歴史研究における図像史料
歴史研究には文献史料が第一義的に重要である。文献史料とはモノの史料と対比した言い方であり、この文献史料には文字史料(統計を含む)と図像史料(地図、版画、写真、絵画等)が含まれる。この問題について初めて明示的に論じたのが、本ブログの2017年1月13日掲載【19】文字史料と図像史料(「我が歴史研究の歩み」19)であった。
日本国内にいて通常の歴史研究を行っていれば、ほとんど気づくことがなかったが、このとき私は「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」をテーマとして文部省在外研究の助成を受け、1年余にわたりイギリスで史料収集を行っていた。短期間の滞在で、英文の文献史料を効率よく収集するには何が必要か。
文献史料を発見できるか否かはテーマと着想で決まると言えよう。母語か否かは二次的問題であるとは言うものの、同じテーマであれば、英語を母語とする研究者に対して明らかに差がつく。例えば、古い新聞の見出しのニュアンスやその背景の判読スピードに圧倒的な差が出てくる。
19世紀になると新聞・雑誌がぞくぞくと刊行される。とくに「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」の研究には新聞・雑誌は不可欠であり、議会や政府の公文書と並ぶ一級史料である。その代表例の一つが、1842年5月14日創刊の週刊新聞“Illustrated London News”である。紙名が示すとおり、図像史料を多量に使うのが特徴である。報道カメラマンの代わりに報道画家を現地に派遣し、描かれた図像を本社で銅版画にして新聞に掲載する初めての試みである。
【第68回 全国博物館大会】
ついで本ブログの2020年12月2日掲載の「第68回 全国博物館大会」のなかで同年11月25日(水曜)と26日(木曜)の2日間、横浜市開港記念会館で開催された公益財団法人日本博物館協会主催、神奈川県博物館協会共催の第68回全国博物館大会「変化の中の博物館 ―新たな役割と可能性―」について、次のように言及した。
「…歴史学徒として文献史料を主に図書館(library)や文書館(archive)で入手してきたが、博物館(museum, art museum)には展示を観に行くことはあっても収蔵資料を使った経験がほとんどない。私の研究分野では、図書館、文書館、博物館の順で利用頻度が高く、その順で馴染みが深い。…国会図書館をはじめ各大学図書館や公立図書館にはそれぞれに独特のコレクションがあり、国外もふくめ図書館にどれほど世話になったことか。20世紀末頃からネット検索が可能となり、図書や雑誌のデジタル版も利用可能となり、利用範囲は一段と拡がった。
文書館(archive)は、原則として1点しかない<文書>を取り扱う機関である。国立公文書館、横浜開港資料館、外交史料館、東大史料編纂所等を活用するほかに、外国では上海档案館、ロンドンやワシントンDCのナショナル・アーカイブ(国立公文書館)に世話になった。こちらも最近、デジタル化が進み、書斎からパソコンを通じて利用できる範囲が拡大している。
【『国際写真情報』誌の復刊によせて】
その後しばらくして、株式会社かなえから『国際写真情報』誌のデジタル版復を出すので解説を書いてほしいと依頼を受け、「 『国際写真情報』誌の復刊によせて」を書いた。以下、上述と重なる部分も少しあるが、そこから抜粋しつつ加筆したい。
歴史研究にとって文字資料はなによりも重要であるが、これに加えて映像や図像、モノの資料は欠かせない。一枚の絵、一枚の写真、一つのモノがどれほど歴史の実像を豊かにしてくれるか。
歴史研究に限らず、ひろくすべての学問の各分野にそれぞれの研究史があり、それを探るために映像や図像の史料(以下、図像史料とする)は欠かせない。先行研究(著書・論文等)を読むことは不可欠の前提であるが、自分の進めたいテーマの研究史を尋ね、そこから着想を得ようとする時、感性で把握する図像史料は、論理的な文章語や数式等とは別の働きかけがあり、それを通じていっそう実像に近づくこともできる。一方、講義・講演等を聴く側にとっても、図像史料を通じていっそう理解が深まる。
【リーズ大学の開架式図書館で】
ところが図像資料を入手するのは容易ではない。この場合、(1)必要な図像史料とは何かを考え、(2)その所蔵先をつきとめ、(3)新聞・雑誌等の図像史料の宝庫を見つけ、取捨選択しつつ、いかに使いこなすか、の一連の作業が不可欠である。
新聞・雑誌と一言でいうが、数10年、あるいは100年を越えて継続しているものも少なくない。長期継続するものに信頼を置くとすれば、そこから必要な図像史料を得るには膨大な時間と労力が要る。例えば、イギリスで1785年に創刊した世界最古の日刊新聞”The Times”には膨大な情報が含まれており、19世中頃には図像史料(エッチング=銅版画)も少なからず登場する。
43年も前になるが、1978年、私は「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」をテーマに、文部省(現在の文部科学省)の在外研究費の助成を受け、最多の資料があると見たイギリスに赴き、東アジア研究で有名なリーズ大学(University of Leeds)に拠点を置いた。リーズ市はロンドンから北東に特急で2時間強、ちょうど東京=仙台の位置関係に似ている。
Leeds School of Medicine(1831年)とYorkshire College of Science(1874年)等を起源とするリーズ大学は蔵書が充実しており、図書館は夜の11時まで使える。夕食を終えてからまた出かけてフル活用した。貴重本を除いてすべてが開架式で、高所の本を取るために各所にハシゴが用意されている。
新聞は横置きの書架に置かれ、そこから”The Times”を取り出してはページをめくり、終わったら戻す。これだけでも相当の筋トレを覚悟しなければならない。1冊が数キロの重さで、かつ新聞紙大なので操作は簡単ではない。酸性紙のため、ボロボロにならぬよう、ページをゆっくりめくる。図像史料であれば一目瞭然だが、文字史料では見出しを通じて内容を瞬時に選り分け、本文へ進む。
あまりにも膨大な作業に疲れ、途方に暮れていた時、”Palmers Index to The Times”という小型の冊子(索引)を見つけた。手垢に汚れ、反り返っている。年代別に合わせて数百冊あっただろうか。英語を母語にする人たちでさえ索引を必要とするのなら、私にはもっと必要度が高い。
見つけたい記事のおよその年代を定めてこの索引を開き、アルファベット順に配列された事項や地名・人名等をクロスチェックすれば、該当する本紙の年月日とページが分かる。これで思わぬ図像史料に出くわすこともあった。約20年後の1999年、The Times社はオンラインサービスを開始した。パソコンの急速な普及に伴うサービスである。
もう一つ、新聞・雑誌と同じく膨大な部数を誇る『議会文書』にもたいへん世話になった。これは各省庁から議会へ提出した文書集であり、議院内閣制のイギリスではとくに信頼できる行政文書を多数含む。こちらはA4型(レターサイズ)で、厚さ10センチほどに製本されていた。1冊が5キロほどあるか。書架からの出し入れは、これまた相当の筋トレが必要である。
議会の所信表明や質疑応答も貴重な史料だが、個別の課題に絞る前に、まず研究課題「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」という大きなテーマに相応しい整理をしたいと考えていたところ、中長期の課題を把握できそうな貿易統計に焦点を絞ることに思い至った。
棚全面に年代順に配架された議会文書の中から各年の貿易統計を見つけ出し、数冊分をカートに乗せてコピー室まで運び、また筋トレを重ねてコピーを収穫してから帰宅、数字を方眼紙に落とした。
数ヵ月はかかったと思う。じょじょに実像が浮かんできた。その頃はまだパソコンは生まれておらず、使えるのは電卓だけ。方眼紙を張り合わせ、①中国からイギリスへの茶の輸入、②植民地インドから中国へのアヘン輸出、③イギリス産業革命の成果物の工場製綿布のインドへの輸出の年次統計をグラフ化し、それらを統合して<19世紀アジア三角貿易>の仕組みを三角形で図示することができた。
後にまた史料を見つけて、上掲②の輸出の根拠となるアヘン生産量をグラフ<インド産アヘンの140年>で図示することができた。毎年刊行される議会文書から140年分を導き出す膨大な作業の成果である。グラフやチャートで図示することは<図像>表現(アウトプット)の一つの方法であり、活用法である。これを可能にするのが万国共通の数字の史料である。
イギリス滞在中は図書館や文書館通いにとどまらず、せっかくの機会を活用して<旅は歴史家の母>と、よく旅行もした。家族や知人とドライブするだけでなく、地方の文書館や資料館を尋ねて珍しい図像史料やスキ・カマ・民具等モノの史料を発見し、19世紀のイギリス社会の急変ぶりやモノを通した東西交流(農具については中国から導入してイギリスの農業革命に資したものが多い)の姿を実感した。また特許申請に付された図面等も参考になった。
こうした日々の発見やイギリス滞在のメモは、早くから雑誌に連載し、それに専門論文等を加えて、『イギリスとアジア 近代史の原画』(岩波新書 1980年)として上梓することができた。本書の122ページと126ページに載せた<19世紀アジア三角貿易概念図>や、136~137ページに載せた折れ線グラフ<インド産アヘンの140年>は、のち主要各社の教科書・高校世界史Bに転載されたが、これを見るたびにリーズ大学図書館の匂いと筋トレした日々を思い出す。
【図像史料収集の難しさ】
帰国後は、もっぱら文献史料に基づいた研究を進めていたが、講談社で歴史叢書「ビジュアル版 世界の歴史」(Illustrated History of the World)の企画が持ち上がり、その第17巻『東アジアの近代』を私が分担、刊行は昭和60(1985)年11月である。図像史料を見つけるのにイギリスでの経験が役立った。40歳代後半の約2年をかけた大仕事である。
本書の対象は、18世紀末から1949年(中華人民共和国の成立)まで約150年間の東アジア(日本・中国・朝鮮)の世界史である。当時の東アジアに最大の影響力を有していた列強は英米仏と日本であり、彼らは政治・軍事・経済にとどまらず、新聞・雑誌を通じた情報発信にも力を入れていた。その分だけ図像資料が多い。
その代表例がイギリスの週刊新聞“Illustrated London News”であり、創刊は1842年5月14日。日本では「絵入りロンドンニュース」と呼ばれ、開港後の横浜で抄訳版も出ている。創刊号は16ページ建てに32枚の版画を入れ、進行中だったアフガン戦争の記事や、フランスの列車事故、チェサピーク湾での汽船の事故、合衆国大統領選挙の候補者の調査、その他、長文の犯罪事件、劇評、書評等々、広告も3ページある。
東アジアはちょうどアヘン戦争(1839~42年8月29日の南京条約締結)の終結前夜であり、関連記事と銅版画を掲載していた。本紙の最大の特徴は紙名が示す通り、エッチング(銅版画)の図像史料を豊富に使用している点である。取材のため画家を派遣、その絵を最速の蒸気郵船P&О社でロンドンへ郵送、これを基に版画を作り、大量印刷の新聞に載せた。
この“Illustrated London News”は、東京大学総合図書館にかなりあった。書庫はまだ開架式(現在は閉架周密式)で、文章を読む必要のほとんどない図像史料の発掘作業は比較的楽であり、付箋を挟みつつ巻号とページ数を一覧して撮影に回した。欠号は国立国会図書館や横浜開港資料館等で補った。
それ以降、アメリカの”Harpers’Monthly Magazine”誌(1850年6月創刊)等、類似の新聞・雑誌がアメリカ、フランス等にも拡がる。これらの雑誌も日本の図書館等に広く所蔵されている。
なおエッチング(銅版画)や木版画に代えて<写真>がグラフ誌に登場するのは、20世紀に入ってからである。カラー写真を多用する最初のグラフ誌の登場は、さらに遅れて1936年創刊の『ライフ LIFE』誌まで待たなければならない。
【日本のグラフ誌】
拙著『東アジアの近代』には、日本の新聞やグラフ誌からも図像史料をかなり採用した。1889(明治22)年に東陽堂が『風俗画報』を創刊、江戸時代から大正時代を取上げて世相、風俗、戦争、文学、歴史、地理など当時の社会風俗を視覚的に解説していた。木版の浮世絵の伝統を継ぎ、木版画を多用、師弟関係にあった小林永濯、富岡永洗や、その子弟など、多くの日本画家を起用した。1916(大正5)年まで27年間にわたり特別号を含む全518冊にのぼる。
『風俗画報』には、早くも1910年から索引が出ている。複製の冊子版『風俗画報』(東陽堂)は国書刊行会から1973年6月に出版され、多くの図書館で閲覧できた。後にパソコンの急速な普及に沿うように、『「風俗画報」CD-ROM版』(ゆまに書房、1997年)も出た。
次いで明治末から大正時代にかけて、『東洋画報』、『近事画報』(1903年~ 国木田独歩が編集責任者の近事画報社から創刊された月刊女性雑誌)、『東京パック』(1905年~ 東京パック社)、『婦人画報』(1905年~近事画報社のち婦人画報社)、『日曜画報』(1911年~ 博文館)、『国際写真情報』(1922年~国際情報社)、『アサヒグラフ』(1923年~ 朝日新聞社)、『婦人グラフ』(1924年~ 國際情報社)等が次々と発刊される。
こうした新聞・雑誌に掲載された図像史料から、時代ないし事件を象徴する図像を選び出し、さらに1枚物の浮世絵や絵画、版画、写真等を合わせて約800点を蒐集・撮影(編集部が撮影)し、うち約500点を『東アジアの近代』(全268ページ)に収録した。図像を見て初めて気づき、文章を補正したこともあった。
【新たな出会い】
1980年刊行の拙著『イギリスとアジア 近代史の原画』(岩波新書 1980年)は、中国人留学生・蒋豊(ショウ ホウ、Jiang Feng)さんによって中国語に翻訳・刊行された。彼は北京師範大学で歴史学(明代史)を学び、ジャーナリズムの道に進んだ後、横浜市立大学へ留学、私の講義を熱心に聴いてくれた。
ある日、教室を出ようとすると、沢山の付箋を挟んだ『イギリスとアジア』を手にした蒋さんが、これを中国語に訳したい、初めの方は訳しました、読んでください、と私に手渡した。発売されたばかりの中国語ワープロで打ってある。端正で力強い中国語の文体に感銘を受けた。
それから幾度もの読み合わせを経て、『イギリスとアジア』は蒋豊訳『十九世紀的英国和亜州』(加藤祐三史学著作選之一、1991年)として中国社会科学出版社から刊行された。つづけて上掲の『東アジアの近代』(講談社 1985年)が蒋豊訳『東亜的近代』(加藤祐三史学選之二、1992年)として、さらに『黒船異変-ペリーの挑戦』(岩波新書 1988年)が蒋豊訳『日本開国小史』(加藤祐三史学選之三、1992年)として、また横浜博覧会(1989年)むけに私が編集委員長として編纂・執筆した”Yokohama Past and Present”の日本語版『横浜 いま/むかし』から私の書いた通史部分を抜粋したものを蒋豊訳『横浜今昔』(加藤祐三史学選之四、1993年)として同じ出版社から刊行された。計4冊の訳書「加藤祐三史学選」である。
その後、彼を九州大学大学院に送り出したが、そこで消息が途絶えてしまった。とても心配したが、手がかりがないまま20年が経った。私は横浜市立大学を2002年に定年退職、2010年7月から都留文科大学の学長となり、翌2011年3月11日の東日本大震災の翌日から「(都留文科大学)学長ブログ」の連載を始めていた。
このブログで私の所在を知ったのか、『人民日報海外版日本月刊』の原田繁副編集長という方から大学宛てにメールが届いた。「…弊社編集長、蒋豊の申しつけにより連絡を担当致します。…」とある。その顛末を『学長ブログ』の077番「20 年ぶりの再会」 (2013 年1 月31 日)に掲載した。「学長ブログ」は現在継続中の「加藤祐三ブログ 月一古典」 http://katoyuzo.blog.fc2.com/ 右側のリンク欄に付してある。
そこに23年ぶりの新装版、蒋豊訳『東亜近代史』(東方出版社、北京、2015年7月、226ページ)が送られてきた。同社の<学而>叢書の1冊で判型が大きく、紙質や印刷も見違えるほど上質になり、図像史料はきわめて明瞭。そして新装版の裏表紙に次の一文があった(加藤祐三ブログの2015年7月11日掲載「中国語訳『東亜近代史』」)。
「近代という時代は、富も人口も一挙に増加した、激しい変革の時代である。時間のテンポも速まり、世界各地で戦争と革命が起こり、<弱肉強食>の抗争と競争が支配した。列強が東アジアに侵入した時期、なぜ日本は実力を蓄え、中国は虐げられたのか。本書は歴史過程を客観的に叙述しつつ、日本の動きを直視し、多くの歴史の疑問に答えてくれる」。
この東方出版社の新装版では、「再版序言」を蒋豊さんが、「再版后記」を私が書いている。それを紹介した私のブログでは「…原著は絶版となったが、訳書が中国で再版された。感無量である」と結んだ。
これ以来、蒋豊さんとは何度も会う機会ができた。彼はいま『人民日報海外版日本月刊』編集長として東京と北京を往来、知日派ジャーナリストの代表格として活躍している。いまも見せる爽やかな笑顔に、30余年前、教室の前列に座り、真剣にノートを取っていた頃の姿が重なる。
そして今年、ふたたび『人民日報海外版日本月刊』原田副編集長からメールが届いた。今回の『国際写真情報』誌電子版復刊への推薦文の依頼である。追いかけるように、㈱かなえの代表取締役 義 広司さんからメールが届いた。「人民日報海外版日本月刊の蒋豊編集長からのご紹介により」として「弊社刊行電子書籍の解説文および推薦文の執筆」の依頼である。
【国際写真情報の復刻版】
上掲のグラフ誌一覧のなかにある『国際写真情報』誌(月刊 国際情報社刊行、1922(大正11)年創刊、1968(昭和43)年に廃刊)の電子書籍としての復刻版が本企画である。2021年9月末から紀伊國屋書店と丸善雄松堂で販売が始まった。
私は、『国際写真情報』誌には99年前の創刊とは思えない斬新な特色が3つあるとして、(1)雑誌名、(2)本誌の体裁、(3)紙面構成の順に述べた。
第1に雑誌名の<国際>と<情報>である。21世紀に入って流行する大学の学部・学科名を彷彿とさせるが、当時、<情報>はスパイ活動とほぼ同義であり、<国際>は<国粋>の反対語として、むしろ否定的なニュアンスを持っていた。ところが本誌の題名は、現代の用法を先取りしていたと言える。それにとどまらず、当時まだ珍しい<写真>を多用する<情報>誌である。The International Graphic と英語名を付し、写真の説明も日本語と英語と中国語(1938~1945年のみ)で併記している。
ちなみに社名は<写真>を抜いた<国際情報社>である。ウィキペディアによれば、1922年から2002年まで存在した日本の出版社。化学工業新聞社社長の石原俊明によって設立され、『国際写真情報』などを発行していたとある。石原俊明(いしはら しゅんめい、1888年1月21日~1973年1月17日)は、静岡県出身の昭和期の実業家。1903年上京。化学工業新聞社社長に就任。科学知識普及協会を設立。1921年、『科学知識』創刊。1922年有限会社国際情報社を設立、『国際写真情報』創刊。1923年『劇と映画』創刊。1924年『国際写真グラフ』『婦人グラフ』創刊。1934年9月『大法輪』創刊。戦後1951年、株式会社国際情報社復興、1959年『家庭全科』創刊とある。
第2の特色が本誌の体裁である。つやのあるコート紙を使っている。新興媒体の<写真>を、より鮮明に見せる工夫であろう。紙の規格は横26.5センチ×縦38.5センチで、日本伝統の美濃紙サイズ、現在のB4型に近い。写真は1ページに1~2枚を大きく載せることが多く、6枚がほぼ上限である。<写真>には短い解説が日本語と英語と中国語(1938~1945年のみ)で付されている。
【紙面構成】
第3の特色が紙面構成。時代と世相をあらわす例として、3号分を取り上げる。
(1) 第2巻第12号(大正12(1923)年11月10日発行)
表紙を2段に分け、右から左へ、「国際写真情報 世界の大震と復興 関東大震災号姉妹編」と並べ、欄の上部の枠外に英文名、The International Graphic、下部の約5分の4のスペースを占める写真には、右後方に傾く石造建築を背景に立つターバン姿の男性。
本号の副題が示すように、関東大震災から約2か月後の、世界の大震災を集めた特集である。最初の折り込みが「国際漫画」と「安政二卯十月二日 大地震 附類焼場所」(裏面は白)、つづけてイタリアのメッシナ市大地震(1908年)、濃尾大震(1891年)と台湾嘉義地震(1906年)、焦土の東京(航空写真)、サンフランシスコ大地震(1906年)、印度(ボンベイ、現ムンバイ)の大地震(1906年)…と被災・復興状況を写真と解説で伝え、関東大震災(1923年)からの復興状況につなぎ詳論する。災害や事故等を伝える手段として写真は優れている。最後の6ページに「世界震災物語 附・帝都各区復興視察記」を置く。裏白のページをふくめて20枚、40ページ。
(2) 第20巻第2号(昭和16(1941)年2月)
「雪の山東戦線に活躍する皇軍の軍犬」と説明のある写真を大きく掲げ、「世界新秩序行進譜 日支大事変画報」を特集する。
この号から表紙の裏ページに目次が加わり、全体の内容が分かりやすくなった。最後のページ(裏表紙の内側)には「国際時事日誌」が簡潔に記されている。本文最初のページにヒットラー総統が閲兵する姿を写した横組みの写真(一部カラー)を掲げ、右端に縦組みで「盟邦の旗の下に総統 武勲の部隊閲検」の見出しに数行の解説を中国語と日本語で付し、その下に英語の解説。ついで「羅馬尼三国枢軸加盟調印式」(日独伊三国同盟にルーマニアが加盟した調印式)、3ページ目に「聖戦第五歳 陣中頌春」として日の丸の下、7人の日本兵がくつろぐ様子を写す。つづけて日本画を2点。ここまでが<口絵>に相当するのか、裏ページは白。
それ以降はページの両面を使い、「航空機乗員中央養成所参観」、「陸軍防空学校」、「力強いぞ われ等の備え」等の特集記事が各2ページ。ついで日本画1点(裏ページは白)を挟み、特集「新春之初飛行」、「ドイツ航空隊活躍の実景」(イラスト)、「大政翼賛会中央協力会議」、「興亜推進之巨声 近衛首相・汪主席年頭之辞」等がつづく。枚数は裏白を含めて25枚で50ページ。内容が充実し分量も増えた。
(3) 第30巻第1号(昭和31(1956)年1月号)
新春らしく表紙をカラーで能を舞う姿(観世流の浅見真建氏)で飾る。誌名は左から右への横書きで「国際写真情報」と変わる。その裏に<原色版特集>、<原色版口絵>、<一色写真版>、<グラビア版>、<原色版特集>、<一色写真版>とそれぞれ銘打つ目次がある。最後のページ(裏表紙の内側)に英文の目次を置く。
最初のページが「善宮さま 晴れの成人式」のモノクロ写真、成年の装帯<縫腋袍>(ほうえきのほう)をまとう。3ページから5ページまでカラーで宮内庁雅楽<太平楽>、ついで第11回「日本美術展」の特集。
ついで見開き2ページの「原子力平和利用博覧会」、「阿片を追払え イラン政府取り締まりに大童わ」、「城ガ島 空から見た日本 4」、「帽子の好きな人々」、「スリルある珍味」、「おいらん誕生 文化・文政時代の女性風俗を再現」がつづく。
新しく「明治の日本人」シリーズが始まり、第1回は「明治天皇」(計5ページ)。そして以下の特集を組む。「原子力潜水艦は100年前にもあった」、「現代風俗 ニュー・スタイルの大衆温泉」、「杉野芳子 洋裁とともに歩んだ30年」、「あなたも作れるモダンな家具」、「富士山麓の大試射会」、「ニュースの焦点」、「コングもノックアウト アジアプロレス選手権大会」、「天皇皇后両杯 今年も東京へ 第十回国体」、「長崎おくんちと佐賀の踊り」。
ページ番号は付されていないが、25枚、50ページ。解説は日本語と英語のみで、中国語はなくなった。
【記録映画の登場】
『国際写真情報』誌等のグラフ誌の図像史料とは違い、昔に撮影されたフィルムの断片をつないで再編集した「NHK BS 世界のドキュメンタリー」が新たに登場した。うち「カラーでよみがえるイギリス帝国 植民地の拡大と独立」(Britain in Color:Empire(イギリス/アメリカ 2019年)は、1899年に撮影されたフィルムに始まり、「…19世紀から植民地を拡大し続け、世界経済を制したイギリス。植民地の人々は世界大戦でイギリスのために闘ったが、1960年代には各国が独立を目指して反乱を起こす。 1920年までに地球の陸地の4分の1を支配し、史上最大の帝国となったイギリスの戦争と植民地の歴史をカラー化映像でつづる。南アを勝ち取った1889年のボーア戦争、日本に敗北を喫した第二次世界大戦のシンガポール戦、ガンジーが率いた平和的な反英運動など、イギリス目線の映像で当時がよみがえる。」
またNHK BS1『カラーでよみがえるアメリカ』は、個人所蔵などで埋もれていた膨大なフィルムを発掘、カラー化してアメリカの20世紀の歩み(1920年代から60年代まで)に新たな光を当てるシリーズ。うち「移民大国への道」は1900年代初頭、ニューヨークに到着するヨーロッパからの移住者を撮影するトーマス・エジソンのチーム。イタリア人街とチャイナタウンが賑わいを見せ、移民を脅威と感じ始める白人社会。半世紀以上にわたる貴重な映像から、人種差別とアメリカ社会への適応の歴史でもある“移民の20世紀”を振り返る。
【終わりに】
最後に、いささか私的なことを交えて、この四半世紀の変化を述べたい。イギリスから帰国した1979年後も、かなりのペースで執筆、酷使した右手がついに音を上げ、執筆もテニスもできなくなった。そこへ1984年5月の新聞広告に「8月、ポータブルワープロ発売」とあり、これで過重負担を減らせると期待、すぐ注文した。
このワープロで書いた第1号が、1985年刊行の『東アジアの近代』の一部である。このワープロはメモリーの容量が小さいうえメール送受信や情報検索機能もなかった。しかし10本指を駆使してキーボードを動かし文章を作り、その通りに印刷できる。熟練の植字工が活字を拾う印刷術が始まって以来の大きな変化、すなわちアナログとデジタルが交差する劇的な交代期に居合わせた気がした。
それ以来、私は講義や講演をする時、マイクロソフト社のパワーポイント(1994年発売、以来、バージョンアップ)を使って資料を作り、目次、主題、年表、地図等に加えて図像史料を豊富に入れて放映、視聴者が耳で聞きつつ、目で確認できるよう工夫している。
1995年頃からの四半世紀にわたるデジタル技術の革新は驚くほど速く、入力専門のワープロから通信機能や作図、図像の取り込み等を含むパソコンへと展開し、かつそれを習得する人びとが急増、いわば<社会的大爆発>が起きた。こうした時代にこそ、歴史研究における図像史料の活用は、ますます重要になってくる。
日本国内にいて通常の歴史研究を行っていれば、ほとんど気づくことがなかったが、このとき私は「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」をテーマとして文部省在外研究の助成を受け、1年余にわたりイギリスで史料収集を行っていた。短期間の滞在で、英文の文献史料を効率よく収集するには何が必要か。
文献史料を発見できるか否かはテーマと着想で決まると言えよう。母語か否かは二次的問題であるとは言うものの、同じテーマであれば、英語を母語とする研究者に対して明らかに差がつく。例えば、古い新聞の見出しのニュアンスやその背景の判読スピードに圧倒的な差が出てくる。
19世紀になると新聞・雑誌がぞくぞくと刊行される。とくに「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」の研究には新聞・雑誌は不可欠であり、議会や政府の公文書と並ぶ一級史料である。その代表例の一つが、1842年5月14日創刊の週刊新聞“Illustrated London News”である。紙名が示すとおり、図像史料を多量に使うのが特徴である。報道カメラマンの代わりに報道画家を現地に派遣し、描かれた図像を本社で銅版画にして新聞に掲載する初めての試みである。
【第68回 全国博物館大会】
ついで本ブログの2020年12月2日掲載の「第68回 全国博物館大会」のなかで同年11月25日(水曜)と26日(木曜)の2日間、横浜市開港記念会館で開催された公益財団法人日本博物館協会主催、神奈川県博物館協会共催の第68回全国博物館大会「変化の中の博物館 ―新たな役割と可能性―」について、次のように言及した。
「…歴史学徒として文献史料を主に図書館(library)や文書館(archive)で入手してきたが、博物館(museum, art museum)には展示を観に行くことはあっても収蔵資料を使った経験がほとんどない。私の研究分野では、図書館、文書館、博物館の順で利用頻度が高く、その順で馴染みが深い。…国会図書館をはじめ各大学図書館や公立図書館にはそれぞれに独特のコレクションがあり、国外もふくめ図書館にどれほど世話になったことか。20世紀末頃からネット検索が可能となり、図書や雑誌のデジタル版も利用可能となり、利用範囲は一段と拡がった。
文書館(archive)は、原則として1点しかない<文書>を取り扱う機関である。国立公文書館、横浜開港資料館、外交史料館、東大史料編纂所等を活用するほかに、外国では上海档案館、ロンドンやワシントンDCのナショナル・アーカイブ(国立公文書館)に世話になった。こちらも最近、デジタル化が進み、書斎からパソコンを通じて利用できる範囲が拡大している。
【『国際写真情報』誌の復刊によせて】
その後しばらくして、株式会社かなえから『国際写真情報』誌のデジタル版復を出すので解説を書いてほしいと依頼を受け、「 『国際写真情報』誌の復刊によせて」を書いた。以下、上述と重なる部分も少しあるが、そこから抜粋しつつ加筆したい。
歴史研究にとって文字資料はなによりも重要であるが、これに加えて映像や図像、モノの資料は欠かせない。一枚の絵、一枚の写真、一つのモノがどれほど歴史の実像を豊かにしてくれるか。
歴史研究に限らず、ひろくすべての学問の各分野にそれぞれの研究史があり、それを探るために映像や図像の史料(以下、図像史料とする)は欠かせない。先行研究(著書・論文等)を読むことは不可欠の前提であるが、自分の進めたいテーマの研究史を尋ね、そこから着想を得ようとする時、感性で把握する図像史料は、論理的な文章語や数式等とは別の働きかけがあり、それを通じていっそう実像に近づくこともできる。一方、講義・講演等を聴く側にとっても、図像史料を通じていっそう理解が深まる。
【リーズ大学の開架式図書館で】
ところが図像資料を入手するのは容易ではない。この場合、(1)必要な図像史料とは何かを考え、(2)その所蔵先をつきとめ、(3)新聞・雑誌等の図像史料の宝庫を見つけ、取捨選択しつつ、いかに使いこなすか、の一連の作業が不可欠である。
新聞・雑誌と一言でいうが、数10年、あるいは100年を越えて継続しているものも少なくない。長期継続するものに信頼を置くとすれば、そこから必要な図像史料を得るには膨大な時間と労力が要る。例えば、イギリスで1785年に創刊した世界最古の日刊新聞”The Times”には膨大な情報が含まれており、19世中頃には図像史料(エッチング=銅版画)も少なからず登場する。
43年も前になるが、1978年、私は「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」をテーマに、文部省(現在の文部科学省)の在外研究費の助成を受け、最多の資料があると見たイギリスに赴き、東アジア研究で有名なリーズ大学(University of Leeds)に拠点を置いた。リーズ市はロンドンから北東に特急で2時間強、ちょうど東京=仙台の位置関係に似ている。
Leeds School of Medicine(1831年)とYorkshire College of Science(1874年)等を起源とするリーズ大学は蔵書が充実しており、図書館は夜の11時まで使える。夕食を終えてからまた出かけてフル活用した。貴重本を除いてすべてが開架式で、高所の本を取るために各所にハシゴが用意されている。
新聞は横置きの書架に置かれ、そこから”The Times”を取り出してはページをめくり、終わったら戻す。これだけでも相当の筋トレを覚悟しなければならない。1冊が数キロの重さで、かつ新聞紙大なので操作は簡単ではない。酸性紙のため、ボロボロにならぬよう、ページをゆっくりめくる。図像史料であれば一目瞭然だが、文字史料では見出しを通じて内容を瞬時に選り分け、本文へ進む。
あまりにも膨大な作業に疲れ、途方に暮れていた時、”Palmers Index to The Times”という小型の冊子(索引)を見つけた。手垢に汚れ、反り返っている。年代別に合わせて数百冊あっただろうか。英語を母語にする人たちでさえ索引を必要とするのなら、私にはもっと必要度が高い。
見つけたい記事のおよその年代を定めてこの索引を開き、アルファベット順に配列された事項や地名・人名等をクロスチェックすれば、該当する本紙の年月日とページが分かる。これで思わぬ図像史料に出くわすこともあった。約20年後の1999年、The Times社はオンラインサービスを開始した。パソコンの急速な普及に伴うサービスである。
もう一つ、新聞・雑誌と同じく膨大な部数を誇る『議会文書』にもたいへん世話になった。これは各省庁から議会へ提出した文書集であり、議院内閣制のイギリスではとくに信頼できる行政文書を多数含む。こちらはA4型(レターサイズ)で、厚さ10センチほどに製本されていた。1冊が5キロほどあるか。書架からの出し入れは、これまた相当の筋トレが必要である。
議会の所信表明や質疑応答も貴重な史料だが、個別の課題に絞る前に、まず研究課題「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」という大きなテーマに相応しい整理をしたいと考えていたところ、中長期の課題を把握できそうな貿易統計に焦点を絞ることに思い至った。
棚全面に年代順に配架された議会文書の中から各年の貿易統計を見つけ出し、数冊分をカートに乗せてコピー室まで運び、また筋トレを重ねてコピーを収穫してから帰宅、数字を方眼紙に落とした。
数ヵ月はかかったと思う。じょじょに実像が浮かんできた。その頃はまだパソコンは生まれておらず、使えるのは電卓だけ。方眼紙を張り合わせ、①中国からイギリスへの茶の輸入、②植民地インドから中国へのアヘン輸出、③イギリス産業革命の成果物の工場製綿布のインドへの輸出の年次統計をグラフ化し、それらを統合して<19世紀アジア三角貿易>の仕組みを三角形で図示することができた。
後にまた史料を見つけて、上掲②の輸出の根拠となるアヘン生産量をグラフ<インド産アヘンの140年>で図示することができた。毎年刊行される議会文書から140年分を導き出す膨大な作業の成果である。グラフやチャートで図示することは<図像>表現(アウトプット)の一つの方法であり、活用法である。これを可能にするのが万国共通の数字の史料である。
イギリス滞在中は図書館や文書館通いにとどまらず、せっかくの機会を活用して<旅は歴史家の母>と、よく旅行もした。家族や知人とドライブするだけでなく、地方の文書館や資料館を尋ねて珍しい図像史料やスキ・カマ・民具等モノの史料を発見し、19世紀のイギリス社会の急変ぶりやモノを通した東西交流(農具については中国から導入してイギリスの農業革命に資したものが多い)の姿を実感した。また特許申請に付された図面等も参考になった。
こうした日々の発見やイギリス滞在のメモは、早くから雑誌に連載し、それに専門論文等を加えて、『イギリスとアジア 近代史の原画』(岩波新書 1980年)として上梓することができた。本書の122ページと126ページに載せた<19世紀アジア三角貿易概念図>や、136~137ページに載せた折れ線グラフ<インド産アヘンの140年>は、のち主要各社の教科書・高校世界史Bに転載されたが、これを見るたびにリーズ大学図書館の匂いと筋トレした日々を思い出す。
【図像史料収集の難しさ】
帰国後は、もっぱら文献史料に基づいた研究を進めていたが、講談社で歴史叢書「ビジュアル版 世界の歴史」(Illustrated History of the World)の企画が持ち上がり、その第17巻『東アジアの近代』を私が分担、刊行は昭和60(1985)年11月である。図像史料を見つけるのにイギリスでの経験が役立った。40歳代後半の約2年をかけた大仕事である。
本書の対象は、18世紀末から1949年(中華人民共和国の成立)まで約150年間の東アジア(日本・中国・朝鮮)の世界史である。当時の東アジアに最大の影響力を有していた列強は英米仏と日本であり、彼らは政治・軍事・経済にとどまらず、新聞・雑誌を通じた情報発信にも力を入れていた。その分だけ図像資料が多い。
その代表例がイギリスの週刊新聞“Illustrated London News”であり、創刊は1842年5月14日。日本では「絵入りロンドンニュース」と呼ばれ、開港後の横浜で抄訳版も出ている。創刊号は16ページ建てに32枚の版画を入れ、進行中だったアフガン戦争の記事や、フランスの列車事故、チェサピーク湾での汽船の事故、合衆国大統領選挙の候補者の調査、その他、長文の犯罪事件、劇評、書評等々、広告も3ページある。
東アジアはちょうどアヘン戦争(1839~42年8月29日の南京条約締結)の終結前夜であり、関連記事と銅版画を掲載していた。本紙の最大の特徴は紙名が示す通り、エッチング(銅版画)の図像史料を豊富に使用している点である。取材のため画家を派遣、その絵を最速の蒸気郵船P&О社でロンドンへ郵送、これを基に版画を作り、大量印刷の新聞に載せた。
この“Illustrated London News”は、東京大学総合図書館にかなりあった。書庫はまだ開架式(現在は閉架周密式)で、文章を読む必要のほとんどない図像史料の発掘作業は比較的楽であり、付箋を挟みつつ巻号とページ数を一覧して撮影に回した。欠号は国立国会図書館や横浜開港資料館等で補った。
それ以降、アメリカの”Harpers’Monthly Magazine”誌(1850年6月創刊)等、類似の新聞・雑誌がアメリカ、フランス等にも拡がる。これらの雑誌も日本の図書館等に広く所蔵されている。
なおエッチング(銅版画)や木版画に代えて<写真>がグラフ誌に登場するのは、20世紀に入ってからである。カラー写真を多用する最初のグラフ誌の登場は、さらに遅れて1936年創刊の『ライフ LIFE』誌まで待たなければならない。
【日本のグラフ誌】
拙著『東アジアの近代』には、日本の新聞やグラフ誌からも図像史料をかなり採用した。1889(明治22)年に東陽堂が『風俗画報』を創刊、江戸時代から大正時代を取上げて世相、風俗、戦争、文学、歴史、地理など当時の社会風俗を視覚的に解説していた。木版の浮世絵の伝統を継ぎ、木版画を多用、師弟関係にあった小林永濯、富岡永洗や、その子弟など、多くの日本画家を起用した。1916(大正5)年まで27年間にわたり特別号を含む全518冊にのぼる。
『風俗画報』には、早くも1910年から索引が出ている。複製の冊子版『風俗画報』(東陽堂)は国書刊行会から1973年6月に出版され、多くの図書館で閲覧できた。後にパソコンの急速な普及に沿うように、『「風俗画報」CD-ROM版』(ゆまに書房、1997年)も出た。
次いで明治末から大正時代にかけて、『東洋画報』、『近事画報』(1903年~ 国木田独歩が編集責任者の近事画報社から創刊された月刊女性雑誌)、『東京パック』(1905年~ 東京パック社)、『婦人画報』(1905年~近事画報社のち婦人画報社)、『日曜画報』(1911年~ 博文館)、『国際写真情報』(1922年~国際情報社)、『アサヒグラフ』(1923年~ 朝日新聞社)、『婦人グラフ』(1924年~ 國際情報社)等が次々と発刊される。
こうした新聞・雑誌に掲載された図像史料から、時代ないし事件を象徴する図像を選び出し、さらに1枚物の浮世絵や絵画、版画、写真等を合わせて約800点を蒐集・撮影(編集部が撮影)し、うち約500点を『東アジアの近代』(全268ページ)に収録した。図像を見て初めて気づき、文章を補正したこともあった。
【新たな出会い】
1980年刊行の拙著『イギリスとアジア 近代史の原画』(岩波新書 1980年)は、中国人留学生・蒋豊(ショウ ホウ、Jiang Feng)さんによって中国語に翻訳・刊行された。彼は北京師範大学で歴史学(明代史)を学び、ジャーナリズムの道に進んだ後、横浜市立大学へ留学、私の講義を熱心に聴いてくれた。
ある日、教室を出ようとすると、沢山の付箋を挟んだ『イギリスとアジア』を手にした蒋さんが、これを中国語に訳したい、初めの方は訳しました、読んでください、と私に手渡した。発売されたばかりの中国語ワープロで打ってある。端正で力強い中国語の文体に感銘を受けた。
それから幾度もの読み合わせを経て、『イギリスとアジア』は蒋豊訳『十九世紀的英国和亜州』(加藤祐三史学著作選之一、1991年)として中国社会科学出版社から刊行された。つづけて上掲の『東アジアの近代』(講談社 1985年)が蒋豊訳『東亜的近代』(加藤祐三史学選之二、1992年)として、さらに『黒船異変-ペリーの挑戦』(岩波新書 1988年)が蒋豊訳『日本開国小史』(加藤祐三史学選之三、1992年)として、また横浜博覧会(1989年)むけに私が編集委員長として編纂・執筆した”Yokohama Past and Present”の日本語版『横浜 いま/むかし』から私の書いた通史部分を抜粋したものを蒋豊訳『横浜今昔』(加藤祐三史学選之四、1993年)として同じ出版社から刊行された。計4冊の訳書「加藤祐三史学選」である。
その後、彼を九州大学大学院に送り出したが、そこで消息が途絶えてしまった。とても心配したが、手がかりがないまま20年が経った。私は横浜市立大学を2002年に定年退職、2010年7月から都留文科大学の学長となり、翌2011年3月11日の東日本大震災の翌日から「(都留文科大学)学長ブログ」の連載を始めていた。
このブログで私の所在を知ったのか、『人民日報海外版日本月刊』の原田繁副編集長という方から大学宛てにメールが届いた。「…弊社編集長、蒋豊の申しつけにより連絡を担当致します。…」とある。その顛末を『学長ブログ』の077番「20 年ぶりの再会」 (2013 年1 月31 日)に掲載した。「学長ブログ」は現在継続中の「加藤祐三ブログ 月一古典」 http://katoyuzo.blog.fc2.com/ 右側のリンク欄に付してある。
そこに23年ぶりの新装版、蒋豊訳『東亜近代史』(東方出版社、北京、2015年7月、226ページ)が送られてきた。同社の<学而>叢書の1冊で判型が大きく、紙質や印刷も見違えるほど上質になり、図像史料はきわめて明瞭。そして新装版の裏表紙に次の一文があった(加藤祐三ブログの2015年7月11日掲載「中国語訳『東亜近代史』」)。
「近代という時代は、富も人口も一挙に増加した、激しい変革の時代である。時間のテンポも速まり、世界各地で戦争と革命が起こり、<弱肉強食>の抗争と競争が支配した。列強が東アジアに侵入した時期、なぜ日本は実力を蓄え、中国は虐げられたのか。本書は歴史過程を客観的に叙述しつつ、日本の動きを直視し、多くの歴史の疑問に答えてくれる」。
この東方出版社の新装版では、「再版序言」を蒋豊さんが、「再版后記」を私が書いている。それを紹介した私のブログでは「…原著は絶版となったが、訳書が中国で再版された。感無量である」と結んだ。
これ以来、蒋豊さんとは何度も会う機会ができた。彼はいま『人民日報海外版日本月刊』編集長として東京と北京を往来、知日派ジャーナリストの代表格として活躍している。いまも見せる爽やかな笑顔に、30余年前、教室の前列に座り、真剣にノートを取っていた頃の姿が重なる。
そして今年、ふたたび『人民日報海外版日本月刊』原田副編集長からメールが届いた。今回の『国際写真情報』誌電子版復刊への推薦文の依頼である。追いかけるように、㈱かなえの代表取締役 義 広司さんからメールが届いた。「人民日報海外版日本月刊の蒋豊編集長からのご紹介により」として「弊社刊行電子書籍の解説文および推薦文の執筆」の依頼である。
【国際写真情報の復刻版】
上掲のグラフ誌一覧のなかにある『国際写真情報』誌(月刊 国際情報社刊行、1922(大正11)年創刊、1968(昭和43)年に廃刊)の電子書籍としての復刻版が本企画である。2021年9月末から紀伊國屋書店と丸善雄松堂で販売が始まった。
私は、『国際写真情報』誌には99年前の創刊とは思えない斬新な特色が3つあるとして、(1)雑誌名、(2)本誌の体裁、(3)紙面構成の順に述べた。
第1に雑誌名の<国際>と<情報>である。21世紀に入って流行する大学の学部・学科名を彷彿とさせるが、当時、<情報>はスパイ活動とほぼ同義であり、<国際>は<国粋>の反対語として、むしろ否定的なニュアンスを持っていた。ところが本誌の題名は、現代の用法を先取りしていたと言える。それにとどまらず、当時まだ珍しい<写真>を多用する<情報>誌である。The International Graphic と英語名を付し、写真の説明も日本語と英語と中国語(1938~1945年のみ)で併記している。
ちなみに社名は<写真>を抜いた<国際情報社>である。ウィキペディアによれば、1922年から2002年まで存在した日本の出版社。化学工業新聞社社長の石原俊明によって設立され、『国際写真情報』などを発行していたとある。石原俊明(いしはら しゅんめい、1888年1月21日~1973年1月17日)は、静岡県出身の昭和期の実業家。1903年上京。化学工業新聞社社長に就任。科学知識普及協会を設立。1921年、『科学知識』創刊。1922年有限会社国際情報社を設立、『国際写真情報』創刊。1923年『劇と映画』創刊。1924年『国際写真グラフ』『婦人グラフ』創刊。1934年9月『大法輪』創刊。戦後1951年、株式会社国際情報社復興、1959年『家庭全科』創刊とある。
第2の特色が本誌の体裁である。つやのあるコート紙を使っている。新興媒体の<写真>を、より鮮明に見せる工夫であろう。紙の規格は横26.5センチ×縦38.5センチで、日本伝統の美濃紙サイズ、現在のB4型に近い。写真は1ページに1~2枚を大きく載せることが多く、6枚がほぼ上限である。<写真>には短い解説が日本語と英語と中国語(1938~1945年のみ)で付されている。
【紙面構成】
第3の特色が紙面構成。時代と世相をあらわす例として、3号分を取り上げる。
(1) 第2巻第12号(大正12(1923)年11月10日発行)
表紙を2段に分け、右から左へ、「国際写真情報 世界の大震と復興 関東大震災号姉妹編」と並べ、欄の上部の枠外に英文名、The International Graphic、下部の約5分の4のスペースを占める写真には、右後方に傾く石造建築を背景に立つターバン姿の男性。
本号の副題が示すように、関東大震災から約2か月後の、世界の大震災を集めた特集である。最初の折り込みが「国際漫画」と「安政二卯十月二日 大地震 附類焼場所」(裏面は白)、つづけてイタリアのメッシナ市大地震(1908年)、濃尾大震(1891年)と台湾嘉義地震(1906年)、焦土の東京(航空写真)、サンフランシスコ大地震(1906年)、印度(ボンベイ、現ムンバイ)の大地震(1906年)…と被災・復興状況を写真と解説で伝え、関東大震災(1923年)からの復興状況につなぎ詳論する。災害や事故等を伝える手段として写真は優れている。最後の6ページに「世界震災物語 附・帝都各区復興視察記」を置く。裏白のページをふくめて20枚、40ページ。
(2) 第20巻第2号(昭和16(1941)年2月)
「雪の山東戦線に活躍する皇軍の軍犬」と説明のある写真を大きく掲げ、「世界新秩序行進譜 日支大事変画報」を特集する。
この号から表紙の裏ページに目次が加わり、全体の内容が分かりやすくなった。最後のページ(裏表紙の内側)には「国際時事日誌」が簡潔に記されている。本文最初のページにヒットラー総統が閲兵する姿を写した横組みの写真(一部カラー)を掲げ、右端に縦組みで「盟邦の旗の下に総統 武勲の部隊閲検」の見出しに数行の解説を中国語と日本語で付し、その下に英語の解説。ついで「羅馬尼三国枢軸加盟調印式」(日独伊三国同盟にルーマニアが加盟した調印式)、3ページ目に「聖戦第五歳 陣中頌春」として日の丸の下、7人の日本兵がくつろぐ様子を写す。つづけて日本画を2点。ここまでが<口絵>に相当するのか、裏ページは白。
それ以降はページの両面を使い、「航空機乗員中央養成所参観」、「陸軍防空学校」、「力強いぞ われ等の備え」等の特集記事が各2ページ。ついで日本画1点(裏ページは白)を挟み、特集「新春之初飛行」、「ドイツ航空隊活躍の実景」(イラスト)、「大政翼賛会中央協力会議」、「興亜推進之巨声 近衛首相・汪主席年頭之辞」等がつづく。枚数は裏白を含めて25枚で50ページ。内容が充実し分量も増えた。
(3) 第30巻第1号(昭和31(1956)年1月号)
新春らしく表紙をカラーで能を舞う姿(観世流の浅見真建氏)で飾る。誌名は左から右への横書きで「国際写真情報」と変わる。その裏に<原色版特集>、<原色版口絵>、<一色写真版>、<グラビア版>、<原色版特集>、<一色写真版>とそれぞれ銘打つ目次がある。最後のページ(裏表紙の内側)に英文の目次を置く。
最初のページが「善宮さま 晴れの成人式」のモノクロ写真、成年の装帯<縫腋袍>(ほうえきのほう)をまとう。3ページから5ページまでカラーで宮内庁雅楽<太平楽>、ついで第11回「日本美術展」の特集。
ついで見開き2ページの「原子力平和利用博覧会」、「阿片を追払え イラン政府取り締まりに大童わ」、「城ガ島 空から見た日本 4」、「帽子の好きな人々」、「スリルある珍味」、「おいらん誕生 文化・文政時代の女性風俗を再現」がつづく。
新しく「明治の日本人」シリーズが始まり、第1回は「明治天皇」(計5ページ)。そして以下の特集を組む。「原子力潜水艦は100年前にもあった」、「現代風俗 ニュー・スタイルの大衆温泉」、「杉野芳子 洋裁とともに歩んだ30年」、「あなたも作れるモダンな家具」、「富士山麓の大試射会」、「ニュースの焦点」、「コングもノックアウト アジアプロレス選手権大会」、「天皇皇后両杯 今年も東京へ 第十回国体」、「長崎おくんちと佐賀の踊り」。
ページ番号は付されていないが、25枚、50ページ。解説は日本語と英語のみで、中国語はなくなった。
【記録映画の登場】
『国際写真情報』誌等のグラフ誌の図像史料とは違い、昔に撮影されたフィルムの断片をつないで再編集した「NHK BS 世界のドキュメンタリー」が新たに登場した。うち「カラーでよみがえるイギリス帝国 植民地の拡大と独立」(Britain in Color:Empire(イギリス/アメリカ 2019年)は、1899年に撮影されたフィルムに始まり、「…19世紀から植民地を拡大し続け、世界経済を制したイギリス。植民地の人々は世界大戦でイギリスのために闘ったが、1960年代には各国が独立を目指して反乱を起こす。 1920年までに地球の陸地の4分の1を支配し、史上最大の帝国となったイギリスの戦争と植民地の歴史をカラー化映像でつづる。南アを勝ち取った1889年のボーア戦争、日本に敗北を喫した第二次世界大戦のシンガポール戦、ガンジーが率いた平和的な反英運動など、イギリス目線の映像で当時がよみがえる。」
またNHK BS1『カラーでよみがえるアメリカ』は、個人所蔵などで埋もれていた膨大なフィルムを発掘、カラー化してアメリカの20世紀の歩み(1920年代から60年代まで)に新たな光を当てるシリーズ。うち「移民大国への道」は1900年代初頭、ニューヨークに到着するヨーロッパからの移住者を撮影するトーマス・エジソンのチーム。イタリア人街とチャイナタウンが賑わいを見せ、移民を脅威と感じ始める白人社会。半世紀以上にわたる貴重な映像から、人種差別とアメリカ社会への適応の歴史でもある“移民の20世紀”を振り返る。
【終わりに】
最後に、いささか私的なことを交えて、この四半世紀の変化を述べたい。イギリスから帰国した1979年後も、かなりのペースで執筆、酷使した右手がついに音を上げ、執筆もテニスもできなくなった。そこへ1984年5月の新聞広告に「8月、ポータブルワープロ発売」とあり、これで過重負担を減らせると期待、すぐ注文した。
このワープロで書いた第1号が、1985年刊行の『東アジアの近代』の一部である。このワープロはメモリーの容量が小さいうえメール送受信や情報検索機能もなかった。しかし10本指を駆使してキーボードを動かし文章を作り、その通りに印刷できる。熟練の植字工が活字を拾う印刷術が始まって以来の大きな変化、すなわちアナログとデジタルが交差する劇的な交代期に居合わせた気がした。
それ以来、私は講義や講演をする時、マイクロソフト社のパワーポイント(1994年発売、以来、バージョンアップ)を使って資料を作り、目次、主題、年表、地図等に加えて図像史料を豊富に入れて放映、視聴者が耳で聞きつつ、目で確認できるよう工夫している。
1995年頃からの四半世紀にわたるデジタル技術の革新は驚くほど速く、入力専門のワープロから通信機能や作図、図像の取り込み等を含むパソコンへと展開し、かつそれを習得する人びとが急増、いわば<社会的大爆発>が起きた。こうした時代にこそ、歴史研究における図像史料の活用は、ますます重要になってくる。
スポンサーサイト