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横浜中華街160年の軌跡

 横浜ユーラシア文化館で企画展「横浜中華街160年の軌跡~この街がふるさとだから。」が始まった(7月4日(日曜)まで)。検温と手指消毒を済ませ、企画展会場の3階へ行く。最初のパネル「はじめに」の次の一文が目に留まる。

 「横浜は巨大な移民都市です。幕末から現在までの約160年の間に、小さな村から人口370万余を要する大都市に急成長しました。それは、国内外の様々な土地から人びとが移り住み、多様な文化を育んできた過程と言えます。この横浜の歴史的特徴が如実に現れているのが、横浜中華街ではないでしょうか。…」

 改めて整理すると、①<巨大な移民都市>、②<約160年間の急成長>、③<各地からの移住、多様な文化の醸成>と、都市横浜の3つの特性を掲げたうえで、「この横浜の歴史的特徴が如実に現れているのが横浜中華街」と結ぶ。今回の展示の趣旨の明快さに共感を覚えた。逆にたどると、横浜中華街を通して都市横浜の特性が分かるとも言える。

 本展示は次の3部構成である(展示図録より再掲)
 プロローグ 地図にみる横浜中華街
第1部 横浜中華街の軌跡
 1 誕生と発展の時代
 2 苦難の歳月
 3 飛躍の時代
第2部 暮らしを支える職業
 1 安楽園-中華料理店
 2 大徳堂-漢方薬局
 3 トムサン・テーラー-洋裁店
 4 華僑のピアノ製造
 5 中華街の日本人
第3部 ふるさと、横浜中華街に生きる
 エピローグ 変動の時代を迎えて コロナと闘う横浜中華街
 主な参考文献  関連年表

 横浜ユーラシア文化館所蔵と横浜開港資料館所蔵をふくむ、展示物のあふれんばかりの豊富さに驚く。どのような人が、どのような思いを込めて寄贈してくれたのか。

 図録の「編集後記」(筆者は副館長の伊藤泉美さん)には、横浜中華街の歴史に関する最初の企画展が横浜開港資料館企画展「横浜中華街~開港から震災まで」(1994年)であり、これを機に横浜華僑の有志から口述歴史記録調査を始めた、とある。

 そして以下3つの企画展がつづく。横浜歴史博物館企画展「製造元祖 横浜風琴洋琴ものがたり」(2004年)をきっかけに全国各地で周ピアノ、李ピアノが発見され、何台かの横浜里帰りが実現した。次が開港150年記念企画展「横浜中華街150年-落地生根の歳月」(2009年)、そして横浜ユーラシア文化館企画展「装いの横浜チャイナタウン-華僑女性の服飾史」(2019年)。そのたびに「横浜中華街の方々の自ら歴史に対する関心の高まりを感じた」と記す。

 約30年間にわたる計4回の企画展を通じて、横浜華僑の有志からの寄贈があり、その間に築いた信頼関係があってこそ、今回の5回目に当たる企画展も実現できたにちがいない。この継続的な努力を進めてきたのが横浜市の公的機関である横浜ユーラシア文化館や横浜開港資料館等であり、とりわけ伊藤泉美さんの果たした役割は大きい。

 伊藤さんは「編集後記」を次のように結ぶ。「…横浜中華街の方々のご理解・ご支援がなければ何度も企画展を行うことはかなわなかった。歴史資料の発掘と保存に心を砕いてくださった方々に、心より感謝申し上げる」と。

 展示物(モノ)が自ら歩いて来るわけではない。モノが集まるのはヒトとヒトとの信頼という絆がある故であり、「第3部 ふるさと、横浜中華街に生きる」には、このヒトとヒトの関係が描かれている。その導入部には、以下のようにある。

 「横浜中華街は、日本と中国の様々なルーツを持つ人びとが暮らす多様性に富んだ街です。またこの街をふるさととして愛する人びとが生活する場所でもあります。ここでは、現在の横浜中華街で生活を営む6人の、これまでの人生と中華街への思いを紹介します。人は時代の中で生きています。6人の人生にも、日本と中国、そして横浜の近現代の歴史が投影されています。」

 6人の方々へのインタビュー記事はとても味わい深く、かつ横浜中華街を理解するのに有益である。掲載順に、お名前と仕事、そして伊藤さんが付したタイトルを挙げる。それぞれに苦悩と奮闘の歴史を背負い、「横浜中華街160年の軌跡」を受け継ぎ形づくる人たちの物語を、ぜひともご一読ねがいたい。

 1 竹本理華さん (有)萬来行代表取締役社長 「中華人民共和国内蒙古自治区包頭市生まれ、横浜育ち。日中の心をあわせ持つ、ビジネス・ウーマン」

 2 曽徳深さん SAIKOH GROUP会長、横浜山手中華学園理事長、横濱華僑総会顧問、横濱関帝廟理事、横濱媽祖廟理事 「横浜生まれ横浜育ち、家族と中華街を背負って半世紀。」

 3 陳天璽さん 早稲田大学国際教養学部教授、NPО法人無国籍ネットワーク代表、国際政治経済学博士 「無国籍という逆境を学問で跳ね返した、横浜中華街生まれの研究者。」

 4 高橋伸昌さん (株)江戸清会長、横浜中華街発展会協同組合理事長 「コロナ禍の街を率いる、中華街に生まれ育った日本人実業家。」

 5 余凱さん (株)アート代表取締役社長、横浜中華街発展会協同組合副理事長、横濱華僑総会副会長 「新華僑と老華僑をつなぐ、多彩な実業家。」

 6 高橋治子さん 一石屋酒店のお母さん 「中華街で暮らしつづけて82年、酒屋に嫁いで半世紀。」

 「第1部 横浜中華街の軌跡」と第2部「暮らしを支える職業」を飛ばして、先に「第3部 ふるさと、横浜中華街に生きる」を観たのは正解だった。「展示品(モノ)が集まるのはヒトとヒトとの信頼関係がある故」と前に記したが、それが証明されていたと思う。

 モノにはヒトと違う魅力があり、ヒトが作ったものであってもモノ独自の物語がある。浮世絵・錦絵や古写真等は観て楽しいばかりか、様々な想像力をかきたてる。地図にも個性がある。

 会期は7月4日(日曜)まで。次は第2部から第1部へと、じっくり観ていきたい。
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人類最強の敵=新型コロナウィルス(36)

 3月22日(月曜)、緊急事態宣言の解除初日である。それに合わせるかのように、東京都心の桜(ソメイヨシノ)満開が発表された。平年より12日早く、統計を取り始めて(1953年)以降、2013年、去年と並んで2番目に早い。花見に浮かれ出す人が増えた模様である。

 同日晩9時の都心の人出は、前の週の月曜に比べて、2割ほど増えたことが分かった。空港も混雑し、年度末にかけて出張が増えつつある傾向と見られる。折から感染者の少ない県の知事が政府・自民党を訪れ、GoToトラベル事業の県域内の再開を要望した。感染防止と経済活性化との両立が新しい段階に入りつつある。

 25日(木曜)、オリンピック・パラリンピックの聖火リレーが福島県楢葉町にあるJスタジアムから出発した。1県に2日の日程を定め、栃木県、群馬県、長野県の順で引き継がれる。47都道府県859市区町村をめぐり、7月23日に東京の国立競技場の聖火台に点火の予定である。この聖火リレーに間に合わせるために、政府は緊急事態宣言を解除したとも言われる。

 26日発表の厚生労働省のデータによると、28都府県で直近1週間の新規感染者が前週よりも増加した。再び「感染爆発」が起きるのか。厚労省に助言する専門家組織「アドバイザリーボード」のメンバーで、日本感染症学会理事長の館田一博・東邦大教授は、次のように言う。

「東京都の第3波の新規感染者数のピークは2520人(1月7日)だった。新規感染者が1000人の日が続く状態を第4波の目安とし、「第4波を絶対に起こしてはならない。(第3波まで)経験したのに起こしたらマヌケだ。専門家としての役割果たしていないことになる。そのくらいの思いでいる…30日に432人の新規感染者が確認された大阪府は週内にも、<まん延防止等重点措置>(以下、<まん延防止策>とする)を政府に要請する。364人が確認された東京都も、1週間平均の1日の新規感染者数が700人前後になれば、まん延防止策が必要という意見が出てくる。東京の医療体制が保たれるギリギリのタイミングである。…新型コロナの死亡率約2%、重症化率約5%は世界で共通している。つまり母数の感染者数を抑えることが何より重要。感染者が増えれば死者も増える。そのため、病床を増やす以上に、感染抑止に傾注すべきだ。」

 「急所は飲食店。それを証明できたのが緊急事態宣言であった。…一方で、5%の店が時短要請に従わない状況下では、緊急事態宣言の効果に限界がある。今後は、まん延防止策によって、感染状況が悪化している地域を限定して週単位の時短要請を繰り返し、ワクチンが普及するまで、感染拡大を抑えるように提言する。
 緊急事態宣言で得た教訓として<迅速な判断>が重要。医療現場の逼迫は感染者の増加から2週間ほど遅れてくる。1、2回目の宣言は、逼迫するまで待って遅れた。今回は、早めに<まん延防止策>を出し、感染者数の山を小さくし、早く終わらせるべきだ。」

 <まん延防止等重点措置>とは、日本政府が新型コロナウイルス特別措置法の改正に伴う、 緊急事態宣言の次に社会・経済への影響をもたらす感染拡大を防ぐ措置の事を指す(詳しくは後述)。

 3月22日(月曜)の緊急事態宣言の解除以来、感染は収まるどころか、逆に急速に拡大している。とくに急速な拡大が見られ、5日(月曜)に<まん延防止等重点措置>の適用を受けた大阪府は、7日晩、対策本部会議を開き、独自の指標「大阪モデル」で赤信号を点灯させ、府として<医療非常事態宣言>を出した。重症患者用の「病床使用率」が66.5%に達し、7日にも70%を超える可能性があり、このままの状況が続けば医療崩壊につながるおそれがあると判断したためである。

 重症患者用の病床について、感染の急拡大で、現在確保している224床では不足するおそれがあるとして、府内の5つの大学病院に対し、合わせて30床程度を追加で病床を確保するよう緊急要請し、また重症患者を受け入れているそのほかの病院に対しても規模に応じて、合わせておよそ40床の確保を求めた。

 また府では、現在1766床を確保している軽症や中等症の患者の病床についても、今後、不足するおそれがあるとして、患者を受け入れている各病院に対し、合わせておよそ350床を確保するよう、緊急に要請する方針である。病床のひっ迫は、大阪府だけに留まらない。

【15ヵ月間の<コロナ関連記事全記録>】
 現状はどのような位置にあり、次の打つべき一手はなにか。それを考えるには、まず昨年1月から15カ月間の経緯をまとめる必要があろう。そう思っていた矢先、これまでも活用してきたNHK特設サイト「新型コロナウィルス」に<コロナ関連記事全記録>がアップされた。

 2020年1月の289本を皮切りに、翌2月の1638本と増え、以降、2020年4月の4442本を最高として多数の記事が掲載された。今月7日までの15カ月分を合わせると、計36685本になる。<コロナ関連記事全記録>とある通り、それらの全記事をチェックすることが可能となった。

 昨年「4月7日の初の“緊急事態宣言”から1年 新型コロナ感染状況の推移は」を開くと、「初めて緊急事態宣言が出てから7日で1年に当たり、2度の緊急事態宣言から現在の<まん延防止等重点措置>に至るまでの感染状況を振り返る」として、この間の15カ月にわたる新型コロナ感染状況の推移を整理している。その概要を次の5つの時期に区分して転載する。

(1) 国内初の感染確認からおよそ3か月後の去年2020年4月7日、政府は7都府県に初の緊急事態宣言を出した。このときのいわゆる第1波のピークは宣言が出てから4日後の4月11日で、1日に全国で700人余りの感染が発表され、その後は減少に転じ、20人前後まで少なくなり、5月25日にすべての地域での宣言が解除された。
(2) その後、再び感染が広がり、7月末には1日1000人を超え第2波が訪れ、8月にかけてのピーク時には1500人を超え、各地の自治体が営業時間の短縮などの自粛を要請したり、県独自の緊急事態宣言を出した。
(3) その後感染は減少するが、最初の緊急事態宣言が出された時期よりも高い水準にとどまり、9月から10月にかけて500人前後で推移、この状態でいわゆる第3波を迎え、今年1月には7000人を超え、1月7日、1都3県に2度目の緊急事態宣言が出された。
(4) 1都3県の緊急事態宣言が解除されたのは3月21日、この日は1000人を超えた。感染拡大とおさえ込みを繰り返しながら、以前に比べると高い状態で次の波を迎え、その結果、新たな波が以前の波より大きなものになってきたことがわかる。
(5) 現在も感染拡大の傾向にあり、先月末以降2000人を超える日が多くなり、変異ウイルスの感染も広がっている。5日には大阪、兵庫、宮城の3府県に「まん延防止等重点措置」が適用された。対策を徹底しなければ、今後懸念される第4波がさらに高い波となるおそれもあり、政府や各地の自治体は感染防止への協力を改めて呼びかけている。
 
 そして1年後の今年4月8日(木曜)、東京都は、今後、急速な感染拡大が懸念されるなどとして、政府に対して<まん延防止等重点措置>を適用するよう要請することを決めた。5日(月曜)の大阪、兵庫、宮城の3府県に次ぐもの。これを受けて政府は翌9日(金曜)、<まん延防止等重点措置>の適用対象に東京、京都、沖縄の3都府県を追加すると決めた。期間は12日(月曜)からで、京都と沖縄は5月5日(水曜 祝日)まで、東京は5月11日(火曜)までと設定した。

 <まん延防止等重点措置>とは、(1)地域の感染状況に応じて、期間・区域、業態を絞った措置を機動的に実施できる 仕組みですあり、(2)発生の動向等を踏まえた集中的な対策により、地域的に感染を抑え込み、都府県全域への感染拡大を防ぎ、更には全国的かつ急速なまん延を防ぐことを目的とする。その対策の具体的なポイントは、①午後8時までの営業時短、②命令違反なら20万円以下の過料、③時短協力金は大企業で1日最大20万円、④マスク未着用の入店拒否、⑤イベントの上限5000人、⑥飲食店の見回り実施である。今回は都道府県をまたがる不要不急の移動を自粛することが付加された。

 コロナ重症者を受け入れる病院の病床が足りなくなれば、軽症・中等者の受け入れをホテル等の施設に頼る必要が生じる。そうしたなか7日(水曜)のNHK特設サイトは「警察官用の宿舎 40億円で新型コロナ軽症者用に改修も使われず」で次のように伝えた。感染対策とオリパラの微妙なバランスを象徴するケースである。

 東京オリンピック・パラリンピックで警備にあたる警察官用の宿舎が、新型コロナウイルスの軽症者を受け入れるために40億円あまり費用をかけ、去年4月、4か所について改修工事を行い、相部屋だった部屋に仕切りを設けて個室にしたほか、看護師が常駐するスペースなども新たに設けたものの、一度も利用されないまま元の状態に戻されることが分かった。関係者によると、オリンピックが近づいていることから、国は改めて警察官の宿舎として使うため今月から部屋を元の状態に戻す工事を行うことにしている。

【<まん延防止等重点措置>の適用】
 12日(月曜)から東京・京都、沖縄の3都府県で<まん延防止等重点措置>の適用が始まると、地域の感染状況に応じて適用地域が異なるため、例えば東京都では23区と6市に適用したため、JR三鷹駅北口の武蔵野市(適用地域の飲食店は晩8時までの営業)と南口の三鷹市(非適用地域、晩9時まで営業可)の相違に戸惑いが生じ、また客の北口から南口への移動があったと報じられた。

 またこの日、ワクチンの医療従事者への接種に次いで、一部地域で高齢者へのワクチン接種が始まった。東京の八王子市では、医師会長さえワクチン接種がなされない中で、一部高齢者への接種が始まった。国が確保・配布するワクチン量が極端に少ないこと、ワクチンの確保・配布、接種する医師と会場確保が準備不足のまま、デジタル化の遅れも懸念される中、高齢者へのワクチン接種にしゃにむに突入した。自分が先にワクチンを接種すれば、安心して患者さんに接種できるとする医師会長の苦悩は他人ごとではなく、政治と制度の矛盾を突いている。

 同じ12日、東京など3都府県に「まん延防止等重点措置」が新たに適用されたことを受け、全国知事会は会合を開き、変異ウイルスの感染拡大を防ぐため都道府県をまたいだ移動の自粛の呼びかけなどを国に徹底するよう求める提言をまとめた。また国への要望として、①「変異株の対策のために、感染のしやすさや重症化の程度などの知見を、国が早急に明確に示してほしい」(西脇京都府知事)、②「第4波への対応を早急に行っていくが、肝心の財源が全く足りない。これまでも大きな損失を被っている観光関連産業は、さらに大きな打撃を受けるため、喫緊の対応を強くお願いしたい」(玉城沖縄県知事)等が示された。

 同じ12日夕、大阪府の吉村知事は、新型コロナウイルスの「まん延防止等重点措置」で感染の抑止効果が出ているか、来週見極めたうえで、効果が見られなければ、国に緊急事態宣言の発出を要請する考えを示し、緊急事態宣言に至った場合は一定の範囲で休業要請に踏み切る方針も明らかにした。また大阪市内の飲食店などがアクリル板の設置などの要請を守っているかをチェックする見回りの人数を、12日から300人に増員し、確認を徹底する考えを示した。

【変異株N501Y型の急拡大】
  同じ12日、大阪府の新規感染者が1099人となり、その9割がイギリス型の変異株であることが分かった。重症者病床の使用率も95%超(の213床)となった。その急拡大ぶりは驚異的で、この勢いで増加すると仮定すれば、東京都等、他の府県の2週間後が思いやられる。なおイギリス型変異ウィルス(N501Y型)と南アフリカ型・ブラジル型変異ウィルス(N501Y型とE484K型の混在型)の2種が確認されている。3月16日現在、399人が変異ウイルスに感染し、その内訳は、イギリス型が374人、ブラジルが17人、南アフリカが8人である。

 感染力が強い、変異した新型コロナウイルスの「N501Y」株は、関西ではすでに全体の80%を占めていて、東京など首都圏の1都3県でも5月初めには全体の80%以上が従来のウイルスから置き換わるとする推定の結果を、15日、国立感染症研究所がまとめた。感染の広がりやすさを示す「実効再生産数」が従来のウイルスより平均で1.32倍高く、旧来のウイルスから急速に置き換わっているとみられる。そのうえ「重症化スピードが速い」「基礎疾患のない40代や50代の患者が重症化する場合もある」等の報告も寄せられている。ワクチン接種が遅々としている現在、見通しはかなり悲観的である。

【全国へ感染拡大】
 新型コロナウィルスの緊急事態宣言が解除された(3月22日)ものの、感染拡大は止まらない。首都圏や大阪府等での拡大にとどまらず、北海道、宮城県、山形県、東京都、沖縄県等での急速な感染拡大が見られた。

 東京都では12日、1週間前の月曜日から57人増えて510人、2回目の緊急事態宣言の解除後の月曜日としては最多となった。また、前の週の同じ曜日を上回るのは12日連続で、増加が続いている。さらに、12日までの7日間平均は476.1人で、前の週の121.5%となった。都の担当者は「増加傾向が続いている。12日からまん延防止等重点措置も始まったので、人の流れの抑制や外出の自粛などを意識してほしい」と話している。

 同じ日、感染拡大傾向を背景として、愛知県、神奈川県、埼玉県、千葉県の4県知事が「まん延防止等重点措置」の適用を国に要請した。

 都道府県別の感染者数を実数で掲げても分かりにくいため、14日現在での直近1週間の人口10万人あたりの感染者数を上位から挙げておこう(小数点以下四捨五入)。大阪=74人、沖縄=56人、兵庫=41人、奈良40人、宮城=26人、東京=25人、和歌山=23人、京都=22人、徳島=19人、愛知=15人とつづき、47位の島根は1人である。

 15日(木曜)、東京の新規感染者が729人となった。3日前の510人から219人の急増ぶりである。埼玉県は188人、神奈川県は242人、千葉県は144人とそれぞれ緊急事態宣言の解除後で最多となった。愛知県も218人と2日連続で200人を超えた。

 菅首相は官邸で記者団に「16日に専門家の会議を開いて諮る」と述べた。<まん延防止等重点措置>を埼玉、神奈川、千葉、愛知に適用する調整に入った。対象は10都府県に広がる。16日にも県内の具体的な対象地域が決まる。期間は4月20日から5月11日までとなった。

 17日(土曜)、東京都の新規感染者が759人となり、2回目の緊急事態宣言が解除されて以降で最多、1週間前の土曜日と比べると189人増えた。前の週の同じ曜日を上回るのは17日連続であり、17日までの7日間平均は569.0人で、前の週の124.1%となった。

【原発の処理水を海洋放出すると決定】
 4月13日(火曜)、政府は東京電力福島第一原発の事故から生じた汚染水を処理した処理水(3月時点で1061基のタンクに貯蔵)、すなわちトリチウムを含む放射性物質を国の基準を下回るまで希釈した上で海洋放出を2年後から始めると決定した。漁業関係者から風評被害を危惧する声が挙がる。政府はこれに対して、しっかりと科学的に分析し、それを透明性のある形で公表することで風評被害を回避したいと応じた。この政府の措置に周辺国の中国と韓国は反発したが、アメリカや国際原子力機関(IAEA)は賛意を示した。

【大学の授業形態】
 14日(水曜)、大阪府の吉村洋文知事は、「学生の感染が増えている」として府内の大学に授業の原則オンライン化を要請する方針を表明した。これを受け、立命館大は15日、大阪などの4キャンパスで授業をオンライン中心に切り替える方針を明らかにした。大阪府立大も同日、実験などを除いて原則オンラインにするとした。大阪大もオンライン中心とすることを検討中としており、授業形式の見直しはさらに広がる可能性がある。

 2021年度は9割を対面とする予定だった近畿大も8日、オンラインの拡充に方針転換することを学生に示した。授業開始日の7日、一部の教室に学生が殺到したためだ。学生の出入りが最も多い「東大阪キャンパス」では18日まで全ての対面授業を臨時休講とし、オンラインと対面の判断基準の練り直しを急ぐ。対面中心を堅持するのは現状では京都大学と神戸大学である。
 東京都の小池知事は大学にオンライン授業拡大とともにPCR検査の実施を呼びかけたが、費用を支援する考えは示さなかった。文部科学省も「検査するかどうかは、それぞれの学校の判断だ」(萩生田光一文科相)としている。一方、イギリスでは政府が検査を義務付けて通学の再開を後押しした。大学での深い学びを保障するために必要な対策は何か、大学や国、自治体による検討が急がれる。



【東京オリンピックまであと100日】

 同じ14日、東京オリンピックの開幕(7月23日)まであと100日となった。史上最多の33競技339種目が行われる五輪本番に向け、新型コロナウイルスの影響で中断していた各競技の代表選考は本格化するものの、海外のメディアは開催そのものに否定的な見解が多い。12日付の米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)は、ワクチン接種が遅れるなかでの五輪開催は「最悪のタイミングだ」と断じ「開催を再考する時だ」と懸念を表明。12日付の英紙ガーディアン(電子版)は「ショーは続けなければならないのか?」と題した社説を掲載、五輪が開催されなければ選手たちの出場の機会を奪い、失望や経済的損失も大きいと前置きした上で「失われる可能性のある命がある」とし、感染拡大リスクを考慮すべきだと強調した。英BBCも「より感染力の強い変異ウイルスのまん延が第4波を引き起こす懸念がある」と警告。仏AFP通信は感染拡大の影響ですでにテストイベントや予選が中止・延期される事態になっており「混乱が生じている」とした。

 16日の【ロンドン時事】によれば、英医学誌BMJ(ブリティッシュ・メディカル・ジャーナル)は、今夏の東京五輪・パラリンピックについて、「今年の夏に開催する計画は緊急に再考されなければならない」と訴える論文を掲載した(公開は14日)。日本政府などの大会を安全に開催する能力を疑問視している。東京五輪をめぐっては、開幕まで100日を切ったが、国内外から大会に対する懸念の声が次々と上がる事態に発展している。
 同論文は「他のアジア太平洋の国々と異なり、日本は新型コロナウイルスを封じ込めていない」と指摘。その上で「限定的な検査能力とワクチン展開の遅れは、政治的指導力の欠如に起因している」と批判した。加えて、「国内観客数の上限はまだ決まっていないが、逼迫(ひっぱく)する医療体制と非効率な検査・追跡・隔離の仕組みは、大会を安全に開催し、大量動員によって起きる感染拡大を封じ込める日本の能力を大きく損なうだろう」と懸念を示した。論文の執筆者には国立病院機構三重病院の谷口清州氏、英キングス・カレッジ・ロンドンの渋谷健司氏、英エディンバラ大のデビ・スリダー氏らが名を連ねた。
 15日の毎日新聞によれば、自民党の二階俊博幹事長が15日、新型コロナウイルスの感染状況次第で東京オリンピック・パラリンピック(オリパラ)の開催中止が選択肢になるとの考えを示したことについて、海外の主要メディアも日本での報道を引用する形で相次いで速報した。新型コロナの世界的流行が収まらない中、日本でも患者数の増加が続いていることに触れつつ、先行きに対する懸念が強まっていることを示唆するトーンが目立っている。
 ロイター通信は「オリンピック中止は選択肢だと日本の与党幹部が発言」などと報道。二階氏による「これ以上とても無理だということだったら、これはもうスパッとやめなきゃいけない」との発言を、共同通信を引用して報じた。二階氏については「直接的な物言いで知られ、多くの与党議員が激論を招きかねない中止の可能性への言及を避ける中でコメントした」と伝えた。
 日本の新型コロナ感染状況に関しては、緊急事態宣言を解除した後に東京都で新たな陽性者数が増え、大阪府では過去最高になっていることを説明。「政府は五輪を実施する構えだが、世論調査によると開催への支持は弱く、ツイッターでも中止を求める声が多数出ている」と書いた。
 フランスのAFP通信や米ブルームバーグ通信なども、二階氏の発言を報道している。AFPは「日本国内で新型コロナの感染者急増に対する懸念が高まる最中のことだ」と伝え、大阪では聖火リレーが公道で中止になったことにも触れた。
 米ワシントンポスト電子版は東京発の記事を掲載した。日本について「(感染拡大の)第4波を抑え込もうと苦闘している」と指摘、とくに大阪と東京で伝染性の高い変異種の感染が広がっていることも伝えた。その上で、日本医師会の中川俊男会長が14日の記者会見で、再び緊急事態を宣言する必要性を訴えたことや「大阪は医療崩壊が始まっている」と述べたことにも言及した。
 二階氏の発言に関する報道は、中国やロシア、ドイツ、オーストラリア、南アジア、中東など世界各地のメディアが行っており、東京五輪・パラリンピックが予定通り開催されるのか、国際的な関心の高さが浮き彫りになった形である。

【米中対立とその影響】
 コロナ感染の世界的な拡大を踏まえ、国内問題にとどまらず、国際政治の動向、とくに世界のなかの日本の立ち位置に関して一定の見方を持つ必要がある。その筆頭に挙げられるのが米中対立とその影響についてである。この問題に関して24日(水曜)の日経新聞電子版で中沢克二編集委員が『習政権ウオッチ』の中で「習近平氏、6月訪米案は幻に 米中対立の戦線拡大」を発表、およそ次のように述べた。中沢氏は北京特派員、首相官邸キャップ、政治部次長、東日本大震災特別取材班総括デスク、2012年から中国総局長などを歴任。現在、編集委員兼論説委員。すこし長くなるが、その分析の要旨を紹介したい。

 19日(金曜)に米アラスカ州アンカレジで行われた米中外交トップ協議は、冒頭から人権・民主主義、安全保障を巡って1時間以上もつづき、対立ばかりに焦点が当たったが、本来、中国側が全力でめざしてきたのは、習近平と新任の米大統領、バイデンによる対面式の初会談であり、条件が折り合えば習氏が米国に出向く用意もあった。

 17日(水曜)の東京における日米2+2(外務・防衛閣僚会議)と18日(木曜)のソウルにおける米韓2+2(外務・防衛閣僚会議)に次ぐ米中外交トップ協議であり、中国側がアウェイのアメリカへ行ったのも、習氏には切迫した事情があったからだとする。すなわち3カ月余り先の7月1日、中国共産党創立100周年という一大イベントを控えており、晴れ舞台に立つ前提として、最も大切な2国間関係である米国の大統領と腹を割って話もできないようでは、中国トップとして面目が立たず、威信にも傷が付きかねない。
中国の内政的にはバイデンと会うなら7月の100周年祝賀行事より前でなくては意味がなかった。とはいえ無理は禁物だ。米国で新型コロナウイルスのワクチン接種が進み、感染者も大幅に減るのを待つ必要がある。そう考えると4月、5月は難しく、「6月ごろがもっともよい」(関係筋)というのが中国側の腹の内だった。

 これに関連して23日午前、北京で「重大発表」があった。世界的に注目されてきた共産党100年祝賀行事での軍事パレードについて、中央軍事委員会政治工作部幹部が記者会見で実施しないと明言した。かなり前に党指導部が内々で合意していた「今夏は軍事パレードをしない」という決断は本来、対米関係の改善に向けた大きなサインにもなるはずだった。
世界でコロナ禍が収まらない中、これみよがしに大規模な軍事パレードに踏み切れば、中国の国際的なイメージ悪化は避けられない。一部で取り沙汰されていた22年北京冬季五輪のボイコット論にも勢いがつきかねない。早期の習氏訪米を視野に入れていた以上、そうしたリスクはとれなかった。目的達成のためバイデン氏の大統領当選以来、中国は全力を挙げてきた。共産党政治局委員の楊潔篪氏や国務委員兼外相の王毅氏ら外交当局者ばかりではなく、米側とパイプを持つあらゆる人脈が動いた。

 習氏には一定の成功体験がある。トップに就いて初めてとなる2013年6月の訪米では当時、大統領だったオバマ氏に米中両国が協力して世界をリードする「新型大国関係」を大々的に提起した。最終的に米側は受け入れを拒んだが、動きがとまっていた隙を突く形で中国が南シナ海の環礁埋め立てなど地歩を固めてゆく。17年1月にトランプ氏が米大統領に就いた際は、2カ月半後という早いタイミングで習氏が訪米できた。

 今回は逆に米側の動きが迅速だった。バイデン政権は日米豪印による初の首脳会議(テレビ方式)を開き、米側が出向く形で日本、韓国と外務・防衛担当閣僚協議も開催、同盟のスクラムを固めたうえで中国に対処した。オバマ政権の副大統領だったバイデン氏には、2013年の習氏訪米以来の中国への対処に甘さがあったという反省がある。

 同盟のスクラムは欧州にも及んでいる。中国の少数民族ウイグル族への不当な人権侵害問題ではついに欧州連合(EU)も動いた。EUへの渡航禁止、資産凍結など中国政府高官に対する制裁である。人権侵害での対中制裁は1989年の天安門事件以来である。EUを離脱した英国、さらにカナダもウイグル問題で対中制裁に踏み切った。

 一方、中国も負けていない。友好国との関係強化で米中心の同盟に対抗する構えである。22日には習氏と北朝鮮の金正恩総書記が口頭メッセージを交換、両国関係の一段の発展を確認した。ロシア外相のラブロフは22、23日両日に訪中、広西チワン族自治区の桂林で王毅外相と会談。自国通貨による国際決済の促進で、米国による制裁リスクに対抗する考えで一致した。ここ数日をみても米主導の西側民主主義陣営と、中国にロシアが加勢する陣営の戦線は拡大している。
中国側からみた対米関係の現状はトランプ時代より厳しい面がある。経済・貿易面の対中制裁に人権、安全保障面での圧力も加わった。中国は主権が絡む問題で譲歩はありえないとしている。なによりバイデン政権と外交面の新たな枠組みをつくるメドが立たないのは痛い。中国は対外関係でもまず「新型大国関係」「新型国際関係」「人類運命共同体」といったスローガンを打ち出し、自ら設定した土俵に引き入れることで主導権を確保する戦術で来たが、今回はこれが通用しない。逆にバイデン政権は、容赦ない競争を意味する「戦略的競争」というキーワードをいち早く中国にぶつけることで先手を取った。

 中国側の戸惑いは、公式報道からも確認できる。アラスカ米中協議が終わった中国時間20日夜、国営中央テレビが放送した夜のメインニュースでは米中協議を全く扱わなかった。世界中がトップで報じた大ニュースなのに、当事者である中国の報道は奇異である。同じく20、21日付の共産党機関紙、人民日報も1面では米中協議を無視し、3面で控えめに扱い、この段階では公式論評も出ていない。これは中国の思惑通りに進まなかったことを象徴している。今後の対米関係コントロールは当面、接触、対話の継続に重点が置かれる。一方、中国のネット上では、アラスカで楊氏がいかに勇敢に米側とわたりあったか、というニュースであふれている。ミニブログ上にも「米国には上から中国にものをいう資格はない」という楊氏の言葉をプリントした真っ赤なTシャツがつくられた、といった記事が並ぶ。

 今後の米中対話はどうなるのか。まずはバイデン氏が主催する4月下旬の気候変動問題に関する首脳会議が一つの注目点である。中国側の発表によると、気候変動問題を巡って米中は作業部会の設置で合意したという。これに合わせたテレビ方式の首脳対話は本来、習氏の早期訪米の前座になる可能性もあった。だがEUやロシアまで巻き込んで米中両陣営が張り合う今の雰囲気では、短期間に妥協点を見いだすのは難しい。中国側によるかなりの譲歩がない限り6月訪米案は幻に終わる。ポストコロナ時代を見据えた世界の秩序づくりはますます混沌としてきた。

 以上、長く再録してきたが、これが日経新聞電子版の中沢克二編集委員『習政権ウオッチ』の中の「習近平氏、6月訪米案は幻に 米中対立の戦線拡大」の概要である。

 一方、中国の王毅外相による精力的な外交は見逃せない。早くも1月16日、6日間にわたるミャンマー、インドネシア、ブルネイ、フィリピン歴訪を終え、新型コロナウイルス感染症が始まって以来となるASEAN10ヶ国全てとの二国間往来を実現した。王毅外相は無償提供や開発・調達の推進加速など、ワクチン協力強化の意向を各訪問国で表明した。

 3月19日、米アラスカ州アンカレジで行われた米中外交トップ協議が終わると、中国の王毅外相(正式には国務委員兼外交部長)は3月24~30日に中東6カ国を訪問し、連携強化に向けて各国要人と会談を行い、いわゆる<パートナーシップ外交>の再構築を展開している。

 最初の訪問国サウジアラビア(24日)では、王外相はムハンマド・ビン・サルマン皇太子らと会談。2国間の協力関係発展を確認するとともに、地域の安全と安定性を高めるため、石油施設への攻撃やイエメン危機に対するサウジアラビアの措置を支持するとした〔25日付サウジアラビア国営通信(SPA)〕。中国外交部によると、王外相は新疆ウイグル自治区や香港、台湾の問題に対するサウジ側の中国支持に謝意を述べ、貿易や投資、インフラなどの伝統的分野に加えて、再生可能エネルギーや第5世代移動通信システム(5G)、人工知能(AI)などのハイテク分野でも協力すると述べた(25日付中国外交部ウェブサイト)。

 次の訪問国トルコ(25日)では、エルドアン大統領らと会談し、トルコが中国シノバック製の新型コロナウイルスワクチンの接種を進めていることから、ワクチンの追加提供など新型コロナウイルス対策の協力をさらに深めるとした。また、中国の「一帯一路」構想とトルコの中回廊プロジェクト(トルコ政府が「現代のシルクロード」とも呼ぶ東西道路を結ぶプロジェクト)との相乗効果や、ハイテク分野での協力可能性なども協議した(26日付中国外交部ウェブサイト)。チャウシュオール外相とは、新疆ウイグル自治区問題に対するトルコの見解についても意見交換を行ったとされる。トルコは、新疆ウイグル自治区からの亡命者らを含め、民族的に近いウイグル族を受け入れており、王外相の来訪に合わせて一部が抗議デモを行った。

 イラン(26~27日)では、イランと25カ年に及ぶ長期の包括的協定の締結で注目を集めた。これは米国主導の中国包囲網形成を打ち破る大きな<穴>となる可能性がある。トランプ前大統領以来、イランの核開発抑止のため各種の規制措置を講じてきたが、その隙間にすかさず中国が楔を打ち込んだ形となる。アラブ首長国連邦(UAE、27~28日)では、UAE国内でのシノファーム製ワクチンの製造協力で合意した。

 湾岸協力会議(GCC)加盟国では、29日、オマーンとバーレーンを訪問。オマーンでは詳細は非公表ながら、2020~2024年にメディアや衛生、文化面での協力プログラムの実施に署名したとの現地報道があった。バーレーンでは経済・貿易・投資分野での協力や、両国間での「文化センター」設立に合意するとともに、バーレーン側からはUAEとのワクチン製造に貢献したいとの提案があったと報じられた。

【菅首相の訪米】
 いよいよ15日(木曜)から18日(日曜)に菅首相が訪米し、バイデン大統領と会談を行った。この間、首相が務める新型コロナ対策本部長は、副本部長の加藤勝信官房長官が代行する。この時期の菅首相の訪米をどう位置づけるか。

 中山俊宏教授(慶應義塾大学総合政策学部)は、いみじくも言う。「ほんの数週間前まで、日本ではバイデン外交に対する不安で溢れかえっていた。バイデン政権が発足すれば、アメリカは中国に甘くなるのではないか、気候変動などのグローバルな争点に関して合意に達することを優先し、中国の覇権的な行動に対する牽制が後退するのではないか。…日本は、他の先進諸国と比して、「トランプ政権も案外悪くはない(特にバイデン政権と比較した場合には)」という雰囲気が強かったが、これはトランプ政権の対中政策が、粗暴なものであっても、状況に応じて中国と敵対することを躊躇なく受け入れたものであったからだ。…日本は、自分たちがアメリカよりも中国に関しタフであるという状況は必ずしも居心地が良くない。むしろ、アメリカが日本よりも対中姿勢が厳しいくらいがちょうどいい。トランプ時代はまさにそうした状況だった。」

 16日午前の【ワシントン共同】は、(急ぎ2回のワクチン接種を終え)菅首相一行は米東部時間15日夜(日本時間16日午前)、ワシントン郊外のアンドルーズ空軍基地に政府専用機で到着した。バイデン米大統領と16日午後(同17日未明)、初めて対面で会談する、と伝えた。米国との対立が鮮明になっている中国への対応を協議。新型コロナウイルス対策や気候変動問題での協力を申し合わせる。北朝鮮の核・ミサイル開発問題でも緊密連携を図る。会談後、共同記者会見に臨み、共同文書の発表も予定している。またバイデン政権高官は15日、電話記者会見し、台湾海峡の問題に関し「中国や台湾海峡について深く話す」と指摘。共同文書に明記したい意向を示した。

 16日午後(日本時間17日午前)、菅首相とバイデン大統領はホワイトハウスで初めて会談、最初の20分は通訳のみを入れたトップだけの会談を行い、後の2時間におよぶ首脳会談には双方から各7名が参加、米側は主要閣僚(ブリンケン国務長官、オースティン国防長官、イエレン財務長官ら)が揃ったのに対して、日本側には閣僚の随行者はおらず、坂井学官房副長官、阿達雅志首相補佐官、北村滋国家安全保障局長らのみである。

 日米同盟の結束を示す共同声明「新たな時代における日米グローバル・パートナーシップ」をまとめあげた。中国が軍事的圧力を強める台湾海峡について「平和と安定の重要性を強調する」と明記し、「両岸問題の平和的解決を促す」との文言も入れた長文である。なお「台湾海峡」を明記するのは日中国交正常化(1972年9月、日中共同声明を発表し、日本国と中華人民共和国が国交を結んだこと)前の1969年、佐藤栄作首相=ニクソン米大統領会談が行われて以来、52年ぶりとなる。

 17日夕(日本時間)発表の共同声明は、冒頭で次のように述べる。「海が日米両国を隔てているが、自由、民主主義、人権、法の支配、国際法、多国間主義、自由で公正な経済秩序を含む普遍的価値及び共通の原則に対するコミットメントが両国を結び付けている。我々は共に、自由民主主義国家が協働すれば、自由で開かれたルールに基づく国際秩序への挑戦に対抗しつつ、新型コロナウイルス感染症及び気候変動によるグローバルな脅威に対処できることを証明することを誓う。この日米両国の友情の新たな時代を通じて、両国の民主主義はそれぞれより強く成長するだろう。」

 つづけて「日米両国の長年にわたる緊密な絆を祝福し、菅総理とバイデン大統領は、消え去ることのない日米同盟、普遍的価値及び共通の原則に基づく地域及びグローバルな秩序に対するルールに基づくアプローチ、さらには、これらの目標を共有する全ての人々との協力に改めてコミットする。日米両国は、新たな時代のためのこれらのコミットメントを誓う。」とする。

 そのうえで、(1)「自由で開かれたインド太平洋を形作る日米同盟」、(2)「新たな時代における同盟」と各論を展開し、<民主主義>と<専制主義>を対置する。そして最後に「今後に向けて」で次のように述べる。

「世界的な悲しみと困難の1年を経て、両国のパートナーシップが持続可能なグローバル経済の回復を支えるものであること、そして、ルールに基づく国際秩序の自由及び開放性に対する挑戦にもかかわらず、そのような国際秩序を主導するため、日米両国が世界中の志を同じくするパートナーと協力することを確実にする。人的つながりが日米両国の友情の基盤となっており、マンスフィールド研修計画といったイニシアティブを通じ、日米両国は、将来にわたって日米同盟を支える二つの社会の間の架け橋を築き続ける。バイデン大統領は、今夏、安全・安心なオリンピック・パラリンピック競技大会を開催するための菅総理の努力を支持する。両首脳は、東京大会に向けて練習に励み、オリンピック精神を最も良く受け継ぐ形で競技に参加する日米両国の選手達を誇りに思う旨表明した。日米両政府は、自由で開かれたインド太平洋の実現に向けた我々の政策を調整・実施するためのものを含め、あらゆるレベルで意思疎通することを継続する。何よりも、日米両国は、両国のパートナーシップが今後何十年にもわたり、両国の国民の安全と繁栄を可能にすることを認識し、確固たる同盟という考え方そのものへの投資を新たにする。」

 これに対して中国は「1つの中国論」の原則を挙げて台湾問題は中国の内政問題であり、内政干渉として強く反発、これこそ現状変更を意図する邪悪な試みだと反論する。ただし、これは在米中国大使館報道官と在日中国大使館報道官によるコメントであり、中国外務省報道官の主導によるものとの報道がなされた。

 米中の評価の合間で、このいささか理想主義的なトーンで述べられる共同声明の内容が、アメリカ国内でトランプ支持派を含めてどれほどの支持を得られるか。一方、普通選挙による最高指導者の選出という経験をいっさい持たない中国で、政府の反発が民衆のなかにどれほど浸透するか、この点も注視していきたい。いずれにせよ、今回の共同声明がすぐに米中の軍事的対立の激化に結びつきそうもないことをまずは歓迎したい。
 政治的なボールの投げ合いとなれば、習近平政権がこの8年にわたり築いてきたアメリカとの「新型大国関係」の構築と、そのうえに築かれる<一帯一路>という世界戦略(2014年11月10日、中国北京市で開催されたアジア太平洋経済協力APEC首脳会議で習総書記が提唱)は徐々に後退を余儀なくされそうである。

 代わりにバイデン政権が先手を打った<戦略的競争>という政策が優位に立つのではないか。この面で菅首相は、バイデン政権の用意した戦略に飲み込まれたのか、あるいは積極的・能動的に賛同したかは別として、旧来とは異なる対中政策を真剣に進める役割を担うこととなる。

 18日(日曜)、新型コロナの感染者は増えつづけ、止まるところを知らない。大阪府では1220人と過去最多を記録、6日連続の1000人超、東京都も543人と5日連続の500人超、神奈川も220人で、5日連続の200人超となった。またワクチン優先接種の対象になっている医療従事者などのうち、2回の接種を終えたのはおよそ68万人と、わずか14%にとどまっている。ワシントン滞在中に菅首相はファイザー社のCEOと電話会談を行い、ワクチン供給の早期化と増量を要請、これを受けて河野大臣が9月中には十分のワクチンを得られるとの見通しを述べた。18日午後、菅首相は訪米の旅からトンボ返りした。

 同じ18日、米中両政府は、気候変動問題を担当するケリー米大統領特使と中国側の担当特使である解振華氏(韓正副首相の下)が15、16日に上海で気候変動問題に関する会談を行っていたが、その会談を終えて共同声明を発表した。地球温暖化対策の国際枠組み「パリ協定」の履行に向け、他国を交えて協力することで一致。米国が22、23日にオンラインで主催する気候変動サミット(首脳会議)に日本や中国など世界各国・地域の首脳40人を招待しており、それへの期待も表明、共同声明に「両国はサミットを楽しみにしている」「世界で気候に関する取り組みを高める目標を共有する」と明記した。ケリー特使はバイデン政権の閣僚級(気候変動問題担当)で初めての訪中であり、一方の韓正副首相は序列ナンバー7と言われる(なおアラスカでの米中対談に出た楊潔篪氏は序列25位以内と言われる)。こうしたことから見て、米中両国は人権や安全保障をめぐり対立が深まる中、気候変動では連携する姿勢を示したことが分かる。


 この間、以下の録画を視聴することができた。(1)BS1スペシャル「映像記録 東日本大震災 1年の苦闘」3月23日。 (2)BS1スペシャル「映像記録 東日本大震災 発災から3日間」23日。 (3)BS1週刊ワールドニュース「新型コロナに揺れる世界(3月22日26日」27日。 (4)NHKクローズアップ現代+「変異ウィルス拡大 感染力は? ワクチンは効くのか? 最新知見」30日。 (5)BS世界のドキュメンタリー選「さまよえるWHО-米中対立激化の裏側」31日。 (6)BS1スペシャル「クライメート・ジャスティス “パリ気候旋風“の舞台裏」4月2日。 (7)BS1「週刊ワールドニュース(3月29日~4月2日)」3日。 (8)NHK「偉人たちの大臨終スペシャル~人生のしまい方~」3日。 (9)BS1スペシャル「コロナ 医療現場の叫び~北海道 救急病院の1ヵ月~」4日。 (10)NHK「こころの時代~宗教・人生 独房で見つめた”自由“ ミャンマーの民主化運動~医師・作家 マ・ティーダ」(初回放送は2018年1月28日)4日。 (11)Eテレ 先人たちの底力 知恵泉「兼好法師 ひとりを愉しむ 自分の居場所を作る」6日。 (12)BS世界のドキュメンタリー選「中国デジタル統治の内側へ潜入 新疆ウイグル自治区」7日。 (13)Eテレ ズームバック×オチアイ「大回復 グレートリカバリー(2)<会社論>」9日。 (14)BS1「週間ワールドニュース(4月5日~9日)」10日。 (15)ETⅤ特集「パンデミック 揺れる民主主義 ジェニファーは議事堂へ向かった」10日。 (16)BS4 NNNドキュメント「東日本大震災10年 いま伝えたいこと」10日。 (17)BS1スペシャル「”自由の声“が消えゆく世界で~アラブの春から10年 夢の先に~」11日。 (18)BS6 TBS にっぽん歴史鑑定「古代史ミステリー~遣隋使と遣唐使~」12日。 (19)Eテレ 先人たちの底力 知恵泉「鴨長明 ひとりを愉しむ~不条理な世を生きる」13日。 (20)NHK総合 歴史探偵「関ケ原の戦い」14日。 (21)Eテレ ズームバック×オチアイ「大回復 グレートリカバリー(3)「環境論」16日。 (23)NHKドキュメント1DAY「緊急事態宣言下 横浜」17日。 (24)NHKスペシャル「看護師たちの限界線~密着 新型コロナ集中治療室~」17日。 (25)BS1「週刊ワールドニュース(12日~16日)17日。 (26)BS1スペシャル シリーズ2030 未来への分岐点「暴走する温暖化」18日。

六角紫水の古社寺調査

 2017年12月22日、畏友・村松伸さん(東京大学生産技術研究所教授)の忘年会の場で初めて六角美瑠(ろっかく みる)さんとお会いした。村松さんとの交友関係はかなり古いが、それを含めて最新の記事は本ブログの「古建築のマド」(2017年11月6日掲載)を参照されたい。忘年会でお会いした後、『六角紫水の古社寺調査日記』の話になり、それらの書籍を郵送していただいた。そのことを記そうと思いつつ、時が過ぎてしまった。

 六角美瑠さんは建築家として活躍、また村松研究室で特任助教もつとめる。苗字から推測できるように、六角紫水の曾孫である。忘年会の立ち話で知りえたことが気になり、その年の暮れも押し迫った26日から明けて正月にかけ何度かのメール交換にお付き合いいただき、次の3冊も頂戴した。①『六角紫水の古社寺調査日記』(吉田千鶴子・大西純子編、東京藝術大学出版会 平成21=2009年)、 ②村野夏生『漆の精 六角紫水伝』(構想社 1994年)、 ③『国宝を創った男 六角紫水展』(広島県立美術館 平成20=2008年)。これに対して私からは拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)の1冊を謹呈したのみで、明らかに不等価交換である。

 六角紫水(ろっかく しすい、1867年4月24日(慶応3年3月20日) - 1950年(昭和25年)4月15日)は広島県出身、東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)の第一期生(1889=明治22年入学)で、漆工芸の第一人者として活躍。中尊寺金色堂や厳島神社社殿の修復、古社寺文化財の調査、白漆の発明等、日本の漆工芸界の先駆者である。以下、歴史上の人物として敬称は略す。

 頂戴した3冊のうち②と③にはすぐ目を通したが、①は重厚な一次資料で、なまじの覚悟では読み切れない。折に触れて拾い読みはしてきたが、私の関心事のなかでどう位置付けられるか曖昧なままで来た。

 大政奉還後に成立した明治新政府によって慶応4年3月13日(1868年4月5日)に発せられた太政官布告[5](通称「神仏分離令」「神仏判然令」)が、各地で<廃仏毀釈>の運動に転化し、多くの古社寺が破壊され、あるいは管理者不在となり荒れ果てた。

 こうした状況下の明治30(1897)年、岡倉天心等の尽力により、<古社寺保存法>が制定された。我が国初の文化財保護法である。明治4年5月23日太政官布告第251号の<古器旧物保存方 >(こききゅうぶつほぞんかた)を引き継いで制定され、1929年(昭和4年)7月1日の<旧国宝保存法>施行に伴い廃止されるまでの32年間、明治後半から大正を経て昭和初年まで生きた旧法律である。

 この法律に基づき、廃仏毀釈で荒れ放題の古寺社の実態をもらさず調査、その中から芸術的価値の高い作品を<国宝>に指定していかなければならない。リストそのものが存在しないなかでの調査は、大変な労力と人材(鑑識眼をもつ人材)を必要とした。

 まず率先して調査に当たったのが、東京美術学校(現在の東京芸術大学美術学部)校長(1890~1898年)に就任する直前の岡倉天心である。「奈良古社寺調査手録」(明治19(1886)年)、「古画巡覧日程」(同年)、「近畿宝物調査手録」(明治21(1888)年)、「古社寺調査メモ」(同年)等は、『岡倉天心全集』第8巻(昭和56年、平凡社)に収録されている。

 それから十数年後の明治35(1902)年と明治36(1903)年、天心門下の優秀な学生たちが調査に尽力した。その一人が六角紫水であり、彼と同行した關保之助、大村西崖、新納忠之介、木村武山ら同窓生や、中川忠順、片野四郎らの後輩たちである。紫水自身の記録を吉田千鶴子さんと大西純子さんが活字化し、単行本としたのが『六角紫水の古社寺調査日記』(東京藝術大学出版会、2009年)である。

 一方、天心は1898年、排斥されて東京美術学校校長を辞職。同時に連帯辞職した横山大観、下村観山、六角紫水らを連れ、日本美術院を創設する。

 まずは本書『六角紫水の古社寺調査日記』の構成から見ておきたい。目次、「刊行にあたって」(六角鬼丈)、凡例、解説、年譜を除いて、以下の7編からなる。なお(1)等の番号は引用者の私が仮に付し、年号の漢数字は算用数字に直した。
(1) 明治35(1902)年4月27日より 京都府下古社寺巡礼記 第一 紫水
(2) 明治35年5月 京都府奈良県古社寺巡回記 第二 紫水
(3) 明治35年8月 岩手山形宮城福島栃木巡回日記 紫水
(4) 明治36(1903)年5月 鳥取島根山口等巡回日記 紫水
(5) 明治36年6月調査録 滋賀県古社寺
(6) 明治36年9月4日ヨリ 千葉茨城古社寺巡礼記
(7) 参考資料 紫水の古社寺調査回想記
ほかに解説(吉田千鶴子)と「六角紫水年譜」を付し、計332ページ。

 ここまでの草稿を書いたのが2020年10月15日であった。そこで中断し、以来、半年が経ってしまった。美瑠さんとお会いしてから3年と4ヵ月になる。遅れた理由を言い訳がましく挙げると、ブログ「人類最強の敵=新型コロナウィルス」の連載が週1回更新のハイペースで来たことである。それを(34)回から2週に1回とし、(35)からは1月に1回と間隔を拡げることで、気持ちと時間に少し余裕を作り、急ぎこの<中間報告>をしたためるに至った。

 まず3年4ヵ月前の美瑠さんとのメール交換文の3通と、その1年後の1通を抄録したい。同時に岡倉天心(1863年2月生まれ)を軸に、直系の弟子の六角紫水(1867年4月生まれ)と、師弟関係にはないものの天心を敬愛していた原三溪(青木富太郎、1868年10月生まれ)は年齢がほぼ同じであるため、三溪の行動(とくに京都・鎌倉等からの古建築移築を通した文化財保護)が、どこかで結びついていたのではないかとする<仮説>の一端を示すことができれば嬉しい。

六角美瑠さん
 去る(2017年)12月22日の村松研忘年会において、たいへん興味深いお話を伺いました。そのつづきです。ブログを書いています。下記からアクセスできます。
 http://katoyuzo.blog.fc2.com/
 中央が本文で、左欄が履歴(個人、掲載等)、右欄がカテゴリ、リンク等です。
 このカテゴリの1つに<三溪園>があり、この間、何点か書いてきました。
また<歴史研究>のなかの「20世紀初頭の横浜ー(7)岡倉天心『日本の覚醒』」が2016年9月20日号に載っています。2016年11月8日掲載の「岡倉天心市民研究会」です。
 村松さんとの出会いについては、2015年12月6日号の「『東アジアの都市と建築』から30年」等で触れています。お暇な折にご笑覧ください。
 原三溪と岡倉天心についてもカテゴリ<三溪園>のどこかで触れた記憶があります。…思うままに書いてきたものが、どこかで結びつき、さらに拡がるような気配がします。お手持ちの史料類(データ化されたもの)の幾つかをご教示いただければ幸いです。
 また手許に拙著『幕末外交と開国』(講談社学術文庫 2012年)があります。関心をお持ちか否か分からず、押し付けも考え物ですが、関心がおありなら喜んでお送りいたします。
加藤祐三
 加藤注:原三溪と岡倉天心について本ブログに載せたものは、①「三溪と天心(その1)」(2019年6月25日掲載)、②「三溪と天心(その2)」(2019年7月5日掲載)、③「三溪と天心(その3)」(2019年7月18日掲載)の3編に過ぎず、こちらも中断したままである。こうしたなか、「新年の書画(所蔵品展)」(2021年1月25日掲載)の展示品の一つ、岡倉天心「填詞」を観て吃驚した。填詞とは「中国の韻文の一体で、長短の句により構成される歌曲」である(広辞苑)。三溪園の北泉剛史学芸員の解説には「この詩の末尾に「菜の葉塡詞 己亥冬夜 渾沌子酔書」とあり、天心(渾沌子は号)が酔って気分が良いときに、女性の美しさを蝶にたとえて詠んだものと思われます」とある。
 私がとくに注目したのは書かれた時期及び天心の書が三溪園の所蔵品となっていることである。これが書かれた己亥冬夜は明治32(1899)年冬夜と、かなり時期が早い。養祖父・原善三郎(はら ぜんざぶろう 文政10年4月28日(1827年5月23日) - 明治32年(1899年)2月6日)の逝去とほぼ同時で、この直後に三溪は天心を通じて善三郎の胸像制作を依頼している。この填詞が書かれたのは善三郎逝去の直前であり、肝胆相照らし語り合った場で天心が書いたものを三溪が貰い受け、表装したと私は見る。この解釈が素直な気がしてならない。…

 すぐに次のお返事をいただいた。
六角美瑠です。メールをありがとうございます。
村松研忘年会の折に、加藤先生から三渓さんと岡倉天心の繋がりや色々お話しを伺えて、見えなかった繋がりや想像が広がり、大変興味が湧きました。
ブログもご案内ありがとうございます。ゆっくり拝読させていただきます。
「岡倉天心市民研究会」という研究会があるのですね、大変興味深いです。
『幕末外交と開国』ぜひ読ませて頂きたくお願い致します。
私からも曽祖父 紫水に関わる書物をいくつか送らせて頂きたいと思います。
紫水は、大観や春草のように分かりやすい作家ではないため、なかなか知られていませんが、当時様々なユニークな活動をしていたようです。
加藤先生のような方にお伝えできれば、私では繋げられない当時の時代背景、文化文脈や人の関係など多角的に読みとって頂けることと思います。…
六角美瑠

 年が明けて(2018年)1月5日、お礼のメールを打った。
六角美瑠さん
本日、村野夏生『漆の精 六角紫水伝』(構想社 1994年)、『国宝を創った男 六角紫水展』(広島県立美術館 平成20年)、『六角紫水の古社寺調査日記』(吉田千鶴子・大西純子編、東京藝術大学出版会 平成21年)の3冊を拝受しました。
ありがとうございます。
ノーベル文学賞受賞のカズオ・イシグロの訳者・小野寺健さん(横浜市立大学で一緒、昭和6年生まれ)が元日に逝去との訃報が入り、また村野夏生さんの本を拾い読みしていると、『日本文化史』の著者、辻善之助さんが出てきますが、次男の達也さんとも横浜市立大学で一緒、昭和元年生まれでなお矍鑠、紫水さんは83歳で逝去された…妙な連想が拡がり…(81歳となった)私も少し急がないと、と焦る気持ちも湧いてきます。
原三溪も1歳年長の紫水と、どこかで会っていたはずと思いますが、まだ糸が結べていません。明治35年の京都府下古社寺巡礼記の同じ年に、三溪は三溪園内に自宅を建てて野毛山から引っ越してきます。これが正門をくぐり右手の小高いところに立つ茅葺の建物、現在は「鶴翔閣」と呼ばれるものです。折をみて三溪園へおこしください。とり急ぎお礼まで。
加藤祐三

 それから約1年後の2018年12月16日、遅れた<中間報告>を美瑠さんへ送信した。
六角美瑠さん
下記3冊をご寄贈くださってから、はや1年ちかくが経ちます。
いまだ天心と三渓と紫水の縁を結びつけることができずにいます。
ところが幾何の補助線のように、不思議なことで六角鬼丈さんや漆芸家の三田村有純のお名前を私のブログに記載する機会がありました。2018年9月19日号の「丘のダヴィンチたち」(加藤注:都立武蔵丘高校の同窓生の会)です。ご笑覧ください。
改めて『六角紫水の古社寺調査日記』の「刊行にあたって」を読み直し、一昨日に開かれた「丘のダヴィンチたち」の会合に赴きました。この日も鬼丈さんはご欠席でお会いできず、三田村さんに伺うと体調不良とのこと、そして美瑠さんとの間柄を尋ねると、「お嬢さんです」とあり、吃驚しました。
不思議なご縁が拡がります。まだ本来の課題は達成しておりません。代わりにというのも変ですが、三溪園に関しては少しだけ理解が進み、三溪が7歳若い茶友の松永耳庵に「…庵室の前の伽藍石、三溪先生、是が道楽の端緒…」と述べたとの記事を見つけ、2018年11月1日掲載の「三溪園の大師会茶会」に入れました。
朽ち行く古社寺を救済しようと天心の考えを実行に移した一人が三溪です。廃寺の礎石の伽藍石が庭造りの契機と本音を語った言葉に感銘を受けました。そして古建築もさることながら、その礎石こそ永遠不滅ではないか…と。
…三溪園へ出るたびに園内をまわり、国指定名勝(庭園)となった(2007年)理由「近代横浜を代表する実業家である原富太郎(三溪)が明治時代後期から造営した自邸の庭園…。起伏に富む広大な敷地に古建築を移築し、池や渓流を築造した自然主義に基づく風景式庭園で、学術上・芸術上・観賞上の価値は極めて高い」(抜粋、平成19年2月6日官報)を反復しつつ、数少ない「自然主義に基づく風景式庭園」としての三溪園の存在価値に想いを馳せています。…
加藤祐三
 加藤注;武蔵丘高校同窓生の縁で『六角紫水の古社寺調査日記』の「刊行にあたって」を書かれた六角鬼丈さん(美瑠さんのご尊父、2009年7月の段階で建築家、元東京藝術大学美術学部長とある)が高校の5年後輩と分かった。不思議な縁である。ただし、いまだにお会いする機会がない。

 六角鬼丈さんは、『六角紫水の古社寺調査日記』の「刊行にあたって」を次のように始める。「紫水とは一体誰だったのだろう。戸籍上は私の祖父なのだが、紫水のような強い正義感や信念、遺志の堅固さは私にはない。そこはかとなく感じることも多いが、紫水のように探求心を持ち、ものごとに夢中になり切れない。それだけに、厳格だが同時に優しさを持った紫水とは誰だったのだろうという感がある。…紫水の教え子たちはみな口をそろえて厳格で怖い先生だったというが、家庭では、口はうるさい割に根は優しい人であったという。…」

 つづけて紫水と岡倉天心について言う。「…紫水は岡倉天心を心の底から敬愛していたという。漆芸の師は、彼を漆の道に誘い込んでくれ、すべてをサポートしてくれた小川松民だが、芸術の真義、思想、開拓の精神の師は天心のほかはないと確信していたに違いない。明治29年、天心が中心となって設置を実現させた<古社寺保存会>から調査を嘱託されると、紫水の生まれ持った旺盛な好奇心と行動力に火がついた。…中尊寺修復を中心とする美術学校助教授時代の古社寺調査の旅は、同校の連袂辞職事件(1898年)に次ぐ日本美術院の創立をなかに挟んで、天心とともに渡米する直前の明治36(1903)年まで続いていく。三十代初めの充実した時期を、紫水はこうして古社寺を調べ、国宝を指定して全国各地を廻ったといっても言い過ぎではなかろう。…紫水が残した古社寺の日記には古画、仏像、仏具その他が図入りで実にこまめに記録されている。また当時の旅の状況を伝える事項も多く、臨場感がある。…百年後の今日、紫水は、いま、どこに向かって、どこを歩いているのだろうか。その朧げな姿を思い浮かべ、そして紫水は一体誰だったのだろうと思う。」

 紫水はとくに古画、仏像、仏具を中心として調査に当たった。三重塔・五重塔、仏殿等の建造物については担当が違っていたのかもしれない。三溪の古建築移築による国宝の保存(当時、国宝と重要文化財の区別はない)は、後代に<移築保存>として定着するが、三溪にそのヒントを与えたのが天心やその弟子たちの何であったのか、依然として分からない。疑問ばかりを並べた。それでもブログで<中間報告>を公表すれば、どなたかが教えてくださるかもしれない。1通の書簡か走り書きが見つかるかもしれない。美瑠さんのご尊父、建築家の六角鬼丈さんにも私の疑問と仮説が届いてほしい。

 ここまでの草稿を美瑠さんへ送信してご教示を乞うた。すると神奈川大学工学部建築学科教授に今春に着任されたばかりで、慌ただしく超多忙のなか、次のお返事をいただいた。

中間報告の文章ありがとうございます。
加藤先生とのやりとりを通じて、少しでも紫水の当時のことや活動について色々と新しい角度から見えてくるといいなと思っております。
先生からの中間報告を読み直し、ふと思いついた仮説があります。
三渓と紫水の直接の接点はまだ見えませんが、紫水は自ら作品を片倉製糸へ寄贈しています。当時美術館を作るとのことで、寄贈したと聞いています。
心血を注いだ作品のほとんどを寄贈してしまったのですから、片倉側にかなり信頼がおけて、作品を理解できる目を持った人がいたのではないかと想像します。
私の勝手な想像ですが、片倉工業の美術館構想は、三渓が関わっていたのかもしれないと思いました。
「片倉工業の前に富岡製糸場を経営したのが、三溪園の創設者・原富太郎(三溪)で、明治35(1902)年に三井家から譲渡を受け、昭和13(1938)年までの36年間経営した」とネットに書いてありました。
作品寄贈のタイミングは紫水の年齢から推して昭和10年代だったのではないかと想像します。これは、あくまで私の想像ですが、そんな気がしました。
その後、戦中戦後の混乱期に受難の旅をしたとも聞いておりますが、いまは幸いにも郷里の広島県立美術館に紫水の作品が一括して収蔵されています。

 新しい情報を得て、一歩先へ進んだ印象を受ける。岡倉天心を中心として、紫水と三溪という同世代がどう結びつき、どう新しい時代を切り開いたのか。ひきつづき探求していきたい。

春らんまん

 3月30日(火曜)、午前中に市内のワークピアで三溪園(公益財団法人三溪園保勝会)の評議員会があり、昼過ぎに三溪園に着くと満開のサクラ(ソメイヨシノほか)が迎えてくれた。

 今年のソメイヨシノの開花は横浜で3月17日(水曜)、過去2番目に早かったという。満開は27日(土曜)である。気温では大差のない東京ではそれぞれ14日(日曜)と22日(月曜)で、かなりの開きがあるが、これは<標本木>の地下温度や日当たり、また樹齢等の個体差とも無縁ではあるまい。日本気象協会のtenki.jpや横浜市緑の協会のホームページを見ると、たった数キロ離れた地点でも咲き具合が異なるものがある。

 気象用語では、①開花、②3部咲き、③5分咲き、④満開、⑤散り始め、⑥葉桜等の区別がある。「…花は盛りに 月は隈なきをのみ見るものかは…」を胸に置きつつも、つい満開よ長かれ、とも思う。

 29日(月曜)夜、テレビ朝日の「報道ステーション」が、夜の三溪園を映し出した。墨染の空に浮かび上がる三重塔、桜花の集積。絢爛・静謐…妖しく美しい。

 花の季節はまた人事異動の季節である。横浜市文化観光局から三溪園へ派遣されていた田崎リサさん(経営機能強化担当室長)が青葉区役所へ異動となった。市の新しい事業「(公財)三溪園保勝会の機能強化に向けた経営アドバイザリー業務委託」に伴い、その調整・推進役として1年間、活躍してくれた。

 4月1日(木曜)、新任職員の辞令交付の日である。今後の三溪園の運営に思いを巡らせているうちに、バスは山手警察署の角を曲がって本牧通りの桜並木にかかる。うららかな陽を浴び、花びらが風に舞う。2日前に比べ葉の緑が濃くなったように感じる。

 バス停の桜道で下車。ここから三溪園正門までの桜並木は一昨年の台風15号で何本か倒れた(2019年10月1日掲載の「台風被害と三溪園観月会」)。残された切り株が痛ましい。

 正門を入ると、遠く正面に三重塔、そして裳裾のようにソメイヨシノ。上掲の定義に従えば、④満開の最終段階とでもいうべきか。

 右手の蓮池のそばのシダレヤナギの頂上に、真っ白なシロサギが不動の姿勢でいるのに出会い、声をかける。アオサギ、ゴイサギなどサギの仲間は、この木が好きなようで、よく樹上から天下を睥睨している。私はシロサギが好き。新任職員の到来を察知して検分にやってきたのか。

 園内では深緑色のクロマツがソメイヨシノの白をさらに引き立てる。クロマツは大小さまざまあり、園内で最多の樹種である。正門から内苑入口あたりまでは低いクロマツが多いが、南門に近づくにつれて20メートルもある大木が並ぶ。強い海風に耐え、東へ傾きつつも聳え立つ。

 正門から少し進むと左手に、独特の樹勢を誇るエノキがある。枝に若草色の新芽が噴き出している。その先の右手にはカツラの木。両者には必ず挨拶して通る。

 ついで右手を少し登って茅葺屋根の鶴翔閣(1902年完成)。三溪が郷里の岐阜から棟梁を呼んで建て、野毛山から移り住んだ自邸である。その玄関前の車止めには、エノキとシダレザクラの大木がある。野生種のエドヒガンから生まれた栽培品種のシダレザクラとみられるが、この数年、徐々に衰えて花が咲かなくなった。ところが今、2輪ほど花をつけている。注意深く見守りたい。

 大池と睡蓮池の間の園路を進むと、内苑の入口に立つサクラがほぼ満開を迎えている。これは<柳津高桑星桜>(やないづたかくわほしざくら)。原三溪の郷里の柳津町高桑(現岐阜市)で明治中期から育成されている品種である。吉川利一事業課長によれば、ふだんはソメイヨシノが散り終わるころに開花するとのこと、今年は開花が早い。

 内苑に入ってすぐ右手、鈴生りの白い花をつけたアセビの下、植え込みのオロシマササを覗く。雄蕊が風にキラキラ揺れている。「今年も咲いた!」と喜んだのが3月25日だった。だが庭園ボランティアさんの第一報は19日(金曜)。本ブログで「タケの開花(その1)」を載せたのが2017年5月19日。以来、「タケの開花(その9)」(2019年3月22日)までつづけてきたので、ボランティアさんも気にかけてくださったのであろう。丘の上のタイミンチクの開花は未確認。

 予定通り、事務所の貴賓室にて辞令交付。田崎さんの後任として4月1日に山口智之さん(同局から横浜市立大学へ派遣、研究推進部で産学連携を担当)が着任した。知的財産を広く公開する手法を三溪園に活かしてほしい。新採用の庭園管理職員の菅原笙さんは弱冠20歳、伸び盛りである。総務課の滝田敦史主事は昇格の辞令を受けた。変わらぬ活躍を期待している。

 振り返れば、本ブログに「人類最強の敵=新型コロナウィルス」を掲載し、「いまニュースの中心は、連日、新型コロナウィルス肺炎である」と述べたのが昨年の3月6日、それから1年余が過ぎ、同名の連載は(35)回を数えた。<三密>回避、マスク着用、手指の洗浄、検温等々、個人の責任で取るべき感染予防策はかなり徹底してきた。三溪園も可能な限りの予防策を講じ、屋外の庭園は<密>を避けやすいが、三溪記念館等の屋内施設では格別の注意を払っている。

 コロナ禍の影響は三溪園にも及び、来園者は急減、とくに外国人観光客はほぼゼロとなり、経営上の危機に直面したが、なんとか新年度を迎えた。

 緊急事態宣言の解除(3月22日月曜)の初日はまた、東京都心の桜(ソメイヨシノ)満開発表の日であった。一方、新型コロナウィルスの感染が全国的に増加し、第4波襲来かと懸念される。緊急事態宣言に関わりなく、知事がかなりのことを措置できる<まん延防止等重点措置>(法改正済)を発動するよう、大阪、兵庫、宮城の3府県が政府に要請、これを受けて1日(木曜)、政府は新型コロナ対策本部で適用を決定した。期間は5日から大型連休の終わる5月5日まで。

 一年余におよぶコロナ禍への行動変容なのか、来園者の振る舞いは、ゆったりと距離を置いて景観を楽しみ、静かにカメラのアングルを探るなど、微笑ましい。

 辞令交付と会議を終えて、いつもの園内巡回に出る。三溪記念館入口前を過ぎると、屋根葺き替え工事と耐震診断・工事が進行中の臨春閣(1917年に移築)に出る。ここにオオシマザクラの老木。真っ白な花をつけるが、ソメイヨシノの開花と入れ替わるようにすでに散り、葉桜である。なお白い花のオオシマザクラと淡紅色の花のエドヒガンを交配させた園芸品種がソメイヨシノにほかならない。

 背後の山には何本かのヤマザクラが咲いているが、総称ヤマザクラ(園芸品種の里サクラと対比して自然種をいう)には、遺伝子分析により最低10品種があるという。その特定は私にはとてもできない。

 ちなみに、三溪は白をとくに好んだといわれる。みずからも絵筆を持ち、折にふれて描いたものも、白猫、白鳩、白鹿、白蓮等が少なくない(2015年9月13日掲載 「白きものを描く」)。

 先へ進むと、三溪が自ら設計した茶室・蓮華院が佇む。手前には孟宗竹群がそそり立ち、タケノコが顔を出していた。近くの木漏れ日の下、コケがふくよかな絨毯のように一面に拡がる。庭園ボランティアさんが熱心にコケの間に生える雑草を取り、落ち葉を集めている。作業の喜びと苦労を聞いた。

 旧天瑞寺寿塔覆堂(豊臣秀吉が京都の大徳寺に母の長寿を祈念して建てた生前墓、1905年に移築)と春草廬(茶室、1922年移築)の近くには巨大なイチョウが芽吹いている。このイチョウは三溪の義祖父・原善三郎が当地を真福寺から入手したときの記念樹ではないかと私は推測している(2018年12月28日掲載「イチョウ巡り」)。

 春草廬わきの木は一昨年の台風15号で枝が折れ、危険を避けるため枝打ちをしたが、その跡から新芽が伸びている。旧天瑞寺寿塔覆堂わきの木は天を衝く勢いの枝に新芽をつけた。

 この辺りから上方の聴秋閣の先の石橋にかけて、廃寺から移した伽藍石、石棺、手洗石等が一見無造作に置かれ、コケ蒸すものも少なくない。儚く移ろいゆく生きとし生けるものと、歳月を経てなお不変の石の対比。それに気づかされたのが、茶友の松永安エ衛門(耳庵)が「…三溪先生、是れが道楽の端緒…」と記した一文を見つけたときであった(本ブログ2018年11月1日掲載「三溪園の大師会茶会」)。

 サクラが終わると、追いかけるように催事「新緑の遊歩道開放」が始まる(4月10日(土曜)~5月9日(日)。聴秋閣を囲む新緑の遊歩道はモミジが主体で、これもまた格別である。

 内苑から海岸門を抜け、外苑の丘を登り、松風閣(現在は展望台のみ)から富士山を遠望する。三溪の義祖父・原善三郎の建てたレンガ造の松風閣は関東大震災(1923年)で倒壊、その遺構を保存している。周辺には随所に太湖石(中国風庭園に必須の奇岩)。左手に石造の出世観音像。

 ついで三重塔へ。室町時代(564年前)の建立、京都府木津川市の燈明寺(廃寺)から1914(大正3)年に移築した。谷戸(やと、谷と丘)の地形を生かした三溪の絶妙な古建築の配置。そのシンボルが三重塔である。間近に仰ぎみて、合掌。

 石段を下って、茶室・林洞庵、そして初々しい緑の臥竜梅に声をかける。横笛庵(1908年移築)の脇を抜け、外苑の最奥、旧東慶寺仏殿(1634年建造、1907年移築)は大規模改修工事中である。

 左側には合掌造りの旧矢箆原(やのはら)住宅(江戸時代後期に建造)。どっしり構えている。わきの荘川桜二世は、合掌造りがあった岐阜県荘川村で、天然記念物の樹齢400年の種子から実生で育てられたもの。こちらはソメイヨシノの開花を待つように3月中旬に散った。

 なだらかな下り道に大漁地蔵と茶店の待春軒。近くには黄色いヤマブキ、そして紅紫色の花をつけた人の背ほどのミツバツツジが数本。花が落ちると3枚の葉が出てくることから命名されたという。忘れずに、その時を確認したい。

 ついで旧燈明寺本堂、これは三重塔と同じ京都府木津川市の燈明寺(廃寺)から34年前に移築された。本堂と三重塔は、時を経て三溪園でやっと揃い立つ。三溪園天満宮を過ぎると、大池に面してソメイヨシノが展開する。池の彼方に再び鶴翔閣。

 正門に戻ると、近くの看板にボランティア<自然観察会>による「見どころの植物など」として、撮影日を付した21点の写真と解説を付した掲示がある。なお「コロナ感染防止のため、4月と5月の<自然観察会>は開催しません」とあるとおり、対面による<自然観察会>はしばらくお預けである。

 その「見どころの植物」を一覧しておきたい。ネコヤナギ、ヒメスミレ、タチホスミレ、シャガ、ウラシマソウ、ソメイヨシノ、ヤナイヅタカクワホシザクラ、オオシマザクラ、ドウダンツツジ、キランソウ、ニワトコ、リュウキンカ、ヤマブキ、レンキョウ、コブシ、タケノコ、カントウタンポポ、ミツバツツジ、ボケ、シジミバナ。
プロフィール

Author:加藤 祐三
日本の歴史学者

横浜 市立大学名誉教授

国指定名勝・三渓園(横浜)
前園長(2012年8月~2023年3月)

・前都留文科大学長
(2010~2014)

・元横浜市立大学長
(1998~2002)

主な著書
「イギリスとアジア」
         (1980年)
「黒船前後の世界」(1985年)
「東アジアの近代」(1985年)
「地球文明の場へ」(1992年)
「幕末外交と開国」(2012年)
蒋豊訳「黒船異変」(2014年)
蒋豊訳「東亜近代史」
         (2015年)

 など

専門
・近代アジア史
・文明史

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