旅情と四季のうつろい
三溪記念館で所蔵品展が始まった。第1展示室が「旅情を写す」、第2展示室が「四季のうつろい―春から初夏へ」(~6月15日)。そこで両展示室の題名の一部を採り、本稿の題名を「旅情と四季のうつろい」とした。なお第3展示室は「第45回三溪園俳句展」が5月19日に終わり、次の展示「蓮へのいざない」(6月3日~8月16日)を計画中である。
感染症予防対策の一つとして、今回の展示は通常より作品の間隔を広くとった。その分だけ室内が広く感じられる。
この所蔵品展は、特別企画<アートの庭>展の翌日に始まった。<アートの庭>展と今回の所蔵品展を、中心となって企画・実施したのが吉川利一事業課長(学芸員)である。在職30年を超えるベテランの一人。
事業課は各種イベントの企画・連絡・実施、文化財古建築の保存と活用、庭園管理、さらにボランティアさんとのパイプ役も担う。吉川さんは多忙な業務をこなしつつ、時に偶発する難問にも穏やかな言動で的確に対応、<外柔内剛>の人というに相応しい。
本ブログでは、三溪記念館の所蔵品展は幾度か紹介してきた。清水緑さん、北泉剛史さんという歴代の学芸員(<美術分野>)から展示解説等のデータを頂き、分からない点は教えを請いつつ、原三溪と三溪園を広く世に知らせたいと、私なりに模索してきた。
思い出深いものに、「白きものを描く」(2015年9月13日掲載)、「三溪の書」(2017年9月12日掲載)、「三溪園所蔵の豪華な作品群」(2018年1月1日掲載)、「三溪園と日本画の作家たち」(2019年)8月6日掲載)、「所蔵品展「月づくし」と観月会」(2020年10月1日掲載)、企画展「臨春閣~建築の美と保存の技」(2020年11月26日掲載)等がある。
今回も同様に吉川さんからデータを頂き、不明な箇所を尋ねた。吉川さんはとくに<歴史分野>に精通する。以下、吉川さんのキャプションを引用しつつ、今回の所蔵品展の見どころをお伝えしたい。
第1展示室は、壁面に次のキャプション「所蔵品展Ⅰ 旅情を写す」
「春は、ふらりと旅に出たくなる季節です。三溪園の所蔵品の中には、原三溪や三溪支援の画家たちが旅先で得た情景や印象を描いた作品がみられます。遠出の旅行がままならない昨今ですが、ひととき絵に表現された旅をお楽しみください。」
ついで下置きのキャプション「旅情を写す―原三溪の絵画」で述べる。
「三溪は、自らの事業や蚕糸業全体を束ねる立場として奔走する日々を送るなかにも、時間を見つけては好んで旅をしたようです。その行先は身近な名所や旧跡から、故郷の岐阜や別荘のあった箱根・伊豆・京都、また遠くは東北各地にまで及びました。ここでは、こうした旅先で見かけた情景や感じた印象をもとに描かれた三溪の作品を紹介します。」
三溪の軸装墨絵(紙本墨画淡彩)は《信濃路》、《野尻湖》、《近江路》、《鮎市》 の4点。うち《野尻湖》は縦97.4cm、横64.2cmと他より幅広く、山と湖と小舟の絶妙な配置に魅了される。小舟には舳先と船尾にそれぞれ漕ぎ手がおり、屋形に6人の客が乗っている。簡略な筆遣い。だが人物の表情まで感じ取れる。

《鮎市》 は「濃州郡上付近所見」。三溪の故郷、岐阜近郊の鮎漁解禁は初夏の6月である。獲れた鮎が川岸に並ぶ。人々は傘をさし、蓑笠姿も。梅雨の6月でもある。(松永耳庵旧蔵)
解禁直後の生き生きとした鵜飼の様子を子細に描きこむ。絵は美術作品としてはもとより、描き出された<時代の風景>が、そのまま歴史資料となる。当時の新聞は、報道挿絵に加え、風刺画、子どもや市井の日常の描写、連載小説、広告にも<挿絵>を多用し始めていた。<挿絵>で紙面の印象がパッと変わる。美術界も、この流行と連動していたのではないか。
覗きケースのガラス越しに、《二日遊関記》と《三溪先生東北遊影帖》の 2点。
三溪《二日遊関記》のキャプションには「哲学者の和辻哲郎と阿部次郎、善一郎(三溪の長男)、西郷健雄(三溪の長女の夫)の4名と箱根芦之湯にあった別荘・去来山房に泊まり、付近の名所旧跡を巡った折のスケッチをもとに制作された絵巻。各場面には説明も加えられている。」とある。見開き部分に、湯舟につかる男性2人の後ろ姿と、柱の近くに男性1人を描いている。
中村房次郎《三溪先生東北遊影帖》について、「この(写真)アルバムは、昭和5(1930)年に中村が東北への事業視察を兼ねて三溪とともに旅行をした後に作成されたもので、名所旧跡を訪ねたり、スケッチを行ったりと楽しい旅が記録されている。」とある。
「中村房次郎(1870~1944年)は、製糖、小麦の製粉事業、鉱業等に功績をのこした実業家。とくに1914年、岩手県に松尾鉱業を創立、その経営では福利厚生に尽力し、<日本のロバート・オウエン>と呼ばれた。…中村と三溪とは公私共に深い交流があり、大正4(1915)年大隈内閣によって設けられた経済調査会には、両者が横浜を代表して選ばれるほど傑出した経済人であった。また、昭和14(1939)年の三溪の葬儀では中村が葬儀委員長をつとめた。」
その斜め向かいに「原三溪支援の画家の作品」がある。軸装が牛田雞村《朝鮮風俗》、巻物は《荒井寛方三溪宛書簡(本願寺より)》の各1点。
「三溪園では、三溪が支援した作家の作品も蒐集・所蔵しています。ここではその中から、荒井寛方(かんぽう)と牛田雞村(けいそん)の作品を紹介します。雞村は、朝鮮への旅で描いたスケッチから、女性の服装や壺を頭上に載せて運ぶ姿に着目した作品を制作しました。一方の寛方は、滞在していた京都から三溪に宛てて送った手紙の中で、信者でにぎわう本願寺境内の様子を絵で伝えています。いずれも作家の眼をとおした旅の印象や関心が描かれています。」
寛方や雞村の作品も歴史資料となる。明治後半から大正時代の雰囲気が伝わってくる。吉川さんと一緒に展示室を回り、「画家たちも絵画が歴史資料としての側面を持つと意識していたのだろうか」と尋ねると、吉川さんが「共有していたはずです。寛方や雞村の絵から強く伝わってきます…」と応える。
一息入れてから、第2展示室「所蔵品展Ⅱ 四季のうつろい―春から初夏へ」へ。キャプションは、「三溪園の魅力の一つは、四季折々に移り変わる様々な表情を楽しめることにあります。季節はまもなく春から初夏。この展示室では、三溪園の所蔵品から四季の風情をお届けします。」
展示品は、下村観山《白藤》、牛田雞村《空木》、中島清之《「牡丹図》(臨春閣替襖)、《牡丹図衣桁》(三溪旧蔵品)の4点。
下村観山《白藤》
「下村観山(1873-1930)。和歌山に生れる。本名 晴三郎。能楽師の家に生れ、一家をあげて上京し、狩野芳崖、橋本雅邦に師事する。鑑画会でフェノロサに注目され、東京美術学校第1期生として入学、観山と号する。校長岡倉天心に認められ、卒業後助教授となるが、天心の退職に殉じて辞職、日本美術院創設に参加する。渡欧し英国の水彩画を研究、また名画の模写を行う。三溪の庇護を受け、三溪園内の松風閣に障壁画を描き、また招かれて本牧に新居を構える。のち横山大観と中心になって日本美術院を再興、以降在野作家を貫いた。三溪が最も高い評価を与え、敬愛した近代作家であった。」

牛田雞村《空木》
「空木(うつぎ)は茎が中空のため、この名がつけられたといわれるが、一般には卯の花で知られている。金地に純白の花をつけた姿と、周辺をアゲハチョウやモンシロチョウが飛ぶ様を描き、春から初夏へと移り変わる季節が感じられる華やかな作品である。細密な昆虫画に加え、装飾性のある表現からは、作家の後年の日本画家から舞台美術家への転向をも予感させる。」 (山口八十八コレクション)
《衣桁》
「衣桁は、着物を掛けておく実用の道具としてのほかに室内を装飾する調度としても用いられた。下部に金地に紅白の牡丹と岩、蝶の絵が施されたこの衣桁は、三溪の旧蔵品で、かつて園内の臨春閣内に置かれていた。」
中島清之《牡丹図》
「三溪園にある歴史的建造物の中で、三重塔と並ぶ代表的な建物が内苑の庭園の中心をなす臨春閣。江戸時代初期に紀州徳川家の別荘として造営されたという由緒を持つこの建物内部には狩野派を中心とする障壁画が付属するが、本作品はその替え襖として日本画家の中島清之により制作された。…中島清之は、日本美術院を中心に活躍した作家で、東京藝術大学では後進の指導にもあたった。次々と新しい様式を求め続けたその作風は、生涯型にとらわれることはなかった。 各面に咲きほこる牡丹を配した本図では琳派研究の成果が発揮され、典雅で装飾的である。」
展示を観つつ、吉川さんのキャプション等から想起したことがある。原三溪と中村房次郎の繋がりである。5年前に本ブログで取り上げた「20世紀初頭の横浜―(4)総選挙と二大新聞」(2016年1月16日掲載)等で両人について触れていた。
横浜は日本の新聞発祥の地であるが、「横浜毎日新聞」が東京へ拠を移した後、横浜では日刊紙の空白期がつづく。そこに1890(明治23)年、「横浜貿易新聞」(愛称は「貿易」)が東京で創刊され、同年5月に横浜へ移転、横浜を代表する新聞に成長する。神奈川新聞は、この「横浜貿易新聞」創刊に起源するとして、昨年(2020年)、創立130周年を祝った(同社ホームページ)。
ついで1902年、三溪の仲介で「横浜新報」(愛称は「新報」)が発刊される。これは「横浜毎夕新聞」(前年2月創刊)を継承した日刊紙で公称7万部。こうして横浜に二大新聞が生まれた(他に3紙あり)。
そこに1903(明治36)年3月の第8回総選挙があり、「貿易」と「新報」が相対する候補者を支持、政財界、新聞界を二分する紛争に発展する。このころから「貿易」にも「新報」にも挿絵が増える。新聞写真の前身である。進化した紙面を駆使して総選挙をめぐる「情報戦」が始まった。
三溪(1868~1939年)と房次郎(1870~1944年)はともに30代半ば、横浜開港<第3世代>と呼ばれ、1902年4月には「横浜貿易研究会」を設置して横浜産業界の将来展望を議論する間柄であった(本ブログ2016年4月26日掲載 「20世紀初頭の横浜-(5)横浜築港の新たな動き」)。その縁から「貿易」と「新報」の総選挙がらみの対立とシコリを憂慮、手をたずさえることで一致する。親交は、以来30余年にわたり、三溪の逝去する1939(昭和14年)までつづく。
ふたたび三溪記念館の第1展示室に戻ろう。中村房次郎《三溪先生東北遊影帖》を収めるケースのすぐ上の壁面に、三溪に関する常設の説明資料がある。三溪を①実業家、②奉仕家、③美の育成家、④美術家・数寄者の4つの側面から描き、最後に三溪園の歴史年表を付す。この②奉仕家に、房次郎の「横浜の恩人・原富太郎の人となり」(弔辞)を引用している。
「原さんという人は、どんな方面のことにも絶大な力をもっていられたが、表面に出ることを好まず、常にその力を内に蓄えられていた。しかし一朝何事かある時は、その内に蓄えられた真の力を縦横にふるわれたものである。」(「ただ痛惜に堪えず」 『蚕糸経済』誌 昭和14年9月)
三溪の絵とその広い交友関係を通じて吉川さんが伝えようとした三溪の人間像、その一端を知ることができた。
感染症予防対策の一つとして、今回の展示は通常より作品の間隔を広くとった。その分だけ室内が広く感じられる。
この所蔵品展は、特別企画<アートの庭>展の翌日に始まった。<アートの庭>展と今回の所蔵品展を、中心となって企画・実施したのが吉川利一事業課長(学芸員)である。在職30年を超えるベテランの一人。
事業課は各種イベントの企画・連絡・実施、文化財古建築の保存と活用、庭園管理、さらにボランティアさんとのパイプ役も担う。吉川さんは多忙な業務をこなしつつ、時に偶発する難問にも穏やかな言動で的確に対応、<外柔内剛>の人というに相応しい。
本ブログでは、三溪記念館の所蔵品展は幾度か紹介してきた。清水緑さん、北泉剛史さんという歴代の学芸員(<美術分野>)から展示解説等のデータを頂き、分からない点は教えを請いつつ、原三溪と三溪園を広く世に知らせたいと、私なりに模索してきた。
思い出深いものに、「白きものを描く」(2015年9月13日掲載)、「三溪の書」(2017年9月12日掲載)、「三溪園所蔵の豪華な作品群」(2018年1月1日掲載)、「三溪園と日本画の作家たち」(2019年)8月6日掲載)、「所蔵品展「月づくし」と観月会」(2020年10月1日掲載)、企画展「臨春閣~建築の美と保存の技」(2020年11月26日掲載)等がある。
今回も同様に吉川さんからデータを頂き、不明な箇所を尋ねた。吉川さんはとくに<歴史分野>に精通する。以下、吉川さんのキャプションを引用しつつ、今回の所蔵品展の見どころをお伝えしたい。
第1展示室は、壁面に次のキャプション「所蔵品展Ⅰ 旅情を写す」
「春は、ふらりと旅に出たくなる季節です。三溪園の所蔵品の中には、原三溪や三溪支援の画家たちが旅先で得た情景や印象を描いた作品がみられます。遠出の旅行がままならない昨今ですが、ひととき絵に表現された旅をお楽しみください。」
ついで下置きのキャプション「旅情を写す―原三溪の絵画」で述べる。
「三溪は、自らの事業や蚕糸業全体を束ねる立場として奔走する日々を送るなかにも、時間を見つけては好んで旅をしたようです。その行先は身近な名所や旧跡から、故郷の岐阜や別荘のあった箱根・伊豆・京都、また遠くは東北各地にまで及びました。ここでは、こうした旅先で見かけた情景や感じた印象をもとに描かれた三溪の作品を紹介します。」
三溪の軸装墨絵(紙本墨画淡彩)は《信濃路》、《野尻湖》、《近江路》、《鮎市》 の4点。うち《野尻湖》は縦97.4cm、横64.2cmと他より幅広く、山と湖と小舟の絶妙な配置に魅了される。小舟には舳先と船尾にそれぞれ漕ぎ手がおり、屋形に6人の客が乗っている。簡略な筆遣い。だが人物の表情まで感じ取れる。

《鮎市》 は「濃州郡上付近所見」。三溪の故郷、岐阜近郊の鮎漁解禁は初夏の6月である。獲れた鮎が川岸に並ぶ。人々は傘をさし、蓑笠姿も。梅雨の6月でもある。(松永耳庵旧蔵)
解禁直後の生き生きとした鵜飼の様子を子細に描きこむ。絵は美術作品としてはもとより、描き出された<時代の風景>が、そのまま歴史資料となる。当時の新聞は、報道挿絵に加え、風刺画、子どもや市井の日常の描写、連載小説、広告にも<挿絵>を多用し始めていた。<挿絵>で紙面の印象がパッと変わる。美術界も、この流行と連動していたのではないか。
覗きケースのガラス越しに、《二日遊関記》と《三溪先生東北遊影帖》の 2点。
三溪《二日遊関記》のキャプションには「哲学者の和辻哲郎と阿部次郎、善一郎(三溪の長男)、西郷健雄(三溪の長女の夫)の4名と箱根芦之湯にあった別荘・去来山房に泊まり、付近の名所旧跡を巡った折のスケッチをもとに制作された絵巻。各場面には説明も加えられている。」とある。見開き部分に、湯舟につかる男性2人の後ろ姿と、柱の近くに男性1人を描いている。
中村房次郎《三溪先生東北遊影帖》について、「この(写真)アルバムは、昭和5(1930)年に中村が東北への事業視察を兼ねて三溪とともに旅行をした後に作成されたもので、名所旧跡を訪ねたり、スケッチを行ったりと楽しい旅が記録されている。」とある。
「中村房次郎(1870~1944年)は、製糖、小麦の製粉事業、鉱業等に功績をのこした実業家。とくに1914年、岩手県に松尾鉱業を創立、その経営では福利厚生に尽力し、<日本のロバート・オウエン>と呼ばれた。…中村と三溪とは公私共に深い交流があり、大正4(1915)年大隈内閣によって設けられた経済調査会には、両者が横浜を代表して選ばれるほど傑出した経済人であった。また、昭和14(1939)年の三溪の葬儀では中村が葬儀委員長をつとめた。」
その斜め向かいに「原三溪支援の画家の作品」がある。軸装が牛田雞村《朝鮮風俗》、巻物は《荒井寛方三溪宛書簡(本願寺より)》の各1点。
「三溪園では、三溪が支援した作家の作品も蒐集・所蔵しています。ここではその中から、荒井寛方(かんぽう)と牛田雞村(けいそん)の作品を紹介します。雞村は、朝鮮への旅で描いたスケッチから、女性の服装や壺を頭上に載せて運ぶ姿に着目した作品を制作しました。一方の寛方は、滞在していた京都から三溪に宛てて送った手紙の中で、信者でにぎわう本願寺境内の様子を絵で伝えています。いずれも作家の眼をとおした旅の印象や関心が描かれています。」
寛方や雞村の作品も歴史資料となる。明治後半から大正時代の雰囲気が伝わってくる。吉川さんと一緒に展示室を回り、「画家たちも絵画が歴史資料としての側面を持つと意識していたのだろうか」と尋ねると、吉川さんが「共有していたはずです。寛方や雞村の絵から強く伝わってきます…」と応える。
一息入れてから、第2展示室「所蔵品展Ⅱ 四季のうつろい―春から初夏へ」へ。キャプションは、「三溪園の魅力の一つは、四季折々に移り変わる様々な表情を楽しめることにあります。季節はまもなく春から初夏。この展示室では、三溪園の所蔵品から四季の風情をお届けします。」
展示品は、下村観山《白藤》、牛田雞村《空木》、中島清之《「牡丹図》(臨春閣替襖)、《牡丹図衣桁》(三溪旧蔵品)の4点。
下村観山《白藤》
「下村観山(1873-1930)。和歌山に生れる。本名 晴三郎。能楽師の家に生れ、一家をあげて上京し、狩野芳崖、橋本雅邦に師事する。鑑画会でフェノロサに注目され、東京美術学校第1期生として入学、観山と号する。校長岡倉天心に認められ、卒業後助教授となるが、天心の退職に殉じて辞職、日本美術院創設に参加する。渡欧し英国の水彩画を研究、また名画の模写を行う。三溪の庇護を受け、三溪園内の松風閣に障壁画を描き、また招かれて本牧に新居を構える。のち横山大観と中心になって日本美術院を再興、以降在野作家を貫いた。三溪が最も高い評価を与え、敬愛した近代作家であった。」

牛田雞村《空木》
「空木(うつぎ)は茎が中空のため、この名がつけられたといわれるが、一般には卯の花で知られている。金地に純白の花をつけた姿と、周辺をアゲハチョウやモンシロチョウが飛ぶ様を描き、春から初夏へと移り変わる季節が感じられる華やかな作品である。細密な昆虫画に加え、装飾性のある表現からは、作家の後年の日本画家から舞台美術家への転向をも予感させる。」 (山口八十八コレクション)
《衣桁》
「衣桁は、着物を掛けておく実用の道具としてのほかに室内を装飾する調度としても用いられた。下部に金地に紅白の牡丹と岩、蝶の絵が施されたこの衣桁は、三溪の旧蔵品で、かつて園内の臨春閣内に置かれていた。」
中島清之《牡丹図》
「三溪園にある歴史的建造物の中で、三重塔と並ぶ代表的な建物が内苑の庭園の中心をなす臨春閣。江戸時代初期に紀州徳川家の別荘として造営されたという由緒を持つこの建物内部には狩野派を中心とする障壁画が付属するが、本作品はその替え襖として日本画家の中島清之により制作された。…中島清之は、日本美術院を中心に活躍した作家で、東京藝術大学では後進の指導にもあたった。次々と新しい様式を求め続けたその作風は、生涯型にとらわれることはなかった。 各面に咲きほこる牡丹を配した本図では琳派研究の成果が発揮され、典雅で装飾的である。」
展示を観つつ、吉川さんのキャプション等から想起したことがある。原三溪と中村房次郎の繋がりである。5年前に本ブログで取り上げた「20世紀初頭の横浜―(4)総選挙と二大新聞」(2016年1月16日掲載)等で両人について触れていた。
横浜は日本の新聞発祥の地であるが、「横浜毎日新聞」が東京へ拠を移した後、横浜では日刊紙の空白期がつづく。そこに1890(明治23)年、「横浜貿易新聞」(愛称は「貿易」)が東京で創刊され、同年5月に横浜へ移転、横浜を代表する新聞に成長する。神奈川新聞は、この「横浜貿易新聞」創刊に起源するとして、昨年(2020年)、創立130周年を祝った(同社ホームページ)。
ついで1902年、三溪の仲介で「横浜新報」(愛称は「新報」)が発刊される。これは「横浜毎夕新聞」(前年2月創刊)を継承した日刊紙で公称7万部。こうして横浜に二大新聞が生まれた(他に3紙あり)。
そこに1903(明治36)年3月の第8回総選挙があり、「貿易」と「新報」が相対する候補者を支持、政財界、新聞界を二分する紛争に発展する。このころから「貿易」にも「新報」にも挿絵が増える。新聞写真の前身である。進化した紙面を駆使して総選挙をめぐる「情報戦」が始まった。
三溪(1868~1939年)と房次郎(1870~1944年)はともに30代半ば、横浜開港<第3世代>と呼ばれ、1902年4月には「横浜貿易研究会」を設置して横浜産業界の将来展望を議論する間柄であった(本ブログ2016年4月26日掲載 「20世紀初頭の横浜-(5)横浜築港の新たな動き」)。その縁から「貿易」と「新報」の総選挙がらみの対立とシコリを憂慮、手をたずさえることで一致する。親交は、以来30余年にわたり、三溪の逝去する1939(昭和14年)までつづく。
ふたたび三溪記念館の第1展示室に戻ろう。中村房次郎《三溪先生東北遊影帖》を収めるケースのすぐ上の壁面に、三溪に関する常設の説明資料がある。三溪を①実業家、②奉仕家、③美の育成家、④美術家・数寄者の4つの側面から描き、最後に三溪園の歴史年表を付す。この②奉仕家に、房次郎の「横浜の恩人・原富太郎の人となり」(弔辞)を引用している。
「原さんという人は、どんな方面のことにも絶大な力をもっていられたが、表面に出ることを好まず、常にその力を内に蓄えられていた。しかし一朝何事かある時は、その内に蓄えられた真の力を縦横にふるわれたものである。」(「ただ痛惜に堪えず」 『蚕糸経済』誌 昭和14年9月)
三溪の絵とその広い交友関係を通じて吉川さんが伝えようとした三溪の人間像、その一端を知ることができた。
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