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歴史研究における図像史料

 歴史研究には文献史料が第一義的に重要である。文献史料とはモノの史料と対比した言い方であり、この文献史料には文字史料(統計を含む)と図像史料(地図、版画、写真、絵画等)が含まれる。この問題について初めて明示的に論じたのが、本ブログの2017年1月13日掲載【19】文字史料と図像史料(「我が歴史研究の歩み」19)であった。

 日本国内にいて通常の歴史研究を行っていれば、ほとんど気づくことがなかったが、このとき私は「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」をテーマとして文部省在外研究の助成を受け、1年余にわたりイギリスで史料収集を行っていた。短期間の滞在で、英文の文献史料を効率よく収集するには何が必要か。

 文献史料を発見できるか否かはテーマと着想で決まると言えよう。母語か否かは二次的問題であるとは言うものの、同じテーマであれば、英語を母語とする研究者に対して明らかに差がつく。例えば、古い新聞の見出しのニュアンスやその背景の判読スピードに圧倒的な差が出てくる。

 19世紀になると新聞・雑誌がぞくぞくと刊行される。とくに「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」の研究には新聞・雑誌は不可欠であり、議会や政府の公文書と並ぶ一級史料である。その代表例の一つが、1842年5月14日創刊の週刊新聞“Illustrated London News”である。紙名が示すとおり、図像史料を多量に使うのが特徴である。報道カメラマンの代わりに報道画家を現地に派遣し、描かれた図像を本社で銅版画にして新聞に掲載する初めての試みである。

【第68回 全国博物館大会】
 ついで本ブログの2020年12月2日掲載の「第68回 全国博物館大会」のなかで同年11月25日(水曜)と26日(木曜)の2日間、横浜市開港記念会館で開催された公益財団法人日本博物館協会主催、神奈川県博物館協会共催の第68回全国博物館大会「変化の中の博物館 ―新たな役割と可能性―」について、次のように言及した。

 「…歴史学徒として文献史料を主に図書館(library)や文書館(archive)で入手してきたが、博物館(museum, art museum)には展示を観に行くことはあっても収蔵資料を使った経験がほとんどない。私の研究分野では、図書館、文書館、博物館の順で利用頻度が高く、その順で馴染みが深い。…国会図書館をはじめ各大学図書館や公立図書館にはそれぞれに独特のコレクションがあり、国外もふくめ図書館にどれほど世話になったことか。20世紀末頃からネット検索が可能となり、図書や雑誌のデジタル版も利用可能となり、利用範囲は一段と拡がった。

 文書館(archive)は、原則として1点しかない<文書>を取り扱う機関である。国立公文書館、横浜開港資料館、外交史料館、東大史料編纂所等を活用するほかに、外国では上海档案館、ロンドンやワシントンDCのナショナル・アーカイブ(国立公文書館)に世話になった。こちらも最近、デジタル化が進み、書斎からパソコンを通じて利用できる範囲が拡大している。

【『国際写真情報』誌の復刊によせて】
 その後しばらくして、株式会社かなえから『国際写真情報』誌のデジタル版復を出すので解説を書いてほしいと依頼を受け、「 『国際写真情報』誌の復刊によせて」を書いた。以下、上述と重なる部分も少しあるが、そこから抜粋しつつ加筆したい。

 歴史研究にとって文字資料はなによりも重要であるが、これに加えて映像や図像、モノの資料は欠かせない。一枚の絵、一枚の写真、一つのモノがどれほど歴史の実像を豊かにしてくれるか。

 歴史研究に限らず、ひろくすべての学問の各分野にそれぞれの研究史があり、それを探るために映像や図像の史料(以下、図像史料とする)は欠かせない。先行研究(著書・論文等)を読むことは不可欠の前提であるが、自分の進めたいテーマの研究史を尋ね、そこから着想を得ようとする時、感性で把握する図像史料は、論理的な文章語や数式等とは別の働きかけがあり、それを通じていっそう実像に近づくこともできる。一方、講義・講演等を聴く側にとっても、図像史料を通じていっそう理解が深まる。

【リーズ大学の開架式図書館で】
 ところが図像資料を入手するのは容易ではない。この場合、(1)必要な図像史料とは何かを考え、(2)その所蔵先をつきとめ、(3)新聞・雑誌等の図像史料の宝庫を見つけ、取捨選択しつつ、いかに使いこなすか、の一連の作業が不可欠である。

 新聞・雑誌と一言でいうが、数10年、あるいは100年を越えて継続しているものも少なくない。長期継続するものに信頼を置くとすれば、そこから必要な図像史料を得るには膨大な時間と労力が要る。例えば、イギリスで1785年に創刊した世界最古の日刊新聞”The Times”には膨大な情報が含まれており、19世中頃には図像史料(エッチング=銅版画)も少なからず登場する。

 43年も前になるが、1978年、私は「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」をテーマに、文部省(現在の文部科学省)の在外研究費の助成を受け、最多の資料があると見たイギリスに赴き、東アジア研究で有名なリーズ大学(University of Leeds)に拠点を置いた。リーズ市はロンドンから北東に特急で2時間強、ちょうど東京=仙台の位置関係に似ている。

 Leeds School of Medicine(1831年)とYorkshire College of Science(1874年)等を起源とするリーズ大学は蔵書が充実しており、図書館は夜の11時まで使える。夕食を終えてからまた出かけてフル活用した。貴重本を除いてすべてが開架式で、高所の本を取るために各所にハシゴが用意されている。

 新聞は横置きの書架に置かれ、そこから”The Times”を取り出してはページをめくり、終わったら戻す。これだけでも相当の筋トレを覚悟しなければならない。1冊が数キロの重さで、かつ新聞紙大なので操作は簡単ではない。酸性紙のため、ボロボロにならぬよう、ページをゆっくりめくる。図像史料であれば一目瞭然だが、文字史料では見出しを通じて内容を瞬時に選り分け、本文へ進む。

 あまりにも膨大な作業に疲れ、途方に暮れていた時、”Palmers Index to The Times”という小型の冊子(索引)を見つけた。手垢に汚れ、反り返っている。年代別に合わせて数百冊あっただろうか。英語を母語にする人たちでさえ索引を必要とするのなら、私にはもっと必要度が高い。

 見つけたい記事のおよその年代を定めてこの索引を開き、アルファベット順に配列された事項や地名・人名等をクロスチェックすれば、該当する本紙の年月日とページが分かる。これで思わぬ図像史料に出くわすこともあった。約20年後の1999年、The Times社はオンラインサービスを開始した。パソコンの急速な普及に伴うサービスである。

 もう一つ、新聞・雑誌と同じく膨大な部数を誇る『議会文書』にもたいへん世話になった。これは各省庁から議会へ提出した文書集であり、議院内閣制のイギリスではとくに信頼できる行政文書を多数含む。こちらはA4型(レターサイズ)で、厚さ10センチほどに製本されていた。1冊が5キロほどあるか。書架からの出し入れは、これまた相当の筋トレが必要である。

 議会の所信表明や質疑応答も貴重な史料だが、個別の課題に絞る前に、まず研究課題「19世紀東アジアにおけるイギリスの役割」という大きなテーマに相応しい整理をしたいと考えていたところ、中長期の課題を把握できそうな貿易統計に焦点を絞ることに思い至った。

 棚全面に年代順に配架された議会文書の中から各年の貿易統計を見つけ出し、数冊分をカートに乗せてコピー室まで運び、また筋トレを重ねてコピーを収穫してから帰宅、数字を方眼紙に落とした。

 数ヵ月はかかったと思う。じょじょに実像が浮かんできた。その頃はまだパソコンは生まれておらず、使えるのは電卓だけ。方眼紙を張り合わせ、①中国からイギリスへの茶の輸入、②植民地インドから中国へのアヘン輸出、③イギリス産業革命の成果物の工場製綿布のインドへの輸出の年次統計をグラフ化し、それらを統合して<19世紀アジア三角貿易>の仕組みを三角形で図示することができた。

 後にまた史料を見つけて、上掲②の輸出の根拠となるアヘン生産量をグラフ<インド産アヘンの140年>で図示することができた。毎年刊行される議会文書から140年分を導き出す膨大な作業の成果である。グラフやチャートで図示することは<図像>表現(アウトプット)の一つの方法であり、活用法である。これを可能にするのが万国共通の数字の史料である。

 イギリス滞在中は図書館や文書館通いにとどまらず、せっかくの機会を活用して<旅は歴史家の母>と、よく旅行もした。家族や知人とドライブするだけでなく、地方の文書館や資料館を尋ねて珍しい図像史料やスキ・カマ・民具等モノの史料を発見し、19世紀のイギリス社会の急変ぶりやモノを通した東西交流(農具については中国から導入してイギリスの農業革命に資したものが多い)の姿を実感した。また特許申請に付された図面等も参考になった。

 こうした日々の発見やイギリス滞在のメモは、早くから雑誌に連載し、それに専門論文等を加えて、『イギリスとアジア 近代史の原画』(岩波新書 1980年)として上梓することができた。本書の122ページと126ページに載せた<19世紀アジア三角貿易概念図>や、136~137ページに載せた折れ線グラフ<インド産アヘンの140年>は、のち主要各社の教科書・高校世界史Bに転載されたが、これを見るたびにリーズ大学図書館の匂いと筋トレした日々を思い出す。

【図像史料収集の難しさ】
 帰国後は、もっぱら文献史料に基づいた研究を進めていたが、講談社で歴史叢書「ビジュアル版 世界の歴史」(Illustrated History of the World)の企画が持ち上がり、その第17巻『東アジアの近代』を私が分担、刊行は昭和60(1985)年11月である。図像史料を見つけるのにイギリスでの経験が役立った。40歳代後半の約2年をかけた大仕事である。

 本書の対象は、18世紀末から1949年(中華人民共和国の成立)まで約150年間の東アジア(日本・中国・朝鮮)の世界史である。当時の東アジアに最大の影響力を有していた列強は英米仏と日本であり、彼らは政治・軍事・経済にとどまらず、新聞・雑誌を通じた情報発信にも力を入れていた。その分だけ図像資料が多い。

 その代表例がイギリスの週刊新聞“Illustrated London News”であり、創刊は1842年5月14日。日本では「絵入りロンドンニュース」と呼ばれ、開港後の横浜で抄訳版も出ている。創刊号は16ページ建てに32枚の版画を入れ、進行中だったアフガン戦争の記事や、フランスの列車事故、チェサピーク湾での汽船の事故、合衆国大統領選挙の候補者の調査、その他、長文の犯罪事件、劇評、書評等々、広告も3ページある。

 東アジアはちょうどアヘン戦争(1839~42年8月29日の南京条約締結)の終結前夜であり、関連記事と銅版画を掲載していた。本紙の最大の特徴は紙名が示す通り、エッチング(銅版画)の図像史料を豊富に使用している点である。取材のため画家を派遣、その絵を最速の蒸気郵船P&О社でロンドンへ郵送、これを基に版画を作り、大量印刷の新聞に載せた。

 この“Illustrated London News”は、東京大学総合図書館にかなりあった。書庫はまだ開架式(現在は閉架周密式)で、文章を読む必要のほとんどない図像史料の発掘作業は比較的楽であり、付箋を挟みつつ巻号とページ数を一覧して撮影に回した。欠号は国立国会図書館や横浜開港資料館等で補った。

 それ以降、アメリカの”Harpers’Monthly Magazine”誌(1850年6月創刊)等、類似の新聞・雑誌がアメリカ、フランス等にも拡がる。これらの雑誌も日本の図書館等に広く所蔵されている。

 なおエッチング(銅版画)や木版画に代えて<写真>がグラフ誌に登場するのは、20世紀に入ってからである。カラー写真を多用する最初のグラフ誌の登場は、さらに遅れて1936年創刊の『ライフ LIFE』誌まで待たなければならない。

【日本のグラフ誌】
 拙著『東アジアの近代』には、日本の新聞やグラフ誌からも図像史料をかなり採用した。1889(明治22)年に東陽堂が『風俗画報』を創刊、江戸時代から大正時代を取上げて世相、風俗、戦争、文学、歴史、地理など当時の社会風俗を視覚的に解説していた。木版の浮世絵の伝統を継ぎ、木版画を多用、師弟関係にあった小林永濯、富岡永洗や、その子弟など、多くの日本画家を起用した。1916(大正5)年まで27年間にわたり特別号を含む全518冊にのぼる。

 『風俗画報』には、早くも1910年から索引が出ている。複製の冊子版『風俗画報』(東陽堂)は国書刊行会から1973年6月に出版され、多くの図書館で閲覧できた。後にパソコンの急速な普及に沿うように、『「風俗画報」CD-ROM版』(ゆまに書房、1997年)も出た。

 次いで明治末から大正時代にかけて、『東洋画報』、『近事画報』(1903年~ 国木田独歩が編集責任者の近事画報社から創刊された月刊女性雑誌)、『東京パック』(1905年~ 東京パック社)、『婦人画報』(1905年~近事画報社のち婦人画報社)、『日曜画報』(1911年~ 博文館)、『国際写真情報』(1922年~国際情報社)、『アサヒグラフ』(1923年~ 朝日新聞社)、『婦人グラフ』(1924年~ 國際情報社)等が次々と発刊される。

 こうした新聞・雑誌に掲載された図像史料から、時代ないし事件を象徴する図像を選び出し、さらに1枚物の浮世絵や絵画、版画、写真等を合わせて約800点を蒐集・撮影(編集部が撮影)し、うち約500点を『東アジアの近代』(全268ページ)に収録した。図像を見て初めて気づき、文章を補正したこともあった。

【新たな出会い】
 1980年刊行の拙著『イギリスとアジア 近代史の原画』(岩波新書 1980年)は、中国人留学生・蒋豊(ショウ ホウ、Jiang Feng)さんによって中国語に翻訳・刊行された。彼は北京師範大学で歴史学(明代史)を学び、ジャーナリズムの道に進んだ後、横浜市立大学へ留学、私の講義を熱心に聴いてくれた。

 ある日、教室を出ようとすると、沢山の付箋を挟んだ『イギリスとアジア』を手にした蒋さんが、これを中国語に訳したい、初めの方は訳しました、読んでください、と私に手渡した。発売されたばかりの中国語ワープロで打ってある。端正で力強い中国語の文体に感銘を受けた。

 それから幾度もの読み合わせを経て、『イギリスとアジア』は蒋豊訳『十九世紀的英国和亜州』(加藤祐三史学著作選之一、1991年)として中国社会科学出版社から刊行された。つづけて上掲の『東アジアの近代』(講談社 1985年)が蒋豊訳『東亜的近代』(加藤祐三史学選之二、1992年)として、さらに『黒船異変-ペリーの挑戦』(岩波新書 1988年)が蒋豊訳『日本開国小史』(加藤祐三史学選之三、1992年)として、また横浜博覧会(1989年)むけに私が編集委員長として編纂・執筆した”Yokohama Past and Present”の日本語版『横浜 いま/むかし』から私の書いた通史部分を抜粋したものを蒋豊訳『横浜今昔』(加藤祐三史学選之四、1993年)として同じ出版社から刊行された。計4冊の訳書「加藤祐三史学選」である。

 その後、彼を九州大学大学院に送り出したが、そこで消息が途絶えてしまった。とても心配したが、手がかりがないまま20年が経った。私は横浜市立大学を2002年に定年退職、2010年7月から都留文科大学の学長となり、翌2011年3月11日の東日本大震災の翌日から「(都留文科大学)学長ブログ」の連載を始めていた。

 このブログで私の所在を知ったのか、『人民日報海外版日本月刊』の原田繁副編集長という方から大学宛てにメールが届いた。「…弊社編集長、蒋豊の申しつけにより連絡を担当致します。…」とある。その顛末を『学長ブログ』の077番「20 年ぶりの再会」 (2013 年1 月31 日)に掲載した。「学長ブログ」は現在継続中の「加藤祐三ブログ 月一古典」 http://katoyuzo.blog.fc2.com/ 右側のリンク欄に付してある。

 そこに23年ぶりの新装版、蒋豊訳『東亜近代史』(東方出版社、北京、2015年7月、226ページ)が送られてきた。同社の<学而>叢書の1冊で判型が大きく、紙質や印刷も見違えるほど上質になり、図像史料はきわめて明瞭。そして新装版の裏表紙に次の一文があった(加藤祐三ブログの2015年7月11日掲載「中国語訳『東亜近代史』」)。

 「近代という時代は、富も人口も一挙に増加した、激しい変革の時代である。時間のテンポも速まり、世界各地で戦争と革命が起こり、<弱肉強食>の抗争と競争が支配した。列強が東アジアに侵入した時期、なぜ日本は実力を蓄え、中国は虐げられたのか。本書は歴史過程を客観的に叙述しつつ、日本の動きを直視し、多くの歴史の疑問に答えてくれる」。

 この東方出版社の新装版では、「再版序言」を蒋豊さんが、「再版后記」を私が書いている。それを紹介した私のブログでは「…原著は絶版となったが、訳書が中国で再版された。感無量である」と結んだ。

 これ以来、蒋豊さんとは何度も会う機会ができた。彼はいま『人民日報海外版日本月刊』編集長として東京と北京を往来、知日派ジャーナリストの代表格として活躍している。いまも見せる爽やかな笑顔に、30余年前、教室の前列に座り、真剣にノートを取っていた頃の姿が重なる。

 そして今年、ふたたび『人民日報海外版日本月刊』原田副編集長からメールが届いた。今回の『国際写真情報』誌電子版復刊への推薦文の依頼である。追いかけるように、㈱かなえの代表取締役 義 広司さんからメールが届いた。「人民日報海外版日本月刊の蒋豊編集長からのご紹介により」として「弊社刊行電子書籍の解説文および推薦文の執筆」の依頼である。

【国際写真情報の復刻版】
 上掲のグラフ誌一覧のなかにある『国際写真情報』誌(月刊 国際情報社刊行、1922(大正11)年創刊、1968(昭和43)年に廃刊)の電子書籍としての復刻版が本企画である。2021年9月末から紀伊國屋書店と丸善雄松堂で販売が始まった。

 私は、『国際写真情報』誌には99年前の創刊とは思えない斬新な特色が3つあるとして、(1)雑誌名、(2)本誌の体裁、(3)紙面構成の順に述べた。

 第1に雑誌名の<国際>と<情報>である。21世紀に入って流行する大学の学部・学科名を彷彿とさせるが、当時、<情報>はスパイ活動とほぼ同義であり、<国際>は<国粋>の反対語として、むしろ否定的なニュアンスを持っていた。ところが本誌の題名は、現代の用法を先取りしていたと言える。それにとどまらず、当時まだ珍しい<写真>を多用する<情報>誌である。The International Graphic と英語名を付し、写真の説明も日本語と英語と中国語(1938~1945年のみ)で併記している。

 ちなみに社名は<写真>を抜いた<国際情報社>である。ウィキペディアによれば、1922年から2002年まで存在した日本の出版社。化学工業新聞社社長の石原俊明によって設立され、『国際写真情報』などを発行していたとある。石原俊明(いしはら しゅんめい、1888年1月21日~1973年1月17日)は、静岡県出身の昭和期の実業家。1903年上京。化学工業新聞社社長に就任。科学知識普及協会を設立。1921年、『科学知識』創刊。1922年有限会社国際情報社を設立、『国際写真情報』創刊。1923年『劇と映画』創刊。1924年『国際写真グラフ』『婦人グラフ』創刊。1934年9月『大法輪』創刊。戦後1951年、株式会社国際情報社復興、1959年『家庭全科』創刊とある。

 第2の特色が本誌の体裁である。つやのあるコート紙を使っている。新興媒体の<写真>を、より鮮明に見せる工夫であろう。紙の規格は横26.5センチ×縦38.5センチで、日本伝統の美濃紙サイズ、現在のB4型に近い。写真は1ページに1~2枚を大きく載せることが多く、6枚がほぼ上限である。<写真>には短い解説が日本語と英語と中国語(1938~1945年のみ)で付されている。

【紙面構成】
 第3の特色が紙面構成。時代と世相をあらわす例として、3号分を取り上げる。
(1) 第2巻第12号(大正12(1923)年11月10日発行)
表紙を2段に分け、右から左へ、「国際写真情報 世界の大震と復興 関東大震災号姉妹編」と並べ、欄の上部の枠外に英文名、The International Graphic、下部の約5分の4のスペースを占める写真には、右後方に傾く石造建築を背景に立つターバン姿の男性。
 本号の副題が示すように、関東大震災から約2か月後の、世界の大震災を集めた特集である。最初の折り込みが「国際漫画」と「安政二卯十月二日 大地震 附類焼場所」(裏面は白)、つづけてイタリアのメッシナ市大地震(1908年)、濃尾大震(1891年)と台湾嘉義地震(1906年)、焦土の東京(航空写真)、サンフランシスコ大地震(1906年)、印度(ボンベイ、現ムンバイ)の大地震(1906年)…と被災・復興状況を写真と解説で伝え、関東大震災(1923年)からの復興状況につなぎ詳論する。災害や事故等を伝える手段として写真は優れている。最後の6ページに「世界震災物語 附・帝都各区復興視察記」を置く。裏白のページをふくめて20枚、40ページ。

(2) 第20巻第2号(昭和16(1941)年2月)
 「雪の山東戦線に活躍する皇軍の軍犬」と説明のある写真を大きく掲げ、「世界新秩序行進譜 日支大事変画報」を特集する。
 この号から表紙の裏ページに目次が加わり、全体の内容が分かりやすくなった。最後のページ(裏表紙の内側)には「国際時事日誌」が簡潔に記されている。本文最初のページにヒットラー総統が閲兵する姿を写した横組みの写真(一部カラー)を掲げ、右端に縦組みで「盟邦の旗の下に総統 武勲の部隊閲検」の見出しに数行の解説を中国語と日本語で付し、その下に英語の解説。ついで「羅馬尼三国枢軸加盟調印式」(日独伊三国同盟にルーマニアが加盟した調印式)、3ページ目に「聖戦第五歳 陣中頌春」として日の丸の下、7人の日本兵がくつろぐ様子を写す。つづけて日本画を2点。ここまでが<口絵>に相当するのか、裏ページは白。
 それ以降はページの両面を使い、「航空機乗員中央養成所参観」、「陸軍防空学校」、「力強いぞ われ等の備え」等の特集記事が各2ページ。ついで日本画1点(裏ページは白)を挟み、特集「新春之初飛行」、「ドイツ航空隊活躍の実景」(イラスト)、「大政翼賛会中央協力会議」、「興亜推進之巨声 近衛首相・汪主席年頭之辞」等がつづく。枚数は裏白を含めて25枚で50ページ。内容が充実し分量も増えた。

 (3) 第30巻第1号(昭和31(1956)年1月号)
 新春らしく表紙をカラーで能を舞う姿(観世流の浅見真建氏)で飾る。誌名は左から右への横書きで「国際写真情報」と変わる。その裏に<原色版特集>、<原色版口絵>、<一色写真版>、<グラビア版>、<原色版特集>、<一色写真版>とそれぞれ銘打つ目次がある。最後のページ(裏表紙の内側)に英文の目次を置く。
 最初のページが「善宮さま 晴れの成人式」のモノクロ写真、成年の装帯<縫腋袍>(ほうえきのほう)をまとう。3ページから5ページまでカラーで宮内庁雅楽<太平楽>、ついで第11回「日本美術展」の特集。
 ついで見開き2ページの「原子力平和利用博覧会」、「阿片を追払え イラン政府取り締まりに大童わ」、「城ガ島 空から見た日本 4」、「帽子の好きな人々」、「スリルある珍味」、「おいらん誕生 文化・文政時代の女性風俗を再現」がつづく。
 新しく「明治の日本人」シリーズが始まり、第1回は「明治天皇」(計5ページ)。そして以下の特集を組む。「原子力潜水艦は100年前にもあった」、「現代風俗 ニュー・スタイルの大衆温泉」、「杉野芳子 洋裁とともに歩んだ30年」、「あなたも作れるモダンな家具」、「富士山麓の大試射会」、「ニュースの焦点」、「コングもノックアウト アジアプロレス選手権大会」、「天皇皇后両杯 今年も東京へ 第十回国体」、「長崎おくんちと佐賀の踊り」。
 ページ番号は付されていないが、25枚、50ページ。解説は日本語と英語のみで、中国語はなくなった。

【記録映画の登場】
  『国際写真情報』誌等のグラフ誌の図像史料とは違い、昔に撮影されたフィルムの断片をつないで再編集した「NHK BS 世界のドキュメンタリー」が新たに登場した。うち「カラーでよみがえるイギリス帝国  植民地の拡大と独立」(Britain in Color:Empire(イギリス/アメリカ 2019年)は、1899年に撮影されたフィルムに始まり、「…19世紀から植民地を拡大し続け、世界経済を制したイギリス。植民地の人々は世界大戦でイギリスのために闘ったが、1960年代には各国が独立を目指して反乱を起こす。 1920年までに地球の陸地の4分の1を支配し、史上最大の帝国となったイギリスの戦争と植民地の歴史をカラー化映像でつづる。南アを勝ち取った1889年のボーア戦争、日本に敗北を喫した第二次世界大戦のシンガポール戦、ガンジーが率いた平和的な反英運動など、イギリス目線の映像で当時がよみがえる。」

 またNHK BS1『カラーでよみがえるアメリカ』は、個人所蔵などで埋もれていた膨大なフィルムを発掘、カラー化してアメリカの20世紀の歩み(1920年代から60年代まで)に新たな光を当てるシリーズ。うち「移民大国への道」は1900年代初頭、ニューヨークに到着するヨーロッパからの移住者を撮影するトーマス・エジソンのチーム。イタリア人街とチャイナタウンが賑わいを見せ、移民を脅威と感じ始める白人社会。半世紀以上にわたる貴重な映像から、人種差別とアメリカ社会への適応の歴史でもある“移民の20世紀”を振り返る。

【終わりに】
 最後に、いささか私的なことを交えて、この四半世紀の変化を述べたい。イギリスから帰国した1979年後も、かなりのペースで執筆、酷使した右手がついに音を上げ、執筆もテニスもできなくなった。そこへ1984年5月の新聞広告に「8月、ポータブルワープロ発売」とあり、これで過重負担を減らせると期待、すぐ注文した。

 このワープロで書いた第1号が、1985年刊行の『東アジアの近代』の一部である。このワープロはメモリーの容量が小さいうえメール送受信や情報検索機能もなかった。しかし10本指を駆使してキーボードを動かし文章を作り、その通りに印刷できる。熟練の植字工が活字を拾う印刷術が始まって以来の大きな変化、すなわちアナログとデジタルが交差する劇的な交代期に居合わせた気がした。

 それ以来、私は講義や講演をする時、マイクロソフト社のパワーポイント(1994年発売、以来、バージョンアップ)を使って資料を作り、目次、主題、年表、地図等に加えて図像史料を豊富に入れて放映、視聴者が耳で聞きつつ、目で確認できるよう工夫している。

 1995年頃からの四半世紀にわたるデジタル技術の革新は驚くほど速く、入力専門のワープロから通信機能や作図、図像の取り込み等を含むパソコンへと展開し、かつそれを習得する人びとが急増、いわば<社会的大爆発>が起きた。こうした時代にこそ、歴史研究における図像史料の活用は、ますます重要になってくる。
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人類最強の敵=新型コロナウィルス(43)

 9月24日(金曜)づけの『日経サイエンス』11月号デジタル版は、「新型コロナのmRNAワクチン 知られざる30年の開発史」を掲載、 「あと10日ほどで今年のノーベル賞が発表される。今年の授賞テーマの最有力候補と目されるのが<メッセンジャーRNA(mRNA)ワクチン>。mRNAワクチンは新型コロナウイルス感染症で初めて実現した。たった1年で完成したように見えるかもしれないが、実は30年に及ぶ開発の歴史がある」として、およそ次のように述べた。
 「mRNAワクチンは緊急性の高い状況でも速やかに作れる利点がある。しかし、このワクチン自体が急ごしらえの技術だと思ったら大きな間違いだ」。mRNAワクチンをはじめ様々なワクチンの研究開発に長年携わってきた東京大学医科学研究所の石井健教授はこう強調する。
 mRNAは生物の体内に豊富にある物質「RNA」の一種だ。人間のDNAは、細胞の核と呼ばれる図書館のような場所に格納されている。DNAはこの図書館の外には持ち出せない。そこでDNAに記載された情報を毎回RNAと呼ぶ物質にコピーし、その情報をもとに核の外でたんぱく質を合成する仕組みが生物には備わっている。mRNAワクチンは、ウイルスの情報を記載したRNAを体内に入れてたんぱく質を作らせ、免疫細胞を訓練してウイルスに対する免疫をつける。
 研究開発は1990年にスタートしたが、当初は注射したRNAがすぐに分解してしまい、ほとんど機能しなかった。体が異物と認識し、RNAが働く前に排除してしまうのだ。こんな不安定な物質はとても医薬品として使えないと思われていた。
 2005年に状況を一変させたのが、現在独ビオンテックの上級副社長を務める研究者、カタリン・カリコ氏だ。当時米国のペンシルベニア大学にいたカリコ氏と同大のドリュー・ワイスマン氏らは、体内の免疫系が外来のRNAを激しく攻撃することはあっても、体細胞が死んだ後に放出される自分のRNAはあまり攻撃を受けないことに注目。その違いを探ったところ、自身のRNAには外来RNAにはない「目印」がついていた。RNAの構造が部分的に変わり、異物として認識されにくくなっていたのだ。
 カリコ氏らは論文で、RNA中の一部の構造を似た構造の物質に置き換えると、過剰な免疫反応が起こりにくいことを示した。私たちの体が持つ、自分のRNAを攻撃しない工夫をまねたのだ。当時この論文を査読したのが石井教授と、免疫学が専門の大阪大学の審良静男特任教授だった。
 石井教授と審良特任教授はカリコ氏らより半年ほど前に、RNAの構造が変化すると免疫反応が弱まることを報告しており、外来RNAをめぐる免疫反応の解明に先鞭(せんべん)をつけていた。カリコ氏らはいわばライバルだったが、自身と外来のRNAを見分ける仕組みを網羅的に調べたカリコ氏らの論文を2人は高く評価した。
 カリコ氏らの発見によってRNAをワクチンとして使える見通しが得られた05年は「mRNAワクチン開発の契機だった」と石井教授は話す。10年代には、ジカ熱や狂犬病などの感染症からがん治療まで、幅広い病気に対してmRNAワクチンの臨床試験が行われるようになった。RNAを体内で目的の場所に運ぶ薬物送達技術(DDS)も進展した。
 mRNAワクチンは、新型コロナが流行する前に、すでに実用化の一歩前まで来ていた。たった1年でワクチンができたように見えるのは、カリコ氏らを筆頭に、多くの研究者たちの30年の蓄積があったからに他ならない。もし今年のノーベル賞の授賞テーマにmRNAワクチンが選ばれるとすれば、それはカリコ氏をはじめ、過去30年間に研究開発に携わってきた全ての研究者たちに対する賛辞と言えるだろう。
 コロナ対策で登場したmRNAワクチンは、これまで世界でも承認されたことのない初めての技術を使った医薬品の1つである。コロナの遺伝子が特定されてから、わずか1カ月程度でワクチン候補の開発が可能でそのスピードに注目が集まったが、有効性も非常に高く、製薬業界では<mRNAの奇跡>と呼ばれるまで大成功した。
 ウイルスには、表面に特徴的なたんぱく質が現れる。遺伝子情報の一部をコピーするmRNAがヒトの体内の細胞に入り込んで、これらのたんぱく質を作らせ、免疫細胞に攻撃させる。その結果、抗体が生じウイルスへの抵抗力がつく。病原体の遺伝子情報を特定できれば、速やかに化学合成で大量に作成できるため、多様な感染症に素早く対応できる可能性がかねて指摘されていた。
コロナイノベーションの代表例として、今や各国のバイオ企業がmRNAワクチンに取り組む。日本でも第一三共が国産ワクチンとして開発を急いでいるほか、凍結乾燥することで常温保存が可能なタイプやウイルスが変異しても効果がある万能型タイプなど、その画期性を競うようなワクチンの開発が世界各地で進んでいる(日経ヴェリタス2021年9月5日号)。
 また24日の日経新聞は「コロナ飲み薬、年内にも実用化 軽症者治療の切り札に メルクやファイザー、治験最終段階」の見出しで「新型コロナウイルスを治療する飲み薬が年内にも登場する見通し。米メルクや米ファイザーが軽症者に使える薬剤の最終段階の臨床試験(治験)を、日本を含む各国で進めている。点滴タイプの既存の治療薬と比べて投与しやすいうえ、量産が簡単なためコストも抑えられる。パンデミック(世界的な大流行)の収束につながると期待されている」と伝えた。

 追いかけるように24日、NHKはニューヨークのラスカー財団がアメリカで最も権威ある医学賞とされる<ラスカー賞>の今年の受賞者に、新型コロナウイルスワクチンの開発で大きな貢献をしたドイツのバイオ企業、ビオンテックの上級副社長を務めるカタリン・カリコ氏とペンシルベニア大学教授のドリュー・ワイスマン氏2人が選ばれたと報じた。

【自民総裁選の支持率と予測】

 26日(日曜)、日本経済新聞社とテレビ東京が23~25日に実施した世論調査を発表、事実上の次の首相となる自民党総裁に<ふさわしい人>を聞くと河野太郎氏が46%で首位だった。岸田文雄氏17%、高市早苗氏14%、野田聖子氏5%と続く。日経リサーチが全国の18歳以上の男女に携帯電話も含めて乱数番号(RDD)方式で電話実施して996件の回答を得た(回答率は44.8%)。
自民党総裁選は自民党の<国会議員票>382票と、全国の党員・党友による投票で配分が決まる<党員票>382票の、合わせて764票で争われる。有効票の過半数を占める者がいなかった場合の決選投票は<国会議員票>382票と都道府県表47票の併せて429票で行われる。
 したがって総裁選の投票権者は自民党員に限られており、全国の18歳以上の男女に電話で聞いたRDD方式(無作為選択電話方式)の結果とどれだけ近いかは分からない。それにしても河野氏が46%で、2位の岸田氏17%を大きく引き離しているのは<人気度>を示す1つの目安にはなろう。
 翌27日(月曜)の日経新聞は前日の世論調査を補うかのように「…自民党総裁選は1回目の投票でどの候補も過半数に届かず決選投票になる公算が大きくなった」と伝えた。すなわち党所属議員への聞き取りや取材を加味した分析では、河野氏が得る国会議員票は全体の2割超だった。…仮に河野氏が党員票の5割と議員票の2割超を得て、態度未定のおよそ90票を全て取っても過半数には届かない見通しと述べる。
 各メディアも取材に基づく記事を報じているが、派閥の縛りがなくなり、投票が議員一人ひとりの判断に委ねられてきたため、得票数を読み切れない模様である。投開票日の9月29日(水曜)まで水面下の動きがいっそう激しくなる。
 その一つが日本テレビ出身のフリー政治ジャーナリスト青山和弘は次のように言う。「大方の予想通り、岸田氏が2位で決選投票に進んだ場合、高市票のほとんどが岸田氏に乗ることになる。2人の票を合わせると240票に達して、それだけで当選ラインの過半数215票を超える。今後、情勢に大きな変化がなければ、岸田氏勝利の公算が高い。…いずれにしてもここまで行方の分からない総裁選は珍しい。期待感か警戒感か。国民的人気か議員の論理か。そしてこの自民党の判断に総選挙で審判をくだすのは、我々国民であることを忘れてはならない」。

【日本のDX担い手に不安】

 9月1日に発足したデジタル庁は、デジタル社会形成の司令塔として、未来志向のDX(デジタル・トランスフォーメーション)を大胆に推進し、デジタル時代の官民のインフラを今後5年で一気呵成に作り上げることを目指すとした。ところが、掛け声の割には明白な展望が見られない。 
 日経新聞の<チャートは語る>の26日(日曜)は、「DX担い手、米の1割 AIに
必須<STEM>人材へ投資急務」のなかで次のように述べた。
デジタルトランスフォーメーション(DX)の推進に不可欠な先端IT(情報技術)人材の育成が遅れている。人工知能(AI)やあらゆるモノがネットにつながるIoTなどを扱える人材は2030年に27万人不足する見通し。だが「STEM」と呼ばれる数学や科学分野の卒業者数は米国の10分の1にとどまり、DXの担い手を十分に育成できていない。人への投資を積極化する必要がある。
 日本のIT人材は足元では少なくない。総務省の20年の労働力調査によれば、情報通信業の技術者は122万人。国際労働機関(ILO)などのデータと比べると米国(409万人)やインド(232万人)、中国(227万人)に次いで世界4位を占める。問題は人材の「質」である。
 経済産業省によると、18年のIT人材の9割がウェブやアプリを開発する「従来型IT人材」だ。AIやIoTなどを専門とする「先端IT人材」は1割しかいない。先端IT人材は今後逼迫し、不足人数は30年に27万人と18年の13倍に増える見通し。従来型IT人材のリスキリング(再教育)では追いつかない。
 「25年までにビジネスで使うアプリの70%以上が複雑なプログラミングが不要なノーコード・ローコード開発になる」(米ガートナー)。技術が汎用化し、ウェブやアプリは誰でも開発できるようになる。代わりにAIやIoTなどで必要な知識を持ち、「課題を解決できる人材が必要だ」と東洋大学の坂村健教授は指摘する。求められるのは、数学や科学など<STEM>分野の教育を受けた人材である。…
 人材会社ヒューマンリソシアの協力を得て経済協力開発機構(OECD)のデータを調べたところ、日本の「自然科学・数学・統計学」分野の卒業生数は18年に約3万人と米国の10分の1に過ぎず、卒業生の14~18年の年平均増減率も日本は0.4%減とフランス(10%増)やイタリア(7%増)などに見劣りする。

【懸念される中国の不動産バブル】

 27日(月曜)の日経新聞は、1面トップに「中国、不動産バブル懸念 民間債務かつての日本超す マンション価格、年収の57倍」の見出しで以下のように報じた。「中国恒大集団の過剰債務問題をきっかけに、中国の不動産バブルへの懸念が高まっている。格差是正を掲げる習近平指導部にとって不動産価格の高騰を容認しにくくなっているためだ。経済規模に対する民間債務比率などの指標はバブル期の日本を超えており、軟着陸は容易ではない。対応次第では、中国経済が低迷期に入る可能性がある。…中国で不動産は拡大する格差の象徴である。如是金融研究院によると広東省深圳市ではマンション価格が平均年収の57倍、北京市も55倍に達する。バブルだった1990年の東京都でも18倍で、中国の大都市圏は庶民に手が届く水準ではない」。
 数日前の22日の日経新聞は、次のように述べていた。「習近平指導部が中国不動産大手、中国恒大集団の経営不安への対応に苦慮している。中国の格差問題の是正をめざして富裕層たたきをする中で、巨大企業グループの救済には安易に踏み込めない。金融危機の引き金を引けば、2022年秋の党大会で習氏の3期目の続投にも響きかねない。…中国共産党の機関紙、人民日報は21日付の1面で恒大集団に一切触れなかった。官製メディアは一様に政府の対応に口をつぐんだままである。習指導部が静観するのは格差是正へ「共同富裕(ともに豊かになる)」のスローガンを掲げたことと無関係ではない。富裕層からの所得再分配を強化し、貧困層を引き上げるとともに中間層を分厚くする構想だ。その実現へ規制を強めるのが富裕層の投機対象になりやすい不動産である」と。

【ドイツ総選挙の結果】

 26日投開票のドイツ連邦議会選挙(総選挙)は中道左派、ドイツ社会民主党(SPD、社民党)が25.7%(前回2017年は20.5%)で、メルケル首相の所属する中道右派、キリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)の24.1%(同32.9%)をわずかに上回った。社民党は16年ぶりに第1党となるが、過半数には及ばず、誰が後継首相になるかは連立協議次第である。協議はかなりの時間がかかるとみられ、行方は混沌としている。ついで環境政党の緑の党が14.8%(同8.9%)、産業界寄りの自由民主党が11.5%(同10.7%)、極右のドイツのための選択肢が10.3%(同12.6%)、旧共産党系の左派党が4.9%(同9.2%)で続く。
 「大きな成功だ」。社民党の首相候補、ショルツ財務相は26日夜、歓声を上げる支援者の前で「選挙結果を喜んでいる」と語った。有権者は政権交代と「ショルツ首相」を求めているとし、16年ぶりの社民党出身の首相となることに強い意欲をみせた。
 次の首相になるには連邦議会で過半数の支持を得る必要があり、二大政党の多数派工作は今後、激しくなりそうだ。有力な選択肢のひとつは社民党、緑の党、自由民主党による連立で、各党のシンボルカラーが赤、緑、黄であるため「信号連立」と呼ばれる。もう一つは、CDU・CSU、緑の党、自由民主党の連立である。3党での連立は政策のすり合わせの難易度が高い。連立交渉がうまく進まなかった場合には、現在と同じCDU・CSUと社民党による大連立の維持も選択肢となる。次期首相が決まるまでは、メルケル首相が務める。

【宣言・重点措置の全面解除】

 約1ヵ月前の8月下旬のピーク時、首都圏(1都3県)の1日あたりのコロナ新規感染者数は12000人であったが、約1ヶ月後の9月28日(火曜)時点では549人と95%まで減少した。こうした傾向を受けて政府は28日午前、新型コロナウイルス対策で19都道府県に発令中の緊急事態宣言と8県への「まん延防止等重点措置」を30日の期限で全面解除する案を専門家に諮問、了承を得られ夕方の政府対策本部で正式決定した。
 緊急事態宣言下の19都道府県とは北海道、茨城、栃木、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川、岐阜、静岡、愛知、三重、滋賀、京都、大阪、兵庫、広島、福岡、沖縄であり、重点措置は宮城、福島、石川、岡山、香川、熊本、宮崎、鹿児島の8県である。
宣言解除後も10月24日までは段階的に緩和する方針で、酒を提供する飲食店の営業時間などで一定の制限を要請する。

【アフガン撤退から1ヵ月、米国の与野党対立】

 28日のロイター通信によれば、オースティン米国防長官は28日、アフガニスタンからの駐留米軍撤収を巡り、上院軍事委員会の公聴会で証言し、アフガン政府軍の崩壊に不意を突かれたとし、アフガン兵士の士気低下や腐敗問題など、誤算があったと認めた。
 また米軍制服組トップのミリー統合参謀本部議長も証言に臨み、、国際武装組織アルカイダとの関係を断絶していないタリバンは引き続き「テロ組織」とみなされると述べた。さらに、アフガンで再結成したアルカイダが早ければ1年以内にも米国に攻撃を仕掛ける「非常に現実的な可能性」があると警告した。
 米議会の与野党対立は思わぬところにも波及している。29日のNHK報道によれば、米国イエレン財務長官は、国債の発行を拡大するための議会の対応が進んでいないことを受けて、このままでは10月18日以降に政府資金が底をつき、債務不履行に陥るおそれもあるとして、議会に警告した。
 米国では、政府が国債を発行して借金できる上限を定めた法律が8月から再び適用され、借金を増やせなくなったため、政府は臨時措置を活用して資金をまかなっている。27日には議会上院で与党・民主党が主導して借金の上限を一時的に外すための法案審議が行われたが、野党・共和党の反対で可決されず、資金繰りの見通しは立っていない。

 これを受けて、イエレン財務長官は28日、議会上院の公聴会で「このままでは10月18日に臨時の資金もなくなる。アメリカは史上初のデフォルトに陥り、信用と信頼が失われる」と警告した。

 与野党の対立の背景には、バイデン政権による巨額の財政支出計画をめぐる攻防が関係しているが、この対立で10月1日からの会計新年度の予算案も成立しておらず、政府機関が閉鎖される懸念も続いている。

【自民党総裁選】

 29日(水曜)、都内のホテルで自民党総裁選が行われた。1時からの1回目の投票では岸田文雄氏が256票(議員票146+党員・党友票110)、河野太郎氏が255票(86+169)、高市早苗氏が188票(114+74)、野田聖子氏が63票(34+29)を獲得、いずれも過半数に達しなかった。
過半数を得る候補者が出ないことは大方の予想の通りであったが、予想に反したのは①岸田氏が首位につけたこと、②高市氏の議員票が河野氏のそれを凌駕したことの2点である。これが決選投票の行方を示唆していた。
 決選投票に移り、3時過ぎに発表があった。岸田氏が257票(249+8)、河野氏が170票(131+29)を得て、新総裁に岸田氏が選出された。つづく両院議員総会において①菅総裁の挨拶、②岸田新総裁の挨拶、③二階幹事長の報告、④菅前総裁と4人の総裁選候補者が手をつなぎ挨拶、総裁選を締めくくった。
 岸田氏は新総裁就任の挨拶で、河野氏、高市早苗、野田聖子に「みなさんのおかげで大変有意義な政策論争をすることができた。心から敬意を表したい」と謝意を示した。菅首相については「コロナ禍のなか、コロナ対策をはじめ様々な難題に対して努力を続けてこられた」と評価した。
 岸田氏は総裁選について「国民に寄り添い、国民の声に耳を澄まし、建設的な論争を行うことで自民党が国民政党であり、自由闊達な政党であると示すことができた」と訴えた。衆院選や来年の参院選に向けて「生まれ変わった自民党をしっかりと示し、支持を訴えていかなければいけない」と力説した。「総裁選は終わった。ノーサイド、全員野球で衆院選、そして参院選に臨んでいこう」と協力を求めた。
 新型コロナウイルス対策を巡っては「必死の覚悟で努力を続けていかなければならない」と指摘し「数十兆円規模の経済対策を年末までにしっかりと作り上げないといけない」と表明した。「早速きょうから全力で走り始める。ぜひ一緒に走っていただきたい」と国会議員や党員・党友に結束を呼びかけた。
 党内役員や閣僚の人事について岸田新総裁は以下の3点を示したうえで、人選をすすめた。①中堅・若手や女性議員を積極的に登用、②老・壮・青のバランスを重視、③総裁選に出馬した3候補にも能力を発揮してもらう。

【岸田新総裁の党内役員人事】

 10月1日(金曜)、岸田新総裁は臨時総務会の場で「国民の暮らしをしっかり守り抜くためにも経済対策をしっかり進めていかなければならない」と改めて訴え、党内役員人事を正式に決めた。党運営の要となる幹事長に甘利明税制調査会長を起用、党政調会長に高市早苗氏を起用、総務会長に福田達夫氏、選挙対策委員長に遠藤利を充てた(以上を<党四役>と呼ぶ)。
 自民党の幹事長とは総裁に次ぐポストで、総裁(首相)が首相官邸に常駐して公務にあたるため、党務を総裁に代行して取り仕切る役割。その力の源泉は、選挙(人事)、おカネ、政策の3つ、選挙は公認するかどうかの人事権からどの選挙区を重点選挙区にして資金を手厚く配分するかの判断もする。その際の資金は政党交付金などが原資となる。総務省が4月に決定した2021年分の自民党に配分する政党交付金は170億2163万円。これが党運営全体に使われ、その差配をする。人事とおカネを握るため、政策にも影響を与えることができる。
 政調会長(正式名は政務調査会長)は、外交・安全保障から経済財政、通商、エネルギー、教育など政策のすべてにわたる党の最高責任者であり、党の命運をかける選挙の公約づくりを担う。
 総務会後に<党四役>が共同記者発表を行い、福田総務会長は「政治は結果に至るプロセスが非常に重要。国民にわかりやすい政治をやる自民党をめざす」と述べ、高市政調会長は「岸田氏と十分に相談し、新しい日本の資本主義を明らかにしたい」とし、衆院選の公約集に「憲法改正の実現に向けた項目を立てる」と言及。
 また岸田総裁は、党総裁選の決選投票で戦った河野太郎氏を広報本部長に就けた。以上5名に加え、国会対策委員長に高木毅衆院議院運営委員長、党組織運動本部長に小渕優子元経済産業相を就けた。

【岸田首相の組閣】

 党役員人事を固めたうえで、次に新内閣の人選を急ぐ。10月1日、首相を支える官房長官には細田派の松野博一・元文部科学相を起用した。松野氏は衆院当選7回で、安倍前政権で文科相などを務め、最大派閥の細田派で事務総長を務める。官房副長官には岸田派から木原誠二(衆院)、磯崎仁彦(参院)の両氏を充て、事務担当の官房副長官は安倍・菅両政権で9年近く務めた杉田和博氏が退き、後任に栗生俊一元警察庁長官が就く。政務担当の首相秘書官には嶋田隆・元経済産業次官を起用した。

 財務相(金融相を兼務)に鈴木俊一・元総務会長(麻生派)が就いた。茂木敏充外相(竹下派)と岸信夫防衛相(細田派)はいずれも再任となった。萩生田文科相(細田派)は経産相に横滑りする。
 法相に古川禎久氏(無派閥)、総務相に金子恭之元国交副大臣(岸田派)、復興相に西銘恒三郎氏(竹下派)をそれぞれ起用する。デジタル相は牧島かれん党青年局長(麻生派)、万博相は若宮健嗣元防衛副大臣(竹下派)、国交相は公明党の斉藤鉄夫副代表が就く。
 厚労相に後藤茂之氏(無派閥)、経財相に山際大志朗氏(麻生派)はいずれも党政調会長代理を務めており、初入閣。ワクチン担当は堀内詔子氏(岸田派)が担う。初入閣組は20人のうち13人に上る。
 岸田氏と総裁選を戦った野田聖子元総務相(無派閥)は少子化相にあてる。女性の起用は3人となる。新しい経済安全保障相に就くのは小林鷹之氏(二階派)、環境相の山口壮氏も二階派である。
 参院からは文科相に末松信介参院国会対策委員長(細田派)、農相に金子原二郎元参院予算委員長(岸田派)、国家公安委員長に二之湯智元総務副大臣(竹下派)がそれぞれ入閣する(いずれも初入閣)。
 10月4日(月曜)午前、菅内閣が総辞職。ついで同日午後、自民党の岸田文雄総裁が臨時国会で第100代首相(内閣総理大臣)に指名された。すぐ組閣本部を設置して新内閣を発足させ、松野官房長官による新閣僚の名簿読み上げ、夕方に皇居での首相親任式、閣僚認証式などを経て岸田内閣が始動した。岸田首相の不在時には、松野官房長官、ついで茂木外務大臣の順で首相代行を務めるとした。
 10月8日(金曜)に岸田新首相は所信表明演説を行い、11日(月曜)~13日(水曜)に代表質問に臨み、臨時国会の会期末にあたる14日(木曜)を軸に衆議院を解散し、19日公示、31日投開票の日程で総選挙を行うことを表明した。
 なお10月7日(木曜)には同月24日投開票の参院静岡、山口両選挙区が告示される。衆院選を前に新政権にとって最初の国政選挙である。来夏には参院選があり、1年以内に2つの大型国政選挙を戦うことになる。

【ノーベル賞決まる】

 4日(月曜)、今年のノーベル医学・生理学賞は「温度・触覚の受容体の発見」に決まった。熱さや冷たさ、痛みなどを感じる<温度センサー>や、皮膚にかかる圧力を感じる<触覚センサー>を発見したことが評価された。受賞するのは、米カリフォルニア大サンフランシスコ校のデービッド・ジュリアス教授と、米スクリプス研究所のアーデム・パタプティアン教授。
 <温度センサー>は、単に温度を感じるだけでなく、やけどや凍傷などの危険を避けるための情報を脳に伝え、命を守る役目もある。ジュリアス氏の研究チームは1997年、唐辛子の成分<カプサイシン>に反応して、痛みを引き起こすセンサーを見つけたと報告した。これが40度を超す熱にも反応したため、温度センサーの一種であることがわかった。
 本ブログ冒頭で述べた<メッセンジャーRNA(mRNA)ワクチン>は、残念ながら受賞対象から外れたが、それだけ多くの多様な成果が生まれている証拠と言い換えても良いであろう。メディアはこの<温度センサー>の発見にいささか戸惑っているようである。
 翌5日(火曜)、新たな朗報が届いた。ノーベル物理学賞を日本出身で米国籍の真鍋淑郎・米プリンストン大学上席研究員(90)らに授与すると発表した。真鍋氏は1960年代、物理法則をもとに地球全体の気候をコンピューター上で再現して予測する数値モデルを開発、大気中の二酸化炭素(CO2)濃度が気候に与える影響を初めて明らかにした。国際社会の目を温暖化に向けさせ、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の発足などにつながった。
 授賞理由は「地球温暖化を確実に予測する気候モデルの開発」など。独マックス・プランク気象学研究所のクラウス・ハッセルマン氏とイタリアのローマ・サピエンツァ大学のジョルジオ・パリシ氏らと共同で受賞した。真鍋氏は気候研究を大きく進めただけでなく、CO2の増加に伴う気温上昇を予測して世界に衝撃を与えた温暖化予測の先駆者である。
 5日(火曜)の日経新聞によれば、独自のモデルを用いた計算で、地表から高度数十キロメートルまで現実とそっくりの大気の温度分布を再現することに成功した。さらに、大気中のCO2の量が2倍になると地上の気温が2.3度上がると試算し、67年に発表した。CO2が長期的な気候変動に重要な役割を果たしていることを示し、世界中で温暖化研究が進むきっかけとなった。
 69年には地球規模の大気の流れを模擬するモデルに、海洋から出る熱や水蒸気などの影響を加味した「大気・海洋結合モデル」を開発した。同モデルを発展させ、CO2増の気候への影響を89年に英科学誌ネイチャーに発表した。専門家が科学的な知見から温暖化を評価する国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の第1次報告書でも成果が引用された。
 同じ日の朝日新聞デジタルによれば、1931年に愛媛県で生まれた真鍋さんは祖父や父のように医師になるつもりだったが、「緊急時に頭に血が上る性格で、向かない」と思い直し、地球物理学の道に進んだという。東大大学院を修了後、活躍の場を求め58年に渡米。米気象局やプリンストン大などで気候変動のメカニズムを解明する研究に取り組んだ。67年、大気中の二酸化炭素(CO2)が増えると地表の温度が上昇するということを、コンピューターを使い、世界で初めて数値で示した。
 1996年に朝日賞を受賞した時、「世界で最もよくスーパーコンピューターを使う男」と呼ばれたが、「自然は無限に複雑。複雑さを競ったらスーパーコンピューターでも勝てない。それをいかに単純化するか、本質をどうつかまえるか。生け花のようなバランスが大事だ」と語っていた。過去には「無駄を省いて、いかに美を追究するか。日本人に向いている仕事かもしれない」とも語っているという。
 同じ日のNHKニュースは真鍋氏とのインタビューで次のように伝えた。「物理学賞というのは、ふつうは純粋な物理が対象となるものですけれども、気候変動が物理学賞の対象になったことにびっくりしています。これまでの受賞者を見てもこういうテーマに対してノーベル賞が出たことはありません。非常に光栄なことだと思っています」と驚きと喜びを語った。
 その上で、真鍋さんは若手の研究者に対し「やはりこの研究がもとは好奇心からスタートした。だから、今の日本でも世界でも、はやりの研究テーマでコンピューターを使って結果を出すという形でやっているが、本当におもしろい研究は好奇心から出た研究が大事だ。日本の若い人たちも好奇心ばかりで研究をしていたのでは研究費が出てこないかもしれないが、そこのバランスを上手に考えてやらないと、時代の流行に流されておもしろい研究は絶対にできない。そういうところに焦点を置いてやることが重要だ」と述べた。
 これは若い研究者への励ましと呼びかけであると同時に、日本の<研究体制>への注文とも受け取れる。岸田首相は本受賞が「日本人の誇り」と語ったが、真の科学立国樹立のためには、研究費支給の仕組みや科学者の自立性への保障が不可欠である。まずは前政権で未解決の日本学術会議委員の任命問題を解決することに着手してほしい。

【コロナ感染者数の急減の要因】

 緊急事態宣言とまん延防止重点措置が10月1日から解除された頃から感染者数の急減がさらに進み、4日(月曜)には東京で87人まで急減した。この人数は今年初であり、昨年から数えて11か月ぶりである。全国でも602人と急減した。
 急減の理由として挙げられるのがワクチン接種率の向上と国民の意識改革とされる。だが、それだけで説明が付かない面も指摘される。社会的要因に加えて、旺盛を極めたデルタ株が何らかの理由で<弱体化>、ないし<弱毒化>したためとも言われる。もしそうであっても、それがなぜかが分からない。日本人のみならず人類世界が抱える重大な<謎>である。6日のニューヨークタイムズ紙は<2か月周期説>がもっとも理解しやすいと述べた。
 原因が分からず、急減したという数字だけを根拠に対策を変え、観光振興等へと舵を切るのは危険との指摘もある。ところが、この<謎>が解けないうちは新たな経済振興策に着手できないとも言い切れない。換言すれば、無為無策に留まるか、それともブレーキを踏む準備をしつつアクセルを踏むということか。
 そのワクチンが過剰になっているとして、7日(木曜)の日経新聞朝刊は「先進国でワクチン余剰 3億回分、途上国へ再配分急務」の見出しで1面トップに掲げ、「先進国で新型コロナウイルスのワクチンが余剰となり、一部に使用期限が迫っている。英調査会社の分析によると、欧米では必要量以上に契約・購入したワクチンの在庫が増えており、年末までに2億回分超が使用期限の接近で使い道がなくなるおそれがある。日本でも来春までに1億回分が期限切れに直面する。接種の遅れる途上国にワクチンを早期に行き渡らせるため、国際的な融通を急ぐ必要がある」と述べた。

【2つの世論調査に見る政権支持率】

 8月段階のバイデン大統領の支持率は、米国キニピアック大学が実施し、大学の公式サイトで発表された世論調査の結果では、4月に57%、5月に49%、8月に46%と低下している。これを危機的と捉えるか、挽回可能な数字と見るか?
 10月5日(火曜)、岸田内閣の発足を受け、日本経済新聞社とテレビ東京が4、5両日に実施した緊急世論調査の結果が発表された。内閣支持率は59%で、政権発足時としては過去3番目に低く、第2次安倍晋三と菅義偉両内閣の初回調査(それぞれ62%と74%)を下回ったが、菅内閣最後の調査結果(9月23~25日)からは21ポイント上昇した。
 朝日新聞による世論調査では内閣支持率は45%、毎日新聞とNHKの調査では49%と低い。無作為抽出法は共通しているが、数字は大きく異なる。発足時に高い支持率があっても1年で急降下した前例もあり、発足時の支持率だけでは判断がつかない。24日投開票の静岡と山口の参院補欠選挙が最初の関門となり、31日投開票の総選挙で真価が問われる。

【震度5の地震】

 7日(木曜)午後10時41分ごろ、首都圏を強い地震が襲った。私は自宅にいて、とっさに身を縮め、10年前の東日本大震災を思い出した。東京都足立区、埼玉県の川口市と宮代町で震度5強を観測した。気象庁によると震源地は千葉県北西部で、震源の深さは約75キロ。地震の規模はマグニチュード(M)5.9と推定される。東京23区で震度5強以上を観測するのは東日本大震災以来である。
 東京都大田区と町田市、横浜市や千葉市、さいたま市などで震度5弱、茨城や栃木、群馬、静岡など広い範囲で震度3~4を観測した。地震は仕事帰りの帰宅の足を直撃した。鉄道各社が一時運転を見合わせ、ターミナル駅などで「帰宅難民」が発生。「エレベーターが止まった」などの通報も相次いだ。JR東京駅前のタクシー乗り場は7日午後11時ごろ、50人ほどが長い列をつくっていた。
 翌8日夕刻現在、4都県で53人の重軽傷者が確認された。東京都では日暮里・舎人(とねり)ライナー(都営)の車両が脱輪し、水道管の破裂などによる漏水が各地で相次ぐなど、インフラにも影響が出た。東京駅では新幹線の車両計4本を一時滞在施設として開放。始発前までに計約350人が利用したという。なお舎人ライナーは4日後の11日(月曜)始発から運転を再開した。

【TSMC社が熊本に半導体新工場】

 8日(金曜)の日経新聞は、「TSMC・ソニー、熊本に半導体新工場 デンソーも参画」の見出しで次のように伝えた。「世界最大の半導体生産受託会社である台湾積体電路製造(TSMC)とソニーグループが、半導体の新工場を熊本県に共同建設する計画の大枠を固めた。総投資額は8000億円規模で、日本政府が最大で半分を補助する見通し。TSMCの先端微細技術を使い、自動車や産業用ロボットに欠かせない演算用半導体の生産を2024年までに始める。半導体は米中対立で供給網が混乱し、経済安全保障上の重要性が増している。工場新設により、日本は先端技術と安定した生産能力を確保する。」
 20年前には東芝が世界2位、NECが同3位にあった日本の半導体メーカーの多くは先端半導体の生産に必要な大型投資の競争から脱落し、最新技術を使う演算用半導体はTSMC(=Taiwan Semiconductor Manufacturing Company, Ltd.現在世界3位)などに委託生産している。TSMCによる直接投資を受け入れることで先端品の国内製造を復活させる形となる。
 これから6日後の14日(木曜)、日経新聞は「TSMC、日本に新工場表明 22年着工24年稼働」の見出しで、次のように伝えた。「世界最大の半導体受託生産会社(ファウンドリー)である台湾積体電路製造(TSMC)は14日に開いた決算発表会で、日本に新工場を建設すると発表した。同日会見した魏哲家・最高経営責任者(CEO)は「当社の顧客、および日本政府の双方から、このプロジェクトを支援するという強いコミットメントを得た」と話した。生産するのは回路線幅が22~28ナノメートルの演算用(ロジック)半導体だ。一般的に画像などデータ量の多い信号処理や、車の制御などに使う高性能のマイコンなどに用いられる。」と。

【法人最低税率15%で国際的合意】

 9日(土曜)、日経新聞は「法人最低税率15%、23年に 引き下げ競争に歯止め」の見出しで次のように報じた。「経済協力開発機構(OECD)加盟国を含む136カ国・地域は8日、企業が負担する法人税の最低税率を15%とすることで合意した。…30年以上続いた法人税の引き下げ競争に歯止めをかける大きな節目となる。最低税率の設定は総収入が年7.5億ユーロ(約970億円)以上の企業を対象に想定する。税率の低い国・地域に子会社を置いて税負担を逃れるのを防ぐ狙いだ。税率が12.5%でグローバル企業の拠点が多いアイルランドも合意に加わった。…店舗などの拠点を前提にした課税原則も約100年ぶりに転換する。新たなデジタル課税は売上高200億ユーロ、税引き前利益率が10%超の企業100社程度が対象。日本企業も該当する可能性がある。売上高の10%を超える利潤の25%に課税する権利を消費者のいる国・地域に配分する。」

【岸田首相の所信表明に対する質疑応答】

 11日(月曜)午後、衆院本会議で岸田首相の所信表明に対する代表質問が行われ、12日(火曜)午前の参院と午後の衆院での代表質問を合わせて、岸田首相は以下のように8つの課題に答えた。(1)新型コロナウイルスのワクチンの3回目接種について「早ければ12月からの開始を想定して準備を進める」とし、「円滑な実施に万全を期す」と強調した。(2)台湾の環太平洋経済連携協定(TPP)への加盟申請に関しては「歓迎している」とし「台湾は申請に向けてさまざまな取り組みを公にしている」と指摘。(3)金融所得課税の強化を当面見送り、賃上げに向けた税制など「まずやるべきことがある」と言明。(4)金融所得課税は「分配政策の選択肢の一つとして掲げてきた。優先順位が重要だ」と説明。(5)成長や分配の政策を議論する「新しい資本主義実現会議」は「すみやかに会議を開催したい」と力説したが、会議のメンバーや開催時期は明言を避けた。(6)日本学術会議の会員任命拒否の理由を問われ「答えを控える」と述べるにとどめた。(7)温暖化ガスの排出量の削減目標は「維持する」と語った。(8)消費税率の引き下げへの見解を問われ「当面、消費税に触れることは考えていない」と述べ、(消費税は)「社会保障の財源として位置づけられている」と強調した。
 13日(水曜)午前の参院代表質問で、新型コロナウイルスの感染状況について首相は「足元では感染者数は落ち着いているが、楽観はできない」との認識を示し、国産の経口治療薬の研究開発を積極的に支援する考えも表明。また「感染が落ち着いている今こそさまざまな事態を想定し、徹底的に安心確保に取り組む」と強調、コロナ対策の全体像の骨格を示すよう今週中に指示すると明らかにした。

【衆院解散、総選挙へ】

 14日(木曜)午後の本会議で衆院は解散された。政府はその後の臨時閣議で衆院選日程を「19日公示、31日投開票」と決定したが、この時点から実質的な選挙戦が始まった。岸田氏は首相就任からわずか10日後の衆院解散、また解散から17日後の31日投開票と決めたが、いずれも戦後最短となる。この<電光石火>の作戦が吉とでるか凶とでるか。
 岸田首相は<成長>と<分配>の好循環による<新しい資本主義>を掲げ、「成長の果実が分配されなければ、消費や需要は盛り上がらず次の成長も望めない。分配なくして成長なしだ」と述べる。もともと<分配>を強調する野党は争点を外されたため、自民党総裁選で格差是正を主張しながら富裕層中心の金融所得課税強化を先送りした首相の判断を問うことに争点を移さざるを得なくなった。与野党の衆院議員はいっせいに地元へ戻り、実質的な選挙戦が始まった。与野党それぞれの主張がどこまで有権者に届くか。
 14日(木曜)のNHKによれば、10月31日に投開票が行われる衆議院選挙に立候補せず、これまでに約30人が今期限りでの引退を表明している。主な人として、大島理森氏(自民党、75歳、青森2区選出の当選12回、この6年間、衆議院議長)、伊吹文明氏(自民党、82歳、旧京都1区から初当選し、12回連続当選、労働大臣、文部科学大臣。財務大臣などを歴任)、赤松広隆氏(立憲民主党、73歳、愛知5区選出の当選10回、この5年にわたり衆議院副議長)、井上義久氏(公明党、74歳、富山県出身で比例代表の東北ブロック、当選9回)がいる。
 15日(金曜)、山際経済再生相は首相が設置した<新しい資本主義実現会議>にコモンズ投信の渋沢健会長(60)、Zホールディングスの川辺健太郎社長(46)、らが参加、有識者のうち女性が半数を占め、「成長と分配」を中心とした経済政策の具体化を進め、四半期開示制度の見直しについても議論すると発表した。
 議長は首相が務め、関係閣僚も参加する。担当は山際経済再生相で、実務を担う実現本部事務局を15日、発足させ、月内にも初会合を開き、来春をめどに構想を取りまとめる。経済を成長させ、子育て世帯の支援や看護、介護、保育の現場で働く人の所得引き上げといった分配機能を強化する考えである。
 これに伴い菅政権で設立され、竹中平蔵氏やデービッド・アトキンソン氏が委員を務めた<成長戦略会議>は廃止した。


 この間、以下のテレビ番組を視聴することができた。(1)NHK72時間「宮城・気仙沼 漁師の“コンビニ”」(再)25日。 (2)BS世界のドキュメンタリー「天空の村のピアノ」25日。 (3)BS世界のドキュメンタリー選「ハイテク対テロ戦争 未来の兵士」28日。 (4)BSスペシャル「香港ディアスポラ~ロンドン 移民たちの1年」30日。 (5)週刊ワールドニュース(9月27日~10月1日)10月2日。 (6)BS世界のドキュメンタリー「新型コロナワクチン開発戦争の舞台裏」(前編と後編)10月3日。 (7)NHKスペシャル「中国共産党 一党支配の宿命」3日。 (8)BSスペシャル「被爆の森 2021 変わりゆく大地」3日。 (9)プレミアムカフェ(再)「シーボルト 知られざるプラントハンター(200年)」4日。 (10)ブラタモリ(再)「東京・白金(2019年6月22日放送分)」4日。 (11)NHK時論公論「真鍋淑郎さん ノーベル物理学賞決定」5日。 (12)アナザーストーリーズ「“飛鳥美人”発見! それはパンドラの箱だったのか?」5日。 (13)プロフェッショナル「新型コロナ治療、最前線の闘い~集中治療医・竹田晋浩~」5日。 (14)ヒューマニエンス「山中伸弥スペシャル iPS細胞と私たち」7日。 (15)BS-TBS「МLB大谷翔平ハイライト2021~全部見せます!SHO-TIME 世界が注目したホームラン~」9日。 (16)クローズアップ現代+「自衛隊アフガン派遣の内幕 緊迫の避難作戦でなにが?」14日。

秋の野の花(三溪園所蔵品展)

 三溪記念館の展示替えがあった。10月26日(火)までの新しい所蔵品展である。今回も担当は吉川利一学芸員(事業課長)。吉川さんの案内に導かれて所蔵品展を回りたい。

第1展示室  所蔵品展Ⅰ  四季のうつろい―花野
第2展示室  所蔵品展Ⅱ  臨春閣 村雨松林図
原三溪模写「鳥獣戯画」
原三溪書「金港新涼」、「古寺秋風」
 なお第3展示室は企画展「三溪園が守り継ぐ、美と歴史の宝」(継続)である。

 第1展示室は「四季のうつろい―花野」と題したとおり、秋の風情を中心に所蔵品を配置している。<花野>(はなの)は「秋草が咲き乱れる野原のことを意味し、古来万葉集や俳句などにその言葉が見られます」とあるが、<花野>という単語は現代ではあまり使われない。そこで今回の題名を<秋の野の花>とした。

 吉川さんの解説に「三溪園では、開園当初、現在の旧燈明寺本堂付近に群馬・高崎から取り寄せたキキョウやカルカヤ、オミナエシなどが植えられ、秋には一面の花野が楽しめたようです。本展では、原三溪も好んだこの秋草の風情を所蔵品の中からお届けします。」とある。

原三溪「雁尾山」
「箱書に「芸州所見」とあり、広島の刈尾山を描いたものであることがわかります。熊手を持った女性たちを傍らに置き、風になびくススキを一面に描いた画面からは、ザァーッという音が聞こえてくるかのようです。」

原三溪「秋塘」
原三溪「秋塘」 
 フヨウとススキを取り合わせた秋草の画題。
俵屋宗達など琳派を高く評価しコレクションに加えていた三溪は、その画派が得意とした装飾的な技法をこの絵に取り入れています。輪郭線を描かず、色面だけで対象を捉える「没骨 もっこつ」や絵具のにじみを利用する「たらし込み」という技法が本図にはみられます。

原三溪「白兎」

原三溪「白兎」

小茂田 青樹「薊 あざみ」
小茂田 青樹「薊 あざみ」



牛田雞村「秋草図」

  原三溪画・光山作楽焼角皿

絵はがき
「明治33(1900)年に私製はがきの発行が認められると、日本各地で続々と様々な絵はがきが作られるようになりました。ここ三溪園の周辺でもみやげ物店などで販売されたようで現在でも園内各所をとらえた絵葉書が多数みられます。

ここに紹介している絵葉書は現存していない皇大神宮とその周辺を写したものです。現在の旧燈明寺本堂にあたるこの場所は開園当時、秋になると一面の花野が見渡せました。明治41(1908)年9月の横浜貿易新報(神奈川新聞の前身)の記事には、その様子が次のように描写されています。『石段を昇り、祠前の高処より眼下一面の花野を眺むれば、蒸せる粟の如き女郎花(おみなえし)の花続きて…中に浅紅の芙蓉…其の間に散点せる様…その上を風の渡る風情、得も言はれぬ趣きなり。』
今、この風情を楽しめないのは惜しいことです。」

【秋の七草】
同じ万葉集の山上憶良(やまのうえのおくら)が詠んだ下記の2首に由来する<秋の七草>の方が馴染みがあると思われる。「秋の野に 咲たる花を 指折り かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」及び 「萩の花 尾花葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなえし) また藤袴 朝顔の花」
しかし、この七草の名前をすべて挙げられる人は多くはない。それだけ七草は現代人の生活(環境)から遠ざかっている。これを現代風のカタカナ表記に並べ替えると、①オミナエシ(姫部志、女郎花)、②ススキ(尾花)、③キキョウ(桔梗)、④ナデシコ(瞿麦、撫子)、⑤フジバカマ(藤袴)、⑥クズ(葛花)、⑦ハギ(萩)の7種。

今や都会では歩道も舗装され、野草の育つ場がなくなった。私は東京郊外(いまの練馬区)の新興住宅街(昭和初年に開発)で子ども時代を過ごした。すぐ南側が農村で武蔵野の雑木林とその間に拡がる畑地と小川の周辺に野草が育ち、飼っていたヤギの格好の餌場であった。高校生のころから近在の山に登り、秋の七草は身近な存在であった。この世代はもはや少数派であろう。
野の花は確実に身辺から遠ざかっている。横浜本牧の三之谷を歩いても、道端で目にすることはまずない。三溪園の正門を入って右側にボランティア団体<自然観察会>が張り出す「三溪園の花」の写真(撮影は9月)が20余点あったが、そこにある野の花に安堵する。
20余点のなかにある秋の七草は、オミナエシ、ススキ、キキョウ、フジバカマ、ハギ(ミヤギノハギ+アレチヌスビトハギ)の5種で、ナデシコとクズは入っていない。今年は早く咲いて、すでに散ってしまったようである。
10月初旬の静かな午後の散策。正門の左手から藤棚を抜けて大池を右に見て外苑へ向かう。天満宮、旧燈明寺本堂、待春軒、大漁地蔵を抜けて旧矢箆原家住宅(合掌造り)、旧東慶寺仏殿へと至る。道すがら、風に揺れるススキやアザミノ、オミナエシ等に出会った。
【気象情報の伝える<秋の野の花六選】
最近では、季節の花を思い起こさせてくれるのが気象情報に関連するテレビニュースである。その1つ、先週のtenki.jpに「趣き深い秋の野の花六選」があった。「全国で普通に見られる美しい野の花」を厳選したものと言う。
その解説に「明るく若々しい春の花。豪華で妖艶な夏の花。秋となると、その涼やかな空気のように、しっとりと落ち着いて心にしみるような花々が多くなります。深山や離島などの特殊な環境に行かずとも、全国で普通に見られる美しい野の花を厳選してご紹介します」とある。
(1) 幸せの黄色いサルビア(キバナアキギリ): キバナアキギリ(黄花秋桐 Salvia nipponica)は、シソ科アキギリ科に属する多年草で、本州以南の山野に普通に分布する。草丈は30cmほどですがシソ科では極めて珍しい黄色の筒状唇形花はオドリコソウのように輪生して目立ち、林沿いのやや湿った半日陰の場所を好み、群生するさまは周辺を明るく彩る。
(2) 秋の野辺に涼やかに揺れる紫のベル(ツリガネニンジン): ツリガネニンジン(釣鐘人参 Adenophora triphylla var. Japonica)は全国の山野に自生するキキョウ科ツリガネニンジン属に属する宿根草です。明るく、やや湿った草地によく自生し、草丈は50cm~1mほど。この植物の魅力は、晩夏から秋にかけ、輪生する細卵形の葉の台座からすっくりと直立した花茎に、薄紫色のベルのようなかわいい鐘形花を房状に咲かせる可憐な花姿。下向きに咲く花は1.5~2cmほど、雌しべがちょこんと出ているのがベルを鳴らす舌(ぜつ)にも見えて、一層かわいらしく見える。
(3) 空き地に輝く秋の太陽(アキノノゲシ): アキノノゲシ(秋の野芥子 Lactuca indica)は、ハルノノゲシ(春の野芥子 Sorchus oleraceus)に似て秋に咲くことから、対となってその名が付いた。ハルノノゲシの頭花がタンポポのような黄色なのに対して、アキノノゲシはさわやかなレモン色、また草姿も、全体にずんぐりとしたハルノノゲシに比べてすらりとして、草丈は大人の背丈ほどにもなる。
稲作とともに南アジアから渡来した史前帰化植物とされ、明るい草原や切り開かれた空き地などに積極的に進出する強壮な生命力を持つパイオニア植物。都会などの道端にもしっかりと根を張り、美しい花を見せる。
(4) 日本在来のフレッシュミントはすぐ傍にあります(二ホンハッカ): 「ミント(ペパーミント、スペアミント)」といえば洋風のハーブのイメージが強く、日本の山野に普通にミントが自生しているなんて、山野草に興味のある人以外ほとんど知られていないのではないでしょうか。しかし、なんとニホンハッカ(日本薄荷 Mentha canadensis var. Piperascens)は、かつて全世界流通の大半を占めるミントの王様で、外貨獲得の重要な輸出品目でした。日本からブラジルに移民した日系人が、当地で安くニホンハッカを大量生産したこと、ノーベル化学賞を受賞した野依良治氏が人工メントールの合成に成功したことから国内のハッカ生産と輸出は衰退消滅し、残るのは野に咲くハッカのみとなりました。
草丈は10~30cmと小さく目立ちませんが、葉をもむと強烈なミントの香気がたちこめて、感動すること請け合いです。やや湿気のある明るい草地を好み、このため田んぼの畔にしばしば自生しているのを見ることができる。葉は緩やかな心形で対生し、段々になった葉腋ごとに薄いシャーベットピンクの花房を、輪のように咲かせます。
(5) 薄暗い樹下に映える自然のネックレス(ミズヒキ): ミズヒキ(水引 Persicaria filiformis)はタデ科イヌタデ属の宿根草で、日本全土の山野に自生します。晩夏から秋、互生した広卵形の葉茎の先端または葉腋から、しゅんと伸びたムチのような花茎を伸ばし、豆粒のような小さな花を、花茎に数珠か首飾りのようにちりばめます。花は上部が赤、下部が白で、これを祝儀袋などの紅白の止め紐「水引」に見立てて名が付いた。その独特のしっとりとした美しさと趣きは、俳句や短歌に多く詠まれている。
(6) 深まる秋空を映したような名花は月の化身?(ツユクサ): ツユクサ(露草・鴨跖草 Commelina communis)は、ツユクサ科ツユクサ属の一年草。さほど花に詳しくなくても、ツユクサを知る人は多いでしょう。それほどこの小さな草の花弁の鮮やかな青は目につきます。花は一日花で、花弁が二弁のように思われますが三弁で、下側にある一枚の花弁は退化して目立ちません。花弁の青とのコントラストをなす黄色い雄しべは六本あり、このうちの二本が発達して伸びて、上向きの鎌形のかたちをなします。夏の初めごろから咲き始めますが、秋にも咲き継ぎ、見た目のなよやかな弱弱しさとは真逆に、匍匐した茎から次々と根を張り、繁殖域を広げる生命力に満ちた野草です。

【第2展示室 所蔵品展Ⅱ】
すこし寄り道をして「秋の野の花六選」を観た。二ホンハッカは初耳でぜひともお目にかかりたいと思う。
ここで再び三溪記念館の第2展示室 所蔵品展Ⅱに戻ろう。部屋の右手に障壁画「臨春閣 村雨松林図」を展示している。  
吉川さんの解説に言う。「三溪園にある歴史的建造物の中で、三重塔と並ぶ代表的な建物が臨春閣です。江戸時代初期、紀州徳川家の別荘として築造されたといわれるこの建物の内部には障壁画が付属しており、本作品はこのうちの第三屋・2階にある村雨の間次の間に嵌め込まれていたものです。(現在建物内には複製を置いています。)村雨は、強く降ったり止んだりを繰り返す雨あるいはにわか雨、通り雨のことで、俳句では夏の季語として使われますが、「秋の村雨」、「後の村雨」という、秋冬に降る雨を指す表現もあります。本図では松林に降りそそぐ村雨が細かく切った金銀の箔で表わされています。」

伝狩野山楽「村雨松林図」
伝狩野山楽「村雨松林図」1

伝狩野山楽「村雨松林図」2



展示室の正面には、原三溪の書2点の掛け軸がある。その堂々たる書体は部屋全体の雰囲気を引き締める。

原三溪書「金港新涼」
「三溪が自作の漢詩を書にしたためたもので、初秋横浜港の夜の情景を詠んだものです。」

原三溪書「古寺秋風」
「三溪が高野山を訪れた時に詠んだ「高野山雑吟」の中の一節をしたためたもの。秋風の吹く静かな境内のたたずまいが感じられます。」

左側には原三溪模写「鳥獣戯画」(巻物)を拡げてある。
吉川さんの解説:「原本は、平安時代から鎌倉時代にかけて制作された京都高山寺に伝わる国宝「鳥獣人物戯画」で、甲乙丙丁の4巻からなる絵巻です。本図はこのうちの動物を擬人化して描いた甲巻を模写したものです。カエルやウサギ、サルたちが秋草の咲く野山を舞台にユーモアたっぷりに描かれています。」

鳥獣人物戯画について、ウィキペディアは以下のように述べる(概要)。
京都市右京区の高山寺に伝わる紙本墨画の絵巻物。国宝。鳥獣戯画とも呼ばれる。現在の構成は、甲・乙・丙・丁と呼ばれる全4巻からなる。内容は当時の世相を反映して動物や人物を戯画的に描いたもので、嗚呼絵(おこえ)に始まる戯画の集大成といえる。特にウサギ・カエル・サルなどが擬人化されて描かれた甲巻が非常に有名である。
元来、表面裏面に書かれていたものが裏打ちで剥ぎ取られ、現在に伝わる状態になっていることが近年の修復で判明した。一部の場面には現在の漫画に類似した手法が見られることもあって、「日本最古の漫画」とも称される。
成立については、各巻の間に明確なつながりがなく、筆致・画風も違うため、12世紀 - 13世紀(平安時代末期 - 鎌倉時代初期)と幅のある年代に複数の作者により別個の作品として制作背景も異にして描かれたが、高山寺に伝来した後に鳥獣人物戯画として集成したものとされる。
作者には戯画の名手として伝えられる鳥羽僧正覚猷(とばそうじょう かくゆう)が擬されてきたが、それを示す資料はなく、前述の通り各巻の成立は年代・作者が異なるとみられることからも、実際に一部でも鳥羽僧正の筆が加わっているかも疑わしい。現在は甲・丙巻が東京国立博物館、乙・丁巻が京都国立博物館に寄託保管されている。

この原三溪模写「鳥獣戯画」から4点を掲げよう。単に画法を鍛えるためだけに模写したとは思えない。三溪翁は、何を想いつつ絵筆を取ったのであろうか。

原三溪模写「鳥獣戯画」1


原三溪模写「鳥獣戯画」2


原三溪模写「鳥獣戯画」3


原三溪模写「鳥獣戯画」4









プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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