円。この企画の収益は三溪園の維持・管理に役立てます。」

(3)菊の見どころトーク
 出展者の横浜菊花会の会員がガイド役となり「菊花の種類」「観賞のポイント」を解説する<菊の見どころトーク>が以下の日程で行われます。菊の見方を知れば、菊花展をより楽しめます!
 10/30(土)、10/31(日)、11/6(土)、11/20(土)、11/21(日)は11時、13時半、14時、14時半。11/3(水・祝)、11/15(月)は13時半、14時、14時半。

【秋晴れの菊花展を巡る】 
 さて、菊花展が始まった10月26日(火曜)から、あいにく曇や雨がつづいたが、28日(木曜)は一転、清々しい秋晴れとなり、同時に三溪記念館で上掲の展示「夕暮れと菊花(所蔵品展)」が始まった。
 1時からの職員ミーティングの最後は揃って記念館へ。ここで吉川さんは事業課長から学芸員の顔になり、「夕暮れと菊花(所蔵品展)」をめぐるギャラリートークを行った。展示品を見ながら、企画の着想に始まり、それを実現するまでの過程を知る感動のトークである。 
 なかでも私は第2展示室にある「8 菊図屏風」の菊花が、あたかも綿毛の毬のように描かれているのが印象に残った。
記念館を出て、中央広場で開催中の菊花展へ向かう。眩しい陽光の下、絢爛豪華、色も形も鉢の大小もさまざま多彩な菊が並ぶ。
 準備に余念のない横浜菊花会の皆さんお揃いの印半纏の背中には、16の花弁が放射線状に並ぶ<一文字(いちもんじ)>という品種の菊花が配され、中心部に横浜菊花会の文字。
 他のブースには厚物(あつもの)、厚走り(あつばしり)、管物(くだもの)等の表示がある。さらには産地の地名を付した伊勢菊(いせぎく)、肥後菊(ひごぎく)、嵯峨菊(さがぎく)等もある。
 いずれも菊花会の皆さんが丹精して育てた菊である。園芸品種の菊栽培は、冬に芽をとり、春に植え、夏に成長させ、秋に観賞するという。
 記念館展示の菊花(8 菊図屏風  原三溪旧蔵)に描かれた菊と、ここに展示している菊とは、いかにも違う印象を受ける。あちらが菊の祖先なのか、あるいは別種なのか。
 事務所に戻り、吉川さんに菊の種類について尋ねると、羽田雄一郎主事が作成した図と解説があるとのこと、題して「菊の見どころトークちらし」(A4版の両面)。30日から始まる横浜菊会のトーク等に使うもので、すぐ原未織主事がデータを送信してくれた。事業課のチームワークの良さに感謝。以下に収録する。

菊の見どころトークちらし1


菊の見どころトークちらし2

プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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