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人類最強の敵=新型コロナウィルス(42)

【アフガニスタン情勢】
 8月26日、バイデン米大統領は演説で、過激派組織「イスラム国」(IS)がアフガニスタンで米兵(13人)を殺害したことを受け、「(ISを)追い詰めて代償を払わせる」、「…我々は許さない。忘れない」と強い口調で述べ、報復に向けた作戦計画を米軍に指示した。米軍を31日までにアフガンから撤収させる計画は堅持する。

 27日、米軍で中東地域を管轄する中央軍は声明でアフガニスタンの過激派組織「イスラム国」(IS)系勢力の「ISホラサン州」に対し空爆を実施したと発表した。「米兵13人が犠牲になった26日の自爆テロに対する報復措置となる。…米軍はアフガン東部で無人機を使い、自爆テロを計画した人物に対して空爆した。初期段階の分析では標的としたISホラサン州の人物1人を殺害したが、空爆による一般市民の被害はなかったと説明した」(28日の日経デジタル)。

 28日段階で日本人の<退避>は1名のみ、他の日本人とアフガン人協力者はカブール国際空港に入ることができず、<退避>ができていない。

 31日(火曜)未明の日経新聞デジタルは、「米軍、アフガン撤収完了 米最長の20年戦争が終結」の見出しで【ワシントン=中村亮】を次のように伝えた。
 バイデン米大統領は30日の声明で「20年間にわたる米軍のアフガニスタン駐留が終了した」と明らかにした。掃討をめざしたイスラム主義組織タリバンが復権し、米史上最長の戦争は敗走に近い形で幕を閉じた。国際テロ組織がアフガンを拠点に米国本土を再び攻撃するリスクは消えていない。
 バイデン氏は声明で、アフガンの首都カブールの空港で米国人やアフガン人の国外退避を支援した米兵に対し「米史上最大の空輸任務を実行した」と謝意を示した。米東部時間31日午後1時30分(日本時間9月1日午前2時30分)にアフガン戦争の終結について国民向け演説を行った。
 バイデン大統領の演説は、必ずしも明瞭とは言えない複雑な内容を持つ。そして<自国第一主義>の影が色濃い。「この永遠の戦争を長引かせるつもりはなかった」とした大統領演説を一言でまとめるのは難しい。20年にわたる長期の戦争の<終戦>(<敗戦>)を締めくくる大統領演説である。国内向け、世界向けをふくめ、単純には行かない。要点だけを再掲するのではなく、演説全文の趣旨を損なうことのないよう以下の13点を再掲する。
(1) 「兵士らは、人道のために命をかけた」 昨夜カブールにおいて、我々は米国史上最も長い20年におよぶアフガニスタン戦争を終わらせた。史上最大の空路での退避を完了させ、12万人以上がアフガニスタンから安全な場所に避難した。この数は、大半の専門家が可能だと予測した2倍以上にあたる。このようなことを実施した国はほかになく、その能力と意思があるのは米国だけであり、我々はそれをやってのけた。
(2) この任務が大きな成功を収めることができたのは、米軍と外交官、情報機関のスタッフの卓越した技能、勇敢さ、献身のおかげだ。数週間にわたって、彼らは米国人、我々を助けてくれたアフガニスタンの人々、同盟国や友好国の国民を飛行機に乗せ、アフガニスタンから退避させるために命を危険にさらした。
 彼らは、国を離れようとして押し合う群衆に向き合い、イスラム主義組織タリバンと敵対する過激派組織「イスラム国」(IS)系勢力のテロリストが群衆の中に潜んでいることを知りながら任務を果たしてくれた。そのような状況で米軍の兵士、外交官、情報機関のスタッフは、自分のキャリアのためではなく他人に尽くすために、戦うためではなく人道のための任務に命をかけ、役割を果たした。
任務の遂行において20人が負傷し、13人の英雄が命を失った。私はドーバー空軍基地でひつぎの帰還を見守った。我々は彼らとその家族に返しきれないほどの恩義がある。我々は決して忘れてはならない。
(3) 「撤収するか、エスカレートするかの選択」 私は4月にこの戦争の終結を決意し、米軍の撤収期限を8月31日とした。20年にわたって我々が訓練し、装備を備えた30万人以上のアフガニスタン国軍が撤収後もしばらく持ちこたえられると想定したが、それは正しくなかった。私は国家安全保障チームに、あらゆる不測の事態に備えるよう指示した。
 米国市民や大使館の職員、同盟国や友好国の人々、そして我々と共に働き、20年にわたって共に戦ったアフガニスタン人を31日までに安全に退避させるため、空港の安全確保に米兵6千人のカブール派遣を承認した。任務は厳しい重圧と攻撃の下で遂行するよう計画され、実行された。
 3月以降、我々はアフガニスタンにいる米国人に19回にわたって連絡を とり、繰り返し警告し、退避の支援を申し出た。当初は残留を考えていたおよそ5千人の米国民が退避を望んでいることが分かった。
(4) 「100~200人の米国人、アフガンに残る」 我々の作戦で5500人以上の米国民を退避させ、数千人の他国の市民や外交官を退避させた。米大使館で雇用された現地スタッフとその家族、合計約2500人を退避させた。通訳など米国を助けた数千人のアフガニスタン人も退避させた。現在、退避する意思がいくらかある100人から200人の米国人がアフガニスタンに残っているとみられる。
(5) アフガニスタンに残る多くの米国人は二重国籍者で、長年アフガニスタンに住み、家族のルーツもあるためとどまることを決めた。退避を希望した米国人の98%は退避を終え、残る米国人にも退避の期限はない。希望すれば退避させることを約束する。ブリンケン国務長官は、アフガニスタンに残る米国人やアフガニスタン人の協力者、外国人が安全に退避できるよう、外交努力を続けている。
 実際、昨日の国連安全保障理事会は、国際社会のタリバンへのメッセージとして、渡航や出国の自由を保障するよう求める決議を採択した。これには希望者が出国し、アフガニスタンの人々に人道的支援を届けるための空路や陸路の再開に向けた取り組みも含まれている。
 タリバンは米国の協力者を含め、出国を希望する人の安全を確保するとテレビやラジオで約束している。彼らの言葉だけでなく、行動をみて判断する。はっきりさせておきたいのは、8月31日の撤収期限は作為的に決めたことではなく、米国人の命を救うために決めたことだ。(トランプ)前大統領は、私が就任してからわずか数カ月後の5月1日までに米軍を撤収させることでタリバンと合意していた。この合意には、タリバンがアフガニスタン政府と協力するという条件は含まれていなかった。
(6) 就任時、タリバンは2001年以降で最も強い軍事的立場にあり、国の半分近くについて支配するか争っていた。前政権は、米国が5月1日の撤収期限を守れば、米国に攻撃しないことでタリバンと合意していた。残留すれば全てが白紙に戻る。
 そのため、我々に残された道は、前政権が結んだ合意した通りに従来の撤 収期限を守るか、撤収しないと言ってさらに数万人の兵士を投入し、戦争に突入するかだった。撤収するか、エスカレートさせるかの選択だったのだ。私はこの永遠の戦争を延長させるつもりも、永遠の撤収を続けるつもりもなかった。
 カブール空港における退避作戦を終了する決定は、軍事アドバイザー、国務長官、国防長官、現場指揮官などの全会一致によるものだ。彼らの提案によると、残る米国人やその他の人々の出国を確保するために最も安全な方法は、カブールで危険な状態にある6000人の米軍を残すことではなく、非軍事的な手段で出国させることだった。
(7) 「私はこの決定に責任を負う」 私はすべての米国民に、米軍と外交官、情報機関のスタッフがカブールで慈悲の使命を遂行したことへの感謝の祈りをささげてもらいたい。何万人ものボランティアが連携して退避する人々を空港に導き、必要な支援を行った。
 我々はまだ彼らの助けを必要とし続けており、会える日を楽しみにして いる。そして、アフガニスタンの友人たちに歓迎の手を差し伸べてくれる米国を含む世界中の人々に感謝する。
 私はこの決定に責任を負っている。「もっと早く大量退避を始めるべきだった」とか「もっと秩序だったやり方でできなかったのか」という人もいるが、失礼ながらも、それには同意できない。想像してほしい。6月か7月の戦いのさなかに数千の米軍を引き揚げ、12万人以上の人々を退避させようとすればどうなったか。政府の支配への信頼が失われ、空港に人々が押し寄せる事態が起きただろう。それはやはり非常に困難で危険な任務だっただろう。
 結局のところ、複雑さ、困難さ、脅威に直面することなしに戦争の終わりから退避することはできないのだ。無期限でとどまり続けるべきだという意見もあるだろう。彼らは「これまでしてきたことを続ければいいじゃないか。なぜ変える必要があるのか」と問いかける。しかし事実として、すべてが変わってしまっていた。
(8) 「トランプ前大統領がタリバンと取引」 私の前任者(トランプ前大統領)がタリバンと取引した。私が就任したとき、5月1日の期限が近づき、タリバンの猛攻が迫っていた。我々は2つの選択肢から1つを選ぶしかなかった。前政権の取り決めに従い、人々が撤収できるように期間を延長するか、もしくは、さらに数千の軍を派遣し、戦争を拡大するか。
(9) 30年目のアフガニスタン戦争を求める人たちに、どこに重要な国益があるのかと問いたい。私の意見は、アフガニスタンが二度と米国本土への攻撃に使われることのないようにすることが唯一の国益だ。そもそも、なぜ我々がアフガニスタンに出向いたかを思い出してほしい。それは2001年9月11日に、ウサマ・ビンラディンとアルカイダの攻撃を受けたからだ。彼らがアフガニスタンを拠点にしていたからだ。
 我々は2011年5月2日、10年前にウサマ・ビンラディンを倒し、アルカイダを破壊した。みなさんは自分に問うてほしい。9月11日の攻撃がアフガニスタンではなくイエメンからだったなら、たとえタリバンが支配していたとしてもアフガニスタンに戦争に行っただろうか。正直な答えは「いいえ」だと思う。米国の国土と同盟国への攻撃を防ぐこと以外に、アフガニスタンには重要な国益はなかったのだから。
(10) 「中ロはアフガン情勢の泥沼化を望んでいる」 しかし、テロの脅威が続くことも理解している。それは有害で邪悪な性質のもので、ほかの国にも広がっている。我々の戦略も変わらなくてはならない。我々はアフガニスタンや他国での対テロ戦を継続する。そのために地上戦は必要ない。我々は「オーバー・ザ・ホライゾン」能力、つまり米兵を派遣せずにテロリストの標的を攻撃する能力を持っている。米兵の派遣はほとんど必要ない。
 我々は先週、その能力を示した。過激派組織「イスラム国」(IS)系の「IS ホラサン州」を遠隔攻撃した。彼らが米兵13人と多くの無辜(むこ)のアフガニスタン人を殺害した数日後だ。米国の安全を守る最善の道は、断固とした、容赦ない、狙いを絞った、正確な戦略だと強く信じている。
 それが米国の国益だ。理解しなくてはならない重要なことがある。世界は変化している。中国と真剣な競争をしている。中国やロシアが何よりも望んでいるのは、米国がアフガニスタンでもう10年の泥沼にはまり込むことだ。我々は過ちから学ぶべきだ。第一に、明確で達成できる目標を持った任務を設定する。第2に、根本的な米国の国家安全保障の利益に焦点を当てる。 
(11) 「他国を作り替えるための軍事作戦の時代終わった」 アフガニスタンに関するこの決断は、アフガニスタンだけに関するものではない。他国を作り替えるための大規模な軍事作戦の時代の終わりだ。テロリストを掃討しテロ攻撃を止めるアフガニスタンでの対テロの任務が、反体制勢力の制圧、国家構築、民主的で団結したアフガニスタンという、同国の歴史で何世紀も実現しなかった任務に変形した。
 米国に危害を与えようとする者、米国や同盟国にテロ攻撃を仕掛けよう とする者は、知るがいい。米国は決して休まない。許さない。忘れない。必ず掃討する。究極の代償を払わせる。
 明言したい。我々は引き続きアフガニスタンを外交的に支援する。人道支援を続け、アフガニスタンの人々の基本的人権、特に女性や少女の権利のために声を上げる。私は人権が米国の外交の中心だと明言してきた。だが、それは終わりのない軍事行為によって行うものではなく、外交や経済政策、世界からの支援を求めて行うものだ。
 米国人のみなさん、アフガニスタン戦争は終結した。
 私はこの戦争を終結させるかどうか、いつ終わらせるかという問題に直面した4人目の大統領だ。私が大統領に立候補したとき米国人にこの戦争を終結させると約束をした。私はこの約束を守ったことを光栄に思う。いまは米国人に対して正直になる時が来た。
(12) 「次世代の子供を戦場に送ることを拒否する」 我々はもはや(戦争に)明確な目的を持っておらず、アフガニスタンに対する使命は答えがない。20年がたち、私はずっと前に終結すべきだった戦争のために、次の世代の息子や娘たちを戦場に送ることを拒否する。
 我々は2兆ドル以上をアフガニスタンのために支出した。ブラウン大学 の調査によれば、この20年間で、毎日3億ドルをアフガニスタンのために使ってきたことになる。そうだ、我々は20年間、毎日3億ドルを使ってきたのだ。
 もし少なく見積もって1兆ドルだったとしても、毎日1億5000万ドルを20年間にわたって使ってきたことになる。この結果、我々は一体どのような機会を失ったのだろう。私は、もはや重要な国益ではなくなった戦争を続けることを拒否する。
 80万人もの米国人がアフガニスタンに従軍し勇敢で立派な仕事をし、2万744人の軍人が傷つき、今週命を失った13人を含む2461人が死亡した。私はこの国土を見て回った。
 私は次の10年間、さらにアフガニスタン戦争を続けることを拒否する。もう20年我々は時間を費やした。我々はあまりにも長い間戦争をし続けた。もしあなたが20歳であれば、この期間、平和というものを知らずに育ったことになる。
 アフガニスタンで危険性が低い軍事努力を維持すべきだという意見を聞くと、米国全体の1%の人々に課した重責を多くの人が十分理解していないと思う。彼らは制服を着て、国の防衛のために命をかけてきたのだ。
 たぶん私の死んだ息子のボーがイラクで従軍していたので、あるいは 上院議員として、副大統領として、大統領としてこうした国をめぐり、多くの軍人やその家族と会ったからかもしれない。
 多くの退役軍人と家族は地獄のような日々をおくっている。従軍のため何年も家族と会うことができず、誕生日、記念日を祝うこともない。祝日にもプレゼントはなく、家計的に苦労し、離婚に追い込まれ、手足を失い、脳を挫傷し、PTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しんでいる。
(13) 「リスクが低い戦争はない」 我々は多くの軍人が帰還したときの苦悶を見ている。家族関係のひずみを見ている。生還者の悲しみを見てきた。すべては戦争の代償だ。彼らは一生ともにすることになるだろう。
 悲惨でショッキングな統計がある。18人の退役軍人が、毎日自殺している。リスクが低い戦争も、コストのかからない戦争もないのだ。私はアフガニスタンにおける戦争を終わらせた。争いと痛み、犠牲を伴う20年の戦争を終わらせた。未来に目を向ける時がきた。未来、より安全な未来、より保証された未来、リンカーン大統領がかつて話したような「最後の全力」を尽くしてささげた人たちに敬意を表する未来だ。正しく、賢明で、米国にとって最善の判断であると信じている。
神のご加護を。ありがとう。

【東京パラリンピック】
 東京パラリンピック4日目の27日(金曜)、競技初日の陸上は男子400メートル(車いすT52)決勝で佐藤友祈(モリサワ)が55秒39で1位になり金メダル、今大会の日本勢で2個目の金メダルに輝いた。上与那原寛和(SMBC日興証券)も銅メダルを獲得。
同じ27日、男子5000メートル(視覚障害T11)では唐沢剣也(群馬県社会福祉事業団)が銀メダル、和田伸也(長瀬産業)が銅メダルを獲得。

 6日目の29日(日曜)、競泳の男子100メートル平泳ぎ(知的障害)で山口尚秀(20、四国ガス)が金メダルを獲得。予選を全体1位のタイムで通過し、決勝も世界新記録の1分3秒77で勝った。今大会の日本勢の金メダルは競泳男子100メートル自由形(運動機能障害S4)の鈴木孝幸(ゴールドウイン)、陸上男子400メートル(車いすT52)の佐藤友祈(モリサワ)に次いで3つ目。
 また陸上男子1500メートル(車いすT52)で佐藤友祈(モリサワ)が3分29秒13の大会新で金メダルを獲得、同400メートルとの2冠を達成した。同じく400メートル銅メダルの上与那原寛和(SMBC日興証券)も3位に入り、2つ目の銅メダルを獲得。
 日本勢の金メダルは、競泳男子100メートル平泳ぎ(知的障害)の山口尚秀(四国ガス)、競泳男子100メートル自由形(運動機能障害S4)の鈴木孝幸(ゴールドウイン)と合わせて4つとなった。
 8日目の31日(火曜)、自転車女子個人ロードタイムトライアル(運動機能障害C1~3)で、杉浦佳子(50歳、楽天ソシオビジネス)が25分55秒76で金メダルを獲得。
 陸上の男子1500メートル(視覚障害T11)で和田伸也(長瀬産業)が4分5秒27で2位に入り、銀メダルを獲得。
9日目の9月1日(水曜)、ボッチャの個人(脳性まひBC2)決勝で杉村英孝(伊豆介護センター)がワッチャラポン・ウォンサ(タイ)に5-0で勝ち、この競技で日本初の金メダルに輝いた。競泳では男子100メートル平泳ぎ(視覚障害SB11)で木村敬一(東京ガス)が銀メダル獲得。
 11日目の3日(金曜)、自転車の女子個人ロードレース(運動機能障害C1~3)で杉浦佳子(楽天ソシオビジネス)が金メダルを獲得、タイムトライアルと合わせて2冠を達成。競泳の男子100メートルバタフライ(視覚障害S11)で木村敬一(東京ガス)が初の金メダルに輝いた。富田宇宙(日体大大学院)が銀メダル。
 12日目の4日(土曜)、バドミントンの女子シングルスで車いすWH1の里見紗李奈(NTT都市開発)が金メダルを獲得。女子シングルスで上肢障害SU5の鈴木亜弥子(七十七銀行)は銀メダル。3位決定戦で女子シングルス(上肢障害SU5)の杉野明子(ヤフー)は亀山楓(高速)に勝ち、銅メダルを獲得した。

 同じ日、車いすテニスで国枝慎吾選手(37)が5年ぶりに金メダルに輝いた。「グランドスラムでの通算45回優勝」など5つのギネス世界記録も持つレジェンドが、栄光の歴史に新たなページを加えた。「彼は『まだまだ自分は強くなれる』と信じている。成長の限界をつくらない」とコーチの岩見亮さんは彼の強さの秘訣を語る。

 最終日の5日(日曜)、陸上の女子マラソン(視覚障害T12)で道下美里(三井住友海上)が金メダルに輝いた。バドミントンの男子シングルス(車いすWH2)で梶原大暉(日体大)が金メダル。女子ダブルス(車いす)の里見紗李奈、山崎悠麻組(NTT都市開発)も金メダル。
 金メダルを勝ち取った人は、その成果への喜びに加え、多くの方々の助けと協力があってこそのものと必ず言う。パラリンピックに相応しい<喜びと感謝>を視聴者も深く共有した。

 「失ったものを数えない」、それはなんと強い生き方だろう。「なぜ自分だけが」と思いたくなるような事故を、怪我を、病気を、彼らは振り返ることを止めた。…視線は常に前を向く。その力強さに、ひかれる者が集い、感動する者が協力し、感動を分かつ。日本勢が得たのは、金メダル13、銀メダル15,銅メダル23,合わせて51で、参加国・地域のうち11位であった。

【激しく動く政局】
 31日(火曜)未明、日経新聞デジタルは次のように伝えた。「菅首相は自民党の二階俊博幹事長を交代させる検討に入った。二階氏は30日に首相官邸で首相と会談した際、自身の交代を含めた執行部の刷新を進言。二階氏は会談で「この局面を打開するのは人事しかない」と述べ、幹事長交代を容認する考えを伝え、首相は謝意を示した。首相は9月にも党役員人事を実施する日程で調整する」と。
 二階氏は安倍前政権から幹事長を約5年務め、党内から交代を求める意見が出ていた。安倍前首相と二階氏は衆院選の候補者調整を巡って対立している。首相は9月17日告示の党総裁選前に党役員人事を断行することも視野に入れる。
 菅内閣は支持率の低迷が続いている。次期衆院選が迫るタイミングで党運営の要となる幹事長らを交代させて党の清新さを印象づける狙いがある。党役員人事にあわせ、内閣改造に踏み切るべきだとの声もある。
 二階氏は2020年9月の総裁選でいち早く首相を支持し、今年9月の総裁選でも首相再選をめざす意向を示していた。総裁選への出馬を表明した岸田文雄前政調会長は「総裁を除く党役員は1期1年、連続3期まで」と語っている。
 首相は早急に後任人事に着手する。総務会長や政調会長、選挙対策委員長らの交代の是非も検討する。首相周辺からは新たな顔ぶれに中堅や若手、女性議員の積極登用を促す意見があがる。
 首相は次期衆院選を巡る日程の調整も進める。党内で衆院解散のない任期満了選挙として10月21日の任期満了前の「10月5日公示・17日投開票」とする案が浮上する。総裁選で選ばれた新総裁が10月に衆院を解散する選択肢も残る。
 翌9月1日(水曜)は、関東大震災から98年目にあたる<防災の日>である。オンラインで結んだ会議で就任初日の山中竹春横浜市長が顔を見せた。山中市長は8月30日に初登庁。そのOfficial websiteに次の13の主要政策を掲げている。

① カジノ誘致を断固阻止!横浜らしい魅力でまちづくりを!
② 「自助努力」から、一人ひとりに寄り添う、データに基づくコロナ対策へ
③ 子どもを産み育てたいと思う街に!
④ 日本一の教育都市・横浜を目指す!
⑤ 「健康長寿」で長生きして良かったと言える街に!
⑥ SDGsを重視した経済・産業の振興を!
⑦ 真に女性が活躍できる街、横浜に!
⑧ 市民参加、住民自治を確立!
⑨ 市政のデジタル化を推進!
⑩ 誰もが活き活きと暮らせる街に!
⑪ 防災・減災、安心して暮らせる街づくりを!
⑫ 郊外活性化等で暮らしやすい街づくりを!
⑬ 次の世代に負担を押しつけない財政のバランスを!

 ついで10日(金曜)、山中市長は同日開会の市議会の所信表明演説でカジノを含む統合型リゾート施設(IR)の誘致を巡り「反対する声にしっかり応え、撤回を宣言します」と正式に表明した。具体的には「事業者選定のプロセスを直ちに中止し、必要な手続きを速やかに進める」と述べ、誘致推進を担う専門部署「IR推進室」を10月1日に廃止すると明言した。

【政局の急転直下】
 9月1日(水曜)午前、菅首相は9月中旬に衆院解散に踏み切るとの観測が前日に流れたのに関して、「最優先は新型コロナウイルス対策だ。いまのような厳しい状況では解散できる状況ではない」と述べ、17日告示―29日投開票の自民党総裁選についても「先送りは考えていない」と明言した。
 衆院議員は10月21日に任期満了を迎える。首相は任期満了までに衆院を解散するか問われ「総裁選はやる。そうした中で日程は決まってくる」と官邸で記者団の質問に答えた。
 首相は来週(6日月曜)にも党役員人事を実施する方針と見られる。政府・自民党内には人事を断行した後、9月中旬に首相が衆院を解散するのではないかとの観測が出ていた。
 二階幹事長と下村政調会長を交代させる。後任に中堅や若手、女性議員の積極登用を促す声がある。党役員人事にあわせた内閣改造をするか判断する。首相は党執行部を刷新し、支持率が低迷する政権の浮揚につなげる狙い。
 ところが3日(金曜)昼、自民党役員会で菅首相は突然、総裁選に立候補しないと退陣を表明した。「コロナ対策に専任するため17日(金曜)告示―29日(水曜)投開票の自民党総裁選への出馬を見送る」と。これに伴い6日(月曜)に予定していた党の執行部人事は取りやめた。人選が行き詰まり、政権運営の継続が難しくなったためとみられる。
 この突然の不出馬(退陣)について幾つかの要因を挙げる論評がある。その一つがAERAdot.に掲載された次の記事である。「この1年の菅政権とは一体何だったのか。ほぼ何も説明もせず、首相の座を放り出した菅氏とは、結局、どのような人物だったのか。    官房長官時代から<天敵>として菅氏を鋭く追求してきた東京新聞の望月衣塑子記者に聞いた」。以下のその概要を掲げる。
 「どんな状況でも、人事権を行使して、なりふり構わずに自分の権力を最大限に見せるよう執着している姿は、いかにも菅さんらしいと感じていました。…ただ、リークも含めて解散総選挙の腹案がマスコミに漏れ、自民党内部から想像以上の反発が上がったあたりから、今までとは様相が違ってきました。すぐに菅さんは「今は解散できる状況ではない」と火消しに走り、小泉進次郎環境相と5日連続で会談して意見を仰ぐなど、迷走の度合いを深めているように見えました。
 …しかし表面上は強気の姿勢を貫いていたので、総裁選から降りるという選択をしたのは驚きました。よほど、助け舟がなかったか、安倍晋三前首相や麻生太郎財務相らの「菅おろし」の圧力がすさまじかったのだろうと察します。
 菅首相といえば「勝負師」「ケンカ師」などとも呼ばれ、負け戦でも勝負に出る性格であると言われています。過去の政局でも“賭け”に出たこともありますし、東京五輪開催の判断について「俺は勝負したんだ」と発言したとの報道もありました。今回はなぜ勝負に出なかったと思いますか。
 選挙を戦う自民党議員にとっては、ここまで世論の支持を失っている菅さんは、「選挙の顔にはならない」というのが一致した見解だったのではないか。…自らの策に溺れた感がありました。外堀を埋められて自分でやれることがほとんどなくなってしまった。解散権が封じられてしまい、…人事権を行使しようとしても状況を変えられない、人を従わせられないという状況は菅さんにとって相当つらかったと思います。それこそが、菅さんの権力の源泉だったわけですから。…
 いずれにせよ、人事権を行使しても状況を変えられないと悟った以上、もう自分を強くは見せられないと判断したのだと思います。菅さんは権力を維持するために人事を操り、頂点まで上り詰めた人です。でも、その権力が無力化すると、予想以上に弱かった。  権力に酔っていた政治家が、最後は権力に負けたということだと思います。
 裏で参謀として権力を振るうことにはたけていても、日本をどうしたいのかという国家観を語れず、コロナ禍で浮き彫りになったのは、ワクチン一本打法で、市民の命を犠牲にし、五輪利権に血眼になっている菅さんの姿でした」。
【自民党総裁選】
 こうして菅首相が退陣した結果、総裁選は菅首相以外の候補が争うこととなった。4日(土曜)現在、立候補を表明しているのは岸田文夫前政調会長と推薦人20人を模索して出馬をめざす高市早苗前総務相の二人である。
 ほかに世論調査で人気の高いのが、河野太郎規制改革相(+ワクチン接種担当大臣)と石破茂元幹事長である。日経新聞8月27~29日に実施した世論調査で「次の自民党総裁にふさわしい人」を聞いたところ、河野氏が16%で首位、2位の石破氏も16%で河野氏とは小数点以下の僅差だった。
 河野氏は、3日午後、自民党総裁選に出馬する意向を周囲に伝え、立候補に必要な推薦人集めに着手した。河野氏は同日午後、所属する麻生派会長の麻生副総理・財務相と会談、総裁選への対応を伝えたとみられる(日経新聞デジタル)。
石破氏は3日、検討する考えを示している。17日(金曜)告示まで2週間、これから総裁選をめぐる動きがいっそう激しくなるであろう。
 8日(水曜)、高市早苗前総務相は国会内で記者会見し、自民党総裁選に出馬すると正式表明した。政治信条の近い安倍晋三前首相のほか、かつて所属した細田派の一部や保守系議員が支持基盤となる。
 高市氏の出馬表明は岸田氏に続き2人目。ほかに出馬の意向を固めた河野規制改革相は週内にも記者会見を開く見通しである。
 高市氏は経済政策の柱に①金融緩和②緊急時の機動的な財政出動③大胆な危機管理投資・成長投資――を挙げて「サナエノミクスの3本の矢」と表現した。「日本経済強靱化計画で経済をたてなおし、成長軌道に乗せていく」とも強調した。また新型コロナウイルスの感染拡大を踏まえ、ロックダウン(都市封鎖)を可能とする法整備の検討に取り組むとも述べた。
 7日夜には安倍氏の私邸を訪問し、体制づくりなどを相談した。安倍氏は8日、国会内で細田派の世耕弘成参院幹事長や萩生田光一文部科学相と相次ぎ面会し、高市氏を支援する考えで一致した。
 10日(金曜)、党改革を掲げる自民党の中堅・若手国会議員による「党風一新の会」が発足、代表世話人に福田達夫衆院議員(54)=群馬4区=が就いた。8月26日に派閥横断の17人でスタートした会合は、同党総裁選や衆院選を前にした政局下で一気に膨れ上がり、約90人が名を連ねる。<長老支配と密室政治>に反対する党改革を掲げ、派閥にとらわれず自主投票を強調する。
衆議院議員の当選3回(3期生)以下が半数を占める自民党のなかで、この中堅・若手議員は各選挙区でどう訴えるかで当落が決まる。派閥からの応援と資金は不可欠であるにしても、派閥の論理だけでは有権者に通じない。候補者が自身の政策をどう有権者に伝えるか、総裁選の直後に来る衆院選の成果が問われる。
【中国の思想統制について】
 4日、中国のSNS(交流サイト)「微博」(ウェイボ)が「非理性的なスター追従行為に断固反対し、厳正に処理する」とする声明を出した。同日、あるアイドルの誕生日を祝うファンクラブが飛行機の外観を飾る派手な行動で注目を集めていた。
 折しも中国はファンクラブ規制を出したばかり。背景には、熱狂的にアイドルを崇拝し、共産党の思想に沿わない集団を生むことへの懸念がある。微博は中心人物のアカウント利用を60日間停止し、党の意向に迅速に対応した。
 8月末には18歳未満のゲームを「金土日や祝日に1日1時間」に限る規制が発表された。若者を夢中にさせるゲームも共産党は「精神的アヘン」として危険視する。芸能界は最大の標的である。8月下旬には著名芸能人が脱税や不正などを理由に罰せられたり職を失ったりした。多くの有名作品も消えた。党中央宣伝部は9月2日、芸能人、番組、広告、関連企業などを党が厳しく管理し、思想教育を強化すると通知した。中国の芸能界は今後、メディアと並び名実ともに「党の舌(党の宣伝機関)」となる。
 こうした動きについて、8日の日経新聞は「中国、強まる国家統制 よぎる<文革>の記憶」の見出しで次のように述べた。「中国の習近平指導部が社会や思想への統制を強めている。企業経営者への批判に加え、芸能や教育など若者の思想形成に影響力を持つ業界への介入が相次ぎ、中国はにわかに<文化大革命>の様相も帯びる。こうした動きは経済成長やイノベーションを阻害しかねない。米国に迫る経済大国となった中国が内向きに転じれば世界経済も無傷ではいられない」と。
 単純な類推は判断を誤りかねないが、一方で類似する面は否定できない。<文化>を通じた社会統制は1966年に始まった文革を彷彿とさせる面もある。毛沢東に扇動された若者らが指導者や知識人を攻撃した。毛の死で終結したものの、文革10年間のうち3年でマイナス成長となるなど経済は壊滅的打撃を受けた。
 その後、指導者となった鄧小平は経済再建へ改革開放を始めた。もし今、中国が「富める人らをたたく」発想で文革時代に先祖返りするならば、経済成長は止まり、習指導部にも負の影響は及ぶ。それでも統制を強める動きは止まらない。
 8月29日に評論家の李光満氏が書いた檄文ともいうべき論文が注目を集めている。「誰もが感じられる深い変革が進んでいる」と題し、最近の芸能界やIT業界への当局の介入を社会主義に回帰するための「重大な変革または革命」と賛美する内容である。
異例だったのは、個人の論文を「光明日報」のサイトが掲載し、同日夜には「人民網」「新華網」「中国軍網」「央視網」など党傘下の代表的メディアがそろって転載したこと。文革も1965年秋、上海紙「文匯報」に掲載された京劇「海瑞罷官」に関する文芸批評が号砲となったことを想起させる出来事だった。
 これとは対照的な事象も見られる。20日、北京郊外に米系テーマパーク「ユニバーサル・スタジオ北京(USB)が正式開業した。年に1000万人程度を集客し、約1兆7000億円近い経済効果を見込む。米中対立が激化するなかでも、中国でのハリウッド人気は根強い。

【日経平均が3万円台を回復】
 8日の東京株式市場で日経平均株価は8日続伸し、前日比265円07銭(0.9%)高の3万0181円21銭と終値ベースで4月5日以来、約5カ月ぶりに3万円台を回復した。8日続伸は昨年11月以来。自民党総裁選を経て発足する新政権の経済対策を期待した買いが続いた。
 さらに14日の東京株式市場で日経平均株価は前日比222円73銭(0.73%)高の3万0670円10銭と続伸し、2月に付けた年初来高値を上回って1990年8月以来約31年ぶりの高値を付けた。自民党総裁選を前にした政策期待の高まりや新型コロナウイルスのワクチン接種の進展で投資家心理が改善している。
 新型コロナの感染状況が一時に比べて落ち着いてきたことも投資家心理を強気に傾けている。ワクチン接種を2回終えた人が全人口の5割を超え、新規感染者数は8月をピークに減少に転じた。接種証明などで行動制限が近く緩和されるとの見方も出ている。海運や輸送用機器など世界景気に連動しやすい株への買いが目立つ。

【緊急事態宣言の期間延長】
 9日(木曜)、政府は新型コロナウイルス対策で21都道府県に発令中の緊急事態宣言に関し、宮城、岡山両県を除く19都道府県で延長する案を専門家に諮問した。病床使用率や重症化率の高さなどを勘案した。12日までの期限も30日まで延長する。了承を得られ、政府の新型コロナ対策本部で正式に決めた。

 延長となった日の翌13日(月曜)、都内の新規感染者数は8月21日を境に前週の同じ曜日に比べて減りつづけ、21日連続減を記録した。確かな理由を挙げるのは難しいが、人出が減ったことが挙げられる。雨気味の天候がつづいたこと、軽症でも後遺症が厳しいとの事例が報告されたこと等による。それだけ若者のワクチン接種意欲を増進させたとも言われる。

 そのワクチン接種率について、13日の日経新聞デジタル版は次のように伝えた。
「政府は13日、新型コロナウイルスワクチンを2回打ち終えた人の割合が5割を超えたと公表した。少なくとも1回目を済ませた割合は6割強。高齢者では9割近くが2回接種を終えている。政府は希望するすべての人への接種を10~11月までに完了する目標を掲げる。
 首相官邸によると、13日公表時点で累計の接種回数は約1億4431万回に達した。過去の追加分も含めて10日時点から約288万回増加した。2回の接種を完了した人は約6448万人で、全人口の50.9%と初めて5割を超えた。少なくとも1回接種した人は約7984万人で63%となった。
 優先接種を実施していた65歳以上の高齢者では、少なくとも1回打った割合が89.7%、2回目を終えた人は88%だった。多くの人が打ち終えたこともあり、接種率の伸びは8月以降鈍化している。」
 この傾向がつづけば9月30の期限には緊急事態宣言解除の可能性も出てくると田村厚労相が言う。本稿末尾に視聴した番組の一覧を掲げたが、このうち(5)に挙げた8月11日放映のNHKスペシャル「新型コロナ“第5波” 最大の危機をどう乗り切るか」段階の急増と現段階の急減を比べると明らかな対比が見られる。

 しかし、この対比的現象がどのような要因に基づくのかは分からない。過去にない新しい現象が次々と起きるなかで、その現象を生み出す諸要因をいかに科学的に解析し、それを<社会実証>へとどう進めるか、<科学>の解析力と<政治>の判断力が問われている。
 一方、新型コロナの自宅療養者が急増して11万人超となった。前週より2万人余り22%増(NHK 8月28日)である。1か月前の7月28日時点の6倍余りになっている。うち東京都では2万5045人と前の週より2874人増、神奈川県では1万5203人と前の週より2199人増である。ところが1週間後の20日には全国で約6万9000人とほぼ半減したが、原因は分かっていない。デルタ株の感染力が急速に衰えたとの見方もある。科学的な解析が待たれる。

【自民党総裁選-続き】
 16日(木曜)夕、野田聖子幹事長代行も立候補に必要な20人の推薦人が確保できたとし、立候補を表明。「これまで主役になれなかった女性、子供、高齢者、障害者がしっかりと生きていける政治を、自民党の中で作り上げていきたい」と記者団に意欲を語った。岸田文雄前政調会長、高市早苗前総務相、河野太郎行政改革相に加え、4氏が争う構図となった。総裁選に複数の女性議員が立候補するのは初めてである。
 17日(金曜)午前、自民党総裁選が告示された。河野太郎規制改革相、岸田文雄氏、高市早苗氏、野田聖子幹事長代行の4氏が立候補した。党所属の国会議員20人の推薦人名簿など立候補に必要な書類を提出、届け出順は抽選の結果、河野、岸田、高市、野田各氏の順で確定した。29日に投開票し、新総裁を選出する。10月4日に召集する見通しの臨時国会の首相指名選挙で、新首相を選ぶ。
 17日午後、立候補した4氏は、党本部で所見発表の演説会を開いた。出馬した理由や、新首相へ就任した場合に取り組みたい主要政策を説明した。

 ●河野氏。冒頭、自民党の立党宣言にある「政治は国民のもの」との言葉を引用した。「国民に共感してもらえる政治を通して人と人とが寄り添える温(ぬく)もりのある社会をつくりたい」と訴えた。「本来、保守とは度量の広い中庸なあたたかいものだ」と主張した。地域の歴史や伝統、文化を「次の世代にしっかり受け渡しながら常に新しいものを加えていくのが保守主義だ」と述べた。衆院初当選からの25年を「世の中を便利にしたり新しい価値を生み出したりするのを邪魔しているシステムと徹底的に闘ってきた」と振り返った。

 ●岸田氏。「今こそ多様な意見に寛容な政治が求められているのではないか」と投げかけた。自身の政治スタイルについて「俺についてこいと押しつける政治ではない。俺が正しいと国民をねじ伏せる政治でもない」と説明した。
保守層を意識し「欠点が多い不完全な人間のありようを受け入れ、地域の伝統、秩序を尊重しながらさまざまな意見に耳を傾けることが保守の精神だ」と提唱。そして自民党改革を進めると唱えた。総裁を除く党役員の任期を「1期1年、連続3期までとする」と改めて提案した。「次期総裁選はオンライン投票を実現することを目指す」と話した。

 ●高市氏は「日本を守る責任と未来を守る覚悟を胸に立候補を決意した」と述べ、「国の究極の責任は国家の主権と名誉を守り抜くことだ。私の全てをかける」と力説した。経済安保については「経済安全保障包括法を制定する」と語った。防衛力の強化へ海上保安庁法の改正に取り組む意欲も示した。
 「未来をひらくための政策」として大胆な成長投資や税制改革に言及、経済政策では「日本経済強靱(きょうじん)化計画」を提言、「まずは物価安定目標2%の達成を目指す。時限的に基礎的財政収支(プライマリーバランス)の(黒字化)目標を凍結し、戦略的な財政出動を優先する」と明言した。

 ●野田氏。「自民党の多様性を示さないといけない。残念ながら(自分以外の)候補者の政策を見ると足りていない政策がある」「小さきものや弱きものをはじめ主役にならない人への政策が十分でない」と語った。「国民に約束して実現できていない政策を洗い出し、なぜできていないかを考える」と主張、具体例として「議員定数の大幅削減」をあげ、定数削減を進めると唱えた。女性活用をめぐり、「女性閣僚を全体の半分になるよう目指す」と明言した。「行政に対する信頼回復を進める」と強調。「公文書の廃棄、隠蔽、改ざんといった問題をめぐり、党に公文書の取り扱いの不透明さを解明するチームをつくると述べた。

 その後、共同記者会見やメディアでの討論会がたびたび開かれ、各候補の政見の特徴が伝わってくる。それはそれで有意義ではあるが、自民党総裁選とその後の総選挙が連続しているため、総選挙向けの自民党だけの広報の趣もある。

【国際情勢の複雑な動き】
 10日から15日までの日程で、中国の王毅外相はベトナム、カンボジア、シンガポール、それに韓国の4か国を訪問した。うちベトナムとシンガポールはことし7月と先月、アメリカのオースティン国防長官とハリス副大統領が相次いで訪れたばかりである。米中の外交が鎬を削る。当該4ヵ国の貿易額はいずれも対米を抜いて対中が首位になっており、一方で領土問題等の係争を抱えている。

 12日(日曜)までの2日間、国防科学院が新たに開発した長距離巡航ミサイルの発射実験に成功したと13日付け北朝鮮の朝鮮労働党機関紙「労働新聞」が伝えた。ミサイルが落下した場所は明らかにしていませんが「わが国の領土と領海の上空に設定された、だ円や8の字の軌道に沿って、2時間6分20秒飛行し、1500キロ先の目標に命中した」としている。

 14日(火曜)の【バンコク時事】によると、ミャンマーのクーデターで権力を握った国軍に対し、民主派が樹立した「統一政府」(「挙国一致政府」=NUG)が7日に自衛のための戦闘を開始すると宣言してから、国軍の部隊や施設を狙った攻撃が相次いでいる。国軍による民主派への圧力も強まっており、情勢は内戦の様相を呈しつつある。また17日、韓国のソウル近郊にアジア最初の駐在事務所を開設した。これは米国、英国、フランス、チェコ、オーストラリアに次ぐもの。

 15日(水曜)、北朝鮮メディアは新たに組織された「鉄道機動ミサイル連隊」が中部の山岳地帯で射撃訓練を行い、列車から発射されたミサイルが800キロ先の日本海上の目標に正確に命中したと伝えた。

 16日(木曜)、中国政府は日本・豪州・カナダ・メキシコ・ニュージーランド・シンガポール・ベトナム・ペルー等の11か国が参加するTPP=環太平洋経済連携協定への加入を正式に申請したと発表した。米国はトランプ政権が脱退を宣言して以来、バイデン政権によるTPP復帰はかなり困難と見られる。

 アジア太平洋地域での影響力を高めるねらいとみられるが、中国はTPPに参加する国と貿易面の摩擦も抱えており、また貿易や投資のルールについて国有企業に対する行き過ぎた優遇措置の是正や知的財産の保護など高い自由化を求める規定がある上、国境を越えたデータの自由な移転が確保されておらず、加入に向けた協議は曲折も予想される。

 ついで22日(水曜)、台湾がTPPへの加盟を正式に申請したことが分かった。23日に当局者が詳細を発表する。すでに事務局の役割を担うニュージーランド政府に申請書類を提出し、すべての加盟国に参加への支持を要請した。英国も2月に加盟を申請している。参加にはすべての加盟国の同意が必要となる。
 台湾は中国の参加のもとで2022年1月の発効をめざす東アジアの地域的な包括的経済連携(RCEP)には加わらず、TPP加盟と米国との自由貿易協定(FTA)締結を目指してきた。

 台湾の貿易総額の24%以上をTPP加盟国が占め、台湾からの輸出は4割強を中国が占める。統一圧力を強める中国からの脱却を急ぐには、TPPに加盟し、中国への経済依存度を引き下げる必要があると台湾は判断した。

 17日(金曜)、中央アジアのタジキスタンで開催された上海協力機構(SCO)の首脳会議は、米軍撤収後のアフガニスタン情勢が主要議題となり、採択された共同宣言には対テロ訓練の継続や防衛協力の強化などが盛り込まれた。一方で、宣言には「テロ対策を口実とした内政干渉は許さない」と間接的に米国をけん制する文言も明記(17日づけ毎日新聞)。またイランのSCO加盟が認められた(17日づけ日経新聞)。イスラム主義組織タリバンと友好関係を保つ中国とロシアが地域の安定を主導し、影響力拡大を誇示する場となった。

 同じ17日の日経新聞によれば、米国、英国、豪州が新たな安全保障協力の枠組みを創設し、インド太平洋で中国抑止の強化に乗り出す。中核となるのが米英による豪州への原子力潜水艦の技術の提供である。原潜を軸とする「水面下」の戦いは、米国が対中国で優位性を保つとされる。同盟国と連携し、中国の急速な軍拡に対抗する。バイデン米大統領は3カ国の安保協力「AUKUS」の創設目的を「21世紀の脅威に対処する能力を最新に高める」と説明した。

 豪州(オーストラリア)は、米国・英国と原子力潜水艦の開発を決めたことに伴い、フランス企業との潜水艦建造事業を中止すると表明した。これについてフランスのルドリアン外相は16日「豪州とは信頼関係を築いてきたが、裏切られた」と述べ、強い不満を表明した。豪州は次期潜水艦の共同開発の相手として仏企業を2016年に指名していた。西側同盟国間の足並みが乱れている。23日(木曜)、バイデン米大統領が仏マクロン大統領に電話して陳謝、一応は幕を降ろした。

【Quad(クアッド)初の首脳会議】
 18日(土曜)の日経新聞によれば、日本、米国、豪州、インドの4カ国からなる「Quad(クアッド)」の初めての対面での首脳会議を24日、米ワシントンで開く。菅首相は24日午前(日本時間)に到着、バイデン米大統領、モリソン豪首相、モディ印首相が参加する。この首脳会議でまとめる経済安全保障に関する共同文書の原案がわかり、半導体に関する安全なサプライチェーン(供給網)づくりを進める方針と、先端技術の活用は人権尊重のルールに基づくべきとの共同原則を明記する。
 日米は世界の半導体生産能力の3割弱を占める。日本はデータを記憶する半導体メモリーやセンサー、米国は電子機器の頭脳を担うCPU(中央演算処理装置)が強い。最新のスマートフォンやサーバーに使う最先端半導体の製造技術は台湾積体電路製造(TSMC)が先行する。より汎用的な半導体は中国勢が積極投資している。
 現在は半導体の有力企業を持たない豪印も一定の役割を担う潜在力がある。インドはIT(情報技術)産業が成長するものの、半導体の中国依存が強い。クアッドの枠組みによる供給網強化を呼びかけていた。
 首脳会議の共同文書原案は先端技術の設計や開発、使用に関して「共有する価値観や人権尊重に基づくべきだ」との共同原則も定めた。民主主義や自由、法の支配といった概念を尊重する意味を持つ。
 中国は人工知能(AI)などを駆使した監視システムを共産党による統治に使い、一部の途上国で同様の仕組みを採用する動きが広がっている。先端技術が「権威主義的な監視や抑圧などの悪意ある活動に誤用・悪用されてはならない」と共同文書で訴える。

 安全保障分野の優劣に直結する技術流出や悪用防止などの対策で協力する方針も盛り込む。具体例として高速通信規格「5G」を挙げ、産業界と連携し「安全で開放的かつ透明なネットワーク」を確保すると記した。

【世界同時株安の連鎖】
 20日(月曜)、世界の金融市場でリスク回避の動きが広がってきた。20日のニューヨーク株式市場でダウ工業株30種平均が一時900ドル以上下落した。中国の不動産大手、中国恒大集団(エバーグランデ)の資金繰り不安が強まり、香港市場で不動産株を中心に株価が急落。欧米市場でも投資家心理が悪化している。

 翌21日(火曜)の東京株式市場で日経平均株価は大幅に反落して始まり、一時3万円を割り込み、前週末比の下げ幅は600円を超えた。下げ幅は、終値ベースで6月21日(953円)以来の大きさ。前週末比660円34銭(2.17%)安の2万9839円71銭で取引を終えた。

 この世界同時株安いついて、21日(火曜)の日経新聞は、米州総局 後藤達也の「拭いきれない「リーマン」再来リスク(NY特急便)を掲載し、次のように述べた。
 「リーマン・モーメント」という言葉が最近のニューヨーク市場で急増している。2008年に起こった「リーマン・ショック」とほぼ同義だが、複雑な不確実性の高まりによって、長らく続いてきた金融市場の力学が崩れかねない局面を指す。同時に増えている表現が「エバーグランデ・モーメント」だ。
 巨額の借金を抱える中国恒大は資金繰りが急速に悪化している。社債の利払いが23日以降に相次ぐが、投資家は債務不履行(デフォルト)に陥る可能性が高いとみている。社債の価格は額面(元本)の7割以上下落しているものもあり、株価はこの1カ月で半値近くとなった。
 「恒大の問題が金融市場全体や経済にどれほど波及するおそれがあるのか」。ゴールドマン・サックスのアナリスト、ケネス・ホー氏のもとには投資家からの問い合わせが相次いでいる。負債総額は2兆元(約33兆円)近くに上る。銀行からの融資も多く、金融システム上の火種だ。中国の不動産市場全体に悪影響が広がれば、個人の消費心理にも打撃となる。
 20世紀前半に活躍したシカゴ学派の祖、フランク・ナイト氏は未経験の事態で損失の確率分布の読めない状況を「真の不確実性」と呼んだ。経験則から計測する「リスク」と異なり、投資家は合理的な判断が難しくなる。この「ナイトの不確実性」は07~08年の米住宅・金融バブルの崩壊の核心のひとつでもあった。証券化商品の内情やリスクの所在がみえず、疑心暗鬼から資産の投げ売りが加速。価格下落が新たな不安を呼び起こす悪循環に陥り、危機が深まっていった。
 格付け会社フィッチ・レーティングスは中国恒大を巡る騒動について、なんらかのデフォルトが起こりうるとしつつ「無秩序な清算とならない限り、住宅価格に大きな調整圧力はかからないだろう」とみる。投資家の間でも世界の金融システムを揺るがすような事態に発展するリスクは低いとの見方が今のところ優勢だ。
 07年当初も「リスクの高い住宅融資の規模は大きくはない」「いざとなれば金融緩和で対応できる」という楽観論が広がっていた。今回の騒動は杞憂(きゆう)に終わるかもしれないが、危機の入り口では得てして経験則に基づいた楽観論が広がりやすいことも歴史が証明している。
 22日(水曜)、中国恒大集団は期日を23日に控える人民元建て債の利払い2億3200万元(約39億円)を実施すると発表した。同じく23日に予定するドル建て債には30日の猶予期間があり、この日に債務不履行に陥る可能性は低くなった。中国政府は金融危機を阻止する姿勢を鮮明にしており、混乱回避をいったん優先する。だが恒大の年内の利払いは人民元建てとドル建ての社債だけで700億円を超え、2022年からは多額の満期償還を控える。前途多難である。

 24日(金曜)午前の東京株式市場で日経平均株価は大幅に反発し、前引けは前営業日比561円49銭(1.89%)高の3万0200円89銭だった。上げ幅は一時、600円を超えた。業種別TOPIXで全33業種が上昇するなど幅広い銘柄が買われ、特に海運や鉱業の上昇が目立った。

【先端素材、日本が攻勢】
 半導体の製造で日本は台湾積体電路製造(TSMC)などに抜かれ、設計でも米クアルコムなどに追いつけない。そこでカギを握るひとつの分野が材料。半導体の基板となるシリコンウエハーで信越化学工業とSUMCOの2社が世界シェア5割超を誇る。同社の橋本真幸会長は「ウエハーは半導体の中で極めて重要な素材だ。日本メーカーが技術を極めており日本の重要産業の一つだ」と話す。

 21日(火曜)、日経新聞は「先端素材、日本が攻勢 住友鉱山、EV半導体用参入 技術競争力なお優位」の見出しで1面トップを飾り、次のように述べた。
 …日本企業が電気自動車(EV)や半導体などハイテク分野で使う先端素材で攻勢に出る。住友金属鉱山は電力消費を減らせる半導体ウエハーに2021年度から参入、電力損失を従来品と比べ約1割抑えEVの航続距離を延ばせ、価格も1~2割安くできる見込み。
 日本製紙は紙原料を改良した電池向け「カルボキシメチルセルロース(CMC)」の生産能力を11月に20年度比約5倍にする。EV用電池の主要部材「負極」の素材向け需要が増えている。王子ホールディングス(HD)も車載用フィルムコンデンサー素材の6割増産を決めるなど、紙需要が低迷する製紙業界でEVで成長を目指す動きが本格化している。
素材関連産業は輸出総額の約2割を占め、自動車と並ぶ国内製造業の要である。20年の経済産業省の資料によると、先端素材で世界シェア60%以上の品目が日本勢で70種類ある。
 半導体回路形成に欠かせないフォトレジスト(光や電子線等によって溶解性などの物性が変化する組成物)で日本勢は世界シェア約9割を握るなど、素材で世界をリードしている。米中摩擦が続くなか、素材の強みは日本の産業全体のサプライチェーンのリスクも軽減する。米国は半導体など先端技術の輸出規制などで中国への対抗姿勢を強めている。対立が激化すれば、中国は加工分野でシェアが高いレアアース(希土類)を外交の駆け引き材料にする可能性もある。米中の板挟みとなる日本もレアアース規制の対象になりかねないが、日本はシェアの高い素材をレアアース規制のけん制材料にもできる。
【TPP=環太平洋経済連携協定への加盟申請】
 前述の通り、16日(木曜)、中国政府はTPP(環太平洋経済連携協定)への加入を正式に申請したと発表した。ついで22日(水曜)、台湾がTPPへの加盟を正式に申請、23日に当局者が詳細を発表した。
 訪米中の茂木敏充外相は23日(現地時間22日)のオンライン記者会見で、台湾のTPPへの加盟申請について「歓迎したい」と語った。「台湾は自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値を共有し、密接な経済関係を有する極めて重要なパートナーだ」と強調、「台湾がTPPの高いレベルを完全に満たすかどうかしっかりと見極める必要がある」と説明した。
一方、中国による加盟申請に関して茂木氏は「高いレベルを満たす用意ができているかしっかり見極める必要がある」と述べるにとどめた。
 外務省の発表によると、茂木氏は記者会見に先立つブリンケン米国務長官との会談で米国のTPP復帰を促した。トラス英外相とも会い、英国のTPP加入交渉について話し合った。これからが正念場であり、日本外交の真価が問われる。


 この間、以下のテレビ番組を視聴することができた。(1)NHKスペシャル「ヒトラーに傾倒した男~A級戦犯・大島浩の告白~」9月2日。 (2)BS世界のドキュメンタリー選「エアフォースワンと歴代大統領の秘密」2日。 (3)週間ワールドニュース(8月30日~9月3日)5日。 (4)逆転人生「あの日、“加害者”になった私 東電社員たちの10年」9日。 (5)約1ヵ月前放送のNHKスペシャル「新型コロナ“第5波” 最大の危機をどう乗り切るか」(8月11日)を改めて視聴、そのときの感染者数・重症者数の急増ぶりに比べ、急減しつつある現段階を思った。 (6)時論公論「アメリカの同時多発テロ20年」9日。 (7)国際報道2021「911から20年② 苦悩する帰還兵 社会に残した傷痕」11日。 (8)NHK映像フィルム「あの人に会いたい 河合雅雄(霊長類学者)」11日。 (9)BS1スペシャル「市民が見た世界のコロナショック 7月~8月編」9日。(10)週間ワールドニュース(9月6日~10日)11日。(11)ETV特集「アフガニスタン 運命の8月」11日。 (12)BS1スペシャル「良心を束ねて河となす~医師・中村哲 73年の軌跡」12日。 (13)映像の世紀プレミアム選(2017年放映)(6)「アジア 自由への戦い」13日。 (14)BS世界のドキュメンタリー「傷ついた人たちに尊厳を アフガニスタン」16日。 (15)歴史探偵「大江戸SDG’s」(再)17日。 (16)BS6 「関口宏のもう一度! 近現代史 昭和20年」18日。 (17)週刊ワールドニュース(13~17日)18日。 (18)NHKスペシャル「新型コロナ 市民と専門家の緊急対話」19日。 (19)BSプレミアム 偉人たちの健康診断「江戸の健康革命」(再)20日。 (20)NHKプロフェッショナル「旗じいちゃんの生きる道〜交通誘導警備員・上野敏夫〜」(この道25年の交通誘導警備員、上野敏夫84歳)21日。 
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所蔵品展と観月会

 三溪記念館における所蔵品展は、8月18日(木曜)から9月28日(火曜)まで、第1展示室が「四季のうつろい-月」、第2展示室が「臨春閣 天楽の間-月と音楽」と特別展示「勝利の屏風」(東京五輪・パラリンピックにちなむ)、そして第3展示室が臨春閣工事等に関連する企画展「三溪園が守り継ぐ、美と歴史の宝」である(9月9日(木曜)~)。

 毎年巡ってくる<観月会>の行事は、種々の音楽演奏を軸に三溪園で名月を愛でる風雅な催しである。永らく会場を内苑の臨春閣に置いてきたが、昨年来、臨春閣が30年ぶりの屋根葺き替え工事に入ったため、会場を外苑の旧燈明寺本堂へ移した。臨春閣の工事が未完のため、今年の会場も旧燈明寺本堂である。会期は9月18日(土曜)から9月23日(祝日)までの6日間。

以上の2つを合わせて「所蔵品展と観月会」と名づけ、三溪園の魅力をお伝えしたい。9月12日までの緊急事態宣言が9月30日まで延長されたため、来園者の出足にブレーキがかかるかもしれない。しかし所蔵品展は館内に十分な感染防止策を施すとともに収容率を50%以内に抑えている。また<観月会>は屋外で楽しむことを基本としており、安全・安心の下で行われる。

 まずは8月18日(木曜)から始まった三溪記念館の所蔵品展から紹介する。第1展示室と第2展示室の担当は吉川利一学芸員(事業課長)である。以下、吉川さんの解説を抄録する。

【第1展示室】
所蔵品展Ⅰ  四季のうつろい―月  
旧暦では7月~9月が秋とされます。その真ん中にあたる8月15日が「中秋」。空が澄みわたり、1年のなかでも月がきれいに見える時期で、古来「中秋の名月」が愛でられてきました。
本展ではこの月をテーマとした作品を紹介します。名所の月、冬の月、描かれていない月など、月の表現は様々です。どうぞお楽しみください。
※今年の中秋は9月21日。三溪園ではこの日を含む6日間(9月18日~
23日)、観月会を開催します。日本的な空間で眺める月は格別の風情です。ぜひお越しください。

●軸装 5点 ※1点は双幅
原三溪「石山秋月」
 滋賀県大津市にある石山寺を描いたもの。石山寺は古来月の名所として知られ、「石山秋月」は近江八景の一つにも数えられている風景です。
原三溪「月下双鳧 げっかそうふ」 鳧はカモのこと。月影の映る夜の水面に2羽のカモが泳ぐ情景が描かれています。
原三溪「指月布袋」
 布袋さんの指さす先にはお月様があるはずですが、それは画面の遥か上のほう。禅宗の絵ではよく描かれる構図で、天空に輝く丸い月はもはや何のわだかまりもなくなった悟りの境地を表しています。

指月布袋


横山大観「赤壁」
 中国・北宋の詩人・蘇軾が三国志に戦場として登場する赤壁に思いを馳せて、友人たちと酒を酌み交わした故事を描いたもの。上空に輝く月を、そして崖下の水上には舟遊びに興じる人物を配した、縦長の画面を効果的に活かした構図です。

横山大観「赤壁」


下村観山「夕月」
 従者に支えられて川を渡る盲目の琵琶奏者、そしてもう一方の画面に描かれているのは一日の仕事を終えて馬を洗う農夫の姿でしょうか。空には、おぼろげな月がかかる夕暮れ時の情景です。観山には、本図のように細密なタッチで人物を多く描いた一時期がありました。

下村観山「夕月」1 下村観山「夕月」2




●絵はがき3点
 明治33(1900)年に私製はがきの発行が認められると、日本各地で続々と様々な絵はがきが作られるようになりました。ここ三溪園の周辺でもみやげ物店などで販売されたようで現在でも園内各所をとらえた絵葉書が多数みられます。ここに紹介している3点の絵葉書には名前に月や星の文字が織り込まれている建物が写されていますが、いずれも現存していません。三溪園の失われた景観を知ることができる資料として貴重なものです。

秋月庵
 現在の三重塔への石段付近にあった建物のようですが、用途や由緒は不明です。絵葉書からは野趣に富んだものであったことがうかがえます。来園者の休憩所として使用されたものかもしれません。

聚星軒
 竹を編みこんだ壁などに中国風の意匠が見られる建物で、付近にあった松風閣とともに原家初代・善三郎が築造したものといわれていますが、大正12(1923)年の関東大震災により倒壊し、現存しません。周辺には、中国で産する太湖石の石組みなどが今も残り、善三郎の中国趣味の一端がかいま見えます。

月影茶屋
 現在の旧矢箆原家住宅(合掌造り)付近にあった建物。詳細は不明ですが、三溪は園遊会などで気軽なお茶の接待の場所としてこれを使ったようです。神奈川新聞の前身・横浜貿易新報の明治41(1908)年の記事には、障子に“白露の里 月影の茶屋”と記されていると書かれています。

【第2展示室】
所蔵品展Ⅱ  臨春閣 天楽の間―月と音楽 
 三溪園にある歴史的建造物の中で、三重塔と並ぶ代表的な建物が臨春閣です。江戸時代初期、紀州徳川家の別荘として築造されたといわれるこの建物の内部には障壁画が付属しており、本作品はこのうちの天楽の間に嵌め込まれていたものです。(現在建物内には複製を置いています。)
 天楽の間は、欄間に笙・篳篥・竜笛などの雅楽の楽器が取り付けられていることからその名がつけられ、原三溪は床の間にも琵琶や琴などの楽器を設えていました。この部屋からの三重塔の眺めは美しく、特に月がかかる風情は格別です。

臨春閣第三屋2階からの夜の眺め  
臨春閣全景 
天楽の間 欄間装飾 

狩野安信「四季山水図」

四弦琵琶  原三溪旧蔵
 豊臣秀吉の側室・淀君使用と伝えられている琵琶。三溪の在世中、臨春閣は豊臣秀吉が京都に造営した聚楽第の遺構という伝承があり、これを受けて臨春閣周辺には秀吉ゆかりの石造物や調度が設えられました。その一つがこの琵琶で、天楽の間の床の間に置かれた当時の写真が残されています。

黒漆七弦琴  原三溪旧蔵
 
特別展示  勝利の屏風 
 今回の東京2020オリンピック(7月23日~8月8日)では、過去最多となる58個のメダルを獲得するなど、日本勢の活躍・奮闘ぶりが目を引きました。本展示では、このオリンピックへの祝福、そしてこれから開催となる東京2020パラリンピック(8月24日~9月5日)へのエールを込めて、三溪園所蔵の「勝利」の屏風を紹介します。オリンピック・パラリンピックと重なる、あふれる臨場感をお楽しみください。

高橋廣湖「馬上の誉」  原三溪旧蔵
 京都の上賀茂神社(賀茂別雷神社)で行われる神事、賀茂競馬(かものくらべうま)に取材した作品。左隻には今まさに馬が駆け込んだ瞬間と歓声をあげる群衆、右隻には牛車から静かに見物する貴人とを描いています。動と静を対比させた表現としています。
  
原三溪「馬上の誉」進呈添え状
 三溪が知人に「馬上の誉」の屏風を贈った際に添えた手紙。屏風には「勝利」というタイトルがついていたようで、贈った相手が何かに勝利を収めたことに対して、また新築祝いと今後の発展への祝福も兼ねて屏風を贈ったことが記されています。

【第3展示室】
 第3展示室の展示「三溪園が守り継ぐ、美と歴史の宝」は少し遅れて9月2日(木)から始まった(担当は建築担当の学芸員・原未織主事)。その趣旨に言う。
 「三溪園内の古建築は、室町~江戸時代につくられた建物が、明治~大正にかけて原三溪の手により移築され、昭和の戦災被害を乗り越え復興し、平成・令和の現在まで受け継がれているものです。そして私たちには、この貴重な遺産を正しく守り、次の世代へと遺していく使命があります。
 三溪園では現在、平成30年度より実施している臨春閣をはじめとした、重要文化財建造物保存修理の長期工事を遂行中です。建造物の健全な維持保存上、屋根の葺替など定期的な修理が欠かせないため行われている工事ですが、加えて昨今の度重なる自然災害、そして大震災の懸念などの状況を鑑みて、安全対策を万全にすることも求められています。そのため耐震診断を実施し、必要に応じて十分な耐震強度を確保する補強工事を実施することも重要となっています。
 こうした工事は、安全のため覆いで隠されており一般のお客様の目に触れることはめったにありません。また工事そのものが煩わしいものと感じられがちです。そこで少しでも親しみを感じていただきたく、このパネル展を開催することといたしました。普段はお見せできない工事現場の風景や過去の資料を通じて、三溪園が守り継ぐ伝統と保存修理事業についての理解を深めていただければ幸いです。」
 以上の趣旨により、次の4部で構成される。第1章「歴史と芸術文化を愛した原三溪」、第2章「三溪園保勝会発足:戦争による荒廃からの復興」、第3章「令和の大修理事業:100年先・1000年先を見据えて」、第4章「多くの人に支えられて」。それらの概要を抄録したい。

 展示では、各章に解説と古写真等のパネルを付して緻密な説明をしている。全体タイトルパネル1枚のほか、第1章には解説パネル2枚、写真パネル5枚、第2章には解説パネル2枚、写真パネル13枚と数多く、総数108枚にのぼる。ゆっくりご覧いただきたい。

パネル1

パネル2


以下、パネルの文章をそのまま転載する。

第1章 歴史と芸術文化を愛した原三溪
 三溪園は、京都や鎌倉などから移築した歴史的建造物等が自然と調和し見事な景色を作り上げているのが魅力の一つとなっています。庭の設計、建物の配置計画などすべて所有していた原三溪の手によるもので、様々な事例に学んでいること、そしてそれを活かす抜群の美的センスを持ち合わせていたことが伺えます。…
 江戸から明治に世の中が変わった際は、様々な点で大きな変革がもたらされました。欧米列強と肩を並べることを目指し西洋文化が推奨されるようになると、旧来の日本文化は古臭く役立たないものと軽視されるようになり、また国家による「神仏分離令」および神道の奨励は、仏教を蔑ろにする風潮を生みだし、極端な「廃仏毀釈」など仏教文化自体を否定し棄却する流れすら生じてた。さらに江戸時代に大きな権力を持っていた大名・武士階級の凋落は、彼らが支えていた寺院の衰退にもつながり、明治時代に廃寺となったものも少なくありません。
 歴史的・芸術的に価値の高いものが顧みられることなく失われてしまっていった時代に、原三溪は伝統ある文化・歴史の遺産を大切に守り継ぐことを、ここ三溪園で個人の力で展開しました。古美術商を通して伝統的な絵画や彫刻、工芸品などを蒐集し、同様に歴史的建造物もコレクションとして入手しています。
 原三溪の美術品蒐集については、古美術商への書簡や種々の聞き取り調査などから入手の経緯などが分かっているものもありますが、ほとんどは経緯や動機が不明瞭です。建造物については入手先が不詳のものもあり、戦後の調査によって判明したものなどもあります。
 現状記録から分かっているのは、どの建造物も旧来あった場所が廃寺になった、旧来の持ち主が十分な維持管理をしきれなくなった等の条件のため移築を行ったということで、これは現在の文化財保護法に通じる考えのもと、原三溪が移築を行っていたことを示しています。また移築に際しては「役に立たなさそうな古材まで晒し木綿で一つ一つ丁寧に包んで運び出した」(月華殿移築に際しての聞き取りより)などの記録も残っているほか、近年行われている修理事業での調査より、傷みの著しい古材でも出来るだけ再利用している状況なども確認されており、建造物を単なる形としてだけでなく、資料として歴史を伝える価値観を認識して移築を行ったことが伺えます。一方で臨春閣や月華殿などは、移築前は屋根が瓦葺きであったものを移築に際して檜皮葺・杮葺に改め、臨春閣は棟の配置すら変更するという大がかりな改造も行っています。しかしそれによって庭園内の景観との調和が図られ、より一層美しい景色を作り出しており、伝統と歴史を重んじながらも、自らの美的感覚に確たる自信をもって建造物の移築を行った三溪の理念を垣間見る事が出来ます。
 実際にこれら建造物が昭和6年に国宝(現在の重要文化財に相当)に指定されているのは、移築前の建造物の価値をきちんと守り継ぎつつ移築を行ったこと、移築に際しての改造が価値を寧ろ高めるに至っていることなどが評価されたためと言えるでしょう。
また建物をただ「遺すもの」としてみなしていたわけでなく、原三溪は「使うもの」としても認識していました。茶会やもてなし、臨春閣では長男の結婚式を行うなど、相応しい使い方をして、より魅力的なものとなるような利用していました。かつての文化財保護の考え方はどちらかと言えば「保存」重視で、使う=傷つける・摩耗するということから活用が躊躇われてきました。しかし現代の文化財保護は保存と活用の両輪が大事であるとされ、大切に守り伝えつつ、使うことによって本来の魅力を引き出すという考えのもと、それぞれの文化財の所有者が試行錯誤しています。建造物は人の暮らしの器、ただ愛でるだけでなく使ってこそのものです。保存重視の考え方から試行錯誤を経てたどり着いた現代の私たちの考え方に、原三溪は100年前から向き合っていたのです。
 原三溪による歴史的建造物の移築は大正11年の聴秋閣移築が最後となり、それをもって内苑を完成とし、記念の茶会である「大師会茶会」が大正12年に開催されました。園内に移築された歴史的建造物や三溪の構想による茶室・邸宅などには美術品が飾られ、当代随一の茶人たち(当時の財界トップの人々)がそれぞれに茶席を構えました。自然と建築の美、歴史が織りなす壮大な景色を作り上げた原三溪、最上の瞬間であったことでしょう。…

第2章 三溪園保勝会発足:戦争による荒廃からの復興
昭和の大修理事業
 昭和28年原家から横浜市に三溪園の土地建物が移譲され、園を公開管理する「財団法人三溪園保勝会」が発足しました。原家にはホテルからの買収話もあったとされますが、一般市民が親しめない場所となることは創設者・原三溪の理念にもとるとの考えのもと、変わらず市民の憩いの場所であり続けるために横浜市との交渉が進められました。
 文化財の世界でも注目を集めていた三溪園の復興事業には、その当時最上の技術・頭脳が集められ、「重要文化財建造物修理実施委員会」が発足しました。復旧作業に従事したのは伝統的な技能を受け継ぐ職人たち、その陣頭指揮を執ったのは古建築研究と古建築修理の専門家たちです。幸い戦前に文化財指定を受けた際の記録が多数残されていたため、それらを参考にばらばらに崩れてしまった材料なども一つ一つ丁寧に調査し修理を行い、多くの人の力が注がれ在りし日の姿がよみがえりました。被災文化財は順次修理が施され、すべての工事が終わった昭和33年には竣工式が執り行われ、同時にそれまで原家のプライベート空間として非公開だった内苑の公開も始まりました。

原三溪の理念を受け継ぐ移築・整備
昭和35年(1960) 岐阜・白川郷より旧矢箆原家住宅移築
昭和62年(1987) 京都・木津川市より旧燈明寺本堂移築
平成元年(1989)  三溪旧蔵品やゆかりの資料などを展示公開するための三
溪記念館建設
 平成12年(2000) 旧原家住宅(鶴翔閣)の修復整備工事が完了

第3章 令和の大修理事業:100年先・1000年先を見据えて
昭和~平成の修理と課題
 昭和の大修理事業以降も、三溪園の重要文化財建造物は絶えず細かな修理の手が入れ続けられてきました。台風や大雪などの自然災害による被害への対応、また植物で葺かれた屋根は定期的な手入れが欠かせず、およそ30年ごとの葺替を必要とします。屋根のみならず木造建造物の主体である木材は風雨で劣化腐朽し、維持管理のためには修理が必須です。そうした小さな修理を少しずつ重ねながら、昭和から平成にかけて三溪園では在りし日の姿をずっと守り続けてきたのです。
 しかし平成の時代になって、新たな問題が突き付けられました。1995年に発生した阪神淡路大震災では、それまで経験則と歴史から安全と見なされてきた歴史的建造物のもろさが露呈してしまいます。その後各地で発生した震災でも文化財建造物の被害が相次いだことから、建物内の人の安全を確保し、あるいは建物を健全に守り伝えるためには、歴史的建造物といえども十分な耐震性能を確保することが必要であると認識されるようになっていきました。

令和の大修理事業
 三溪園でも地震に対するお客様の安全を確保することが必定であるということになり、建物が地震に耐えうる力を持っているかを確かめる「耐震診断」を行い、力が不足している場合には「耐震補強」を行うという方針が立てられました。折しも30年ごとの屋根葺替のサイクルがちょうど巡ってきたタイミングで、屋根葺替や根本修理(半解体・解体修理)に合わせて耐震診断・補強工事を長期計画で実施することとなりました。

第4章  多くの人に支えられて
 工事の安全・円滑な遂行のために設けられている素屋根(工事用の仮設の覆い)は、建物を覆い隠して工事の様子を見えなくしてしまいます。そこで少しでも修理工事に、そして建物を守り継ぐことに親しみを持ってもらおうと「工事の現場から」というお知らせの発信を始めました。また折に触れ修理工事の現場公開を行い、建物の美と、それを守り継ぐための技術の粋についても多くの方に親しんでもらえるよう発信してまいりました。
 また臨春閣の工事に際しては、耐震補強に伴い室内の建具などをいったん取外し、修理を行っています。これに伴いそれらの工芸品を展示・紹介する目的で行ったのが、昨秋三溪記念館で開催した企画展「臨春閣―建築の美と保存の技」です。臨春閣が受け継いできた「美」、その美をこれからも守り伝えるための「技」をご覧いただきたい。その思いは届き、沢山の方にご来場いただき、また各種メディアにも取り上げていただきました。さらに会期終わりに差しかかる頃には、ちょうど「伝統建築工匠の技:木造建造物を受け継ぐための伝統技術」のユネスコ無形文化遺産への登録勧告の報があり、さらに注目を集めました。
 続いて令和2年度からは外苑奥の旧東慶寺仏殿の保存修理事業に着手しました。こちらは建物本体の傷み・歪みが著しいことから半解体修理という方針となり、丁寧に一つ一つ部材をほどきながら建物を解体していきました。それに合わせて調査を実施、こちらも耐震診断を実施して補強案の策定を行っています。
 歴史的建造物は各地で修理・耐震補強が行われ、様々な知見が得られています。しかしどれ一つとして同じものの無い歴史的建造物の修理・耐震補強の案の策定には、知恵を絞り、試行錯誤を繰り返すという大変な労苦を重ねるほかありません。過去から守り続けられてきた価値を正しく受け継ぎ、現在の安全性・利便性にも配慮したうえで、これから先も末永く守り継ぐために、たゆまぬ努力を重ねながら、文化財建造物は守り伝えらえていくのです。

【観月会の5つの演奏】
 いよいよ9月18日から<観月会>が始まる。この行事は演奏会場を旧燈明寺本堂とし、聴衆は外の広場で聴く。振り返って仰ぎ見るとライトアップされた三重塔が闇夜に浮かびあがる。20:30まで入園できる(閉園21:00)。なお中秋の名月・満月は9月21日(火)である。
美しい月を眺めながら音楽をお楽しみいただける、秋の夜に相応しいイベントを開催する。今年は、琵琶、筝曲の日本の伝統音楽に加え、リュートの演奏と日本舞踊、サックスとピアノの演奏がある。中秋の名月が照らすもと、情緒豊かなひとときをお過ごしください。今回は各種の食事券つき指定券を発売する(事前申込)。

(1)9月18日(土)、20日(月・祝)  19:00 ~ 20:15
「和洋邂逅《リュートが奏でる、月下の舞》」
中秋の名月を楽しむ「観月会」は、風情ある日本人の独特の習わしです。
三溪園が毎年開催している「観月会」で、今年は、豊かな自然に囲まれた「歴史的な建造物」、中世からヨーロッパの人々に愛された「リュート」(洋琵琶とも訳される中央アジア起源の撥弦楽器)、日本古来の伝統芸術である「日本舞踊」、これら東西の古くから伝わる文化を融合させ、観月会に相応しい情緒豊かな夜のひとときをお楽しみいただきます。
 三溪園と横浜みなとみらいホールが連携し、新しい視点での魅力的な芸術作品を発信することで、地域の魅力づくり及び神奈川の文化振興に寄与いたします。和洋の伝統芸術が邂逅する舞台に、ライトアップされた古建築が彩りを添えます。
出演  金子 浩(リュート演奏) 藤間 翔央(踊り手)
       藤間 恵都子(日本舞踊振付)曲目  「観月」に相応しい情緒豊かな楽曲  を選曲、リュート演奏に創作日本舞踊が加わり「月と古き堂」の舞台で神秘的な風情を醸し出します。
主催 三溪園(公益財団法人 三溪園保勝会)
共催 横浜みなとみらいホール(公益財団法人 横浜市芸術文化振興財団)
助成 神奈川県 マグカル推進事業補助金
音響協力 太陽倶楽部レコーディングス
後援 横浜アーツフェスティバル実行委員会

 (2) 9月19日(日)  18:15 ~ 20:15  箏曲
曲目:荒城の月、落葉の踊り、秋の曲、風三章、夜に駆ける、鬼滅の刃メドレー、人生のメリーゴーランド、Talking To The Moon、赤とんぼ、砧、光のトレイン 他
出演:琴美会(ことみかい)
1982年に生田流宮城社師範 寺井恵子が琴・三味線教室として発足し、現在、生田流宮城社師範 大江美恵、寺井奈美とともに会員の指導にあたる。毎年定期演奏会を開催する他、横浜市の「磯子区文化協会邦楽部演奏会」に出演。「横浜三溪園 四季の催事」、豪華客船「飛鳥」出航セレモニー、介護施設でのコンサートなどさまざまな企業、学校、横浜市などが主催するイベントやレセプションで数多くの出張演奏を行っている。

(3) 9月21日(火)  18:20~18:50/19:00~19:30/19:40~20:10
サックスとピアノで奏でる日本の唄~世界の唄
曲目:夜に駆ける、黄昏のビギン、愛のさざなみ、ムーンリバー、月の光、鬼滅の刃~炎、あなた、木綿のハンカチーフ、雨降りお月さん 他
出演:シャンティドラゴン  金剛 督(サックス/こんごう すすむ)  林 あけみ(ピアノ/はやし あけみ)
1994 年結成。クラシック、ジャズ、童謡、映画音楽、オリジナル、シャンティドラゴン独自のアレンジ曲をレパートリーとし、横浜、都内を中心に各地ホール、ライブハウスや学校で演奏活動を行っている。山手芸術祭、横浜ジャズプロムナード、横浜アートLIVE 他、音楽祭にも多数参加。書、舞踊、朗読、声明とのコラボレーションも多い。病院、児童養護施設、障害者施設でのボランティア演奏も積極的に行っている。金剛督は97 年ジャズライフ誌にて最優秀新人に選出される。

(4) 9月22日(水)  18:15 ~ 20:15  薩摩琵琶
曲目:清水堂、地震加藤、五月雨富士 他
出演:薩摩琵琶錦心流中谷派襄水会(さつまびわ きんしんりゅう なかたには じょうすいかい)
代表 荒井姿水。6 歳より父・中谷襄水に琵琶の手ほどきをうけ、後、松田静水に師事し古典を学ぶ。NHK 邦楽技能者育成会第13 期に入学、杵屋正邦(きねやせいほう)に現代邦楽を学ぶ。1980 年日本琵琶楽協会主催コンクール第1 位入賞、文部大臣奨励賞、NHK会長賞を受賞。中谷襄水没後、薩摩琵琶錦心流中谷派襄水会を設立、現在に至る。国内外で活躍、円熟された世界観を持つ奏者として高い評価を受けている。

(5) 9月23日(木・祝)  18:15 ~ 20:15  横浜和楽器アンサンブル
曲目:天空の扉、豊年太鼓、OIWAKE、もののけ姫、人形風土記、濱自慢
出演:アトリエ筝こだま(あとりえ こと こだま)
代表 児玉寛子。生田流教授。NHK 邦楽技能者育成会卒業。NHK・FM などの放送番組や福祉施設で演奏を行うほか、米海軍横須賀基地や小学校などで定期演奏会(指導)を行い、多くの人々に箏の魅力を伝えられるよう活動している。国際交流行事や海外での演奏経験も豊富。現代にかなった発展的な音楽を、流派にとらわれず自由に、箏が特殊なモノではなく多くの人々を楽しませるものであるよう、箏の持つ魅力を探求している。

 9月18日(土)から9月23日(木・祝) までの6日間にわたる<観月会>の演奏を、みなさん心ゆくまでお楽しみください。

千葉信行(講演)「岡倉覚三の遺したもの」

 9月4日(土曜)午後、横浜市開港記念会館において<岡倉天心市民研究会>事務局長の千葉信行さんによる上掲の講演「岡倉覚三の遺したもの」があった。2階の第6会議室に行くと、副会長の高井祿郎さん(元横浜市立大学事務局長、画家)が声をかけてくれた。千葉さんは講演用のパワーポイントの調整のためパソコンに向かっている。

 大きな部屋の通路側の窓を開け、十分な間隔を取った席に聴衆が待っていた。司会に立った高井さんが「本日の講演はもともと千葉さんが昨年12月に行った文化講演会「美の巨人岡倉天心―横浜で生まれ、近代日本画の創出をし、日本文化を世界に発信した人―」(NPO法人横浜金沢文化協会主催)ですが、会員のみなさんにも共有してほしい…」と紹介する。

 すぐに千葉さんがマイクを握り、話し始めた。声に張りがある。ご自身の発病と闘病の経過を簡単に述べると、それは過去のことと言わんばかりに、A4×69ページにも及ぶ分厚いレジメを使って本論に入った。

 越前福井藩士の岡倉覚右衛門(勘右衛門)と妻このの次男として、文久2年12月26日(1863年2月14日)、岡倉角蔵が誕生、のち大学時代に覚三と改名する。生誕地は横浜の日本人町のいちばん外国人居留地に近い本町5丁目(現1丁目)にあった福井藩の石川屋、いま横浜市開港記念会館のある場所で、<岡倉天心市民研究会>が使う会場の多くがここである。

 <岡倉天心市民研究会>と団体名に天心を採ったのは、天心が一般的な通称のためである。本人は覚三(Kakuzo)と自称することが多かった。こうした背景を考えて千葉さんは演題を敢えて「岡倉覚三の遺したもの」としたのであろう。

 なお私がブログで初めて天心について触れたのは、8年前の「岡倉天心生誕150年(本ブログの右欄リンクにある「(都留文科大学)学長ブログ」106号「岡倉天心生誕150年」、2013年11月1日)であり、ついで5年前の本ブログで初めて参加した第15回「岡倉天心市民研究会」(2016年11月8日掲載)の模様を書いた。

 ついで千葉さんは「岡倉の英語習得」(4ページ)で幼少時(5歳ころから)の覚三が英語を宣教師ジェームス・バラとマーカレット夫人から学んだとして写真を掲げる。漢籍は母の菩提寺の長延寺(浄土真宗)で玄道和尚から学び、10歳で高島学校、11歳で東京外国語学校、12歳で東京開成学校入学、その2年次に東京大学となり文学部2年に編入する。

 天心の英語について『牧野伸顕回想録』から「開成学校の同級に岡倉天心がいた。岡倉は英語が非常によくできて、洋行はまだ一度もしなかったが、我々より上手だった」とあるのを引いている。天心の英語(会話)力は幼少時から外国人の子どもと遊ぶなかで形成されたのでもあろう。

 1859年の横浜開港に備えて幕府の設計・施工により、日本大通を挟んで日本人町と外国人居留地が置かれ、東海道からの入り口に関所を設けた。その内側という意味で<関内>と呼び、<関内>では日本人と外国人が自由に行き来して商取引をした。これが<居留地貿易>の実態であり、海外への商品移送は主に外国人商人が行ったが、日本商社の登場により<直輸出>も始まる。内外の子どもたちは大人以上に自由に往来して遊んだ。

 千葉さんは神奈川新聞社の記者、編集局長、専務取締役等を歴任、多くの企画を立案・実行してきた。その記者魂や躍如、多くの写真を発掘、本講演でも多用した。なかでも興味深いのは、集合写真のなかで宣教師バラの右横に写る少年と18歳の覚三とをマイクロソフト・アジュールの顔認証を使い<同一人物>(信頼度0.5731)と記していた点である。

 次がいよいよ本題の「岡倉覚三 50年の区切り」(11ページ)である。(1)<学びの時代>(0~17歳)、(2)<官僚の時代>(17~35歳)、(3)<私人の時代>(35~50歳)の3期に分ける。主に扱うのは(2)と(3)の時代である。

 (2)<官僚の時代>(17~35歳)を語るのに、まず「前提1 アーネスト・フェノロサ(お雇い外国人、理財学・哲学・政治等)との出会い」をあげ、明治15年の政府要人を前にした演説でフェノロサが「日本の美術は西洋美術より優れている」と述べたことにより、岡倉が日本の古美術に開眼したとする。

 ついで「前提2のA 廃仏毀釈運動の全国展開」ではこれを明治政府の最大の愚策、文化破壊の汚点と考え、仏像破壊と国外流出の嵐が吹き荒れたとする。「前提2のB 廃仏毀釈運動の全国展開」では鹿児島の1066寺がすべて廃寺、2964人の僧侶が還俗し寺は神社に衣替え、美濃岐阜でも藩主の菩提寺を含めすべて廃寺、長野松本では180寺のうち140寺が廃寺と状況を語る。

 岡倉は23歳の明治19年に宮内省に「美術品保存に意見」を出し、「今日ニシテ其保存ニ着手セサレバ我日本ノ名誉タル東洋美術品ハ数年ヲを出ズシテ散逸滅亡シ悔ユルモ亦及ハザルニ至ルヘシ宮内省ニテ美術品ヲ採集スルコト」を提言する。

 「前提3 欧米はジャポニズム全盛期」では1867年のパリ万博をきっかけにジャポニズム全盛期に入り、23歳の岡倉は欧米視察を通じてフェノロサの『美術新説』のとおりと実感、日本絵画に自信を持ったとする。

 そして「官僚・岡倉覚三の急成長」で矢継ぎ早に文部官僚として出した提言の数々を示す。その第一声が19歳で書いた「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」で述べる。「西洋開化ハ利欲ノ開花ナリ。利欲ノ開花ハ道徳ノ心ヲ損ジ風雅ノ情ヲ破リ、人身ヲシテ唯一箇ノ射利器械タラシム。貧者ハマスマス貧シク、富者ハマスマス富ミ、一般ノ幸福ヲ増加スル能ワザルノミ」と。

 次いで「美術ノ奨励ヲ論ズ」、「守旧派ノ排除」、「日本美術ノ滅亡座シテ俟ツヘケンヤ」とつづく。明治19年からは宮内省の奈良古美術調査という実践行動を開始、つづけて宮内省・文部省による関西古美術調査に着手する。

 明治19年9月~明治20年10月の欧米視察を経て、帰国後は図画取調掛(委員にフェノロサ、狩野芳崖、岡倉)から衣替えした東京美術学校を浜尾新校長、岡倉幹事により日本画だけで発足、翌明治23年、27歳で東京美術学校校長に就任。

 ここまで拝聴して、ふと気づいた。千葉さんの今回の講演「岡倉覚三の遺したもの」は、7年前の2014年6月14日に立ち上げた<岡倉天心市民研究会>とその報告書<天心報>(全39号)の40回目に当たっての<中間総括>なのではないか。決まったことを的確に実行するに留まらず、企画に始まりテーマと講師の選定・折衝、会場確保等々を担う事務局長としての<中間総括>ではないか。

 末尾に掲げた7年間の研究会開催と『天心報』一覧を見ると、千葉さんは早くも第4回で「わが天心体験―美を感じる時」+「天心、多角的アプローチ」を発表して自身の関心の所在を示し、ここを起点として各方面の専門家を講師に選んで研究会を開催、3年目の29回以降は天心の思想と著作を中心として展開、木下長弘(美術史家)さんに連続して講演を依頼している。

 岡倉天心(覚三)という<美の巨人>をどう把握するか。それぞれの分野の専門家に取材して記録するという方法もあろう。そうする代わりに<岡倉天心市民研究会>という公開の場で講演してもらい、それを会報<天心報>で広く伝え、それを受けて次々と湧き出す疑問を解くために次のテーマと講師を考えて交渉する、そのサイクルを39回までつづけてきた。その<中間総括>を自ら担ったのが今回の講演ではないか。

 千葉さんは「近代日本のフィールドワーカー、初のキュレーター」で岡倉の基本の一側面を掲げ、その具体像を「業績1 東京美術学校の開校・運営」、「業績2 博物館事業」、「業績3 古美術の修理・修復」、「業績4 『日本美術史』の編纂」「業績5 美術雑誌『国華』の発刊」と重ねていき、「業績の総括 近代美術行政のトータルプランナー(ルーツはすべて岡倉覚三)」として1枚の図にまとめる。これが<中間総括>の一つであろう。

 ところが、これで終わらない。「業績6 近代日本画の創設=美術の近代化①」、「業績6 近代日本画の創設=美術の近代化②」、「日本画と西洋画 それぞれの課題」、「東西絵画 文化の衝撃的な出会い 学び合う両洋」と論を進める。最後の 「東西絵画 文化の衝撃的な出会い 学び合う両洋」を以下にそのまま再録する。このあたりに千葉さんの<中間総括>の核心の二つ目があるように思える。

 「西洋画:三次元描法の行き詰まりの中、日本のユニークかつ自在な発想の描法に出会う。1867(慶応)年のパリ万博で大量の浮世絵が入ってきた。約束事がほとんどなく、モチーフ、描き方は多彩、何でもありに印象派の画家たちは仰天。万博は半年で1500万人が入場。幕府、薩摩、佐賀ち民間が出展。民間は絵画が多く、全体で1300箱が持ち込まれた。爆発的なジャポニズムが到来。
 日本画:日本の画家はリアルな描写と濃密な三次元描法の必要性に直面した。欧米視察で岡倉は初めて大量の西洋絵画群に出会う。
 学び合う両洋:日本で大観ら改革派日本画家は西洋画の三次元立体描法を岡倉に言われて研究開始。一方で西洋の油絵画家たちは多様なモチーフの設定やデザイン的な描法、画面を超えて横展開する二次元的描法にチャレンジし始めた。岡倉はすべの著作で、「…西洋は東洋に押し付けるだけで、東洋から何も学ぼうとしないと嘆いたが、絵画芸術においては多くを学んだ」。

 千葉さんの熱弁は、5分間の休憩を入れてつづく。学生(画家)たちに対する「岡倉の<空気を描けないか>発言の背景」、それに対する「大観、春草のチャレンジ」、「朦朧体作品」、「西洋画と日本画の異質性は文化の異質性」、「朦朧体地獄からの脱出」、「近代日本画の成立(五浦時代)」。

 千葉さんの講演録はちかく『天心報』の40号に掲載される予定なので、そちらに譲るが、「朦朧体地獄からの脱出」の概要だけはここに引用しておきたい。(1)インド・欧米旅行(明治37年2月から1年半)を通して印象派風の絵を描きつづける=朦朧体。(2)徐々に暗さが抜けてくる。(3)茨城県五浦(いずら)の静寂な環境のなから答えが出され、第1回文展(明治40年10月)出品の春草「賢首菩薩」や大観「春曙」、ついで第3回文展(明治42年)出品の春草「落葉」や大観「流燈」等。(4)インド・欧米旅行で大観の得た印象は「日本の古仏画は支那化されたものでインド古来の風俗事物は現代インドに保持されており、澄んだ、原色が映える世界」。(5)アジャンタの絵画表現の特徴は線を利用、柔和、遠近濃淡に留意しない、陰影表現の質が高い、日本の線画と違い東洋的というより西洋的。(6)大観の「流燈」はインドで見た女性そのものを描いており、顔、装身具,着衣等を実証的に入念に描き、身体は没骨による立体感、色線の輪郭、筆線による着衣の描写などタブーなしであらゆる描法が使われている。

 ここから千葉さんの講演は、岡倉の英文三部作に移る。千葉<総括>の第2部に当たるのであろうか。

”The ideals of the East”(『東洋の理想』) 1903(明治36) ロンドン・
“The Awaking of Japan”(『日本の覚醒』)1904(明治37) ニューヨーク
“The Book of Tea”(『茶の本』) 1906(明治39) ニューヨーク

 ここで千葉さんは岡倉の一貫した問題意識として「(岡倉の著作は)いずれも近代を問う。産業革命を背景に世界制覇しつつある西洋のあり方を問う。一方、中国、インドと植民地化され弱者のアジアだが、東洋には西洋が及ばない精神性と高い文化が古代からある」とする。

 つづけて以下の14項目を各1ページで写真等を付して展開する。(1)「著作の果たした役割=近代化」、(2)「『茶の本』とは」、(3)「岡倉の宗教と美学観」、(4)「<無><主客一体> 岡倉以外の日本の先達の考え方」、(5)「『茶の本』の果たした役割=利休発掘」、(6)「『茶の本』のベースになったもの」、(7)「茶道家は『茶の本』をどう読んだか」、(8)「アメリカ人はどう読んだか」、(9)「岡倉の悲劇 国から社会から疎外される」、(10)「岡倉の不幸 大東亜共栄圏の預言者として祀りあげられる」、(11)「近代化の陥穽-失敗と成功」、(12)「伊澤イズム」、(13)「近代化に成功した日本画」、(14)「妙高市赤倉の天心山荘で病没 1913(大正2)年9月2日午前7時3分 50歳」。

 病み上がりとは思えぬ千葉さんの論述の緻密さと情熱に圧倒される。時計を見ると4時45分。2時半開始で3時間15分の間、たった5分の休憩をはさみ、大学の90分授業×2コマ以上を一挙に終えた。


 最後に、今回の千葉さんによる<中間総括>の土台となった「『天心報』刊行一覧(40回分)を再録する。なお号数の次の年月日は研究会の開催日であり、『天心報』の刊行はその2か月ほど後である。会場については省略した。

第1号(2014年6月14日):大矢紀(日本美術院同人)「日本人の器超えた大人物」
第2号(2014年8月23日):新井恵美子「横浜と幼少期の天心」+千葉信行「開港場で身に付けた英語力、その後の天心の有力武器に」
第3号(2014年10月25日):草薙奈津子(平塚市美術館館長)「天心が伝えたもの」+清水緑(三溪園学芸員)「響きあう美術の琴線-天心・三溪・観山」
第4号(2014年12月6日):千葉信行「わが天心体験―美を感じる時」+「天心、多角的アプローチ」
第5号(2015年2月14日):小田裕子(裏千家正教授)・川原澄子(表千家教授)「『茶の本』を味わう」
第6号(2015年4月25日):河合力(寛方・タゴール会事務局長)「天心・寛方・タゴール」
第7号(2015年6月27日):佐藤志乃(横山大観記念館学芸員)「天心と大観-美術でも国の近代化を担う」
第8号(2015年8月29日):山口静一(埼玉大学名誉教授)「フェノロサと天心-東京美術学校開校まで-フェノロサに育まれる天心の美術観」
第9号(2015年10月31日):田中喜芳(ホームズ・ドイル研究家)「岡倉天心とシャーロック・ホームズ」
第10号(2015年12月5日):清水恵美子(茨城大学准教授)「岡倉覚三・天心と弟・由三郎」
第11号(2016年2月13日):岡本佳子(国際基督教大学アジア文化研究所研究員)「『東洋の理想』を読む」
第12号(2016年4月23日):桶谷秀昭(文芸評論家、東洋大学名誉教授)「天心と近代-明治から平成まで」
第13号(2016年6月25日):山口静一(埼玉大学名誉教授)「天心とフェノロサ-その2 天心受難は洋画派の策略」
第14号(2016年8月20日):柏木智雄(横浜美術館副館長)「恩師の無念 絵画で表現-天心の弟子たち-観山と靭彦」
第15号(2016年10月22日):古田亮(東京芸術大学美術館准教授)「日本美術を見る『目』―岡倉天心に学ぶ絵画の見方」
第16号(2016年11月26日):中村愿(作家)「初子と覚三」
第17号(2017年2月25日):大久保喬樹(東京女子大学教授)「天心と道教・禅-老荘からポストモダンへ」
第18号(2017年4月29日):吉田千鶴子(美術史家)「『日本美術史』の始まり-新出史料をめぐって」
第19号(2017年6月24日):鍵岡正謹(美術評論家)「天心ポエム」
第20号(2017年8月26日):伊藤泰雄(杏林大学名誉教授)「ビゲロー伝-天心と日本美術を理解した人」
第21号(2017年10月21日): 『天心サミットin横浜』 基調講演 佐藤道信(東京芸術大学教授)「海と英語-覇権の条件」、 パネル討論「開港場横浜-天心がいたころ」西川武臣(横浜開港資料館)・佐々木美帆(福井県立美術館)・茂住實男(前大倉山精神文化研究所長)
第22号(2017年11月25日):角田拓朗(神奈川県立歴史博物館主任学芸員)「美術雑誌『国華』の創刊と岡倉天心」
第23号(2018年3月10日):出光佐千子(青山学院大学准教授)「天心の理想と大観の軌跡」
第24号(2018年4月28日):依田徹(遠山記念館学芸課長「『茶の本』のもたらしたもの」
第25号(2018年6月30日):加藤祐三(横浜市立大学名誉教授)「岡倉天心『日本の覚醒』を読む」
第26回(2018年8月25日):八柳サエ(横浜美術館主任学芸員)「天心と大正期院展画家たち」
第27回(2018年10月20日):清水恵美子(茨城大学教授)「ボストンにおける岡倉覚三」
第28回(2018年12月1日):田中仙堂(大日本茶道学会会長)「哲学と茶による東西融合-『茶の本』を読む」
第29回(2019年2月23日):木下長宏(美術史家)「『老子』と岡倉覚三」
第30回(2019年4月20日):木下長宏(美術史家)「老子と『茶の本』」
第31回(2019年7月20日):木下長宏(美術史家)「伯牙論を通じて読む岡倉の藝術思想」
第32回(2019年9月28日):木下長宏(美術史家)「岡倉の漢詩に見る『老子』」
第33回(2019年11月30日):小泉普弥(茨城大学名誉教授)「岡倉天心と五浦」
第34回(2020年7月11日):荒井経(東京芸術大学大学院教授)「近代日本画改革への挑戦-大観と春草」
第35回(2020年8月29日):木下長宏(美術史家)「『東洋の理想』はどのように書かれたか」 Ⅰ
第36回(2020年10月4日):木下長宏(美術史家)「『東洋の理想』はどのように書かれたか」 Ⅱ
第37回(2020年11月28日):臼田雅之(東海大学名誉教授)「インドの岡倉覚三」
第38回(2021年2月14日):出口智之(東京大学大学院准教授)「岡倉天心と根岸党-明治文人とのつながり」
第39回(2021年4月17日):木下長宏(美術史家)「『日本の覚醒』はどのように書かれたか」 
第40回(2021年9月4日):千葉信行(事務局長)「岡倉覚三が遺したもの」
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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