野村弘光さん講話「戦時下の三溪園」をめぐって
野村弘光さんの講話「戦時下の三溪園」を拝聴する機会がようやく来た。2021(令和3)年11月22日(月曜)夕方5時から、場所は三溪園内の三溪記念館貴賓室。日程調整に時間がかかり大幅に遅れたが、それが幸いし、10月に入ると新型コロナウィルス感染者が急減、11月には神奈川県で1日に10人程度までに下がった。
それでも会場の換気に十分な注意を払い、マスクを着用して臨む。イベント関連のシフト勤務が不規則になり、残念ながら参加できない職員もいた中で、川幡留司、吉川利一、渡邊栄子、鈴木正、石元幸一、滝田敦史、田代倫子(敬称略、順不同)、それに高井典子さん(神奈川大学教授、観光学、三溪園保勝会理事)と私が参加した。
あいにくの雨であったが、野村さんは、写真、地図、1945年5月29日の<横浜大空襲>で爆撃を受け全焼した自宅の復元図、これに基づき製作したジオラマ(50分の1)等を運んでこられた。このジオラマは前回のジオラマ<サムライ商会>(後述)に次ぐ第2作で、2年前に完成した。作者は同じ人気ジオラマ作家の山本高樹さん(1964年~)。
体験談の合間、適宜、質問に応じる89歳の野村さんと最年少は30代の、熱い世代を跨ぐ交流となった。その概要を掲げたい。
【中学一年の体験】
野村さんは太平洋戦争当時、三溪園の近くの三之谷97番に住まわれ、横浜市立間門(まかど)小学校から神奈川県立横浜第三中学(現在の横浜緑ヶ丘高校)へ進学した直後、1945(昭和20)年5月29日昼の<横浜大空襲>を体験、九死に一生を得た。
モノを見る力や社会的な判断力を身に着けつつある中学1年生という年齢は、当時は<学徒勤労動員>に駆り出される年齢であったが、幸い野村さんには、ふだん通りの学校生活を送り、放課後も遊び回れる自由があった。
1945年3月現在の学徒勤労動員率は大学・高専・師範学校が64.1%、中等学校(中学校・高等女学校・実業学校)が81.9%、国民学校高等科が58.6%(「学徒勤労動員」 Wikipedia)で、野村さんは辛うじて動員を免れたことになる。
野村さんについて私は3点の資料を配布し、講話を聴きながら必要に応じて参照されたいとメンバーに伝えた。資料1野村さんの略歴、資料2祖父・野村洋三氏について、資料3野村さんが過去に行った講演の記録である。
資料1 【野村さんの略歴】
まず野村さんご自身のことを記す。1932(昭和7)年10月7日、横浜市中区本牧三之谷に生まれる。慶応大学法学部を卒業後、1955(昭和30)年、横浜銀行入行、1973(昭和48)年に原地所株式会社(横浜市中区山下町11-1グランドアネックス水町)に移り、1976(昭和56)年6月に取締役総務部長、1991(平成3)年に常務取締役、2016(平成28)年から取締役(監査等委員)、株式会社ホテル、ニューグランドの役員を兼務する。2020(令和2)年に退職。
資料2 【祖父・野村洋三について】
野村さんの祖父は野村洋三さん。原三溪と同じ岐阜県の生まれで、二人は生涯にわたる盟友であった。野村洋三顕彰会ホームページには「世界へ挑んだ文化人 野村洋三 おもてなしの精神を 胸に宿して」と題して、次のように伝えている。
「1870(明治3)年、岐阜県大野町に生まれ、14歳のとき英語の専修学校と同志社学校(現在の同志社大学)へ入学。その後、東京専門学校(早稲田大学の前身)に進学。卒業後は通訳として活躍、1891(明治23)年、苦難の末、輸出製茶業の市場開拓のため渡米。東京帝大教授退官後、アメリカのボストン美術館東洋部主任となっていたアーネスト·フェノロサ、同じく動物学者のE·S·モース、ジアスターゼの高峯譲吉らと知遇を得る。
翌1892(明治24)年、コロンブス世界博覧会の通訳として渡米、新渡戸稲造と知己となる。
1896(明治28)年、横浜にサムライ商会を立ち上げ、関東大震災(1953年)後の1927(昭和2)年に開業したホテル、ニューグランド(HOTEL NEW GRAND)の建設に携わり、同ホテルの会長を務め、横浜商工会議所会頭、日米協会の終身会長、横浜ロータリークラブを立ち上げた。95歳没」。
【サムライ商会をジオラマで復元】
渡辺浩生<天地人のブログ>の2014年3月29日号「祖父野村洋三の足跡をジオラマで復元 ニューグランドの野村弘光さん」は次のように述べる。
▽ 野村さんの祖父、野村洋三は明治、大正、昭和の横浜を「懸け橋」として生きた。美術貿易商<サムライ商会>を創業し、ホテル、ニューグランド(横浜市中区)会長時代には、終戦後、同ホテルを最初の宿舎とした連合国軍最高司令官マッカーサー元帥を迎え入れた。
▽ 「横浜が輝いていた時代を生きた祖父の足跡を形に残したい」。ニューグランド取締役を務める傍ら、祖父の生涯と重なる横浜の近代史探究を続ける野村弘光さん(81)は昨年、人気ジオラマ作家の山本高樹さんに<サムライ商会>の“復元”を依頼。25分の1の豪華絢爛(けんらん)な店舗が完成した。26日から4月7日まで玉川高島屋(東京都世田谷区)で開催される山本さんの「昭和幻風景ジオラマ展」に展示される。
▽ 洋三は20代で渡米。帰路、船上で出会った新渡戸稲造の「太平洋の懸け橋に」という信念に感化され、自らは横浜港に上陸する外国人相手に日本の美術品を売ろうと明治27(1894)年、サムライ商会を開店した。店の名は新渡戸が説いた「武士道」にちなんだ。
▽ 得意の英語で客の心をつかみ、赤色の馬車による送迎サービスも評判に。日本の名工を発掘して海外に紹介するなど「店は横浜の文化交流の場となった」と弘光さん。しかし、大正12(1923)年の関東大震災で焼失。ホテル経営に転身した洋三に昭和20年8月末、大役が回ってきた
▽ 占領軍が横浜入りした翌朝。苦労して調達した一個の卵をマッカーサーにふるまった洋三は、「占領を平和的に行うために婦女子の安全確保と食糧供給をお願いしたい」と民間人の立場で直訴した。「敗戦国だからと卑屈にならず、堂々とふるまう度胸が祖父にはあった」。その“おもてなしの心”は今日も新しいと弘光さんは感じる。(渡辺浩生)
資料3 【横浜の空襲-その体験を語り継ぐ】
野村さんは、戦中、占領期を含む横浜現代史の講演をこれまで20回あまりつづけて来られ、それを紹介する記事が新聞に掲載された。それらのなかから主なものを以下に抜粋して紹介する。
(1)6年前(2015年4月16日)の産経新聞の記事「ドゥーリトル本土初空襲、目撃した野村弘光さん 実体験を検証、伝え続ける」。
「73年前の昭和17年4月18日、ドゥーリトル中佐に率いられた米陸軍爆撃機16機が本土を初空襲した。横浜上空でも焼夷(しょうい)弾を落とし、機銃を掃射して幼児1人が死亡。当時小学4年の野村弘光さん(82)=ホテル・ニューグランド取締役=は、超低空で飛び去った爆撃機を中区の自宅近くで目撃した。3年後の20年5月29日には横浜大空襲に遭遇。体験を手記にまとめ講演で語り伝えてきたが、戦後70年の今、自身を含めた空襲体験者の高齢化にもどかしさを感じる日々だ。(渡辺浩生)」
■一瞬の出来事、手記に 《その日は土曜日で、学校からの帰途、自宅前まで来たとき、いきなり空襲警報のサイレンが鳴り、激しい対空砲火音の中、和田山の方角から聞き慣れない爆音のする方を見ると、約100メートルくらいの超低空を、濃い色の機体に星のマーク付きで双発2枚垂直尾翼の飛行機が、東南方向へ東京湾に向かって、かなりのスピードで飛び去った》
日米開戦4カ月後の17年4月18日は快晴だった。日本近海の米空母ホーネットから飛び立ったB25陸軍爆撃機16機のうち、横浜を攻撃した1機を目撃した「一瞬の出来事」を、手記「横浜空襲を通しての戦争体験」に記した。平成10年8月に執筆し、友人らの証言などから新たに知った事実を書き加えてきた。
当時、市立間門国民学校4年。中区本牧三之谷の自宅のそばで、同級生と一緒に機影の消えた方向を呆然(ぼうぜん)と眺めていた。同級生は「マフラーを巻いた人間が見えた」と語ったが、<飛行機マニア>の野村さんは、目に焼き付いた機体が何か知りたくて、すぐ自宅に帰り「世界の翼」(朝日新聞社刊)で調べ、「英ハンドレページか米ロッキード・ハドソンの爆撃機じゃないか」と興奮気味に説明した。
後日の新聞で、米軍のB25(哨戒爆撃機)による初空襲だったことを知った。南区堀ノ内町付近で焼夷弾が落とされ、家屋が焼失。JR石川町駅に近い中区打越では、当時5歳の幼稚園児が機銃掃射を頭部に受け死亡した。しかし、初空襲で犠牲者が出たことを野村さんが知ったのは戦後になってから。「まだ空襲の恐ろしさを全く知らなかった」と振り返る。
だが、超低空による奇襲は南方での緒戦の勝利に酔う軍部、国民に衝撃を与えた。野村さんもこう記す。《日本本土の防空防衛の脆弱(ぜいじゃく)さを露見し、軍部も遅まきながら防空態勢の再検討を迫られた…わが家も早速、大工に頼んで庭の隅に半地下の防空壕(ごう)を作った》。
■非戦闘員ばかり犠牲。 昭和20(1945)年4月に県立第三中学に進学した野村さんは「一生忘れることのできない日」、5月29日を迎えた。
空襲警報が発令され、物干し台に上り、雁行する編隊の数を驚きながら数えていた。《10編隊目になった時、ザザーという音とともに、最初は無数の黒い豆粒が、みるみるグレーに変わり斜めに落ちてきた》
「焼夷弾落下」と叫びながら階段を駆け下り、風呂場の外まで来たとき、地響きと物すごい爆音にとっさに地面に伏せた。顔を上げると、家の壁が燃え、塀や門柱が倒れていた。爆弾が家に直撃したのだ。「駆けっこが苦手だったのが幸いした。足が速かったら、倒れた壁とともに爆風にやられていたと思う」
家族も無事だったが、近くの寺院には遺体がリヤカーやトタン板で次々運ばれ、荼毘(だび)に付される光景を見た。市街は壊滅し、横浜市史資料室によると、死者3649人、負傷者1万人以上の犠牲を出した。
「爆撃で犠牲になるのは、子供や老人など非戦闘員ばかり。それは今も変わらない」。豊富な航空知識も生かし、資料を集めて横浜での空襲記録を調べ続ける。体験を美化することなく自分なりに事実を検証したい。祖父の洋三さんはニューグランド会長として昭和20年8月30日、横浜に進駐したマッカーサー連合国軍最高司令官を出迎えた。
《空襲の全貌は、公式記録・個人の体験伝聞の集大成なくしてつかめない。しかしながら、当時から半世紀以上を経過し公式記録も出尽くした上、体験者の高齢化が進み、記録の再現が不可能になりつつある》。最初に手記に書いてから、17年がたった。
以上、野村さんの以前の講演録(新聞に掲載)に見る空爆の事実である。
これらの記述を受けて、野村さんは机上に置いたジオラマ(50分の1)について語り始めた。写真右手前が野村さん。ジオラマの手前に米軍の航空機、いちばん大きい機がB29、ボーイング B-29 スーパーフォートレス(Boeing B-29 Superfortress)と呼ばれる、アメリカのボーイングが開発した大型戦略爆撃機。高度9,000 mで高度2,400 m相当の気圧に耐えることができる。
B29は1943年から開発にかかり、1944年の1月中旬までに97機が完成していたが、そのうち飛行可能だったのはわずか16機に過ぎなかった。1944年6月15日、中国の成都の基地を発ち、九州にある八幡製鉄所を主な標的として日本初空襲が実施された。75機が出撃したが、7機が故障で離陸できず、1機が離陸直後に墜落、4機が故障のため途中で引き返すこととなり、残りの63機だけが飛行を継続した。

ジオラマを前に語る野村さん(右側)。記憶にある自宅を図面に起こし(机上の右脇)、それを基にして山本高樹さんにジオラマ作成を依頼、一昨年に完成した。それを前に熱く語る。
たんなるノスタルジーではない。横浜大空襲の三之谷の実像を後世に残そうと願い作成したジオラマである。高級車1台分ほどの経費がかかったと言う。
さらに机上の手前に、当時の三之谷の地図と自宅復元図が見える。その復元図が下記のもの。

図面は南が上。敷地96.78坪、建坪33坪。南東(図面の左上)に門扉があり、出窓のある洋間(6畳)と玄関につづく3畳間がある。その北側の部屋に焼夷爆弾(50キロ弾か)の爆心点と赤い矢印で記されている。
南西側(右上)に開けた庭には井戸、防空壕、砂場に鉄棒がある。東南に開けた8畳間と6畳間には縁側がついている。野村少年の部屋はと尋ねると、台所の隣の3畳間だったと言う。玄関の脇に<ニワトリ小屋>があり、新鮮な卵を得ていた。当時の住宅や風俗を知る貴重な民俗学的資料でもある。
当時、サラリーマン向けに、この種の貸家が多くあったという。ご尊父の野村光正さん(会社員、のちホテル、ニューグランド役員)は洋三さんの四女の夫。前年の秋、43歳で召集され不在だった(戦後に復員)。そのため長男の弘光少年が家を守る立場にあった。
北西の端(図面の右下)に前述の物干し台がある。弘光少年は空襲警報でそこに駆け上がり、襲来敵機を観察。前述のとおり、「焼夷弾落下」と叫びながら避難中、風呂場の外で地面に伏せた。「…足が速かったら、倒れた壁とともに爆風にやられていたと思う」。弘光少年の等身大の戦災体験は、このジオラマとともに現存する。
【<横浜大空襲>とは】
野村さんの講話を拝聴した後、改めて<横浜大空襲>とはどのような大事件であったか、その概要をまとめておきたいと思った(下記参考文献等による)。
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年5月29日昼、アメリカ軍のB-29爆撃機 517機とP-51戦闘機 101機による無差別の焼夷弾攻撃で、市街地の4 6パーセントが被害を受け、約8千から1万人の死者が出たとされる。三之谷の被災は、その一部である。
工業地、商業地、住宅地及びこれらの混在地を焼夷弾攻撃すると、どのように燃え拡がるかのデータをアメリカ軍は得ておらず、当空襲は、そのデータ収集の実験的攻撃であった。1時間余に2570トンの焼夷弾を投下。燃えやすい木造住宅の密集地を事前に綿密に調べ上げ、焼夷弾で狙い撃ちにする作戦だったことが、後にアメリカ軍資料を分析した日本人研究家によって明らかにされた。最初から非戦闘員を狙った住民標的爆撃であり、東京や大阪、また他都市へも同様の作成がとられたという。
アメリカ軍は攻撃目標を東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校の5ヶ所に定めて襲撃。とくに被害が甚大だったのは、現在の神奈川区反町、保土ケ谷区星川町、南区真金町地区一帯とされる。
星川町が攻撃を受けたのは被服廠があったからである。また横浜市立大鳥小学校は焼け残り、戦後に自殺を図った東條英機元首相を収容した病院となった。
京浜急行電鉄黄金町駅周辺一帯では、東急湘南線の上下線に停車中の電車から退避中の乗客も被害にあい、多数の焼死体が累々と折り重なった。また同線の平沼駅は前年に廃駅となっていたが、焼夷弾によって壊滅的被害を受け、その鉄骨が1999(平成11)年まで架線柱代わりに残されていた。建立中だった護国神社(現三ツ沢公園)も本殿などすべてが焼失した。
白昼の空襲であったことから、第三〇二海軍航空隊(厚木海軍飛行場駐在)の零戦や雷電、第十飛行師団(天翔)の屠龍・鐘馗などの戦闘機、高射第一師団(晴兵団)の八八式七糎野戦高射砲が大挙して応戦、B-29の7機を撃墜、175機を損傷させた。
被害面積は、17,8平方キロ、市域臨海部の34パーセントが壊滅、市の中心部で無事だったのは山手地区の大部分と山下公園付近のみ。臨海部の軍需工場より人口密集地域の破壊が甚大だった。
なお前日の5月28日、アメリカは第3回原爆投下目標地選定委員会を開き、横浜を候補地から除外した。それまで横浜は原爆投下の候補地であった。除外され、大規模空襲地となったのである。
【主な参考文献】
(1)今井清一『大空襲5月29日―第二次大戦と横浜』(有隣堂 1981年/新版 1995年)。
(2)西和夫『三溪園の建築と原三溪』(有隣堂、2012年)。
(3)『三溪園 100周年-原三溪の描いた風景』(財団法人三溪園保勝会 2006年)。
(4)近刊の鈴木冬悠人『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』 (新潮新書 2021年)
(5)戦後50年の節目に「戦後50年横浜平和祈念展」の開催に伴い刊行した図録『写真でみる横浜大空襲~戦時下の市民生活~』(1995年)がある(Web版もあり)。この図録の大半の写真は、横浜市史資料室「横浜の空襲と戦災」関連資料を使用しており、以下の資料が含まれる。
ア)写真。約1,000点。戦時下から戦後の講和条約締結、接収解除のころまでの写真が収集。市民が撮影した写真のほか、アメリカの空軍図書館や国立公文書館に所蔵されているアメリカ軍カメラマンの手になる写真も含まれる。
イ)体験記・日記・書簡。約500点。市民が寄せた体験記・日記・書簡などの文字資料は、『横浜の空襲と戦災』(全6巻)の第1巻「体験記編」や第2巻「市民生活編」、『調査概報』(全9集)の第5集「空襲体験記」で多くが活字化されている。
ウ)紙資料。約800点。戦時下の市民生活を物語る衣料切符や生活必需品購入通帳、戦時貯蓄債権のほか、罹災証明書、仮設住宅申込書など。
エ)現物類。約300点。国民服やもんぺ、学生服などの衣服、手製パン焼機や弁当箱などの食生活に係わる資料が中心。
オ)書籍類。約3,500点。シリーズとしてまとまっている資料に、『アサヒグラフ』(大正12(1923)年の創刊号から昭和20(1945)年まで)、『写真週報』(昭和13(1938)年の創刊号から昭和16(1941)年まで)、『週報』(昭和11(1936)年の創刊号から昭和20(1945)年まで)、駐日アメリカ陸軍が発行していた"Stars and Stripes"紙。
【6月10日の空爆】
5月29日の<横浜大空襲>では、アメリカ軍が三溪園を爆撃の対象から除外していた(貴重な文化財が集中する地域を爆撃対象から除外するよう一覧した<ウオーナー・リスト>による)、そのため三溪園は爆撃を免れたが、同じ中区三之谷の三溪園北側一帯は焦土と化した。
加藤注:ウオーナー・リストとは、アメリカの美術史家Langton Warner(1881~1955)が作成した日本の文化財リストを指す。これがそのまま空爆の除外に直結したとは言えず、このリストと実際の爆撃が一致しなかったケースも少なくない。
6月10日、B29、363機・P51、30機が中区本牧から磯子区富岡町方面を爆撃した。トンネルに待避した東急湘南電車の乗客は全滅。その1機が三溪園の南側の八聖殿近くにあった高射砲台をめがけて爆撃、一部は三溪園にも落下、内苑の臨春閣玄関棟が吹き飛び、外苑の旧東慶寺仏殿前の灯篭が倒壊、田舎屋や横笛の像が焼失した。
野村さんは、6月10日空爆のわずか6日前に、叔母の住む栃木県日光市へ縁故疎開をしていたため、この空爆を知らず、翌年1月に戻って以降の<伝聞>しか持ち合わせていないと言われた。
【戦後の三溪園】
疎開から三之谷へ帰還後に知る三溪園について、野村さんは幾つかを語られた。ジープで三重塔へ上るアメリカ兵の乱暴ぶりに手を出せなかったこと。また本牧一帯には<パンパン>や<オンリーさん>と呼ばれた女性が多数いたことにも言及された。
<パンパン>とは不特定多数の連合国軍兵士を客とする女性を指し、特定の相手(主に上級将校)と愛人契約を結んで売春関係にあった女性は<オンリー>または<オンリーさん>と呼ばれた」。これを知るのは昭和11(1936)年生まれの川幡さんと私くらいであろうか。若い世代には聞きなれない、女性蔑視の現実を否応なしに突きつける言葉である。
【財団法人としての三溪園の発展】
荒れ果てた三溪園を原家から横浜市の所管に移し、財団法人三溪園保勝会としたのが戦後8年目の1953(昭和28)年である。それから半世紀余を経た2007(平成19)年に国指定名勝を受け、2012(平成24)年には公益財団法人三溪園保勝会となった(『三溪園の百年』2006年)。
野村さんは2007年、国指定名勝となった年から財団法人三溪園保勝会の理事に就任、本年2021年6月の理事会をもって退任された。
私事にわたるが、野村さんに私が初めてお会いしたのは9年前の2012(平成24)年8月1日、公益財団法人三溪園保勝会の理事会(鶴翔閣にて)であった。会議後の雑談のなかで、野村さんが「定期的にジムに通い筋トレをしている」と言われ、そのお元気な様子に感嘆した。機械に詳しく、趣味は手先を使う工作や手作業とのこと。これも健康維持の秘訣であろうか。
本牧三之谷の空襲と被災の証言者であり、三溪園の創造に尽してこられた功労者であられる野村さんから伺いたいことはまだまだ多い。野村さんしか語り得ない貴重な体験をもっと聴かせていただきたい。
それでも会場の換気に十分な注意を払い、マスクを着用して臨む。イベント関連のシフト勤務が不規則になり、残念ながら参加できない職員もいた中で、川幡留司、吉川利一、渡邊栄子、鈴木正、石元幸一、滝田敦史、田代倫子(敬称略、順不同)、それに高井典子さん(神奈川大学教授、観光学、三溪園保勝会理事)と私が参加した。
あいにくの雨であったが、野村さんは、写真、地図、1945年5月29日の<横浜大空襲>で爆撃を受け全焼した自宅の復元図、これに基づき製作したジオラマ(50分の1)等を運んでこられた。このジオラマは前回のジオラマ<サムライ商会>(後述)に次ぐ第2作で、2年前に完成した。作者は同じ人気ジオラマ作家の山本高樹さん(1964年~)。
体験談の合間、適宜、質問に応じる89歳の野村さんと最年少は30代の、熱い世代を跨ぐ交流となった。その概要を掲げたい。
【中学一年の体験】
野村さんは太平洋戦争当時、三溪園の近くの三之谷97番に住まわれ、横浜市立間門(まかど)小学校から神奈川県立横浜第三中学(現在の横浜緑ヶ丘高校)へ進学した直後、1945(昭和20)年5月29日昼の<横浜大空襲>を体験、九死に一生を得た。
モノを見る力や社会的な判断力を身に着けつつある中学1年生という年齢は、当時は<学徒勤労動員>に駆り出される年齢であったが、幸い野村さんには、ふだん通りの学校生活を送り、放課後も遊び回れる自由があった。
1945年3月現在の学徒勤労動員率は大学・高専・師範学校が64.1%、中等学校(中学校・高等女学校・実業学校)が81.9%、国民学校高等科が58.6%(「学徒勤労動員」 Wikipedia)で、野村さんは辛うじて動員を免れたことになる。
野村さんについて私は3点の資料を配布し、講話を聴きながら必要に応じて参照されたいとメンバーに伝えた。資料1野村さんの略歴、資料2祖父・野村洋三氏について、資料3野村さんが過去に行った講演の記録である。
資料1 【野村さんの略歴】
まず野村さんご自身のことを記す。1932(昭和7)年10月7日、横浜市中区本牧三之谷に生まれる。慶応大学法学部を卒業後、1955(昭和30)年、横浜銀行入行、1973(昭和48)年に原地所株式会社(横浜市中区山下町11-1グランドアネックス水町)に移り、1976(昭和56)年6月に取締役総務部長、1991(平成3)年に常務取締役、2016(平成28)年から取締役(監査等委員)、株式会社ホテル、ニューグランドの役員を兼務する。2020(令和2)年に退職。
資料2 【祖父・野村洋三について】
野村さんの祖父は野村洋三さん。原三溪と同じ岐阜県の生まれで、二人は生涯にわたる盟友であった。野村洋三顕彰会ホームページには「世界へ挑んだ文化人 野村洋三 おもてなしの精神を 胸に宿して」と題して、次のように伝えている。
「1870(明治3)年、岐阜県大野町に生まれ、14歳のとき英語の専修学校と同志社学校(現在の同志社大学)へ入学。その後、東京専門学校(早稲田大学の前身)に進学。卒業後は通訳として活躍、1891(明治23)年、苦難の末、輸出製茶業の市場開拓のため渡米。東京帝大教授退官後、アメリカのボストン美術館東洋部主任となっていたアーネスト·フェノロサ、同じく動物学者のE·S·モース、ジアスターゼの高峯譲吉らと知遇を得る。
翌1892(明治24)年、コロンブス世界博覧会の通訳として渡米、新渡戸稲造と知己となる。
1896(明治28)年、横浜にサムライ商会を立ち上げ、関東大震災(1953年)後の1927(昭和2)年に開業したホテル、ニューグランド(HOTEL NEW GRAND)の建設に携わり、同ホテルの会長を務め、横浜商工会議所会頭、日米協会の終身会長、横浜ロータリークラブを立ち上げた。95歳没」。
【サムライ商会をジオラマで復元】
渡辺浩生<天地人のブログ>の2014年3月29日号「祖父野村洋三の足跡をジオラマで復元 ニューグランドの野村弘光さん」は次のように述べる。
▽ 野村さんの祖父、野村洋三は明治、大正、昭和の横浜を「懸け橋」として生きた。美術貿易商<サムライ商会>を創業し、ホテル、ニューグランド(横浜市中区)会長時代には、終戦後、同ホテルを最初の宿舎とした連合国軍最高司令官マッカーサー元帥を迎え入れた。
▽ 「横浜が輝いていた時代を生きた祖父の足跡を形に残したい」。ニューグランド取締役を務める傍ら、祖父の生涯と重なる横浜の近代史探究を続ける野村弘光さん(81)は昨年、人気ジオラマ作家の山本高樹さんに<サムライ商会>の“復元”を依頼。25分の1の豪華絢爛(けんらん)な店舗が完成した。26日から4月7日まで玉川高島屋(東京都世田谷区)で開催される山本さんの「昭和幻風景ジオラマ展」に展示される。
▽ 洋三は20代で渡米。帰路、船上で出会った新渡戸稲造の「太平洋の懸け橋に」という信念に感化され、自らは横浜港に上陸する外国人相手に日本の美術品を売ろうと明治27(1894)年、サムライ商会を開店した。店の名は新渡戸が説いた「武士道」にちなんだ。
▽ 得意の英語で客の心をつかみ、赤色の馬車による送迎サービスも評判に。日本の名工を発掘して海外に紹介するなど「店は横浜の文化交流の場となった」と弘光さん。しかし、大正12(1923)年の関東大震災で焼失。ホテル経営に転身した洋三に昭和20年8月末、大役が回ってきた
▽ 占領軍が横浜入りした翌朝。苦労して調達した一個の卵をマッカーサーにふるまった洋三は、「占領を平和的に行うために婦女子の安全確保と食糧供給をお願いしたい」と民間人の立場で直訴した。「敗戦国だからと卑屈にならず、堂々とふるまう度胸が祖父にはあった」。その“おもてなしの心”は今日も新しいと弘光さんは感じる。(渡辺浩生)
資料3 【横浜の空襲-その体験を語り継ぐ】
野村さんは、戦中、占領期を含む横浜現代史の講演をこれまで20回あまりつづけて来られ、それを紹介する記事が新聞に掲載された。それらのなかから主なものを以下に抜粋して紹介する。
(1)6年前(2015年4月16日)の産経新聞の記事「ドゥーリトル本土初空襲、目撃した野村弘光さん 実体験を検証、伝え続ける」。
「73年前の昭和17年4月18日、ドゥーリトル中佐に率いられた米陸軍爆撃機16機が本土を初空襲した。横浜上空でも焼夷(しょうい)弾を落とし、機銃を掃射して幼児1人が死亡。当時小学4年の野村弘光さん(82)=ホテル・ニューグランド取締役=は、超低空で飛び去った爆撃機を中区の自宅近くで目撃した。3年後の20年5月29日には横浜大空襲に遭遇。体験を手記にまとめ講演で語り伝えてきたが、戦後70年の今、自身を含めた空襲体験者の高齢化にもどかしさを感じる日々だ。(渡辺浩生)」
■一瞬の出来事、手記に 《その日は土曜日で、学校からの帰途、自宅前まで来たとき、いきなり空襲警報のサイレンが鳴り、激しい対空砲火音の中、和田山の方角から聞き慣れない爆音のする方を見ると、約100メートルくらいの超低空を、濃い色の機体に星のマーク付きで双発2枚垂直尾翼の飛行機が、東南方向へ東京湾に向かって、かなりのスピードで飛び去った》
日米開戦4カ月後の17年4月18日は快晴だった。日本近海の米空母ホーネットから飛び立ったB25陸軍爆撃機16機のうち、横浜を攻撃した1機を目撃した「一瞬の出来事」を、手記「横浜空襲を通しての戦争体験」に記した。平成10年8月に執筆し、友人らの証言などから新たに知った事実を書き加えてきた。
当時、市立間門国民学校4年。中区本牧三之谷の自宅のそばで、同級生と一緒に機影の消えた方向を呆然(ぼうぜん)と眺めていた。同級生は「マフラーを巻いた人間が見えた」と語ったが、<飛行機マニア>の野村さんは、目に焼き付いた機体が何か知りたくて、すぐ自宅に帰り「世界の翼」(朝日新聞社刊)で調べ、「英ハンドレページか米ロッキード・ハドソンの爆撃機じゃないか」と興奮気味に説明した。
後日の新聞で、米軍のB25(哨戒爆撃機)による初空襲だったことを知った。南区堀ノ内町付近で焼夷弾が落とされ、家屋が焼失。JR石川町駅に近い中区打越では、当時5歳の幼稚園児が機銃掃射を頭部に受け死亡した。しかし、初空襲で犠牲者が出たことを野村さんが知ったのは戦後になってから。「まだ空襲の恐ろしさを全く知らなかった」と振り返る。
だが、超低空による奇襲は南方での緒戦の勝利に酔う軍部、国民に衝撃を与えた。野村さんもこう記す。《日本本土の防空防衛の脆弱(ぜいじゃく)さを露見し、軍部も遅まきながら防空態勢の再検討を迫られた…わが家も早速、大工に頼んで庭の隅に半地下の防空壕(ごう)を作った》。
■非戦闘員ばかり犠牲。 昭和20(1945)年4月に県立第三中学に進学した野村さんは「一生忘れることのできない日」、5月29日を迎えた。
空襲警報が発令され、物干し台に上り、雁行する編隊の数を驚きながら数えていた。《10編隊目になった時、ザザーという音とともに、最初は無数の黒い豆粒が、みるみるグレーに変わり斜めに落ちてきた》
「焼夷弾落下」と叫びながら階段を駆け下り、風呂場の外まで来たとき、地響きと物すごい爆音にとっさに地面に伏せた。顔を上げると、家の壁が燃え、塀や門柱が倒れていた。爆弾が家に直撃したのだ。「駆けっこが苦手だったのが幸いした。足が速かったら、倒れた壁とともに爆風にやられていたと思う」
家族も無事だったが、近くの寺院には遺体がリヤカーやトタン板で次々運ばれ、荼毘(だび)に付される光景を見た。市街は壊滅し、横浜市史資料室によると、死者3649人、負傷者1万人以上の犠牲を出した。
「爆撃で犠牲になるのは、子供や老人など非戦闘員ばかり。それは今も変わらない」。豊富な航空知識も生かし、資料を集めて横浜での空襲記録を調べ続ける。体験を美化することなく自分なりに事実を検証したい。祖父の洋三さんはニューグランド会長として昭和20年8月30日、横浜に進駐したマッカーサー連合国軍最高司令官を出迎えた。
《空襲の全貌は、公式記録・個人の体験伝聞の集大成なくしてつかめない。しかしながら、当時から半世紀以上を経過し公式記録も出尽くした上、体験者の高齢化が進み、記録の再現が不可能になりつつある》。最初に手記に書いてから、17年がたった。
以上、野村さんの以前の講演録(新聞に掲載)に見る空爆の事実である。
これらの記述を受けて、野村さんは机上に置いたジオラマ(50分の1)について語り始めた。写真右手前が野村さん。ジオラマの手前に米軍の航空機、いちばん大きい機がB29、ボーイング B-29 スーパーフォートレス(Boeing B-29 Superfortress)と呼ばれる、アメリカのボーイングが開発した大型戦略爆撃機。高度9,000 mで高度2,400 m相当の気圧に耐えることができる。
B29は1943年から開発にかかり、1944年の1月中旬までに97機が完成していたが、そのうち飛行可能だったのはわずか16機に過ぎなかった。1944年6月15日、中国の成都の基地を発ち、九州にある八幡製鉄所を主な標的として日本初空襲が実施された。75機が出撃したが、7機が故障で離陸できず、1機が離陸直後に墜落、4機が故障のため途中で引き返すこととなり、残りの63機だけが飛行を継続した。

ジオラマを前に語る野村さん(右側)。記憶にある自宅を図面に起こし(机上の右脇)、それを基にして山本高樹さんにジオラマ作成を依頼、一昨年に完成した。それを前に熱く語る。
たんなるノスタルジーではない。横浜大空襲の三之谷の実像を後世に残そうと願い作成したジオラマである。高級車1台分ほどの経費がかかったと言う。
さらに机上の手前に、当時の三之谷の地図と自宅復元図が見える。その復元図が下記のもの。

図面は南が上。敷地96.78坪、建坪33坪。南東(図面の左上)に門扉があり、出窓のある洋間(6畳)と玄関につづく3畳間がある。その北側の部屋に焼夷爆弾(50キロ弾か)の爆心点と赤い矢印で記されている。
南西側(右上)に開けた庭には井戸、防空壕、砂場に鉄棒がある。東南に開けた8畳間と6畳間には縁側がついている。野村少年の部屋はと尋ねると、台所の隣の3畳間だったと言う。玄関の脇に<ニワトリ小屋>があり、新鮮な卵を得ていた。当時の住宅や風俗を知る貴重な民俗学的資料でもある。
当時、サラリーマン向けに、この種の貸家が多くあったという。ご尊父の野村光正さん(会社員、のちホテル、ニューグランド役員)は洋三さんの四女の夫。前年の秋、43歳で召集され不在だった(戦後に復員)。そのため長男の弘光少年が家を守る立場にあった。
北西の端(図面の右下)に前述の物干し台がある。弘光少年は空襲警報でそこに駆け上がり、襲来敵機を観察。前述のとおり、「焼夷弾落下」と叫びながら避難中、風呂場の外で地面に伏せた。「…足が速かったら、倒れた壁とともに爆風にやられていたと思う」。弘光少年の等身大の戦災体験は、このジオラマとともに現存する。
【<横浜大空襲>とは】
野村さんの講話を拝聴した後、改めて<横浜大空襲>とはどのような大事件であったか、その概要をまとめておきたいと思った(下記参考文献等による)。
太平洋戦争末期の昭和20(1945)年5月29日昼、アメリカ軍のB-29爆撃機 517機とP-51戦闘機 101機による無差別の焼夷弾攻撃で、市街地の4 6パーセントが被害を受け、約8千から1万人の死者が出たとされる。三之谷の被災は、その一部である。
工業地、商業地、住宅地及びこれらの混在地を焼夷弾攻撃すると、どのように燃え拡がるかのデータをアメリカ軍は得ておらず、当空襲は、そのデータ収集の実験的攻撃であった。1時間余に2570トンの焼夷弾を投下。燃えやすい木造住宅の密集地を事前に綿密に調べ上げ、焼夷弾で狙い撃ちにする作戦だったことが、後にアメリカ軍資料を分析した日本人研究家によって明らかにされた。最初から非戦闘員を狙った住民標的爆撃であり、東京や大阪、また他都市へも同様の作成がとられたという。
アメリカ軍は攻撃目標を東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校の5ヶ所に定めて襲撃。とくに被害が甚大だったのは、現在の神奈川区反町、保土ケ谷区星川町、南区真金町地区一帯とされる。
星川町が攻撃を受けたのは被服廠があったからである。また横浜市立大鳥小学校は焼け残り、戦後に自殺を図った東條英機元首相を収容した病院となった。
京浜急行電鉄黄金町駅周辺一帯では、東急湘南線の上下線に停車中の電車から退避中の乗客も被害にあい、多数の焼死体が累々と折り重なった。また同線の平沼駅は前年に廃駅となっていたが、焼夷弾によって壊滅的被害を受け、その鉄骨が1999(平成11)年まで架線柱代わりに残されていた。建立中だった護国神社(現三ツ沢公園)も本殿などすべてが焼失した。
白昼の空襲であったことから、第三〇二海軍航空隊(厚木海軍飛行場駐在)の零戦や雷電、第十飛行師団(天翔)の屠龍・鐘馗などの戦闘機、高射第一師団(晴兵団)の八八式七糎野戦高射砲が大挙して応戦、B-29の7機を撃墜、175機を損傷させた。
被害面積は、17,8平方キロ、市域臨海部の34パーセントが壊滅、市の中心部で無事だったのは山手地区の大部分と山下公園付近のみ。臨海部の軍需工場より人口密集地域の破壊が甚大だった。
なお前日の5月28日、アメリカは第3回原爆投下目標地選定委員会を開き、横浜を候補地から除外した。それまで横浜は原爆投下の候補地であった。除外され、大規模空襲地となったのである。
【主な参考文献】
(1)今井清一『大空襲5月29日―第二次大戦と横浜』(有隣堂 1981年/新版 1995年)。
(2)西和夫『三溪園の建築と原三溪』(有隣堂、2012年)。
(3)『三溪園 100周年-原三溪の描いた風景』(財団法人三溪園保勝会 2006年)。
(4)近刊の鈴木冬悠人『日本大空襲「実行犯」の告白~なぜ46万人は殺されたのか』 (新潮新書 2021年)
(5)戦後50年の節目に「戦後50年横浜平和祈念展」の開催に伴い刊行した図録『写真でみる横浜大空襲~戦時下の市民生活~』(1995年)がある(Web版もあり)。この図録の大半の写真は、横浜市史資料室「横浜の空襲と戦災」関連資料を使用しており、以下の資料が含まれる。
ア)写真。約1,000点。戦時下から戦後の講和条約締結、接収解除のころまでの写真が収集。市民が撮影した写真のほか、アメリカの空軍図書館や国立公文書館に所蔵されているアメリカ軍カメラマンの手になる写真も含まれる。
イ)体験記・日記・書簡。約500点。市民が寄せた体験記・日記・書簡などの文字資料は、『横浜の空襲と戦災』(全6巻)の第1巻「体験記編」や第2巻「市民生活編」、『調査概報』(全9集)の第5集「空襲体験記」で多くが活字化されている。
ウ)紙資料。約800点。戦時下の市民生活を物語る衣料切符や生活必需品購入通帳、戦時貯蓄債権のほか、罹災証明書、仮設住宅申込書など。
エ)現物類。約300点。国民服やもんぺ、学生服などの衣服、手製パン焼機や弁当箱などの食生活に係わる資料が中心。
オ)書籍類。約3,500点。シリーズとしてまとまっている資料に、『アサヒグラフ』(大正12(1923)年の創刊号から昭和20(1945)年まで)、『写真週報』(昭和13(1938)年の創刊号から昭和16(1941)年まで)、『週報』(昭和11(1936)年の創刊号から昭和20(1945)年まで)、駐日アメリカ陸軍が発行していた"Stars and Stripes"紙。
【6月10日の空爆】
5月29日の<横浜大空襲>では、アメリカ軍が三溪園を爆撃の対象から除外していた(貴重な文化財が集中する地域を爆撃対象から除外するよう一覧した<ウオーナー・リスト>による)、そのため三溪園は爆撃を免れたが、同じ中区三之谷の三溪園北側一帯は焦土と化した。
加藤注:ウオーナー・リストとは、アメリカの美術史家Langton Warner(1881~1955)が作成した日本の文化財リストを指す。これがそのまま空爆の除外に直結したとは言えず、このリストと実際の爆撃が一致しなかったケースも少なくない。
6月10日、B29、363機・P51、30機が中区本牧から磯子区富岡町方面を爆撃した。トンネルに待避した東急湘南電車の乗客は全滅。その1機が三溪園の南側の八聖殿近くにあった高射砲台をめがけて爆撃、一部は三溪園にも落下、内苑の臨春閣玄関棟が吹き飛び、外苑の旧東慶寺仏殿前の灯篭が倒壊、田舎屋や横笛の像が焼失した。
野村さんは、6月10日空爆のわずか6日前に、叔母の住む栃木県日光市へ縁故疎開をしていたため、この空爆を知らず、翌年1月に戻って以降の<伝聞>しか持ち合わせていないと言われた。
【戦後の三溪園】
疎開から三之谷へ帰還後に知る三溪園について、野村さんは幾つかを語られた。ジープで三重塔へ上るアメリカ兵の乱暴ぶりに手を出せなかったこと。また本牧一帯には<パンパン>や<オンリーさん>と呼ばれた女性が多数いたことにも言及された。
<パンパン>とは不特定多数の連合国軍兵士を客とする女性を指し、特定の相手(主に上級将校)と愛人契約を結んで売春関係にあった女性は<オンリー>または<オンリーさん>と呼ばれた」。これを知るのは昭和11(1936)年生まれの川幡さんと私くらいであろうか。若い世代には聞きなれない、女性蔑視の現実を否応なしに突きつける言葉である。
【財団法人としての三溪園の発展】
荒れ果てた三溪園を原家から横浜市の所管に移し、財団法人三溪園保勝会としたのが戦後8年目の1953(昭和28)年である。それから半世紀余を経た2007(平成19)年に国指定名勝を受け、2012(平成24)年には公益財団法人三溪園保勝会となった(『三溪園の百年』2006年)。
野村さんは2007年、国指定名勝となった年から財団法人三溪園保勝会の理事に就任、本年2021年6月の理事会をもって退任された。
私事にわたるが、野村さんに私が初めてお会いしたのは9年前の2012(平成24)年8月1日、公益財団法人三溪園保勝会の理事会(鶴翔閣にて)であった。会議後の雑談のなかで、野村さんが「定期的にジムに通い筋トレをしている」と言われ、そのお元気な様子に感嘆した。機械に詳しく、趣味は手先を使う工作や手作業とのこと。これも健康維持の秘訣であろうか。
本牧三之谷の空襲と被災の証言者であり、三溪園の創造に尽してこられた功労者であられる野村さんから伺いたいことはまだまだ多い。野村さんしか語り得ない貴重な体験をもっと聴かせていただきたい。
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